60年代初頭の沖縄の記録(前篇) 慰霊塔をめぐる話|撮影=中沢道明 文・構成=荒木佑介


沖縄には1961年から1963年までの2年間、常駐特派員として勤務しており、写真と映像はその時に撮影されたものである。2年間の取材で撮影したものは多岐に渡り、沖縄本島、離島をくまなく回っている。貴重な記録であることは間違いなく、那覇市歴史博物館の学芸員に見せたところ、60年代初頭の沖縄の写真がまとまって見つかることは珍しいらしい[★2]。
祖父が遺した記録は日本の戦後史そのもので、私はタイムカプセルを手にしたような気持ちでいる。それと同時に、ただの遺品ではないという思いから、整理と保存を続け紹介もすることにしている。
ここからは60年前のダークツーリズムを覗いてみよう。当時の沖縄は慰霊塔が乱立した時期でもあるので、写真とともにいくつかの慰霊塔をめぐってみたい。

今でこそ沖縄はリゾート地という顔を持つが、戦後の沖縄観光は慰霊とともに始まっている。きっかけは朝鮮戦争で基地を強化するために本土から多くの企業が入ってきたことによる。基地産業に従事する技術者たちが南部戦跡を慰霊訪問したことから、戦後の沖縄観光は始まった。南部戦跡の中でも有名なひめゆりの塔の様子が当時どのようなものだったか、まずは見てみよう。




曖昧なのはそこにいる人だけではない。慰霊のために作られた平和祈念像というものがあるが、その原型を撮影した写真があったので見てもらおう。作者である山田真山が言うには、これは仏像とは違うということなのだが、仏像がもとになっていることはその外観から明らかである。特定の宗教によらないという慰霊の形が、曖昧な像の姿に表れている。現在は平和記念堂に完成形が安置されている。

平和祈念像は沖縄戦最後の激戦地となった摩文仁にある。ひめゆりの塔から東へ4キロほどの場所になるが、この南部戦跡一帯は異常なまでに慰霊塔の数が多く、慰霊の名所と言いたいくらいだ。60年代の慰霊塔の乱立は沖縄県外の遺族が建てたものを指すのだが、その背景にあるものを1962年の記事から見てみよう。
慰霊塔は二百基
沖縄には、琉球政府が調査したものだけで、百五十五基の慰霊塔が建っている。調査もれまで推定(同政府の話)すると、二百基を越す。
それほどひどい戦争被害があったのだが、ここへきて、山梨、高知、北海道、和歌山、秋田、愛知と、県別に慰霊塔が競争で建ち始めた。塔の完成式には遺族よりも県会議員のほうが多く参列し、同行した県下地元紙特派員の報道を意識して選挙民向けの演説をブツ。なんのことはない戦没者はダシである。これが慰霊塔競争の実態で、乱立の原因なのだ。
そのくせ慰霊塔は建てっ放しだ。遠い異郷だから無理もないが、あとの管理も清掃もなく、草が茂り、こわれくずれ、おかげで "生きてる沖縄人" の生活環境は無縁墓地なみの陰惨さとなる始末だ。那覇市波之上護国寺の沖縄戦没者慰霊奉賛会が、琉球政府からのささやかな援助で慰霊塔の清掃維持に当たっているが、これ以上ふえたらお手あげだというのが本音である。【那覇・中沢特派員】(読売新聞、1962年4月26日、夕刊3面)
戦後しばらく経ってからの沖縄は、忘れられた土地と言われ、本土の人間の認識もあやふやなものだった。当時、本土から来た国会議員がゴザで寝る沖縄の人たちを見て、それを貧しさと受け取り同情したという話があるが、なんのことはない、沖縄のじめじめした気候の中では、布団なんか暑くて使っていられないだけだ。私も沖縄に滞在していた時、あまりにも高い湿度で寝られなかったことがあるが、一番良いのは板の間に直接横になることである。




摩文仁が沖縄戦最後の激戦地というのは、つまり、日本軍司令官が自決した場所ということである。彼らを祀る黎明之塔が丘の頂上にあるが、そこを祖父が訪れた時の話を紹介しよう。
何代か前の琉球新報の社長で、O氏という方がいた。こういう人を紳士というのだろう。
ぼくが特派員として沖縄に着任し、琉球新報の社内に事務所を設けたとき、O氏はご自分の車で、南部戦跡を案内して下さった。
[中略]
健児の塔は、日本軍が追いつめられた南端にあった。すぐ向こうは断崖で、青い海が広がっていた。塔は天然のホラアナの前に建っており、そのホラアナに日本軍とともに中学生(旧制)たちが立てこもったのだという。
「水汲みは中学生の役目でしてね。水汲みに出てくるたびに、弾に当たって死んでいきました」ここでもO社長は淡々と説明した。
ホラアナや塔のまわりに、小さな木の卒塔婆がたくさん立っていた。ここで戦死した日本軍の兵士たちの遺族が参拝して、立てていったものだ。遺族の心情は分るが、違和感があった。水を汲ませにホラアナの外に追いやって死なせた中学生を祀る塔のまわりに……。
摩文仁岳の頂上に、日本軍司令官と参謀長の碑があった。ここで自決したのだという。頂上まで、かなり急な道が、うねうね曲がりながら続いていた。下に車を止めると、O社長はいった。「私は年のせいで、あそこまで登るのは、からだにこたえるので、ここでお待ちしています」
あとで知った。O社長は日曜にはゴルフコースを回るほどお元気だが、絶対に摩文仁岳には登ろうとしない方だった。(中沢道明「紳士は摩文仁岳に登らない」)[★3]
祖父が沖縄に着任して間もない頃なので1961年の話になる。O氏は黎明之塔を慰霊しない。紳士的な意思表示だが、これは沖縄を戦場にした人間への抵抗である。摩文仁に平和の礎という慰霊碑が作られたとしても、そこから死者がいなくなることはない。摩文仁は日本軍の霊よりも沖縄人の死者がいる地であることを、O氏の抵抗は示している。摩文仁は、慰霊だけがある場所ではない。
★1 (編集部注)『ゲンロン観光地化メルマガ #27・28』掲載。Amazon Kindleストアにて販売中です。また「ゲンロンα」にも掲載されています。
★2 「戦後の沖縄観光」と題した同博物館の展示に写真を提供。 URL=http://www.rekishi-archive.city.naha.okinawa.jp/archives/89714
★3 中沢道明『他人の気付かないことを考える本』日新報道出版部、1975年。


中沢道明

荒木佑介



