文学フリマは日常でありたい|望月倫彦+東浩紀

不良債権としての文学から
東浩紀 この五月で文学フリマが100回目を迎えます。2002年の大塚英志さんと笙野頼子さんの文芸誌上の論争がきっかけで始まった文学フリマですが、その後文学を取りまく状況は大きく変わり、文学フリマも拡大の一途をたどってきました。望月さんはその拡大を事務局代表として支えてこられたわけですが、そんな望月さんがいまの文学フリマの状況や、文学や評論の状況、そして同人誌市場の可能性などをどのようにお考えなのか、お伺いしたいと思います。
文学フリマの起点は、大塚さんが『群像』で発表した「不良債権としての『文学』」というエッセイです[★1]。いまではあまり振り返られない歴史ですが、ぼく自身も当時大塚さんと問題意識を同じくしていて、それはのち『新現実』[★2]や「波状言論」[★3]を経由して2010年のゲンロンの起業につながっています。だから、活動の内容はちがっていても、ぼくは文学フリマのことを勝手に同志のように思っているところがあるんです。
望月倫彦 まさに、ぼくもそのことを言おうと思って来たんです。大塚さんがあの文章で文学を存続させる新しい方法として提案したことは四つあります。ひとつめは「出版社内部のコストダウン」。文芸編集部を会社内で独立させるというかたちで大塚さんは書いていますが、これは講談社の編集者である太田克史さんが星海社を立ち上げたことが相当しますね[★4]。ふたつめは「作家の自己責任による出版制度の導入」。大塚さんは雑誌『重力』を例に挙げていますが[★5]、東さんの『ゲンロン』はまさにこの方向の継承者です。三つめが「文芸出版の読者への開放」ですが、これはいまでいうクラウドファンディングのこと。そして四つめが「既存の流通システムの外に『文学』の市場を作る」で、これが文学フリマになった。
だから大塚さんの23年前の提案は、その後すべて実現したと言えます。いま東さんは文学フリマは同志なのだと言ってくれましたが、ぼくにとってもそうなんです。大塚さんの提案は大きな影響を与えましたね。

東 いまからみると、2002年当時は文学や出版の未来について切迫した危機感がありました。
だから笙野さんと大塚さんの論争が起こったし、大塚さんの呼びかけにひとが集まり、新しい試みもあらわれてきた。でも、いまはそういった論争はほとんど見られないし、文芸誌や文学賞の権威を疑うひとも滅多にいなくなった。かつての熱気を知っていると寂しく思いますが、だからこそ逆に文学フリマの歴史を見直すことが大事になっていると感じます。
そもそも望月さんはなぜ文学フリマの運営に携わるようになったのでしょうか。
望月 2002年は大学四年生で、大学院への進学を考えていました。そんなときに大塚さんの呼びかけを読み、第一回文学フリマに一般の出店者として参加したところ、終わったあとに「第二回をやりたいひとがいたらここに名前と連絡先を書いて」という案内があったんです。そこでそれに申し込んだ。
最初の会合は10人くらいが集まっていました。ぼくより若い学生もいたし、年配のかたもいた。そのひとたちを中心にできたのが文学フリマ事務局です。大塚さんは第二回以降にはタッチしないということで、若くて時間もあるぼくが手を挙げて代表を引き受けることになった。当初は会議も月いちくらいで負担もそれほど大きくなく、完全にボランティアでした。だから途中でやめていったひともいます。ぼく自身もそれほど長く続くとは思っていなかった。
ゼロ年代から遠く離れて
東 ところが予想に反して文学フリマは成長を続けることになります。その軌跡は文学フリマの公式サイトに掲載された年表に示されています[★6]。ただ、取材のため年表を見直して気づいたのですが、2000年代はさまざまな出来事が紹介されているのに対して、2010年代になると淡々と規模拡大の情報だけが記されるようになっている。これにはなにか事情があるのですか。
望月 ひとことでいえば、イベントをやらなくなったんですね。最初のころの文学フリマは、それこそ「東浩紀のゼロアカ道場」[★7]が典型ですが、イベントをやったり有名人の出店を取り上げたりして熱気をつくっていた[図1]。でも2010年代になると、そういった熱気に頼ることができなくなった。
転機となったのは2009年です。それまでの文学フリマは、第一回・第二回は青山ブックセンターを、そして第三回以降は秋葉原の東京都中小企業振興公社を会場としていたのですが、2009年(第八回)から蒲田にある大田区産業プラザPiOに会場を移し、ぐっと規模が大きくなった。

東 PiOに移ったことは衝撃でした。「こんなに文学好きがいたっけ」と驚きました。
望月 そうですよね(笑)。ぼく自身も当時は「5年、10年はここでいいだろう」と想定していました。ところが現実には、わずか2年半でPiOも卒業して、2011年の冬(第一三回)には東京流通センター(TRC)に移ることになってしまった。
会場が変わると、お客さんも運営側も意識が変わります。秋葉原時代の最後は、ちょうど東さんのゼロアカ道場もあり、小説や詩歌をつくるひとたちのあいだで文学フリマが認知されはじめたころでした。そしてPiOに会場を移したことで、さらに参加者が増えていく。そうなるともう特定のイベントには頼る必要がなくなっていきました。むしろ、それぞれ自分で勝手に情報を手に入れ、会場にやってきた来場者が「つぎは自分たちでも出してみようか」と考えて次の出店者が増えるといった、口コミの効果のほうが大きくなっていく。
東 文フリを象徴するイベントがなくなってしまったと。
望月 事務局の意識も変わっていきました。いま述べたように2011年にはTRCに会場を移したのですが、2010年代半ばの数年は、出店者数は増えたものの来場者数がほぼ横ばいの時期がありました。
いま振り返るとその時期も重要な転換期でした。あのとき来場者数が増えないからといって、ゼロ年代と同じように派手なイベントを企画し熱気をつくるという道を選んでいたら、現在の文学フリマはないかもしれない。当時は事務局では伸び悩みをどう打開するか、よく話し合いました。その結果として、有名人を呼んだりイベントをやったりするのではなく、文学フリマという「場」それじたいでひとを集められるようになろう、という方向性が見えてきたんです。
東 ゼロ年代の文学フリマには独特の熱気がありました。2010年代にはそれが失われていった。ぼく自身は寂しく思っていたのですが、実際はその選択こそが正解だったのですね。
望月 はい。TRC時代は広報についても考えるようになりました。新しいスタッフのエンジニアがいろいろと分析してくれて、ツイッターから意外とひとが流入していることがわかったりしてきた。そういうなかで、事務局ばかりが宣伝してもしかたがないということに思い至ったんです。お客さんは、本を買ったり、その作者に出会ったりするために文学フリマに足を運んでくれている。だとすれば、事務局だけでなく出店者自身にも情報を発信してもらわなくてはいけない。そこで「こんなふうに告知すると効果的ですよ」といった案内を始めました。
文学フリマの運営は、ほとんどがボランティアのスタッフに担われています。出店者のみなさんにも当日の会場設営を手伝ってもらっています。広報にせよ運営にせよ、みんなでつくりあげていくイベントだということが文学フリマの理念なのだと考えています。
文学フリマは東京だけじゃない
東 文学フリマは、東京だけでなく、大阪や京都、福岡や岩手、広島など、さまざまな場所で開催されています。これらもボランティアで運営されているのですか。
望月 そのとおりです。各地でやりたいと手を上げてくれたひとたちが、それぞれの場所で事務局をつくって運営にあたっています。文学フリマ東京も、じつは運営しているのは「東京事務局」なんです。
文学フリマ事務局そのものは、2022年に法人化して「一般社団法人文学フリマ事務局」になりました。いまはここが「文学フリマ」という商標を管理していて、各地の事務局オフィシャルに名称を利用しています。社団法人の文学フリマが調整役となって全国の文学フリマ事務局をつなぎつつ、それぞれの文学フリマ開催については各事務局が運営を担う、という役割分担です。ぼくはその関係を航空会社の連盟になぞらえて「アライアンス」と呼んでいます。
文学フリマ事務局は長いあいだ任意団体でした。しかしさすがに法人化せざるをえなかった。いちばん大きいのは財務と契約の問題です。ボランティアの精神が大切だと言っても、現実には会場を借りないといけないし、もし赤字が出てしまったらどうするかも考えないといけない。みなさんボランティアでやっているのであれば、なおさら赤字は各事務局で負担してもらうわけにはいきません。そこで、財務は社団法人で一括管理し、必要なときは責任を取れるようにしています。各会場の契約も社団法人が一括して行なっています。運営に関わるみなさんの不安はできるだけ減らすようにしているんです。
東 望月さんも2022年まではボランティアだったわけですか。
望月 そうです。さきほど話したように、文学フリマに関わり始めたのは大学四年のときです。そのあと院に進学し、院を修了したあとはイベント会社に就職しました。それ以降はサラリーマンとして働きながら文学フリマの運営を続けてきたわけです。けれどもさすがにそれも難しくなってきて、2022年からは社団法人の従業員になっています。従業員はぼくを含めて二人です。
東 イベント会社でお仕事をされていたんですね。その経験が運営に活かされているわけですか。
望月 じつはそうでもないんです。いまではビッグサイトが会場になる規模でしょう。普通のイベント運営のスキルはほとんど通用しないんですよね(笑)。
東 地方の話に戻します。2013年に第一回文学フリマ大阪が開催されます。きっかけがあったのでしょうか。
望月 じつはそれ以前にいちど名古屋で開催したことがあるんです。2006年のことです。ただ、それは一度きりで終わってしまった。名古屋でやりたいという申し出が来て行なうことになったのですが、うまく連携がとれないまま進んでしまい、継続することができなかった。その後も東京以外の場所でやりたいとは思っていたのですが、なかなか機会がありませんでした。
それが2013年に機会がやってきました。例年どおり2013年の初夏にも文学フリマをTRCで開催するつもりだったのですが、先方から唯一空いていると言われた日が法定点検で空調が入らない日だった。五月だったのでやれないこともないけれど、前年の経験を踏まえると暑くなりすぎる心配があった。そのとき「この機会に大阪で文学フリマをやればいいのでは」という話が持ち上がってきたんです。
当時の事務局は年二回の文学フリマ開催が限界で、それ以上に追加で開催する力はありませんでした。また、東京と大阪で同時期に開催して、別々にひとを集められる自信もなかった。でも、東京を一回休みにして、そのとき大阪で開催するのであればできるかもしれないと思ったんです。すると、不思議なもので、ちょうど「大阪で文学フリマをやりたい」という申し出が寄せられたんです。こうして大阪の事務局も決まり、文学フリマの全国展開が始まることになりました。
東 かなり偶然に後押しされていたのですね。
望月 とはいえ、それは必然だったようにも思います。東京以外の場所で開催するようになったのは、文学フリマ全体にとって非常に良いことでした。東京以外の開催は規模だけで見れば東京にはかないません。世の中のイメージでも、東京が文学フリマ全体を代表しています。
でも実際には、小都市の文学フリマに行くと東京の文学フリマとはまったく異なる風景が見られるんです。多くは地元の出店者さんなのですが、出店者同士が「遠征」することで各地の参加者同士の交流も起きています。各地で文学フリマが開催されるようになったことで、全体として参加者層の底上げがなされて、結果的に文学フリマ東京の参加者数も増えているように感じています。
東 おもしろいですね。日本SF大会とコミックマーケット(コミケ)の関係を想起しました。SF大会は昔もいまも親密な交流の場であり続けています。他方でSF大会の同人誌販売に影響を受けて始まったコミケは、どんどん大きくなっていまに至る。文学フリマにはそのふたつの可能性があった。ゼロ年代の文学フリマはSF大会的な親密さから始まったのだけど、2010年代にはスケールが大きくなりコミケ化の道が見えてきた。そこで文学フリマは、地方開催という第三の道を選び、地方と東京で同時に開催し続けることで、SF大会的な親密さとコミケ的なスケールの両立を図ったと言えるのかもしれません。
東京ではスケールが実現されており、かつての良さだった交流や親密性は東京以外で保たれている。ゲンロンにとっても参考になります。
望月 ありがとうございます。近年感じているのは、そういった多地域性が持続性につながるということです。
それを痛感したのがコロナ禍でした。たとえば2020年の文学フリマは半分ほどが中止になっています[★8]。文学フリマ岩手は20年だけでなく21年も中止になってしまった。3年も間隔が空いてしまうと、普通のイベントであれば運営のノウハウがなくなって途絶えてしまいます。文学フリマは他の地域では続いていたから、岩手でも復活させることができました。
じつは似たような断絶のリスクは2011年にも感じていました。東日本大震災によって多くのイベントが中止を余儀なくされました。2011年の初夏の文学フリマは六月開催だったのでなんとか実施できましたが、もうすこし早い時期であれば中止せざるをえなかった。そしてもし中止していたら、冬のTRCへの移動もなく、文学フリマは中断していたかもしれない。あのときに東京だけでは危険だと痛感したんです。さまざまな地域で並行して開催していることは、長期的にみると、全体として文学フリマを持続させていくための体制づくりになっているはずです。
インフラとしての文学フリマ
望月 他方で、コロナ禍は文学フリマにとって大きなジャンプ台になったとも感じています。コロナ禍を経て、現実にひとが集まる場所の意義が再評価されるようになりました。文学フリマの成長もぐっと加速しています。
東 それはゲンロンも同じです。コロナ禍はすごく苦しい時期でもあったけれど、新しい可能性が見えた時期でもありました。うちもまた震災とコロナ禍で会社のありかたを大きく変えているので、親近感をもちます。
ここまで運営の話を中心に伺ってきましたが、出店側の変化についても伺いたいと思います。最近の文学フリマにはどのような傾向がありますか。
望月 日記やエッセイが増えました。文学フリマには四つの出店カテゴリがあるのですが、そのなかで「ノンフィクション」に分類されるものです。そこが急速に増えています。ほかでは「詩歌」も増えています。とはいえ伝統的には「小説」がいちばん多く、その位置は変わっていません。逆に「評論・研究」の割合は減り始めています。文学フリマは大塚英志さんの呼びかけで始まったことに象徴されるように、最初は評論の存在感が大きい即売会でした。近年、他のカテゴリが増え、評論が突出しているイメージは薄れています[図2]。
もうひとつ注目しているのは、各地域の文学フリマに地元で活動されているひとが出店するようになり、内容が多彩になってきていることです。それは2020年代の特徴かもしれません。
東 年齢や男女比はどうでしょうか。
望月 年齢は25歳から35歳が多いです。性別については、昔に比べれば女性が増えているように感じます。ですが、顕著に増えたわけでもなく、いまはだいたい4割が男性、6割くらいが女性です。女性が増えたという印象があるとすれば、ノンフィクションや詩歌のジャンルに女性出店者が多いことが関係しているかもしれません。
東 文学フリマは、もともとは文学の危機を乗り越えるための処方箋として構想されました。文学を変えたという実感はありますか。
望月 書店経営が厳しくなり、新人賞も少なくなる状況のなかで、商業とは異なった創作活動の発表場所を定期的に提供できているという点で、文学フリマが与えている影響は小さくないと思います。いまでは文学フリマから商業デビューするひとも増えていますし、作家さんや編集者さんのなかにも文学フリマへの出店経験のあるひとが少なくありません。そういう部分で、じわじわと文学や人文の世界を変えているという思いはあります。

東 少なくとも文学の場は変えたはずだと。
望月 そう評価されているなら嬉しいです。ありがたいことに最近は「同人誌やZINEの盛り上がりについて話を聞きたい」という取材を受けることがあるのですが、ぼくは同人誌の専門家ではなくて同人誌即売会の主催者なんですよ。同人誌やZINEのことなら、野中モモさんのようにもっと詳しいかたがいる。文学フリマというイベントの中身は、運営があれこれ言うのではなく、参加してくれるひとたちがつくりだしていくものです。ぼくの担当はそちらではない。
ぼくが日々考えているのは、たとえば物流のことなんです。
東 どういうことでしょう。
望月 いま同人誌即売会業界で問題となっているのは、配送業者さんとの調整や交渉が難しくなっていることです。これは即売会というイベントの性質に理由があります。普通、荷物はバラバラなタイミングでバラバラな場所に届きますよね。運送会社はそれを前提に運転手やトラックを手配しています。大きな商業施設があっても、商品は毎日少しずつ配送されていく。
でも、即売会の場合は、ある特定の場所に一日に大量の荷物を運び込まないといけません。そのためには特別の配送ルートを設定しないといけないし、届いた荷物を一定期間溜めておく倉庫も必要になる。むろんトラックや人手の特別な手配も必要になる。配送業者さんにとってはコストが高くなるので、その負担をどうするか、交渉しないといけないんです。搬入を断られたイベントも実際にあります。この問題はどの同人誌即売会でも頭を悩ませているようです。最近では、コミティアさんなど、ほかの即売会の事務局とも意見交換を行なっています。
東 なるほど。言われてみればそのとおりですね。あちこちからばらばらなタイミングで発送された数千、数万の荷物を特定の日に特定の場所に一気に届けるというのは、想像するだけでたいへんです。
望月 同人誌の大手販売業者さんが、自社の倉庫を即売会用に運送業者さんに特別に提供することもあるようです。それくらい死活問題なんです。
そもそもたいていの即売会は朝11時に始まるでしょう。これも問題で、それは全国各地の文学フリマでも同じです。普通の宅配便だと「午前着」は指定できますが、これは正午までに届けるという意味ですよね。でもイベントは10時や11時には始まってしまう。その前には確実に届いていないといけない。そうすると、特別な時間指定をお願いしたり、それが難しければ、同じ会場を前の夜から借りて事前に運び込んでおいたりという対策が必要になります。
東 同人誌即売会はモノを売るところだけど、そのモノをだれが運ぶのかといえば物流なのだと。おもしろいですね。
望月 文学フリマの話をすると、理念についてよく尋ねられます。むろん理念は大切です。でも、ぼくとしては「イベントという現実」と直面し続けているという感覚なんです。20年以上文学フリマを続けてきましたが、その一回一回が現実であって、そのたびに考えねばならないことが出てきます。来場者数が増えなかったり、逆に人が来すぎて混雑対応に追われたり、運送業者と交渉したり、悩ましいトラブルが起きてしまったりする。そういう問題を日々解決しながら、文学フリマを続けてきました。
だから東さんの『ゲンロン戦記』にはとても共感しました。
東 ありがとうございます(笑)。まさにぼくの2010年代も「現実」の連続でした。
ところでここまでの話を伺って、公式サイトの歴史が途中から会場の移り変わりの話ばかりになった理由がわかってきた気がします。それは、文フリの軸がイベント事業からインフラ整備に変わったことの表れだったんですね。
望月 そのとおりです。ぼくも昔はその重要性がわかっていませんでした。だから2010年代半ばが確かに分かれ道だった。来場者数が横ばいになったとき、「でも楽しいからいいじゃん」と放置していたら文学フリマは続かなかった。そこで意識を変えることができたので、いまがあるのだと思います。開催地をふやしていくこと、あるいは会場を大きくしていくこと自体が、ひとつの挑戦なんです。
東 2007年の文学フリマで販売された五周年記念文集のなかに、望月さんが「文学フリマは私の青春だった。そして今でも、これからも、青春そのものだ」という、すごくエモいことを書かれています[★9][図3]。ぼくはこの文集に出てくる名前をほとんど知っているのだけど、当時の文学フリマ界隈はそれくらい親密で小さなコミュニティでした。

望月 恥ずかしいですね。当時はまだ事務局を5年しかやっていないのに、すごく大きなことを言っている。説教したいくらいです(笑)。
でも、思い返せば、ちょうどそれくらいから継続を意識するようになりました。「ゼロアカ道場」から評論を読みはじめたというひとや、文学フリマをきっかけに文章を書き始めましたというひとが現れ始めた。そうなると、もう文学フリマは簡単にやめていい活動ではない。そしてしばらくして東日本大震災が起きた。どうすれば文学フリマを本当に続けられるかということを真剣に考えざるをえなくなった。
いま参加している大学生くらいの若いひとたちにとって、文学フリマはすでに生まれたときからあったイベントです。だから、出発点が大塚さんの「不良債権としての『文学』」にあったということはリスペクトしつつ、新しいことをやっていこうと考えていますね。
東 運営も若い世代に引き継いでいくのでしょうか。
望月 ぼくが文学フリマに関わったころには、ほかの同人誌即売会の運営者は皆ずっと大人でした。でも最近ではコミティアの代表も代わり、ついに同世代になりました。下の世代への引き継ぎを考える年齢なのだということをひしひしと感じています。五周年のときは文学フリマは青春だと書いていたけれど、いまでは文学フリマは人生になってしまいました(笑)。

祭りから日常へ
東 このインタビューでは、批評の現状や同人誌の可能性などがテーマになるかと考えていました。ぼくは文学フリマ発足当初の熱気のすぐ近くにいたので、あの熱気がいまにどうつながっているのかも知りたかった。でも望月さんは、会場や開催地、物流などの問題を考えていた。
望月 ゼロ年代から2010年代への変化については、やはり東日本大震災の経験が大きいです。ぼくは2008年の第七回文学フリマから毎回カタログに巻頭言を書いているのですが、震災直後の巻頭言は「いつもと変わらない、10年目の文学フリマ」と題しました[★10]。本来は文学フリマは特別なイベントです。でも今年に関してはいつもと同じ文学フリマを楽しんでもらいたいのだ、と。
これを書いていたのは震災の二カ月後で、当時のぼくの気持ちが表れています。文学フリマは確かに祭りであって、ハレの日かもしれない。でも、震災時くらいはそこにいつもの文学があることを感じてほしかった。
東 同じ2011年の11月に発行された十周年記念文集にはぼくのインタビューが載っているのですが、それは「祭りと評論の微妙なバランス」と題されている[図4]。ぼくもまだ文学フリマを祭りだと考えていた。
望月 コミケの場合は「ハレの日」が明示的に理念になっていますよね[★11]。その理念はリスペクトしていますが、同時にあの「場」はそうならざるをえないとも感じます。コミケは年に二回、お盆と年の瀬のお祭りとして、東京で大々的に行われるものであって、各地で小さく開催することはもはや困難でしょう。
でも文学フリマはそうではない。むしろ一年になんども全国各地で開催されているからこそ、文学フリマは途切れることなく話題に上る。最近では文学フリマにあわせて執筆スケジュールを立てる作家さんも増えていると聞きます。とても良いことだと感じています。
東 なるほど。文学フリマはハレの日ではなくなろうとしている。あちこちで頻繁に開催することで日常にしようとしている。2010年代は、いわば文学フリマが「祭り」から「日常」へ変わっていった時期だった。
大塚さんは文学の危機を超える方法を論考として提示したわけですが、望月さんは同じ問題を実践というかたちで考えてこられた。それは結果として、批評の熱狂ではなく、運営の持続性に行き着くことになった。その変化は、ゼロ年代と2010年代以降の日本社会の差異を反映しているのかもしれません。
望月 昔の文学フリマには、既存の文学へのアンチテーゼ感がいまよりも強くありました。それは良くも悪くも、参加するひとを選ぶものだったと思います。文学フリマに参加することが、支持の表明にもなっていた。「祭り」的な楽しみ方は、内輪だけの盛り上がりに閉じていく可能性もあります。でも、いまでは当時大塚さんに批判されていた文芸誌の編集部でさえ、文学フリマに参加するようになっています。この変化を肯定的に受け止めたいと考えています。
そもそも、いまや文学フリマはビッグサイトで開催される巨大イベントです。それは普通に考えるとメジャーということであって、オルタナティブを謳い続けることには無理がある。もちろんそのせいで失われるものはある。でも得られるものもたくさんあるでしょう。秋葉原から蒲田に移ったときにも同じ批判はあったけれども、その変化の結果としていまの文学フリマがあります。だから変化に対しては前向きになりたい。それが文学フリマを未来につなげていくことだと思います。
東 ゼロ年代の批評の熱気がなぜ消えたのか。最近そのような議論を見かけることが多いのですが、今日のお話はひとつの回答になっていたように思います。親密さとスケールの両立はゲンロンの課題であり、その点でもヒントをいただきました。ありがとうございました。
★1 大塚英志「不良債権としての『文学』」、『群像』2002年6月号。
★2 大塚英志と東浩紀が責任編集をつとめた批評誌。2002年7月に角川書店から刊行され、第4号からは太田出版に引き継がれた。2008年1月の第5号で刊行停止。創刊号には、第1回文学フリマの告知も掲載された。
★3 東浩紀が責任編集・発行人をつとめた「まったく新しい批評誌」を目指すメールマガジン。2003年12月から2005年1月にかけて1年間限定で発行された。
★4 2010年7月に、杉原幹之助と太田克史によって、講談社の完全子会社として設立された出版社。設立にあたり、ウェブやイベント、新人賞などによる「新しいテキスト・エンタテインメントの創出」をうたった。
★5 鎌田哲哉、市川真人、絓秀実、古井由吉、大杉重男らを参加者とする「重力」編集会議によって2002年2月に創刊された批評誌。「反同人誌的な横断戦線=部分連合の創設」を掲げ、2003年に第2号も刊行された。
★6 「3分でわかる文学フリマの歴史─純文学論争から百都市構想まで」、文学フリマ 公式サイト。URL= https://bunfree.net/archive/short_history/
★7 2008年3月から2009年8月にかけて実施された、講談社BOXが主催する新人批評家育成・選考プログラム。小論文を作成するだけでなく、文学フリマでの同人誌販売やニコニコ動画での公開討議などが選考過程とされた。
★8 2020年に予定されていた文学フリマは、全9回のうち、3月の前橋、5月の東京(第30回)、6月の岩手、7月の札幌、10月の福岡での5回が中止になった。
★9 望月倫彦「この文集に寄せて」、『2006 文学フリマ五周年記念文集』、文学フリマ事務局、2006年、3頁。
★10 望月倫彦「いつもと変わらない、10年目の文学フリマ」(2011年6月12日)、『これからの「文学フリマ」の話をしよう 文学フリマ十周年記念文集』、文学フリマ事務局、2011年。
★11 コミックマーケットは、その理念のひとつに「すべての参加者にとって『ハレの日』であること」を掲げている。『コミケットマニュアル』、コミックマーケット準備会、2013年、2頁。


望月倫彦

東浩紀
1 コメント
- おしょう2025/05/21 19:47
面白い対談でした。文フリ、何回か行っただけなんですが、こんな歴史があったんだなあと驚きです。のちの文化歴史にとっても重要になる対談なのではないかと思います。




