ポスト構造主義の時代
コレージュ・ド・フランス 1976 飛び魚と毒薬 第17回
パリの冬の朝はいつまでも暗い。
その頃は9区ラ・ブリュイエール通り3番地 bis の屋根裏部屋に住んでいた。もうよく思い出せないが、たぶん6階くらいだった。もちろんエレベータなどはない。
建物を出て授業へと急ぐとき、街灯にはまだオレンジ色の灯がともり、街角のあちこちには零下の気温の中でスチームの湯気がたちのぼり、開いたばかりのパン屋の店先が照らしだされ、地下鉄サン・ジョルジュ駅の入口のキオスクにもランプがともっている。
カルチエラタンまではほんの15分程度。オデオン駅は地下鉄が職場へと急ぐ人びとを吐きだし、生暖かい濁った空気がまとわりつくような地下道を早足で抜けて、エコール通りをソルボンヌの方へ、コレージュ・ド・フランスめざして向かう。吐く息は白く、ピンとした空気が顔を打つ。パリの冬がいまよりずっと寒かった頃だ。
朝のうす暗がりの街を通ってコレージュの門をくぐり、右手の8番教室の方へ急ぐとそこはたいていすでに人だかりができていて、運良く部屋に入ることができても座れる席はもうない。中庭に面した窓の枠壁にまで人びとが腰掛けている。ひどいときには部屋から人があふれていて中には入れず、守衛がやってきてもうこっちは満員だからと、向かいの部屋に案内されることになる。その部屋には昔の日本の小学校の教室と同じように正面壁の上部にスピーカーが据えられていて、そのベージュ色の箱を眺めながら文字どおり聴講する羽目になる。
ミシェル(・フーコー)の講義は当時そんなだった[◆1]。
学生たちは、その頃、思想家たちを「ミシェル Michel」や「ジル(・ドゥルーズ)Gilles」とファースト・ネームで親しみをこめて呼んでいた。そして、かれらに対してはtu(君)で話しかけていた。なにしろ〈68年5月〉がまだ息づいていた時代だ[◆2]。
若者たちは机と机のあいだの地べたに座りこむと前年出たばかりの『監獄の誕生[◆3]』のページをめくっていたり、フーコーが賞賛した、主人公の名が「ジル」という(一人称 je と三人称ilの両方からなる名前だとフーコーは言っていたと思う)小説[◆4]や、ヴァンセンヌ、つまりドゥルーズの方の「ジル」の話題で持ちきりだったりした。
正面の奥のとびらからフーコーが入ってくると人をかき分けて教壇へと向かう。まだ夜明け前の暗さが残る教室、その机のうえのランプの下に原稿を拡げる。光がキャラフに反射して輝いている。独特のやや甲高い声で憑かれたようにフーコーは原稿を読み上げ始める。講義タイトルは『社会は防衛しなければならない』。この年から、水曜日、朝一番の午前9時15分に開始されることになったのだ[◆5]。
『言葉と物』は日本にいたときに翻訳でかろうじて読んではいたし、『知の考古学』も一応目を通してはいた(この中村雄二郎訳は分かりにくさで有名ではあった)。前年の1975年には『監獄の誕生』が出版されて、ソルボンヌ広場のPUF[◆6]書店の店頭に並べられていた。だからといって、この時代のフーコー講義に出席できる準備が自分にできていたとは到底思えない。いや実際まったく分かっていなかったと思う。
ただ、これは社会有機体説の系譜研究のようなものであろうかという印象を持ったことは憶えている。高校の頃、父親の書棚にあった田辺元『種の論理』をめくったことはあったし、それが国家有機体論につながっていったくらいの知識は持ってはいた。ソニーのミニカセットレコーダを持っていたので講義は録音してフランス語の練習に使ったりしていたが、そのカセットはもう遙か以前に手元にない。
50年も前の遠い過去の思い出だが、あれらの冬の朝のうす暗がりをとおして、その言説はいまも語られつづけているように思える。コレージュ・ド・フランスのサイトに行けばその講義を聴くことができるのだが、なおさら、フーコーの声は時代を超えて私たちの元に送り届けられているように聞こえる。
以前に書いたように、当時ソルボンヌの文明講座の学生だったから、コレージュは、サン・ジャック通りを隔ててすぐ隣にあった。なぜフーコーの講義に行くことになったかと言えば、前の年にソルボンヌの夏期講座で知り合ったI君の薦めだった。東京外国語大学を(たぶん)卒業したか、学生運動がらみで中退したかは思い出せないのだが、ぼくの少し前からパリ留学中で、ときどき出会うと昼ご飯をともにしていた。
その頃、左翼系の学生には、独特の早口で話す人が多くて、I君もそういうしゃべり方だった。考え方も「戦闘的」で気っぷがよく、たしか銚子の方のガラス職人の息子だった。アラビア語学科出身でアラブ人の友人たちも多く、彼らは日本のゼンガクレンの学生たちに大いにシンパシーを持っていたので、かれといるとジャパニーズ・レッドアーミーはスバラシイ! とすぐに寄ってきて友だちになれた。
そのI君が、あんたはソルボンヌのようなところでお行儀よく文学など勉強しているより、こっちがいいんじゃないのかね、と薦めてくれた。ドゥルーズの授業に先に出ていたのもかれだった。メディアによく使われる1975年撮影の「ヴァンセンヌでのドゥルーズの授業風景」という写真[◆7]があるが、あの写真の奥で教室入口に立ってドゥルーズが話すのを聴いているのがかれだ。かれとは、この第一回目の留学が終わるときに別れて以後、連絡が途切れてしまったのだが、元気にしているだろうか。
高等師範学校のデリダ
この街の素晴らしいところは、歳月が経過しても町並みは変わらないことだ。フーコーの講義が終わると、在外研究で滞在していたり、留学したりしている日本人の研究者や大学生・院生たちと話して情報交換をしていた(といっても、まだ22歳の青二才の学部生だったから、一方的に知識を教えてもらう立場だったのだが)。そのとき出会ったのは、今村仁司、田島節夫といった先生方、若い学生としては港道隆さん、あと何人かだった。今村さんはご家族でパリ滞在中で、関西弁の気さくなおじさん。背の高いまだ青年然とした風貌のかれが小さなお子さんを肩車してカルチエラタンを歩いてくるのにときどき出会った。アルチュセールは相変わらず神経症で授業がないが、デリダは高等師範学校でニーチェの授業をしとるよ、と教えてもらった。その講義を見に行くと、その後の白髪のデリダとはだいぶちがう黒い頭髪の眼光鋭い先生で、小さなセミナー室でさほど多くはない学生たち相手に、ぼそぼそとくぐもった声でアグレグ(哲学教授資格試験)のためのニーチェ原文講読の難解な演習をしていた[◆8]。デリダは、その当時は、ブランショと同じ「顔のない」、つまり顔写真が一切公表されていない思想家[◆9]であったので、Arc誌デリダ特集表紙[◆10]のエッシャーのトカゲの姿をイメージしていたのだが、意外と普通のペダゴジック(教育者的)な教師の感じ。じっさい、かれは反復教師 répétiteur という職にあったから、大学というよりまさに「師範学校」の先生であったのだ。じっさいユルム街のENS(高等師範学校)は高い壁に囲まれたこぢんまりした学校で、だいぶ旧制高校的な雰囲気であるな、と分かったのはそのときの収穫だった。
そのようなことで、いわゆるフランス・ポスト構造主義との接点ができたのは、1976年の始めの頃だった。しかし、所属としてはソルボンヌの文明講座の最上級クラスの留学生で、トリュシェ先生やマトレ校長、そして、リュシアン夫人の作文演習を受け、中世文学史とか古典文学の勉強を続けてもいたのであった。
フランス語の分身を育てる
1976年の復活祭の休暇期間、つまり3月から4月にかけての数週間は、屋根裏部屋に籠もって勉強した。これまで語ったように、日本を出る前は悲惨な状態で、哲学や思想や政治などからはもう降りるつもりだった。だから、語学をかなりまじめにこなしていたし、文学に打ち込んでいたのだ。しかし、フーコーの講義に出て内容は分からないながらその雰囲気に接し、フーコーの盟友とされていたドゥルーズという哲学者の存在を知ることになった。
きっかけはといえば、やはり先ほど名前を挙げたI君がドゥルーズの授業に出ていたことから、PUFで『ニーチェと哲学』を購入して休暇期間を使って熟読した。連載第12回で書いたように(だいぶ前に別のところでも書いたことなのだが[◆11])、当時のぼくは1年半ほど前に『ツァラトゥストラ』で永劫回帰のさとりを開いたのであったから、その身体経験をベースに、ドゥルーズの語るニーチェを読んでいった。ニーチェの「ハンマーで打つ哲学」の力を言葉にしていくのがドゥルーズなのだと思った(しかし、このときにはまだ、ニーチェの「ハンマー(聴診槌)」の意味を誤解していたのだが[◆12])。これまたどこまで理解できたのか定かでないのだが、この本は、それまで自分が高校以来学んだ思想的なことがら──その多くは、いわゆるマルクス主義や実存主義に通じるものであったわけだが──の全部を一掃しさるものだった。ヘーゲルやマルクスではなく、ニーチェやスピノザを、否定性の弁証法ではなく、肯定性の思考を、意識や現象ではなく、無意識と兆候を、表象やイデオロギーではなく、力と価値による批判を……。まったくちがう思考法がそこには述べられていたのだ。
若いときに特徴的な本の読み方だが、PUF の本のセリフ体のあの活字で組まれた白い頁に鉛筆で印を付けたり余白にメモ書きしたりして、必死に読んだ。だからいまでも、どの辺に何が書かれているかは、はっきり憶えている。そして、その後の歳月でようやく、あそこに書かれていたのはこういう意味かとだんだん分かるようになっていったのだった。
その春から夏にかけては、同じようにしてフーコーの『言葉と物』も読んで憶えたし、ドゥルーズの『意味の論理学』も何週間かをかけて熟読して暗記した。この時期の読書は、おもにそのような引きこもりと暗記による学習に費やされた。もちろんすべての本をフランス語原文で読んだことは言うに及ばない。フランス語で考え話し書く自分の分身を育てている時期だったのだ。
ラ・ブリュイエール通り街の屋根裏部屋から降りて、地下鉄のサン・ジョルジュの方へ曲がる対面の角にはアラブ人の食品店があった(グーグルストリートビューで見ると、その店はもうなく、いまはセルフのコインランドリーになっている)。大学食堂に行く時間も惜しいので、そこの店でライ麦パンと堅いチーズと青いリンゴとを買い込んで部屋に戻り食事をする毎日だった。その青いリンゴ(たぶんグラニースミス、ビートルズの Apple Records のマークになっているリンゴ)はすっぱいけれど堅いきれいな果実で、ナイフで切ると鋭角に断面が切り取られ、部屋の薄闇の中にその丸い輪郭が白々と浮かび上がるのだった。
隣の屋根裏部屋は2、3室あったようだが、チュニジア人の鉛管工の親父さんとその家族が住んでいた。小学生の小さい男の子がいて、親はフランス語を読むのが難しそうだった。そんなときには、部屋にやってきたので、宿題を教えてあげていた。
6月から始まる夏休みは、ポスト構造主義がらみの多数の哲学・思想書、バルトとかメッツのような文学理論や記号論・言語学、無数の小説の類い(セリーヌの『夜の果てへの旅』他ほぼ全作品とか、ヌーヴォー・ロマンとか、クノーとか、ルズヴァニとか、ケルアックの『オンザロード』の仏訳とか)など、ひたすら読書にあけくれた(ちなみに19世紀以前の「古典」はソルボンヌだから学年中にさんざん読んでしまっていた)。 ソルボンヌで知り合って親しくしていた同年齢のH君(かれは高校生運動でドロップアウトしてパリで学生生活を始めていた)と一緒に出かけて、カンヌの海岸に寝そべって南仏でのひと月を過ごしたあと、パリに戻ってきた。
ヴァンセンヌの森の大学
そして、長い長い夏休みが終わった秋、ドゥルーズが教えるパリの東ヴァンセンヌの森にあるパリ第8大学に出かけていくようになった。
翌年には日本に帰ることにしていたので、単位をとることが目的ではなく、もっぱら吸収するためだった。夏休みの期間に、『差異と反復』とか『プルーストと記号』とか『アンチ・オイディプス』とかは読んであったし、フーコーとの対談「知識人と権力」とかフーコーの「哲学の劇場」とかも読んで、気合いは十分だった。なんといっても若い頃のエネルギーはすごい。
パリ第8大学ヴァンセンヌ校(通称 「パリ8」あるいは「ヴァンセンヌ」)は、〈68年5月〉の革命騒ぎの直後に行われた、フランスの大学制度の大改革──エドガール・フォールの大学改革[◆13]と呼ばれる──の中で、1969年にいちはやく実験校として設立、その後、1971年から大学として正式に発足したのだが、その創設の経緯には、混乱の震源地となったカルチエラタンやソルボンヌから、「厄介な」学生たちをできるだけ遠ざけておきたいというド・ゴール政権の思惑があったと言われている。
バカロレアを持たない者にも門戸を開くという、前代未聞の大学開放政策、カリフォルニア大学バークレー校を思わせる大胆な分野横断的カリキュラムと履修システム、当時にしては珍しく託児所を併設して社会で働く人びとに開かれたキャンパス。新しい大学の企てを掲げたこの実験校の哲学科には、フーコーが初代学科長として招いた若い俊英たち──ドゥルーズ、リオタール、シャトレ、バディウやランシエール、あるいは精神分析のラカン派の面々──が集うことになり、皮肉にも、隔離のための場所が、既存のアカデミズムの枠組みを超えた自由な知の実験場へと転じてしまっていたのだ。
いまとなっては伝説の、ヴァンセンヌの森の「パリ8」は、〈68年5月〉の余韻みなぎる場所だった[◆14]。メトロの1番線で終点シャトー・ドゥ・ヴァンセンヌ駅で下車、駅前から大学行きのバスに乗り込むと、ものの5分ほどで、森の中に忽然と現れるキャンパスに着く。ソルボンヌやコレージュの、荘厳な石造りの建物とはまるで違っていて、モダニズム風のだいぶ「イカれた」プレハブ平屋建築がいくつも連なってできている。
入口は、人びとでごった返し、中東のスークのような雰囲気。ゴーシスト(極左)のファック(fac、つまり、 学部── faculté ──という意味だよ)だから、極左やアナーキストの機関誌だとか、雑誌、ビラ、同人誌のようなものがコミケのブースのように所狭しと並べられて売られている。アラブ系とおぼしき新聞売りのおじさんが、「リベラシオン、リベラシオン!、アラキリ、アラキリ!」と、マオイストの機関誌『人民の大義』から日刊紙に生まれ変わったばかりの『リベラシオン[◆15]』や風刺漫画誌『Hara-Kiri[◆16]』を売り歩く。その横では、屋台が並んでメルゲーズ(マグリブ料理で使われる、羊の肉で作った赤い香辛料の効いたソーセージ)を焼いて挟んだサンドイッチや飲み物が売られている。日常化したバザーやお祭り騒ぎのようだった。
浅いプールみたいな四角い人工池がつくられていて、それを取り囲むように講義棟が配置されている。エントランスホールから入れば、壁には、学生たちが描いたのだろう「絵画作品」が残り、あるいはスプレーのスローガンや落書き、集会ビラが幾重にも貼り重ねられ、廊下は煙草の煙で白く濁っている。この時代の大学には比較的よくあった風景だと思うが、このカオスが、この大学の「実験」をそのまま体現していた[◆17]。
パリ8哲学科
そんなパリ8のキャンパスにはじめて足を踏み入れて、哲学科の建物に向かったのは1976年の9月の後半か10月の初めの頃だったのだろう。張り切っていたので、パリ8の正規の学生ではないにもかかわらず学科のオリエンテーションから参加した。こういうのもいまの皆さんには分からないかもしれないが、当時はもちろん大学のホームページなどは存在せず、自分で行くか、教えてもらうか、予めなんらかの手段で情報を手に入れなければならない。
その資料はいまも手元にある。タイプ打ち原稿をそのまま刷った冊子だ。哲学科の学位(licence)は国家認定ではない「自由」学位で、30単位のうち16単位は哲学科内、4単位は数学・精神分析・政治学・社会学など関連分野、残り10単位は他学科からも自由に選べる。修論・博論の指導教員にはシャトレ、ドゥルーズ、リオタール、シェレールらが名を連ねる。教員間の序列も学業の「段階的進行」も拒否し、研究は権力批判とその政治的帰結への接続を旨とする、との方針が明記されている。分野横断の自由と批判的視座──このカリキュラム一枚に、〈68年5月〉以後の気風がそのまま刻まれている。

そのオリエンテーションの日のことはわりとよく憶えている。フランソワ・シャトレが学科長的な役割(たぶんじっさいにも学科長だったのだろう)を担っていて、ヴァンセンヌは国の単位認定からはずれているのだけれど、というような、パリ8の制度的周縁性について一般的な話をして、第三課程博士号の認定が認められるかどうかとか、そういう技術的な話をした。なにしろ22歳のガキだからそうした大学ルール的なことは当時のぼくにはあんまりピンとこなかったが、シャトレは長い間、リセ・ルグランの教授をしていたというキャリアもあり、とても教育的な話し方のいかにもギリシア的な哲学者だった。かれの著作『プラトン』とか『哲学史』とかは、まだ十分には読んではいなかったのだが。そのときだったか、ギリシアの「パイデイア」について話してくれた。「パイデイアというのは formation という意味で、pédagogie(paidagōgos、子供を導く者)と同じ語根 pais から来ている語だ」、みたいな話だった。
そうこうしているうちに教員たちも何人かやってきて、なかばおしゃべりというか、やあ、新学年だな、みたいな、その辺はどの国でも同じ長期休暇後の挨拶。そして、ダークグリーンのコートを着込んだドゥルーズが入ってきて、同僚たちとおしゃべりをしていたが、もっぱら説明はシャトレと、そのあとは、若い教員が受け持って、そのまま解散だったと思う。
ドゥルーズの授業
いよいよ新学年となり、ドゥルーズや、リオタールの授業が始まった。それ以外にも、エレーヌ・シクスーのフェミニズムの授業とか、ロベール・カステルの社会学とか、あるいは、トーマス・サスのような反精神医学の立役者の講演会だとか、じつにさまざまな講義や催しに参加した。
当時の講義の多くは(フーコーの場合と同じく)いまでは録音が公開され、テキスト化されて出版されている。のちに伝説となったその講義は、私の記憶においても、それに先立つ鬱蒼とした歳月を経て、ヴァンセンヌの森の中にまさにそこだけ光が差し込んだ草叢の大地が突然出現したように、特別な〈明け地clairière〉のように刻印されている。
あの、森の中に突然出現した〈パリ8〉の喧噪の宴は跡形もなく消えて、そこには記念碑さえも残されていない。
さて、ドゥルーズやリオタールの授業は、その当時どのような経験だったろうか。例えば、シラバス(といっても、とってもシンプルなものだが)を見ると、ドゥルーズは同じ年度に2つの履修科目を行おうとしていた(G5 712とかは履修科目ナンバーなので特別な意味はない)。
G5 713「セグマンタリテ(線分性)」──社会的線分性という考え方、民族学、国家・官僚制と現代的分節性、幾何学の社会的役割、社会的領野を横断する諸線、それらの線は構造という観点から理解できるか、逃走線と革命。
G5 813「ミクロ・ポリティクス」(第2学期開講)──ミクロ分析の基準、ガブリエル・タルドの社会学、『監獄の誕生』、個人・小集団・社会、集団の諸類型、大きな集合体とミクロ装置の相補性、ミクロ・ファシズムの諸現象、2つの政治学。
1980年には、このタイトルそのまま、『千のプラトー』第9プラトー「1933 ──ミクロ・ポリティクスと線分性」の章題になっていくだろう。ガブリエル・タルドへの言及や「逃走線 ligne de fuite」「ミクロ・ファシズム」といった概念群が、この年教室で語られることになる。
そして、私たちは、それから50年後のいま、あらたなセグマンタリテとミクロ・ファシズムと、〈2026〉という数字の中に回帰した〈1933〉に向き合っている。
ミクロ・ファシズム
社会がさまざまな仕方で区切られる「セグマンタリテ」はその後の世界で、インターネットとソーシャル・サイバネティクスにより、人びとを分断するしかたで実装された。私たちの日常にまで政治と権力への服従が浸透するという「ミクロ・ポリティクス」はSNSを通じて蔓延し、ミクロ・ファシズムが社会感染を拡げる50年後のディストピア世界に私たちは住んでいる。では、「逃走線」はどこにあるのだろうか?
『千のプラトー』は私たちの(日本の)社会では、むしろ欲望資本主義経済の本として誤読──誤配?──されてしまったのではないだろうか? 1980年代初めから、日本では、「スキゾ」「逃走」の「ニューアカ」ブームへと向かったのだし、ポストモダンな高度資本主義の明るい未来が見えたかに思われたのである。
50年前のあの森の中のキャンパスでは、だれもが「資本主義と分裂症」が問題なのだと分かっていたのだ。たとえ、『資本主義と分裂症1 アンチ・オイディプス』(1972)を読んだことがなくても、『差異と反復』を読んだことがなく、ガタリのラ・ボルド[◆18]を知らなくても、みながそれを身体で知っていた。なんといっても、そこに集まっていたのは、〈68年5月〉を身近に経験したばかりの人びとだったのだから。
〈68年5月〉を継続すること、それをどのように継続するかだけが、ヴァンセンヌの問題だったのだ。
だから、ジルの授業に集まることが、だれにとっても熱く必要とされた。ヒトラーやムッソリーニの歴史的ファシズムだけでなく、「われわれ一人ひとりのなかにあって、われわれの精神と日常の振る舞いに取り憑いているファシズム、権力を愛させ、まさにわれわれを支配し搾取するそのものを欲望させるファシズム」(フーコーが寄せた『アンチ・オイディプス』英訳版への序[◆19])と対峙するためには是が非でも必要だった。そして、50年後のいまこそよく分かるのだが、それは、ほんの始まりにすぎなかったのだ。
だから、ドゥルーズとガタリは、私たちの後ろにではなく、前にあるのだ。
ドゥルーズ・ライヴ
ドゥルーズの〈ライヴ〉とは、かれの〈声〉である。
かれの声は、片方の肺からのみ押し出されるような吐息による調音である[◆20]。録音や動画でよく聴いてみてほしい。それは、苦しいように息切れをして空気を吸うと、周囲のノイズ音から逃れて、清らかにある種のアリアのように発声される。かれは哲学を歌うことができるのだ。それは、結核という病を「準─原因」(身体的因果とはズレて、純粋な出来事を触発する誘因)として発明された形而上学的な歌なのであって、その歌の下方では無数の身体が受動・能動し合って前─個体的に連結しているのだ。
ぼくたちは、ジルの語りに聴き入りながら〈思想〉を呼吸する。そのようにして心理的─集団的に個体化することができる。あの『資本主義と分裂症2 千のプラトー』の「イントロダクション:リゾーム」が言うように、「わたしたちは2人で『アンチ・オイディプス』を書いたのだけれど、それぞれが複数だったのだから、それだけでもう多数だった」。ぼくたちはジルが語るのを聞いていただけではなくて、かれが発明する「概念」の横断的個体化をとおして、さらによりいっそう多数の脱領域化へと開かれていった。それは──ドゥルーズ語で言えば──ぼくたちそれぞれの身体が、逃走線の交錯する集合的な言表行為の連鎖へと接木されていくことだったのだ。
「ドゥルーズの授業は私にとって太陽の光だった」とか、「あの輝かしい歳月」とか、そういう証言がよく引かれるのは、こうした「心理的─集団的個体化」(シモンドン)を指してのことなのだ。
さきほど、分野横断的な知の編成、開かれた大学、それまで存在しなかった学科や科目について書いたが、その新しく開かれつつあった知の領野で、なんといっても分かりやすい、だれにでもアクセスできる「概念」をかれは次々に生み出していった。〈ヴァンセンヌ〉と〈ジル〉とはかくも不可分な存在でありつづけていたのだ。
紙幅があればもっと長く書きたいのだが、まあ、ざっと、そういうことが分かったのがドゥルーズの授業の受講体験だった。そして、先ほども述べたが、「資本主義と分裂症」は、その後の世界をいまにいたるまで見透かしていた出発点だったと気づくことがとても重要だと思う。
リオタールの異教的身ぶり
これに対してリオタールの授業は土曜日で、こちらはいかにも余裕のある大人の雰囲気。ご本人もビールとか飲みながら、リピーターも多い中で、ひねった議論戦略をくみ立てていく(こちらがガキすぎて、すべてが分かったわけではないのだが)。
ただ、リオタールのシラバスもいたってシンプルで、次のようなものだった。
G5 726「異教的政治学のための一寄与」──過去2年間の研究の続き。パラドクシカルな作用子をさらに精緻化し(特に時間の論理として扱う)、さまざまな政治的・軍事的状況における闘技論的な手続きを検討する。
これだけでは分からないと思うのだが、かれは『リビドー経済』(1974)で強度・欲動の哲学を展開したあと、1976年前後から徐々に政治的なものへの関心を先鋭化させ、『異教入門』(1977)、対話形式の『異教の教え Instructions païennes』(1977)を刊行していく[◆21]。この講義は、それらへ向かう最中に行われていた。
『異教入門』の目次には「理論における無感動」「神学政治学における報復」「衰退における便法」「革命における空虚さ」といった論考が並び、シラバスにある「パラドクシカルな作用子」「時間の論理」といった問題系は、まさにこれらの延長にある。そしてこの系譜が1979年の『ポストモダンの条件』での「言語ゲーム」「語用論(プラグマティクス)」「大きな物語の終焉」の議論へと収斂していくわけだ。
先ほどのシラバスには2つの柱がある。まず「闘技論的 agonistique」という語は、のちの『ポストモダンの条件』で明示的に使われていて、「語ることは、ゲームの意味において闘うことである parler est combattre, au sens de jouer」というテーゼのもと、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論とギリシアの「アゴーン(闘技)」の伝統を結びつける形で展開された。
次にパラドクシカルな作用子の精緻化。アリストテレスの『ソフィスト的論駁について』が、問答(ディアレクティケー)における対話者どうしの論駁の技法──相手を言葉のわなにかけて追い詰める(あるいは、かけられたわなから逃れる)ための、詭弁(パラロジスム)の分類学だという知識をこのときもらった。自己言及のパラドクス(嘘つきのパラドクス)をsui-référentielと訳していたとか、言表 énoncés の分析という知識に触れたのもこのときが最初だった。「孫子の兵法」とかの話も出て、君はそういうの知っているでしょ? と振られかけたことを憶えている。
この講義が、「paganisme(異教)」というプロジェクトの、いわば理論的な作業場だった。ここでいう異教とは、唯一の真理・唯一の解放の物語を僭称する言説(マルクス主義的な大きな物語であれ、資本主義的な効率性の物語であれ)を拒み、複数の局所的な言語ゲームがそれぞれの掟を持って並立する状態を肯定する立場のこと。
この構図の核にあるのが、まさにこの授業で扱われていた2つの主題──アリストテレス『ソフィスト的論駁』に遡る自己言及的パラドクスと詭弁の論理、そしてソフィストたちの「アゴーン」に発する、語ることそのものを闘争・ゲームとして捉える発想──で、これらが3年後、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論という、カナダの行政報告書という体裁に馴染む語彙に翻訳されて『ポストモダンの条件』を形づくることになるのだ[◆22]。
リオタールは、この時代、極めてクールに「大きな物語」を終焉させる闘争ゲームを準備していたといえるのだろう。
*
こんな風に想い出してみると、あの忽然と消え去ったヴァンセンヌの森の〈明け地〉の意味があらためて分かってくるように思う。
私自身は、当時若すぎて、その含意を十分に汲み取りえずに、想い出の中に置き去りにしてきてしまった。その50年前の場所は、混迷するいまの世界への入口だったのではないだろうか? 私たちの世界はあのとき以降、奇妙な〈思考の不在〉へと落ち込んでしまっていないか? それは哲学の「不思議の国」のウサギ穴に落っこちるようなことだったろうか? そのミッシングリンクは何か?
この時代、世界は運行の向きを変えつつあった。
いくつかの具体的な日付を書き付けておこう──
1976年2月、ジャン・ボードリヤール『象徴交換と死[◆23]』(「模造(反宗教改革期)」「生産(産業時代)」「シミュレーション(現代、コード支配の時代)」という三段階のシミュラークル類型論を提示)の刊行
1976年3月、ドゥルーズ゠ガタリ『リゾーム イントロダクション』刊行[◆24]
1976年7月、スティーブ・ウォズニアックとスティーブ・ジョブズ「Apple1」を666ドル66セントで発売開始
1976年11月26日、ビル・ゲイツとポール・アレン、商標(商号)「Microsoft」をニューメキシコ州に登録
前年1975年、初の本格的な電子メールクライアント「MSG」(ARPANET)が稼働。開発者は USC情報科学研究所(ISI)のジョン・ヴィタルで、先行する BANANARD を改良し、Reply(自動的に “Re:” を付して返信先を組み立てる Answer コマンド)、Forward、CC/BCC、フォルダ分けといった、今日のメールの基本作法をほぼ確立した[◆25]。
1974年、Intel 8080(最初の実用的マイクロプロセッサ。計算能力を個人が所有できるものへと変えたパーソナルコンピュータ革命の起爆剤)の発売
同じ1974年、テッド・ネルソンが Computer Lib のバイブル『Computer Lib / Dream Machines[◆26]』を自費出版(「コンピュータは専門家の独占物ではなく、いま誰もが理解し使いこなせるし、そうすべきだ(“You can and must understand computers NOW”)」という宣言を掲げ、コンピュータを専門家階級から一般市民の手に取り戻すことを訴える)
これらの日付からだけでも、それまで軍産学複合の研究所や企業のメインフレームに独占されていた中央集権的な計算資源を、「個」へ向けて「脱領域化」する動きが、一気に加速していったことは明らかだろう。
問題はしかし、Compuer Lib の運動が、50年をへて人びとに Dream Machines をもたらしたのかどうかだ。われわれがいま手にしているスマホは果たして Dream Machines なのか?
ヤコブソンとレヴィ゠ストロースの時代以来、情報理論・サイバネティクスと構造主義が、深い親族関係で結ばれていたことは知られている。フーコーやデリダの世代にいたっても、情報技術とポスト構造主義は強い認識論的な親和力によって結ばれている。
たとえば1965年のネルソンの「ハイパーテキスト」構想は、1967年バルトの「作者の死」が語る、起源を持たず組み替え可能性に開かれたテクストと、驚くほど同じ方向を指さしていた。ジョージ・ランドウが『ハイパーテキスト──現代批評理論とテクノロジーの合流』(1991)で論じたのがこの一致だった[◆27]。
バルトやデリダが語った、中心も階層も持たない「エクリチュール」、読者が書き手へと反転する「読み書き可能なテクスト」は、ハイパーテキストという技術がそのまま実装しようとしていたものだ。1976年3月の『リゾーム イントロダクション』における、「リゾーム」対「樹木」の対比もまた、ネットワーク型トポロジーとツリー構造ファイルシステムの仕様書のように読める。
だが、注目すべきは、リゾームとハイパーテキストの親近性ではなく、ドゥルーズ自身がヴァンセンヌから退いたのちに書いた1990年の「追伸──管理社会について[◆28]」だろう。そこで取り上げられたのは、まさにマイクロプロセッサが可能にしたもの──フーコー的な規律社会の閉鎖的施設ではなく、壁を持たない、連続的で拡散したモデュレーション型権力、開かれたネットワークを通じて作動するサイバネティックな制御にほかならなかった。サイバネティクスとの並走ではなく、内在的でテクノロジックな批判の方向が示されていたのだ。
1976年には「モル的・ツリー状の権力からの逃走線」を表していたはずの「リゾーム」という理論装置が、1990年になると、権力が何へと変貌しつつあるかを言い当てる、最も精密な記述装置にもなる可能性が見えていたのである。リゾームは抵抗だけでなく、IT型権力のプラットフォームをも記述してしまっていた。
ガタリは1989年に『三つのエコロジー』で、「「統合資本主義(CGI: Capitalisme Mondial Intégré)」が生み出した新しいタイプの「藻類(モンスター/変異体)」、ドナルド・トランプ」を描き出している[◆29]。つまりポスト構造主義は、IT革命とのしずかな並走をやめ、内在的でラディカルなテクノロジー批判へと向かう力を湛えていたはずだ。
しかし、そのためには、次の世代の才能が求められていた。
同時期、1976年のヨーロッパは大干ばつに見舞われた(本連載第7回参照)。チャーリー・パーカーとチャーリー・ミンガスを聴きながら、農耕と労働の日々に勤しんでいた男は、飼育していたヤギを売り払い、街に出てジャズバー『日々の泡』を経営。ハイデガーの Abbau を「dé-construction」と訳した哲学者の知己を得る。しかし因果はめぐりめぐって、資金繰りに行き詰まった男は、1978年の銀行強盗事件で入獄。
その後4年間の獄中での哲学が、「エピメテイア」──epi-metheia(後から-思考する)、後知恵としての技術知──を形づくっていく。かれが、独房内で「Idiotexte」を構想するのが1980年。1982年に仮出獄してデリダに会いに行く。
国際哲学コレージュのプログラム担当となった、このポスト構造主義の継承者は、リオタールの展覧会 Les immateriaux(1985)[◆30]へのコラボレーションへ、ポンピドゥーセンター Memoire du future 展(1987−1988)のキュレーション[◆31]へ、ミッテラン国立図書館の電子化プロジェクトへと、みるみる活動領域を広げていく。
もうお分かりの通り、技術の非思考を代補すべく、ポスト構造主義のミッシングリンクを埋めにやって来る哲学的人物は、『技術と時間』を著すことになるその哲学者だ。
◆1 現在 Collège de France が公開しているフーコー講座の当該年度の講義ページ。URL=https://www.college-de-france.fr/fr/agenda/cours/il-faut-defendre-la-societe
講義時間が17時45分から19時15分と記載されているがこれは誤りだ。この年から、講義時間は、第1時限、9時15分から10時45分までに変わった。この年以後のフーコー講義の時間帯の記載にも異同があるが、すべては第1時限が正確。
◆2 フランス語を知っているひとには常識だが、tu が親しい間柄で使う親称の二人称。tu で話すことを tutoiement という。〈68年5月〉は社会的ヒエラルキーを崩そうとしたので、教師/生徒もフラットにtuで語り合うという慣行が流行した。現在はどうやら vous(ていねいな関係での二人称。vous で話すことを vouvoiement という)にもどったようだが、教員と学生でもゼミとか親しい研究室環境とかでは tu で話すことはよくある。逆に教員が学生に tu で語りかけるのは、子供扱いされているかのような印象を与えるのでやめた方がいいとも言われているようだ。
◆3 Michel Foucault, Surveiller et punir : Naissance de la prison, Gallimard, 1975.
◆4 J. Almira, Le Voyage à Naucratis, Gallimard, 1975.(『ナウクラティスへの旅』ナウクラティスは古代エジプトにあったギリシャ人の交易都市の名前)は、ジャック・アルミラ Jacques Almira (1950-)の処女小説で、同年のメディシス賞を受賞。自伝的性格の強い作品で、作者の分身にあたる語り手「Jil Tu」(「 je(私)」「 tu(あなた)」「il(彼)」を融合させた名)が登場し、言葉そのものと格闘する物語。語り手は狂気すれすれの状態で言語の奔流に身を委ね、身体をめぐる冒険と書物をめぐる冒険という2つの軸が絡み合って展開する。原稿はミシェル・フーコーに送られて絶賛され出版にいたる。『ル・モンド』の文芸批評を担当していた批評家ベルトラン・ポワロ゠デルペックらからも高く評価された。フーコーは、同年、著者らと鼎談を行っている。
Michel Foucault, “La fête de l’écriture” (entretien avec J. Almira et J. Le Marchand), Le Quotidien de Paris, no. 328, 25 avril 1975, p. 13, repris dans Dits et écrits, tome II, no. 154.ミシェル・フーコー「エクリチュールの祭典」(№154)、『ミシェル・フーコー思考集成V 1974─1975 権力・懲罰』、中澤信一訳、筑摩書房、2000年。
◆5 前年度までの講義開始時刻は17時45分だったのだが、なぜ変更されたかというと、あまりに多くの聴衆が押し寄せたからだ。この8番教室(通称「ベルクソン講義室 Salle Bergson」──ベルクソンの講義にも溢れる聴衆が押し寄せていたことは伝説になっている)は、コレージュ・ド・フランスで一番収容能力の大きい教室だったが、座席数はせいぜい200程度。その数倍の聴衆が押し寄せていた。コレージュ・ド・フランスの地下大改築によって今は存在していない。
◆6 PUF は Presses Universitaires de France(フランス大学出版局)の略称で、1921年、複数の大学教授たちが共同出資して設立した出版協同組合を起源とする、フランスを代表する学術出版社。哲学・人文社会科学の基礎文献や、「クセジュ文庫 Que sais-je?」のような普及版叢書で知られ、ソルボンヌ広場に長らく直営書店を構えていた(2000年に売却)。
◆7 URL=https://www.telerama.fr/livre/deux-nouveaux-cours-de-gilles-deleuze-publies-les-dernieres-seances-a-vincennes-dans-la-joie-de-l-echange-7028128.php
◆8 このときに「お邪魔」した演習は、Jacques Derrida, La vie la mort—Séminaire (1975-1976), Seuil, Bibliothèque Derrida, 2019 所収のセッションのどれかだが、日付までは分からない。
◆9 デリダは、1979年まで、自分の肖像写真が公にされることを一切禁じていた。本人自身の言葉を借りれば、「わたしはあらゆる種類の、自分についての公的な写真を絶対的に禁じていた j’interdisais absolument toute espèce de photographie publique [...] de moi」。これは単なる気まぐれではなく、著者という存在を神格化・商品化することへの拒否──「著者の脱─フェティッシュ化 défétichisation de l’auteur」──という、当時のポスト構造主義的な身振りだった。ブランショの「顔のなさ」と同じ系譜にある態度と言える。
この禁を解く契機になったのが、1979年6月にソルボンヌで開かれた「哲学のための全国三部会 États généraux de la philosophie」。デリダが1974年に創設した「哲学教育研究会 GREPH」が中心となり、当時の政府(アビ改革)によるリセ(高校)での哲学教育削減案に抗議するために組織された運動で、デリダはこの運動を公に牽引する必要から、匿名性を捨てる決断をしたとされる──いわば、哲学を守るための一種の政治的身振りとして。皮肉なことに、この三部会の際に新聞に掲載された最初のデリダの写真は、実際には後ろ姿の別人の写真に「ジャック・デリダ」というキャプションが付けられたものだった、という逸話が伝わっている。
なおデリダの黒髪時代が話題になるのは、この1979年ごろまでに、白髪が急に進んだということと関係しているらしい。わたし自身が、ピエール・ブルデューから私的会話で聞いた逸話だが、少し会わない間に急に白髪化して、デリダだと分からなかった。そうしたら、デリダが近づいてきて、「僕だよ、分かんないのか Tu ne me reconnais pas?」と笑ったそうだ。2人は高等師範学校時代からの同期生。
◆10 Jacques Derrida, L’Arc, no. 54, 3e trimestre 1973.
◆11 2009年に、東京大学新聞から依頼されて書いた「コラム青春の一冊 『亡命生活』とニーチェ読解:ジル・ドゥルーズ著“Nietzsche et la philosophie”」、『東京大学新聞』2009年9月8日(その後、『東大教師 青春の一冊』、東京大学新聞社編、信山社新書、2013年、146─148頁に収録)。 元になった原稿は以下の私のブログに再録。URL = http://nulptyxcom.blogspot.com/2013/03/2013318-nietzsche-et-la.html
◆12 『偶像の黄昏』序に出てくるハンマーは、彫像を叩いて内部の空洞を調べる「聴診槌」のことで、批判の身ぶりを表している。「この小著は、大いなる闘いの宣戦布告である。偶像の秘密の盗み聞きということで言えば、ここで音叉を当てるように聴診鎚で触れるもの、それはこの場合、一時代の偶像ではなく、永遠の偶像である」(フリードリヒ・ニーチェ『偶像の黄昏』、村井則夫訳、河出文庫、2019年、6頁)。
◆13 エドガール・フォールの大学改革(通称「フォール法」、1968年11月12日制定)は、〈68年5月〉の反乱を受けて、当時の教育相フォールが異例の速さで成立させた高等教育基本法。旧来の学部制を解体し、自律性 autonomie・参加 participation・分野横断性 pluridisciplinarité を三原則に、UER(教育研究単位)という小規模な単位を基礎とする、外部代表も加わる評議会をもつ大学へと制度を再編した。この法がなければ、パリ8のような実験校の設立自体が制度的に不可能だった。
◆14 このヴァンセンヌのキャンパスは、1980年、当時の大学担当国務長官アリス・ソニエ゠セイテによって、教職員・学生の反対を押し切って閉鎖が強行され、同年夏には校舎そのものが取り壊され更地にもどされた。今ヴァンセンヌの森にはかつての大学のいかなる記念物も記念碑も見つからない。閉鎖の表向きの理由は麻薬問題の蔓延とされたが、実質的には、〈68年5月〉の圧力のもとでやむなく認められたこの「叛乱の飛び地」を、ジスカール・デスタン政権下の右派が解消しようとした政治的措置だったと言われている。大学側は「解体 démantèlement 」と呼んで4年におよぶ反対運動により抵抗したが、結局はパリ北郊のサン゠ドニに新校舎が建設され、そちらへ移転させられた。この経緯を踏まえ、大学名にはいまも「ヴァンセンヌ」の名が残され、正式名称は「パリ第8大学ヴァンセンヌ゠サン゠ドニ校 Université Paris VIII Vincennes-Saint-Denis」となっている。URL=https://www.univ-paris8.fr/Historique-de-Paris-8
◆15 1973年、サルトルを名目上の発行人として創刊された日刊紙。前身は、毛沢東主義系の「プロレタリア左翼(ゴーシュ・プロレタリエンヌ)」に近い言論人たちが1971年に設立した通信社「リベラシオン通信 Agence de Presse Libération」で、1973年2月に試験号、5月22日から正式に日刊紙として発売された。サルトルは、1970年に廃刊に追い込まれたゴーシュ・プロレタリエンヌの機関紙『人民の大義 La Cause du Peuple』でも、逮捕された編集者たちを守るため名目上の発行人を務めており、この系譜(毛派メディアの「守護者」としてのサルトル)がそのまま『リベラシオン』創刊にも引き継がれた。
◆16 1960年、フランソワ・カヴァンナとプロフェッサー・ショロンが創刊した風刺漫画月刊誌。1969年には週刊版『Hara-Kiri Hebdo』も創刊されたが、1970年11月、ド・ゴール将軍の死を揶揄した見出し「コロンベーの悲劇的な舞踏会──死者1名 Bal tragique à Colombey-un mort」が当局の逆鱗に触れて発禁処分となり、その後継として同月に創刊されたのが『シャルリー・エブド Charlie Hebdo』である。もとの月刊誌『Hara-Kiri』自体は発禁を免れて存続しており、1976年当時、街角で売られていたのはこちらの月刊版だったと考えられる。
『シャルリー・エブド』は1981年にいったん廃刊、1992年に再刊されたのち、2006年にムハンマドの風刺画をデンマークの新聞から転載、2011年・2012年にも独自の預言者風刺画を掲載して繰り返し脅迫を受けていた。そして2015年1月7日、シェリフ・クアシとサイード・クアシの兄弟がパリ11区の編集部を襲撃し、編集長シャルブをはじめ漫画家や編集者11名を殺害、逃走中にさらに警官1名を射殺した(いわゆる「シャルリー・エブド事件」)。この事件をきっかけに「 Je suis Charlie(私はシャルリー)」というスローガンが世界的な言論の自由をめぐる連帯運動として広がった。
◆17 当時の様子は例えばパリ第8大学制作のドキュメンタリー作品『Vingt scènes à Vincennes』で映像を見ることができる。URL=https://www.archives-video.univ-paris8.fr/video.php?recordID=101
◆18 ラ・ボルド施療院は、精神科医ジャン・ウリ Jean Oury が1953年、ロワール地方クール゠シュヴェルニーの古城に開設した精神病院で、患者と医療スタッフの固定的な役割分担そのものを問い直す「制度精神療法 psychothérapie institutionnelle」の実践拠点となった。ガタリは1955年頃からここに参加し、以後生涯にわたって関わり続け、役割をローテーションさせる「グリッド grille」制度や、後年「横断性 transversalité」として理論化される集団分析の実践を、この現場から練り上げていった──『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』の理論的土壌には、このラ・ボルドでの臨床経験が色濃く流れ込んでいる。
◆19 Michel Foucault, “Préface” (à la traduction américaine de L’Anti-Œdipe), in Dits et Écrits, tome III, no.189, Gallimard, 1994/2001 (nouvelle édition), pp. 133-136.(ミシェル・フーコー「ドゥルーズ・ガタリ『アンチ・オイディプス』への序」(№189)、『ミシェル・フーコー思考集成VI セクシャリテ・真理』、松浦寿輝訳、筑摩書房、2000年に対応)ここでの訳文は石田による。
◆20 1968年、ドゥルーズは博士論文準備中に若年期からの結核が悪化、抗生物質等の効かない重篤な状態で博士論文審査は翌69年に延期された。審査後、ドゥルーズは非常に重い手術──胸郭形成術──を受けなければならなかった。以後、彼には片肺しか残されず、これが晩年に至るまで、繰り返される点滴治療と呼吸不全を余儀なくさせることになる。以下の伝記を参照。
François Dosse, Gilles Deleuze et Félix Guattari : Biographie croisée, coll. «Poche / Sciences humaines et sociales», La Découverte, 2009, pp. 217-218.
◆21 Jean-François Lyotard に言及する著作書誌は以下の通り:
Économie libidinale, Minuit, 1974.『リビドー経済』、杉山吉弘、吉谷啓次訳、法政大学出版局、1997年。
Rudiments païens : Genre dissertatif, 10/18, 1977; rééd. 1998.『異教入門──中心なき周辺を求めて』、山縣熙、小野康男、申允成、山縣直子訳、法政大学出版局、2000年。
Instructions païennes, Gallilée, 1977.(邦訳なし)
◆22 Lyotard, Jean-François. La condition postmoderne: rapport sur le savoir. Éitions de Minuit, 1979. ジャン゠フランソワ・リオタール『ポストモダンの条件──知についての報告』、小林康夫訳、水声社、1986年。
ケベック州政府の大学評議会からの委託で書かれた。中心テーゼは、コンピュータ化が進む「最も高度に発達した社会」において、知はもはや解放や思弁的真理といった「大きな物語 métarécits 」によって正統化されるのではなく、情報として最適化・交換可能な形に変換され、効率性(パフォーマティヴィティ)によって正統化されるようになる、というもの。「ポストモダンとは、大きな物語に対する不信である」という一文に要約される。ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」概念を用い、合意形成(ハーバーマス的コンセンサス)ではなく、局所的で異質な言語ゲーム間の不一致・発明(パラロジー)に知の正統性の新たなモデルを見出す点が特徴。
◆23 Jean Baudrillard, L’échange symbolique et la mort, Gallimard, coll. «Bibliothèque des sciences humaines», 1976. ジャン・ボードリヤール『象徴交換と死』、今村仁司、塚原史訳、ちくま学芸文庫、1992年。
◆24 Gilles Deleuze et Félix Guattari, Rhizome: introduction, Minuit, 1976. G・ドゥルーズ、F・ガタリ『リゾーム…序』、豊崎光一訳編、朝日出版社、1977年10月刊(雑誌『エピステーメー』臨時増刊号として)。
◆25 転送によってメッセージが原発信者の手を離れて増殖し、返信の連鎖によって単一の起点を持たない会話が形成されていく電子メールの通信形式は、同時代に定式化されつつあった「作者の死」やリゾーム概念の、技術的な実装例として読むこともできる。
◆26 Theodor Holm Nelson, Computer Lib / Dream Machines, self-published, 1974. 改訂版はスチュワート・ブランドの序文を付し、Microsoft Pressより1987年刊行。
◆27 George P. Landow, Hypertext: The Convergence of Contemporary Critical Theory and Technology, Johns Hopkins University Press, 1991. 増補版Hypertext 2.0 (1997)、Hypertext 3.0 (2006)と版を重ねる。日本語訳はジョージ・P・ランドウ『ハイパーテクスト──活字とコンピュータが出会うとき』、若島正、板倉厳一郎、河田学訳、ジャストシステム、1996年。
◆28 Gilles Deleuze, Post-scriptum sur les sociétés de contrôle, L’Autre journal, n°1, mai 1990. 同年、対談集Pourparlers 1972-1990 (Éditions de Minuit, 1990)に再録。ジル・ドゥルーズ『記号と事件──1972─1990年の対話』、宮林寛訳、河出文庫、2007年に収録。
◆29 Félix Guattari, Les Trois Écologies, Éditions Galilée, coll. «L’Espace critique», 1989. フェリックス・ガタリ『三つのエコロジー』、杉村昌昭訳 、平凡社ライブラリー、2008年。
◆30 URL=https://www.centrepompidou.fr/en/collection/film-and-new-media/les-immateriaux-1985
◆31 URL=https://www.centrepompidou.fr/fr/programme/agenda/evenement/cgjBE7k
2026年10月24日刊行『ゲンロン19』

石田英敬




