ゲンロン10周年記念「古老に聞く!」 ゲンロン最古参社員インタビュー|徳久倫康

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初出:2020年04月17日刊行『ゲンロンβ48』

 株式会社ゲンロンは2020年4月6日に10周年を迎えました。これを記念して『ゲンロンβ48』では特別インタビューを掲載。インタビュイーは創業直後からゲンロンに関わり、いまや取締役(とクイズ王)に上り詰めた徳久倫康。ゲンロンの激動を見つめてきた「古老」です。

 ゲンロンの10年は、東日本大震災から新型コロナウイルスの大流行に至るまで社会が激しく揺れ動いた10年でもあり、その波に揺られる形でゲンロン自体も大きな変化を繰り返してきました。徳久は、その変転の中でゲンロンのオリジナリティが形成されてきたと語ります。

 ゲンロンはどのように歩み、そしてこれからどこに行くのか。おもにクイズ以外の視点で聞きました。(編集部)
 
【図1】徳久倫康。ゲンロンオフィス(五反田)にて
 

 ──この度、ゲンロンは10周年を迎えます。本日はそれを記念して、開業初期からゲンロンに関わっており、現在は取締役を務める徳久倫康さんに、ゲンロン10年の歩みや今後の展望を個人的なエピソードも交えてお伺いしようと思います。徳久さん、よろしくお願いします。

徳久倫康 お願いします。

オシャレなカフェ計画?


 ──まず、本日のインタビュー会場である「ゲンロンカフェ」についてお伺いします。現在、ゲンロンの大きな柱となっているゲンロンカフェですが、そもそもオープンはいつでしょう。


 いまから7年前、2013年2月です。現在ゲンロンカフェは、トークイベントとその配信を中心とするイベントスペースとしての側面が強いのですが、当初はイベントスペースだけでなく、本棚が充実したおしゃれなカフェとして運営されるはずでした。

 ──そんな計画が! 代官山の蔦屋書店のようなイメージでしょうか。

 そんなところです。カフェ営業を中心に考えていたので、謎のオリジナルメニューやカクテルが開発されていた時代もあります(笑)。

【図2】ゲンロンカフェで開発されたオリジナルホットドッグ。今は食べられない幻の一品
 

 ──いまの姿からは考えられない……。いまのカフェでは、フードやドリンクは脇役ですもんね。その方針が変わったのはなぜですか?

 率直に言って、営業不振です。ランチをはじめイベント外の営業はいっこうに採算が取れず、カフェ開業後まもなく停止になりました。

 ──方向転換を余儀なくされたと。

 そうです。

変化し続けるゲンロンカフェ


 そんな中、カフェにとってはゲンロン完全中継チャンネルの存在が重要になりました。スタートは2013年9月。月額見放題約10000円、一イベント1000円という価格設定はかなり強気でしたが、当初の予想を上回る視聴数に恵まれました。
 ──窮地を救われたわけですね。

 そうです。これがうまくいかなければ、カフェのみならずゲンロンそのものが立ち行かなくなっていたかもしれません。

 また、ニコ生配信の導入は「ゲンロンカフェ」の特徴も決定づけました。ゲンロンカフェを開いた狙いのひとつは「二次会もできるイベント会場を作る」ことでした。登壇者と来場者が会場に残り、そこで話が弾むような場所。運営側としても、入場料に加え飲食代の収入も見込めるので採算が取りやすい。しかし実際には、会場設計が洗練されていないためか、あまり一般のお客さんは残らず、当初の目論見は外れてしまいました。それもあり、いつしかゲンロンカフェは「時間制限のないイベントスペース」の方向にかじを切ることになる。結果として二次会、三次会を行う時間までイベントそのものが続くようになりました。

 ──長時間でも配信だと視聴する人が多いため、時間制限のないイベントスペースが可能になったと。

 そうです。配信で視聴いただいている方には終電もないですしね。ニコ生配信の導入が、現在の時間無制限というカフェの中核コンセプトを生んだ要因でした。

 ──営業不振という不可抗力が関係しているとはいえ、ニコ生配信を使うことで結果的にゲンロンカフェという空間の魅力が生まれたのですね。

 そうです。改めて振り返ると、ゲンロンカフェのコンセプトは一年、二年と時間をかけて、ゆるやかに固まりました。

手探りの出版黎明期


 ──試行錯誤というと、やはり出版業務のこともお聞きしたいです。カフェ事業と並ぶゲンロンの大きな柱が出版事業ですが、こちらも初期は試行錯誤の繰り返しで?
 それはもう……。ゲンロンの前身は「コンテクチュアズ」という会社でしたが、ここで出版した最初の書籍が『思想地図β vol.1』です。ぼくはこの書籍には関わってないのですが、聞く話によると、当時は専従スタッフがおらず、書籍制作に慣れない人ばかり。他社の編集者さんにもかなりお手伝いいただいていたらしいです。

 ──完全に徒手空拳で臨んでいたと! たいへんなことですね。

 そうなんですよ! そんなことなので入稿データを作るのもままならず、入稿直前で少し修正したら文字組みがほかのページも一挙に連動してずれ、とてもたいへんだったらしい(笑)。聞くところによると、インデザインのフレーム枠を使うべきところ、すべてを改行キーで体裁を整えていたために起こった事故とか。なぜそんなふうに元データを作ってしまったのか……。

 ──(笑)。完全に手探りだ。しかしそれにも挫けず、その後も次々と書籍を出版されています。

 『思想地図β vol.2』や『日本2・0 思想地図β vol.3』(以下、それぞれ『β2』『β3』)ですね。ぼくは『β2』から制作に関わり始め、『β3』は企画段階から参加していました。『β3』の製作なんて本当にたいへんでしたよ!

 ──『β3』、とてもボリューミーですもんね……。

【図3】『日本2.0 思想地図β vol.3』。厚い
 

 このときは制作中に出てきた企画案をすべて盛り込むようなスタイルで、気づいてみたら600ページ以上のあのボリュームに。しかし当時は、出版すればどれだけ値段が高くても絶対にベストセラーになるだろう、という謎の確信を一同持っていました。でも事務所に届いた本を見た瞬間に、東さんが首を傾げた(笑)。思っていた本と違ったのでしょう。事実、高すぎ・厚すぎで想定より遥かに売れ行きが悪く、ゲンロンカフェ開店記念と銘打って謎の値下げを行いました。辛かった。

 ──あの本にそんな歴史が。

 今年単著『火星の旅人』を出版された入江哲朗さんはゲンロンではぼくの先輩にあたるのですが、彼は『β3』の製作時なんて家が遠くて、一週間近くオフィスで寝泊まりしていました。まあ、ぼくもよくオフィスの床で寝てましたが……。

 ──皆、必死ですね。手探りで一から制作していたからこその熱量かもしれません。

 いずれにせよ、ゲンロンもぼくたちも、みんな若かった……。

フットワークの軽さ


 だいたい、このころぼくはまだ大学を卒業するかしないかの年齢ですからね。
 ──若いですね。そもそも徳久さんとゲンロンの関わりはいつから始まったんですか?

 ぼくが大学で東さんの授業を履修していたんですよ。そこで東さんと知己を得て、はじめてゲンロンで仕事をしたのは『β2』のときです。内容は猪瀬直樹、村上隆、東浩紀による鼎談のテープ起こしと構成。

 ──えっ、いきなりすごい仕事を。それまでにインタビュー構成の経験などはあったんですか?

 ないです。まったくのゼロ。

 ──ええ!

 明らかにライター未経験の学部生に頼む仕事ではない(笑)。でもこれはがんばらなくちゃと張り切った覚えがあります。

 ──仕事を振ったゲンロンもすごいですが、そこでがんばれる徳久さんもすごいですね。ゲンロンに入社するようになったのもその流れで?

 当時は本当に自由な雰囲気でした。Twitter で突然、東さんから謎の招集がかかることが多かった。そんな中、五反田の「マルミチェ」というビストロに呼ばれて行くと、東さんからいきなり「ゲンロンの編集者の枠にひとり空きが出ることになったので勤めてみない?」と言われた。

 本当は、学部卒業後は大学院に進んで東さんに師事したいと思っていました。でもお金をもらって一緒に仕事ができるならそれに越したことはない、とゲンロンで働くことを即決しました。

【図4】ウェブラジオ「人生これでいいの!?」収録時の東浩紀(左)と徳久倫康(右)・2012年8月29日撮影
 

 ──とんとん拍子に……。そう考えるとゲンロンって、開業当初から非常に柔軟性があるというか、いい意味で自由ですよね。先ほどカフェの変転についてお話がありましたが、そこでも失敗を繰り返しながら柔軟に変化に対応していった。それはいま、徳久さんのお話にあったような柔軟性というか、ある意味でのフットワークの軽さゆえかもしれません。

「ゆるやかな理念」の場所を作り続ける


 それはあると思います。幾度となくゲンロンは変化を続けてきました。理由は様々ですが、例えば東日本大震災の影響はゲンロンを考える上でとても大きい。震災を受けて当初構想していた『β2』の特集は幻に終わり、「震災以後」という新しい特集に変わった。
 ──反応速度がとても早いですね。

 はい。以降、『福島第一原発観光地化計画』に代表されるように、ゲンロンは震災がもたらしたインパクトへの対応に追われることになりました。もし東日本大震災が起こっていなければ、ゲンロンはまったく違う会社になっていたでしょう。

 また、10年の歴史の中では会社解散の危機が何度もありました。とくに2018年末は最大の危機で、東から上田洋子に代表をバトンタッチし、現在の体制に移行しました。当時はみなさんにもご心配をおかけしました。

 現在もそうです。ご存じのように創業10周年を目前に、新型コロナウイルス(COVID19)の世界的大流行が起こりました。幸い出版事業は継続できていますし、ゲンロンカフェも有料番組配信に活路を見出そうとしています。しかし事態の推移によっては、さらに選択肢が減るかもしれません。

 ──この10年、ずっと変化を繰り返し、そしていまも変化し続けていると。それでは今後、ゲンロンはどのように変化していくのか、最後にその展望をお聞かせ願えるでしょうか。

 今年は人文系ポータルサイトのゲンロンα映像配信サイトのシラスと、大きなサービスを複数オープンする予定です。どちらもいままでゲンロンが蓄えてきたコンテンツを、一定料金でアクセスし放題にするというサービスです。

 10年間積み上げてきたものをアクセス可能な状態に展開しつつ、その上でさらに新しいものを積み上げるフェーズにゲンロンが来た、といえるかもしれません。一昨年から始まったゲンロン叢書シリーズもそのように捉えられます。

【図5】2020年から始まるゲンロンの新サービス「ゲンロンα」と「シラス」のロゴ。ゲンロンに新しい風を吹かせる
 

 ゲンロンαもシラスも外部の方の寄稿や配信を前提とした設計なので、いままでお付き合いのなかった方にも、どんどん「使って」ほしいんですよね。ゲンロンスクールを出て活躍するクリエイターの方も増えてきました。思想や方向性はそれぞれ違っても、ゆるやかな理念を共有できる作り手が増えていってくれると嬉しいです。

 ──創業10年、幾度とない変化を遂げながらゲンロンは「ゆるやかな理念」を共有する場所を作り続けてきました。今後もその理念は変わらず、しかし様々な変化を遂げていくのかもしれませんね。徳久さん、本日はお忙しい中、ありがとうございました。
 
2020年4月2日
東京、ゲンロンカフェ
聞き手=谷頭和希(編集部)
構成・撮影=編集部

徳久倫康

1988年生まれ。早稲田大学文化構想学部卒。2021年度まで株式会社ゲンロンに在籍。『日本2.0 思想地図βvol.3』で、戦後日本の歴史をクイズ文化の変化から考察する論考「国民クイズ2.0」を発表し、反響を呼んだ。2018年、第3回『KnockOut ~競技クイズ日本一決定戦~』で優勝。
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