方位/包囲の江戸絵画(1) 火事と悲恋と鬼門と女|春木晶子

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初出:2022年2月25日刊行『ゲンロンβ70』

■ 首都化と周縁化


 どうしてこんなに地震が多いのに日本に住んでいるのか。「生まれた国だから」「日本が好きだから、便利だし」。

 2019年12月、オランダのライデンで、オープンしたばかりの自然史博物館を訪ねた。大規模な施設の一角に、日本の地震をテーマにした展示があった。地震を体験できるアトラクションの傍で、日本で撮影された若者への街頭インタビューの様子が流れていた。

 今までここにいたから今もここにいるだけで、住んでいる場所に意思も意図もない、というのが本当のところだろう。しかし地震のない国の人にしてみたら、東日本大震災を経てもなおそこに住み続ける日本人は勇気ある者に、あるいはとんだ愚か者に映るのかもしれない。

 そういえば2017年に上京したときも、直下型が危ないからやめた方がよいと言う人があった。それでなくとも、「地方創生」を推し進める国や時流に逆らっての上京ではあった。だが当時の東京はそんな時流などどこ吹く風だった。東京には人が来る。世界的な感染症の流行が長引くに及んでようやく、流入一辺倒だった状況に変化が見え始めたようだ。
 進学のため。仕事のため。上京の理由は、経済的、実利的なものが多いだろう。江戸も同様だった。将軍のお膝元である江戸は第1に武士の町だった。旗本・御家人といった江戸幕府直属の家臣に加えて、全国各地に「お国」を持つ地方武士たちが単身赴任していた。

 寺社町や町人町は、武士の暮らしを支えるいわば「インフラ」の役目を担い発展していった。例えば振売商人たちは、市場で野菜や魚など特定の商品を買って1日売り歩き、日々の糧を得ていた。商品やサービスが多様化するなか、己の才覚で生き抜ける好機が転がっていた。

 江戸には人が来た。だからこそ、「江戸っ子」であることがステイタスになった。江戸の生まれを自慢にし、江戸への帰属意識を誇示するこの言葉が町人たちの間で生み出されたのは、18世紀後半のことだという。経済的な安定を獲得した江戸で、実利だけではない価値を孕む「文化」が醸成されたのがこの頃だった。「文化」が江戸を権威づけ、またそれが人を集め、さらなる「文化」を育んだ。そうして江戸は経済的にも文化的にも、自他ともに認める中央へと成り上がった。

 ただし、あるものを高めることは、他のあるものを貶めることにもなる。

 江戸の中央化は、ただ自らの価値を高める営みによってのみ、達成されたわけではない。中央である自らを浮き立たせるために、周縁を捏造することにも抜け目がなかった。

 周縁というとただちに思い起こされるのは、別稿「北のセーフイメージ」(『ゲンロンβ』49号・50号・52号掲載)で取り上げた「蝦夷」のように、江戸から遠く隔たった辺境の事象である。

 しかし、それだけではない。江戸の人々にとって身近であったもの、尊ばれたものさえもが、首都化/周縁化のメカニズムに巻き込まれていたことを、本稿では見ていく。

■ 火事と女は江戸の端


「火事と喧嘩は江戸の華」。そう言われるほど頻繁だった江戸の火事のなかで、最大の被害を出したのが「明暦の大火」だ。日本史上最大と言われるこの大火災に、「振袖火事」なる別称があることを、恥ずかしながら最近になって知った。

 江戸幕府開府からおよそ半世紀を経た明暦三(1657)年1月18日の昼過ぎ、江戸の北、本郷丸山にあった日蓮宗本妙寺から出火。北西からの強風により舞い上がり燃え広がった火が、江戸の町を焼き尽くした。『元延実録』によれば、大火後に牛島新田(現在の墨田区両国)に葬られた死者は63430余人、加えて漂着した死体が4654あったという。

 江戸城は西の丸をのぞき消失。160にのぼる大名屋敷をはじめ、旗本屋敷や町人町にも甚大な被害があり、江戸の市街地の6割ほどが焼亡したという。大火以前の桃山風の壮麗な大名屋敷は失われ、かわって災害からの復興では、質素倹約を旨とする建物が建ち並ぶようになる。

 災害に強い街づくりがそこからはじまった。百万都市江戸の繁栄は、この火事を起点とするといっても過言ではない。

 このため火をつけたのは江戸幕府ではないかという陰謀論も囁かれてきたようだ。だがそれよりもずっと広く長く、まことしやかに伝えられてきた話がある。それが「振袖火事」の由来だ。

 



 話のあらましはこうだ。麻布の質屋の娘、17歳の梅野が本妙寺に参詣した折、上野の山ですれ違った寺の小姓らしき美少年に一目惚れする。恋の病のためか、日々衰弱していく梅野。小姓を探すが見つからず、両親はせめてもの慰めに彼が着ていたのと同じ柄の振袖を梅野に与えた。狂喜乱舞も束の間、やがて梅野は振袖をかき抱いたまま命を落とす。その振袖をかけられた棺が、本妙寺に納められた。

 寺の者はその振袖を古着屋に売った。ところが翌年の梅野の命日に、上野の町娘・きの(17歳)の葬式があり、棺にあの振袖がかけられて同寺に納められた。再度売られた振袖はまた別の町娘・いく(17歳)の葬式で、3たび本妙寺に運び込まれた。

 因縁を感じた住職は、振袖を寺で焼いて供養することを3人の娘の両親たちとともに決めた。住職が読経しながら護摩の火の中に振袖を投げこむと、北方から一陣の狂風が吹きおこり、舞い上がった火が延焼、江戸の街を焼き尽くす大火となった★1

 



 江戸時代最大の惨事の要因は、17歳の少女の恋に帰されてきた。

 これとよく似た話がある。
 天和元(1681)年2月、本郷丸山の火災によって指ケ谷町の円乗寺に避難した八百屋一家のひとり娘お七は、円乗寺の寺小姓左兵衛と恋に落ち、再び恋人に会うために放火。その咎により鈴ケ森で火刑となった。16歳だった。

 井原西鶴『好色五人女』(1686年)の一編となって流行したこの「八百屋お七」の物語は、文字通り恋に身を焼いた女の悲劇だ。しばしば「振袖火事」と混同されるこの話をもとに、浄瑠璃や歌舞伎などの多くの演目がつくられ、お七は幕末にいたるまで尊ばれる悲劇のヒロインとなる。

 女と火事の悲劇といえばさらには、安政大地震に伴い発生した吉原の火災が思い起こされる。安政二(1855)年10月2日に発生した江戸開府以来の大地震は、市中の30数箇所で火災を引き起こし、死者数は1万人近くと推定されている。なかでも多くの死者を出したのは吉原で、1000人近くの死者を出し、その大半は遊女であった。

 恋の病で江戸を焼き尽くした梅野、恋のために身を焼かれたお七、仮初めの恋を売る遊女もろとも焼けた吉原。火事は喧嘩よりもなお、女に、もっと言えば、女と恋に、密接に結びついていたようだ。

 さらに、気がかりなことがある。梅野が小姓に熱をあげた上野、お七が火刑に処された鈴ヶ森、そして明暦の大火後に日本橋近くから浅草千束へ移転させられた吉原は、いずれも江戸の北東あるいは南西、すなわち江戸の鬼門と裏鬼門に位置していた。

【図1】鬼門と火事と女の結びつきマップ

 

 女と恋と火事の物語の舞台は、鬼門だった。鬼門でなければならなかった。なぜか。

■ 女と犬と骨


 地蔵が佇む荒野に浮かび上がる円窓、そこには遊女の姿がある。

 菊池容斎(1788-1878年)による《小塚原図》★2(図2)は、安政地震の火事で亡くなった吉原の遊女を弔うものだと推測されてきた。この一枚の絵を通して、先の疑問を解いていきたい。

【図2】菊池容斎、柴田是真、鈴木守一、加納夏雄/合作《小塚原図》(安政2〈1855〉年、江戸東京博物館所蔵)

 

 小塚原こづかはらは、鈴ヶ森と並ぶ江戸の2大仕置場しおきばである★3。寛文年間の設立から明治初めの廃止まで約20万人がそこで処刑されたという。正保-慶安(1644-52年)の頃には、浅草・下谷近辺の各寺院の火葬場が小塚原一所に移転されたといい、一帯は江戸の一大火葬場でもあった。
 寛文七(1667)年には刑に処された者の霊を回向えこう(供養)する回向院が両国回向院の別院として建てられ、寛保元(1741)年には刑死者を弔うための高さ一丈余の地蔵菩薩──今日、延命寺の首切地蔵と知られる──が建立された。首切地蔵は、茫漠たる原っぱであった小塚原にあって一際目をひく存在で、周辺の日光道中を描く絵図や小塚原の仕置場を舞台とする歌舞伎に登場し、この地のランドマークとなった★4

《小塚原図》の画面の半ばに、この地蔵菩薩のシルエットが浮かび上がる。右手に錫杖を持ち左手に宝珠を乗せ、蓮台に座す。その像容は、今日も南千住の駅近くに佇む首切地蔵と違わぬものだ(図3)。


【図3】小塚原の「首切地蔵」(延命地蔵菩薩) 撮影=春木有亮

 

 画面下方左側には、白い犬だろうか。茂みにうずくまっているようだ。この犬が人骨を銜えているという指摘があるのだが★5、近づいて見ても細部は不明瞭で、よくわからない(図4)。

【図4】菊池容斎、柴田是真、鈴木守一、加納夏雄/合作《小塚原図》(部分)(安政2〈1855〉年、江戸東京博物館所蔵)

 
 犬に見えるもののすぐ脇の薄暗がりには、犬と呼応するような似た形の、岩と思しきものがある。この犬と岩からやや離れた画面右下には、白い塗り残しで、なにかの破片のようなものが見える(図5)。

【図5】菊池容斎、柴田是真、鈴木守一、加納夏雄/合作《小塚原図》(部分)(安政2〈1855〉年、江戸東京博物館所蔵)

 

 首切地蔵によって、そこは小塚原であると示されているのだった。とすればその破片があらわすものは、打ち捨てられた人間の骨である。

 



 小塚原の仕置場では、斬罪や獄門、火罪、磔などの刑罰が執行された。遺体は試し切りや腑分け(解剖)に利用されることもあった。明和八(1771)年に杉田玄白らが腑分けを実見して「ターヘル・アナトミア」の正確さを確認し、その翻訳書『解體新書』刊行を決意した舞台も、小塚原であった。玄白は『蘭学事始』にこの地を「骨ヶ原」と記している。

 付近には刑死者や無縁者が埋葬された。遺体に浅く土をかぶせる程度だったので、一帯には野犬やカラスが群がったという★6。『江戸繁盛記』(寺門静軒、1832-36年刊)には、近くの千住宿の遊女が客を引き留めるのに、「恐怕きょうはくす、小塚こずかつぱらの犬(あの小塚原の犬が心配なんです)」と言ったとある。小塚原の犬は刑罪者の肉をむさぼりくうので甚だ凶暴であったという★7

 首切地蔵と犬、野ざらしの人骨。そんな荒涼とした景こそが、江戸の小塚原表象だった。すなわち画面右下の白抜きの物体を、江戸の人々はただちに人骨の破片と見なしたはずだ。先に岩と見た犬の隣の塊も、人間の骨に見えてくる。

 



 この絵が描くのは小塚原であり、そして死である。

 加えて小塚原近くには、吉原の遊女が多数遺棄されたことから「投込寺」の異名を持つ浄閑寺がある。さらにこの絵の制作は「乙卯」、すなわち安政江戸地震があった安政二(1855)年であることが記されている。そのため本作は、遊女の死を弔うものだろうと想像されてきた。

 しかし、画中の年紀はよく見ると、「乙卯肇夏」である★8。安政二(1855)年には違いないものの、「肇夏」は旧暦4月を指す。地震があったのは、同年の旧暦10月2日、すなわち本作は地震よりも前に制作されていたこととなる。

 つまり残念ながらこの絵は、安政江戸地震とはまったく関係がない。

 



 それではこの絵は本稿の問い──女と恋と火事の物語が、その舞台たる鬼門と結びつく由縁──を解き明かすのに、ふさわしくないものなのだろうか。そんなことはない。

 不幸な女を弔うものと思われたこの絵は、不浄なる女を鬼門に閉じこめんとする絵であったからだ。

■ 嫌われ小町の一生


 手がかりが2つある。

 1つは容斎の弟子、松本楓湖(1840-1923年)によるこの絵の写し(図6)だ。

 容斎の《小塚原図》を構成する3つの要素──円窓の遊女、地蔵菩薩、犬──のうち、楓湖は遊女と犬を取り出し、小画面に縮小して再構成している。円窓の遊女は、容斎画をそのまま引き写しているのに対し、犬の姿は随分と違っている。描かれているのはもはや犬ではなく、全き人骨である。

 中央に頭蓋骨、その左には骨盤、右には腕の骨と思しきものが並ぶ。遊女と骨は対角線上に配置され、向かい合う。

【図6】松本楓湖/画《小塚原図》(模写)(江戸東京博物館所蔵)

 

 そもそも容斎の《小塚原図》では、犬が不明瞭な、よくわからない姿形で描かれていたことを先に見た。楓湖による写しを踏まえて改めてその白い犬を見ると、そこに重なるように、白骨のイメージが散らつく。

 もしかするとこれこそが容斎の狙いかもしれない。すなわち、犬と骨のダブルイメージの効果を図るために、あえて犬を不明瞭に描いたのではないか。

 



 この発想は、あながち荒唐無稽とも言えない。

 犬と骨、この組み合わせには、文学的な背景があるためだ。

 俳諧の付合語集★9を紐解くと、「犬」の寄合語には「死骸」★10や「墓原」★11が挙げられている。俳諧において、犬は人の死と結びつくものだった。

 では、そもそも俳諧で犬と死が縁を結んだのは何故か。ここでいま一つの手がかりが鍵となる。この絵の円窓に浮かぶ遊女の帯だ。そこには、「誘ふ水あれは」と読める散らし書きの文字文様が施されている。この文字の並びは、古今和歌集(905-914年)に載る小野小町の和歌を導く。



 わびぬれば 身をうき草の ねをたえて さそふ水あらば いなんとぞ思ふ

(生活の糧を失った身ですので、誘ってくれる方があれば何処へでも参ってしまうでしょう)

 



 三河へ下る文屋康秀の誘いに対し、冗談混じりで返した贈答歌で小町は、己のき身を浮草に重ねている。犬も骨も登場しないこの和歌が、その2つを結びつける。どういうことか。

 その結びつきをあらわす物語に、謡曲『通小町かよいこまち』がある。美術史学者の今橋理子は、この謡曲に照らしつつ長澤蘆雪筆《幽霊・仔犬に髑髏・白蔵主図》(藤田美術館所蔵)の三幅対──中幅に女の幽霊、左幅に僧侶姿の狐、そして右幅に髑髏とそれに寄り添う仔犬を描く──の検討を行い、犬と髑髏の結びつきの文学的伝統を解き明かした★12

 ある僧が老婆に導かれて、野晒しの髑髏を見つける。それは小野小町の成れの果てだった。美貌と才気で栄華を極めた小町は、やがて落ちぶれ老いては天涯孤独となってさすらい、流浪の果てに斃れたのだった。そこへ小町の霊と、小町の成仏を妨げる深草の少将の霊が登場する。かつて少将は小町に恋をし、「百夜通へ」という小町の言葉に従い通い続け、残り一夜を残して死を迎えた。思いを果たせなかった少将は、死後も地獄で失意に苦しんでいた。

 少将の霊は言う。



 さらば煩悩の犬となって、うたるると離れじ

(それならば私は煩悩の犬となって、飼犬のようにつきまとい、打たれても離れまい)★13

 



 小町への断ち切れぬ思いと怨みを抱える我が身を、少将は「煩悩の犬」に例えている。謡曲は、僧の仲介によって小町と少将が百夜通いを演じ直し、少将の無念が晴らされ、ふたりが成仏して終わる。蘆雪の「仔犬に髑髏」図で、髑髏に寄り添う仔犬はまさに、対象(小町)への執心をあらわす「煩悩の犬」、すなわち少将そのものだと、今橋は看破した。

 これを踏まえると、楓湖による《小塚原図》の写しが、異様な光景へと転じる。犬から描き変えられた白骨、それがあたかも、遊女に向かって手を伸ばすかのように見えてくる。死してなお小町に執着する少将の霊を、思い起こさずにはいられない。

 



 そして同時に、『通小町』の髑髏は小町そのひとのものだった。この結びつきには、さらに長い伝統があると今橋は述べる。

 人間の遺体が死んでから火葬に至るまでに経過する九つの様態「九相」を示す「九相図」がそれだ。中国から日本に伝わり、鎌倉時代以来描かれてきた仏教画題である。日本に現存する作品群では、遺体はみな女性である。しかもほとんどは小野小町に比定され、「小野小町九相図」などの別称で絵解きに用いられたという。 

 細川涼一によればそこには、女色への執心を不浄観によって取り去るという仏教の教えが関わっている★14。そのうえで、今橋は次の結論を導く。

 髑髏のモチーフは、男性の「女性の肉体への執心」という煩悩を、死の恐怖や女性の不浄さとともに、具現化する役目を担っている。

■ エロス・タナトス・鬼の門


 いまいちど、容斎画《小塚原図》に視線を戻そう。繰り返せば、その遊女の帯の文字模様には、小町の次の和歌が示されていた。



 わびぬれば 身をうき草の 根をたえて さそう水あらば いなんとぞ思う



 憂き身を浮草に重ねるこの和歌は、まさしく流浪の果てに髑髏へと向かう小町の行く末をほのめかす。

 容斎画《小塚原図》の円窓のなかの遊女は、今は美しいその姿がやがて消えゆき、髑髏となる成れの果てを暗示するものと理解される。加えて先の謡曲では、受戒を願う小町の決心が「曇らじ心の月」と表現されてもいる★15。したがって本作の、曇りなき月に浮かび上がる遊女には、哀れな死を迎えながらもなお成仏を願う小町が重ねられているといえよう。

 対して、うずくまる犬には先に見た通り、小町への執心のために地獄をさまよう煩悩の犬、深草少将が重ねられる。

 加えて、容斎が犬と白骨とを二重写しにしたとすれば、それは小町の成れの果てともなるだろう。

 二重写しの狙いは、それだけではない。容斎は本図に、先の九相図のイメージをも、含みもたせようとしたのではないか。このように推測するのは、容斎もまた、小野小町の九相図を手がけているためだ。

 容斎は、《小塚原図》制作の7年前、嘉永元(1848) 年に《九相図》(ボストン美術館所蔵、URL=
https://collections.mfa.org/objects/27056)を手がけている。《小塚原図》には、《九相図》を引き継ぐ特徴が見出せる。

 一つは構図だ。《九相図》の画面左上、散乱する白骨と五輪塔、その間を棚引く雲煙の配置は、容斎画《小塚原図》の犬と首切地蔵、その間の雲煙の配置にぴたりと重なる。容斎は《九相図》の白骨を──弟子の楓湖が後にやったのとは反対に──《小塚原図》で犬へと転じた。

 さらに容斎は、《九相図》で小町の生前の姿と白骨の成れの果てとを、彩色/カラーから次第に色褪せ水墨/モノクロになっていくという変化で表現している。《小塚原図》はこの構造をも受け継いでいる。円窓のなかのあでやかな遊女の姿と荒涼たる小塚原の景とが、彩色/カラーと水墨/モノクロで対比される。それは、生と死の対ともなっている。

 



 1つの画面のなかで、色のあるなしで生死のコントラストを見せるこの発想は、小塚原というテーマに恰好である。その地は刑場と火葬場という死に直結する地でありながら、他方で遊里の賑わいを見せる一帯でもあったからだ。

「北は千寿、南は品川まで」。荻生徂徠が『政談』(1725年頃)でそう述べるように、鬼門に位置する千住と裏鬼門に位置する品川は、江戸の端であった。そこに、小塚原と鈴ヶ森という江戸の2大処刑場、そして吉原と品川の遊里が配された。

 それに加えて小塚原は処刑場でありながら、日光街道・奥州街道1番目の宿である千住宿の発展に伴い賑わいを見せた。とくに私娼である飯盛女を置いた飯盛旅籠は、元禄一五(1702)年には吉原から遊女取締の訴え(「遊女諸事出入書留」)が出されるほど繁盛したという★16

 松浦静山による『甲子夜話』(1821-1841年)に、千住の遊女が客に出した手紙の記事がある。「菜の花も咲き乱れ、はりつもママ候て人も出、にぎやかに候、ちとお越し候へかし」。最近はりつけの刑があって見物人も多く出てにぎやかですから、ちょっとお越しください、という勧誘である★17

 小塚原とその近辺は、生/性の喜びと死の恐怖が隣り合う場であった。

 



 小塚原というテーマを得た容斎は、そんなアンビヴァレンスを見逃さなかった。女と恋、それがもたらす悲劇。華やかなりし生/性の喜びと虚しき死の恐怖の物語を、小塚原の景に忍び込ませた。



 花の山 鬼の門とハ おもわれず

『柳多留』11篇





 18世紀に東叡山を詠んだこの川柳は、江戸の桜の名所が鬼門であること、すなわち鬼門のアンビヴァレントな在り方が、定着していたことを伝える。

 女と恋が火事と結びつく物語の舞台が鬼門であった理由は、もはや明白だ。不浄なる女、男を惑わす恋、災いをもたらすそれらは周縁に追いやられるべきものであった。都市の秩序を維持するためのいわば呪文のようなものであればこそ、それらの伝説は、生き永らえてきたのだろう。

■ 閉じ込められたアンビヴァレンス


 男の執心と煩悩を女の不浄と恐怖によって戒めるという思想が、《小塚原図》の下敷きになっている。この絵は、恋と女を警告する。

 だがこの解釈だけでは、少々お行儀がよすぎる。

 ここまで《小塚原図》を、菊池容斎による作品とのみ見てきた。しかしこの掛け軸全体は、4人の作家による合作となっている。すなわち容斎による本画を、別の3人の作家が共同で装丁している。その仕立てを踏まえると、鬼門へと押しやられたもの、都市の周縁に封じ込められたものの本質が、見えてくる。

【図7】掛軸の表装各部の名称。作成=筆者

 

 本画を囲むなかまわしには、蒔絵師・柴田是真(1807-1891)が「地獄変相図」を金泥で描いている(図8)。その上下、すなわち掛軸の「天」「地」と呼ばれる部分には、江戸琳派の絵師・鈴木守一(1823-1889)が銀泥で「楽器図」(図9)、彩色で「睡蓮図」(図10)を描く。いずれも極楽浄土をあらわすものだ。軸端には、金工師・加納夏雄(1828-1898)が彫金で、「善」「悪」(図11)の文字を陽刻している。

【図8】柴田是真/画「地獄変相図」(部分)


【図9】鈴木守一/画「楽器図」


【図10】鈴木守一/画「睡蓮図」


【図11】加納夏雄/鉄彫「善悪」軸

 

 金で描かれた地獄と、銀で描かれた極楽。善と悪。容斎以外の3人もまた、対比の遊びを見せている。そのうえやはり、女と恋とを戒める内容を含んでいる。

 



 夏雄が軸に彫った「善」「惡」の文字は、遊郭での女郎買いを戒める典型的なモチーフ「善玉」「悪玉」と無縁でないだろう。「善」「惡」の文字を丸囲みした面をつけたキャラクターが、寛政二年(1790)に戯作者・山東京伝が著した黄表紙『心学早染艸』(図12)に登場し、人気を博した。

 理太郎という真面目な男が悪玉に取り憑かれ、吉原に連れていかれて遊女の虜となってしまうという筋だ。善玉と悪玉の小競り合いという趣向は、本書の刊行から幕末にかけて『北斎漫画』などの版本や浮世絵で繰り返し利用され、歌舞伎芝居にも取り入れられた。

【図12】山東京伝/著、北尾政美/画『心学早染艸』(寛政2〈1790〉年刊行、国立国会図書館所蔵)

 

 京伝といえば、いま一つ、本作との関連を考えるべき読本『本朝酔菩提全伝』(1809年刊)がある。これはかの有名な一休さん(一休和尚)の外伝と呼ぶべき内容で、後世盛んに描かれ人気を博す遊女・地獄太夫の活躍を描くことでも知られる。

 その冒頭に興味深い挿絵がある(図13、14)。美人図をめくると骨があらわれるという仕掛けで、「骨かくす皮にハたれも迷ひけり/美人といふも皮のわざなり/一休」の詩文が添えられる。美人も皮をめくればただの骨だ、という風刺・教訓を、滑稽に表現したものだ。容斎画《小塚原図》での女と死/骨の対比に通底する思想が、ここには漂っている。

【図13】山東京伝/著、歌川豊国/画『本朝酔菩提全伝』首巻(文化6〈1809〉年 刊行、国文学研究資料館所蔵)


【図14】同前

 
 もしかすると、鈴木守一が「池」ならぬ「地」に描いた「睡蓮図」は、川骨あるいは河骨とも表記されたスイレン科の水草コウホネの暗示かもしれない。美しい花も美しい女も、皮──川・河(カワ)と音が通じる──と骨に過ぎないという警句がここにも込められているのではないか。

 以上のように、合作総体で見てもなお、女と恋への戒めが、《小塚原図》に通底するテーマであると言える。

 ただし、夏雄の「善玉」「悪玉」や、守一のコウホネの暗示、そこから想起される山東京伝の著作に通底するのは、教訓を垂れるという真面目な態度よりもむしろ、その真面目さをネタにして茶化すという気分である。女の不浄観というコンサバティブな価値観を、そのまま継承するのではなくむしろネタにして、機知と滑稽で応える。合作者四人のその応答の趣向の競演こそが、この絵の本意であるように思われる。

 

 

 江戸の機知と滑稽は、辛い「憂き世」を、儚いからこそ享楽的に生きるべき「浮世」へと、反転させた。浮世の文化の代表である歌舞伎は、阿国による男女反転の異性装の踊りからはじまった。鬼門は花の名所であり、遊女は観音の化身であり、悪人も死後には仏となった。

 あらゆるものに反転可能性を見出し、価値を転倒させる営みは、芝居と遊里という悪所で極まった。──いずれも鬼門に位置していた。

 芝居と遊里、それと密接に結びついた出版文化は、秩序を揺るがすものであるがために、時に危険視され取り締まられた。

 善玉・悪玉を生んだ『心学早染艸』は、寛政の改革の出版統制により手鎖五〇日という厳しい処分を受けた山東京伝が、統制の目を逃れるために「理屈臭き」趣向で遊里を描いたものだ。教訓を茶化すことは、京伝流の切実な、反骨・抵抗の仕草だと言えよう。

 

 

 鬼門に封じ込められたのは、秩序を揺るがす反転可能性だ。恋と女は、最も焦がれられ尊ばれるものだからこそ、最も卑下されなくてはならなかった。その反転は、身分秩序厳しき江戸で、許されるものでなかった。ただし、鬼門を除いて。

■ 周縁を捏造する街づくり


 怨霊である平将門が江戸の守護神でもあるように、日本の神や鬼は反転可能な存在だ。都市の秩序を揺るがす脅威は、都市を外敵から守る盾へと転じる。そんなリバーシブルな時空、為政者にとって都合のよい江戸の鬼門システムを編み上げたのは、徳川家康を神格化した大僧正天海だといわれる。

 鬼門・裏鬼門を定めて中心たる江戸城を浮かび上がらせた天海の街づくりは、京都に倣ったものだ。桓武天皇が平安城に都を定めたとき、皇城の鬼門すなわち北東/丑寅にあたる比叡山を鬼門鎮護の地とし、同地に延暦寺を建てたという伝承を踏襲したという。

 京に倣ってつくられた江戸は、いつしか京に並ぶ。今日、江戸時代は、天皇を中心とする京都と、将軍を中心とする江戸との、二重王権だったと言われる。

 それはいつから、いかにしてなったことなのか。江戸は、模範とした京都までをも周縁化して、自らの中央化に利用したのだった。例えば富士山を使って。次回はその様を見る。

 

【画像出典】 図2、4、5、6、8、9、10、11:江戸東京博物館提供 図12:国立国会図書館デジタルコレクション 図13、14:日本古典籍データセット(人文学オープンデータ共同利用センター提供)

★1 「明暦酉年大火の事并振袖火事と云由来の事」、『名誉長者鑑』、金桜堂、1885年、矢田挿雲『江戸から東京へ』第1巻、中央公論社、1975年、125-129頁を参照し春木がまとめた。
★2 縦108.5センチ、横40.1センチ、絹本着色。落款「乙卯肇夏/容斎老人」「雲笠行者」 朱文方印。
★3 小塚原については「小塚原」、『新版 角川日本地名大辞典』、「ジャパンナレッジ」(URL= https://japanknowledge.com 2021年1月13日閲覧)、および「杉田玄白と小塚原の仕置場」展図録、荒川区教育委員会、荒川区立荒川ふるさと文化館、2007年を参照した。
★4 「杉田玄白と小塚原の仕置場」展図録、荒川区教育委員会、荒川区立荒川ふるさと文化館、2007年、64頁。
★5 氏家幹人『大江戸残酷物語』、洋泉社、2002年、21頁。
★6 「杉田玄白と小塚原の仕置場」展図録、荒川区教育委員会、荒川区立荒川ふるさと文化館、2007年、7-8頁。
★7 『江戸繁昌記』3、朝倉治彦、安藤菊二校注、平凡社、1976年、165-167頁。
★8 江戸東京博物館落合則子学芸員の指摘による。
★9 連歌や俳諧では、前に詠まれた句を踏まえて別の作者が次の句を詠むとき、創意が生じる。この句と句の関係を「付合つけあい」といって、さまざまな型やルールがある。典型的なのが、語の寄合による付合だ。寄合とは、ある語に対して縁のある、付合となりうる語を指す。連歌・俳諧が発達し詠み手が増えるにつれ、付合の指南書や、寄合をまとめた寄合書がつくられるようになった。
★10 松江重頼編『毛吹草』、1645年。今橋理子『江戸の動物画──近世美術と文化の考古学』、東京大学出版会、2004年、335頁。
★11 梅盛著『俳諧類船集』、1676年。
★12 今橋理子、前掲書、207-335頁。本稿での今橋による指摘はいずれも上記文献による。
★13 小山弘志、佐藤健一郎校注・訳『新編 日本古典文学全集(五九)謡曲集(二)』、小学館、1997年、201頁。
★14 細川涼一『女の中世──小野小町・巴・その他』、日本エディタースクール出版部、1989年、241頁。
★15 同書、201頁。
★16 「小塚原」、『新版 角川日本地名大辞典』、「ジャパンナレッジ」(URL= https://japanknowledge.com 2021年1月13日閲覧)。
★17 松浦静山『甲子夜話2』、中村幸彦、中野三敏校訂、1977年、平凡社、34頁。

春木晶子

1986年生まれ。江戸東京博物館学芸員。専門は日本美術史。 2010年から17年まで北海道博物館で勤務ののち、2017年より現職。 担当展覧会に「夷酋列像―蝦夷地イメージをめぐる人・物・世界―」展(北海道博物館、国立歴史民俗博物館、国立民族学博物館、2015-2016)。共著に『北海道史事典』「アイヌを描いた絵」(2016)。主な論文に「《夷酋列像》と日月屏風」『美術史』186号(2019)、「曾我蕭白筆《群仙図屏風》の上巳・七夕」『美術史』187号(2020)ほか。株式会社ゲンロン批評再生塾第四期最優秀賞。
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