南相馬のシンボル、原町無線塔をたずねて|上田洋子

初出:2014年5月3日刊行『ゲンロン観光地化メルマガ #12』
本記事に登場されている二上文彦氏と二上英朗氏をゲンロンカフェにお迎えして行なったトークイベント「原町無線塔から3.11後の世界を考える」が、ゲンロン完全中継チャンネルにて公開中です(500円で1週間視聴可)。こちらのリンクからご覧いただけます。ぜひあわせてお楽しみください。
4月16日、南相馬市博物館にお邪魔してきました。1月から3月まで開催されていた「原町無線塔――世界をつないだ白亜の巨塔」展の資料を見せていただくためです。原町無線塔は1921年に建てられた長波の送信電波塔で、その高さはなんと201メートル! 1958年に東京タワーができるまでは、東洋一の高さを誇る塔だったといいます。鉄筋コンクリートの塔は老朽化が1982年に原因で解体され、今は存在しないのですが、かつては南相馬の原町のシンボルで、漁師も海からの目印に使っていたとのこと。
原町無線塔の情報を教えてくださったのは建築史家の五十嵐太郎さんでした。東浩紀が五十嵐さんをお迎えし、藤村龍至さんの司会で3月21日に開催したゲンロンカフェのトークイベント「アートから建築へ、そしてツーリズムへ」後の懇親会でのことです。南相馬に1920年代に建てられた世界一の無線塔があったらしいとのお話に、一同はその場で一斉にネット検索を始めました。すると確かに、低い家並みの向こうにそびえ立つ、飛び抜けて高い塔のあるセピア色の写真がたくさん現れました。天を突くとはこのこと! 本当に高いんです。
1920年代といえば、アヴァンギャルド建築が花開く時代。ラジオというメディアが普及していく時代でもあります。例えばいとうせいこうさんの『想像ラジオ』の表紙にもなっているロシアのシューホフ・ラジオ塔は、1922年の建造物で、高さは150メートルです。当時、原町の巨大な無線塔にどれだけのインパクトがあったのか、われわれの想像を絶するものがあります。
なんと、ちょうど南相馬市博物館で「原町無線塔――世界をつないだ白亜の巨塔」という特別展示が、まさにこの日、3月21日まで行われていたらしいことが発覚。かつて原町のシンボルとして世界に君臨した世界一の塔、原町無線塔のことをもっと知りたい、可能ならゲンロンでも紹介していきたいと、あわてて博物館にメールをしてみました。幸い、撤収後の資料を見せていただけることになり、私は仙台経由で常磐線に乗り、桜も満開の南相馬へと向かったのでした。

【図1】原ノ町駅。この先、いわき方面はまだ常磐線が復旧していない
南相馬市博物館は、原ノ町駅からタクシーで10分ほど行ったところ、重要無形民俗文化財として世界的にも有名な「相馬野馬追祭」の会場のほど近くにある郷土史博物館です。少し早めに到着したので、博物館のある東が丘公園を散策してみると、大正時代に製造された蒸気機関車がありました。後で聞いた話ですが、原ノ町はちょうどいわきと仙台の間に位置し、機関庫を備えたいわきに次ぐ規模の駅だったとのこと。

【図2】東が丘公園内の南相馬市博物館

【図3】公園内も周辺も桜が満開だった
原町無線塔の情報を教えてくださったのは建築史家の五十嵐太郎さんでした。東浩紀が五十嵐さんをお迎えし、藤村龍至さんの司会で3月21日に開催したゲンロンカフェのトークイベント「アートから建築へ、そしてツーリズムへ」後の懇親会でのことです。南相馬に1920年代に建てられた世界一の無線塔があったらしいとのお話に、一同はその場で一斉にネット検索を始めました。すると確かに、低い家並みの向こうにそびえ立つ、飛び抜けて高い塔のあるセピア色の写真がたくさん現れました。天を突くとはこのこと! 本当に高いんです。
1920年代といえば、アヴァンギャルド建築が花開く時代。ラジオというメディアが普及していく時代でもあります。例えばいとうせいこうさんの『想像ラジオ』の表紙にもなっているロシアのシューホフ・ラジオ塔は、1922年の建造物で、高さは150メートルです。当時、原町の巨大な無線塔にどれだけのインパクトがあったのか、われわれの想像を絶するものがあります。
なんと、ちょうど南相馬市博物館で「原町無線塔――世界をつないだ白亜の巨塔」という特別展示が、まさにこの日、3月21日まで行われていたらしいことが発覚。かつて原町のシンボルとして世界に君臨した世界一の塔、原町無線塔のことをもっと知りたい、可能ならゲンロンでも紹介していきたいと、あわてて博物館にメールをしてみました。幸い、撤収後の資料を見せていただけることになり、私は仙台経由で常磐線に乗り、桜も満開の南相馬へと向かったのでした。

南相馬市博物館は、原ノ町駅からタクシーで10分ほど行ったところ、重要無形民俗文化財として世界的にも有名な「相馬野馬追祭」の会場のほど近くにある郷土史博物館です。少し早めに到着したので、博物館のある東が丘公園を散策してみると、大正時代に製造された蒸気機関車がありました。後で聞いた話ですが、原ノ町はちょうどいわきと仙台の間に位置し、機関庫を備えたいわきに次ぐ規模の駅だったとのこと。


博物館の前には、さびた鉄の滑車のようなものが置いてありました。もしや! そう、これこそあの無線塔の頭部。小さな滑車は主塔と副塔をアンテナで結んでいたものです。重量感たっぷりの鉄のかたまりには、「本物」の無線塔をみているのだという思いを強く感じさせられます。

【図4】屋外展示となっている原町無線塔の頭部
博物館では学芸員の二上文彦さんにお話を伺いつつ、資料を見せていただきました。展示資料は155点! 詳細なパネルと多岐にわたる図版で、この無線塔が原町にとって、そして世界にとってどのような位置づけにあり、どのような意味を持っていたのか、わかりやすく示されています。3Dプリンタで作成したという模型もすばらしく、とにかく完成度の高い充実した展示でした。

【図5】特別に見せていただいた模型の数々
二上さんは子どもの頃、無線塔から150mほどのところに住んでいて、1982年の解体工事も目の当たりにしているそうです。塔は身近な存在でもあり、また幼い頃には白くて巨大な姿をいささか不気味に思っていたとのこと。また、『原町無線塔物語』の著者、ジャーナリストの二上英朗さんのおいでいらっしゃり、展示には英朗さんも力を尽くされたとのことでした。

【図6】二上文彦さん
展示および二上さんのお話から、原町無線塔がどんなもので、いかにすごいのか、説明を試みたいと思います。
海底ケーブルを使った通信から無線へと、対外通信技術が変化していったのは19世紀末から20世紀初頭。日本初の対外無線電信局であった船橋無線電信局から商業部門が独立することになった際に、原町議会の誘致により原町無線塔の建設が決まりました。対アメリカの情報発信が主な課題で、地盤などの基礎的条件のほか、船橋から200キロメートル以上は離れていて長波同士が抵触する心配がなかったこと、アメリカ方向に電波を遮るものがなかったこと、そして原町議会が無償で土地を提供したことなどが誘致の決め手となりました。
原町の無線塔は送信所で、受信所は約30キロメートル離れた富岡町に建設され、ふたつあわせて磐城無線電信局と命名されました。富岡の受信所の建物は、後に住宅に改築され、今も残っているそうです。
何より驚かされるのは、1923年9月1日に起こった関東大震災の第一報が、この塔からアメリカに送られたことです。しかもそれは政府主導ではなく、銚子無線局と関西の無線局とのSOSのやり取りを、たまたま傍受した磐城無線局の米村局長が、独自の判断で情報を発信したというのです。普段はハワイ局を経由して信号を伝えていたのが、この日はたまたま気候条件が合い、サンフランシスコ局に直接情報が届きます。この情報をもとに、アメリカでは日本支援のキャンペーンが起こりました。震災情報はさらに、磐城局の信号を傍受した北京郊外の無線局からヨーロッパ各地へと伝えられます。こうして、個人の情報収集と決断により、原町無線塔から世界へ震災の情報が伝えられていったのです!

博物館では学芸員の二上文彦さんにお話を伺いつつ、資料を見せていただきました。展示資料は155点! 詳細なパネルと多岐にわたる図版で、この無線塔が原町にとって、そして世界にとってどのような位置づけにあり、どのような意味を持っていたのか、わかりやすく示されています。3Dプリンタで作成したという模型もすばらしく、とにかく完成度の高い充実した展示でした。

二上さんは子どもの頃、無線塔から150mほどのところに住んでいて、1982年の解体工事も目の当たりにしているそうです。塔は身近な存在でもあり、また幼い頃には白くて巨大な姿をいささか不気味に思っていたとのこと。また、『原町無線塔物語』の著者、ジャーナリストの二上英朗さんのおいでいらっしゃり、展示には英朗さんも力を尽くされたとのことでした。

展示および二上さんのお話から、原町無線塔がどんなもので、いかにすごいのか、説明を試みたいと思います。
海底ケーブルを使った通信から無線へと、対外通信技術が変化していったのは19世紀末から20世紀初頭。日本初の対外無線電信局であった船橋無線電信局から商業部門が独立することになった際に、原町議会の誘致により原町無線塔の建設が決まりました。対アメリカの情報発信が主な課題で、地盤などの基礎的条件のほか、船橋から200キロメートル以上は離れていて長波同士が抵触する心配がなかったこと、アメリカ方向に電波を遮るものがなかったこと、そして原町議会が無償で土地を提供したことなどが誘致の決め手となりました。
原町の無線塔は送信所で、受信所は約30キロメートル離れた富岡町に建設され、ふたつあわせて磐城無線電信局と命名されました。富岡の受信所の建物は、後に住宅に改築され、今も残っているそうです。
何より驚かされるのは、1923年9月1日に起こった関東大震災の第一報が、この塔からアメリカに送られたことです。しかもそれは政府主導ではなく、銚子無線局と関西の無線局とのSOSのやり取りを、たまたま傍受した磐城無線局の米村局長が、独自の判断で情報を発信したというのです。普段はハワイ局を経由して信号を伝えていたのが、この日はたまたま気候条件が合い、サンフランシスコ局に直接情報が届きます。この情報をもとに、アメリカでは日本支援のキャンペーンが起こりました。震災情報はさらに、磐城局の信号を傍受した北京郊外の無線局からヨーロッパ各地へと伝えられます。こうして、個人の情報収集と決断により、原町無線塔から世界へ震災の情報が伝えられていったのです!
原町無線塔はその後、1925年から民営化され、大改修工事が行われます。1928年に完了したこの工事で、長波無線としてはかなりの性能を備えるに至りますが、技術革新の中、世界の無線は短波が主流となり、1930年にその役目を終えました。わずか10年足らずの活躍でした。
戦争中は空襲の標的となり、戦後は米軍キャンプの倉庫となりながらも、原町のシンボルとして1982年まで存在し続けた無線塔。解体の折には反対の声も大きく、建築基準に鑑みて安全な80メートル分を残す案も検討されたそうです。現在では、かつて無線塔があった道の駅南相馬の裏手の場所に、「無線塔花時計道」が設置されています。また、そのすぐ近くの国道6号沿いには「憶・原町無線塔」という、20メートルのミニチュアが建てられ、当時の記憶をとどめています。

【図7】1/10のミニチュア記念碑「憶・原町無線塔」
関東大震災の際には、磐城無線局の米村局長のみならず、何人もの無線技師たちが判断力とリーダーシップを発揮し、情報の混乱を収拾し、必要な情報を伝達したといいます。東日本大震災後にツイッターが民間の情報源として力を発揮したことを振り返ってみても、世界に震災情報を伝えた南相馬のシンボル、原町無線塔を今、再評価する南相馬市博物館の展示は大きな意味を持つものです。地元の人々が思い出や郷土の歴史に思いを馳せるのみならず、また、ボランティアで近くに滞在していた人や、これまで南相馬に来たことのなかった人々がこの場所に足を運び、この地の歴史を知る――多くの人に様々な機会を与えることになった重要な展示だったといえるでしょう。
展示の様子は、例えば相双地区情報サイト、相双ビューローに写真付きで紹介されています。
南相馬市博物館のサイトはこちらです。
戦争中は空襲の標的となり、戦後は米軍キャンプの倉庫となりながらも、原町のシンボルとして1982年まで存在し続けた無線塔。解体の折には反対の声も大きく、建築基準に鑑みて安全な80メートル分を残す案も検討されたそうです。現在では、かつて無線塔があった道の駅南相馬の裏手の場所に、「無線塔花時計道」が設置されています。また、そのすぐ近くの国道6号沿いには「憶・原町無線塔」という、20メートルのミニチュアが建てられ、当時の記憶をとどめています。

関東大震災の際には、磐城無線局の米村局長のみならず、何人もの無線技師たちが判断力とリーダーシップを発揮し、情報の混乱を収拾し、必要な情報を伝達したといいます。東日本大震災後にツイッターが民間の情報源として力を発揮したことを振り返ってみても、世界に震災情報を伝えた南相馬のシンボル、原町無線塔を今、再評価する南相馬市博物館の展示は大きな意味を持つものです。地元の人々が思い出や郷土の歴史に思いを馳せるのみならず、また、ボランティアで近くに滞在していた人や、これまで南相馬に来たことのなかった人々がこの場所に足を運び、この地の歴史を知る――多くの人に様々な機会を与えることになった重要な展示だったといえるでしょう。
展示の様子は、例えば相双地区情報サイト、相双ビューローに写真付きで紹介されています。
南相馬市博物館のサイトはこちらです。


上田洋子
1974年生まれ。ロシア文学者、ロシア語通訳・翻訳者。博士(文学)。ゲンロン代表。早稲田大学非常勤講師。2023年度日本ロシア文学会大賞受賞。著書に『ロシア宇宙主義』(共訳、河出書房新社、2024)、『プッシー・ライオットの革命』(監修、DU BOOKS、2018)、『歌舞伎と革命ロシア』(編著、森話社、2017)、『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』(調査・監修、ゲンロン、2013)、『瞳孔の中 クルジジャノフスキイ作品集』(共訳、松籟社、2012)など。展示企画に「メイエルホリドの演劇と生涯:没後70年・復権55年」展(早稲田大学演劇博物館、2010)など。


