弓指寛治個展「ダイナマイト・トラベラー」の旅|飴屋法水+弓指寛治+上田洋子

初出:2019年4月19日刊行『ゲンロンβ36』
2019年3月2日から17日、東京墨田区のシープスタジオで、弓指寛治の個展「ダイナマイト・トラベラー」が開催された。弓指はゲンロン新芸術校第1期の金賞受賞者で、母の自死をきっかけに、自死や慰霊をテーマに制作を続けている作家である。昨年(2018年)4月に五反田アトリエで開催された展示「四月の人魚」では、彼は1980年代のアイドル・岡田有希子の自死をとりあげた。この展示は、死をテーマにしつつも、ひとの「生」について深く考えさせる内容で、美術愛好家にとどまらない広い層から支持を得た。なお「四月の人魚」については、『ゲンロンβ』25・26号に掲載した中森明夫氏、弓指、編集長東浩紀による鼎談「ひとが『神』になったとき」で紹介しているため、記憶されている読者も少なくないだろう。
「ダイナマイト・トラベラー」で描かれているのは、編集者である末井昭氏の母・富子さんの自死の物語である。末井氏は昨年12月に『自殺会議』(朝日出版社)という、家族や近親者が自殺してしまった経験を持つ人々へのインタビュー集を刊行している。末井氏はこの本の企画中に弓指の「四月の人魚」を知り、彼にインタビューを申し込んだ。いっぽう弓指は、末井氏が子どものころにダイナマイトを使って恋人と心中したという、彼の母のドラマティックな自死の話に興味を持った。そして末井氏とともに、かつて彼が母親と暮らしていた岡山を訪れて、その経験をもとに今回の展示を作ることになったのである。
弓指は、今回の展示、そしてこの展示直前の2月に東京・青山の岡本太郎記念館で行われた特別展示「太郎は戦場へ行った」の両者において、飴屋法水の演劇「スワン666」(2018年)に影響を受けたと語っている。ここに公開するのは、その飴屋が「ダイナマイト・トラベラー」に寄せた感想である。
わたし、上田洋子はゲンロンで新芸術校の運営を担当している。新芸術校では、年度の後半に4つのグループ展示を行い、年度末にはさらに最終成果展を実施している。これらの展示では受講生は作品を完成させ、専門家の講評を受ける。展示はまた、彼らの作品が一般の観客の目に触れる機会ともなっている。飴屋には2017年よりこのグループ展の講評をお願いしている。作品やテーマと向き合う作家の姿勢を鋭く問う飴屋の真摯な講評には、飴屋自身の作家としての矜持が透けて見え、わたし自身、講評の対象ではないのに背筋の伸びる思いをすることがしばしばある。
2019年3月2日(一般公開は3日)から10日にかけて新芸術第4期の成果展「ホーム・ランド」が行われた。この展示について、わたしは飴屋とメッセージアプリでやりとりをした。そのなかで、成果展と同時に始まった弓指の展示にも話がおよんだ。その深い洞察に感銘を受けたわたしは、ぜひ飴屋の感想を読者と分かち合いたいと思い、この原稿を構成することにした。以下は、飴屋とわたしのやりとりから、弓指の展示についての感想を中心に構成し、さらに飴屋による追記を付したものである。追記は「ホームランド」に関するもので、ふたつの展示をとおして、飴屋の「家族」という問題意識が浮き彫りになっている。
なお、作品写真を提供してくれた弓指にキャプションの確認を依頼したところ、確認と同時に自作についてのていねいな補足説明を送ってくれた。こちらもあわせて掲載する。飴屋とはメッセージ、弓指とは校閲上のやりとりなので、一部口語的な部分が残っているが、あえてそのままにした。
人間の生と死を描くこと、家族の問題、そしてアーティストとして生きるとはどういうことなのか。展示を見ていないかたにも、テキストのかたちで追体験していただければ嬉しく思う。(上田洋子)
上田さん、弓指くんの展示凄く良かったです。志賀理江子さんを誘って一緒に行きました。
――東さん(東浩紀)もツイートしていたけれど[★1]、弓指くんは美術家であるだけでなく、思想家だと言えると思います。生と死というベタなテーマにがっつり取り組む姿勢は、最近のアーティストにはなかなか見られなかったものかもしれません。
はい。そして何より、開かれた広い間口でそれを体感させる力が素晴らしいです。最後の部屋に到達した時の至福感たるや!

[弓指コメント] 画像上部の《梅の花》という作品は末井さんから送られてきた富子さんの写真(2枚だけ残っている)をもとに描きあげた作品です。一番初めに描いた富子さんの絵ですが、これを描いているときに「僕は生前の富子さんのことは知らないんだ」と強く意識し、腹をくくって制作していこうと思うようになりました。 あくまで僕は富子さんのことを知らないヤツという立場から富子さんや恋人の霊司さんの心中を扱うんだ、と、これ以降に描く富子さんは似顔絵ではなく、ガンガン想像していって顔もどんどん変わって、キャラクターのようになっていくぐらいがいいだろうと思いました。だから最後の《エデン》にいる富子さんと最初の《梅の花》の富子さんの顔が全然違います。




[弓指コメント] この《朝焼けのまち》は、僕が岡山旅行に行ったとき、一泊目のホテルから見た風景です。さらに正確にいえば、末井さんが写真に撮ってツイッターに上げていた画像をもとに描いています。でも、画面下の山陽本線や道路や車などは、僕の記憶をもとに想像で描き足しています。

[弓指コメント] これは《初盆》というタイトルのドローイングです。やはり旅行一日目に見たもので、盆踊りの会場となったお寺に装飾された提灯を写真に撮って描いています。この地域の風習なのか、提灯の下に短冊のようなものが吊り下がっていて、そこには故人の名前が俗名で書かれていました。初盆を迎える家族の人達が飾った提灯で、故人と生者が盆踊りを通してけっこう物理的に繋がっているんだな、と思いました。実際の踊りも祭というよりは儀式に近い静かな感じでした。人間が家を成すのも、また家から追い出されるのも、欲望が核にある。生命を生む、生殖へと至る欲望。他人への性の欲望ですね。 それは家を生み、家庭を生み出すと同時に、不貞も生む。欲望が婚姻に結実すれば祝いとなる。けれども不貞となれば、それは呪いとなる。そしてふたりは町から山へと追われてしまう。 しかし、実は家庭を産むのも不貞を産むのも同じ欲望ですよね。 手とともに、目もこの物語のモチーフでしょう。山を向くふたりの目線の違い。 ダイナマイトを握る女の家の玄関から外を見ると、そこは直接山中の森に接続している。男は女が入った山を遠くから見て、彼女を追う。








[弓指コメント] 絢子ちゃんの絵を見せてもらった経緯は、旅行中に僕が芸術家だと知り、孫の絢子ちゃんの絵を見て指導してもらえばいいんじゃないか、と考えた清美さんが絢子ちゃんにその旨を伝えたところ「じゃあこの絵とこの絵」と彼女が選び、それを僕が見ることになりました。僕と末井さんは絵を見てビックリして「最高にイケてます! なにも言うことありません!」と清美さんに話しました。そうしたら清美さんはちょっと残念そうでした。たぶん、僕があれこれ改善方法などを言って、それを絢子ちゃんに伝えたかったんだろうと思います。孫を想うおじいちゃん心っていうか。


[弓指コメント] 末井さんは母親の心中を機に、村から逃げるように都会へ出てきました。若い末井さんはキャバレーで働きながら、特殊な経験を武器にして、「表現者」になりたかったそうです。しかしその方法がわからず悩んでいたとき、70年の大阪万博が始まりました。万博のシンボルとなった岡本太郎《太陽の塔》人気に便乗したイベントをうちたいと考えたキャバレーのオーナーが、末井さんに「太陽の塔と対になるようなシンボルみたいなの作ってよ」と依頼。そこで思いついたのが男性のシンボルを塔にした「チンポの塔」を作るというアイデアでした。末井さんとしては、はじめて自分の表現が出来ている! という充実感があったそうです。自信満々で完成品をオーナーに見せると、「リアルすぎてこんなの飾れないよ」と亀頭部分に風呂敷をかけられ即バックヤード行き。 この挫折から「表現者」になることを諦めた末井さんはのちにエロ本の編集者として成功し、自伝エッセイ『素敵なダイナマイトスキャンダル』を書くようになります。僕はこの話を末井さんから聞いて「チンポの塔」はキャバレーのあった池袋なんかには絶対建たないと思っていました。どう考えても末井さんの「チンポの塔」は岡山の山奥に建てるべきだし、太陽の塔と対になる、というには若い末井さんと太郎が関係なさすぎるとも思いました。そこで敏子賞をもらい、先日岡本太郎記念館で「岡本太郎の遺志を継ぐ」ことをテーマに展示をしてきた僕なら、末井さんと岡本太郎を繋いで《チンポの塔》を描けるだろうと考え、岡山の山奥に本家《太陽の塔》の赤い模様を引用した《チンポの塔》を建てた絵を描きました。 僕が会場にいて説明しないと誰にもわからないような、しょうもないギャグ作品のつもりで作ったのですが、椹木さんの解説でホントに《太陽の塔》と対になっていて、生と死と性を巡る展覧会の末尾にこの作品があるのは必然性がちゃんとあることを知って、僕が一番ビックリしました。そして、この至福の部屋を出てもう一度、山から見下ろす町の風景を見た時(図5)、それは限りなく美しい風景のように見えた。 ――まったく違う他人の子ども、というのは、《デメキン》を描いていた絢子ちゃんのことでしょうか? はい、そうです。絵筆を持つという「交配」で、子どもができたんですよ。 そしてこれは、先日の新芸術校成果展「ホーム・ランド」[★3]から繋がるテーマとして考えています。 「ホーム・ランド」のふたつの会場のうち、五反田アトリエでの展示は、グループ展として強かったです。青木美紅さんと國冨太陽さんの、ともに母をテーマとするふたつの作品がふたつの部屋として対になっていて、面積もほぼ同じで。「ホーム・ランド」内の「リビングルーム」、あるいは「居間」とタイトルをつけたくなるような展示でした。「生きる」のリビングであり、「居る」の居間です。 ふたつの部屋は強い対照性をなしていて、かたや殺伐とした居間に、男だけが居た。かたや夢幻的な(?)居間に、女だけが居ました。


かつて、リビングルームは通夜の際に棺を置くので、デスルームとも呼ばれていた。ソファに座り、父親が撮影していたビデオを手にするしかないことで、なかば強制的に父と息子にダブらされた鑑賞者の尻の下に、偽の母親が納められている。しかし、その暴力性は、これが「偽名」を使ったフィクションである限り、生きている他者である実際の母親を観客に忘却させ、巧みに回避されている。「偽の母親」への暴力は、ここには居ない「母親」への切実な希求の反転のようにさえ映る。しかしその「偽名」とは、実は母親が「実際に仕事で使用してるペンネーム」であるという。多くの女性が担う家父長制における名字の「偽名」性のことも思うと、これはかなり複雑な作品だと思いました。父親が消えた家庭で飼われている猫。さらりと出てくる親のまた親(祖母)。交差点の信号の青の連呼による偽の青空。どの要素も無駄なく効果をあげていた。自分が講師を担当した回に高い点数をつけた青木さんが突出しているかと思いきや、ふたつの居間は五分五分の力で張り合ってました。
気になったのが、どちらの部屋にも見えたクローン性のようなものです。 母親が不在の國冨さんの部屋で、かつて演劇をやっていた國冨さんの父親と、逆回転する戯曲でそれをなぞる息子。青木さんの部屋ではクローン性はより顕著です。あくまで人工授精で生まれており、クローンではないにもかかわらず、なぜ、青木さんの居間に父親は不在なのか? 男性がまるで透明化しているのはなぜか? 哺乳類の女性である青木さんが生殖と向き合ったとき、母親の子宮の中に自分が居て、自分の中にまた子宮がある。そのような反復(の恐怖?)を示すテーブルの上の「マトリョーシカ」(しかし観客の中に男性もいる)。腹の中に偽の母親を納めた國冨さんの偽の棺桶=「ソファ」に座らされた偽の父子=観客(しかし観客の中に女性もいる)。いずれにせよ、それらは圧倒的に、男性と、女性の、ふたつのリビング=居間でした。グループ展として非常にショッキングでもあり考えさせられるものでした。
さて、「ダイナマイト・トラベラー」に戻りますが、最後のあの部屋は、そう、家族の部屋です。 弓指くんは、毎回1枚だけ、虚構性の低いポートレートのような写真をもとにした絵を入れています。そしてどうやら本人は意識していないようですが、ポートレートになると、なぜか「取り違え」のようなものが起きるんです。岡田有希子さんを扱った2018年の展示のときは、岡田さんの母親が抱く娘の顔が弓指くんの顔でした。娘を失った母親が、母親を失った息子を後ろから抱くという「肖像」になっている。兵役についた岡本太郎のポートレートでは、太郎と(死んでいるかもしれない)同僚の顔を弓指くんは取り違えた。そして今回、弓指くんは富子さんの後を追う霊司さんでもあり、母親の後を追う末井さんでもあるわけですが、さりげなく置かれた末井さんとふたりで写ったポートレートの中で、弓指くんは末井さんの少年時代の顔になり、末井さんの息子でもありました。ここに「家族」がいる、ある、そう思いました。 僕は、東さんのいう家族の拡張、例えば3月の千葉雅也さん、三浦瑠麗さんとのイベント[★4]でも話題に上がっていた「養子」とは、このような、いわば「取り違え」までを含むと思いました。この、作家自身も無自覚な「取り違え」を呼び寄せること、それこそ弓指くんの芸術の真骨頂ではないか、僕はそう思います。 そして、狭い意味での家族を守る(?)町、不貞を噂し、糾弾するような町の人々の踊る手が、あの部屋にあったこと、その部屋に狭い意味ではない「家族」が本当に、確かにあることが、確かに「あった」と感じられたことが、そしてそれを見た、目で、もう一度、山の隙間の町を見る……見るためには、再度、山を見るふたりの後ろ姿の間を通らなければなりませんが……その往復の旅は素晴らしく強い体験でした。 生き物は、そもそも、生殖によって生まれますよね。その生殖が、クローンではなく、遺伝子のシャッフルであるがゆえに、異性に、別れる。 その異性が、異なる他者への欲望の形で、惹かれ合い、繋がる。そこがそもそもの、宿命というか、それは本当に、祝いであり、呪いでもあると思うんです。
本当に根元的な問題です。 そして、けもの以上に、人間の場合は、やっかいです。
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さて、ここから先は「追記」として書き足します。 僕は昨年度の新芸術校に招かれた外部講師として、青木美紅さんの作品に高い点数をつけ、彼女は最終展示への出展作家となりました。直後、今回のように上田さんに、ちょっと差をつけすぎたかもしれない、作品のクオリティは群を抜いていたが、ステートメントに違和感があった、彼女のステートメントは、本当に彼女の表現を、彼女の欲望を捉えているんだろうか? というようなメッセージを送りました。 今回、既知の方も多いと思いますが、金賞選抜の際の最終審査にて東さんから、優生保護法のドキュメント出演者の方の映像を作品化する上で、許可を得ていないのではないかという指摘がありました。これが議論となり、結果として、その部分は必ず許可を得る、それまでは公開しないという条件つきでの金賞となりました。 東さんは、これは単に許可の問題ではなく、芸術家としての倫理の問題であると指摘しておられた。青木作品を推した僕としても、この経緯は他人事ではありませんでした。 改めて青木さんに講師の立場から何かを言うとしたら、僕は、これから許可を得て、その部分を公開することで、あの展示が「完成」されるとは思えなかった、ということです。優生保護法というテーマは、作品化の対象とされた方は、本当に青木さんの問題意識の対象だったのでしょうか? 青木さんが、作品が、本当に必要としたものだったのでしょうか? そこを突き詰めて欲しい。僕には青木さんの作品に内在する欲望は、(今回もまた)書かれたステートメントとは異なるところにあるように思えてならないんです。許可以前に、コンタクトをとりながら、その人と関わりながら作品をつくるという発想(=欲望)にすら至らなかったことの最大の要因は、そこにあるのではないか?[★5]東さんが倫理と言うのは、簡単に自分の背景や材料にはできない、他人、というものといかに関わるか、ということだと思います。自分の例で恐縮ですが、僕の経験の中でも、ご夫婦で経営している施設で起きた人身事故についてテキストを書き、ご夫婦の許可を得て印刷までしたものの、息子さんが異を表明し、すべて書き直したこと、また交通事故で脳に障害を負った息子さんのことをテキスト化する上で、ずっとケアし続けたお母様の判断と、本人から自身が選んだ写真を託された、そこに基づき進めたものの、妹さんが快く思っていないと感じたこともありました。
他人でありながら家族である、家族でありながら他人である、という問題は、かようにやっかいな問題だと思います。しかし、この意思決定の難しさ、もっと言えば、意思というものの根本的な不完全性、それを絶えず感覚しながら生きるということこそ、家族というものが個にもたらすいちばんの恩恵、複雑な恩恵のように思えてならない。 構成・注・図版解説=上田洋子 撮影(図17・図18を除く)=水津拓海(rhythmsift)
★1 東浩紀が2019年3月10日に投稿した「弓指くんにはもはや哲学者の風格があった。」というツイートを指す。
★2 弓指によると、この展示を訪れた椹木野衣が、太陽の塔について、女性が足を開いて出産している場面で、子宮から子どもが顔を出している、という新解釈について語ってくれたという。弓指は岡本太郎現代美術賞の2位にあたる敏子賞の受賞者で、この展示の直前に青山の岡本太郎記念館で太郎をモチーフにした特別展示「太郎は戦場へ行った」を行なっており《チンポの塔》では太陽の塔が意識されている。
★3 ゲンロン新芸術校第4期の最終選抜成果展「ホーム・ランド」は2019年3月3日から10日まで、五反田アトリエと gallery 201 のふたつの会場で一般公開された。成果展は選抜式で、前年の9月から12月にかけて行われた4つのグループ展がその選考会を兼ねた。飴屋が審査にかかわったグループBでもっとも高い評価を得た青木美紅のほか、國冨太陽、アイコン、浦丸真太郎、NIL、F・貴志の合計6名が「ホーム・ランド」に参加。そのうち青木と國冨が五反田アトリエ、アイコン、浦丸、NIL、Fが gallery 201 で作品を展示した。この最終成果展では、本文中でも述べられているとおり、インスタレーション作品《1996》を出品した青木が条件つきで金賞を受賞した。新芸術校のプログラムは以下の公式サイトを参照。URL=https://school.genron.co.jp/gcls/gcls-2018/
★4 2019年3月9日に、ゲンロンカフェにて行われたトークイベント、千葉雅也×三浦瑠麗×東浩紀「『21世紀の戦争と平和』&『欲望会議』刊行記念イベント」のこと。同イベントでは「家族」という概念の拡張可能性が議題のひとつとなった。
★5 青木美紅の《1996》は大幅にアップデートされて、あいちトリエンナーレ2019に出品された。青木は新芸術校最終講評会で、作品に登場させたのに連絡を取っていないことが問題となった小山内美智子氏に会いに行き、彼女の活動を作品に取り入れる承諾を得た。あいちトリエンナーレ版《1996》では、みずからも生まれつきの脳性麻痺で障害を抱えながらも、旧優生保護法と戦って出産し、また、障害を持つひとの自立を支援するNPO「札幌いちご会」を立ち上げた彼女の活動が、クローン羊のドリーや青木自身の抱える人工授精の問題とともに展開されている。


飴屋法水
1961年生まれ。演出家・劇作家。1978年、唐十郎の「状況劇場」に参加。1983年「東京グランギニョル」結成、演出家として独立。その後、発表をレントゲン藝術研究所など美術の場に移す。1995年にアニマルストア「動物堂」を開業、動物の飼育と販売に従事しながら、「日本ゼロ年」展(1999年)などに参加。2007年、平田オリザ作「転校生」の演出で演劇に復帰。2014年、『ブルーシート』で岸田國士戯曲賞受賞。著書に『彼の娘』(2017年)など。

上田洋子
1974年生まれ。ロシア文学者、ロシア語通訳・翻訳者。博士(文学)。ゲンロン代表。早稲田大学非常勤講師。2023年度日本ロシア文学会大賞受賞。著書に『ロシア宇宙主義』(共訳、河出書房新社、2024)、『プッシー・ライオットの革命』(監修、DU BOOKS、2018)、『歌舞伎と革命ロシア』(編著、森話社、2017)、『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』(調査・監修、ゲンロン、2013)、『瞳孔の中 クルジジャノフスキイ作品集』(共訳、松籟社、2012)など。展示企画に「メイエルホリドの演劇と生涯:没後70年・復権55年」展(早稲田大学演劇博物館、2010)など。



