大阪SF八景|堀晃

堀晃氏は1944年兵庫県生まれ。ハードSFの旗手として知られ、長く大阪に住んでいる。そんな堀氏が2024年に記した、大阪の風景とSF的想像力の関係をめぐるエッセイを転載する。読んでいると、大阪という土地そのものが大きな虚構の舞台のように思えてくる。 初出は『Anchor KLL』第1号。転載を快諾いただけた堀氏と発行元の神戸文芸ラボさんに感謝したい。本編には「大阪SF街道」と題された続編もある(同誌第2号、2025年刊行予定)。併せ読まれたい。(東浩紀)

大阪に憧れて、20歳前に大阪に出てきた。大阪の大学に進んだためだが、最大の理由は、大阪がSFの中心地だったからだ。高校時代に入会したNULLは大阪にあり、東京以上に活気があるように思えた。
学生時代はSF活動に熱中し、そのまま大阪で就職して、仕事をしながら、SFも書き始めた。
学生時代は池田市石橋、就職してから都島(毛馬町)の寮、その後淀川区(西中島)のアパートと移り住み、結婚して間もなく、北梅田の集合住宅に入居した。最初の著作が出たのもこの頃である。
大阪に出てきて20年。人生の半分を大阪で過ごした。ちょっと感慨を覚えたものだった。
部屋からは北梅田が一望できた。子供は大阪駅を発着する電車を見ながら成長した。
それから40年……今も北梅田に住みつづけている。人生の半分を北梅田で(人生の4分の3を大阪で)過ごしたことになる。
飽くことなく、大阪を眺めてきた。旅にはさほど興味がないが、散歩は好きだ。徒歩圏(大阪キタ)を歩き、近隣の区は自転車で巡り、高齢になってからは地下鉄と市バスが片道50円で利用できるので、範囲は市内全域にひろがった。
なぜこうも大阪に惹きつけられるのか。それは昔から大阪の景観がSFと分かちがたく結びついているからだ。
SF作品から教えられた場所も多く、自分で発見した景観もある。そこから想像をひろげて作品にしたものもあるし、飽かず眺めているだけの風景もある。そんなことを数十年つづけているうち……最近は、その背後に、もっと大きな構造が作用しているような気がしてきた。
それは何か。私の好きな大阪の景観を、SF歴に重ねて紹介していけば、糸口はつかめそうな気がする。
1 中之島4丁目(大阪市立科学館)
手塚治虫『鉄腕アトム』(1952〜1968)[地図①]
2008年、リユューアルされた大阪市立科学館のロビーに「學天則」の復元モデルが展示された。
學天則は、1928年に昭和天皇即位を記念した大礼記念京都大博覧会に出品された「東洋で初めてのロボット」である(制作者は生物学者の西村眞琴で、俳優西村晃のご尊父)。この年は手塚治虫の生年でもある。
復元モデルを見て、私は市立科学館がやっと「日本ロボットSF誕生の地」になったなと感無量だった。
私が初めてSFに接したのは1951年(小学1年)、『アトム大使』を読んだ時である。ともかく鮮明に記憶している最初のSFがこれだ。この年、手塚治虫は大阪大学医学部附属病院でインターン中だった。翌年上京して、『鉄腕アトム』連載がはじまる。
大阪市立科学館は中之島4丁目にある。この一帯は昔は阪大医学部だった。手塚青年はここで学んでいた。
この地でやっと「東洋初のロボット」と「日本ロボットSF」が合体したわけで、ここを「日本ロボット誕生の地」と呼んでもいいのではないか。いや、私はずっと勝手にそう呼んでいる。
大阪はロボット研究では世界でも最先端にある。
ロボット科学とSFの関係を論じだすと長くなるので省略するが、ロボット学者に大きく影響しているSFは、アシモフの諸作と『鉄腕アトム』である(もう少し後には『ドラえもん』世代もいる)。SFに憧れて科学分野でそれを「実行」する学者は、宇宙開発分野や天文学にもいる。
大阪は特にその傾向が顕著で、2003年4月7日、阪大フロンティア研究機構主催のシンポジウム「アトム誕生祝賀記念講演会」があった。作中で天馬博士がアトムを起動させた日で、阪大の河田聡、浅田稔、石黒浩教授らに、川人光男、川崎和男博士らが参加、ゲストに小松左京、立花隆氏らを迎えて、多角的な視点からロボットが論じられた。後の懇親会での乾杯の発声が「ハッピーバースディ・ツー・アトム!」であったのも懐かしい。
2007年頃だが、当時建築中だった大阪駅北側(グランフロント)を「ロボ特区」にする案があった。開発中のロボット(たとえば道案内とか警備用)の実用化実験を兼ねるエリアにする。残念ながらこれは実現しなかったが、私はこれをヒントに『笑う闇』という短篇を書いている。その中に米朝師匠をモデルにした落語ロボットを登場させたのだが、2012年に石黒浩教授が「米朝アンドロイド」を開発したのには驚いた(私は米朝師匠の7回忌(失礼!)に設定していたのだが、実現した時に師匠はご存命中で「対面」も果たされている)。
話を中之島4丁目に戻すと、医学部跡地には、市立科学館の北側に国際美術館が完成。さらにその北側に大阪中之島美術館が建てられた。佐伯祐三美術館(佐伯祐三の生家はわが住処から徒歩5分)にする案もあったが、常設展に落ち着いた。科学と美術のエリアとなり、阪大の名残は大阪大学中之島センターだけになった。個人的には、入学式のあった講堂がここにあり、手塚治虫さんが学んでいたのはこのエリアだったのかと感激したものである。
このセンター西側に現在(2024年5月)、財団法人未来医療推進機構の拠点となるビルの建設が進んでいる。研究機構や医療センターが入る予定だ。医学部がかたちを変えて復活した。すでに梅田桜橋にあった桜橋渡辺病院がここに移転して、4月から診療をはじめている。
私は5年前に不整脈で入院した経験がある。幸い完治しているが、心臓病は再発の心配もあり、定期的な検査は継続している。通院先が4月から中之島4丁目に変わった。懐かしい場所に戻ってきた気がする。
この年齢になると、痴呆状態で寝たきりになるのが恐ろしい。現役で死にたいというか、少なくとも意識ははっきりしたまま楽に(?)死ねればと思う。過去のわが病歴からいえば、死につながりそうなのは心臓病だけである。
新病院の病室は上層階にある。見晴らしもよさそうだ。
70年前 『アトム大使』でSFを知り、ロボット開発の先端都市で学び、仕事をしてきた。「日本ロボット誕生の地」を「最後の場所」にするのも悪くない気がしている。
2 中之島東端(剣先)
福田紀一「霧に沈む戦艦未来の城」(1962)[地図②]
私が初めて大阪に来たのは1962年夏(高校時代)だった。「関西SFのつどい」というイベントで、小松さん筒井さんはじめ、その後親しくなる多くの方々と初対面だった。ただ当日は緊張して、隅の方で話を伺っていただけである。場所は森之宮の教育会館だったが、建物も周囲の景観もほとんど覚えていない。
その時に耳にした(正式な議論ではなく、誰かの雑談だったと思う)のが「『文藝』のフクダキイチの作品はSFといえないではない」「中之島の先端は誰が見ても軍艦だからな」といった話だった。この作品については『宇宙塵』や『SFマガジン』でも話題にはならなかった。
その後、姫路の古書店で『文藝』を探し、福田紀一「霧に沈む戦艦未来の城」を読んだ。
非常に「前衛的」な100枚くらいの中篇である。西日本が国家として独立する過程が非常に思わせぶりな筆致(幻想や回想が入り混じる)で描かれるのだが、凄いのが最後の方。中之島が軍艦に改装され、扇風機数千台を並べ、中之島図書館の本を燃料として燃やし、両側に架かる数十の橋をへし折りながら出撃する場面である。これには驚いた。
当時の私の感覚では、これは奇想小説であり、SFとしては読めなかった。10年後には、これは堂々たるSFであり、極めて先駆的な作品だったと理解できるのだが。
この時、私はまだ現場(中之島)を見ていない。64年春、梅田のヌルスタジオを訪ね、その足で中之島に向かった。
水晶橋を渡り、中之島図書館から公会堂前を通り、(筒井さんに書いてもらった地図を頼りに)中之島先端(上流)へ歩いた。
天神橋の東につき出した先端は「剣先」と呼ばれ、上流の淀川から毛馬閘門で分岐した大川(当時はまだこちらが淀川で、毛馬からの下流は新淀川だったが)は、そこで堂島川と土佐堀川に分かれている。確かにそこは巨船の舳先に見えた。ただ、そこから戦艦、西日本独立まで想像をひろげるのは並の才能ではない。
大阪に限らず、印象的な景観に出会った時、ここをSFの舞台にすれば……という方向に想像力が働くのは、この時の体験が大きく作用している。
天満橋周辺の道は今もよく歩く。剣先の先端には巨大な砲台のような噴水が設置され、定時には大川に巨大なアーチ状に水を吹き上げる。ますます戦艦に似てきた。
福田紀一氏は京大文学部出身で、在学中には「京大作家集団」や「バイキング」で小松左京氏、高橋和巳氏らと交流があった。最初に「霧に沈む戦艦未来の城」を耳にしたのも、小松さんの話だったのかもしれない。小松左京氏は「易仙逃里記」が『SFマガジン』に、高橋和巳氏は「悲の器」で文藝賞を受賞して、3氏は1962年に(それも3カ月ほどの間に)揃ってデビューしているのである。
なお、「霧に沈む戦艦未来の城」は1975年に河出書房から「本格長篇書き下ろし」として刊行された。現在入手できるのはこの長篇版のみである。都市論などが書き込まれ、前衛度(?)の高い長篇だが、ラストの出撃場面はきわめておとなしい描写になっている。私はセンス・オブ・ワンダーの視点から、最初の中篇の方に圧倒される。
3 大阪砲兵工廠跡(大阪城公園)
小松左京『日本アパッチ族』(1964)[地図③]
福田紀一の「霧に沈む戦艦未来の城」から1年半後、小松左京の第1長篇が発行された。カッパ・ノベルスから刊行された『日本アパッチ族』である。年譜では64年3月刊だが、書店に並んだのは1月下旬だった。大学入試で上京する特急の中で読んだのだから、よく覚えている。とつぜんの刊行で、しかも表紙カバーにも新聞広告にも、SFとも空想科学小説とも銘打たれていないのが意外だった。奇想天外小説、書評では風刺小説といった表現が使われていた。むろん定義に関係なく、私は、受験参考書などに目もくれず、作品に集中した。
失業罪で大阪城東側にひろがる廃墟(砲兵工廠跡)に追放された男は、屑鉄泥(アパッチ族)の仲間に助けられ、やがて鉄を食べる新人類に変貌していく。主人公の名が木田福一であるのにもすぐに気づいた。何よりも、屑鉄がつき出し野犬が徘徊する広大な廃墟の描写に圧倒された。私の「廃墟好き」はこの作品からはじまったと思う。
この場所へ行ってみたい。そう思いながら、実現したのは2年ほど後、それも環状線の車窓からほとんど整地された広場を眺めただけだった。第二寝屋川の近くに鉄骨が少し残っていたが、森ノ宮で降りても、その区画は立入禁止だった(大阪城公園駅はまだできていなかったから、寝屋川河岸にも行けない)。
順序が逆になるが、開高健『日本三文オペラ』も読み、30年後に梁石日『夜を賭けて』を読んで、廃墟願望はさらに強くなった(特に梁石日氏は「現役」であっただけに、現場の臨場感はすさまじい)。
だが、今は公園に樹木が増え、野球場が整備され、大阪城ホールが作られ、砲兵工廠の痕跡は周辺に関連施設が残されているだけ。 さらに環状線東側には大阪公立大学のキャンパスの整備中で、その北端の猫間川抽水所(当時の雰囲気を残すはずの場所)にも入れない。唯一 「再開発の手」が入っていないのは、 寝屋川北側、環状線の高架をくぐって東側の一帯だけだが、大部分の建物は建て替えられ、普通の下町の雰囲気である。
これはしかたないことだ。作者のまえがきに「大阪城のはずれにたたずんで」「数年前にできあがった美しい公園」を眺め、ここにかつてあった「すさまじい『廃墟』」を思い「私の心の中に廃墟がいきいきと生きつづけているのに気づい」て「『アパッチ』の物語を書こうと思いたった」とある。執筆時点ですでに廃墟の大部分は消滅していたのだ。
大阪城公園を眺めながら、そこにかつてひろがっていた廃墟のイメージを重ねる。この癖は、他の再開発地を眺めるときも同じ。今なら大阪駅北側の「うめきた2期地区」が代表的だ。完成しつつあるグラングリーンを眺めて、私はいつも、線路数十本が扇状にひろがり、巨大な錆びたカマボコ屋根がそびえていた貨物駅の廃墟を思う。そして、ここが廃墟になるまで、また100年ほど待たなければならないのかなと想像するのである。
4 梅田地下街
堀晃『梅田地下オデッセイ』(1978)[地図④]
1963年2月、入試で大阪に出てきた私は、大阪駅を降りて駅前の風景に仰天した。
「大阪の道路は鉄でできているのか!」
大阪駅から阪急百貨店、曾根崎警察署まで、道路にはびっしりと鉄板が敷き詰められていたのだ。
私はアシモフの『鋼鉄都市』を思い出した。遠い未来、砂漠のなかの鋼鉄製の人工都市でロボット刑事が活躍するSFミステリーである。大阪はSF都市なのか……鋼鉄道路の正体は「路面履工板」であり、その下では地下街が掘り進められていたのだった。
その秋に梅田地下センターがオープンする。大阪駅前から曾根崎署までの狭い区画だが、それから地下街は東西南北に拡大しつづける。
何より驚いたのが、御堂筋の北端、阪急百貨店の南側に出現した、銀色の巨大な5本の塔だった。広いコンクリートの三叉路の中央に聳えるそれは、巨大な宇宙船が落下して、ノズルだけが地表から突き出ているように見えた。これは地下街の換気塔で、村野藤吾の作品であったことを後日知った(村野藤吾の代表作のひとつ、綿業会館とは、その後仕事でなにかと縁ができる)。
ここで拙作を紛れ込ませていただくがご容赦を。大阪に出てきて15年後、私は梅田地下街を舞台にした中篇を書いた。宇宙SFをメインに書いてきた私にとっては珍しい作品である。もともとは世代間宇宙船(スターシップ)ものを構想していた。ハインライン『宇宙の孤児』にはじまるジャンルSFには多くの傑作があるが、この頃にはスペースコロニーという考え方が主流になり、スターシップは書きづらくなっていた。そこで私は舞台を梅田地下街に移すことにした。当時は本町勤務だったから、通勤で梅田は毎日通っており、地下街は隅々まで知っている。
梅田地下街を制御していたコンピュータに異変が生じ、多くの人が地下に閉じ込められる。食料の奪い合いが起き、少数の人たちが分散して生き残る。おれは三番街で1年近く過ごし、その間に知り合った女との間に子供が生まれた。その子は不思議な能力を持っていた。ある日、おれは衝動にかられて、その子とともに梅田地下の迷宮を旅に出る……
今年2月、大阪市が後援している「街歩き企画」で拙作を取り上げるので協力してほしいという依頼を受けた。半世紀近く前の作品を覚えていただいていたのに感激して、十数人の地下街散歩に同行した。三番街までうちから徒歩十数分である。
久しぶりに舞台を歩いて、梅地下はまた大きな変貌期にきていると実感した。特に万博を控えて、西エリアの変化が大きい。誕生以来の「ぶらり横丁」が姿を消し、中央郵便局跡(JPビル)地下からうめきた(大阪駅北側)の新駅への連絡通路が大きく変わりそうな。物語のラストシーンになった駅前第一ビルあたりには、地下に飲み屋が並び、場末感が漂っているのもうれしい。
梅田地下街とは、その誕生から60年つき合ってきた。腐れ縁は生涯つづきそうだ。
5 毛馬閘門
北野勇作『かめくん』(2001)[地図⑤]
大阪でいちばん好きな場所は?と問われると、私は迷わず毛馬閘門をあげる。
入試で大阪に出てきた時(またも63年だ!)、前日に試験会場を下見に行った。旭区の大阪工大だったが、その時、市電とトロリーバスを乗り間違えて、都島橋から毛馬橋まで歩かなければならなくなった。淀川(大川)東岸に沿った道に人通りはない。どんよりと曇り、寒く、1キロ近い道をずいぶん遠く感じた。やっと毛馬橋東端に着いた時、私はその北側にひろがる光景に立ちすくんだ。
そこには巨大な水門が5基並んでいた。煉瓦造りのアーチ状水門が黒い鉄扉を支えている。灰色の空を背景に水門のつながりが黒く淀んだ川面に映る光景は、「日本離れ」していて、私はなぜかリバプールみたいな気がして、しばらく見とれていた(この直観はあながち間違いではなかった。1907年に新淀川開削にともなって建造された水門で、工業都市大大阪(だいおおさか)の象徴でもあったから)。これが毛馬閘門(厳密には閘門に付属する毛馬洗堰)との最初の出会いだった。
いつかもう一度見にこよう……。それが実現したのは7年後だった。私は敷島紡績(現シキボウ)に就職し、工場実習と1年近く新工場建設の応援に駆り出された後、城北工場に併設する研究所に配属された。その工場がなんと毛馬橋の東側にあったのだ。工場の設備は新工場に移設されてもう操業していない。多くの煉瓦造りの工場は廃墟で(またも廃墟だ!)、研究所と寮・社宅が広大な敷地の中にポツンと残されている不思議な世界だった。
毛馬閘門は同じ姿で残っていた。徒歩七、八分である。よく散歩に行った。淀川左岸の堤には雑草、河川敷は一面に葦が茂っていた。
この風景は長くつづかなかった。赴任した半年後くらいから毛馬閘門の大掛かりな改修工事(というより全面的な新建造)が始まり(詳しくは書かないが、要するに今の姿に変貌した)、旧閘門は西側(長柄側)に公園施設として残され、今は「重要文化財」に指定されている。東側(毛馬側)一帯は蕪村公園として整備され、堤には蕪村の句碑が建てられている。私の職場も北摂に移転することになり、廃墟工場は団地群に変貌していった。今の「リバーサイドしろきた」である。
それでも毛馬一帯は好きな場所だ。江戸文化と近代化が同居する場所であり、今もよく散歩に出かける。
ここも万博にあわせての変貌期で、淀川大堰閘門の建造が進められている。要するに、昔からの「三十石」は京都から毛馬閘門経由で大川(八軒家浜)だったのが、新閘門経由で淀川を夢洲まで直行できることになる。大阪の水運が大きく変わることになりそうな。
前置きが長くなり過ぎた。
この毛馬一帯を舞台とするのが『かめくん』である。
ある日、毛馬堤近くにある図書館に不思議なロボットが現れる。それは戦闘用兵器として開発されたカメ型ロボットなのだが、かめくんと呼ばれ、図書館員たちに混じって普通の市民生活を送ることになる……。物語の要約は不可能。毛馬一帯の描写が素晴らしい。毛馬の風景を背景に話が展開されるというより、かめくんの日常を追ううちに周辺の風景がSFに同化されてしまう感覚といえばいいだろうか。これは北野勇作氏の特異な才能だ。日本SF大賞受賞。
北野さんは西宮で阪神大震災に遭い、カメを連れて大阪に移住した。天六近くに住んでいた時期の作品である。
他にも大阪の景観を異化させた作品(『ウニバーサル・スタジオ』『どろんころんど』(中之島)など)が多い。それも特別な場所や景観ではなく、そのへんの商店街とか路地裏など日常の生活圏すべてが異化されて、今や5000編を超える「ほぼ百字小説」の世界を創りあげている。
6 上町台地
牧野修『愧儡后』(2002)[地図⑥]
会社生活のつづき。半分廃墟だった毛馬の工場が閉鎖された後、私は本町(備後町)の本社に転勤になり、大阪市内を出歩く機会が増えた。通産省の繊維関連検査所が上町筋(難波宮跡の南側)にあり、夕陽丘図書館には海外の特許文献が揃っていた。その他の関連機関も谷町筋沿いに多く、坂道を上下移動するうちに、上町台地の形状を体で覚えていった気がする。特に谷四や谷九あたりの坂道から西を眺めると「大阪市の背骨」が実感できた。
その上町台地を中心に大阪市の破滅を描いたのが『愧儡后』である。
守口に隕石が落下し、爆心地から半径6キロは危険地帯として立入禁止となる。 しかしそこから皮膚をゼリー化する奇病が蔓延しはじめ、大阪は死の街と化していく。危険地帯の最前線が上町筋で、この作品の不気味さは、安全の象徴みたいな上町台地から病原体がじわじわと斜面を下り、市街地を侵食していくところにある。ミナミの繁華街が無人化し、大阪湾に大量の死体が浮いたり、その大阪の景観描写はグロテスクにして美しい。日本SF大賞受賞。
牧野修さんは黒門市場の近くで育ち、その後ずっと谷町六丁目在住、この作品の主要舞台(上野台地の上下)から動いたことがない。生涯大阪市在住だった先輩に眉村卓さんがいるが、厳密には岡山県日生で11カ月の工場勤務がある。しかもその日生は多くの作品で描かれていて、故郷を離れる体験がいかに大きいかがわかる。そうなると、牧野さんを一度谷六から引き離してみたい……そう思うのは私だけであろうか。
7 聖天山(阿倍野)
眉村卓「エイやん」(2006)[地図⑦]
大阪で聖天さんといえばふたつ思い浮かぶ。キタなら福島区の聖天通商店街の奥にある「福島聖天了徳院」、ミナミなら阿倍野区西端にある「聖天山正圓寺」で、ともに親しみを込めて「聖天さん」と呼ばれる。キタの住民である私は、聖天通商店街の方には行ったが、阿倍野の聖天さんに行く機会はなかった。
眉村さんの「エイやん」(『新・異世界分岐点』所収)を読んで、「天下茶屋の聖天さん」へ行ってみたくなった。作品の記述にちょっと疑問を感じてだったが、 その結果とんでもない謎が判明する。私には「探検/発見」に等しい、珍しい景観との出会いだった。
妻を亡くした初老の作家浦上は、ミナミの繁華街でパチンコをしたあと、自宅に帰るために、御堂筋を南下、少し歩いて高速道路の下にあるベンチでタバコを吸う。区の境界でそこから坂道を上り学校脇の道を抜けると自宅へのバス道に出る(この場所は特定できる。電器街を東に抜けた、高速(阪神高速環状線)の下。そこから夕陽丘学園に沿った学園坂を上がれば谷町筋で、自宅の播磨町近くまではバス一本で行ける)。浦上はここで少年期(戦時下)を回想する。やがて立ち上がり、高速下から坂道を上り、学校の横の区の境界線を歩いて「ガードレールが繁った雑草に大方覆われている崖の縁」に出る。階段を降りると「トタン屋根や瓦屋根がひしめき」、この中の細い道を歩くと「左手に樹々の茂った斜面」があり、「大聖歓喜天のある」「聖天山」の階段下に出る。そのあたりは中学時代を過ごした場所だった……。
戦時の長い回想に挟み込まれるこの経路の描写は、普通に読めば、浦上は考え事しながらずいぶん歩いたんだなと自然に読めてしまう。大阪の地理を知らない読者は何の疑問もいだかないだろう。だが、浦上はいつの間にか、谷町筋のはずが聖天山の下に迷い込んでいたのだ。どこで道を間違えたのか。ポイントは高速道路下のベンチにありそうだ。
そこで私は聖天山から浦上とは逆方向に歩くことにした。聖天山は正圓寺の山号であると同時に、標高14メートル「大阪五低山」のひとつの名称でもある。その崖下を北へ歩くと、所々に階段があり、そこを上がると大谷高校、その先は阿倍野霊園に沿った坂道(この道は阿倍野区と西成区の境界である)がつづき、その下の阿倍野筋は高速(阪神高速14号松原線)の下であった。
浦上がタバコを吸う高速道路下のベンチはじつは二カ所(夕陽丘/阿倍野筋)あって、ともに区の境界(浪速区/天王寺区と西成区/阿倍野区)にある。描写に何も矛盾はないのだった。
作品のテーマは「もうひとつの戦後」にあり、街歩きのトリックではない。しかし、このふたつの景観は「大発見」であり、それを重ねるSF的アイデアは「大発明」だと思う。それをあえて表面に出さないところが眉村さんらしい美学なのだろう。
この聖天山北側の崖道は、2021年6月、崖崩れで知られることになる。石積みの擁壁が崩れ、住宅数棟が崩落した。崖上に斜めに引っ掛かるように残った住宅の映像をご記憶の方も多いだろう。浦上が歩いた、まさにあの道である。
ここは上町台地の西端であり、ハザードマップで見ても区の境界が明確に色分けされているのがわかる。やはり大阪の重要ポイントだったのだ。
8 淀川左岸(此花区)
酉島伝法「皆勤の徒」(2011)[地図⑧]
2011年、私は第2回創元SF短編賞のゲスト選考委員を務めた。選考委員会はきわめてスムースに進行した。一作品について、評価が分かれることなく、すんなり決まった(選評の文章が似すぎていて修正を求められたほどだ)。その受賞作が酉島伝法「皆勤の徒」である。そこで、編集部から作者に受賞の連絡(電話)をして、委員から一言ずつお祝いを伝えようという時になって、部屋は奇妙な雰囲気に包まれた。作者は「不気味な人」ではないかという心配である。お読みの方はおわかりになると思う。受賞作は『ドグラ・マグラ』や『家畜人ヤプー』に並ぶような特異な作風で、作者像が想像できない。編集部も住所電話しか知らない。その段階で「大阪市の人です」とだけ明かされた。私はひょっとして此花区の人かなと思った。その名前(ペンネーム)からだ。大阪の方なら市バスの「酉島車庫前」行きをよく見かけるだろう。うちの近くを通る路線は「伝法経由」。ともに此花区の地名である。北区であれば「梅田天六」とでもいうか。
編集部からの電話がつながり、受賞の連絡のあと、私に電話が回ってきた。緊張気味にお祝いを伝えたあと、「大阪にお住まいだそうで」と質問すると、「ええ、此花です。あの……天満の堀センセイがよく来られるタコヤキ屋、知ってますよ」と返ってきた。バンジョーの名手でSFファンでもあるS君の店である。ホッとするとともに、受賞第一声としては変な挨拶になったなとも思った。
酉島さんとは、後日、そのタコヤキ屋で会った。明るく話題も豊富な方で、飲みながら深夜まで話し込んだ。
作品について解説する必要はあるまい。引き続き書かれた短編も収録した『皆勤の徒』は第34回日本SF大賞受賞、さらに『SFが読みたい!』のベストSF2013・国内部門第1位、2010年代ベストSFの第1位を獲得。最新作『奏で手のヌフレツン』もすでに本年度ベストワンの呼び声が高い。今や日本SFを代表する作家のひとりである。
じつは、ここで酉島さんを取り上げるのは、作品ではなく、酉島さんの出現で生じた大阪SF風景の変化についてである。
酉島作品に大阪が反映していない訳ではない。「皆勤の徒」にはブラック企業での仕事体験が影響していると聞いたことがあるし、その世界描写に舞洲の汚泥処理場が反映しているといえないでもない。ただ、すべては抽象化され、人間の住む世界ではない異世界に再構築されているから、大阪の個別の景観と比較するのは不可能だ。
酉島さんの発言でいちばん驚いたのが(創作講座のゲストで来ていただいた時の)「川で書く」である。
物語を川の流れにたとえるとかではない。自宅近くの淀川左岸の堤防に座ってノートパソコンで書くという。さらにその詳細も聞いたが、ここでは省略。この発言の反響は大きく、「がたろ」みたいに胸まであるゴム長をはいて泥川に立って書いているのか?という声(田中啓文)まであがったほどだ。泥に漬かって書く! これにもリアリティがある。
後日、私は豊崎から淀川左岸の堤を自転車で走り、7キロ下流まで確認に行ったほどだ。確かに河岸の斜面で執筆中であった。
じつはここ(伝法)に来るのには、もうひとつ目的があった。酉島発言がきっかけになったといえる。
私の勤務先は敷島紡績といったが、1892年に傳法紡績の名で創業している。創業地が傳法で、今の阪神なんば線「伝法」付近である。ここの工場は1年で売却され、西成郡上福島村(現福島区/工場跡は今の下福島公園)に移転し福島紡績と名を変えている。淀川掘削工事にともなって敷地が削られる事情もあったようだ。そのあたりの現地調査をしたいと思っていたので、いい機会になったわけだ。
周辺には多くの「産業遺産」もあり、現地歩きの収穫は予想以上だった。
これらはわが大阪SF風景に追加されていく。
なんといっても、酉島・伝法(創業地)と毛馬(最初の赴任地)が淀川で「直結」しているのが驚きだった。つぎの下福島公園(福島紡績跡)には、1909年の「北の大火」の最終点となった「焼けどまりの塀」がまだ残っていた(北大阪地震の後撤去)。わが会社人生は淀川と大川が形成する巨大な三角形に囲まれていたような気がする。
酉島・伝法付近ではその後も奇妙な事件が起きる。
2021年、北新地のビルに放火して26人を焼殺した男は、事件前に伝法の寺の墓地から遺骨を盗み出している。その一族の過去をたどると、淀川掘削工事で分断された村の景観が浮かんでくる。
2023年には淀川河口にマッコウクジラが迷い込んだ。クジラは死亡したが、なぜか死骸が一夜で上流に流され、酉島付近の左岸に漂着した。「川で書く」すぐそばである。野次馬が押しかけ、テレビで映像も流された。私はJ・G・バラード「溺れた巨人」を思い出していた。
伝法からは目が離せない。
気になる大阪のSF風景を並べてみて、不思議な気分になる。
幼少期に手塚治虫でSFに夢中になり、高校時代にNULLに入会し、大阪に出てきて、大阪で就職した。
前半の4風景は、私が憧れたSF風景であり、それに惹かれて風景の中に入り込んだともいえる。その後、大阪のSF風景(現実の景観やSFに描かれた世界)に刺激を受けながら、二足のわらじで仕事をつづけてきた。後半の4風景がそれにあたる。
総合すれば、私は大阪のSF的な風景のなかで人生の大部分を生きてきたといえるのだが……そう信じていいのだろうか。
それら風景は今、大きく変わりはじめている。
淀川左岸は左岸線工事で立ち入れない。毛馬では淀川閘門の建造が進められている。中之島には新ビルが次々と建ち、大阪城公園エリアには新キャンパスや新施設が造られる。そして最近では、私にとって「最初の」大阪の地・中之島4丁目にできた新病院を「最後の」場所にしたいと潜在的に願っている。
大構造が小構造を規定する。宇宙の原理はそうだと私は信じてきた。
百年以上前(会社創業/淀川掘削)から、私の生活エリアは用意されていた。すべては百数十年、半径せいぜい一〇キロ程度の「時空」で生成消滅する。そんな気がしてならない。そして、夢のようなイメージの中で「完結」するのもいいのではないか。


堀晃




