日本SFは大阪のバカ話でつくられた|小浜徹也+菅浩江+酉島伝法+東浩紀

万博とSF
東浩紀 大阪・関西万博がこの4月に開催されます。55年前の1970年の大阪万博(日本国際博覧会)には、大阪出身のまだ若いSF作家・小松左京が政府館サブプロデューサーとして関わっていました。小松と同世代では眉村卓と筒井康隆も大阪出身で、彼らもまた1960年代には大阪を中心に活動をしていました。
なぜ大阪は日本SFの源泉となりえたのか。この座談会では、学生時代に京都大学SF研究会で活動し、その後編集者としてSFと関わり続けてきた東京創元社の小浜徹也さん、京都出身で高校時代から作家として活躍されてきた菅浩江さん、そしてやはり大阪出身で、今回の万博会場の夢洲がある大阪府此花区の地名がペンネームの由来でもあるという酉島伝法さんにお集まりいただき、日本SFにとって大阪、さらに広く関西とはいかなる場所であるのか、存分に語り合っていただきたいと思います。
まず、みなさんの紹介も兼ねて、70年の大阪万博との関わりについてお聞かせいただけますか。
小浜徹也 ぼくは万博には行っていないんです。
62年生まれで、万博のときは徳島県に住む小学2年生だった。大阪に親戚もいなかったし、だれも連れて行ってくれなかった。テレビを羨ましく観ていましたね。NHKの夕方の「こどもニュース」では毎日のように万博を取り上げていました。
菅浩江 私は小浜さんの1歳下ですが、京都にいたので母に連れて行ってもらいました。でも、あまり良い思い出じゃないんです。当時母は体調が悪く、行きたかったパビリオンにほとんど行けなかった。本好きだったから住友童話館に行きたかったし、ソ連館や月の石も見たかった。結局、名も知らぬ国のパビリオンをいくつか回っただけでした。
小浜 大森望さんは高知在住だったけど兵庫県に親戚がいたとかで、何度も連れて行ってもらったと後々まで自慢してましたね(笑)。
菅 私も、会場の塀をよじのぼって毎日行っていたという人を知っています(笑)。
東 酉島さんはお父さんが万博関係のお仕事をされていたのですよね。
酉島伝法 ぼく自身は70年生まれなので万博の記憶はないのですが、父は大阪府警の警察官で、スリの取り締まりのために1週間おきに万博会場に詰めていたそうです。会場内の食事がとにかく高かったらしく、万博職員向けの食堂を使わせてもらったり、タンザニア人やフィリピン人のスタッフと仲良くなって食事に呼ばれたりしていたみたいです。
今日は父がそのときに買い集めた万博グッズを持ってきました[図1]。

東 これはすごいですね。ソ連、ギリシャ、キプロス……、いろいろな国のパンフレットがあります。こちらは始動間近の福島第一原発の紹介パンフレットだ。なかを見ると、未来への希望があふれています。
酉島さんは大阪在住ですが、住民の目から見て今回の万博はどれくらい盛り上がっているのでしょう。さきほど梅田地下街を通り抜けてきたのですが、ほとんど万博の宣伝は見かけなかった。地下街の一角に「万博来場サポートデスク」なるものがありましたが、閑散としていました。
酉島 夢洲がある此花区だけはそこそこ頑張っている気がします。ミャクミャクのオブジェを設置したり、区役所に特設ブースをつくったり、あちこちにでかいポスターを貼ったり、イベントを催したり。区の広報誌も毎号のように万博特集を組んでいる。
東 1970年の万博には小松左京が関与しただけでなく、SF界でも万博と同年に「国際SFシンポジウム」を開催するなど動きがありました[★1]。今回はどうでしょう。
小浜 とくに聞いていません。酉島さんは何か誘われた?
酉島 ないです。あったとしても辞退しますね。ときおり街なかでミャクミャクのたくさんの目に見つめられますけど、存在しないかのように目を逸らしてますからね。
菅 私は声をかけられたら参加しますよ。私は小松さんが羨ましいんです。いろいろな人と共同作業をして、SFの外に影響を与えている。そういう機会を与えてほしいといつも思っています。
東 小松左京と万博の関係については、最近出た『批評の歩き方』という論集で、前田龍之祐さんという若い批評家が山野浩一による小松批判を取り上げています[★2]。小松は1964年に『日本アパッチ族』で長編デビューしますが、これは大阪の焼け野原を復興の裏側として描き出した傑作です。そんな小松が、わずか6年後には、大阪万博の旗振り役を担うようになってしまう。山野氏はその異様さを批判したわけですが、前田さんはそれをいまのSF界の状況に暗に重ねている。
菅 私はその小松批判には同意できないんです。そういった批判で忘れられているのは、どん底を見た人はどん底を書くことができなくなるということです。私たちが子供のころは毎日のようにニュースで流れていましたが、高度経済成長の裏側にはイタイイタイ病や水俣病のような公害がありました。そんな暗い時代のなかに小松さんもいた。そして、暗い時代のなかでは人は明るいユートピアを書くことしかできなくなる。山野さんや前田さんの批判では、不幸のただなかで「こうあってほしい」と願望をこめてSFを書いた小松さんの姿が否定されているように感じます。
小浜 その批評で言及されている範囲で言うと、山野さんは仮想敵のように小松左京像をつくっている感じがします。主張自体には説得力を感じるけど、批判されているのは存在しない小松さんなんじゃないか。小松さんが提唱していた「未来学」にしても、たんに明るい未来を描くのではなく、実際には未来への警鐘という意識がありました。
菅 『さよならジュピター』(1984年)はそういう作品ですよね。木星がなくなったらどうする、という仮定の話。
小浜 『日本沈没』(1973年)だって、高度経済成長に浮かれてるけど明日にも日本がなくなってしまうかもしれないんだぞ、という危機意識から、短編「日本売ります」(1964年)の延長線上で書かれた作品です。山野さんが批判している、官公庁に乗っかってイケイケで万博の旗振り役をやっていたという小松像は、彼の一面でしかない。様々な活動が混同されているような印象です。
菅 私が小松さんに感じるのは、イケイケというより、大阪の人ってほんま口が先なんやなってことなんです。京都人の私から見ると、大阪では、とにかく誰かが何かを言うと、まわりも「そうや、そうや」って乗っかっていって、そうこうしているうちにどんどん話が膨らんでいく。もちろんそのまま終わってしまうことも多いのだけど、小松さんみたいに実行力のある人がいると「こうなったら面白いなあ」という話が実現しちゃうんです。そこに憧れるんですよね。
小浜 いまも大阪はお喋り好きなSF作家が多いよね。
酉島 ぼくはわりと寡黙な方ですが。まわりの作家は喋りのテンポも速ければ情報量も多くて、返しを考えているうちにもう別の話題に移ってたりしますね。
小浜 この座談会のために筒井康隆さんのむかしのエッセイ類を読んでいたんですけど、その当時、小説家の集まりでいちばん黙っているのは自分だ、なんてことを書いていて驚きました。筒井さんの小説は、いかにも関西人らしく饒舌ではっちゃけているから、よけいにそう感じたのかも。

SFは大阪から始まった?
東 いま小松さんと筒井さんの名前が出ましたが、ともに大阪を中心に活動していました。彼らの関係はどのようなものだったのでしょうか。
小浜 日本SFのある部分は、じつは大阪から始まったと言えると思います。ただ、その理由は少し詳しく語る必要があるでしょう。
SFの歴史は、様々な作品だけでなく、SF作家とSFファンが集う「ファンダム」との関係でつくられています。ファンダムの歴史を振り返るときに、大事なのが「ファングループ」と「コンベンション」の違いです。グループの集まりには基本的にそのメンバーしか参加しないのに対して、コンベンションにはメンバー以外のいろいろな人が参加する。つまりコンベンションは一般に開かれているわけです。
日本ファンダムの起点とされているのは、1957年に創刊された日本初のSF同人誌『宇宙塵』で、これは東京の同人誌です。『宇宙塵』は最初のうち毎月、主宰者だった柴野拓美さんの自宅で例会をやっていて、星新一さんや光瀬龍さんなど豪華な顔ぶれが揃っていた。でも普通、そこには同人はいても、一般のSFファンはいない。対して、コンベンションと呼ばれるイベントには、各種グループの同人だけでなく一般ファンも参加する。そこでいろいろな人が出会います。柴野さんはそれを日本でも開催した。それが62年5月の第1回日本SF大会(通称MEG-CON)で、東京の目黒公会堂で180名を集めました[★3]。
東 いまも続いている日本SF大会ですね。この夏には第63回大会が東京の蒲田で開かれます。
小浜 日本SF大会は大事な柱なんですが、じつは日本初のコンベンションはこのMEG-CONじゃないんです。先駆けること1カ月、62年4月に大阪で「関西SFのつどい」という、参加者30人ほどのコンベンションが開かれています[★4]。だから歴史は大阪から始まったとも言える。そしてその中心にいたのが筒井さんでした。
東 いまでは文学者のイメージが強い筒井さんですが、ファン活動の先駆者でもあった。
小浜 筒井さんは59年末に出た『SFマガジン』創刊号を読んで衝撃を受け、わずか半年後に、大阪で『NULL』というSF創作同人誌を創刊します[図2]。その翌年にはNULL STUDIOというデザイン事務所を構えた。彼らが中心になって開催したのが「関西SFのつどい」でした。

ハイフンが入るのが正式名称
小浜 眉村卓さんが筒井さんと出会ったのも、NULL STUDIOでした。あるとき眉村さんはこんな思い出を語っていました。当時勤めていた会社から細い道を挟んだ向かい側に筒井さんがスタジオを開いた。眉村さんはそれを知って見に行ったら、外で張り紙をしている若い男性がいる。声をかけたところ「ぼくが筒井康隆です」と。お二人ともまだ20代で同い年。このころにはすでに、どちらも同人誌からの転載でしたが、筒井さんは『宝石』に、眉村さんは『ヒッチコックマガジン』に作品を発表していて、たがいに「君か!」となったようです。
じつは小松さんが彼らの前に姿を現すのは少しあと。第1回空想科学小説コンテスト(のちのハヤカワ・SFコンテスト)の応募者リストを見て、大阪の人がいるじゃないかというので連絡をとった。小松さんのデビューは62年の『SFマガジン』で、二人よりあとなんです[★5]。
NULL STUDIOにはのちに、若かりし堀晃さんも出入りするようになります。彼は62年8月の「第2回関西SFのつどい」に参加したのが最初で、そのとき高校3年生でした。
東 NULL STUDIOの場所は、本誌に再録された堀晃さんのエッセイでも触れられています。60年代前半の大阪で、若い作家たちがとても近い距離で密なコミュニケーションを取っていたことがわかる。
小浜 60年代半ばに状況が少し変わります。65年に筒井さんは東京に移るんですが、その前の大仕事が、前年の第3回日本SF大会(DAICON1)の主催でした。事実上の終刊号となった『NULL臨時号』にレポートが載っていて、そこに筒井さんは、大会が終わったあとひとり深夜のホテル街を歩き、泣いてしまったという名エッセイを寄せています。筒井さんが旅立ち、大阪はちょっとさみしくなるんです。
とはいえ筒井さんは70年代前半に神戸に移ってきて、また新しいグループとして「ネオ・ヌル」を創設し、かつてと同じ名称の『NULL』という同人誌をつくって、20代のスタッフを集めて第14回日本SF大会を主催することになります。それが75年の神戸のSHINCONで、台風に見舞われるなど様々な伝説を残しました。
菅 私がファンダムに加わるようになった70年代後半には、筒井さんはすでに孤高の人という感じでした。関西のSFファンダムの中心は小松さんでしたね。
小浜 小松さんは東京と大阪の二拠点生活でした。他方で筒井さんは東京に軸足を移す。対照的にずっと大阪にとどまったのが眉村さんで、彼は大阪のラジオ局で深夜放送のパーソナリティをつとめてリスナーからのショートショートを募集するなどして、70年代の若手創作ファンに大きな影響を及ぼします。
もうひとつ重要なのは、70年代になってファンダムの担い手が全国規模でがらりと変わったこと。71年に大阪で2度目となるDAICON2が開かれるのですが、主催者世代はすっかり入れ替わっています。そして次第に、60年代には存在していた作家とファンの信頼関係が薄れて、きしみが生じていったように思います。
菅 いわゆる「BNF」ですね。
東 なんですか、それは?
菅 ビッグ・ネーム・ファン(笑)。有名で傲慢なファン。
東 そんな言葉があったんですか!
菅 そういう言葉が生まれるほど、傲慢なファンが目立ってきたんです。ファンダム歴が長く、知り合いも多いので作家よりも偉そうにしている。それで、何かといさかいが生じるようになってきた。
小浜 それは悪く言いすぎ(笑)。たぶんその人たちはBNFじゃないと思うな。日本では本来、60年代に地方で活動していた世話役的な、一目おかれる人たちを呼ぶ言葉でした。
少し背景を説明します。60年代後半にいちどSFブームが起こり、中高生がファンダムに入ってきた。なので70年代ファン活動の中心は大学生層ないし20代。若くて自意識も強かったのか、ファン同士のあいだでも、いまでいうマウントのとりあいのようなことがあったみたいです。
またプロとのあいだでも軋轢が生じました。いまならSNSでやりあうところでしょうけど、当時は同人誌が舞台だった。読者同士の批判も載ったし、ときには激しい作家批判も平気で載りました。むろん作家も反論した。『SFマガジン』連載の自作を悪く評された田中光二さんが、連載途中で作品を採点するのはけしからんと怒ったという事件もありました。
東 当時の新人はだいたいファンの知り合いだったのですか。
小浜 70年代半ばまでに出てきた、新しい書き手は、堀晃も梶尾真治も、東京では横田順彌、鏡明、荒俣宏など、たいていが同人誌出身者でした。そのころ「プロはファンの成れの果て」という言葉があった。そういう感覚もよくなかったんですね。
アマチュアでもSF新人賞の一次通過者リストを見れば、どこで書いている人かわかりました。同人誌もファン活動も体験しなかった作家が出てくるのは、70年代後半に山尾悠子やかんべむさし、新井素子などが登場して以降です。神林長平のように、デビューしたあとファンダムに参加した人もいる。
菅 ただ、ギクシャクしがちだったのは東京のほうで、関西は比較的おだやかだったという記憶もあります。関西は狭いから、小さくて親密なコミュニティをつくるほうに意識が向いていました。当時の関西は、小松さんがいて、眉村さんがいて、堀晃さんやかんべむさしさんがいた。
小松さんにせよ、眉村さんにせよ、堀さんにせよ、私たちの世代をすごくかわいがってくれました。眉村さんの家では毎月「銀座会」という会合が開かれていました。私たち創作同人誌系のファンも五、六人くらいで連れ立って訪ねては、いろいろな話を聞かせてもらっていたんです。もっとも、東京でも野田昌宏さんや矢野徹さんは親切にしてくれました。

KSFAと星群の会──おそるべき子どもたちの時代
東 いまは70年代後半の話ですよね。当時は関西全体でひとつのファンダムをつくっていたと考えていいですか。
小浜 そのころだと、もうそうでもない。セグメント化されていたというか、興味の対象ごとに専門的なグループが形成されていました。
地域としてなら、京阪神はわりと一体化していたと思います。大阪と京都は層が厚かったこともあり、社会人グループと学生グループが交じり合っていた感じです。
菅 京都から神戸へは、京阪電車にせよ阪急電鉄にせよ大阪を介さないと行けません。だからちょっと距離があるんです。学生グループにしても、神戸には神戸大学のSF研究会(以下、SF研)ぐらいしかなかったけれど、大阪と京都には複数のSF研がありました。
東 学生のグループと社会人のグループはどう違うのですか。
小浜 大学のSF研というのは、そもそも学内団体のひとつに過ぎないんです。友だちをつくって情報交換ができればいいので、卒業後は活動しなくなる人が圧倒的に多い。それに飽き足りないようなやつは、学生時代から社会人グループに参加していました。
菅 社会人グループでは大きなところがふたつありました。ひとつは大阪・梅田の「れい」という喫茶店で例会をしていた「KSFA」。KSFAは「海外SF研究会(アソシエーション)」の略です。その名の通り、海外SFの翻訳や批評、紹介、研究などを行なっていたグループです。もうひとつが京都で活動していた「星群の会」。こちらは対照的に創作が中心のグループでした。
小浜 KSFAはおそるべきアマチュア集団でした。といっても、みんなすぐセミプロになってしまうんですが。毎月、8から12ページほどのニュースジン『NOVA EXPRESS』を出していて、そこにヒューゴー賞の受賞速報や、本国で出たばかりのクリストファー・プリーストの『逆転世界』の詳細な紹介、あるいは翻訳が出たばかりの新刊SFについて言いたい放題する書評が載っていました[図3]。いま振り返ってみてもおそろしく高水準です。そこで80年代に入って頭角を現したのが若き日の大森望ですね。

小浜 刊行の原資となっていたのは会費です。といっても高くない。確か200人くらい会員がいて、年間1000円か2000円かを集めていた。当時は郵送料も安かったし、当然原稿料も出ないのでそれでなんとかなっていたわけです。そのころ同人の中心は30歳前後の社会人たちだったから、かなり負担もしてくれていたんだと思います。なかには、親しい印刷所に破格値で頼み込む同人誌もあったようです。
菅 印刷屋になっちゃった仲間もいたよね(笑)。
小浜 けっこういた。印刷屋になってしまえば、いろいろな手で印刷費を下げられる。菅さんもぼくも所属していた「星群の会」の初代会長はDAICON2の実行委員長を務めた人だったんですが、印刷屋になっていて『星群』を刷るときだけ奥付を「星群社」としていました。最初に見たときは「専門の印刷所を持ってるんだ!」とびっくりしました。騙されました。
菅 星群の会は、年に4回、季刊で同人誌を出していました。こちらは原稿8枚までは無料で掲載されるのだけど、それ以上を載せるには掲載料を払うという仕組みでした。毎年夏には「星群祭」というイベントがあって、そちらでは50枚くらいの短編小説を集めたアンソロジーも出していました。東京から矢野徹さんらプロの作家を招き、掲載作品を講評してもらうというとても勉強になる会だった。私がデビューした作品も、もともとはこのアンソロジーに載ったもので、矢野さんに推薦していただいたんです。
東 関西ファンダムの分厚いコミュニティが菅さんを育てたのですね。どのようにして星群の会に参加することになったのでしょう。
菅 私が参加したのは、じつは小学6年生のときでした。ちょうど『SFマガジン』を読み始めていて、そこに星群の会のレポートが載っていた。堀さんやかんべさんがバカ話をしたりハチャメチャなSFを書いたりしているのが紹介されていた。面白そうだなあと思っていたところに、つぎの会の案内が載り、「京都じゃん!」って思ってすぐ申し込みました。まだ女の子は全然いませんでした。
東 それはおそろしく早熟ですね。
小浜 女子は確かに珍しかったけど、菅さんみたいな早熟な小中学生はそのころにはもうたくさんいたんです(笑)。それに、SF研を名乗ってないから歴史に残っていないものも多いけど、60年代後半からSF仲間が集まった中学校や高校はたくさんありました。ぼくも中学時代に、地元の『徳島新聞』日曜版のヤング層向けの交流欄で知って、SFの会合に参加したことがあります。書店で地元のSF同人誌が売られていたりして、未成年でも容易にアプローチできた。
菅 私も同年代の子たちで集まりたいと思って、「日本SF作家クラブJr.」というのを勝手につくり、『子供の科学』の通信欄に広告を載せたりしていました。中学生のころです。当時湿式複写機というものがあったのだけれど、それを使って本みたいなものをつくっていた[★6]。
小浜 菅さんがいかに深みにハマっていたかがよくわかる名称だよね(笑)。
東 菅さんや小浜さんが同人活動をされていたころ、日本全体でSF同人誌はどれくらいの数と頻度で刊行されていたのですか。
小浜 ぼくが大学生だった80年代前半は、ファンの総数が多かったこともあって、質量ともにたぶん最も盛り上がった時期だと思います。外部に販売されていたSF同人誌はほぼすべて読みました。それで月に10から20冊くらい。不定期刊や年1回刊のものもあったから、全体では50種類くらいだったんじゃないかな。ただ、月に20冊といっても、3分の1くらいは4ページから十数ページだてで、読むにはさほど大変な量ではなかった。
ほとんどはコンベンションで売られるんですが、出たらすぐ入手することのほうが圧倒的に多かった。刊行情報は雑誌の投稿欄で得ていました。情報が最も集約されていたのは『SFマガジン』の告知ページ「てれぽーと」欄。連絡先住所が公開されていて、郵便で申し込みます。ファンのあいだでは口コミも大きかったので、「〇〇さんに教わりました」と往復はがきで問い合わせると、返信はがきで購入手続きを教えてくれる。支払いには郵便局の定額小為替を使っていました。
東 SF同人誌の読者は全体で何人くらいの規模だったのでしょう。
小浜 1000人くらいはいたんじゃないかな。そしてあのころ、とくに言及しなければならないのが巽孝之さんです。巽さんは徳間書店の『SFアドベンチャー』(1979年創刊)に、82年から83年にわたってファンジン月評を毎月4ページ寄せていた。その月に入手した同人誌をぜんぶ読んで、丁寧にコメントをするという大変な仕事ぶりで、ぼくらは巽さんの月評を読んで往復はがきを書いていました。
事務所と名簿がなくなり、ファンダムは凋落した
東 SF草創期の熱気が伝わってくるようです。あらためて話を整理しますと、SFファンダムの歴史は60年代に大阪で始まり、70年代にはSF界の成長によってきしみが生じてきたものの、いまだ関西などに小さなコミュニティが残り続けた。そういう理解でよいでしょうか。
小浜 SFファンダムは80年代になってまた変質するんです。それに先立つ転機が、78年に神奈川県芦ノ湖で開催された合宿大会・第17回日本SF大会(ASHINOCON)だったように思います。
この大会ではいくつかの事件が語り伝えられています。有名なのが、筒井康隆さんが受付で追い返されたという話。これは筒井さん自身が脚色して拡散した結果生まれた誤解なんだけど、つまりは、筒井さんが当日になって家族を連れてきたところ、家族分の部屋の空きがなかったんですね。実際には無事に入れたんだけど、それがファンダムによる作家軽視を象徴するように語られた。でも、もっと象徴的なのは水鉄砲事件かな。参加者の一部が会場内で水鉄砲で遊んでいたところ、その水が鈴木いづみさんに掛かって彼女が怒った。
東 どうも深刻さがわからないのですが……。
小浜 いやそりゃ怒るでしょう(笑)。それくらい仲間内のものになっていたということかもしれない。公平を期して言っておくと、もちろん様々な分科会ではいまと変わらず濃厚な議論が交わされていました。で、このとき大阪から初めて日本SF大会に参加した、熱心な大学生ファンがいました。それが、のちにガイナックスをつくる岡田斗司夫さんと武田康廣さんのふたりです。
東 なんと。
菅 岡田さんと武田さんは、ASHINOCONで親しくなります。そこで即興のトークで場をわかせ、「関西芸人」と呼ばれるようになる。大ウケに調子に乗ったふたりは、「こんなつまらないSF大会ではダメだ、おれたちでやろう!」と意気投合して翌年名乗りを上げる。ところが立候補の手続きなどをいっさい知らず、いきなり自分たちがやると言い出したものだから、古参ファンにコテンパンに怒られてしまった[★7]。そこに助け舟を出したのが野田昌宏さんです。彼はふたりに自分のやっていた「SFショー」を任せることにして、79年に第4回SFショーが大阪で実施されます。その後、その経験を活かして、81年に武田康廣さんを実行委員長に第20回日本SF大会がDAICONⅢとして大阪で開催されることになる。いまだに伝説になっているSF大会です。
ちなみに、私がふたりに出会ったのもこの第4回SFショーがきっかけです。私は当時、星群の会に所属していました。そこに、SFショーの武田さんたちから、人手が必要だと声がかかった。それで参加することになったんです[図4]。

小浜 当時、星群の会や京大SF研もDAICONⅢから声はかけられたんだけど、冷ややかだったんだよね。
菅 なんであいつらこんなアホなことするんや、という感じでした。「お金もかかるし人も呼ばんといかん、そんなんできるわけない」というのが大人たちの反応。でも彼らは「やればいけるやろ」とやってしまった。ここで、SFの世界に大阪のノリがぐぐっと戻ってきたわけです。
スタッフはみな若くて、20歳過ぎが多かった。退学しても構わないくらいの覚悟でやっていました。このときは集金の工夫もされていて、いまはふつうになっている参加費前払いを初めて導入したのは武田さんたちです。でも結局、大赤字を出してしまう。そこで穴埋めのために大会のオープニングアニメを通販で売ることにした[図5]。そんな岡田さんと武田さんが立ち上げた会社が、ゼネラルプロダクツとガイナックスです。

東 ここでSFファンダムの歴史とアニメ史が交差するわけですね。その大会のオープニングアニメを制作していたのが学生時代の庵野秀明さんたちです。庵野さんと武田さんはどこで出会ったのでしょう。
菅 京都の円町にあったSF喫茶店の「ソラリス」です。経営者が有名なファンだったこともあり、当時そこは若いSFファンのハブになっていました。私もバイトしていたし、武田さんたちもよく来ていた。その常連客に永山竜叶さんがいて、庵野さんと同郷の山口県の宇部出身だった。そんな関係でグループができていったんです。赤井孝美さんや山賀博之さんも永山さんが引っ張ってきた。永山さんと庵野さんは、山陰地方の有名なファンジンである『FILM 1/24』のまわりにいて、ふくやまけいこさんも一員でした。
小浜 つまり、80年代に再びファンダムが若返ったんです。それがぼくら世代でした。ぼくの周辺は先輩ファンと仲がよかったけどね(笑)。
当時は同人誌もコンベンションもイケイケで、その盛り上がりは90年代はじめまで続いた印象です。
一般的にいって、社会人グループは年齢が上がるにつれ活力が減じていきます。他方で大学SF研は新陳代謝が保証されているわけですが、この時期は大学生層にアニメやゲームが浸透したこともあって旧来のSF活動の求心性が失われていく。最初期のTRPGのプロ活動に携わったなかには京大SF研の会員も複数いました。これは大阪に限らず、全国的な話ですが、90年代に入ってグループとしての目立つ活動が減り、個人のファンが残るようになります。ニフティ・サーブなどのパソコン通信が興隆するのと裏腹な感じでした。喫茶店に集まるのが楽しいんだ、という文化も次第に失われていく。
菅 かわりに90年代にはコミケが拡大します。1990年のSF大会(TOKON9)は東京で開催されたのですが、コミケと同じ日でした。この大会が本当につまらなかった。それで2日目になると、みんなコミケに行ってしまった。あれは衝撃的でした。
小浜 あのときは新刊同人誌も激減してました。それまではみんな、大会にあわせて最新刊を準備したんですが、でもそのころから新刊が減っていった。大会自体も、あまり工夫のない企画が目につくようになっていく。
菅 運営が年を取ったことが大きいと思います。DAICONのように、みんなでタコ部屋で雑魚寝をして、バカ話をして盛り上がるということができなくなってしまった。
小浜 少しあとの時代、今世紀の話になるんですが、SFファンダムからふたつのものがなくなっていきます。
菅さんの「タコ部屋」と同じ話なんですが、ひとつは大会事務所。日本大会が毎年1000人超の規模になった80〜90年代は、準備段階から事後処理まで、2年ほども事務所を借りることがありました。メールもなかったし、郵便を受け取る住所がまず必要だった。同時にそこが、新たにやってきた若い人たちのたまり場にもなった。今はネットで準備ができるようになって、そうした空間を失ってしまったことが、ファンダムの敗因だったのではないかと感じます。
もうひとつは名簿。同人グループの名簿です。かつては同人誌は会費で発行されていたので、会費徴収のための名簿があった。ところがやはり今世紀になってデジタル化が進み、当時は数十万円かかっていた同人誌制作が安価になり、個人の資金でつくれるようになった。それで会費徴収も名簿も必要なくなった。即ち、ファングループを支えるアイデンティティが失われてしまった。
東 それは興味深い話です。ちなみに小浜さんの時代の同人誌はどれくらいの価格だったのですか。
小浜 500円前後だったかなあ。分厚いもので1000円。86年に京大SF研の機関誌をつくったとき、会費を持ち出しせず資金回収してやろうと思って900円をつけたら「強気だね」と言われた。
あとね、大会事務所のことでは面白い話がある。ぼくは86年のDAICON5の運営に関わったのですが、そのとき事務所に高校生が入り浸っていたんです。毎日のように来るからさすがに心配になって、あるときスタッフが彼の家に電話しました。そうしたら、「ああ、あなたたちでしたか。うちの子はずっと部屋に引きこもっていたのだけど、最近SF、SFといって出かけるようになって、私たちも喜んでいたんです」とえらく感謝されてしまった。そんなこともありました。
『皆勤の徒』と大阪の風景
東 90年代以降、しだいにSFファンダムは力を失い、ファン活動は個人の時代に移っていく。酉島さんはその後にデビューされました。
酉島 すみません、濃密かつ知らない話ばかりで、完全に講演を聴きにきた人になってました(笑)。ぼくは同人誌やファンダムとは接点なく生きてきたので、なにも話せることがないんですね。SF大会や京フェス[★8]に初めて参加したのもデビューしてからのことで、だから最初はびっくりしました。畳の上にみんなで座って、徹夜でずっとSFについて熱心に話している。ぼくはそれまでSFの話をできる相手なんてほとんどいませんでしたから。
小浜 むしろそっちのほうが驚きかも(笑)。
東 酉島さんはどのようにSFに出会われたのですか。
酉島 SFに触れた最も古い記憶は、ルネ・ギヨというフランスの作家の『こいぬの月世界探検』(1973年)です。3、4歳くらいのときに子ども向けの世界文学全集を買ってもらったんですが、そのうちの1冊ですね。ケネディ宇宙センターに引き取られたダックスフントが人間と一緒にロケットで月に行くんですが、すでに宇宙人が月面基地を造っていて、1つ目のロボットたちがたくさんいる。月面基地には丸いチューブ状の通路があって、ロボットたちはその天井に取り付けられたレールに頭をガチャっとはめてシャーっと滑って移動する。文章とイラストの組み合わせの素晴らしさを刷り込まれて、いまの創作スタイルにつながっていると思います。
映画では、建設途中の大阪万博会場で撮影された『ガメラ対大魔獣ジャイガー』(湯浅憲明監督、1970年)も鮮烈に覚えていますね。ガメラがジャイガーに卵を産み付けられて仮死状態に陥り、白いミイラみたいな恐ろしい姿になるんですよ。そこで、日本人と外国人の少年ふたりが小型潜水艇に乗ってガメラの体内に入り、寄生虫退治をするという。

小浜 『皆勤の徒』だ。昔から寄生する話が好きなんですね(笑)。
酉島 ハル・クレメントの『宇宙人デカ』(1967年、『20億の針』のジュヴナイル版)も小学生のころに衝撃を受けたのですが、それも寄生ものでした。主人公の少年が宇宙人の刑事に寄生され、協力して逃亡した殺し屋を捜すという。宇宙人の刑事は、少年の瞳の前に粘菌みたいな触手を伸ばして、アルファベットを象って会話するんですよ。その発想にびっくりして、自分でも練り消しゴムでアルファベットをつくって試したりしていました。
10代のころは特にジャンルを意識せずに小説や漫画を読んでいました。SFはディックなどの翻訳ものを読んでましたけど、日本だと『家畜人ヤプー』とか神林長平あたりで、SF成分は漫画やアニメや映画から吸収することが多かった気がします。
東 ぼくは酉島さんとほぼ同じ年齢なのですが、あまりに若いころのSF体験が違うので驚きます。ぼくはふつうに小松や筒井を読み、アニメを観ていたので……。
菅 お話を聞いていると、ヴィジュアルにすごく敏感な方なのかなと思うけれど。
酉島 実際にアートへの興味から絵の道を目指すことになり、イラストレーション事務所やデザイン会社で働いていたのですが、終電帰りが多くて本も読めず、だんだん頭が空っぽになっていく恐怖から会社を辞めました。その後はフリーで仕事を受けつつアートの活動を始め、画商と組んで個展を開いたりもしていたのですが、それが行き詰まったときに、小中学生のころに趣味で小説を書いていたことを不意に思い出して、気分転換に書き始めたんです。
酒見賢一さんや佐藤亜紀さんを輩出した日本ファンタジーノベル大賞には、自分好みの作風が集まっている印象があったし、賞金が500万円なのも魅力的で[★9]、長編が仕上がると宝くじ気分で試しに送りました。そうすると一次選考に通ったので、翌年に「棺詰工場のシーラカンス」という作品を送ったら、大森望さんが『文学賞メッタ斬り!』で言及してくれ[★10]、それで本気になって前のめりにいろんな賞に応募し始めたのですが、いっこうに受賞には至らず。もう無理……と諦めかけたときに、大森さんが選考委員として全作品を読むという創元SF短編賞が始まったんです。それなら出すしかないと。大森さんならどんな無茶な作品でも大丈夫だろうと箍を外して書いたのが、「皆勤の徒」(短編)でした[図6]。

菅 自作に大阪という土地の影響は感じますか。それこそペンネームを大阪の地名を借りてつけるくらいなのだけど。
酉島 ペンネームは、江戸川乱歩をもじって、淀川伝法とかふざけて考えているうちにこうなってました。文学賞に応募し続けていたあいだは、大阪市内の町工場地域にある刷版工場で働いていたんです。書く時間が欲しくて定時で帰れる仕事を選んだはずが、ほぼワンオペだったのでクタクタになり、帰るとなにもできないまま寝てしまう。とにかくハードすぎて、あるとき「自分は宇宙人に働かされているのでは……」という気持ちになり、それをそのまま書けばいいんだと気づいて「皆勤の徒」が生まれました。現実から遠く離れた遠未来の設定ではあるけど、現実の骨格を、虚構の謎肉で覆うようにしてできた小説です。同じように、大阪市内の様々な風景が異なる姿でいろんな作品に漏れ出しているだろうと思います。
ただ、SFと大阪や関西の関係ということなら、ぼくはむしろ、未知の世界を訪れたくてSFを読んだり書いたりしてきたところがあって、特に大阪を意識したことはないんです。むしろ大阪から遠く離れたかった。中高生のころは小説に関西弁が出ると、現実の日常に引き戻されるようで全般的に避けていたくらいで。
SFはひとりでつくるものじゃない
酉島 ところで、ぼくが小説を書き始めたころに出た『SFが、読みたい!2002年版』というムックで、「21世紀は関西SFの時代や!」という座談会が行われているんです[★11]。座談会には、『かめくん』が2001年のベストSF国内篇1位に選ばれた北野勇作さんと、小林泰三さんと田中啓文さん、谷口裕貴さんの4人が参加しているのですが、妙な勢いがあってめちゃくちゃ面白い。ぜんぜんSFの話はしてなくて、ずっとバカ話をしている。
菅 さきほどの話につながるね。
酉島 ええ。当時この面々や牧野修さんあたりの作品を関西作家と意識せずに読んでいたのですが、SFと初めて目が合ったという気持ちになったんです。それまでは、SFは雲の上の人が書いているという感覚があって、読むのはすごく面白いけど、自分ではとても書けるものじゃないと思っていたんですね。けれども、関西SF作家の作品を読むうちに、そのバカ話的発想からかそういうおそれが消えていき、自分も書いていいんだと思えるようになったんです。同時期にジーン・ウルフを読んで文学的なアプローチを知ったのも大きいのですけど。
小浜 あーなるほど。酉島さんの小説はコテコテの異世界創造と思われるけど、着想のもとはバカSFなのか(笑)。
東 SFはバカ話でいいんだ、というのは大事な論点ですね。そしてそれこそ大阪の話でもある。小松左京の『日本アパッチ族』も、そもそも鉄を食べる人間の話で本質はバカSFなわけです。酉島さんも、大阪から遠く離れたいと言いながらも、バカSFという点でしっかり大阪の伝統に回帰しているのかもしれない。
酉島 宇宙の涯てを目指すともとの場所に戻ってしまうと言いますもんね(笑)。
菅 京都人からすれば、それは、大阪弁でポンポンやり取りをして、どんどん大言壮語になっていくあのエスカレーションする感じが、そのままSFの原動力になっているということなんです。小松さんはその力で万博を実現してしまったし、武田・岡田組も日本SF大会を実現してしまった。
小浜 そうやって考えると、東京の作家は生真面目ですよね。旗を振っていた人にしても、『宇宙塵』を主宰した柴野拓美さんも、『SFマガジン』の初代編集長だった福島正実さんも、ともに生真面目の極みみたいな方でした。
東 じつは『SFマガジン』の第2号(1960年3月号)には、当時科学技術庁長官だった中曽根康弘氏の祝辞が載っています。「(SF誌の創刊は)科学技術の振興にも資するところが、必ずあると信じている」と。それこそたいへん生真面目なSFの位置付けです。SFはビジネスの役にたつ、未来を見通すのに役にたつ、だから大事だという生真面目さは、大阪バカSFの伝統の対極にあるものですよね。いまならSFプロトタイピングの流れなどがその一例でしょうか。万博の旗振り役をつとめた小松さんも、そんな生真面目さに乗ってしまったのかもしれない。
菅 最初に言ったとおり、私は山野さんの小松批判には同意できません。明るい未来を描くことは否定すべきでないと思います。ただ、SFプロトタイピングと呼んで、フィクションの想像力を、科学や商業といったリアルの要素が制約をかけてしまうのは良くないことです。最近はSF作家と企業のタイアップ企画が増えていますが、そこは少し心配なところです。
東 しかし、それにしても、なぜ関西で、そしてなかでもとりわけ大阪で、そういう大言壮語のコミュニケーションが発達したのでしょうね。
菅 やはり言葉でしょうね。よく言われることですが、大阪の人はボケとツッコミがないと不安になるんです。ボケにツッコミが入ることで会話にドライブ感が生まれていく。そしてどんどん話が大きくなっていく。でも、ひとりだとボケとツッコミができない。だから、大阪の人はいつもすぐ近くに話せる相手を探している。
東 ああ、SFはひとりでつくるものじゃないんだ。
菅 そうそう。
小浜 小松さん、筒井さん、星さん、さらに何人かのSF作家が加わってひたすら雑談する『おもろ放談──SFバカばなし』(1981年)という本があってね。これが本当にくだらなくて、学生のころはなんだこりゃと思っていたんだけど、ある時期から、こういうところにSFの着想って凝集されているものなのかもしれない、SFの本質はむしろこっちだという思いが強くなりました。
そうした放談の場は、大阪が母体になって生み出された。60年代の大阪では筒井さんや眉村さんのまわりに人が集まった。その後も現在に至るまで、関西では多くのSF作家が密集して交流しあった。それこそが関西SFの力だったのかもしれませんね。
酉島 いやあ、面白かったです。関西SFの始まりから大きな奔流になっていくまでの過程を知ることができましたし、自分もいつしかその流れに取り込まれていることにも気づかされました。
東 日本SFの想像力は、大阪特有のボケとツッコミのドライブ感に育まれてきた。言われてみれば、まさにそのとおりという感じがします。ぼくは東京の人なのでいろいろ視野が開けましたし、SFファンとして貴重な話も多く伺うことができました。今日は本当にありがとうございました。

2025年1月16日
大阪、北区
構成・注・撮影=編集部(別途記載を除く)
★1 1970年8月29日から9月3日にかけて、東京・名古屋・大津で開催された世界初の国際SFシンポジウム。小松左京が実行委員長を務めた。アメリカ・イギリス・ソ連などからアーサー・C・クラークやジュディス・メリルらが参加し、討議を行なった。巽孝之が監修した日本SF作家クラブ編『国際SFシンポジウム全記録 冷戦以後から3・11以後へ』(彩流社、2015年)の第1部に詳しい紹介がある。
★2 前田龍之祐「「反SF」としてのSF──山野浩一論」、赤井浩太、松田樹編『批評の歩き方』、人文書院、2024年。
★3 それぞれの日本SF大会には、回数のほかに愛称が付けられている。多くの場合は、開催地の地名に「コンベンション」の「CON」が組み合わされる。たとえば大阪大会であれば、「大」と「CON」でDAICON。
★4 第1回「関西SFのつどい」は、1962年4月1日に大阪大手町会館で開催された。主催は『宇宙塵』と『NULL』。
★5 『SFマガジン』は1959年12月に創刊された。空想科学小説コンテストは、1961年に『SFマガジン』と東宝映画の共催で始まった新人発掘のための賞。複数回の改名を経て、第5回以降は「ハヤカワ・SFコンテスト」として定着。1992年の第18回まで開催された。
★6 感光紙と現像液を使用して複写を行なうタイプのもの。薬品を用いるため湿式と呼ばれ、乾式複写機と区別される。日本では1950年代から小型化・低価格化が進み、乾式に先駆けて社会に普及した。
★7 日本SF大会は各地のファングループの持ち回りで開催されており、立候補などの仕組みが決まっている。各回大会の主催団体(実行委員会)は、立候補ののち、日本SFファングループ連合会議の承認を得て決定される。
★8 毎年秋に開催されている京都SFフェスティバルのこと。1982年に当時京都大学SF研究会に所属していた大森望らが立ち上げ、同SF研の主催でいまに続く。
★9 現在の賞金額は300万円。
★10 「でも、今年僕が一番面白いと思ったやつは、ストーリーもなにもない、地口だけで幻想がつながってゆく超弩級の異色作で、これは自信をもって大賞候補に残したんだけど、編集部で読んだ人間が全員口を揃えて「どこが面白いのかさっぱりわからん」(笑)。おかげで候補にも残らなかった」。大森望、豊崎由美『文学賞メッタ斬り!』、ちくま文庫、2008年、299頁。
★11 SFマガジン編集部編『SFが読みたい!2002年版──発表ベスト!SF2001[国内篇・海外篇]』、早川書房、2002年。


小浜徹也

菅浩江

酉島伝法

東浩紀



