人鳥記──人間とペンギンの苦い記憶について|上田一生

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初出:2021年10月22日刊行『ゲンロンβ66』
 よちよちと歩く姿がかわいらしいペンギン。そのようすはどこか人間にも似ています。このたび、2021年7月にゲンロンカフェで開催された「ペンギンは私たちになにを教えてくれるのか」に登壇され、40年にわたりペンギンの調査や保全活動を続けられている上田一生さんにご寄稿いただきました。「元祖ペンギン」とも呼ばれる海鳥オオウミガラスの絶滅は、わたしたちになにを伝えてくれるのでしょうか。上田さんが登壇されたイベントの動画は、シラスでご視聴いただけます。(編集部) 
  
上田一生×夏目大×吉川浩満「ペンギンは私たちになにを教えてくれるのか──『南極探検とペンギン』刊行記念」 
URL=https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20210719
「人鳥」と書いて「ペンギン」と読ませる。もちろん、純粋な漢語ではない。おそらく明治の初め頃、洋書を翻訳する過程で生まれた和製漢語である。これ以外にも「片吟」、「筆鳥」、「人似鳥」などの例がある。全て、無理やり「ペンギン」と読ませる。 

 一方、漢語でペンギンを意味する「企鵝(企鵞)」は、清朝後半につくられたと考えられる。日本の文献に「人鳥」や「企鵝」といった漢語表記が現れるのは、明治時代初期(19世紀後半)のこと。ところが、この鳥の存在そのものについて、日本では遅くとも18世紀前半には、一部の知識人にすでに知られていた。新井白石の『采覧異言』(1713年・正徳3年成立)に「ペフイエウン」と片仮名表記されたのが初出である。白石は、いわゆる「シドッチ事件」取調べの途中、オランダ商館にいた船乗りから聴き取ったらしい。だから片仮名表記なのだ。それ以降、この鳥は「ペンクイン」とか「ピングイン」などと書かれてきた。 

 この鳥の日本語表記について詳しいことは、『ペンギンは歴史にもクチバシをはさむ』(拙著、2006年、岩波書店)をご確認いただきたい。ここで強調しておきたいのは、「人鳥」という漢字表記が読み手の脳裏にいくつかの連想を生むということだ。「人に似た鳥」という受けとめ方が一つ。ほかにも「人との関わりが深い鳥」という解釈も可能かもしれない。ペンギンと人間との交流は、おそらく人類の誕生とともに始まる。楽しく愉快な思い出も多いが、悲しく苦い物語も、残念ながら隠しきれないほどある。 

 今回は、「元祖」ペンギン、オオウミガラスと人間との長い長いお話をご紹介したい【図1】。ただし、紙幅に限りがあるので、三倍速での記述となってしまうことをお許しいただきたい。 
  

【図1】オオウミガラスの科学的想像画。19世紀末~20世紀初。水彩画。ロンドンの博物画専門店で購入
 

飛ばない海鳥たちの系譜


 まずは、オオウミガラスとはなにものなのか? 説明の必要があるだろう。「ペンギンマニア」には基本的知識だが、北極圏近くに分布していたオオウミガラスは「北のペンギン」とも呼ばれる。それどころか、元来、この空を飛ばない太った海鳥こそが「ペンギン」と呼ばれていたのである。オオウミガラスはむろんペンギンとは別種の海鳥である。しかし最新の古生物学的研究によれば、現生18種のペンギン科のように「飛翔力を捨て海中生活に特化した海鳥」には、四つの系統が知られている。化石資料の出現年代が古い順に並べると以下の通りだ。 

 



①現生ペンギン類(Sphenisciformes):6200万年前-現在。ニュージーランド付近で誕生・進化し南半球に分布した。 
②ペンギンモドキ類(Plotopteridae):3700万年-1600万年前。現在のウミウに近く、北太平洋に分布していた。 
③ルーカスウミガラス類(Mancallinae):1400万年前-100万年前。北太平洋に分布していた。 
④オオウミガラス類(Pinguinus):500万年前-西暦1844年。現在のウミガラスに近く、北大西洋~地中海西部に分布していた。

 生存年代を見れば明らかな通り、この四つの空を飛ばない海鳥のグループの中で、現存するのは①だけだ。④のオオウミガラスは、人類の誕生後に出現し、1844年に絶滅した。つまり、オオウミガラスは、「欧米史の枠組み」の中で生まれ、絶滅していった野生動物なのだ。しかも、この鳥は、北欧の人々には「ゲアファウル(槍鳥)」と呼ばれ、南欧の人々には「ペングィーゴ(太った海鳥)」と呼ばれていた。後者は、ラテン語で肥満を意味する「ピングイス」が語源だが、これが後の「ペンギン」という呼び名の起源だとも言われている。  さて、オオウミガラス絶滅の主因は人間活動だというのが定説だ。これまでにも『最後の一羽』(アラン・エッカート著、浦本昌紀・大堀聡訳、平凡社、1976年)などの著作で、この海鳥が種としての命脈を絶たれた経緯は詳細に描かれてきた。つまりこの鳥は「絶滅物語」の代表的事例としてその名が知られている。では、その実態はどうだったのか? 「北のペンギン」に生き残るチャンスは全くなかったのだろうか? 人間たちは「種を根絶やしにする」ことを、どのようにとらえていたのだろうか? 新たに確認できたいくつかの資料を交え、「人間と元祖ペンギンの苦い記憶」に、もう一度光をあててみよう。

食料あるいはトーテムとしてのオオウミガラス

 人類(旧人・新人)は、すでに前期旧石器時代(260万年前-4万年前)にはオオウミガラスと出会い、この鳥を利用していた。イングランド南部ボックスグローヴの遺跡(約50万年前)から、この鳥の骨が出土している。スカンディナヴィア半島やイタリア南部の複数の遺跡からも、中期・後期旧石器時代のものと思われる骨が見つかっている。旧石器時代末(約2万年前)には、フランス・アルプスの洞穴やエル・ペンド洞穴の壁に描かれたオオウミガラスと思われる洞穴画が出現する。つまりこの鳥は、旧石器時代には、地中海を含むヨーロッパの高緯度地域に生息し、温暖期に人類との接触機会が増える度に、貴重な食料として捕獲されていたことがわかる。

 新石器時代(9000年前-6000年前)になると、スカンディナヴィア半島やデンマークの沿岸部、その周辺の島々の遺跡からも骨が出てくるので、海を渡った人間たちがこの鳥を捕獲し続けたことは確かだ。さらに、金属器時代(約6000年前以降)になると、各地の遺跡からは食用にしたと思われる骨だけでなく、特徴的なクチバシが出土する。特に、グリーンランドや北米大陸のニューファンドランドの遺跡=墓からは、副葬品として多数のクチバシが発見された。グリーンランドの遺跡はヨーロッパから海を渡って定住した人々のものであり、ニューファンドランドの遺跡はアジア大陸からアメリカ大陸に渡った「アメリカ先住民」の墓である。オオウミガラス研究者の一人エロール・フラーは、当時の人々が「この鳥のずば抜けた潜水能力や海のハンターとしての力量を高く評価し、それを象徴する力強く大きなクチバシを一種のお守りとして身につけた」可能性を指摘している。 

 その後、5000年前以降、オオウミガラスは地中海から姿を消し、スカンディナヴィア半島-アイスランド-グリーンランド-北米北東沿岸に生息範囲を狭められていく。そして紀元後8-11世紀、この鳥を執拗に追い求める海の民が現れた。「ヴァイキング」としても知られるノルウェー系ノルマン人である。ノルマン人の一群は吃水が浅く軽量で運動性に富んだ帆船を操り、ヨーロッパ各地に出没し、交易や侵略を続けた。さらに別の一群は、北大西洋を西に向かい、シェトランド諸島、オークニー諸島を経てアイスランド、グリーンランドに達し、その一部が西暦1000年頃に北米大陸に到達する。つまり、ノルマン人はコロンブスよりも約500年早く、アメリカ大陸に第一歩をしるしたのだ。 

 ノルマン人の卓越した航海術や、寒さや飢えに耐える強靭な肉体がこれを可能にしたことは言うまでもない。他方、この冒険的航海を食料・衣料・燃料面で支えたのがオオウミガラスだったということも指摘しておこう。ノルマン人の航跡が、あたかもオオウミガラスの繁殖地を辿るかのようにのびているのは偶然ではあるまい。もちろん、長い船旅の食料としては、魚やアザラシ、様々な海鳥やその卵なども活用しただろう。しかし、彼らが移住した各地の遺跡からは、なによりオオウミガラスの骨やクチバシが大量に出土する。つまり、ヨーロッパ史上最初の長距離航海者であるノルマン人の成功の一端を支えたのは「北のペンギン」だったのだ。 

 その後、北米大陸に渡ったノルマン人の子孫がヨーロッパに凱旋することはなかった。彼らの拠点は、アメリカ先住民の攻撃を前に全て陥落したからだ。従って、大西洋の彼方に「未知の大陸」があることをヨーロッパ人が「発見」するのには、コロンブスの出現を待たねばならなかった。それ以来数百年間、北米大西洋岸ではアメリカ先住民が、ヨーロッパの大西洋岸では西ヨーロッパの漁師たちが、各々細々とオオウミガラスを捕り続けた。この間、ヨーロッパはアフリカと西アジアから侵入したイスラム勢力に挟撃され(8世紀)、長い自給自足の経済体制=「中世の封建社会」に入る。また、12世紀以降モンゴル帝国の侵略を受けたり、寒冷期の疾病=ペストの大流行など「14世紀の危機」と呼ばれる一連の事件に見舞われたりしたヨーロッパ人は、およそ300年間にわたって大西洋の彼方への関心を失ってしまう。換言すれば、12-14世紀の約300年間、ヨーロッパではオオウミガラスの存在そのものが忘れ去られ、アメリカ先住民による小規模な捕獲が続けられたに過ぎない。 

 しかし、この300年間のインターバルだけでは、残念ながらオオウミガラスにとって、種の存続を成就する回復期間にはならなかった。その後15世紀後半-17世紀にかけて、西ヨーロッパの船乗りたちは再び大西洋の彼方への船旅に挑む。彼らが目指したのは、もちろんオオウミガラスではない。しかし、スカンディナヴィア半島、イギリス周辺、アイスランド、グリーンランド、ニューファンドランドに生き残っていたこの鳥たちには、以前と同じ運命が待っていた。しかも、13世紀以降の寒冷期中、オオウミガラスの生息域は南に拡張していたのである。成鳥や卵が、船乗りたちの食料や燃料として大量かつ急速に消費されていった。 

 ただし、15世紀後半-18世紀まで時間的視野を拡げると、同時代の人々がこの鳥に寄せる思いや興味に、それ以前には見られなかった新しい変化を発見することができる。例えば、オオウミガラスに関する記録や絵画が現れ、やがてそれらはこの鳥に関する観察記録や研究、飼育の試みへと展開していくのである。

大航海時代そして博物学者の登場


 15世紀後半、オオウミガラスと人間の物語は新しい展開を迎える。それは「大航海時代」とともに始まる。しかし、ヨーロッパの船乗りたちを突き動かしたのは、一般に信じられているような「香辛料への渇望」ではない。 

 アメリカの作家ロバート・シルヴァーバーグは次のように指摘する。「一五世紀後半、ポルトガル、スペイン、フランスの漁夫が、タラを求めて西進を開始した。ニューファンドランド沖の冷水を好むタラを探すため、彼らの漁船は大西洋の彼方まで漕ぎ出さねばならなかった。これら無名の漁師たちは、事実上、コロンブスより一世紀早く北アメリカを発見していたのかもしれない。当然、彼らはオオウミガラスが生息する辺鄙な島々をも発見した。これらの島に立ち寄り、肉や卵を求めてこの鳥を襲撃するのが、これら漁船の慣わしとなった」。★1 

 それから間もなく、この漁師集団にはイタリア人、イギリス人、オランダ人たちが加わり、漁場争奪戦は英仏間の戦争(百年戦争の一側面)にまで発展した。また、北海でも、ノルマンディ、ピカルディ、フランドル、オランダ、イギリスのニシン漁師たちの間で、漁船単位、漁港単位での対立があった。こうして、漁師たちの一群は、まさに「全ヨーロッパ的スケール」で、北海ニューファンドランド(北米北東沿岸)に殺到したのだ。 

 後に開始されるスペインとポルトガルによる「王家主導の公式な探検航海」とは異なり、この漁師集団による冒険的漁業では「詳細な公的記録」など存在しない。しかし、15-16世紀にかけて、四人の人物がオオウミガラスに言及している。イタリア出身の船乗りジョバンニ・カボート(1497年)、カボートの息子セバスティアーノ(1517年)、フランス人の探検家ジャック・カルティエ(1534年)、そしてイギリス人のアンソニー・パークハースト(1578年)である。彼らの報告によれば、ニューファンドランド沖のファンク島などでは、一度に1000羽以上のオオウミガラスが殺され、その場で生肉を食べられたり樽に塩漬けにされたりしたという。 

 17-18世紀にかけては、さらに様々な目撃談や歴史家・博物学者による記録が遺されている。イギリスのW. H. ミュレンズは『British Birds』(1922年)に「NOTES ON THE GREAT AUK」と題する論考を寄せ、1605-1750年に発表された七つの論文やレポートを紹介している。それらを総合すると、この時期、ヨーロッパの船乗りや移民たちは、オオウミガラスを以下のように扱っていたようだ。 

 



①新鮮な生肉、特に胸肉は狩りの直後に食べた。 
②新鮮な肉以外は頭と足を取り、皮を剥がし内臓をとり除いたものを塩漬けにして保存食とした。 
③頭や内臓などは細かく刻んで釣り餌として使われた。 
④皮の下にある分厚い脂肪層は、鉄鍋で油をとり、ランプやストーブの燃料、調理用油として使われた。また、皮や乾燥させた身体全体を松明として燃やすこともあった。 
⑤剥がした皮から羽毛を丁寧に抜きとり、これを乾燥させて羽毛布団を作った。羽毛を少しでも丁寧に抜きとるため、まず皮から脂肪層をとり除き、その脂肪を燃料として湯を沸かして皮を柔らかくした。 
⑥夏の繁殖期には、年中行事のようにして「卵狩り」が行われた。 
⑦大きなクチバシは様々なアクセサリーの材料となった。また、胸の大きな竜骨突起に向かってのびる一対の鎖骨からは釣り針が作られた。

 1612年、あるニューファンドランドの入植者は、次のように書き遺している。「神は、このあわれな鳥の純真な心を、人の命を支えるための、かくも美事な器となし給うたのだ」。★2

 だが、さらに重要な事実がある。ニューファンドランドを訪れたアーロン・トーマスの報告(1794年)によれば、この島の入植者は、いつも必要なだけのオオウミガラスを確保しておくため、大きな石積の囲いを造り、そこでたくさんの個体を飼育していたという。また、ヒナや亜成鳥(若鳥)に関する情報を勘案すると、どうやらヒナや亜成鳥の中には「飼育され」、「観察され」ていた個体がいたらしいことが想像できる。以下、その断片的な6例の情報を列挙する。 

 



①デンマークの博物学者オラシウス・ヴォルミウス(オラフ・ヴォルム)は、ファロエ島(フェロー諸島)で捕獲された亜成鳥1羽を入手し、コペンハーゲンで約4ヵ月間飼育して観察したと言われている。この間、ニシンをまるごと餌として与えていたらしい(1655年)【図2】。 
②オットー・ファブリシウスは、グリーンランド南西部にて8月の繁殖期に「灰色の羽毛(綿羽)のヒナたち」を捕獲し、観察したという(1768-1774年)。 
③J. ウォリスによれば、ファーン諸島(イギリス、ノーサンバーランド地方沖の島)で生け捕りにされた「ペンギン」が、ジョン・ウィリアム・ベーコンに寄贈され、よく人に馴れ、ベーコンの後をついて歩いたという(1769年)。 
④アイスランドの漁師たちが、エルディー島で捕らえた24羽のオオウミガラスのうち23羽を殺し、残った1羽をケプラヴィークの町(アイスランド)に持ち帰った。この鳥は、結局買い手が見つからず、トムセンという男に殺されてしまった(1831年)。 
⑤アイルランドのウォーターフォード港に停泊していた漁船で、「若いメスのオオウミガラス」が1羽飼われていた。この個体は、淡水魚や牛乳にマッシュポテトを混ぜたものを餌として与えられ、数ヵ月間生きていた。その後、何人もの人々に転売され、死後は剥製標本としてダブリンのトリニティー・カレッジに納められた(1834年)。 
⑥セントキルダ島で島民に飼われていたオオウミガラス2羽が、1829年と1834年の2回にわたって商人に買いとられ、スコットランドの首都エディンバラに運ばれた。そのうちの1羽を手に入れたグルーという人物は、マスや牛乳に浸けたジャガイモなどを餌として与え、4ヵ月間ほど飼育したという。

 

【図2】デンマークの博物学者オラフ・ヴォルムが1650年頃コペンハーゲンで飼育していたオオウミガラス。首の白い線はリードをつける時の首輪だと言われている。木版画。出典=Worm, Olaf. Museum Wormianum seu Historiae Rerum Rariorum. Amsterdam, 1655.
 

「科学の名において」滅ぼされた海鳥


 つまり、17-19世紀初めの200年もの間、欧米人の中にはオオウミガラスを単なる「天与の資源」としてではなく、興味深い観察対象だと考える人々も存在したのだ。しかし、この海鳥が生き残るための小さな希望の灯火は、19世紀前半に起こった二つの出来事によってあっけなく吹き消されてしまう。一つは、海底火山の噴火と津波という天災であり、もう一つは博物館、博物学者による「標本収集競争」という人災である。 

 1830年、アイスランド西端、レイキャネス岬沖にある最後の繁殖地オーク・ロックスが、付近の海底で起こった火山噴火と津波によって壊滅したのだ。実は、この時点で、欧米にあったオオウミガラスの剥製標本はわずか2体だけ。一つはベルギーの博物館にあり、もう一つは個人所有だった。これ以外には、骨格標本も卵殻標本も皆無だったのだ。19世紀前半、欧米の博物館は新しき「知のパンテオン」として、時代の脚光を浴びていた。長年の地球的規模での探検活動や経済活動によって、欧米には多くの文物や情報が流入していた。しかし、それらを系統的・科学的に分類し分析していく努力は、まだ始まったばかりだった。「神の被造物たるあらゆる生命を収集・記録する」使命を負った博物学者や博物館には、学問的名誉だけでなく、帝国主義政策の正統性と成果とを権威付け証明することが求められていたのである。この鳥の標本価格は一気に急騰した【図3】。前述の作家、ロバート・シルヴァーバーグは、次のように記している。 

 

 科学の名のもとに一つの種が滅ぼされたのは、この時一度きりである。ハンターたちの強欲と冷酷さは、オオウミガラスの棲息数を一握りにまで減少させはしたが、最後の幕を下ろしたのは、博物館の館長たちの愚かさだった。それぞれが展示用の標本を入手したがるばかりで、誰一人としてこの種の運命を顧みる者はいなかったのだ。★3

  

【図3】最後のオオウミガラス狩りが最高潮に達した時期の博物画。1838年。銅版画、手彩色。ロンドンの博物画専門店で購入
 

 

 アイルランドのカール・シームスンは、1830-1840年にかけて、生き残っていたオオウミガラス64羽を捕らえ、多数の卵を集めて、博物館に売り込むための標本を量産した。1844年6月4日、シームスンはアイルランド人の漁師ヴィリヤルマル・ハコナッセン率いる30人の捕獲隊を編成、エルディー島を目指した。この時、51体の標本が得られたが、それが確認できる最後のオオウミガラス狩りとなった。19世紀後半、ニューファンドランドでこの鳥を見かけたという報告が2例あるが、いずれも未確認に終わっている。 

「元祖ペンギン」の絶滅は、不可抗力によるものでも、非科学的な迷信や思い込みによるものでもない。シルヴァーバーグが指摘するように「科学の名において」堂々と行われた行為の結果だ。ここに、ほかの絶滅物語にはない「苦味」がある。 

 幸福や豊かさの追求は、時代や場所を問わず、人間の根元的欲求だ。科学はその有力な道具の一つである。しかし、これを人間以外の生命や人間をとり囲む環境に、どのように用いていくのか? 地球的規模で起きている大規模な変化をどのように理解し把握するのか? そして解決の糸口をどのように見出していくのか? 私たち人間は、自ら滅ぼした海鳥との物語を「良薬」としなければいけないだろう。 

 オオウミガラスが、人間の未来を見つめている。 
 

 



参考文献 
Fuller, Errol. Great Auk. HARRY N. ABRAMS, INC., PUBLISHERS, 1999. 
Mullens, W. H. “NOTES ON THE GREAT AUK.” British Birds, vol. 15, issue 5, 1922, pp. 98-108. 
ミシェル・モラ・デュ・ジュルダン『ヨーロッパと海』、深沢克己 訳、平凡社、1996年 
ロバート・シルヴァーバーグ『地上から消えた動物』、佐藤高子訳、ハヤカワ文庫、1983年 
 


★1 ロバート・シルヴァーバーグ『地上から消えた動物』、佐藤高子訳、ハヤカワ文庫、1983年、100頁。 
★2 同書、101頁。 
★3 同書、106頁。

上田一生

1954年、東京都出身。小学生時代は「ガの採集」、中学生時代は「日本の野鳥(特にコサギ)の観察」などをして過ごす。高校生の時にペンギンを調べ始める。以来50年間、ペンギンとともに暮らしている。大学では「近世ヨーロッパ史(特に30年戦争)」を学び、その後「近現代の日本の軍事史」も学んで地方史編纂などを行う。仕事としては、40年間、都内の私立高校で社会科教員として勤務。2020年4月からは、公益財団法人東京動物園協会の教育普及センターに勤務。職場は上野動物園内。1988年、第1回国際ペンギン会議(ペンギンに関する最初の国際学会)に参加し、ロイド・デイヴィスと出会う。1990年、日本で「ペンギン会議(PCJ)」を設立し研究員となる。2016年以降、国際自然保護連合(IUCN)の「ペンギン・スペシャリスト・グループ」メンバーとして活動中。
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