人は猫の幸福を知りうるか?──ヨーロッパで人と猫の関係を考える|真辺将之

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初出:2021年12月24日刊行『ゲンロンβ68』

 昨年9月22日に、日本近現代史の研究者である真辺将之さんにゲンロンカフェでご登壇いただきました。上田洋子を聞き手に、人間社会と猫とのかかわりを考えるトークイベント。真辺さんはおなじく昨年の5月に『猫が歩いた近現代』(吉川弘文館)を上梓されています。猫の視点に立つと日本の近現代史はどう見えるのか。5時間超えの刺激的な対談となりました。
 真辺さんは現在ベルギーに滞在しており、イベントにもオンラインでの登壇。そこで今回、そんなヨーロッパ滞在で見えてきた猫文化について原稿を寄せていただきました。各国の「猫本」を手がかりに、ひととひとをつなぐ「猫の幸福」へと思索を巡らせます。
 
 イベントのアーカイブ動画は、シラスでご視聴いただけます。また、ゲンロンαには新コーナー「ネコ・デウス」も爆誕(URL=https://webgenron.com/articles/cattcw/)。あわせてご覧ください。(編集部)
 
真辺将之×上田洋子「日本人はいつから猫が大好きになったのか?──『猫が歩いた近現代』(吉川弘文館)関連イベント」(URL=https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20210922

1 ポップカルチャーのなかの猫

 11月にフランスで、“Les Chats Dans La Pop Culture”という本が発売された(Stéphanie Chaptal / Claire-France Thévenon著、Ynnis Edition)。タイトルは日本語にすれば『ポップカルチャーのなかの猫』で、ディズニーやジブリなどに登場する猫はもちろんのこと、古代の神話や日本の浮世絵や招き猫まで、非常に多くの図版を紹介しながら、古今東西のポップカルチャーの猫の描き方を取り上げた本書は、この分野におけるまさに待望の一書と言って良い。  この本のコンセプトは、ポップカルチャーにおける猫の表象の検討を通じて、猫の多様な側面を人間がどのように捉えてきたのかを考えようというものである。猫は神格化されて持ち上げられたかと思えば、笑いものにされることもあり、またあるいは邪悪な生物であると非難されたかと思えば、逆に崇高な美徳を持つ動物であるかのように描かれたりする。また性質としても、ペットでありながら野生を色濃く残していることもあり、猫をめぐる評価も好悪の二つに分かれてきた。そしてこうした多様性は、とりわけリアルな猫に縛られる必要なく自由に想像力を発揮しうるポップカルチャーにおいてこそ、より増幅された形で表出されているというのがこの本の著者たちの見立てであるようだ。
 私は6月に『猫が歩いた近現代』(吉川弘文館)と題する書籍を上梓したが、猫に対する人間の視線の多様さ・複雑さとその変化は、私が同書で描こうとしたものでもある。しかし私の著書では、現代のポップカルチャーでの猫の描かれ方はほとんど扱わなかった。江戸から明治にかけては物語のなかで語られる「化け猫」話が、現実の猫に対する「気味が悪い」「表裏がある」という支配的な見方と密接に関係していたのに対し、ポップカルチャーの猫の描写は、現実の猫への人々の認識のなかでは一応切り離されていて、キャラクターとしての猫のイメージが実際の猫との接し方に影響を及ぼすことはほとんどないと考えたからである。『ポップカルチャーのなかの猫』も、やはり「本物の猫」と人間との関係について教えてくれることはさほど多くはない。とはいえ、同書を見て実感したのは、現実の猫との接し方の多様性以上に、猫イメージは地域や時代によって多様であるという事実である。特に、グローバル化のなかで猫イメージは相互に影響を与えつつも、しかしそれでもなお、日本とヨーロッパとの猫の描き方には大きな違いもあることがわかる。

 たとえば、ベルギー人の漫画家フィリップ・グルークが創作した猫のキャラクター“Le Chat”(ご存知ない方は、グーグルで検索していただきたい)は、フランスやベルギーで大きな人気を博しているが、おそらくこのキャラクターが日本で大衆受けすることはあるまい。“The Cat in the Hat”も同様にヨーロッパでは人気で、書店でよくその絵柄を目にするが、日本ではほとんど目にすることがない。他方で、サンリオのキティや、ジブリの猫のキャラなどは日本でも海外でも人気がある。またディズニーなどアメリカのアニメ作品の猫にも、洋の東西を問わず愛されているものが多い。ヨーロッパだけで受けるものと、東西を問わず人気を得るキャラクターと、その相違は果たしてどこに原因があるのか。ポップカルチャーに詳しくない筆者には到底明らかにしえない課題だが、突き詰めて研究すれば世界文化の面白い比較ができるのではないかと感じた。

2 ヨーロッパにおける書店のなかの猫


 一言でヨーロッパと言っても、猫との関係のあり方は国によって相当に違いがあるように思える。それは書店の猫本コーナーにも顕著である。筆者は4月からベルギーのルーヴェンという街に滞在しているが、ベルギーを滞在先に決めたのは、オランダ・イギリス・フランス・ドイツに挟まれ、それら各国を訪問する拠点としてちょうどよい、ということがひとつの大きな理由であった。実際にはコロナ禍のため、当初思っていたほどには各地を回れてはいないが、それでもこの原稿を書いている12月初頭までに、フランスに4回、ドイツとオランダに2回、アイルランド、フィンランド、エストニア、ラトビアを各1回ずつ訪問することができた。

 ワクチン2回目を接種した7月上旬までは、国外への移動にPCR検査と隔離が必須であったこともあり、主にベルギー国内の新刊書店や古書店にこまめに通い、猫の本のコーナーにも必ず立ち寄るようにしていた。ところが書店に行っても、猫の本は置いてある数が少ない。そのうえ、飼い方や品種の紹介、あるいは写真集などが中心で、猫の歴史や文化にまで踏み込んで記述された本はほとんど見られず、少々落胆の気持ちを持ったのが正直なところであった。

 ベルギーは北半分のオランダ語圏と南半分のフランス語圏とに分かれている。筆者の住むルーヴェンという街はオランダ語圏であり、同様にオランダ語圏であるアントワープやゲントといった都市でもやはり、猫の歴史や文化にまつわる本は新刊書店ではほとんど目にしなかった。西洋史では動物の歴史に関する研究の蓄積は多いはずであり、さらにベルギーのイーペルという街(ここもオランダ語圏である)では、3年に1度「猫祭り」が行われ、世界中から猫好きが集まる。それなのに、一般の書店ではあまり猫にまつわる歴史や文化に触れた本はなく、ベルギーの人たちはそうしたことには興味がないのかと不審に思った。

 
【図1】ルーヴェン・カトリック大学構内の猫。大学関係者が地域猫として世話をしている

 

 しかし首都ブリュッセルは違った。猫の飼い方や品種図鑑のような本だけでなく、猫の歴史や猫にまつわる文化に関する本を多く発見できた。ブリュッセルはフランス語圏である。この相違がフランス語圏とオランダ語圏の違いなのか、それとも首都と地方都市の違いなのか、ブリュッセルを訪問するだけではよくわからなかった。
 だが、書店の大きさがブリュッセルとアントワープでそれほど異なるわけではないことに加え、その後、フランスに行ってみておそらくその理由が前者にあると考えるようになった。フランスの書店には、猫の歴史や文化に触れた本が山のように置かれていたのである。4度のフランス訪問では、行くたびに猫の本を大量に買って帰ってくることになり、累計で100冊近くになった。単なる猫の写真集やエッセイのたぐいは購入しておらず、猫をめぐる歴史や文化に関する記述が一定程度あるものに限定しているにもかかわらず、である。フランスには猫文化の分厚い蓄積があり、冒頭で紹介した本も、こうした蓄積の上に成り立っていることは間違いない。またこれはその後、他にいろいろな国を回った後に、再度フランスを訪問して気づいたことだが、フランスでは「猫語の辞典」や「猫と話す方法」というような、猫の言葉、猫とのコミュニケーションに関する書籍が多いことも特徴である。自国の言葉に誇りを持ち国語教育を重視していることで知られるフランスだが、猫の「言語」への強い関心はそれと何か関係があるのかもしれない。

 イタリアにも猫の歴史や文化にまつわる本が多かった。特にフランスのChampfleury “Les Chats”や、アメリカのCarl van Vechten “The Tiger in the House”といった、100年以上前に出された猫の歴史・文化にかかわる古典的書籍のイタリア語訳が新刊書店に並んでいるのを見た時は驚いた。全般に他国の猫の歴史や文化に関する書籍の翻訳ものが多いようにも感じたが、しかしイタリアオリジナルの本もある。ヴェネツィアの有名な“Aqua Alta”をはじめ、店のなかに猫のいる書店も非常に多い。イタリアの猫の歴史やさらには各都市の猫の歴史にかかわる本もあり、やはり猫文化の蓄積があることを知った。

 
【図2】ヴェネツィアの書店Aqua Altaでくつろぐ黒猫

 
【図3】ヴェネツィアの新刊書店にて

 
 他方で、その後ドイツに行った際には、逆に猫の歴史・文化に触れた本の少なさに驚くこととなる。ドイツといえば、動物愛護の先進国としても知られ、哲学をはじめ人文学の層の厚い国でもあるので期待していたのだが、しかし書店では猫よりも犬の本の方が多く、猫の本は置いてあっても、ベルギー同様に飼い方や品種の解説などの本が中心で、歴史や文化に触れるものは非常に少なかった。

 また英語圏では、イギリスは入国後のPCR検査やベルギー帰国後の隔離などが煩雑なため訪問できず、代わりに古書店めぐりをすべくアイルランドを訪問した。アイルランドではケット・シーと呼ばれる人語を操る猫の妖精をはじめ、黒猫にまつわる多くの伝説が言い伝えられていることを知っていたため、さぞや猫の本が多いだろうと期待していたのだが、どの本屋にも猫の本は非常に少なかった。逆に鳥に関する本が非常に多いことが目についた。フィンランドやエストニア・ラトビアでも同様で、動物コーナーは猫や犬よりも鳥に関する本が圧倒的に多い。ヨーロッパは全般に日本よりも鳥への関心が強いという印象を受けるが、これらの国々はヨーロッパのなかでも特に寒い地域であり、そうした地域では哺乳動物が野外で活動できる時期も限られるため、1年を通じて多く見られる鳥の方が馴染み深いのかもしれない。

 興味深かったのはオランダである。ベルギーのオランダ語圏で、猫の歴史や文化にかかわる本が少ないため、おそらくオランダも同様だろうと思っていた。確かに新刊書店を訪問した際には、オランダ語の猫の本は少なく、とりわけ歴史や文化に触れたものがないという印象を受けた。ただしオランダの書店はベルギーよりも英語の本を置いている店が多く、そのなかには猫の歴史や文化に触れた本が少なからずあった。

 しかし驚いたのは古本屋で、アムステルダム、ロッテルダム、ハーグ、ユトレヒトのどの都市でも、オランダ語の猫の歴史や文化にかかわる本を沢山見つけたのだ。オランダには1974年以来50年近くにわたって不定期刊行され続けている“De Poezenkrant”(猫新聞)というタイトルの同人誌的な猫雑誌が存在するが、そのバックナンバーや総集編のようなものも各地の古本屋で見つけることができた。また、アムステルダムには“Katten Kabinet”(猫の陳列棚)という名の猫の博物館があり、他の本屋では見なかった書籍もいくつかここで販売していた。ロッテルダムの古書店でも猫本コーナーが設置されていて、特に戦前の古い猫の本を沢山購入できたのは思わぬ収穫であった。ユトレヒトでは市内のどこにどのような猫が住んでいるかを写真入りで紹介している本が、複数版出ていた(これも新刊書店では見かけなかったものを、古書店で見つけた)。このようにオランダは、一般の書店では見かけない猫の歴史・文化本が、特殊なルートで出回っており、総体としては相当に分厚い猫の書籍文化があるようである。

3 猫への愛と猫の利用


 以上のように、一口にヨーロッパと言っても、国によって猫の書籍文化にも相当な差異がある。しかし全体として、社会における猫の存在感は、大小の差はありつつも非常に大きくなってきていることは間違いない。

 猫の本が少ないと書いたベルギーでも、多くの街に保護猫団体が存在する。人口わずか10万人ほど(しかもうち半分は大学生)のルーヴェンの街でも、私の知る限りで少なくとも三つの保護猫団体が存在し、週末にブロカンテ(蚤の市)などが開かれるとブースを出してチャリティ商品を売っていたりする。いわゆる「猫カフェ」も、ヨーロッパ各地に増殖中で、連日多くの猫好きで賑わっている。猫の銅像などが建てられている場所も多く、猫の博物館もEU域内に私の知る限りで三つ存在する。いずれにせよ日本に負けず劣らず、ヨーロッパのなかには猫にまつわるスポットが多数あるのだが、意外に日本では知られていないものも多い。各地の猫スポットを訪問するなかで、こうした場所について写真入りで紹介しつつヨーロッパの猫文化について考察する旅行記的なものもできれば出版したいと考えるようにもなった(とはいえまだ出版社が決まっているわけではない)。

 
【図4】ルーヴェンの週末路上マーケットで物品を販売する保護猫団体

 
【図5】ブリュッセルの猫カフェLe New Chattouille

 
 フランスのパリに、パンテオンという国民的霊廟がある。観光で行かれた方も多いことだろう。20世紀フランスの代表的作家のひとりであり、政治家としても知られるアンドレ・マルローの墓もそこにあるが、その棺の横に猫の像が一緒に安置されているのを見た際には非常に驚いた。

 マルローがパンテオンに埋葬されたのは1996年のことである。パンテオンに大統領の許可なく埋葬されることはできない。それは私的な墓とは持つ意味がまるで異なる。しかし、大変な猫好きのマルローが埋葬される際に、家族の懇願によって、彼が生前愛していたエジプト猫神の像が置かれることになった。ルーブル美術館のクール・カレで行われた追悼セレモニーや、パンテオンでの棺の安置式の際にもこの猫の像が式典を見守ったというが、この像が、彼の生前愛した多くの猫を象徴するものとしての意味を持っていることは間違いなかろう。しかしたとえばもう半世紀以上前であったならば、国民的霊廟にこのような猫の像を置くことは許されなかったのではないか。猫が日本社会の一員に、そして家族の一員になっていく過程は『猫が歩いた近現代』において描いたが、欧米では同様のことがおそらく日本より少し早く進んでいたと考えられる。

 
【図6】パンテオンのマルローの墓のそばに置かれた猫の像

 
 他方で、コロナ禍の初期に、イタリアで猫を捨てる人が相次いでいるというニュースも目にした。最近、中国やベトナムでは、猫もコロナを媒介するということで、飼い主の意に反して殺処分されたというニュースも流れた。日本ではそのような事例は今のところ耳にしないが、しかしたとえば10年ほど前に口蹄疫が流行した際に、数十万頭の牛が殺処分されたし、他にも伝染病予防のための家畜の殺処分はしばしば行われている。もし将来猫を媒介とする何らかの疫病が流行したとするならば、その際、猫の大量殺処分に反対できる人は果たしてどれくらいいるだろうか?

 猫が家族になり、社会の一員になったとはいえ、やはり人間に対する扱いとは異なっているし、人間が猫を「利用」している側面は免れえない。かくいう私も例外ではない。『猫が歩いた近現代』のあとがきにも記したように、猫の歴史を書こうと思ったきっかけは、愛猫の死であった。親族が死んだ時にも涙は出なかったのに、なぜこんなに涙が出るのかと、自分で自分に驚いたのだが、その後、佐藤春夫の次の文章に出会った。佐藤もまた、愛猫の死を悲しみ、涙が止まらないという経験をして、その理由を次のように考察している。

人間はどれほど親密な間柄と言ってもそれぞれの世界を別に持っている。そうしてどこかほんの一部で互に接触したり重なり合っている円なのだ。それにくらべると犬猫などの場合はすっぽり内部に納まってしまう同心円みたいなものではないだろうか。それに猫の心持などは少しもわからないからその一挙一動はみな、こちらが、好き勝手に解釈し理解しているのだから、これは猫の生活というよりは、むしろ自分自身の心持だ。自分の十年間の生活の一部で、それが失われたのがすなわちチビの死なのだから、他の人間の死よりは悲しまれるのも当然のような気がする。(「愛猫知美の死」『玉を抱いて泣く』河出書房新社、1964年)


 人間であれば、親戚と言っても、他人はあくまで他人である。相手が自分とは別の考えを持っていることは当然の前提となっている。しかし猫は、何を考えているかわからない。私も、そしてこの文章を書いている佐藤も、自分の愛猫が賢い猫だったと思っているが、しかし、その賢さは、飼い主が猫の立場になって、猫がどのように考えて行動したのかを意味づけた結果にすぎない。猫好きにとっての猫は、猫であると同時に、自分の一部なのである。愛猫家は、猫を前にした時、自分もその猫になりきっている。だからこそ、その猫が死んだ時に、自分の一部が失われたようにたまらなく悲しいのだと、佐藤の指摘によって初めて気がついた。

 しかし、これは、猫への自分の思いが、実際には自分の感情の投影でしかないということでもある。猫を愛し、猫のために行動していると考えている愛猫家にとって、猫への愛だと思っていたものが、自己愛にすぎないのだとすれば、それは絶望的なことではないか?

4 猫の幸福は認識可能か?


 2006年に、作家の坂東眞砂子が、猫の自然な性を奪うことは罪悪であり、だから自分は猫に避妊去勢をせずに自由に出産させ、生まれた子猫は崖から投げ捨てている、という趣旨の文章を新聞に執筆して大炎上した事件があった。筆者も猫好きの立場から言えば、子猫殺しには到底賛同できない。しかし避妊・去勢手術が猫の自然な性を奪っている、という指摘そのものは否定することはできまい。また現在では野良猫の過酷な生活環境を考えて、室内飼育が推奨されることが多いが、それも見様によっては、外を自由に遊び回っていた猫の生活を人間が規制し、猫から自由を奪っているということになりうる。実際『猫が歩いた近現代』でも指摘したように、かつては室内飼育を猫に対する虐待と考える人も多かったし、避妊・去勢手術を「猫がかわいそう」と考える人も多かった。

 そもそもの問題として、猫には言語もなく、幸福という概念もおそらく持たない。そうしたなかで、「猫のため」という人間の判断が絶対に正しいということはどうやって担保されるのであろうか? その担保がないなかで、いくら猫を愛していると言っても、それは自分の考えの投影にすぎない可能性もある。果たして猫にとっての幸福とは何なのか?

 
【図7】シアン墓地の猫の墓。ここは1898年に設立されたパリの動物墓地である

 
【図8】フランス、モンマルトル墓地で暮らす猫

 
 ちょうど筆者はいま必要があってドイツ観念論哲学を読み直している最中でもあり、半分冗談、半分真面目に言えば、「知りえない猫の気持ちをどのように知るか」は、哲学的問題にすらなりうるのではないかと考える。

 カントが人間の感性では認知しえないとした「物自体」、あるいはその「物自体」によって構成される「叡智界」の真理を、「猫の幸福」に置き換えてみよう。あるいは自我にこだわり抜くことで真理に近づこうとしたフィヒテのように、認識する主体があくまで自己以外にありえないと考えてみよう。そうすれば、人間が自我のなかで猫の幸福を考える以外に猫の幸福追求はありえないという考え方も生まれてくるかもしれない。ただしそう考えてくると、冒頭で紹介したポップカルチャーのなかの猫も、人間の猫認識の反映ではなく、人間の自己イメージが投影されたにすぎないと思えてくる。とするならば、ヘーゲル的に、その自己が投影された猫の幸福イメージのなかの否定的側面を徹底的に見つめ直し反省を加えることによって、自己革新を遂げることも必要となってくる。あるいはシェリングのように、自己と猫の差異ではなくむしろ生命としての同一性に着目する議論もありえよう。

 しかし、なぜそこまでして猫の幸福に応えなければならないのか、というより根源的な問いが存在しうる。「たかが猫でしょ」という考えの人には、上記のような議論は一切伝わらない。ドイツ観念論哲学が宗教性を乗り越ええなかったのと同様に、猫の幸福を求める立場自体がひとつの価値観・世界観にすぎないとするならば、猫の処遇をめぐる社会的問題はさらに解決不可能となる。動物愛護管理法は、改正されるたびに厳罰化が進められている。しかし「たかが猫」「たかが動物」という価値観を持つ人々にとっては、これこそ「多数者の専制」に他ならないだろう。

 猫の可愛さに魅了されるというのは、人間の感情の問題である。そこに論理でこだわろうとするから無理なのだ、という人もいるだろう。かつて動物を人間より低い存在とみなす価値観が当たり前だった時代には、猫の処遇が社会的問題となることはありえなかった。しかしその時代に逆戻りすることはもはや不可能であり、「猫ブーム」が加速することでしか、議論の共通の土台をつくることはできないのではないか。しかし、猫の可愛さが人類を一人残らず魅了してしまうなどということが果たしてありえるのだろうか。

 こうして議論はまた振り出しに戻る。世界全体の価値観が同じになることはありえないし、それは危険なことでもある。だからこそ、論理や理性による社会的な合意が重要とされてきたはずである。にもかかわらず、価値観の相違のもと、見えている正義が異なるからこそ、論理や理性による解決が難しいというこの構造は、猫の問題だけでなく、人権問題、宗教やテロリズムといった大きな国際問題にまで通じる要素を持っている。

 こう考えて思案に暮れている最中に、中国に住む友人が、自分の飼っている猫の画像を送ってきてくれた。ヨーロッパの都市には野良猫が少なく、猫を見る機会があまり無くて寂しい(それは保護猫団体が増えて、過酷な環境に置かれた野良猫を保護するようになったことが一つの理由であり、必ずしも悲しむべきことではないのかもしれないが)と以前私が知らせたことで、時折猫の画像を送ってくれるのである。香港問題やウイグル問題についてはおそらく考え方は正反対だと思われるが、しかし「猫の幸せ」を願う心は共通であり、それが私達を結びつけている。ヨーロッパでも、猫好きというだけで多くの人とつながりを作ることができた。「猫の幸せ」が何か答えは出なくとも、そして猫の魅力が全世界全人類を覆うことはできずとも、猫以外の価値観を異にする少なからぬ人々を結びつける力を猫が持っていることは、間違いのない事実だろう。

真辺将之

早稲田大学文学学術院教授。ルーヴェン・カトリック大学(ベルギー)客員教授。一九七三年生まれ。早稲田大学大学院文学研究科史学(日本史)専攻博士後期課程満期退学。博士(文学)。日本近現代史専攻。政治史・思想史のほか、近年は人間と動物の関係史についても研究している。著書に『猫が歩いた近現代――化け猫が家族になるまで』(吉川弘文館、2021年)、『大隈重信――民意と統治の相克』(中央公論新社、2017年)、『東京専門学校の研究』(早稲田大学出版部、2010年)、『西村茂樹研究――明治啓蒙思想と国民道徳論』(思文閣出版、2009年)など。また小林和幸編『明治史講義【テーマ編】』(ちくま新書)、同『明治史研究の最前線』(筑摩書房)、筒井清忠編『大正史講義』(ちくま新書)、中野目徹編『近代日本の思想を探る』(吉川弘文館)なども分担執筆。
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