正義は剰余から生まれる──いま哲学の場所はどこにあるのか(前篇)|國分功一郎+東浩紀

初出:2019年1月25日刊行『ゲンロンβ33』
ゲンロンが2020年4月で創業10周年を迎えたことを記念し、ゲンロン叢書006『新対話篇』、ゲンロン叢書007『哲学の誤配』を5月1日に同時発売いたしました。『新対話篇』は2012年以降に東浩紀が行なった対話から、哲学と芸術の役割を主題としたものを集めて編んだ本格的な対談集。『哲学の誤配』は東が韓国の読者に向けて語ったふたつのインタビューと、中国で行なった講演を収録した書籍です。
ここに公開するのは、『新対話篇』に収録された國分功一郎氏と東浩紀の対談「正義は剰余から生まれる」の前半部分です。トランプが大統領になり、ブレグジットが可決され、フェイクニュースが横行する時代に、哲学は社会と結びつくことができるのか。前篇の最後で提示された「ジャスティス」と「コレクトネス」の区別は、対談の後半でさらに展開されています。
『新対話篇』には本対談以外にも、各分野の第一人者との対話が数多く収録されています。本記事の最後に目次を付しております。ぜひ『新対話篇』をお手に取ってください。(編集部)
ここに公開するのは、『新対話篇』に収録された國分功一郎氏と東浩紀の対談「正義は剰余から生まれる」の前半部分です。トランプが大統領になり、ブレグジットが可決され、フェイクニュースが横行する時代に、哲学は社会と結びつくことができるのか。前篇の最後で提示された「ジャスティス」と「コレクトネス」の区別は、対談の後半でさらに展開されています。
『新対話篇』には本対談以外にも、各分野の第一人者との対話が数多く収録されています。本記事の最後に目次を付しております。ぜひ『新対話篇』をお手に取ってください。(編集部)
東浩紀 本日は「いま哲学の場所はどこにあるのか」と題して、哲学者の國分功一郎さんとともに、これからの哲学の役割とはなにかについて考えたいと思います。今年(2017年)はぼくの『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン)や國分さんの『中動態の世界』(医学書院)が話題となり、千葉雅也さんの『勉強の哲学』(文藝春秋)もベストセラーとなるなど、人文書ブームが起きました。このブームがなぜ起こったのか、哲学はいまの社会に必要とされているのか、そしてこれからのぼくたちの仕事はどうあるべきか、いろいろと議論できればと考えています。
國分功一郎 よろしくお願いします。
東 今回の議論の出発点として、まずは現代思想と政治という論点を取り上げたいと思います。というのも、近刊の『ゲンロン7』(ゲンロン、2017年)に掲載されているぼくと國分さんと千葉さんの鼎談「接続、切断、誤配」で、積み残しになっていたのが政治の問題なんです。

『ゲンロン7』
ぼくたちが学んできたいわゆる「フランス現代思想」、おおざっぱにポストモダニズムと呼んでいいと思いますが、それは「主体」「国家」「責任」などを疑うものです。しかし、そのような懐疑では世の中を変えられず、90年代後半以降、思想界でも「主体」や「責任」といったものが回帰してきた。これは一般的には、ポストモダニズムの時代が終わってアイデンティティ・ポリティクスの時代が来た、とまとめられますが、身も蓋もなく言えばポストモダンの哲学が政治に使えなかったということです。
このような素朴な議論に回帰した90年代以降の思想状況に対して、國分さんの「中動態」、ぼくの「観光客」、千葉さんの「勉強」といった概念は、ポストモダンの哲学を新しく捉え返すようなものとして出されています。では、それを使ってどんな新しい政治的なアクションを起こせるのか。そのビジョンが見えないかぎり、いくら本が話題になっても、哲学は結局は政治に敗北することになると思うのですね。この隘路を逃れるためにはどうしたらいいのか。そういうことがいま哲学に突きつけられていると思うのですが、いかがでしょうか。
國分功一郎 よろしくお願いします。
現代思想と政治の問題
東 今回の議論の出発点として、まずは現代思想と政治という論点を取り上げたいと思います。というのも、近刊の『ゲンロン7』(ゲンロン、2017年)に掲載されているぼくと國分さんと千葉さんの鼎談「接続、切断、誤配」で、積み残しになっていたのが政治の問題なんです。

ぼくたちが学んできたいわゆる「フランス現代思想」、おおざっぱにポストモダニズムと呼んでいいと思いますが、それは「主体」「国家」「責任」などを疑うものです。しかし、そのような懐疑では世の中を変えられず、90年代後半以降、思想界でも「主体」や「責任」といったものが回帰してきた。これは一般的には、ポストモダニズムの時代が終わってアイデンティティ・ポリティクスの時代が来た、とまとめられますが、身も蓋もなく言えばポストモダンの哲学が政治に使えなかったということです。
このような素朴な議論に回帰した90年代以降の思想状況に対して、國分さんの「中動態」、ぼくの「観光客」、千葉さんの「勉強」といった概念は、ポストモダンの哲学を新しく捉え返すようなものとして出されています。では、それを使ってどんな新しい政治的なアクションを起こせるのか。そのビジョンが見えないかぎり、いくら本が話題になっても、哲学は結局は政治に敗北することになると思うのですね。この隘路を逃れるためにはどうしたらいいのか。そういうことがいま哲学に突きつけられていると思うのですが、いかがでしょうか。
國分 ポストモダンの哲学が政治に使えないという話について、まず考えてみたいのは「主権」の問題です。これはジャック・デリダが非常に粘り強く脱構築を試みた概念です。しかし現在の状況を見ていると、主権の脱構築どころか、「主権がないので取り戻そう」という話になっている。しかもそれに根拠がないわけではない。たとえばいまの日本の政治、とくに沖縄の問題を考えると、日本に主権があるかどうかは疑わしい。世界に目を向けると、ブレグジットがいま大きな話題としてありますが、これも主権の要求です。ブレグジットは一見、レイシズムやナショナリズムの発露に見えますが、あの投票での離脱の選択というのは、自分たちの政治をEUの官僚たちが勝手に決めていることに対する批判であり、主権を国民主体で運用して政治を行うべきだというまっとうな問いかけでもある。
こうして見ていくと、ポストモダニズム的に主権の脱構築云々というまえに、近代的な政治の大前提であった主権を政治のなかにきちんと取り戻すということが求められているのが現状であるし、しかもそこにはたしかに理がある。
もちろん、デリダが考えたように、主権そのものが非常に問題含みであることもたしかです。主権の名のもとに戦争が行われてきたからこそ、それを制限しようとEUのような超国家的な組織が出てきた。さらにデリダが問うていたのは、そもそも自分たちで自分たちのことをすべて決定することは可能なのかということです。自己免疫の話をしながら、デリダはそれは原理的にできないと言う。ただぼくは、主権の概念なしに民主主義を考えることができるのか、という気持ちを捨てきれなくて、少なくともデリダに乗っかってただ主権批判をしているような単純な議論にはものすごくいらだってしまうんです。
その意味で政治においてぼくはあるていど近代主義的な立場を取っています。ぼくらはいまのところ、有効な政治的主体として近代国家以外の組織を持っていない。社会保障や教育を考えると、国家という組織をうまく利用すること以外は思いつかないし、それを運用する概念も主権以外にはないと思います。主権で満足することがあってはならないけれども、それをぼくらがうまく使えていないなら、まずはうまく使うことを考えなければいけない。
東 まずは、主権を国民のもとに取り戻し、政治的な主体を再構築するのが先決だということですね。とはいえ、ブレグジットが決まった国民投票や、あるいは最近のカタルーニャの住民投票[★1]などがあきらかにしたように、いま人々が直面しているのは、「国民」が「主体的」に意志決定を行うのはいいとして、しかしその主体自体が分裂してしまったらどうするのか、という事態だと思います。
シャンタル・ムフなどがいうように、本来であれば民主主義は、闘技の段階と熟議の段階を経て、多数の意見を分裂させながらも、同時に縫合し包摂するようなプロセスとしてある。要するに、民主主義はつねに「主体」そのものを生み出すプロセスです。しかしいまは、国民投票をしたら国民がふたつに割れたというかたちで、その主体自体の分裂が露呈した時代になっている。その意味で主権論の困難は、哲学的な議論である以上に具体的な現実としてあると思います。
同じことは日本でも具体的に起きると思います。たとえば、これから日本は憲法をめぐる国民投票を迎える可能性があります。そこでは護憲と改憲に必ず意見が割れるでしょう。そうすると必ず、護憲改憲の二項対立に巻き込まれず建設的な議論をというひとが出てくるはずですが、ぼくはそれは無理だと思います。なぜなら、それは、日本においては、たんに憲法についての意見が分裂しているという話ではないからです。それはむしろ、「日本とはなにか」というアイデンティティの問いへの答えがちがうふたつの集団が存在していること、つまり「日本国民」の主体そのものが分裂していることを示している。護憲派は、日本という国家のアイデンティティを戦後に求めている。改憲派は、アイデンティティを明治維新以降の連続性のなかで捉えている。これは個別の政策以前のアイデンティティの問題で、その分裂に巻き込まれるとみな冷静な議論ができなくなる。
このように、さまざまな国で、いま、民主主義もしくは主権がなにを「一」の単位としてみなすかが、現実的に問われているように思います。
國分 「主権」はひとつでしかありえないにもかかわらず、それを使う主体自体が分裂してしまっていて、縫合する方向性もまったく見えない。その現実の状況に哲学的議論が追いついていないということでしょうか。
こうして見ていくと、ポストモダニズム的に主権の脱構築云々というまえに、近代的な政治の大前提であった主権を政治のなかにきちんと取り戻すということが求められているのが現状であるし、しかもそこにはたしかに理がある。
もちろん、デリダが考えたように、主権そのものが非常に問題含みであることもたしかです。主権の名のもとに戦争が行われてきたからこそ、それを制限しようとEUのような超国家的な組織が出てきた。さらにデリダが問うていたのは、そもそも自分たちで自分たちのことをすべて決定することは可能なのかということです。自己免疫の話をしながら、デリダはそれは原理的にできないと言う。ただぼくは、主権の概念なしに民主主義を考えることができるのか、という気持ちを捨てきれなくて、少なくともデリダに乗っかってただ主権批判をしているような単純な議論にはものすごくいらだってしまうんです。
その意味で政治においてぼくはあるていど近代主義的な立場を取っています。ぼくらはいまのところ、有効な政治的主体として近代国家以外の組織を持っていない。社会保障や教育を考えると、国家という組織をうまく利用すること以外は思いつかないし、それを運用する概念も主権以外にはないと思います。主権で満足することがあってはならないけれども、それをぼくらがうまく使えていないなら、まずはうまく使うことを考えなければいけない。
東 まずは、主権を国民のもとに取り戻し、政治的な主体を再構築するのが先決だということですね。とはいえ、ブレグジットが決まった国民投票や、あるいは最近のカタルーニャの住民投票[★1]などがあきらかにしたように、いま人々が直面しているのは、「国民」が「主体的」に意志決定を行うのはいいとして、しかしその主体自体が分裂してしまったらどうするのか、という事態だと思います。
シャンタル・ムフなどがいうように、本来であれば民主主義は、闘技の段階と熟議の段階を経て、多数の意見を分裂させながらも、同時に縫合し包摂するようなプロセスとしてある。要するに、民主主義はつねに「主体」そのものを生み出すプロセスです。しかしいまは、国民投票をしたら国民がふたつに割れたというかたちで、その主体自体の分裂が露呈した時代になっている。その意味で主権論の困難は、哲学的な議論である以上に具体的な現実としてあると思います。
同じことは日本でも具体的に起きると思います。たとえば、これから日本は憲法をめぐる国民投票を迎える可能性があります。そこでは護憲と改憲に必ず意見が割れるでしょう。そうすると必ず、護憲改憲の二項対立に巻き込まれず建設的な議論をというひとが出てくるはずですが、ぼくはそれは無理だと思います。なぜなら、それは、日本においては、たんに憲法についての意見が分裂しているという話ではないからです。それはむしろ、「日本とはなにか」というアイデンティティの問いへの答えがちがうふたつの集団が存在していること、つまり「日本国民」の主体そのものが分裂していることを示している。護憲派は、日本という国家のアイデンティティを戦後に求めている。改憲派は、アイデンティティを明治維新以降の連続性のなかで捉えている。これは個別の政策以前のアイデンティティの問題で、その分裂に巻き込まれるとみな冷静な議論ができなくなる。
このように、さまざまな国で、いま、民主主義もしくは主権がなにを「一」の単位としてみなすかが、現実的に問われているように思います。
國分 「主権」はひとつでしかありえないにもかかわらず、それを使う主体自体が分裂してしまっていて、縫合する方向性もまったく見えない。その現実の状況に哲学的議論が追いついていないということでしょうか。
東 というよりも、デリダが行なったような哲学的な議論に現実が追いつき、問題がようやく具体化してきたというのがぼくの認識です。2、30年まえまでは、主権を疑うことは思弁的な問題でした。むろん当時も、単数的な主権やナショナル・アイデンティティに対して、抑圧されたマイノリティの複数性に目を向けようという話はされており、それは具体的な運動に結びついていましたが、まだマジョリティのアイデンティティは疑われていなかった。しかし、いまはマイノリティの複数性以前に、マジョリティそのものがふたつあるいは多数に分裂している。つまり、国家や国民は単一のものではないということが、哲学的でもなんでもなく、あまりにもあたりまえの現実として露呈し始めている。かつて哲学者たちが例外状況として議論していた事態が、むしろメインストリームになっている状態です。
國分 カタルーニャはまさにそうですね。
東 報道を見るかぎり、カタルーニャは、自分たちが独立を望んでいるのか望んでいないのかが、数週間単位で変わる状況のようです。デリダに「日延べされた民主主義」というテクストがありますが、そこでデリダは、民主主義にはある種の時間や遅れが必要だと言っています[★2]。1989年に発表された当時は抽象的な議論でしたが、これもいまでは現実そのものになっている。どんなタイミングや頻度で世論調査を行うかによって、一般意志がまったく変わってしまう。国民の意志が時間的な要素によってこそ決定されてしまうわけです。SNSを前提とすると、時間の単位をできるだけ細分化して人々の意志をリアルタイムで汲み上げればいいという発想になるけれど、それではポピュリズムやメディア操作にきわめて弱くなる。かつてよく議論されていた意志と時間の関係が、現実的に問われる時代になってきた。
國分 インターネットがここまで広がる以前に、東さんはまさにそのような話をしていました。国民全員の一般意志を瞬間的に測ることが技術的に可能になったとしても、それはつねに変わりつづけてしまう。そうなると、柄谷行人さんがカントを引いて言った「統整的理念」が機能しなくなる。
東 これは哲学的に言えばヒュームの問題です。ヒュームは、現実にはセンスデータ(感覚与件)が刻一刻と流れていくだけで主体など存在しないと考えましたが、まさにいま世界はそうなっている。国民がいまこの瞬間になにを望んでいるかがすべて可視化されたのはいいけれど、それは昨日の望みとも明日の望みとも異なるかもしれないという、たいへん不安定な時代です。そこでは主体や国家の基盤が怪しくなる。

國分 この論点を展開するためにすこし別の話題に言及してみます。最近ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』を読みなおしたのですが、そこで彼女はヒトラーを生み出したワイマールの大衆社会の分析をしていて、その分析がいまの日本の社会に驚くほどあてはまるんですね。とくにぼくが大きなインパクトを受けたのは、大衆社会の大衆は「なにも信じていない。だからなんでもすぐに信じる」、そして「なんでも可能だと思っているが、なにも真理ではないと思っている」というふたつの指摘です。そのような状況に対するアーレントの答えは、真理を信じることの回復でした。「信じる」ことはどうしたら可能かを、アーレントは考えようとした。
アーレントに触発されて、ぼくも最近「信じる」とはなにかについて考えています。いまこの政治状況のなかで、なにかを信じることを見出せるのか、さらには信じるものを哲学が提示できるのか、と。
たとえば、かつて「戦後民主主義」が言われたときには、人々は単純に民主主義を信じていた。いまはみんな民主主義なんて信じていない。強いリーダーがだれかいてくれれば、そのひとが決めてしまうほうが早いし、それでいいと思っている。アガンベンはいまの政治について、これはポリティクスとは呼べないから別の名前が必要だと言っています。「ポリティクス politics」はギリシア語の「ポリス polis」に由来しています。しかしいまのぼくたちは、以前の政治とはかけ離れた新しい政治に慣れてしまっていて、政治をポリスに起源を持つものとしてイメージできなくなっている。むしろテュラノス(僭主)がうまくものごとを配分したほうがいいと思っているわけで、独裁制にみな同意しつつある。
アーレントは独裁について、それが問題なのはうまくいくからだと言っています。古代ギリシアを見ても、政治は独裁者がパッと決めてしまうほうがうまくいく。だから「独裁は危険だ」というロジックではなく、独裁のほうがうまくいくことの問題を考えなければいけない。それがアーレントの問題提起だった。なにも信じていないからこそ、逆になんでも信じてしまうという大衆に対して、信じるものをどのように提示するか。それが彼女の政治哲学のひとつの課題だったと思います。
東 重要な問題提起ですね。さらにつけ加えて言えば、いまは、ひとになにかを信じさせることが、情報を与えることとイコールだと思われてしまっているんですよね。イデオロギーの問題から疑似科学の問題まで、あらゆることについて「Aか反Aか」というふたつの立場があり、陣営が分かれ、たがいに敵は嘘つきだ、なぜならばこれこれのデータやエビデンスがあるからだと言いあっている。しかし、それはひとを「信じさせる」ことではない。情報をいくら与えても、ひとの意見は変えられない。実際、フェイクニュースについては、そのニュースが嘘だという情報を与えると、むしろニュースへの信頼が増すという困った研究結果があります。情報提供のテクノロジーはインターネットの登場で格段に進歩しましたが、一方でひとを「信じさせる」テクノロジーに関しては、ぼくたちはまったく原初的なものしか持っていない。それこそ、結局、会って握手するとかがいちばんだったりする。情報を与えることが意味をなさない世界にぼくたちは生きている。
國分 情報は意見を変えない、というのはいい指摘ですね。情報を与えても意見は変わらないし、なにかを信じさせることもできない。いままでの傾向を強化するだけであると。だからこそ、どうやって「信じること」が発生するのかを考えなくてはいけない。
國分 カタルーニャはまさにそうですね。
東 報道を見るかぎり、カタルーニャは、自分たちが独立を望んでいるのか望んでいないのかが、数週間単位で変わる状況のようです。デリダに「日延べされた民主主義」というテクストがありますが、そこでデリダは、民主主義にはある種の時間や遅れが必要だと言っています[★2]。1989年に発表された当時は抽象的な議論でしたが、これもいまでは現実そのものになっている。どんなタイミングや頻度で世論調査を行うかによって、一般意志がまったく変わってしまう。国民の意志が時間的な要素によってこそ決定されてしまうわけです。SNSを前提とすると、時間の単位をできるだけ細分化して人々の意志をリアルタイムで汲み上げればいいという発想になるけれど、それではポピュリズムやメディア操作にきわめて弱くなる。かつてよく議論されていた意志と時間の関係が、現実的に問われる時代になってきた。
「信じる」ことを取り戻す
國分 インターネットがここまで広がる以前に、東さんはまさにそのような話をしていました。国民全員の一般意志を瞬間的に測ることが技術的に可能になったとしても、それはつねに変わりつづけてしまう。そうなると、柄谷行人さんがカントを引いて言った「統整的理念」が機能しなくなる。
東 これは哲学的に言えばヒュームの問題です。ヒュームは、現実にはセンスデータ(感覚与件)が刻一刻と流れていくだけで主体など存在しないと考えましたが、まさにいま世界はそうなっている。国民がいまこの瞬間になにを望んでいるかがすべて可視化されたのはいいけれど、それは昨日の望みとも明日の望みとも異なるかもしれないという、たいへん不安定な時代です。そこでは主体や国家の基盤が怪しくなる。

國分 この論点を展開するためにすこし別の話題に言及してみます。最近ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』を読みなおしたのですが、そこで彼女はヒトラーを生み出したワイマールの大衆社会の分析をしていて、その分析がいまの日本の社会に驚くほどあてはまるんですね。とくにぼくが大きなインパクトを受けたのは、大衆社会の大衆は「なにも信じていない。だからなんでもすぐに信じる」、そして「なんでも可能だと思っているが、なにも真理ではないと思っている」というふたつの指摘です。そのような状況に対するアーレントの答えは、真理を信じることの回復でした。「信じる」ことはどうしたら可能かを、アーレントは考えようとした。
アーレントに触発されて、ぼくも最近「信じる」とはなにかについて考えています。いまこの政治状況のなかで、なにかを信じることを見出せるのか、さらには信じるものを哲学が提示できるのか、と。
たとえば、かつて「戦後民主主義」が言われたときには、人々は単純に民主主義を信じていた。いまはみんな民主主義なんて信じていない。強いリーダーがだれかいてくれれば、そのひとが決めてしまうほうが早いし、それでいいと思っている。アガンベンはいまの政治について、これはポリティクスとは呼べないから別の名前が必要だと言っています。「ポリティクス politics」はギリシア語の「ポリス polis」に由来しています。しかしいまのぼくたちは、以前の政治とはかけ離れた新しい政治に慣れてしまっていて、政治をポリスに起源を持つものとしてイメージできなくなっている。むしろテュラノス(僭主)がうまくものごとを配分したほうがいいと思っているわけで、独裁制にみな同意しつつある。
アーレントは独裁について、それが問題なのはうまくいくからだと言っています。古代ギリシアを見ても、政治は独裁者がパッと決めてしまうほうがうまくいく。だから「独裁は危険だ」というロジックではなく、独裁のほうがうまくいくことの問題を考えなければいけない。それがアーレントの問題提起だった。なにも信じていないからこそ、逆になんでも信じてしまうという大衆に対して、信じるものをどのように提示するか。それが彼女の政治哲学のひとつの課題だったと思います。
東 重要な問題提起ですね。さらにつけ加えて言えば、いまは、ひとになにかを信じさせることが、情報を与えることとイコールだと思われてしまっているんですよね。イデオロギーの問題から疑似科学の問題まで、あらゆることについて「Aか反Aか」というふたつの立場があり、陣営が分かれ、たがいに敵は嘘つきだ、なぜならばこれこれのデータやエビデンスがあるからだと言いあっている。しかし、それはひとを「信じさせる」ことではない。情報をいくら与えても、ひとの意見は変えられない。実際、フェイクニュースについては、そのニュースが嘘だという情報を与えると、むしろニュースへの信頼が増すという困った研究結果があります。情報提供のテクノロジーはインターネットの登場で格段に進歩しましたが、一方でひとを「信じさせる」テクノロジーに関しては、ぼくたちはまったく原初的なものしか持っていない。それこそ、結局、会って握手するとかがいちばんだったりする。情報を与えることが意味をなさない世界にぼくたちは生きている。
國分 情報は意見を変えない、というのはいい指摘ですね。情報を与えても意見は変わらないし、なにかを信じさせることもできない。いままでの傾向を強化するだけであると。だからこそ、どうやって「信じること」が発生するのかを考えなくてはいけない。
東 これは根深い問題です。いまの世界にはいわゆる「エビデンス」が大量に溜まりつづけていて、それによって過去の「検証」がいくらでも可能になったと考えられている。けれども、これは危険な傾向でもある。
かつては、過去というのは忘却され、証拠や記録は例外的にのみ残るものでした。ぼくたちはつい200年まえまでは写真すら持っておらず、録音も映像記録もなにも存在しなかった。つまり過去はデータでは検証不可能だった。だからこそ逆説的に、大きな物語としての過去を共有する必要があったわけです。
ところがいまでは、なんでも映像や録音に残すことができるし、それらのエビデンスを使えばあとからなんでも検証可能だと考えられるようになった。けれども、それでも結局は過去はひとつに確定しないんです。なぜなら、たとえばある会話そのものは記録されていたとしても、その解釈については、それは「その場で言ったことと別のことを意味していた」「現場ではまったくちがう意味として機能していた」とさまざまな解釈が生まれるからです。エビデンスがあれば事実はひとつに決まるかと思いきや、そんなことはまったくないんですね。にもかかわらず、エビデンスさえあれば事実は確定する、「ほんとうの過去」を検証できるという信念ばかりがひとり歩きしているので、むしろ問題が増えているように思います。この問題は、さきほどのアイデンティティー=主体が確定しないという問題と深くつながっています。エビデンスが多くなればなるほど、歴史修正主義の誘惑が強くなるということですね。
ちなみに、批判されることを承知で言えば、最近流行の「#MeToo」も同じ根っこから生まれていると思います。かつてわたしは暴力を許容してしまった、しかしいまとなっては許容できないという「過去の再解釈」への欲望ですね。むろん、「#MeToo」自体は弱者に力を与えるものではあるのだけど、過去の再解釈への欲望は諸刃の剣であることも忘れてはならないと思います。
國分 ただ、「#MeToo」は欧米では流行しましたが、日本では流行っているとは言えません。なぜかを考えると、やはり欧米のひとたちは「信じている」からだと思う。この場合は信じているのは「人権」でしょうか。どんなに昔の罪であっても、そんなことをしてはいけない、掘り起こして罪を償うべきだという価値観をみんなが共有している。なかには疑わしいものもあると思いますが、しかしみなそれの味方にはなる。
たとえば、10年くらいまえにフランスにいたとき、「わたしは幼いときに性的虐待を受け、それを6、70年ずっと言えなかった」と打ち明けたおばあさんがテレビでしゃべっていて驚いたことがありました。その話をみな真剣に聴いていて、非常に感動しました。日本なら「ほんとうの話か?」と言われるのが関の山でしょう。
東さんが言ったように、エビデンス過多になることでみんなが共有できる歴史がなくなっていったというのはたしかですが、「#MeToo」に関してはちがう話だというのがぼくの意見です。
東 たしかにそこは欧米と日本の感覚の差がありそうです。人権に加えて、もうひとつヨーロッパ人が「信じている」ものとして「証言」があると思います。デリダは「証言 témoignage」というものにたいへんこだわるでしょう。じつはぼくは昔から、読んでいて違和感があったんです。「証言が大事といっても、嘘つかれたら終わりでは?」と。しかしいま翻って考えてみれば、それこそ日本人的な感覚なのかもしれない。日本人はあまり証言を重んじない。「わたしは暴力を体験した」と言っても、「エビデンスは?」という話になってしまう。エビデンス信仰は、そのように弱者の抑圧としても使われている。そこは非常によくないところだと思います。
國分 ただ東さんの言うように、エビデンスの時代になって物語が共有できなくなったことの弊害はあると思います。昔は物語に頼ってものごとを解釈できたけれど、いまのようなエビデンス過多になるとなかなか物語をつくれなくなる。情報はいろいろと利用できる側面があるとはいえ、人間が処理できる量には限界がある。
東 政治の話につなげれば、トランプ現象にしてもブレグジットにしてもカタルーニャの問題にしても、ぼくたちがいま直面しているのは単一のアイデンティティにもとづく単一の物語がつくれないということですね。アメリカとはなにか、イギリスとはなにか、カタルーニャとはなにかという物語そのものが分裂し、たがいに衝突してしまっている。それは政策で解決する問題ではない。
さきほど言ったようにそれは日本もひとごとではなくて、現在の日本についても、いまの繁栄や平和がなんのおかげでどのような経歴で可能になったのかについては、いろいろな解釈=物語がありうる。同じ現実を生きているのにまったくちがう歴史観を生きていることがありうるし、またそれぞれを強化する情報がたくさん提供される時代になってしまっている。現実はひとつでも、過去は複数なんです。
最初の話に戻せば、このようなアイデンティティの分裂を解決し、主権を立てなおすという企図は、どうもうまくいかない気がします。
國分 ぼくはどうしても主権にこだわってしまうのですが、アイデンティティの問題は煎じ詰めれば政治的決定に参加できるかどうかという問題ですよね。トランプにしてもブレグジットにしても、国家の決定に自分たちが参加していないという人々の不満が強くある。カタルーニャの独立運動も、いまのスペイン中央政府が非常に中央集権的だからこそ起きている。
東 それだけでしょうか。実際には、その不満に対してどう応えるかこそが問題になっているのではないですか。たとえば、トランプを支えたのはいわゆる「ラストベルト」の白人男性労働者層だといわれていますが、彼らは選挙権も持っているし、マジョリティとして地域コミュニティにも参加していたはずです。彼らの疎外感は、政治参加だけでは吸収できないのではないか。
かつては、過去というのは忘却され、証拠や記録は例外的にのみ残るものでした。ぼくたちはつい200年まえまでは写真すら持っておらず、録音も映像記録もなにも存在しなかった。つまり過去はデータでは検証不可能だった。だからこそ逆説的に、大きな物語としての過去を共有する必要があったわけです。
ところがいまでは、なんでも映像や録音に残すことができるし、それらのエビデンスを使えばあとからなんでも検証可能だと考えられるようになった。けれども、それでも結局は過去はひとつに確定しないんです。なぜなら、たとえばある会話そのものは記録されていたとしても、その解釈については、それは「その場で言ったことと別のことを意味していた」「現場ではまったくちがう意味として機能していた」とさまざまな解釈が生まれるからです。エビデンスがあれば事実はひとつに決まるかと思いきや、そんなことはまったくないんですね。にもかかわらず、エビデンスさえあれば事実は確定する、「ほんとうの過去」を検証できるという信念ばかりがひとり歩きしているので、むしろ問題が増えているように思います。この問題は、さきほどのアイデンティティー=主体が確定しないという問題と深くつながっています。エビデンスが多くなればなるほど、歴史修正主義の誘惑が強くなるということですね。
ちなみに、批判されることを承知で言えば、最近流行の「#MeToo」も同じ根っこから生まれていると思います。かつてわたしは暴力を許容してしまった、しかしいまとなっては許容できないという「過去の再解釈」への欲望ですね。むろん、「#MeToo」自体は弱者に力を与えるものではあるのだけど、過去の再解釈への欲望は諸刃の剣であることも忘れてはならないと思います。
國分 ただ、「#MeToo」は欧米では流行しましたが、日本では流行っているとは言えません。なぜかを考えると、やはり欧米のひとたちは「信じている」からだと思う。この場合は信じているのは「人権」でしょうか。どんなに昔の罪であっても、そんなことをしてはいけない、掘り起こして罪を償うべきだという価値観をみんなが共有している。なかには疑わしいものもあると思いますが、しかしみなそれの味方にはなる。
たとえば、10年くらいまえにフランスにいたとき、「わたしは幼いときに性的虐待を受け、それを6、70年ずっと言えなかった」と打ち明けたおばあさんがテレビでしゃべっていて驚いたことがありました。その話をみな真剣に聴いていて、非常に感動しました。日本なら「ほんとうの話か?」と言われるのが関の山でしょう。
東さんが言ったように、エビデンス過多になることでみんなが共有できる歴史がなくなっていったというのはたしかですが、「#MeToo」に関してはちがう話だというのがぼくの意見です。
東 たしかにそこは欧米と日本の感覚の差がありそうです。人権に加えて、もうひとつヨーロッパ人が「信じている」ものとして「証言」があると思います。デリダは「証言 témoignage」というものにたいへんこだわるでしょう。じつはぼくは昔から、読んでいて違和感があったんです。「証言が大事といっても、嘘つかれたら終わりでは?」と。しかしいま翻って考えてみれば、それこそ日本人的な感覚なのかもしれない。日本人はあまり証言を重んじない。「わたしは暴力を体験した」と言っても、「エビデンスは?」という話になってしまう。エビデンス信仰は、そのように弱者の抑圧としても使われている。そこは非常によくないところだと思います。
政治のなかの文学的なもの
國分 ただ東さんの言うように、エビデンスの時代になって物語が共有できなくなったことの弊害はあると思います。昔は物語に頼ってものごとを解釈できたけれど、いまのようなエビデンス過多になるとなかなか物語をつくれなくなる。情報はいろいろと利用できる側面があるとはいえ、人間が処理できる量には限界がある。
東 政治の話につなげれば、トランプ現象にしてもブレグジットにしてもカタルーニャの問題にしても、ぼくたちがいま直面しているのは単一のアイデンティティにもとづく単一の物語がつくれないということですね。アメリカとはなにか、イギリスとはなにか、カタルーニャとはなにかという物語そのものが分裂し、たがいに衝突してしまっている。それは政策で解決する問題ではない。
さきほど言ったようにそれは日本もひとごとではなくて、現在の日本についても、いまの繁栄や平和がなんのおかげでどのような経歴で可能になったのかについては、いろいろな解釈=物語がありうる。同じ現実を生きているのにまったくちがう歴史観を生きていることがありうるし、またそれぞれを強化する情報がたくさん提供される時代になってしまっている。現実はひとつでも、過去は複数なんです。
最初の話に戻せば、このようなアイデンティティの分裂を解決し、主権を立てなおすという企図は、どうもうまくいかない気がします。
國分 ぼくはどうしても主権にこだわってしまうのですが、アイデンティティの問題は煎じ詰めれば政治的決定に参加できるかどうかという問題ですよね。トランプにしてもブレグジットにしても、国家の決定に自分たちが参加していないという人々の不満が強くある。カタルーニャの独立運動も、いまのスペイン中央政府が非常に中央集権的だからこそ起きている。
東 それだけでしょうか。実際には、その不満に対してどう応えるかこそが問題になっているのではないですか。たとえば、トランプを支えたのはいわゆる「ラストベルト」の白人男性労働者層だといわれていますが、彼らは選挙権も持っているし、マジョリティとして地域コミュニティにも参加していたはずです。彼らの疎外感は、政治参加だけでは吸収できないのではないか。
國分 たしかにそこには、ある種文学的、感覚的なものもあるかもしれません。ブレグジットに賛成したひとたちの政治的疎外感にしても、たんに政治参加できていないということ以上のなにか「感覚」としか言いようのないものがあったとも考えられます。アメリカの「ウォール街で政治が決まっている」という感覚もそうかもしれない。
ぼく自身はこれまで、住民投票運動に関わった経験から[★3]、政治制度の改良、具体的には行政における政策決定に住民が関われるような制度をさまざまに考案し、それを足していくということで政治参加のルートを増やすべきだと主張してきましたし、その主張には変更すべき点はいまのところありません。
ただ、いまここで問題にしている政治的疎外感は、それによっては解決されない非合理的なものを含んでいる。東さんのいう「アイデンティティ」も、その非合理的なものと関わっている。ぼくはだからなにか「信じる」というモーメントを取り戻さないと政治が回らなくなっているのではないかと主張しているわけですね。
この政治における「信じる」についてですが、戦後日本の憲法がとても文学的に語られてきたことがヒントになると思うんです。憲法についての議論というのは、憲法学者たちが担うべき高度に技術的で専門的なものです。ところが日本では江藤淳をはじめとした文学者たちが憲法を大いに論じてきた。憲法論は文学的であったわけです。じつは憲法学者の文章もいい意味で文学性を持っていました。たとえば、憲法学の重鎮として、奥平康弘と樋口陽一のふたりの名前を挙げられると思いますが、おふたりとも名文家ですね。文学を感じます。彼らの書くものはいわゆる専門家の論文とはちがう。安保法制問題のときに、憲法学者が路上に出て話題になりましたが、あの行動は日本の憲法学のこのような文学的位置づけと無関係ではない。
東 いまのお話はおもしろいですね。日本の憲法についての語りが文学的で、そこを評価したいというのはまったく同感です。そもそも現行の日本国憲法は、GHQが中心となってさまざまなひとが絡み、つくられた経緯が複雑で、込められたメッセージも重層的なので、国民が政府を縛るためにつくられた合理的な文章にはまったくなっていないんですよね。そのあり方自体が文学的だと言えます。
それは「哲学的」とも言えるかもしれない。今日の対談は「いま哲学の場所はどこにあるのか」と題されていますが、ぼくは哲学について、とくにそれが「哲学的」という形容詞として使われるときは、「文学的」とかなり近い意味をもっていると考えているんです。たとえば、商品を開発する、会社をつくる、映画をつくる、さまざまな行為がこの世界にはありますが、そのようなとき、必ず目的とはズレるなにかが生じる。そのズレが「文学的」や「哲学的」と呼ばれる感覚を発生させる。というよりも、文学や哲学とは本来、文学や哲学という実態があるのではなくて、そのような「文学的」「哲学的」なズレ、ぼくの言葉では「誤配」としてしか存在しない。
その点でいまの日本国憲法は、まさに誤配だらけで、「文学的」「哲学的」な存在であるわけです。もちろん、誤配は必ずしもいいものではない。とくに政治においてよくない。だから現行憲法の抱える文学性=誤配にしても、それこそ政治改革にとっての障害だと考えているひとたちも多い。正直言うと、ぼくも半分はそう考えています。だから憲法九条は改正すべきだという立場です。
でも、いまの國分さんの指摘で気づきましたが、それは現行憲法から誤配を除去しろという話なんですね。だとすれば、ぼくは、デリダ派として、誤配を守るために護憲派に転じるべきかもしれない(笑)。
國分 (笑)。そういえば、大澤真幸さんと対談したとき、大澤さんが中動態と憲法を結びつけて語ってくれました。アメリカの憲法は能動的だから強いのではなく、むしろ自分たちでつくって自分たちで従う中動態的な存在だから輝きを持っているんだと。それと比較するならば、いまの日本の護憲改憲論争は、むしろ、改憲をして能動的な憲法に変えるか、柄谷さんが言うように受動的なままがいいと考えるのか、という対立になっていると思います。
東 なるほど、護憲派もけっして中動態的というわけではないのだと。実際、憲法にかぎらず、政策的な合理性主導で政治的な議論が行われると、剰余がそぎ落とされていくんですよね。エビデンスがあり、合理的な政策の提案があり、ロビー活動があり、それを実現するタイムスケジュールがある、という話だけで政治が進むと、まさに「哲学の場所」がなくなってしまう。政治が哲学的であるときとは、剰余の部分が多いときですね。
ぼく自身はこれまで、住民投票運動に関わった経験から[★3]、政治制度の改良、具体的には行政における政策決定に住民が関われるような制度をさまざまに考案し、それを足していくということで政治参加のルートを増やすべきだと主張してきましたし、その主張には変更すべき点はいまのところありません。
ただ、いまここで問題にしている政治的疎外感は、それによっては解決されない非合理的なものを含んでいる。東さんのいう「アイデンティティ」も、その非合理的なものと関わっている。ぼくはだからなにか「信じる」というモーメントを取り戻さないと政治が回らなくなっているのではないかと主張しているわけですね。
この政治における「信じる」についてですが、戦後日本の憲法がとても文学的に語られてきたことがヒントになると思うんです。憲法についての議論というのは、憲法学者たちが担うべき高度に技術的で専門的なものです。ところが日本では江藤淳をはじめとした文学者たちが憲法を大いに論じてきた。憲法論は文学的であったわけです。じつは憲法学者の文章もいい意味で文学性を持っていました。たとえば、憲法学の重鎮として、奥平康弘と樋口陽一のふたりの名前を挙げられると思いますが、おふたりとも名文家ですね。文学を感じます。彼らの書くものはいわゆる専門家の論文とはちがう。安保法制問題のときに、憲法学者が路上に出て話題になりましたが、あの行動は日本の憲法学のこのような文学的位置づけと無関係ではない。
剰余としての哲学
東 いまのお話はおもしろいですね。日本の憲法についての語りが文学的で、そこを評価したいというのはまったく同感です。そもそも現行の日本国憲法は、GHQが中心となってさまざまなひとが絡み、つくられた経緯が複雑で、込められたメッセージも重層的なので、国民が政府を縛るためにつくられた合理的な文章にはまったくなっていないんですよね。そのあり方自体が文学的だと言えます。
それは「哲学的」とも言えるかもしれない。今日の対談は「いま哲学の場所はどこにあるのか」と題されていますが、ぼくは哲学について、とくにそれが「哲学的」という形容詞として使われるときは、「文学的」とかなり近い意味をもっていると考えているんです。たとえば、商品を開発する、会社をつくる、映画をつくる、さまざまな行為がこの世界にはありますが、そのようなとき、必ず目的とはズレるなにかが生じる。そのズレが「文学的」や「哲学的」と呼ばれる感覚を発生させる。というよりも、文学や哲学とは本来、文学や哲学という実態があるのではなくて、そのような「文学的」「哲学的」なズレ、ぼくの言葉では「誤配」としてしか存在しない。
その点でいまの日本国憲法は、まさに誤配だらけで、「文学的」「哲学的」な存在であるわけです。もちろん、誤配は必ずしもいいものではない。とくに政治においてよくない。だから現行憲法の抱える文学性=誤配にしても、それこそ政治改革にとっての障害だと考えているひとたちも多い。正直言うと、ぼくも半分はそう考えています。だから憲法九条は改正すべきだという立場です。
でも、いまの國分さんの指摘で気づきましたが、それは現行憲法から誤配を除去しろという話なんですね。だとすれば、ぼくは、デリダ派として、誤配を守るために護憲派に転じるべきかもしれない(笑)。
國分 (笑)。そういえば、大澤真幸さんと対談したとき、大澤さんが中動態と憲法を結びつけて語ってくれました。アメリカの憲法は能動的だから強いのではなく、むしろ自分たちでつくって自分たちで従う中動態的な存在だから輝きを持っているんだと。それと比較するならば、いまの日本の護憲改憲論争は、むしろ、改憲をして能動的な憲法に変えるか、柄谷さんが言うように受動的なままがいいと考えるのか、という対立になっていると思います。
東 なるほど、護憲派もけっして中動態的というわけではないのだと。実際、憲法にかぎらず、政策的な合理性主導で政治的な議論が行われると、剰余がそぎ落とされていくんですよね。エビデンスがあり、合理的な政策の提案があり、ロビー活動があり、それを実現するタイムスケジュールがある、という話だけで政治が進むと、まさに「哲学の場所」がなくなってしまう。政治が哲学的であるときとは、剰余の部分が多いときですね。
國分 いまの話題に関連して、プラトンについておもしろい話があります。プラトンがなぜ対話篇を書いたのかは大きな謎ですが、じつは彼は、若いときに悲劇を書いていたらしいんです。ギリシア悲劇は、当時は大衆芸能のようなものだった。彼の対話篇が大衆的な言葉で書かれているのには、そういう文学的な背景がある。しかも、プラトンは名家出身で本来は政治家志望だったけれど、師匠のソクラテスが刑死したためその道を断たれてもいる。つまり、プラトンのなかで政治と哲学と文学がまさに交差しているんです。哲学と政治の起源に文学的な剰余があったとも言える。
東 若いころは文学青年で、そのあと政治家を志したのだけれど、師匠が刑死したのでその道が断たれ哲学者になった。なかなかつらい人生ですね。ソクラテスが死んだときには「アテネはもうだめだ」と絶望していたにちがいない。
國分 絶望していたはずです。でも彼はそのあと対話篇を書き、学校までつくっている。そういうプラトンの活動は、東さんがやっているゲンロンとも近い。
東 ありがとうございます。まさに、ぼくはいま、ソクラテスとプラトンのころまでさかのぼるべきなんじゃないかと思っています。最初に語ったように、いまは情報だけは増えている。けれどそれはひとの信念をなにも変えない。その状況を打破するためには、哲学とはそもそもなんだったのか、起源に戻って実践的に考えるしかない。そうすると見えてくるのは、ひととひととの会話にはもともと大量の剰余=誤配があり、ある主張の背後には論理だけではないさまざまな物語が付随していて、議論の発展や融合のためにはそれらがきちんと衝突する場をつくるのが大切だということです。でないと議論は形式的に対立するだけで、そこからさきは発展しなくなる。だからプラトンの対話篇というのは、つねに哲学者の戻るべき指針としてあると思います。
國分 いまの世の中は、どんな議論でも少数のパラメーターに収束させてしまう。ぼくは新自由主義的な議論は、人間味や温かみがないという理由ではなく、単純に考えているパラメーターの数が少ないからだめだと考えています。あえて差別的な言い方をすれば、バカ向きになってきている。
東 まったく同感です。最近はTEDのようなプレゼンテーションがいいということになっていますが、あそこには剰余がまったくない。ああいうタイプのプレゼンテーションばかりが新しい知のかたちとして流布していくことに危機感を覚えています。TEDとはまったくちがうプレゼンが見たいということは、ゲンロンカフェをつくった当初から考えていました。ゲンロンカフェの売りは、TEDなら三分でできることを三時間かけてやるという圧倒的な「効率の悪さ」ですね(笑)。
國分 すばらしい! いま、そういう場所はほんとうに少ないでしょう。ドゥルーズは、哲学は概念を創造することだと言っていますが、彼のイメージではそれは小説の登場人物をつくることです。たとえば「コギト」という概念には、小説の登場人物のようにいろいろな背景があって、気持ちの変化があって、ほかの人物=概念との関係がある。つまり、どうでもいいところがたくさんあって、はじめて概念が機能するということです。だから、箇条書きで「コギトとは〇〇である」と説明できるものではない、というのがドゥルーズの考え方です。
つまり、小説を読んで登場人物の気持ちを推し量るように、哲学も概念の「気持ち」を推し量ることができるようにならなければいけない、というのがドゥルーズの哲学教育なんですね。そういう教育がいまはできなくなっている。プレゼンテーションも「三分で要約してください」となっているし、箇条書き二、三個で説明できるようなものしかひとは受けつけない。
東 そうなんですよね。だからぼくも自分で会社をつくるしかなくなってしまった。それくらい世の中に絶望しています。
東 ここまでの議論をまとめますと、ぼくと國分さんは、とりあえずは、哲学がいま世の中に広がっている即時性優位の現実にどう立ち向かうのかを共通して考えている。ただそこで、「哲学では世の中を変えることはできない」といわば身を引いてしまったぼくとちがって……。
國分 いや、身は引いてないでしょう(笑)。
東 まあ、基本的にはゲンロンに閉じこもっているので……。それはともかく、國分さんのほうはちゃんと現実に踏みとどまっている。政治的な発言も活発だし、中動態の研究も、熊谷晋一郎さんらの当事者研究と密接に関わりながら、臨床や自助の現場に介入するものとして差し出されている。手ごたえはどうですか。
東 若いころは文学青年で、そのあと政治家を志したのだけれど、師匠が刑死したのでその道が断たれ哲学者になった。なかなかつらい人生ですね。ソクラテスが死んだときには「アテネはもうだめだ」と絶望していたにちがいない。
國分 絶望していたはずです。でも彼はそのあと対話篇を書き、学校までつくっている。そういうプラトンの活動は、東さんがやっているゲンロンとも近い。
東 ありがとうございます。まさに、ぼくはいま、ソクラテスとプラトンのころまでさかのぼるべきなんじゃないかと思っています。最初に語ったように、いまは情報だけは増えている。けれどそれはひとの信念をなにも変えない。その状況を打破するためには、哲学とはそもそもなんだったのか、起源に戻って実践的に考えるしかない。そうすると見えてくるのは、ひととひととの会話にはもともと大量の剰余=誤配があり、ある主張の背後には論理だけではないさまざまな物語が付随していて、議論の発展や融合のためにはそれらがきちんと衝突する場をつくるのが大切だということです。でないと議論は形式的に対立するだけで、そこからさきは発展しなくなる。だからプラトンの対話篇というのは、つねに哲学者の戻るべき指針としてあると思います。
國分 いまの世の中は、どんな議論でも少数のパラメーターに収束させてしまう。ぼくは新自由主義的な議論は、人間味や温かみがないという理由ではなく、単純に考えているパラメーターの数が少ないからだめだと考えています。あえて差別的な言い方をすれば、バカ向きになってきている。
東 まったく同感です。最近はTEDのようなプレゼンテーションがいいということになっていますが、あそこには剰余がまったくない。ああいうタイプのプレゼンテーションばかりが新しい知のかたちとして流布していくことに危機感を覚えています。TEDとはまったくちがうプレゼンが見たいということは、ゲンロンカフェをつくった当初から考えていました。ゲンロンカフェの売りは、TEDなら三分でできることを三時間かけてやるという圧倒的な「効率の悪さ」ですね(笑)。
國分 すばらしい! いま、そういう場所はほんとうに少ないでしょう。ドゥルーズは、哲学は概念を創造することだと言っていますが、彼のイメージではそれは小説の登場人物をつくることです。たとえば「コギト」という概念には、小説の登場人物のようにいろいろな背景があって、気持ちの変化があって、ほかの人物=概念との関係がある。つまり、どうでもいいところがたくさんあって、はじめて概念が機能するということです。だから、箇条書きで「コギトとは〇〇である」と説明できるものではない、というのがドゥルーズの考え方です。
つまり、小説を読んで登場人物の気持ちを推し量るように、哲学も概念の「気持ち」を推し量ることができるようにならなければいけない、というのがドゥルーズの哲学教育なんですね。そういう教育がいまはできなくなっている。プレゼンテーションも「三分で要約してください」となっているし、箇条書き二、三個で説明できるようなものしかひとは受けつけない。
東 そうなんですよね。だからぼくも自分で会社をつくるしかなくなってしまった。それくらい世の中に絶望しています。
失われた非合法性
東 ここまでの議論をまとめますと、ぼくと國分さんは、とりあえずは、哲学がいま世の中に広がっている即時性優位の現実にどう立ち向かうのかを共通して考えている。ただそこで、「哲学では世の中を変えることはできない」といわば身を引いてしまったぼくとちがって……。
國分 いや、身は引いてないでしょう(笑)。
東 まあ、基本的にはゲンロンに閉じこもっているので……。それはともかく、國分さんのほうはちゃんと現実に踏みとどまっている。政治的な発言も活発だし、中動態の研究も、熊谷晋一郎さんらの当事者研究と密接に関わりながら、臨床や自助の現場に介入するものとして差し出されている。手ごたえはどうですか。
國分 ぼくの中心にはスピノザ哲学があります。臨床の現場では、そういうものが人々の生き方に示唆を与えるものだとみなされる土壌が広がっていると感じます。政治とはちがって、臨床の現場では、人間に対する理解が広がっていて希望が持てます。人間がいかに弱いのか、なにができてなにができないのか。そのことに関する認識が昔と比べ物にならないくらい繊細になっています。たとえば熊谷さんが力を入れている当事者研究は、精神分析の民主化版だと言えます。
東 その表現はよくわかります。斎藤環さんが推奨しているオープンダイアローグも同じ流れですね。
國分 だから臨床に関しては希望を持っています。一方、政治となると希望を持てない。ぼくの友人の萱野稔人さんは、かつて現代思想の専門家でした、けれども、哲学では壁を突破できない状況に痺れを切らしたのか、研究の場からは退いてしまった。最近では保守派の政治家に近いことを言うこともあり、納得できないことも多い。ただ、その必然性はとてもよくわかります。だから、ポストモダン系の学者が彼を単純に転向者とみなしてバカにするのは非常に腹が立ちますね。ドゥルーズ=ガタリを使って革命がどうこうと言うのが政治なのか、と。
萱野さんの選択は、現実の政治を哲学的に考えることの必然的帰結なのかもしれない。ぼくの政治参加は小平での住民投票までにとどまっていますが、あれ以上やると保守派にならざるをえないという気持ちもあるし、実際すこしそうなっている。
東 なるほど。そう考えていたんですね。
國分 逆に東さんからは現状はどう見えているんですか。
東 そうですね。一方に即時性にもとづいたネオリベ的な空間があり、他方でそれに抵抗するNPOやコミュニティ系の運動の空間があるという整理はよくわかります。いま國分さんがおっしゃった臨床と政治の対立はそういう話ですね。
ただ、一見ここには対立があるように見えますが、ぼくは両方とも「まじめ」であることが共通していると考えているんです。プラトンの対話篇にはふまじめさや笑いが満ちていたけど、いまはそのような感覚と政治の実践が切り離されている。体制派だろうが反体制派だろうが、保守だろうがリベラルだろうが、すごくまじめです。ぼくとしては、それに対して、「ふまじめさ」や「笑い」の感覚が政治や公共性とつながるような第三の空間をつくりたい。
國分 もうすこし具体的にお願いできますか。
東 先日、千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館で開催された展覧会「『1968年』――無数の問いの噴出の時代」に行きました。展示自体はよかったのですが、ある種の行き詰まりも感じました。というのも、展覧会を見てまず気づいたのは、現在のSEALDsや国会前抗議の方法論が、半世紀前のべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)によってほぼ完成されてしまっているということです。組織をつくらず、同時多発的に草の根で集会を行い、そこにアーティストやミュージシャンを呼んで祝祭感を生み出す。そうした「現代的」な社会運動の方法は、すでにべ平連で先取りされています。
國分 震災後の運動ですね。
東 はい。ところが、べ平連にあって現代の運動にないものがある。それは「非合法的なものへの容認」です。展示では、ベトナム戦争を忌避する米軍脱走兵を支援するために、運動家がスウェーデンのパスポートを偽造してモスクワに送り出したことが肯定的に紹介されていました。けれど、これはいまの感覚ではあきらかに犯罪です。SEALDsや国会前抗議がこれをできるかというと、絶対にできない。いまのリベラルは、こういった非合法活動を絶対に許容しないと思います。
それは運動家もわかっている。たとえば野間易通さんの『金曜官邸前抗議』(河出書房、2012年)で説かれているのは、合法的にいかに運動をするかという方法論です。野間さんにも直接言ったことがありますが、あの本はコミケのマニュアルに似ている。どうやって行列をさばき、どうやって問題を起こさないで大衆をコントロールするかということばかりが書かれている。警察に睨まれないよう、終電できちんと帰りましょうとまで書かれている。
誤解してほしくないんですが、ぼくはべつに反権力のためには非合法活動が必要だといいたいわけではありません。ただ時代の変化を指摘したいだけです。かつてべ平連の時代には、祝祭的な市民運動と非合法スレスレの運動論はセットになっていた。ヒッピー文化などの影響もあったでしょう。それはいろいろ悲惨な事件も引き起こしたけど、だからこそ祝祭は実体的な権力闘争につながっていたし、影響力もあったとも言える。そこは表裏一体なわけです。ところがいまは、非合法なものは端的に許容されない。残ったのは「文化祭」のような安全な祝祭にすぎない。それは完全に権力のコントロール下にあるので、しょせんはガス抜きにしかならない。言い換えれば、「笑い」の領域が、完全に政治から切り離されてしまっているわけです。
六八年革命の現代的意義を考えるとしたら、この非合法スレスレの祝祭感覚を現代でどのように位置づけるかを問うことが大事だと思うのですね。件の展覧会では、六八年革命を継承した運動として横浜新貨物線反対運動を取り上げ、いまやエゴイズムこそが公共圏の問いなおしのために必要なのだという結論にもっていこうとしていましたが、それだけでは弱いと思うんです。
國分 なるほど。ぼくが小平で市民運動をやっていたときも地域エゴイズムと批判されたことがあります。しかしあれはエゴイズムではなく、意見をみんなでつくり上げていったんです。いろいろなひとが意見を出して、切磋琢磨していった。それが肯定的な意味で六八年革命を引き受けることだと考えているのですが……。
東 でも、そこで「いろいろなひと」とはだれかが問題でしょう。よく知られているように、ベ平連代表の小田実は「ふつうの市民」という言葉で連帯を呼びかけた。おそらく当時はその「ふつう」のなかにはチンピラみたいなひとが数多くいたわけです。犯罪者もいたでしょう。ところがいまは「ふつう」がすっかりジェントリフィケートされ、そのような人々は運動から慎重に排除される構造になっている。あるいは、かりにそういうチンピラが運動のなかにいたとして、彼らが犯罪に手を染めたこと、それそのものが社会構造の歪みの現れなのだから、チンピラはその犠牲者として捉えなければならないということになっている。それもまた一種のジェントリフィケーションです。ひとことで言えば、リベラルはいまやすごい優等生っぽいんですよ。ちなみに、この点では野間さんの「レイシストをしばき隊」はじつに反時代的な試みで、そこはすこし評価していました。
さきほど國分さんが表明されたいらだちも、結局はこの問題に集約されると思います。ドゥルーズ哲学の革命性を称揚するけれど、そう言うおまえらは背広にネクタイで大学で教えてるだけじゃないか、と。
國分 ジジェクふうに言えばツイート文化に堕した左翼ですね。昔は左翼こそが汚い言葉を使っていた。しかしいまは右翼が汚い言葉を使っていて、左翼はポリティカル・コレクトネスをあげつらうだけで、議論をしない。
東 その表現はよくわかります。斎藤環さんが推奨しているオープンダイアローグも同じ流れですね。
國分 だから臨床に関しては希望を持っています。一方、政治となると希望を持てない。ぼくの友人の萱野稔人さんは、かつて現代思想の専門家でした、けれども、哲学では壁を突破できない状況に痺れを切らしたのか、研究の場からは退いてしまった。最近では保守派の政治家に近いことを言うこともあり、納得できないことも多い。ただ、その必然性はとてもよくわかります。だから、ポストモダン系の学者が彼を単純に転向者とみなしてバカにするのは非常に腹が立ちますね。ドゥルーズ=ガタリを使って革命がどうこうと言うのが政治なのか、と。
萱野さんの選択は、現実の政治を哲学的に考えることの必然的帰結なのかもしれない。ぼくの政治参加は小平での住民投票までにとどまっていますが、あれ以上やると保守派にならざるをえないという気持ちもあるし、実際すこしそうなっている。
東 なるほど。そう考えていたんですね。
國分 逆に東さんからは現状はどう見えているんですか。
東 そうですね。一方に即時性にもとづいたネオリベ的な空間があり、他方でそれに抵抗するNPOやコミュニティ系の運動の空間があるという整理はよくわかります。いま國分さんがおっしゃった臨床と政治の対立はそういう話ですね。
ただ、一見ここには対立があるように見えますが、ぼくは両方とも「まじめ」であることが共通していると考えているんです。プラトンの対話篇にはふまじめさや笑いが満ちていたけど、いまはそのような感覚と政治の実践が切り離されている。体制派だろうが反体制派だろうが、保守だろうがリベラルだろうが、すごくまじめです。ぼくとしては、それに対して、「ふまじめさ」や「笑い」の感覚が政治や公共性とつながるような第三の空間をつくりたい。
國分 もうすこし具体的にお願いできますか。
東 先日、千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館で開催された展覧会「『1968年』――無数の問いの噴出の時代」に行きました。展示自体はよかったのですが、ある種の行き詰まりも感じました。というのも、展覧会を見てまず気づいたのは、現在のSEALDsや国会前抗議の方法論が、半世紀前のべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)によってほぼ完成されてしまっているということです。組織をつくらず、同時多発的に草の根で集会を行い、そこにアーティストやミュージシャンを呼んで祝祭感を生み出す。そうした「現代的」な社会運動の方法は、すでにべ平連で先取りされています。
國分 震災後の運動ですね。
東 はい。ところが、べ平連にあって現代の運動にないものがある。それは「非合法的なものへの容認」です。展示では、ベトナム戦争を忌避する米軍脱走兵を支援するために、運動家がスウェーデンのパスポートを偽造してモスクワに送り出したことが肯定的に紹介されていました。けれど、これはいまの感覚ではあきらかに犯罪です。SEALDsや国会前抗議がこれをできるかというと、絶対にできない。いまのリベラルは、こういった非合法活動を絶対に許容しないと思います。
それは運動家もわかっている。たとえば野間易通さんの『金曜官邸前抗議』(河出書房、2012年)で説かれているのは、合法的にいかに運動をするかという方法論です。野間さんにも直接言ったことがありますが、あの本はコミケのマニュアルに似ている。どうやって行列をさばき、どうやって問題を起こさないで大衆をコントロールするかということばかりが書かれている。警察に睨まれないよう、終電できちんと帰りましょうとまで書かれている。
誤解してほしくないんですが、ぼくはべつに反権力のためには非合法活動が必要だといいたいわけではありません。ただ時代の変化を指摘したいだけです。かつてべ平連の時代には、祝祭的な市民運動と非合法スレスレの運動論はセットになっていた。ヒッピー文化などの影響もあったでしょう。それはいろいろ悲惨な事件も引き起こしたけど、だからこそ祝祭は実体的な権力闘争につながっていたし、影響力もあったとも言える。そこは表裏一体なわけです。ところがいまは、非合法なものは端的に許容されない。残ったのは「文化祭」のような安全な祝祭にすぎない。それは完全に権力のコントロール下にあるので、しょせんはガス抜きにしかならない。言い換えれば、「笑い」の領域が、完全に政治から切り離されてしまっているわけです。
六八年革命の現代的意義を考えるとしたら、この非合法スレスレの祝祭感覚を現代でどのように位置づけるかを問うことが大事だと思うのですね。件の展覧会では、六八年革命を継承した運動として横浜新貨物線反対運動を取り上げ、いまやエゴイズムこそが公共圏の問いなおしのために必要なのだという結論にもっていこうとしていましたが、それだけでは弱いと思うんです。
國分 なるほど。ぼくが小平で市民運動をやっていたときも地域エゴイズムと批判されたことがあります。しかしあれはエゴイズムではなく、意見をみんなでつくり上げていったんです。いろいろなひとが意見を出して、切磋琢磨していった。それが肯定的な意味で六八年革命を引き受けることだと考えているのですが……。
東 でも、そこで「いろいろなひと」とはだれかが問題でしょう。よく知られているように、ベ平連代表の小田実は「ふつうの市民」という言葉で連帯を呼びかけた。おそらく当時はその「ふつう」のなかにはチンピラみたいなひとが数多くいたわけです。犯罪者もいたでしょう。ところがいまは「ふつう」がすっかりジェントリフィケートされ、そのような人々は運動から慎重に排除される構造になっている。あるいは、かりにそういうチンピラが運動のなかにいたとして、彼らが犯罪に手を染めたこと、それそのものが社会構造の歪みの現れなのだから、チンピラはその犠牲者として捉えなければならないということになっている。それもまた一種のジェントリフィケーションです。ひとことで言えば、リベラルはいまやすごい優等生っぽいんですよ。ちなみに、この点では野間さんの「レイシストをしばき隊」はじつに反時代的な試みで、そこはすこし評価していました。
さきほど國分さんが表明されたいらだちも、結局はこの問題に集約されると思います。ドゥルーズ哲学の革命性を称揚するけれど、そう言うおまえらは背広にネクタイで大学で教えてるだけじゃないか、と。
國分 ジジェクふうに言えばツイート文化に堕した左翼ですね。昔は左翼こそが汚い言葉を使っていた。しかしいまは右翼が汚い言葉を使っていて、左翼はポリティカル・コレクトネスをあげつらうだけで、議論をしない。
ジャスティスとコレクトネス
國分 すこし哲学の話に戻しましょう。いまの話はデリダの言葉で言い換えると、「正義」の問題になりますね。デリダによれば、正義は合法性とはまったくちがう。たとえば市民的不服従で徴兵・兵役を拒否することは非合法です。けれども最終的には正義になるかもしれない。そしてそれは事前にはわからない。べ平連の人々は非合法活動をやっていたとき、それが正義だと信じていたでしょう。
それに対して、ぼくらは正義を「信じる」ことができない。自分の活動が非合法だと言われることばかり心配し、それが東さんのいう「文化祭」化をおしすすめる。しかし、そこで達成されるのは、けっしてジャスティス(正義)ではなく、せいぜいコレクトネス(正当性)にすぎないわけです。それだけでは、市民的不服従のような概念はまったく理解されない。
東 おっしゃるとおりです。デリダは、正義と正当性を計算可能性の観点で区別するとともに、その時間性を問うてもいました。コレクトネスがあくまでも現在性の時間のなかにあるのに対して、ジャスティスは時間の外にあるんですね。
國分 そう。コレクトネスは現前的なもので、瞬間的に判断できてしまう。それに対してジャスティスのほうは、いつ実現されるかわからない。だから「信じる」ことが必要になるわけです。
東 「信じる」行為は現在の時間の外に出ることなんですね。そのように整理すると、現代において、なぜ「信じる」ことがこれほどむずかしくなっているのか、説明がわかりやすくなると思います。SNSが世界を覆った現代では、なにごとについても、その場その場で瞬間的な正しさにもとづいて判断し、リアクションをすることが求められている。コレクトネスはまさにそのようなリアルタイムの判断基準にふさわしいものです。けれども正義は、そもそも時間的な幅を要求する。そしてSNSはまさにその幅を消してしまう。だからぼくたちは正義の感覚を持てなくなっているし、なにごとも「信じる」ことができなくなっている。
実際、最近のぼくたちはおそろしく忘れやすい。この対談のわずか二ヶ月まえには衆議院選挙があり、小池劇場をはじめさまざまな大騒ぎがあったわけですが、早くもほとんど話題になっていない。
國分 積極的に物忘れしているような状況になっている。
東 デリダは『マルクスの亡霊たち』で、『ハムレット』の台詞を引用しながら、正義が成立するためには時間の「たがが外れること out of joint」が必要なんだと記していますね[★4]。昔はあまり意味が理解できなかったのですが、いまはすごく具体的にわかります。リアルタイムメディアで即レスばかり要求されている状態では、正義は実現できない。正義の感覚を持つためには、「いまここ」の正当性から距離を取る必要がある。これはまさに、ポリティカル・コレクトネスに支配されたネットからどのように距離を取るかという話ですね。
さきほどの繰り返しになりますが、このような意味で、デリダの議論はいまたいへんアクチュアルなものになっていると思います。
國分 まったく同感です。現実のほうが哲学に追いついてきて、抽象的な思考実験のようなことが現実に問われることになった。ぼくもじつはポリティカル・コレクトネスを叫ぶひとたちの単純さにはうんざりしている。正義は目のまえの確実な証拠によって行うのではなく、いつか実現されるものとして「信じる」対象でしかありえないはずです。現在は、情報が溢れているという意味では正義の条件が整っているように見えますが、もっと大事な条件である「信じる」ことが切り崩されているのでは意味がない。
東 むしろいまや、溢れた情報を恣意的に並べ、自己肯定的な正義を振りかざす人々ばかりが目立ちます。ネトウヨはまさにそういうかんじです。
國分 ハイデガーふうに言えば、コレクトネスはジャスティスの頽落形態なのかもしれません。
東 時間を超えた正義の存在をどう信じるか、信じさせるか。むずかしいですね。
國分 むずかしいから、みなコレクトネスに逃げる。そして「いまここ」で他人にどう解釈されるかに怯えながら生き、ますます「いまここ」で正しさが判明するコレクトネスにすがるようになる。コレクトネスが勝ちつつある状況は、「信じる」力が失われたことの必然的な帰結ですね。
東 そしてそれは、主体が失われ主権が失われることともつながっている。「いまここ」のデータの連続しかなくなってしまった世界で、時間を超えた主体や正義をふたたびどう立ち上げるかが問われているわけです。(つづく――全篇は『新対話篇』でお楽しみください)
2017年12月10日 東京、VOLVO STUDIO AOYAMA
構成=峰尾俊彦+編集部
注・撮影=編集部
本対談は、2017年12月10日にVOLVO STUDIO AOYAMAで行われた公開対談「いま哲学の場所はどこにあるのか」を編集・改稿したものである。
★1 スペイン北東部カタルーニャ自治州で2017年10月1日に実施された同州のスペインからの独立を問う住民投票のこと。投票率は有権者の過半数を割ったものの、賛成多数という結果を受けて州政府が独立宣言を行なった。しかしスペイン政府は選挙自体が憲法違反であるとして同州の自治権を停止し、独立宣言は事実上破綻した。
★2 デリダ『他の岬――ヨーロッパと民主主義』高橋哲哉、鵜飼哲訳、みすず書房、1993年所収。
★3 國分は2012年から13年にかけて、玉川上水遊歩道や小平中央公園の雑木林を分断する都道小平3・2・8号線建設計画の見直しを求める「小平都市計画道路に住民の意思を反映させる会」の活動に協力し、雑木林で「森の哲学講義」を開催する、中沢新一の「グリーンアクティブ」 と連携を取るなどのコミットを行った。運動自体は署名活動から住民投票にまでこぎつけたが、投票直前に住民投票条例が改定され、投票率が五割に満たない場合は開票を行わないことが決定される。結果として開票は行われず、計画の見直しは行われなかった。この運動の経緯は國分功一郎『来るべき民主主義――小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』(幻冬舎新書、2013年)としてまとめられているほか、『グリーンアクティブ公式サイト』内の「小平都市計画道路328号線建設問題まとめ」などでも読める。
★4 デリダ『マルクスの亡霊たち』、増田一夫訳、藤原書店、2007年、61–62頁。
ソクラテスの対話をやりなおす──


國分功一郎
1974年生まれ。哲学者。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。現在、東京大学総合文化研究科・教養学部准教授。著書に『スピノザの方法』(みすず書房)、『暇と退屈の倫理学』(太田出版)、『ドゥルーズの哲学原理』(岩波書店)、『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)『原子力時代における哲学』(晶文社)など。

東浩紀
1971年東京生まれ。批評家、作家。ZEN大学教授。株式会社ゲンロン創業者。博士(学術)。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。





