自然発生的な祭壇と震災モニュメント──東日本大震災後の公共空間における「宗教的な形」の役割|君島彩子

振り返ってみると、わずか11年のあいだに多くの出来事があった。熊本の震災や御岳山の噴火、さらには豪雨など毎年のように自然災害によって多く人々の命が奪われている。次々と起こる災害や事件のニュースを見ていると、東日本大震災の記憶は風化してしまうのではないだろうかと感じることもある。だが津波の被害が激しかった海岸線には新たに防潮堤や防災緑地が作られるとともに、震災の記憶を継承するための施設、そして慰霊碑や彫刻などのモニュメントが建設されている。
時間経過とともに記憶は忘却され続ける。だからこそ重大な出来事を後世へ伝えるため、何らかの形で記憶を残そうとモニュメントが建立されるのだ。震災後、100年以上前の津波到達の碑が各地に残されていることが注目された。津波到達の碑のように震災に関するモニュメントのなかには100年後の人々に津波や震災について伝えるものがあるかもしれない。
モニュメントとは?
筆者は2021年、『観音像とは何か──平和モニュメントの近・現代』という博士論文をもとにした書籍を出版した。仏像は古いものという印象が強いが、同書では、近代以降に西洋から導入された彫刻やモニュメント概念と結びつくことで、観音像が「平和モニュメント」として新たな役割を担ったことを明らかにしている。大学院に進学した直後に東日本大震災を経験した筆者にとって、被災地における調査の経験がモニュメント研究の原点となった。特に福島県いわき市では継続して調査をおこなうことで、震災後、モニュメントが建立されるまでの状況を知ることができた[★1]。震災から11年がたった今、自身のモニュメント研究の原点でもある、いわき市の震災モニュメントの調査を振り返りつつ、モニュメントが形成される過程、そしてモニュメントにおける宗教的イメージについて考えてみたいと思う。
モニュメント(Monument)は原義的に「思い出されるもの」を意味し、様々な出来事を歴史的・社会的に永久に記録するために建立される建造物である。モニュメントは文献資料のように詳細に歴史的記録を伝えるものではないいが、多数の人々の目に触れることで特定の集団における記憶と結びつき、「集合的記憶」を構成するものとなる[★2]。さらに日本では、モニュメントの役割として死者の慰霊が重視され、社会的機能においても宗教性をもつものと認識されてきた[★3]。戦争や自然災害などの甚大な被害があった際に、その事実が忘れられることがないように、そして犠牲者を慰霊するために、モニュメントが建立されてきた。
モニュメントの素材には石やブロンズが使用されることが多く、その強固な物質性からも恒久性が期待されていることがわかるだろう。だが実際に個別のモニュメントを追ってみると、短期間に移動したり碑文が改変されたりすることで意味が変っているものも存在している。さらにアジア太平洋戦争関連の慰霊碑などでもすでに消滅しているものもあり、モニュメントの恒久性は過信するべきではないだろう。
また、大規模な戦災や自然災害では復興事業が優先されることもあり、モニュメントの建立が数年から数十年の時間が経ってからになることも多い。モニュメントの建立理由という一過性の側面だけでなく、それが形成されるまでの過程、そして完成後の変化についても調査することで、なぜ人はモニュメントを必要としているのか、そしてモニュメントに願われた祈りの一端が明らかになるではないだろうか。
いわき市の海岸線上では、石やブロンズによる恒久的なモニュメントが建立される前に仮設の祭壇が存在していたため、これらの祭壇についてもモニュメントの前段階として検討の対象とする。特に、日本ではモニュメントが宗教性をもつと認識されるとされているため、モニュメントと「宗教」がどのように関わるのか検討してみたい。
久之浜と薄磯における自然発生的な祭壇
誰かが不慮の死を遂げた現場を示すために、人々が感情に衝き動かされて設けた一時的な記念建造物を、ジャック・サンティーノは「自然発生的な祭壇」(Spontaneous Shrines)と名付けている[★4]。通常、自然発生的な祭壇は、宗教的な像、花やロウソク、個人的な思い出の品やメッセージからなるとされ、交通事故やテロなど様々な事件のなかで死者を追悼するために作られる。日本においても、2019年の京都アニメーションの放火事件現場に多くの花やメッセージが置かれていたことは比較的記憶に新しいだろう。死者に対する追悼において、「自発的な意志の表現」が集まることで祭壇のような空間が作られる。多くの場合、祭壇が作られる場所は故人が最後に生きていた場所であり、祭壇に残されたメッセージは死者とのコミュニケーションともなり得る。
自然発生的な祭壇は仮設的であるがゆえに長く存在するものではない。手向けられた花束も数日経てば枯れてしまい、紙に書かれたメッセージや折り鶴なども雨風に晒されれば現状を保つことができない。ところが東日本大震災後の海岸線においては、卒塔婆を中心に、花束や紙に比べれば耐久性の高いものが置かれることで、自然発生的な祭壇が1年以上の長期間にわたり存続していた。津波によって大きな被害を受けたいわき市の久之浜地区と薄磯地区の海岸線沿いでは、自然発生的な祭壇が形成され、維持されていた。久之浜でも薄磯でも、震災後、大規模な護岸工事がおこなわれ、現在は完了している。共に、この工事の開始される前、そして工事中に祭壇が作られていた。断片的ではあるが、2つの場所の祭壇の変化を追ってみたい。
まず、久之浜の祭壇を紹介しよう。久ノ浜では護岸工事に伴い、祭壇が海岸付近で数回移動し、その規模も変化している。2011年7月頃にはすでに、久之浜の防波堤に沿うように卒塔婆や花束などが集中的に置かれ、自然発生的な祭壇となる場所が形成されていた。そのなかには「南妙法蓮華経」と題目の書かれた小さな石も供えられていた。聞き取りによってこの石を置いたのは近隣の日蓮宗寺院の信徒と分かっている。
2012年3月には、場所を少し横に移動し、夏頃には防波堤の段差部分を利用して、花を植えたプランターが設置され祭壇は大型化した【写真1】。聞き取りによるとプランターを設置したのはキリスト教関係者であり、花が植えられるだけでなく、プランター内には小さな天使の像も置かれていた。また卒塔婆や線香を手向ける香炉が置かれるほか、千羽鶴や飲み物、花束なども供えられている。卒塔婆の宗派も複数であり、題目の書かれた石や天使の像が置かれていることから、異なる宗教・宗派の人々がこの祭壇を祈りの場としていたと理解できる。

薄磯地区においても自然発生的な祭壇が形成されていたが、その最初は2011年5月11日に置かれた卒塔婆である。真言宗智山派青年会が薄磯海岸の砂浜へ降りる階段の上に卒塔婆をあげて、供養をおこなった。この卒塔婆の付近に供物、香炉、小さな仏像、花束が置かれるようになり、祭壇化したのである。その後、日蓮宗や立正佼成会など複数の宗派の卒塔婆が建てられていることから、様々な人々がここで手を合わせていたことがわかる。2013年3月11日には、木製の台が追加され、同年夏頃には、「鎮魂」と書かれた花入れが確認できるなど、次第に祭壇は大型化していく【写真2】。花束や貝殻、酒類やジュースなど様々なものが供えられており、この場所も多様な人々の祈りの場であったと理解できる。
2014年3月以降、海岸の工事に伴い、階段上の祭壇は薄磯地区の真言宗智山派の寺院、修徳院境内に移された。寺院境内に移動したことで、祭壇の多様性は失われ、寺院の施餓鬼の卒塔婆と一体化し、以降は智山派青年会によって毎月月命日にあたる11日に回向がおこなわれた。

久之浜と薄磯で自然発生的な祭壇が長期間続いた背景には、遺族など死者を直接的に知る者の関わりよりも、宗教者を含めて外部から訪れる者の方が多かったこともあるだろう。祭壇で手を合わせた全ての人を特定することはできない。だが、様々な宗派の卒塔婆が確認できることや、キリスト教関係者が置いたプランターなどからも、自然発生的な祭壇には複数の宗教者や宗教団体が関与し、宗教や宗派の制約なく手を合わせることができる場所となったことがわかる。
卒塔婆はstūpaという仏舎利を安置する塔に由来するが、宗教者以外に仏教的原義などを気にしている者はほとんどいないだろう。だが仏事などの慣習のなかで見慣れた卒塔婆の形は、不慮の死を遂げたものへの慰霊を想起させることにつながった。そして長く続く海岸線において、卒塔婆が建てられた場所が特定の意味を有する自然発生的な祭壇になったのである。
自然発生的な祭壇から恒久モニュメントへ
久之浜と薄磯の自然発生的な祭壇は、人々が手を合わせる場所として特別な意味をもった。祭壇は当初から計画的に造られたものでないため、護岸工事にあわせて移動し、規模が変化するなど恒久性をもつモニュメントとは異なる柔軟性を有していた。さらに久之浜と薄磯のモニュメントの形成状況を見ると、自然発生的な祭壇の要素が恒久モニュメントへと発展したとも捉えることが可能である。
久之浜の祭壇は撤去された後、その旨の書かれた看板が久之浜稲荷神社(秋葉神社)に設置された。また祭壇の一部も稲荷神社に納められていたようである。稲荷神社は海岸線から40メートルほどの場所に位置し、津波によって鳥居は流されたものの、少し高台にあった社殿は残った【写真3】。震災後、奇跡的に残ったこの神社を訪れる人も多い。津波に流された鳥居は無事回収され、傷跡を残しながらも再び立てられている。震災後に現れた自然発生的な祭壇についての説明が稲荷神社に掲示されたことからも理解できるように、仮設の祭壇の機能は神社といういわば恒久的な宗教施設に内包されることになったのである。

2018年9月には、いわき市久之浜・大久地区の復興対策協議会が「将来において何があっても守られる場所」として、稲荷神社の境内に3つの石碑からなる「東日本大震災追悼伝承之碑」を建立した【写真4】。中央の石碑には「大地震が起きたら大津波が来る」「直ぐ逃げろ、高台へ。一度逃げたら絶対戻るな」と教訓が記され、碑文には震災の被害状況や地区再生の歩みを記録し、「鎮魂の祈りの証し」として後世に伝えていく決意が刻まれている。また芳名板には久之浜・大久地区の東日本大震災関連死のうち、遺族の了承を得た66名の名前が刻まれた。震災直後に自然発生的に形成された祭壇は撤去されたが、神社を中心とする恒久モニュメントに祈りの場が引き継がれたのである。

一方、いわき市最大の津波被害があった薄磯には、2017年3月11日、海岸線から約200メートルの防潮堤、防災緑地の内側に黒御影石の「東日本大震災慰霊碑」が建立された。この場所は、自然発生的な祭壇が海岸から移動した修徳院に隣接する(土地の所有者は修徳院だが、管理は地区でおこなっている)。慰霊碑には犠牲となった住民ら122名の名前が刻まれるとともに、「大きな地震が来たらすぐに避難する」と教訓が記され、碑の裏側には津波の高さが示されるなど、津波被害を次世代に伝える思いが込められたモニュメントとなっている。慰霊碑の隣には「祈り」という仏像風の彫刻作品が建立され、地域の包括的な祈りの場を形づくっている【写真5】。さらに慰霊碑の後方は卒塔婆を立てられるようになっており、寺院内における檀信徒のための施餓鬼の卒塔婆とは別に東日本大震災犠牲者のための卒塔婆の設置場所が造られたのである。つまり薄磯においても自然発生的な祭壇が寺院に隣接する形で卒塔婆の設置場所という機能を引き継ぎ、恒久モニュメント化したのである。

津波被害からの防潮堤や防災緑地の工事がおこなわれるなかで、神社の境内にモニュメントが建立された久之浜、寺院と隣接してモニュメントが建立された薄磯、いずれも伝統宗教との関係のなかで恒久モニュメントが建立された。自然発生的な祭壇が形成されるなかで卒塔婆が慰霊の目印として機能したように、恒久モニュメントにおいても、馴染みのある宗教のシンボルは祈りの場の形成において重要な役割を果たした。住民が中心となって建立されたモニュメントは特定の宗教団体に帰属するものではなく公共性を有するものである。
さまよえるモニュメントと宗教的イメージ
以上の久之浜と薄磯の事例から、広範囲にわたって多数の犠牲が出た災害では、卒塔婆のような分かりやすい宗教的な形が不特定多数の人々が手を合わせる場所の目印として機能し、恒久的なモニュメントが建立されるなかでも伝統宗教が有する空間との関係が重要視されたことが確認できた。ただし祈る場所の目印として宗教的な形が機能したのは、津波の被害が大きかった場所であったからである。震災の被害がさほどなく、犠牲者のなかった通常の公共空間に宗教的な形が入りこむのは難しい。
あえて「宗教的な形」と述べたのは、名称以上に造形の方が問題となるからである。つぎに、薄磯地区の慰霊碑と並んで建立された彫刻作品「祈り」と、そして同じくいわき市のJR常磐線植田駅前に設置された彫刻作品「いざなぎ いざなみ」の比較から、公共空間における宗教性の認識を確認してみたい。
さきほど紹介したように、薄磯に設置されている「祈り」は、いわき市在住の彫刻家の小瀧勝平が制作したもので、石製の台座の上に置かれた高さ1.75メートルのブロンズ像である。
小瀧によると、「祈り」の像は仏の姿をし、東日本大震災の犠牲者の思いを表した玉がその手の上で光をはなち、また津波をイメージした光背をもつ。震災当時、ライオンズクラブのガバナーだった坂本勇が、日展に展示されたこの「祈り」を見て共感し、ライオンズクラブ名義で購入した。ライオンズクラブでは当初、若い人にも見てもらえるようにと、いわき市内の親子連れも多く訪れる公共施設に設置することを希望していた。しかし、この彫刻が仏像に類似していることから「死者のことなど思い出したくないことを思い出させてしまうかもしれない」と、施設側から設置を断られた。最終的に薄磯の慰霊碑横に設置されることとなり、護岸工事が完成するまでのあいだ、いわき新舞子ハイツの敷地内に長く仮置きされていた。
「祈り」の台座には「二〇一一年三月一一日、東日本を襲った地震・津波・原発事故により多くの尊い生命が失われた。御冥福をお祈りし、あの日を忘れないために祈りの像を建立する。」と刻まれている。碑文や作品名は特定の宗教を示すものではない。だが、仏像を想起させる形が問題となったのだ。小瀧が制作した人物などの彫刻作品は、いわき市内の公園などにも複数設置されているが、仏像に類似するのは「祈り」だけである。「祈り」が公共施設で拒否された背景には、「仏像に類似している=死の想起」という連想があったのである。
「いざなぎ いざなみ」は、いわき勿来ロータリークラブが創立50周年を迎えるにあたり、記念事業として、いわき市出身の彫刻家の北郷悟に彫刻制作を依頼したものである。当初は海岸にモニュメントを設置することが検討されていたが、海岸は復興に時間がかかるため植田駅前に設置されることになった。なお、「いざなぎ いざなみ」は、植田駅前に設置される以前には日展と同じく国立新美術館で開催されている公募団体展である「新制作展」で展示されている。

いわき勿来ロータリークラブの2012年の記念事業では、東日本大震災に対する思いを後世に伝えること、そして、鎮魂と復興を願って、日本の創造の神である「いざなぎ いざなみ」の像とすることが決定された[★7]。この作品は、石製の台座の上に、高さ約2メートルのブロンズ像が置かれている。北郷の作風をよく表した写実的な頭部に対して、抽象化された身体には金箔で幾何学模様が施されている。台座には「深い鎮魂と新たな創造を永遠に刻む 平成二三年三月一一日東日本大震災の記憶を忘れじ」と刻まれている。しかしその造形を見るだけで、記紀神話に登場する神の像だと理解できる者はほとんどいないであろう。つまり特定の宗教を想起させる形でないため、駅前に建立することが可能になったのである。
「祈り」と「いざなぎ いざなみ」は、ライオンズクラブとロータリークラブという、地元住民がメンバーとなり地域で社会奉仕活動をおこなう団体が主体となって設置している。さらに地元出身の作家の彫刻作品であり、モニュメントとして屋外に設置される前に美術館で展示されるなど共通点も多い。
だが形から宗教的意味を読み取ることのできない彫刻作品「いざなぎ いざなみ」が、駅前という誰もが利用する場所に設置されたのに対して、仏像に類似するという理由から寺院に隣接した慰霊碑の横へ設置されることになった「祈り」は、結果として日本人において死者のイメージが仏教と深く結びついていること、さらにその認識において形が重要であることを鮮明にしたと言えるのではないだろうか。
慰霊における「宗教」排除の難しさ
すでに述べたように日本人の多くは無宗教を自認している。さらに政教分離の原則から、宗教的なものは公共空間から排除されるべきであると考える者が多いだろう。 だが、久之浜と薄磯の事例からも明らかになったように、多数の犠牲者を出した災害においては、卒塔婆のような宗教的な形が死者の慰霊の目印となった。卒塔婆を中心に自然発生的な祭壇が形成され、そこには宗教・宗派を問わず多くの人々が手を合わせ、花を手向けた。つまり自然発生的な祭壇は公共性を有していると言えるだろう。 当然のことながら卒塔婆を最初に建てたのは僧侶などの宗教者であり、卒塔婆自体は特定の宗教の信仰に用いられるものである。だが無宗教を自認する多くの日本人にとっては、津波によって命が奪われた場所に立てられた卒塔婆は死者を想起するひとつの記号であったと考えられる。仏教による死者に関する儀礼が慣習として定着しているため、卒塔婆が共通の目印となったのである。他方で仏像に似た彫刻作品の拒否からも明らかなように、死のイメージがつきまとうからこそ宗教的なものが敬遠される空間もあるだろう。 久之浜と薄磯においては自然発生的な祭壇の要素を取り込み、神社や寺院など伝統宗教との関係をもちながら恒久モニュメントが造られた。後世の人々に災害の記憶を伝えることがモニュメント建立の目的となるが、慰霊碑である以上は死者の慰霊を祈ることがモニュメント存続には不可欠であり、祈りによる記憶の継承もあるだろう。伝統的に神社や寺院は祈りの空間として認識されているため、そこに建立されたモニュメントも祈りの対象となりやすい。これが駅前のロータリーに設置されたモニュメントであれば祈りの対象になりにくいことは容易に想像がつく。また津波被害の大きかった海岸線のコンクリートで固められた巨大な防潮堤、今はまだ小さな苗木が並ぶ防災緑地という「慣れない風景」のなかでは、神社や寺院といった見慣れた建物が安心感を与える存在ともなっている。 久之浜と薄磯の事例は宗教的な形をもつ造形物の役割を再認識するものとなった。造形物において何が宗教的なのかという認識は個人差もあり明確に区別することは難しい。だが政教分離に反するのではないかという過剰な反応が結果として慰霊の機会や記憶の継承の場を奪ってしまうこともありえるのではないだろうか。※本稿を執筆するにあたり科学研究費補助金(研究課題番号21J40124)の助成を受けて調査をおこなった。また、いわき市内をご案内いただいた江尻浩二郎氏に感謝申し上げます。 撮影=君島彩子
★1 大正大学大学院修士課程在学中より大正大学宗教学研究室でおこなわれた震災と宗教研究会に参加させていただき、複数回の現地調査をおこなった。本稿における祭壇やモニュメントの基礎調査は同研究会のメンバー全員でおこなったものを参照している。また2015年までの調査結果をまとめた小林惇道・君島彩子・弓山達也「いわき市における震災モニュメントの現在と今後」、星野英紀・弓山達也編『東日本大震災後の宗教とコミュニティ』(ハーベスト社、2019年)が本稿におけるひとつの原案になっている。
★2 モーリス・アルヴァックス『集合的記憶』行路社、小関籐一郎訳、1989年、167頁。
★3 羽賀祥二「一九世紀日本の記念碑文化」『史学研究』272号、2011年、59頁。
★4 Jack Santino “Spontaneous Shrines, Memmorialization, and the Public Ritualesque”『立命館大学人文科学研究所紀要』94号、2010年、51-66頁。
★5 URL= http://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/actions/201307/1fukushima.html(リンク切れ)
★6 いわき市の南部は廃仏毀釈の影響から神葬祭が普及し、墓の後方には卒塔婆の代わりに霊璽を立てている場所が多いが、筆者が調べた限りでは祭壇に霊璽は見られなかった。
★7 『福島民報』2012年10月9日。


君島彩子
1 コメント
- Hiz_Japonesia2022/09/07 18:28
シラスの番組である、「観音像はなぜ平和のモニュメントになったのか――『観音像とは何か』(青弓社)刊行記念」の長文レビューを用意していた時、はじめは「中東の勉強をしていたら9・11が起こり、電気の勉強をしていたら3・11が起こり」というような書き出しにしようとしておりました。こちらの記事が公開されたため、3・11についてはこちらの記事の感想にお書きしようと思い、実際に書いた長文レビューは別のものとなりました。しかし、なかなか書くことができずにおりました。今回、意を決して、書かせていただくことにします。 ~~~ 数年前に自分の人生を整理していた際、大学入学以後で①1998~2006年②2006~2014年③2014~現在と三区分できることが分かりました。①には福岡の新四國霊場→四國お遍路→出雲國新佛霊場までで「菩薩としての自然」(≒草木国土悉皆成佛)というテーマを、②には大阪(機械都市)に住み宮澤賢治の作品から得た「菩薩としての機械」というテーマを、③には地元島根で太陽光発電の営業職をしながら「菩薩としての言語」というテーマ、をそれぞれの時期に考えてきました。そして、それぞれが『法華経(妙法蓮華経)』の①「回向文」(化城喩品第七)②「デクノボーのモデルとなった常不軽菩薩」(常不軽菩薩品第二十)③「龍と観音(エネルギーの適切な運用)」(觀世音菩薩普門品第二十五≒觀音経)と対応しているのではないか?などと考えておりました。 ~~~ そのようなことを考えている中、君島さんの『観音像とは何か』(青弓社、2021.)を知り、とても感銘を受けました。各地で目にする大小の観音像に、多くの人人の願いが込められていることが分かったからです。実際に以前風景として目にしていたもののあまり気にしていなかった、しかし著作中で紹介されていた、福岡県久留米市の救世慈母観音を参詣しました。また、地元島根に帰ってくると同時に、宮城県南三陸町の水産食品業者に自作の観音画を送りました。以前すこし東日本震災からの復興支援をさせていただいていたところ、コロナ禍のなか「いまこそ恩返し」という名目で逆に商品を送って下さり、どうお返しをしたらよいか分からなかったのです。このゲンロンβの君島さんの記事にも、自然な感情の表現を素直にすればよいのではないか?とありますが、『観音像とは何か』巻末を読んだことが、自作の観音画を返礼としてお送りするきっかけになりました。震災の苦難に寄り添う気持ちと観音(觀音経)をつなげていただき、ありがとうございました。




