革命の後で、どのように他人と語らうべきか 「オタク批判はヘイトなのか――艦これ、サブカル、カウンター」イベント後記|さやわか

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初出:2015年8月14日刊行『ゲンロン観光通信 #3』

 去る2015年6月19日、五反田ゲンロンカフェにてトークイベント「オタク批判はヘイトなのか――艦これ、サブカル、カウンター」が催された。登壇者はフリー編集者で社会運動家の野間易通氏、東浩紀氏、そして筆者の3人である。

 本稿はそのイベントの内容をまとめつつ、筆者自身が他の登壇者に覚えた違和感を述べよという依頼に応じたものである。たしかに違和感はあった。それについては後述しよう。

 このイベントの前段としては次のような経緯があった。まず野間氏は以前から、いわゆる「オタク」についてネット上で「キモオタ文化は全否定します」など、歯に衣着せぬ物言いでの批判を繰り返していた。そしてその中で、太平洋戦争の軍艦などが少女の姿となって戦う人気のブラウザゲーム『艦隊これくしょん -艦これ-』についても「最強に気持ち悪い」と書いて、同作のファンなどから大いに批判されたことがあった。2014年4月のことである。

 また筆者は2015年の4月4日、朝日新聞の「耕論」欄に掲載された「私たちは、右傾化していますか?」という記事でインタビューを受け、そこで「『艦これ』は右傾化だというのは簡単ですが、それはネトウヨがすぐ「売国」とレッテルを貼るのと同じ。問題はレッテル貼りが事なかれ主義を招いていることです」などと話した。要するに『艦これ』がオタク文化の右傾化のあらわれだとは言いがたいとしたのだ。野間氏はこれにもTwitter上で筆者に向けて「朝日記事内のさやわかさんのコメント、ごい[原文ママ]糞論評だと思います。ノン・イデオロギー vs イデオロギーという、もう使えない古臭いサブカル的二分法から脱する努力をすべし。メタ視点で語っているつもりなのにベタにすぎないというアレ」と批判した★1

 かくしてこのイベントは、『艦これ』について評価を異にする野間氏と筆者が、直接に対話する機会となったわけだ。しかも、やはり野間氏がその姿勢を批判し続けているニコニコ動画の運営会社・ドワンゴ会長の川上量生氏も飛び入りで登壇し、議論は深夜まで、大いに白熱した。

 さらに登壇者の発言がTwitterのまとめサービスTogetterでまとめられると、同サービスのアクセスランキング1位だか異例のアクセス数だかにもなるほどだったらしい。まとめ自体の投稿数よりはるかに大量のコメントが付けられて、これも大いに盛り上がっていたようだ★2

 ただそのTogetterを筆者が見た限りでは、イベント当日の野間氏の発言内容についての、浅はかであるとか、思慮が足りないとか、罵倒や揶揄に近い形の評価が多かったように思われる。

 野間氏の発言内容とは何か。まず彼はトークイベントの冒頭で、「サブカルチャー」と「サブカル」、さらには「オタク」と「キモオタ」という分類に基づいて独自にカルチャーを弁別し、それぞれ前者は評価に値するが後者は唾棄すべきものであるという持論を展開してみせた。ひとつ例を挙げてみると“ボーカロイド”は「オタク」であり、“初音ミク”は「キモオタ」であるとか、そういう具合で、図表の中央に一本の線を引きながら文化を二分するようなものだった。
 ただそれらの区別の分かれ目は、結局のところあくまで野間氏の感覚によるものだったと言っていいだろう。たとえば野間氏は、たとえジャズのように賞賛すべき「サブカルチャー」に触れている者でも、『艦これ』をプレイしている時点で否定されるべき「キモオタ」なのだと語った。また『艦これ』についても同様にプレイしたことはなく、公式ホームページのトップページを見た上での判断だという。 こうした評価の曖昧さもあって、東氏と筆者は何がその区別の根拠となっているかを、イベントの序盤にあれこれと尋ねた。野間氏はどうやら「キモオタ」の方にはセクシャルな要素が含まれるらしいということも語っていたが、それはいずれにせよ主観的な要素が大きいという意味になるだろう。

 上記のように書くと、人は野間はでたらめで許しがたいとか、なかなか鋭いとか、いろいろと感じるだろう。しかし筆者は野間氏の分類については、議論する必要が全くないと感じた。

 なぜなら、上記のような持論を展開しつつも、野間氏はトークの際に「オタク」「キモオタ」という言葉を区別なく使ったり、または恣意的な印象やタイミングで使いわけていたのだ。それが筆者には引っかかった。野間氏は彼自身の分類について「定義」したと語ったが、それが命題や理論によって説明されるかどうかを待たず、自身の曖昧な感覚に基づいて運用されるのなら定義とは言えない。それで、イベントの終盤、筆者から野間氏に「これはそもそも定義とは言えませんよ」というふうに指摘させていただいた。

 前述のTogetterのまとめに付けられたコメントでも、野間氏の分類は「自分ルール」みたいなものだと指摘されていて、そこから野間氏を批判する罵倒が大量に続いているようである。

 しかし、そのことをもって筆者は「野間は愚かである。いい気味だ。俺の勝ちであり、やはりオタク側こそが正義である」などとは、全く思わなかった。むしろ落胆した。なぜか。

昨今のカルチャーは相対主義的なのか


 ところで野間氏はトークイベントの中で、何度も「ポストモダン」「相対主義」という言葉を使った。彼は東氏が2001年に書いた『動物化するポストモダン』という本にも言及した。この本は「動物化」「データベース消費」などの概念と共に、オタクたちが膨大な作品群を価値中立的に並べて動物のごとく非理性的に消費しており、それは賞賛すべきだと書かれている……というように受け取られることが多い。野間氏のオタク解釈もその流れにあって、彼は「キモオタ」や「サブカル」などはポストモダンを背景としつつ、イデオロギーや歴史性を相対化してあらゆるものを消費の対象にすることがよくないのだ、という話をした。

 だが『動物化するポストモダン』はそもそも、そうした議論をしているのか。同書の定型的な読まれ方が、長きにわたって一般的なオタク解釈のひとつとして定着してしまったことについては、東氏もイベント中に苦言を呈していた。しかし野間氏はポストモダンという言葉を相対主義と結びつけながら、プレイしたことがないという『艦これ』を筆頭に、どんどん今日のサブカルチャーについて持論を展開していく。

 本稿の冒頭で触れた、「他の登壇者に対する違和感は何だったか」という問いに戻って言えば、筆者にはそのことが、最も奇妙に思われた。今どきのサブカルチャーについてそれなりに文章を書いてきた筆者も自説を述べさせてもらい、『艦これ』がむしろ歴史とオタク的コンテンツについて考えさせるような要素を持っている作品だという話もしたが、ならばということで意見のすりあわせが始まるわけでもなかった。それも不思議だった。

 ポストモダンについてはよく、「あらゆる価値が等しく横並びになってしまって、我々は何が正義かわからなくなり、何も選べなくなってしまう時代状況のことだ」みたいな言い方がなされる。おそらく野間氏のいらだちとは、そこに保留的な態度を感じ取ってのことなのだろう。

 要するに彼の言うポストモダンとは相対主義/価値中立主義のはびこる状況であり、それに浸っている者たちは「サブカル」も「キモオタ」も、脱イデオロギーと相対主義を志向するノンポリというわけだ。『艦これ』も、太平洋戦争の意匠から歴史性を取り払い、気軽に扱い、脱イデオロギー的で扇情的なポルノとして作品が成り立っているのならば、それもまたポストモダンの相対主義が生み出す悪しきものである。
 だから野間氏は、厳密にはポストモダンではなく、相対主義を批判していると言うべきだ。なぜ彼がポストモダンを批判しているという言い方ではおかしいかというと、そもそもポストモダンとは、そこまで相対主義そのものと同定されるようなものではないからだ。とりわけ近年は、今の世の中をポストモダンとして論じるにしても「もはや我々は何も選べないのだ」ではなく、「それでもなお、どう選ぶか」ということが語られるはずだ。ゆえに彼が今日の「キモオタ」「サブカル」の作品を一緒くたに「ポストモダン的な相対主義」と断じていくことには、やはり違和感があった。

 むしろここ10年のサブカルチャーについてある程度詳しければわかることだが、上記で言われているような相対主義的な態度は2000年以降に退潮したと見られているし、実際にそうした傾向を反映した作品が人気を博するようになっている。これについて宇野常寛は『ゼロ年代の想像力』(2008)の中で、2000年以降のサブカルチャーは、主人公が何も選択できない90年代の『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)のようなモードを脱して『デスノート』(2004)のような「決断主義」に踏み出した、と記した。決断主義というのはカール・シュミットの政治思想でもおなじみの言葉で、シュミットはこの概念によって、まさしく、旧来からある秩序が崩壊して人が何を選択すればいいのかわからなくなった時に、「何を決断するか」よりも「決断すること」それ自体をまず重視した。

 実際、野間氏が批判の対象としている相対主義とは、よくよく聞いてみるとやはりオタク文化がどうというのではなく、たとえば20世紀を代表する国際法学者ハンス・ケルゼンの提唱した法理論の求めたようなものである。ごく簡単に言うとそれは、法とは尊い正義について書かれていたとしても、社会を運用する際に使われるルールでしかないという考え方だ。つまり正義の否定に基づいた考え方であり、野間氏の言うポストモダンの相対主義にも近いし、シュミットもケルゼンの論敵であった。

 ちなみに野間氏にとって相対主義を批判する動機の発端となっているのは、自身も日常的にコミットしていたサブカルチャーが「サブカル」的な相対主義にからめとられていった結果、強度とプレゼンスを失っていったことへの反発が多分にあるようだった。そういう意味でも、彼がこだわっているのは90年代くらいにはサブカルチャー方面で見られた相対主義的な態度であり、彼自身はそのくびきを逃れようという「決断」に踏み出したのだ、と言うことすらできるだろう。つまり野間氏が相対主義を批判すること自体が、ポストモダン以降を条件としたサブカルチャー作品のメンタリティ、それもここ5、6年ほど前までのものの中に封じ込められているというわけだ。

 だがそんな野間氏だからこそ、彼に対するネット上の批判は上滑りしていく。野間氏はただ彼自身が望む政治のために行動しているので、議論の上の厳密さを重視しないし、対話者とコンセンサスを取ることもほとんど求めていなかった。ゆえに彼はネット上でも論敵に対して「糞」「古い」「周回遅れ」「馬鹿」「ダメ」など、相手をわかりやすく切り捨てる言葉を選ぶ。つまり彼がやっているのは、「政治」についてのシュミットの有名な定義「敵と味方に分けること」そのものである。野間氏はトークイベントで「炎上商法をやっているつもりはない」と言っていたが、そうした辛辣な言葉によって、数字の上でどれだけ「味方」が「敵」を上回るのかという動員ゲームを繰り広げているのは間違いないだろう。その意味だと彼は、最初から議論など全くしていない。

動員を超えて連帯を革命すべき


 そもそも、今回のイベント前に筆者が考えていたのは、まず野間氏が『艦これ』やオタクを批判することには、特に問題がないということだった。つまりイベントのタイトルである「オタク批判はヘイトなのか」については、最初からヘイトではない、と思っていた。

 野間氏への一般的な批判として「野間は反差別を掲げつつ、自分ではオタクを差別している。むしろ野間こそ真のレイシストだろう」というものがあるが、これは的外れである。野間氏はアメリカのヘイト・クライム禁止法(マシュー・シェパード法)を論拠にしながら、「hateは文字通りには憎悪を意味するが、hate crime / hate speechという熟語においては、『人種差別や性的マイノリティへの憎悪を強く連想させる』ものとなる」としている。野間氏の『艦これ』に対するコメントはこれに照らし合わせればヘイトスピーチではないし、そもそも「気持ち悪い」というのは個人的な不快感の表明であり、誰かが禁じられる種類のものではない。

 ただそこで筆者が疑問に思っていたのは、野間氏の活動が平和な世界を作るためのものだとしたら、なぜあのように口汚く、攻撃的な言葉使いで他者を貶めるのだろうかということだった。言い換えると、彼は差別でなければ憎悪がはびこってもいいと、ひいては自分が憎悪をむき出しにし、他人へ好き放題に言うことを許すということになる。

 だから、そのやり方は野間氏の活動にとってよくないのではないかと指摘したが、彼は「別にオタクに支持されなくてもいい」という答え方をした。しかし筆者が指摘したかったのはそういうことではなかった。人々が脊髄反射的に憎悪を噴出させ続ける世界でいいのか、ということだったのだ。しかし、それに対する野間氏の回答とは支持層としてオタクを取り込む必要はないというもので、これはむしろ動員ゲームを意識した言葉である。だから、筆者はむしろ野間氏は意図してその状況を生み出しているのだと気付かされた。

 野間氏はそうした暴力的な表現を使う理由として「文化について語る上では表現の自由がある」と言った。その言い方は『艦これ』も含めたいわゆるオタク系の作品を支持したい人々がしばしば語る極端な理屈と同じものだった。自分たちには表現の自由があり、どんな絵を描こうが、その中で人が傷つけられようが、それを見て誰かが傷つこうが、この自由は守られるべきなのだというわけだ。
 もちろん野間氏のロジックは、米国の法律を参照しつつ、自分の行為は正当だが「キモオタ」はよくないのだと説く。しかしそこで彼はケルゼンのような相対主義を否定しながら、単にルールとしての法律を信頼しようとしているのではないか。それでは野間氏もオタクたちも、ひょっとしたらヘイトスピーチを繰り返すネトウヨたちも、法をルールとしてうまく乗りこなすことができれば、自分の良心や倫理観を振り返ることなく、他人を傷つけることができることになる。違う言い方をすると、あくまでも仮定の話だが、法によってオタク批判はヘイトであると認められれば、野間氏は手のひらを返してオタク擁護を始めるのだろうか。それは正しいことなのだろうか。

 実はこれと全く逆側から、しかし結局は同じ路線に乗り入れた話をしていたのが、ドワンゴの川上氏だったように思う。トークイベントの中で、ニコニコ生放送において極端に右派的かつ差別的な発言を繰り返していた在特会の公式チャンネルが長らく放置されていたことについて追及された。川上氏はシステム的な問題のためチャンネル数を減らす必要が生じたため、そこで初めてレギュレーションを設けて、在特会のチャンネルは閉鎖されることになったと説明した。これは非常に興味深い。なぜならこれはあくまでも倫理的な判断が先行しない形で実定法を導き出したというトリッキーな言い方になっているのだ。

 川上氏は「判断をしたくない」と繰り返し述べた。これはまさに相対主義的で、彼がニコニコをネットインフラとして存在させたいのであればその言い方は正しいかもしれない。だが一方で彼は新しい報道メディアとしての可能性をニコニコに見出したいとも話した。彼がどこまで意識してそう言ったのかはわからないが、メディアとして振る舞うということは、何を流して何を流さないかを自分で選択するということに他ならない。前述のレギュレーションの件もそうだが、メディアとしての立場を表明していくならば、それはニコニコにとって、やはり自らの正義に応じた「決断」に踏み出すということになる。

 筆者が言いたいのは、相対主義の流行りなどとっくに終わっているし、その次の段階として我々は決断主義すら見飽きたようなところがあり、ではさらにその後でどのように社会を作っていくのかを考えるべき状況にある、ということだ。津田大介は『動員の革命――ソーシャルメディアは何を変えたのか』(2012)という本を書いたが、この書名が真の意味で過去形で読まれるべく、我々は革命後の時代を作らねばならない。

 野間氏は、いわば決断主義的に無法を行うようになったネトウヨのような勢力に対抗するため、真剣な気持ちで、しかしやっぱり自分も決断主義に踏み出したと言える。彼が他人を「古い」と蔑みつつ、自身がなおそうした段階にあるのには、やはり昨今のカルチャーについてもさほど眺めないまま「相対主義的だ」としてまとめてしまうような態度と通じている部分があるように思う。そもそも『艦これ』には、まさにここで述べたような、選択することの倫理について描かれた側面すらあるのだ。あるいは2010年代が動員ゲームを越えて、各々が異なる選択を行ったことを受け入れつつ共存の可能性を探る時代を目指すなら、そうした点への理解を進める方向で対話を進めるべきだった。しかしイベント当日にはそうした意見交換も進まなかった。

 このイベントは、トーク自体は「オタク対カウンター」みたいにまとまりきらないよさがあったが、結局は二派の対立に単純化して眺められることになった。筆者が落胆したのはそのことだし、だから野間氏への罵倒が多くて喜ぶこともなかった。どっちへの罵倒が多いとか、どっちもどっちだとかいう終わりなき動員ゲームを、我々は90年代末あたりからネットで続けていて、それ自体すっかり時代遅れだと思うのだが、ともかく今回もそれは変わることがなかった。

 だがこうした状況を、野間氏は今のところ全く歓迎している。野間氏は文化についてはそうして罵倒の応酬をすることがいいと主張したし、もちろん自分が罵倒されても、愚かだと思われようともいいのだ。それは彼のダンディズムとしてカッコいいし、彼への批判の大半を無意味にしていくだろう。だが、よりよい社会の実現につながっているのだろうか。そしてダンディズムとは知性的にはシニシズムであって、究極的には目指す社会が実現されなくても別にいいということにつながってしまうのではないか。

 これは別に野間氏だけの問題ではない。実はそういうダンディズムは今やあちこちに散見されるようになっていて、人々は相手を口汚く罵倒し盛大に切り捨てるポージングにばかり精を出しているのだ。いま日本の社会にあって、筆者が真に危惧するのは、そのことである。

 ソーシャルメディアによって、たしかに「動員」は革命されたのだろう。筆者はそれを否定しないし、積極的に評価したい。しかしその革命がある種の暴力性や全体主義と不可分で、しかもそれをあえて看過しているならば、限界が見えてくるだろう。ならば我々が次にするべきなのは、意見を異にする者同士が、異なるままに言葉を交わして、互いの認識を共有しながらひとつの社会を目指すという連帯だろう。東氏の近年の著書『一般意志2.0』(2011)や『弱いつながり』(2014)も、その可能性を探るものとして読めるはずだ。「動員」されていない者たちが、それなのに、捉えどころのない形で「連帯」している。そうしたもののほうが、やがて体制的になるはずの「動員」の力を上回るに違いない。我々は「動員」の革命の後で、「連帯」を革命することを目的に話さねばならない。

★1 https://twitter.com/kdxn/status/586759907300347904[編集部注:現在は閲覧できなくなっている]
★2 http://togetter.com/li/836856

さやわか

1974年生まれ。ライター、物語評論家、マンガ原作者。〈ゲンロン ひらめき☆マンガ教室〉主任講師。著書に『僕たちのゲーム史』、『文学の読み方』(いずれも星海社新書)、『キャラの思考法』、『世界を物語として生きるために』(いずれも青土社)、『名探偵コナンと平成』(コア新書)、『ゲーム雑誌ガイドブック』(三才ブックス)など。編著に『マンガ家になる!』(ゲンロン、西島大介との共編)、マンガ原作に『キューティーミューティー』、『永守くんが一途すぎて困る。』(いずれもLINEコミックス、作画・ふみふみこ)がある。
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