北のセーフイメージ(2) 多重化するアイヌの肖像|春木晶子

シェア

初出:2020年6月26日刊行『ゲンロンβ50』

第1回
第3回

安心と恐怖のリバーシビリティ


 江戸時代にアイヌを描いた作例をもとに、蝦夷地支配の観念が疫病退散の観念と切り離せない仕方で流布していたことを見てきた。アイヌは厄災や疫病をもたらす鬼門/北東/蝦夷地の住人であり、おそれの対象であった。和人にとってアイヌを支配することは、厄災や疫病をもたらす鬼門のおそれを取り除き、安心を導くことに通じていた。

 ここまでに挙げた作例は、和人とアイヌの優劣や支配被支配関係を明白にあらわし、アイヌが疫病とともに支配される様をわかりやすく見せるものであった。

 しかし、松前藩士蠣崎波響はきょう(1764-1826)による12人のアイヌの肖像画《夷酋列像いしゅうれつぞう》[図1]は、これまで見てきた作例とは大きく異なる。そもそもこの絵には和人が描かれないので、和人とアイヌの優劣や支配被支配関係は、明示されてはいない。そのうえ描かれたアイヌの酋長たちは、おそれや支配の対象というよりはむしろ、尊敬や賞賛の対象というべき威厳ある姿で並び立てられている。

【図1】蠣崎波響《夷酋列像》(1790年、ブザンソン美術考古学博物館所蔵)
 

 しかし、この絵ほどにアイヌをおそれ、おそれを安心へと変えるための努力が注がれた絵は他にない。

 安心と恐怖は、表裏する。

 このリバーシビリティを利用して波響は、脅威をもたらす者から脅威を除ける者へと、アイヌを変転しようとした。のみならず、アイヌの蜂起という松前藩の失政を、善政へと反転することさえをも企んだ。

 不都合を覆い隠し、賞賛される物語へと、都合よく書(描)き変えていく。《夷酋列像》は、古今東西止むことのないその営みの、もっとも巧妙な在り方の一つを示している。

絵を彩る「歴史」


 波響の企みを読み解く前に、この絵の前提をいくつか確認しておきたい。

 日本にあれば重要文化財は間違いない《夷酋列像》であるが、残念ながらそれはフランスにある。その所在が明らかになったのは、ほんの36年前のことだ。

 1984年、10月26日の北海道新聞は、極めてセンセイショナルな、フランスからの特派員の報道を載せて、人々を驚かせた。
 それは「江戸時代“松前応挙”とうたわれた松前藩家老、蠣崎波響の『夷酋列像』の十一点もがスイス国境に近いフランス・ブザンソン市立博物館に収蔵されていた。」という記事で、従来、この波響の若年の代表作、アイヌの長老ら十二人を描いたシリーズは、早く現物が行方不明となっていて、わずかに残された下絵帳や、彩色の模写本によって、その華麗な原本が想像されるに過ぎなかった。
 それが、作者の歿後、一世紀半以上の今日、しかも思いかけぬ遠い西欧の山中に、オリジナルらしいものが、ほぼ完全な姿で突然に出現したというのだから、まことに劇的な事件であった。★1
 事件を契機に作家の中村真一郎は、雑誌『新潮』に「蠣崎波響の生涯」を3年に渡り連載し、波響と《夷酋列像》の存在を広く知らしめた。かねてから気がかりであった北辺の一貴人蠣崎波響と、幾度も読み返したスタンダールの『赤と黒』の舞台ブザンソンとが一本の線を結んだことは、中村にとってロマンチックな衝撃であった。彼ならずとも「フランスでの発見」は人々のロマンを掻き立て、未だ不明な渡仏の経緯はさまざまな憶測を呼び★2、絵が借り出されて日本で展示されるにおよんでは必ずその「フランス帰り」が宣伝文句となり衆目を集めた。

 だがそもそもこの絵は、渡仏のミステリーに引けをとらないドラマチックな制作経緯のために、北海道の歴史叙述では必須の事項とされてきた。

《夷酋列像》★3の序文によれば描かれた12人は、蝦夷地東部でのアイヌ民族の蜂起に際しその収束に尽力し、松前藩から「功」を認められた「蝦夷」の「酋長」たちである。

 寛政元年(1789)、蝦夷地東部の国後島と目梨地方のアイヌが悪政に耐えかねて和人71名を殺害した。松前藩は鎮圧隊を派遣するとともに、同地の有力なアイヌたちに協力を依頼した。それが描かれた12人で、彼らは蜂起したアイヌを説得し、戦いをおさめたとされる。説得に応じ蜂起したアイヌたちは出頭し、首謀者37名の処刑をもって事件は収束する★4

 藩主松前道広(1754-1832)は酋長らを讃え、「夷人」への「勧懲」とするために、弟の波響にその肖像を描かせたという。

 しかし、「夷人」がこの絵を目にしたという記録はない。この絵を眼差したのは、もっぱら「貴人」だった。

 完成の翌月、波響は絵を持って上洛する。京都で絵は多くの人士の目に触れ評判を呼び、著名な文人や公家衆の賛を得て、光格天皇の叡覧に供されるに至る。天覧を果たした絵を、少なからぬ大名が所望し、複数の模写が制作された★5

 アイヌの蜂起という一大事を契機とした絵の制作、京での好評と天覧の栄光、フランスでの発見という謎めいた行く末。歴史ドラマに彩られたその絵の魅力は、どんなところにあったのか。

「工緻精密、観者嘆絶」★6、「丹青妙麗、毫末繊巧、展観目ヲ驚ス」★7、「図像奇偉筆力精妙」★8。京都の人士たちは、こぞってこの絵の精巧さを、驚きをもって賞賛した。その驚きは、見も知らぬ蝦夷地のアイヌをあたかも目の前にしたかのような、絵の「写実」によるものであろう。「誠に蝦夷の容貌を視んと欲せば斯図に如くはなし」★9と言う平戸藩主松浦清の評と、「日本のエキゾチック・リアリズムの牙城が極まったと感銘した」★10という今日の松岡正剛の評は、そう変わるものではない。

 絵を目の前にすると、その思いがけない小ささにまずは驚く。ミニチュア細工の如き夷酋たちをあらわす絹目よりも細かい筆跡が、衣装や毛皮や皮膚や髪に、現実味をもたらす[図2]。

【図2】 《夷酋列像》より貲吉諾謁ツキノエ
 そうした効果は当時の最新の絵画技術に支えられている。第一に清朝から長崎経由で伝来した南頻派絵画の細密な写実技法を、第二に西洋の油彩画から学んだ陰影法を、波響は駆使している★11。それらはいずれも、絵があたかも現実の忠実なコピーであるかのように錯覚させる技術である。この絵を見て序文を読めば、同胞に蜂起をやめるよう説得した威厳ある酋長たちの姿が、ありありと立ち上がってくる。

 だが絵の精巧さは、歴史学者たちの批判の対象ともなってきた。この「肖像」は「実像」からかけ離れていると、彼らは言う。

 戦いをおさめた松前藩は、同地のアイヌ40名ほどを松前城下に連行し、派手な凱旋行列を行った。波響はそのときに酋長たちを見て絵を手がけた。と、考えられてきた。しかし、松前を訪れた酋長は5名にとどまり、豪華な衣装も松前藩から貸し与えられた記録があるなど、絵と史実との差異がさまざまに暴かれてきた★12

 要するに、波響は酋長たちを「実際」より豪華で立派に格好よく描いているのだそうだ。《夷酋列像》の付属文書『夷酋列像附録』★13を読むと、その演出の意図は察しがつく。

 同書によれば本作は、「麒麟閣」の故事★14に倣って企図されたという。それは、前漢の宣帝が自らの功臣11人の肖像を麒麟閣と称する楼閣に描かせたという逸話で、後世の皇帝たちもこれに倣い功臣の肖像を制作した。画論の古典である『歴代名画記』によれば、功臣の肖像は見る者への勧戒のために描かれたという。《夷酋列像》の序文で「夷人」への「勧懲」とうたうのは、これを踏まえてのことだろう。

 だが、先にも述べたようにそれが「夷人」への「勧懲」となることはなかった。描かれた功臣/夷酋たちは、貴人たちの賞賛の的となった。それは、功臣/夷酋たちが忠誠を誓う、皇帝/松前藩主の威厳を高めることに直結するものであった。だからこそ、夷酋たちの姿は決して貧弱なものであってはならず、威厳を備えた勇壮な姿がもとめられたわけだ。

 しかしそれでもなお、疑問は噴出する。例えば体育座りは、威厳ある酋長にふさわしいポーズだろうか。毛皮の靴を履かずに傍に置くのはなぜか。老婆の銀の首飾りは、伝世品と比してあまりにも大きすぎるのではないか、など。ただ単に立派に描くために演出を加えたというだけでは説明のつかない描写が、あまりに多い。

 そのひとつひとつを検討していくと、波響がこの絵に仕掛けた壮大な計画が、おぼろげながら像を結びはじめる。どうやら波響は各図に、物語の断片を忍び込ませている。そうして夷酋たちの姿に、神や英雄を重ねようとしたようだ。

疫病神から守護神へ (1)乙箇律葛亜泥イコリカヤニと大国主神


 例えば夷酋たちのなかには、おそれられる疫神に重ねられるものがある。

 厄災や疫病による国難を、それをもたらす神を祀ることで乗り越える逸話は、古くは記紀の崇神すじん天皇の代に見える。『古事記』によれば、疫病により民が尽きようとしたとき天皇の夢に大物主神おおものぬしのかみが現れ、意富多々泥古おほたたねこという人物に自身を祀らせれば祟りは止み平安が訪れると伝えたという。

《夷酋列像》のうちの一図は、この神に重ねられると考える。それは、弓矢と太刀を携え、二羽の水鳥を抱える人物。画面内に金で書かれた文字によれば、名を乙箇律葛亜泥イコリカヤニという★15「図3]。

【図3】小島貞喜《夷酋列像模写》(1843年、個人所蔵)より乙箇律葛亜泥イコリカヤニ
 彼が携える、縄に結ばれ密着する一対の鳥の下方には、奇妙な形状の黒い物体がある。獲物を入れる袋(嚢)と思われるそれは、細い紐で煙管の「雁首」にぶら下げられている[図4]。「雁首」は陰茎を指す隠語であり、そこから下がる袋は「陰嚢」の暗示と解せる。それが配される場所もちょうどよい。密着する二羽の鳥、そして巨大な陰嚢は、「男女の恋」や「子孫繁栄」を導く。

【図4】
 

 波響はこの絵の他にも、「袋」と「陰嚢」が鍵となる絵をのこしている。彼が幾度も描いた、七福神の一神、大黒天の図がそれだ。二つの俵に乗る大黒天像[図5]は男性器をあらわすといい、子孫繁栄の吉祥画として好まれた画題である。

【図5】橘守国画『絵本通宝志』五巻下より大黒天図(1730年刊、国文学研究資料館所蔵)
 

 大黒天は、インド由来のシヴァ神と記紀神話の大国主神おおくにぬしのかみが習合したもので、袋は大国主神の持ち物である。大国主神は、多くの女神とのあいだに「百八十一神」を儲けた、子孫繁栄の象徴と名高い。陰嚢を暗示する袋をはじめ、乙箇律葛亜泥イコリカヤニ図の細部には、この大国主神を想起させる描写がいくつも見出せる。

 例えば大国主神のよく知られる伝説に、根の国で須勢理毘売すせりひめと結ばれた折その父素戔嗚すさのおの試練を乗り越え、生太刀・生弓矢・天の詔琴、通称「出雲の三種の神器」を得る話がある。乙箇律葛亜泥イコリカヤニも、太刀と弓矢を携えている。加えて彼が抱える二羽の水鳥は「水禽すいきん」とも言える。その音が「きん」に通じると見れば、乙箇律葛亜泥イコリカヤニもまた三つの神器を持つと見なせる。

 あるいは大国主神はあるとき、女神の一人泥河比売ぬなかはひめを夜通しその家の前で待ち続け、鳥の鳴く声とともに朝を迎え、耐えかねて次のようにうたう★16。「心痛くも 鳴くなる鳥か この鳥も打ち止めこせね(いまいましくも鳴く鳥を叩いて鳴きやめさせよう)」。対して泥河比売は、「今こそは 我鳥にあらめ 後は 汝鳥にあらむを 命は な殺せたまひそ(鳥たちとともに自分もあなたの思い通りになるだろうから、鳥たちを殺さないように)」と返したという。乙箇律葛亜泥イコリカヤニが鳥の首をしめる所作は、この二神の相聞歌に通じる。
 先に挙げた疫神大物主神は、この大国主神と同一視される。大物主神は三輪山に鎮座する蛇神であり、三輪山の円錐形は蛇神が七巻半する姿であるとの伝承がある★17乙箇律葛亜泥イコリカヤニが脛に巻く細長い黒い毛皮は、巻き終わりの端の裏がいかにもわざとらしくめくれている。さらにそこはわざわざ目立つ赤で塗られており、それがちょうど七巻半であることに目を向けさせている[図6]。

【図6】
 

 連想を呼ぶのは、絵にとどまらない。先に述べた通り大物主神は、意富多々泥古おほたたねこという人物に自身を祀らせるよう崇神天皇に伝えた。意富多々泥古おほたたねこにも、先の女神泥河比売ぬなかはひめにも、そして乙箇律葛亜泥イコリカヤニにも、その名に「泥」の字が含まれる。本作の図に記される漢字表記はアイヌ語に漢字をあてたものとされるが、その難解な「妙な漢字を用いての表記」★18には、かねてから疑問が呈されてきた。図に表記される地名や人名は、文献には多く片仮名で記される。加えて序文の作者松前広長は、その著作で一二人の名を、本作とはまったく異なる漢字の組み合わせで記している★19。本作の図中の漢字表記はおそらく、本作のためだけにつくられたものだ。絵と神話との結びつきを踏まえると、この漢字表記は、夷酋たちを記紀神話の登場人物に擬なぞらえるために用意されたものであると思われてくる。

 以上のように、波響は乙箇律葛亜泥イコリカヤニの姿に、大国主神/大物主神を導く逸話をねじ込んでいる。《夷酋列像いしゅうれつぞう》の不可解な描写の数々は、このように考えると説明が可能となるのではないか。

疫病神から守護神へ (2)乙箇吐壹イコトイと牛頭天王


 同じ見方で別の図には、帝都最大の疫神、牛頭天王ごずてんのうを見出すことができる。1000年以上続く京都八坂神社の祇園祭は、この神を祀ることで疫病退散を祈るものだ。

 アッケシの総部酋長、乙箇吐壹イコトイを見ていく[図7]。乙箇吐壹イコトイは、龍の刺繍のある蝦夷錦★20のうえに西洋の外套★21をまとい、矛を構える。彼は外套をまくりあげ、その隙間から錦の模様をこれ見よがしに見せている[図8]。

【図7】 《夷酋列像》より乙箇吐壹イコトイ
 

【図8】
 そこには、赤い珊瑚に赤と青の玉が配され、胸元の龍もまた手に玉を掴んでいる。珊瑚と玉、そして図中の漢字表記に含まれる「乙」の字は、浦島太郎の物語や、それを描く図のモチーフを喚起する[図9]、[図10]★22

【図9】 《浦島太郎至竜宮乙姫ニ見る体》(江戸時代、舞鶴市所蔵)
 

【図10】 魚屋北渓画《摺物(龍宮)》(1829年、舞鶴市所蔵)
 

 浦島太郎の物語は、江戸時代には多数の二次創作的な作品がつくられるほどに定着し、多様に造形化された。例えば、錦絵「五十三次之内 四日市桑名」[図11]では、浦島太郎に擬えられた人物の腰からは細い紐がばらばらと垂れ下がっている。これは浦島太郎の記号でしかなくなった「腰蓑」であり、乙箇吐壹イコトイの外套に施される金の装飾[図12]が、これに通じる。また錦絵の左に描かれる女性の衣装には龍宮の玉の模様が全面に描かれており、乙箇吐壹イコトイの錦に描かれる玉がやはり浦島太郎の物語の記号であることを示している。

【図11】三代歌川豊国《五十三次之内 四日市桑名》(1854年、舞鶴市所蔵)
 

【図12】
 

 本図に牛頭天王が見出せると言いながら、浦島太郎の話を挙げたのは、この神が龍宮と関わるためだ。その異形のために妃を迎えられなかった牛頭天王は、龍王の娘を娶るために龍宮を訪ねたという。その途上で一夜の宿をもとめ、金持ちの小丹長者に断られたのち、貧乏な蘇民将来の厄介となる。そうしてこの神は、蘇民将来とその子孫には厄災や疫病をもたらさないことを約束した。他方で宿を断った小丹長者の一族は、この神の98000の従者たちにより七日七夜のうちに滅ぼされたという★23。これは、今も京都を歩くと目にする「蘇民将来子孫」の護符の起源譚として広く知られる説話である。

『夷酋列像附録』――この文書には12人のキャラクターガイドブックと呼べるような要素がある――の乙箇吐壹イコトイの記述からは、牛頭天皇とのさらなる重なりを見出すことができる。乙箇吐壹イコトイは、「常ニ長矛ヲ横ヱ」た「容貌異奇」の人であり、「鼻上ニ𩭍毛アリ 」、すなわち鼻の上にまで毛が生えているという。絵はその記述に従い矛を携えるとともに、毛の表現を伴った長く高い鼻を特徴的に描いている。先に述べたように、牛頭天王もまた異貌で知られ、八坂神社とならびこの神を祀ることで名高い尾張の津島神社には、「鼻長大神」が牛頭天王の異名として伝えられる。そして同社の牛頭天王の神体は、「神矛」である。
 さらに牛頭天王には仙女西王母の子であるとの伝承がある。《夷酋列像いしゅうれつぞう》唯一の女性像、窒吉律亜湿葛乙チキリアシカイは西王母に重ねられており(これついては後に詳述する)、その図には彼女が乙箇吐壹イコトイの母であると記述されている[図13]。

【図13】
 

 龍宮と関係を持ち、鼻を特徴とする異貌であり、矛を象徴とし、西王母の子である。以上の牛頭天王にまつわる逸話が、乙箇吐壹イコトイ図には散りばめられている。

 波響は二つのアイヌの肖像に、おそれられる疫神たちの姿を重ねている。不自然なポーズや所作、過剰な装飾を伴う衣装や難解な漢字表記は、各図に神話に連なるモチーフを導入するための描写に他ならない。

夷酋のアンビヴァレンス


 では、なぜこのような重ね合わせを行う必要があったのか。

 繰り返し述べてきたように、アイヌがおそれの対象となった背景には、厄災や疫病が鬼門/北東/蝦夷地からもたらされるという古代からの信仰があった。平和な江戸時代、アイヌが多数の和人を殺害するという出来事が、もとよりそうしたおそれの地の、よりによって東の果てで起きた。それはアイヌへの、そして、鬼門へのおそれをますます増幅させる出来事であったに違いない。

 実際に松前藩はその統治能力を問われ、後には梁川(現在の福島県伊達市)へ転封され、蝦夷地の統治権を一時的に失うこととなる。事件の直後の彼らは、失政の穴埋めに躍起になっていたことだろう。

 絵は、そうした状況でつくられた。波響はそこで、アイヌの蜂起を和人が鎮圧し制圧するというイメージを安直に描くことはしなかった。かわりに採用したのは、蝦夷を以て蝦夷を制す、すなわち、アイヌによる蜂起がアイヌによっておさめられたという史実あるいは物語であった。

 先に見たように、序文と付属文書によって夷酋たちはすでに、アンビヴァレントな在り方を押し着せられていた。夷酋たちは、蜂起を起こした者たちと同族でありながら、松前藩の「功臣」でもある。すなわち、和人の敵でありながら、同時に味方でもあるという両義性を付与されていた。

 そして絵は彼らを、反転構造を備える疫神に重ねる。すなわち、疫病や厄災をもたらす者でありながら、それを除ける者でもあるという両義性が付与された。敵にまわせばおそろしい祟り神は、味方につければこのうえなく心強い守り神となる。蝦夷の蜂起という脅威の元凶でありながら、同時にその蜂起をおさめる救世主でもあるという夷酋たちの両義的な在り方は、神の反転構造を付与されることで、より強固なものとなる。

 アイヌの蜂起のみならず、鬼門がもたらすあらゆる厄災や疫病を除けることをも、夷酋たちは請け負ったようだ。すなわちこのセーフイメージには、鬼門守護の魔術が周到に施されている。

鬼門の守護者たち


《夷酋列像》は、一二枚一揃いの絵である。したがって各図は、独立して個々の神と結びつくばかりではない。いくつかの図は緊密に連携し、それによってより強固な守護の力を発揮する。

 現状では各図がばらばらの状態となっている《夷酋列像》であるが、もとは図1の通りに順序が定められていたと考える(これついても後に詳述する)。ここで注目したいのは、右から3番、4番、5番目となる、貲吉諾謁ツキノエ贖穀ションコ、先に見た乙箇吐壹イコトイの三図[図14]である。

【図14】
 

 毛皮を敷いた椅子に腰掛ける堂々たる貲吉諾謁ツキノエの姿は、『三国志』の英雄、関羽を描いた図を喚起する[図15]。漢籍の『三国志』や『三国志演義』は知識人や武士の必読書であった。加えて『通俗三国志』(1689-92年刊)の翻刻刊行以降続々とつくられた出版物や歌舞伎や浄瑠璃、祭礼や節句行事の造形物などを通して、この物語は江戸時代の人々の暮らしのなかに浸透していた★24

【図15】歌川国芳《小倉擬百人一首》(1846年頃、国立国会図書館所蔵)
 

 なかでも人気を博した関羽はとりわけ頻繁に造形化された英雄で、『通俗三国志』の形容――「身の長九尺五寸、髯の長さ一尺八寸、面は重棗の如く」「相貌堂々威風凛々」――に基づく、巨大な体躯で長い髯をたくわえるなつめのような赤ら顔を知らぬ人はなかった。

 貲吉諾謁ツキノエは、『夷酋列像附録』でその「功最も大」とされる、本作の主役と呼べるような人物だ。同書の、「六尺余」の長身で「眉目秀麗」という形容は、先の関羽の形容に通ずる。その華麗な出で立ちを決定づけるのは、赤い錦と、そこに施された赤い龍の刺繍である。先に見た通り、赤は関羽のトレードマークである。加えて名前の漢字表記にある「貲」は「財」の意を持ち、これも財神と崇められた関羽を思わせる。

 関羽は単独で描かれるのみならず、劉備、張飛と並んだ三人一組、通称「桃園三傑」[図16]でもよく描かれた。『三国志演義』の冒頭で三者は、桃園にて義兄弟の誓いを交わす。「桃園結義」と題されたこの名場面や「桃園三傑」を描く絵は数多く伝えられ、美人や力士、役者が演じる侠客などを三者に擬えた「見立桃園三傑図」も盛んにつくられた。見立て絵も含め、「桃園三傑」を描くときには、中央の劉備の両脇左右を関羽・張飛が固めるという配置が定型である。

【図16】歌川国貞《桃園三傑図》(1825年、シカゴ美術館所蔵)
 貲吉諾謁ツキノエ贖穀ションコ乙箇吐壹イコトイも、この「見立桃園三傑図」の一つに数えられるのではないか。

 貲吉諾謁ツキノエを関羽と見なすなら、矛を持つ乙箇吐壹イコトイは、ただちに「蛇矛」の使い手張飛に結びつく。先に、乙箇吐壹イコトイは牛頭天皇に重ねられると見た。張飛の容貌は『三国志演義』では「豹頭」と形容される。これを踏まえると、牛頭と豹頭という類似する形容の言葉遊びが浮かび上がってくる。

 また贖穀ションコの腰を屈める体勢は、劉備をあらわす一つの記号とみえ、桃園三傑を描く絵で劉備はよくこのポーズをとる[図17]。贖穀ションコの耳もまた、劉備の「肩に垂れ」る耳(『三国志演義』)に、また、画中の漢字表記に含まれる「訥」の字も無口な劉備(「語言少なく」『三国志』)に通じる。

【図17】芝山細工《桃園三傑図象嵌額》(19世紀、東京国立博物館)
 

 三人の夷酋たちは、「桃園三傑」に重ねられる。それは彼らが強くて格好いい人気の英雄だから。というだけでは、おそらくない。波響は「桃園三傑」と鬼門守護との結びつきを、この絵に内包させたようだ。

 どういうことか。注目すべきは、彼らが義兄弟の契りを結ぶ場所、桃園である。桃は魔除けの力を持つとされ、和漢の神話伝説に頻繁に登場する仙果である。とりわけそれは、鬼門の守護と関わる。古代の『山海経』に、次のような一節がある。

 東海の度朔山には、三千里にわたって枝葉を伸ばす桃の大樹があり、その枝間の東北を鬼門といい、万鬼の出入りするところであった。そこに二人の神、神荼しんと鬱塁うつるいがいて、悪鬼を見つけては葦索で捉え、虎に食べさせていた。これを知った黄帝が札をつくって悪鬼を駆り、大桃人と呼ばれる人形を立て、門戸に神荼・鬱塁・虎を画いた。


 これは、中国で陰暦元旦に門にかかげる魔除けの札「桃符」の起源譚とされる★25。薄い木の板に門神の鬱塁・神荼を描く桃符は、やがて木の板から紙へとメディアを変えた。歴史上のさまざまな英雄が門神を務めながら、その慣わしは継承された。今日なお中国では、春節に門神の絵を門戸に貼る魔除けの風習がある[図18]。

【図18-1】「普通民家の門と門神」(永尾竜造『支那の民俗』、磯部甲陽堂、1927年より)
 

【図18-2】「門神」(永尾竜造『支那の民俗』、磯部甲陽堂、1927年より)
『三国志』の「桃園結義」は、この鬼門守護の伝説と無縁でない。少なくとも蝦夷地にはそう考えた人がいたようだ。蝦夷地北東部、すなわち鬼門のなかの鬼門に位置する北海道オホーツクの斜里神社には、江戸時代に奉納された絵馬が一枚だけ伝わっている。文久二年(1862)奉納のその絵馬は、「桃園三傑」を描くものだ[図19]。波響もまた、《夷酋列像》の三者を「桃園三傑」に重ねることで、鬼門守護の魔力をこの絵に付与したと考える。

【図19】《桃園結義絵馬》(1862年奉納、知床博物館提供)
 

 それにとどまらず三者は、『山海経』で鬼門を守護する黄帝と門神にも重ねられると考える。注目すべきは、先に劉備に重ねられると見た贖穀ションコである。波響は本作の制作にあたり、仙人の図像集『列仙図賛』を参照した(これについても後に詳細する)と見られ、贖穀ションコはその「黄帝」図[図20]を反転した体勢をとる。贖穀ションコの錦に描かれる黄色の龍も、黄帝が従えた黄龍に通じる。

【図20】月僊画『列仙図賛』(1780年刊、国立国会図書館所蔵)
 

 黄帝は中国古代の三皇五帝の一人に数えられる伝説の皇帝で、「蚩尤しゆう」を征伐することで中華を統一した。劉備もまた賊を鎮圧し皇帝になった。しかもそれは、巾賊の鎮圧である。贖穀ションコは、黄に縁のある二人の皇帝、そのどちらをも導くように描かれている。

 劉備も黄帝も、いかにも蛮勇な二人の豪傑/門神を従える。《夷酋列像》もまた、いかにも長老風の贖穀ションコの左右に、二人の豪傑(貲吉諾謁ツキノエ乙箇吐壹イコトイ)を配す。

 つまり三図は、表面に見える勇壮なアイヌの肖像の深層に、「桃園三傑」と、『山海経』の黄帝と門神、二重の鬼門守護を内包する。

多重化する神/英雄


 鬼門守護との関わりから、各図同士の連携を確認した。加えて明らかになったのは、各図には単独の神のみならず、複数の神や英雄が、多重に織り込まれているということだ。

 贖穀ションコには劉備と黄帝が重ねられていた。

 乙箇吐壹イコトイには、張飛と牛頭天皇が重なることを見た。牛頭天皇もまた、鬼門守護に関わることが指摘される神である★26。加えて、先に見た牛頭と豹頭の言葉遊びは、鬼門すなわち丑寅(牛と寅)を、牛と豹にずらした洒落と見ることもできる。

 そして関羽に重ねられると見た貲吉諾謁ツキノエの姿には、次に見る通り、鬼を追う者のイメージが幾重にも重ねられている。

 貲吉諾謁ツキノエの衣服の赤と黒、椅子に敷く熊の毛皮は、大晦日の宮廷行事「追儺ついな」[図21]を喚起する。今日の豆まきのルーツとなるこの儀式は、「方相氏ほうそうし」と呼ばれる役に従い殿上の人々が桃の弓や桃杖を執って疫鬼を逐い、厄災や疫病を祓うものである。黒衣に朱裳を着て熊皮を被るという方相氏の衣装に、貲吉諾謁ツキノエの装いが重なる★27

【図21】 中島荘陽《都年中行事画帖》(1928年、国際日本文化研究センター所蔵)より「吉田神社での追儺」
 

 その装いや容貌はまた、疱瘡絵でおなじみの鍾馗に通じる。貲吉諾謁ツキノエのぎょろりとした目に嵩のある髪や髭、黒い長靴は、鍾馗の特徴に一致する。先に述べたように疱瘡には赤が効くと信じられ、赤一色で刷られた鍾馗の「赤絵」[図22]が大量につくられては市中に出回った。

【図22】 松川半山画「摺物(鐘馗赤絵)」(1864年、シカゴ美術館所蔵)
 

 さらに貲吉諾謁ツキノエの錦に描かれる赤龍、そして、図中の漢字表記、男児誕生を意味する「吉」の字は、赤龍から生まれたとの逸話を持つ、金太郎とも結びつく★28。赤い肌で熊を従える姿が近世の金太郎の定型である。その赤はやはり疱瘡除けに結びつけられ、これを関羽に見立てた錦絵もある★29

 関羽、門神、方相氏、鍾馗、金太郎。それら鬼を追い、疫病を払う者たちの多重のイメージが、貲吉諾謁ツキノエの勇姿を支えている。

異賊征伐と統治の物語


《夷酋列像》に重ねられる種々の物語には、鬼門からもたらされる疫病や厄災からの守護という願いが込められていた。しかしそこに重ねられるのは、ひとえに守護の物語ばかりではない。守護者たちが同時に、攻め滅ぼす征伐者でもあることを、見逃してはならない。

 先に贖穀ションコは、黄帝に擬えられていると見た。『列仙図賛』の「黄帝」図には、この皇帝が龍に乗り昇仙したという伝説が記される。迎えの龍に乗る黄帝に、後宮や群臣、70人余りが続いて共に昇仙したという。70余名というその数は、本作の契機となった寛政の蝦夷蜂起で殺害された和人の死者数、71人と重なる。波響は贖穀ションコに黄帝の姿を重ねることで、それを鬼門の守護者たらしめるのみならず、和人70余名の死を仙界への旅立ちへと転化したわけだ。

 それだけではない。

 蝦夷蜂起の鎮圧はおのずと、黄帝による蚩尤しゆう征伐と重なるだろう。黄帝はその征伐をもって、中華統一を果たしたのであった。蝦夷の蜂起とその鎮圧という本作制作の契機となった事件は、蝦夷を征伐する物語へと転化される。

 失莫窒シモチの図[図23]は、まさしく古代の蝦夷征伐を喚起することで、その転化を推し進める。

【図23】《夷酋列像》より失莫窒シモチ
 

 その弓を射る姿はおなじみの蝦夷イメージであるとともに、国宝《僻邪絵》(12世紀、奈良国立博物館所蔵)に描かれる、弓で鬼を射る毘沙門天の姿に通ずる★30[図24]。

【図24】《僻邪絵》(12世紀、奈良国立博物館所蔵)より毘沙門天(部分)
 

 そして、失莫窒シモチの腰に吊るされる「矢に射られた雀」は、『日本書紀』で、物部守屋が蘇我馬子を揶揄した形容である★31

 蘇我馬子が喚起するのは、第一にその息子、蘇我蝦夷である。矢に射られた雀が馬子さらには蝦夷を喚起するものだとすれば、失莫窒がそれを射て腰に提げる本図は、彼が同族の蜂起を鎮圧したことの比喩と見なせる。

 蘇我馬子はまた、聖徳太子とともに物部守屋と戦い、これを破る。信貴山の縁起によればこのとき太子は、こと毘沙門天の加護を得て、守屋を破ったという。つまり失莫窒シモチは、その矢を射る姿のみならず、「矢に射られた雀」からも毘沙門天を導くと言える。
 これらのキーワードはまた、聖徳太子による蝦夷征伐を導く。『聖徳太子伝記』(醍醐寺本、1460年書写)によれば、「エゾガ千嶋」から来襲した東夷が日本へ攻め寄せて三輪山まで到達したとき、10歳の太子は馬子とともにそこに赴き、鏑矢を放ちその雷鳴で蝦夷を驚かせ、これを降伏させたという★32

 聖徳太子と縁の深い毘沙門天は、坂上田村麿や源義経の蝦夷征伐の物語に、征伐者の守護神として登場する★33。これは、毘沙門天が北方をつかさどることに起因するといい、毘沙門天を本尊とする鞍馬寺は、京都の北方にあって都を守護する寺院として認識されたという。すなわち毘沙門天には、都の丑寅/鬼門に位置する東北の脅威を防ぐという役目が付与されていた。

 つまり失莫窒シモチは、聖徳太子や毘沙門天の姿とともに、蝦夷征伐を喚起するものであった。

《夷酋列像》は、蜂起によって増幅した蝦夷地/鬼門の脅威から日本を守護するのみならず、脅威を制圧することで、日本の統治をより一層強固にするというイメージをもたらす。すなわちこれによって、蝦夷の蜂起の勃発という松前藩の失政は、日本の統治の強化という善政へとくつがえる。

物語防御論


 波響あるいは松前藩は、安心と恐怖のリバーシビリティを巧みに利用して、アイヌを厄介者から守護者へと、そして、松前藩の失政を善政へと反転しようとした。それは、藩の生き残りをかけて、史実という物語を描き変えようとした企みであった。その目論見は、絵が賞賛を呼び、天皇の目に触れるところまでは見事なまでに成功したと言えよう。

 その仕掛けの一端を紐解いてきた。勇壮なアイヌの肖像という表層を一枚めくるとそこには、いくつもの物語を複雑に織り込んだタペストリーが浮かび上がることが、明らかとなった。大国主神や、聖徳太子、蘇我馬子といった記紀の登場人物たち。牛頭天王や毘沙門天、黄帝や門神、鐘馗といった、和漢の神仙たち、それに関わる魔除けの儀式や慣わし。『三国志』の桃園三傑や、浦島太郎、金太郎、桃(太郎)という、お伽噺の英雄たち。12枚のうちここでは5枚しか見ていないにもかかわらず、かくも多様な和漢の物語とその登場人物に、思いがけず言及することとなった。[表1]

【表1】夷酋列像と神話の重ね合わせ
 

 あたかも『千夜一夜物語』のごとく、《夷酋列像》は、多様な物語を織りなす一つの器である。『千夜一夜物語』で夜毎に王に物語を聞かせるシェヘラザードは、そのことによって王に殺されることを防いでいた。シェヘラザードにとって物語は、自らの命を守る盾である。《夷酋列像》でも同様に、絵の細部に隠された個々の物語は、厄災や疫病を防ぐ盾である。北のセーフイメージの極たる《夷酋列像》は、それら物語/盾の集積である。物語/盾は連想によって結びつき、複雑に織り込まれ、鬼門に対する防御壁を成す。

 ただしそこに織り込まれるのは、あくまでも和人が共有した物語に過ぎない。描かれたアイヌたちが共有したであろう物語は、そこにはない。防御壁が守るのは、あくまでも描かれた物語を共有できる共同体の範囲であり、それが当時の「日本」であろう。

 こうした絵の在り方は、いかなる日本絵画の、そしていかなる日本文化の系譜に位置づけられるものなのか。多様な物語の容れ物となる便利なフォーマットが、日本絵画の伝統にはある。《夷酋列像》が、中世につくられ天皇の荘厳の具となった「日月図屏風」の系譜にあることを、詳しく見ていく。さらに《夷酋列像》には、天皇の御所に置かれたときにその機能を十全に発揮する仕掛けが施されてもいる。《夷酋列像》は、御所の鬼門と裏鬼門の守護、すなわち日本一円の守護を担ったセーフイメージでもあった。絵の形式と居場所の問題を通じて、この絵と天皇との特別な関係を見ていく。

【画像出典】 図1、2、7、8、12、13、14、23: ブザンソン美術考古学博物館所蔵。同館提供。©Besançon, musée des beaux-arts et d’archéologie – Photographie P. Guenat 図3、4、6: 北海道博物館提供 図5:日本古典籍データセット(人文学オープンデータ共同利用センター提供。URL= http://codh.rois.ac.jp/) 図9、10、11:舞鶴市提供(海辺の京都 浮世絵コレクション) 図15、18、20:国立国会図書館デジタルコレクション 図16、22:シカゴ美術館所蔵。CC0 Public Domain Designation 図17、24:ColBas( 国立博物館所蔵品統合検索システム。URL= https://colbase.nich.go.jp/) 図19:『近世の斜里』展図録、知床博物館提供 図21:国際日本文化研究センター提供

★1 中村真一郎『蠣崎波響の生涯』、新潮社、1989年、13頁。
★2 ブザンソンのあるフランシュ・コンテ地方出身で幕末に琉球や箱館に滞在した神父メルメ・カションが持ち帰った、あるいは、ブザンソン出身で「シネマトグラフ」の発明家、映画の父と知られるリュミエール兄弟が、アイヌの映画を撮影した関係で持ち帰った、などである。
★3 フランスにあるものは、いずれも同規格(絹本、縦40.0cm、横30.0cm)の、独立した13面。11面の人物画に2面の序文が付随する。絵は一枚に一人の全身像を配し、像主の居住地、地位、人名を漢字で記載する。図中の「夷酋一十二人図像 寛政二庚戌こうじゅつ)初冬 臣廣年しんこうねん画之」との記述から、絵が成ったのは寛政二年(1790)旧暦10月、その時点では12人の肖像があったことがわかる。失われた一面の所在は不明である。
★4 事件は今日「クナシリ・メナシの戦い」と称される。については、次を参照した。『新版 北海道の歴史 上 古代・中性・近世編』、北海道新聞社、2011年、287-308頁、田端宏執筆部分。菊池勇夫「松前広長『夷酋列像附録』の歴史認識」『キリスト教文化研究所研究年報 : 民族と宗教』45号、宮城学院女子大学、2012年。
★5 模写を製作した、もしくは所持したと推定される大名は、平戸藩主・松浦清、白河藩主のち幕府老中・松平定信、広島新田藩主のち広島藩主・浅野長訓、水戸藩主・徳川治保、熊本藩主・細川斉茲である。また、波響の弟子高橋波藍が、《夷酋列像》の人物を山水・海浜の景の中に配した掛幅が、松前藩から、松代藩主のち幕府家老・真田幸貫、丸亀藩主・京極高朗に贈呈されたと見られる。
★6 皆川淇園の評。儒学者。1735-1807年。当時の文人ネットワークの一つの中心をなした。
★7 大典顕常の評。京都・相国寺の僧。1719-1801年。伊藤若冲の支援者で「若冲」の命名者とされる。
★8 宮中での評。寛政三年(1791)7月12日付け「蠣崎矢次郎(波響)宛て佐々木長秀(佐々木備後守)書状」、函館市中央図書館所蔵。
★9 平戸藩の模写に付随する『蝦夷図像賛』(松浦史料博物館)による。
★10 松岡正剛「 蠣崎波響の『夷酋列像』が訴える北方問題 江戸後期のエキゾチック・リアリズムの本領」、SankeiBiz、2016年1月31日。(2020年6月17日最終アクセス)
★11 波響は、江戸で南頻派絵画を広めた宋紫石に幼少より師事した。師の周囲には、蘭書や西洋の油彩画に親しんだ平賀源内や、秋田蘭画の絵師たちがいた。
★12 前掲註4。
★13 《夷酋列像》序文の著者松前広長が、藩主の命を受けて著した書物。松前藩の蝦夷地統治の歴史、《夷酋列像》の制作経緯、描かれた12人の「功績」を詳述する。片仮名本とひらがな本の二種が知られる。本稿では、松前藩家臣・近藤家伝来の片仮名本(北海道博物館所蔵)を参照する。
★14 『歴代名画記』の冒頭「画の源流を叙ぶ」に次のようにある。 以つて忠、以つて孝なるものは盡く雲臺〔漢の明帝が其の将28人を畫いた宮殿〕に在り。烈あり勲あるものは皆〔麒〕麟閣〔漢の宣帝が功臣十一人を畫いた所〕に登る。善を見れば以つて悪を戒むるに足り、悪を見れば以つて賢を思ふに足る。(張彦遠(編)、小野勝年(翻訳)『歴代名画記』、岩波書店、1938年、13頁。)
★15 フランスの《夷酋列像》で欠ける一図。本稿では、小島貞喜《夷酋列像模写》(1843年、個人所蔵)の図を掲載・参照する。なお、以下に挙げる本図の細部の描写は、他の模写にも確認できるものである。
★16 倉野憲司・武田祐吉校注、『日本古典文学大系 古事記・祝詞』、岩波書店、1958年、101頁。
★17 辻本好孝、『和州祭礼記』、天理時報社、1944、194頁。
★18 佐々木利和・谷本晃久「『夷酋列像』の再検討に向けて―シモチ像と「叡覧」と―」『北海道博物館アイヌ民族文化研究センター研究紀要』第2号、北海道博物館アイヌ民族文化研究センター、2017年、149頁。
★19 谷澤尚一「「夷酋列像」成立の要件について」『根室シンポジウム「クナシリ・メナシの戦い」 三十七本のイナウ―寛政アイヌの蜂起二〇〇年―』(北海道出版企画センター、1990年、251-252頁)。
★20 清朝が異民族に毛皮などを献上させたのに対して下賜した絹織物であり、中国東北部のアムール川沿岸やサハリン、北海道の少数民族同士の交易を介してアイヌ民族が入手した。アイヌのあいだでは、儀式の際などに位の高い人物の衣装とされたようである。松前藩や江戸の富裕層に珍重され、初代松前藩主が徳川家康の謁見でこれを献上したという逸話が伝えられる。北海道や青森の社寺、博物館を中心に伝世品が複数確認できる。
★21 当時ロシアはカムチャッカ半島から千島列島沿いに南下し、道東や千島列島に暮らすアイヌと接触し、アイヌとの交易の記録もあるため、アイヌがこうした外套を入手していた可能性は否定できない。他方で波響は、西洋の油彩画で、本作に描かれるような外套や靴を見ていたと思われ、本作のそれには、油彩画のグラデーションによる陰影法が施されている。興味深いことに、その陰影法は、西洋由来の外套や靴のみに用いられ、蝦夷錦には伝統的な肥痩のある衣紋線を配すのみで影の表現がない。
★22 三舟隆之によれば、「浦島太郎」「竜宮城」「玉手箱」「乙姫」という、今日知られる浦島太郎物語の用語は、『御伽草紙』をはじめとする中世の物語にすでに登場する。(三舟隆之『浦島太郎の日本史』、吉川弘文館、2009年、101頁)。
★23 牛頭天王の伝承については、山本ひろ子、『異神』、平凡社、1998年、509頁および593-594頁を参照した。
★24 小川裕久「描かれた「三国志」」『美術の中の三国志』展図録、徳島市立徳島城博物館、2006年、66頁。
★25 鷲尾紀吉、劉明「中国と日本の正月行事」『中央学院大学人間・自然論叢』、中央学院大学、2009年、7頁。
★26 金沢英之『義経の冒険 英雄と異界をめぐる物語の文化史』、講談社、2012年、170-183頁。
★27 王秀文「桃の民族誌―そのシンボリズム(その一)」『日本研究』第17集、1998年、13頁。
★28 老嫗が夢に現れた赤龍の子を孕み産むという金太郎の出生譚は、『廣益俗説辨』(1717刊)、『前太平記』(1803年序)に記される。〔鳥居フミ子「金太郎の誕生」『日本文學』(東京女子大学、1984年、16-17頁。)〕
★29 歌川国芳《金太郎尽関羽見立》(1842年、ボストン美術館所蔵) URL= https://collections.mfa.org/objects/461184/imitating-guan-yu-kanu-mitate-from-the-series-a-kintaro
★30 弓をひく毘沙門天の姿は、通例の、宝塔を持つ姿とは異なる。毘沙門天のこの像容については、次の論文が詳しい。宮島新一「辟邪絵――わが国における受容」『美術研究』331号、1985年、77-98頁。梅沢恵「矢を矧ぐ毘沙門天像と「辟邪絵」の主題」『中世絵画のマトリックス』ii、青簡舎、2014年、383-403頁。
★31 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋(校注)日本古典文学大系『日本書紀』下、岩波書店、1967年、152-153頁。
★32 前掲載註26、243-245頁
★33 前掲載註26、83-85頁。

春木晶子

1986年生まれ。江戸東京博物館学芸員。専門は日本美術史。 2010年から17年まで北海道博物館で勤務ののち、2017年より現職。 担当展覧会に「夷酋列像―蝦夷地イメージをめぐる人・物・世界―」展(北海道博物館、国立歴史民俗博物館、国立民族学博物館、2015-2016)。共著に『北海道史事典』「アイヌを描いた絵」(2016)。主な論文に「《夷酋列像》と日月屏風」『美術史』186号(2019)、「曾我蕭白筆《群仙図屏風》の上巳・七夕」『美術史』187号(2020)ほか。株式会社ゲンロン批評再生塾第四期最優秀賞。
    コメントを残すにはログインしてください。