憲法から考える 国のかたち ──人権、統治、平和主義|小林節+ゲンロン憲法委員会(境真良+西田亮介+東浩紀)

初出:2014年09月15日刊行『ゲンロン通信 #14』
2012年夏、東浩紀を発起人とするゲンロン憲法委員会は「新日本国憲法ゲンロン草案」を発表。国民と住民の二元性を軸に、天皇と総理の二元首制や自衛隊の合憲化、在日外国人の参政権拡大など、従来の憲法論議の枠組みから大きく離れた提案は話題を呼び、新聞やテレビでも取り上げられた。
それから2年。この間に民主党政権は崩壊し、自民党は安定多数を確保。安倍政権は高い支持率を背景に憲法解釈を変更、集団的自衛権の行使を容認する閣議決定に踏み切っている。これに対しては、立憲主義に反するものとして批判の声も強い。解釈改憲の問題点とは。そしていまわたしたちにできることとはなんなのか――。
ゲンロンではこの5月、67回目の憲法記念日に際し、長年改憲論を主導してきた小林節氏を迎えてシンポジウムを開催。現行憲法や自民党の改正草案の問題点を明らかにし、真の立憲民主主義の構築のための方途を探った。筋の通ったのびやかな国をつくるために、いまこそ憲法を捉え直す。
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それから2年。この間に民主党政権は崩壊し、自民党は安定多数を確保。安倍政権は高い支持率を背景に憲法解釈を変更、集団的自衛権の行使を容認する閣議決定に踏み切っている。これに対しては、立憲主義に反するものとして批判の声も強い。解釈改憲の問題点とは。そしていまわたしたちにできることとはなんなのか――。
ゲンロンではこの5月、67回目の憲法記念日に際し、長年改憲論を主導してきた小林節氏を迎えてシンポジウムを開催。現行憲法や自民党の改正草案の問題点を明らかにし、真の立憲民主主義の構築のための方途を探った。筋の通ったのびやかな国をつくるために、いまこそ憲法を捉え直す。
道具としての憲法
西田亮介 今日は5月3日の憲法記念日で、日本各地で憲法を主題としたイベントが開かれています。このゲンロンカフェでも、あらためて憲法について考えてみるイベントを開くことになりました。ゲンロン憲法委員会は、ここにいる境さん、東さん、西田と、白田秀彰さん、楠正憲さんの五人からなる委員会で、2012年に「新日本国憲法ゲンロン草案」(以下「ゲンロン草案」)という民間の私擬憲法を発表しました[★1]。当時は『朝日新聞』や『朝まで生テレビ!』で取り上げられるなど一定の手応えはありましたが、発表から2年近くが経過し、憲法を取り巻く情勢も変化していきました。安倍政権のもと、改憲についての議論も盛り上がっています。そこで今日は、「ゲンロン草案」が世の中に対してどのような影響を持ちえたのか、これからさらに議論を深めていくべき点はどこなのか、実際の憲法論議に対してどうコミットメントしていけばよいのかを中心に、お話できればと思います。
ゲストとして、憲法学者の小林節先生をお招きしています。みなさんご存じのように、小林先生は1990年代から改憲について積極的に発言し、議論をリードされてきました。さっそく小林先生にうかがいたいのですが、昨今、自民党の憲法改正案[★2]が話題になり、小林先生も参加されている「立憲デモクラシーの会」[★3]もメディアで取り上げられるなど、護憲・改憲に関する議論は盛り上がってきています。先生ご自身は、憲法を巡る近年の議論をどのように見られていますか。
小林節 35年前、わたしがアメリカへの留学から帰国して改憲論を唱え始めた頃は、改憲論者というと明治憲法を御神体のように崇めてそれに回帰しようとする、信者のようなひとばかりでした。一方で護憲派のほうも、憲法9条を愛してやまない信者の世界だった。わたしはそのなかでひとり、「憲法もしょせん道具なのだから、幸福を追求する手段として、車のモデルチェンジをするように変えていけばいい」とカジュアルな改憲を提案し、どちらの陣営からも孤立していました。
しかし2000年代に入ると、憲法を道具として捉え、改正についてもタブーとしない見方が一般的になってきます。いい流れができてきたと思っていたら、いつの間にか狂信的な明治憲法の信奉者が復活してきた。世論調査の推移を見ても、彼らが台頭してきたために、改憲への警戒心は高まってしまっている。ゲンロン草案はこういった状況下で登場したもので、非常に高く評価しています。わたしは長年、みなさんのように、感情を交えず、冷静に道具として憲法を議論する立場が広がればいいと思って旗を振ってきました。しかし日本では、いまだにそれが定着しない。どうすれば風土が変わるのかについて、悩み、立ち止まりながら考え続けているというのが現状です。
西田 ではこんどは、ゲンロン憲法委員会の東さん、境さんから、なぜ憲法草案の執筆に取り組んだのかをお聞かせいただきたいと思います。
東浩紀 大日本帝国憲法が成立する以前、日本では民間で多数の私擬憲法が作られていました[★4]。ゲンロン草案はこの伝統に則ったものだと位置づけています。立憲主義を実現するためには、憲法は国民が理解できる言葉で書かれているべきです。立憲主義とは、ひとことで言えば「国民が憲法によって国家を縛る」という考え。この立場を守るのであれば、大前提として、憲法は国民にとって「わかりやすい」ものでなければなりません。そうでなければ、国民がそれを使って国家を制約することができないからです。ここで「わかりやすい」というのは、日本語としてふつうに読んで意味が取れるということです。たとえば現行の憲法9条は、素直に読めば自衛隊の存在を許していません。自衛隊の存在を認めるのであれば、憲法の文章を変えなければならない。護憲派の憲法学者は憲法9条と自衛隊の存在は矛盾しないと言いますが、それはふつうの日本語解釈から外れていると思います。
憲法が国民にふつうに理解できる言葉で書かれていないようでは、立憲主義は実現しません。ならば、本職の憲法学者の手を借りず、ふつうの言葉で憲法を作ってみよう。それがゲンロン草案の出発点でした。草案執筆の過程で、憲法を「道具」として本当に機能させるにはどうすればいいのか、その向こうにどういう国のかたちを提示するべきか、深く考えることになりました。
これはひとつのアイデアですが、教育課程に憲法の作成を取り入れてもいいのかもしれません。憲法9条にしても、いいか悪いかと教えるのではなく、まず最初に、日本が平和主義を掲げていることや、周辺国の情勢だとか、自衛隊の歴史や規模だとかを情報として与える。そのうえで、シビリアンコントロールを生かしつつ安全保障を実現するような条文がどのように可能なのかを考えさせる。そのようにしたほうが、いろいろな気づきが得られていいと思います。
とはいえ、ゲンロン草案はやはり素人が作った草案です。今日は憲法学者の小林さんから、お叱りを含めさまざまに意見をいただければと思います。
境真良 境です。ぼくは国家公務員として働いているのですが、1990年代からしばしば、職場で憲法が話題にのぼることがあります。先輩と話していて印象深かったのは、9条ばかりが取り沙汰されるけれど、本当に問題なのは統治についての部分ではないかという指摘でした。現行の憲法は手続法としてうまく書き下されておらず、通るべきものが通らなかったり、逆の事態が起きたりする。そのためねじれ国会が生じると、タイミングよく決定が必要なときに決定不可能な状況に陥ってしまった。これは国を動かすための駆動系として問題があるのではないか。
こういう問題意識を持っていたため、従来の憲法議論にはあまり興味がなかったんです。ゲンロン草案でもテクニカルな部分を中心に担当しました。自分が憲法に則って仕事をしていくなかで、不都合なこと、理屈に合わないことがいろいろとある。たとえば、衆議院を解散するのはだれなのか。憲法には天皇だと書いてあるけれど、天皇の国事行為には内閣の助言と承認が必要なので、内閣が実質的に権利を持っていると言われています。しかし実質的というのもおかしな話で、それならば憲法で、内閣が解散するのだと明文化しておけば済む話です。日々の業務のなかで、こういうことにたびたび直面する。そこで、道具として憲法の使い勝手を高めるためにどうすればいいのかということを考え、そのための提案を「ゲンロン草案」に盛り込みました。
護憲派の問題点
西田 「道具としての憲法」を始め、いくつか重要な論点が出てきたかと思います。一方で境さんが指摘されたような手続法としての問題点について議論を集約すると、官僚や法学者にしか理解できない議論になるという懸念もあります。その点はいかがでしょうか。
小林 国家というのは、わたしたちが幸せに生きるためのサービス機関です。国家の主であり受益者でもあるわたしたちが、このサービス機関に向けた指令書が憲法です。それは時代の状況に合わせて手を加えたほうがいいだろう、というのがわたしの立場で、そういう観点から道具としての憲法という言葉を使っています。憲法をこう捉えれば、すべてのひとが親しみを持てると思う。
では、ゲンロン草案を世に広めるためにはどうすればいいのか。先ほども申し上げた通り、2000年代に入ってから、テクノロジーとしての改憲が理解され始めています。「護憲的改憲」の立場であれば、国民の過半数の理解は得られると思うんです。妥協案のように聞こえるかもしれませんが、みなさんには「ゲンロン草案」を日本国憲法を下敷きにした改憲案として再提示してほしい。そうすれば、世の中はついてくると思いますよ。
東 力強い支持の言葉、ありがとうございます! たしかに、ゲンロン草案には実験的な要素がかなり入っているのは事実で、そういった部分を削り落としたほうが、広い理解を得られるのは間違いありません。がんばります。
ところで今日小林さんをお招きしたのは、ゲンロン草案を今後展開するにあたり、いちど憲法の専門家と意見交換をする必要があると思ったからでもあります。これは最後にうかがおうかと思っていたのですが、小林さんとはべつにどういう方をお招きすればいいでしょうか。
西田 ニコニコ生放送の視聴者からは、木村草太[★5]さんの名前が挙がっています。木村さんは憲法の専門家という立場から、現行憲法でもいろいろなことが可能なのだと主張されています。結論としては憲法を変える必要はないという意見のようですが、小林先生はどう思われますか。
小林 9条は破綻しているので、変える必要があるでしょう。9条の存在にもかかわらず、自衛隊はイラクに派遣された。憲法でこれを止められないのは異常事態です。やれることとやれないことをきちんと明文化するということが大切です。いま、日本の主流の憲法学者はぼんやりと護憲を唱えていて、議論をすること自体がタブーになっている。そういう人々からゲンロン草案に理解を示す人材を探すのは、至難の業だと思います。
東 小林さんと対談集を出されている伊藤真[★6]さんも、現行憲法は自衛隊の存在を否定するものではない、むしろ抑止力として機能しており、改憲によってその抑止力が失われることこそが危険なのだと主張されていますね。素人にはアクロバットな主張にも聞こえますが……。
小林 彼は非常に強固な護憲派です。9条は信仰なので、十字架を捨てるのは怖いということなのでしょう。しかし、現在の憲法でイラクに自衛隊を派遣できたのは明らかにおかしい。さらに安倍内閣は集団的自衛権の解釈も変更しようとしている。憲法なんてコケにされている。だからわたしは、9条を改正し、「侵略戦争は決して行わないが侵略された場合は自衛戦争をする、そしてそのために自衛軍を持つ」と明文化せよと主張しているのです。また、国際社会の共通意志たる国連の決議があれば、国会の決議のもと、国際貢献活動に参加してもよいと書いたほうがいい。憲法に記載しておけば、アメリカに言われたから従うというようなこともできなくなる。それを怠ると、時の政府がご都合主義で国の運命を決めることになってしまう。だからこそ憲法は重要なのです。こういうふうに憲法を変えれば、伊藤先生が愛する平和国家としての姿も維持できるし、適度な国際貢献を果たす国家にもなる。これでどんな問題があるのか? と思います。
境 しかし、いま現実に9条が抑止力として機能していないのだとすれば、改憲しても抑止力としての機能は見込めないのではないでしょうか。
小林 いい質問です。たしかにその心配はあります。しかし、改憲に関する議論を通して、国民は憲法を道具として使うこと、そうしなければ危険であるということを学ぶ。そのうえで改憲されれば、政府も憲法を自由に解釈していいとは言えなくなるし、強行すれば選挙で勝てなくなるでしょう。
東 護憲派の主張はそこがねじれていて、どうせ政府は憲法など守らないのだから、非現実的なまでに厳しい条文のほうがよいのだと言います。
小林 彼らは万年野党根性を持ってます。どうせ自分たちには政権が取れないし、国民投票になれば負けると思っている。しかし本当にそうか。安倍政権が憲法改正を発議しても、それが愚かな内容であれば、国民投票で否決に持ち込むことは可能だと思います。そのために、わたしも議論に参加する用意がある。しかし護憲派には根本的に、自分たちが多数になりうるという発想がない。
西田 国民の意識についてですが、一般の国民は9条以外になにが書かれているかを意識することなく、日々生活しているようにも見えます。日本という、第二次世界大戦後、それなりに順調な発展を遂げ、多くの国民がその恩恵にあずかることができた社会が、その状況を可能にしてきたのかもしれません。それに対して、たとえばアメリカの合衆国憲法などは、合衆国憲法に同意する者だけが国民としての地位を得られるという明確な位置づけを持っており、一種の踏み絵のような役割を果たしています。
小林 おっしゃる通り、独立のために自分たちで身体を張った歴史を持ち、政府を転覆させてもいいという革命権を明文化しているアメリカとは、感覚が違いますね。
東 日本では護憲と改憲の対立がつねに政治的なイシューになっていますが、これは独特なあり方なのでしょうか。それとも海外でも、こういった憲法論議は行われているのでしょうか。
小林 わたしの知る限りではありません。日本は天皇の国だったのにアメリカに負け、マッカーサー元帥に憲法を押しつけられた。国民の多数は自由でハッピーと思っているけれど、国の明け渡しを経験したエスタブリッシュメントたちはたいへんな屈辱を味わっています。このよじれた感情のために、日本国憲法はあるひとにとっては恋人のようでありながら、あるひとにとっては敵になってしまった。両者は相容れません。
東 敗戦によって日本国内で分裂が起こり、憲法論議はそれを反映してしまっているということかもしれません。
西田 現在の憲法議論の問題点が明確化されたところで、ここからは「ゲンロン草案」と小林先生の憲法論で、立場の違う点を洗い出しながら、より議論を深めていきたいと思います。
まず、外国人の参政権をどのように位置づけるか。小林先生は外国人の参政権は認めないとされています。それに対して、ゲンロン草案では国を開くという主旨のもと、とくに日々の生活にかかわる分野については参政権を認めていこうという立場をとっています。
小林 この地球上にはおよそ200の独立主権国家があります。これは、嵐の海のなかで漂っている船のようなものです。それぞれに船長がいて、船員がいて、乗客がいる。ハンドリングを間違えると事故が起こるかもしれない。そういう意味では、国というのは国民を会員とするメンバーシップクラブと言えます。日本という船が沈む場合、われわれは一緒に沈むか、あるいはボートピープルになるしかない。ボートピープルとしてほかの船に救援を求めたときに、拒否されて機関銃で撃たれても文句は言えません。もちろん乗せてもらえることもありえますが、これは向こうの好意によるものです。参政権はわが国の命運を握るものであって、いざ日本のハンドリングが誤って沈没するというときに、「ほなさいなら」と自分の国に戻れるひと(外国人)に与える必要はない。
ただ、ゲンロン草案を読んで、こういう考え方もありうると思いました。この国が滅びればいいと思って提案しているのではなく、いま国際化が進んでいるなかで、共生の時代に適応しようという発想から出てくる案としては説得力がある。しかしわたしはまだ、日本の参政権は日本人だけに限ったほうがいいと思います。外国人には外国人だけで構成される議会を作り、決定権は持たないけれど御意見番として意見を表明するような仕組みはあってもいい。
東 日本では在日外国人の問題ばかりが議論になりますが、在外日本人のことも考えなければならない。両者は表裏で、国外に出ている日本人の参政権をどう確保するかについても考える必要があると思います。
というわけで「国民」と「住民」の二元制を提案したのですが、現実的にはぼくは、提案にあたって、たくさんの二国間条約が結ばれていくようなかたちをイメージしていました。日本に住むアメリカ人の権利を守る代わりに、アメリカで働く日本人の権利も守ってもらう。公民権を交換するような二国間条約が考えられないものか。もしそれが成り立つのであれば、徐々にネットワークのように広がっていくかもしれない。国際化によってメンバーシップの登録と居住の実態が解離していったときに、それを調整するような二国間条約が各国で張り巡らされていく。そうすると、結果的にそれぞれの国で、外国人に一定の市民権を与えることが常態化する世界がやってくるのではないか。
小林 なるほど。ならば、表現を変えたほうがいい。国際社会の常識に相互主義があります。外国人に権利を与える際には、相手国も自国民に同等の権利を与えることを要求する。それを前提に、東さんの言うような枠組みを憲法に規定することはあってもいいでしょう。しかし、一方的に門戸を開いてしまうのは危険です。
境 最恵国待遇にすると。
東 それはいいですね。ぼくたちも、自分たちから一方的に国を開いていこうという考えではありませんでした。小林さんの提案に沿って、相互主義に基づいて進めていくという方針として憲法に盛り込めるのであれば、それが理想的ですね。外国人参政権については相互主義の原則で拡大していけばよく、現段階では行政監視の委員会のようなものを組織して最低限の権利を確保すればよい。
小林 そうですね。
東 なるほど。勉強になりました。
もうひとつ関連して言うと、日本に住んでいない外国人でも、日本に関心を持ち、貢献したい、応援していきたいと思っているひとがたくさんいます。彼らをどう生かしていくかということもこれからは重要になると思います。
国内の例になりますが、佐賀県の武雄市を例に挙げたいと思います。みなさんご存じのように、樋渡啓祐市長はとても個性的な方で、図書館の運営をTSUTAYAに任せたことを始め、独自路線を突き進んでいる。政策については賛否両論が起こっていて、ネット上には樋渡さんを許さないというひともたくさんいる。樋渡さんがなにか新しい政策を進めようとすると、批判のブログやツイートが大量に上がる。しかし、批判している側のほとんどは武雄市に住んでいないし、もしかすると訪れたこともないのかもしれない。それなのに、つねに武雄市に関心を持ち、市政が正しく運営されているかチェックし続けているわけです。
これは普通はクレーマー扱いなのですが、じつは事実上のオンブズマンと言っていいのではないか。つまり、武雄市は一銭も払うことなく、たいへんな集合知を手に入れているわけです。これからはこういう集合知の活用について考えるべきではないか。いまの政治のシステムだと、市民でもない彼らの意見は邪魔なものでしかない。しかし本当は財産になりうる。国という単位で見ても同じで、海外から日本の動向をつぶさにチェックしているひともたくさんいる。そういうひとたちの知恵をうまく汲み取ることをもっと考えていい。国民院[★7]のアイデアは、こういった発想が基盤になっています。
『一般意志2.0』(講談社)にも書いたように、ぼくの基本的な意見は、政治的な意思決定に際しては、決定権を持つ集団と参考意見を発する集団を二層に分けるべきだというものです。情報技術の革新によって、参考意見を大量に集めることはきわめて容易になりました。しかしそれはあくまで参考意見で、それをそのまま決定に反映していては衆愚政治になってしまう。そこを二層化で対処すべきだ、というのがぼくの主張です。逆にいままでの密室政治には、参考意見の層が存在しない。メンバーシップ性に基づいた運営とは別に、メンバーではないのだけれど、「意見を言ったり文句をつけられるひと」をたくさん確保しておく。それこそが組織の強さになるということが、いま自治体や企業でも明らかになりつつある。この仕組みを国家のあり方に適用したい。
境 密室の議論だと、意思決定を空気が支配してしまうことがあります。そこに対立する意見もたくさんあるという情報を放り込めるようになると、空気の戦いではなく、反対意見もきちんと整理したうえで決めることにならざるをえない。意思決定を担う人々が操作できないようなかたちで参考意見を導入することは、とても重要だと思います。
西田 次の論点として、地域主権をどう捉えるかという点があります。小林先生は、革命を経験していない日本には、地域主権はありえないとおっしゃっています。それに対して「ゲンロン草案」は、多様な自治のあり方を認め、それぞれの地方自治体が独自の統治を行ってよいという建てつけになっています。また、先ほどの話ともかかわりますが、外国人も地方自治についてはかなり深くコミットメントをしてもよいという立場を取っています。この対立についてはどのようにお考えになりますか。
東 敗戦によって日本国内で分裂が起こり、憲法論議はそれを反映してしまっているということかもしれません。
外国人参政権
西田 現在の憲法議論の問題点が明確化されたところで、ここからは「ゲンロン草案」と小林先生の憲法論で、立場の違う点を洗い出しながら、より議論を深めていきたいと思います。
まず、外国人の参政権をどのように位置づけるか。小林先生は外国人の参政権は認めないとされています。それに対して、ゲンロン草案では国を開くという主旨のもと、とくに日々の生活にかかわる分野については参政権を認めていこうという立場をとっています。
小林 この地球上にはおよそ200の独立主権国家があります。これは、嵐の海のなかで漂っている船のようなものです。それぞれに船長がいて、船員がいて、乗客がいる。ハンドリングを間違えると事故が起こるかもしれない。そういう意味では、国というのは国民を会員とするメンバーシップクラブと言えます。日本という船が沈む場合、われわれは一緒に沈むか、あるいはボートピープルになるしかない。ボートピープルとしてほかの船に救援を求めたときに、拒否されて機関銃で撃たれても文句は言えません。もちろん乗せてもらえることもありえますが、これは向こうの好意によるものです。参政権はわが国の命運を握るものであって、いざ日本のハンドリングが誤って沈没するというときに、「ほなさいなら」と自分の国に戻れるひと(外国人)に与える必要はない。
ただ、ゲンロン草案を読んで、こういう考え方もありうると思いました。この国が滅びればいいと思って提案しているのではなく、いま国際化が進んでいるなかで、共生の時代に適応しようという発想から出てくる案としては説得力がある。しかしわたしはまだ、日本の参政権は日本人だけに限ったほうがいいと思います。外国人には外国人だけで構成される議会を作り、決定権は持たないけれど御意見番として意見を表明するような仕組みはあってもいい。
東 日本では在日外国人の問題ばかりが議論になりますが、在外日本人のことも考えなければならない。両者は表裏で、国外に出ている日本人の参政権をどう確保するかについても考える必要があると思います。
というわけで「国民」と「住民」の二元制を提案したのですが、現実的にはぼくは、提案にあたって、たくさんの二国間条約が結ばれていくようなかたちをイメージしていました。日本に住むアメリカ人の権利を守る代わりに、アメリカで働く日本人の権利も守ってもらう。公民権を交換するような二国間条約が考えられないものか。もしそれが成り立つのであれば、徐々にネットワークのように広がっていくかもしれない。国際化によってメンバーシップの登録と居住の実態が解離していったときに、それを調整するような二国間条約が各国で張り巡らされていく。そうすると、結果的にそれぞれの国で、外国人に一定の市民権を与えることが常態化する世界がやってくるのではないか。
小林 なるほど。ならば、表現を変えたほうがいい。国際社会の常識に相互主義があります。外国人に権利を与える際には、相手国も自国民に同等の権利を与えることを要求する。それを前提に、東さんの言うような枠組みを憲法に規定することはあってもいいでしょう。しかし、一方的に門戸を開いてしまうのは危険です。
境 最恵国待遇にすると。
東 それはいいですね。ぼくたちも、自分たちから一方的に国を開いていこうという考えではありませんでした。小林さんの提案に沿って、相互主義に基づいて進めていくという方針として憲法に盛り込めるのであれば、それが理想的ですね。外国人参政権については相互主義の原則で拡大していけばよく、現段階では行政監視の委員会のようなものを組織して最低限の権利を確保すればよい。
小林 そうですね。
東 なるほど。勉強になりました。
もうひとつ関連して言うと、日本に住んでいない外国人でも、日本に関心を持ち、貢献したい、応援していきたいと思っているひとがたくさんいます。彼らをどう生かしていくかということもこれからは重要になると思います。
国内の例になりますが、佐賀県の武雄市を例に挙げたいと思います。みなさんご存じのように、樋渡啓祐市長はとても個性的な方で、図書館の運営をTSUTAYAに任せたことを始め、独自路線を突き進んでいる。政策については賛否両論が起こっていて、ネット上には樋渡さんを許さないというひともたくさんいる。樋渡さんがなにか新しい政策を進めようとすると、批判のブログやツイートが大量に上がる。しかし、批判している側のほとんどは武雄市に住んでいないし、もしかすると訪れたこともないのかもしれない。それなのに、つねに武雄市に関心を持ち、市政が正しく運営されているかチェックし続けているわけです。
これは普通はクレーマー扱いなのですが、じつは事実上のオンブズマンと言っていいのではないか。つまり、武雄市は一銭も払うことなく、たいへんな集合知を手に入れているわけです。これからはこういう集合知の活用について考えるべきではないか。いまの政治のシステムだと、市民でもない彼らの意見は邪魔なものでしかない。しかし本当は財産になりうる。国という単位で見ても同じで、海外から日本の動向をつぶさにチェックしているひともたくさんいる。そういうひとたちの知恵をうまく汲み取ることをもっと考えていい。国民院[★7]のアイデアは、こういった発想が基盤になっています。
『一般意志2.0』(講談社)にも書いたように、ぼくの基本的な意見は、政治的な意思決定に際しては、決定権を持つ集団と参考意見を発する集団を二層に分けるべきだというものです。情報技術の革新によって、参考意見を大量に集めることはきわめて容易になりました。しかしそれはあくまで参考意見で、それをそのまま決定に反映していては衆愚政治になってしまう。そこを二層化で対処すべきだ、というのがぼくの主張です。逆にいままでの密室政治には、参考意見の層が存在しない。メンバーシップ性に基づいた運営とは別に、メンバーではないのだけれど、「意見を言ったり文句をつけられるひと」をたくさん確保しておく。それこそが組織の強さになるということが、いま自治体や企業でも明らかになりつつある。この仕組みを国家のあり方に適用したい。
境 密室の議論だと、意思決定を空気が支配してしまうことがあります。そこに対立する意見もたくさんあるという情報を放り込めるようになると、空気の戦いではなく、反対意見もきちんと整理したうえで決めることにならざるをえない。意思決定を担う人々が操作できないようなかたちで参考意見を導入することは、とても重要だと思います。
地域主権
西田 次の論点として、地域主権をどう捉えるかという点があります。小林先生は、革命を経験していない日本には、地域主権はありえないとおっしゃっています。それに対して「ゲンロン草案」は、多様な自治のあり方を認め、それぞれの地方自治体が独自の統治を行ってよいという建てつけになっています。また、先ほどの話ともかかわりますが、外国人も地方自治についてはかなり深くコミットメントをしてもよいという立場を取っています。この対立についてはどのようにお考えになりますか。
小林 地域主権に反対する一番の理由は、言葉の問題です。わたしは法律家なので、定義にこだわらざるを得ない。主権というのは定義からしてひとつでなければなりません。そうでないと、どこかの自治体が勝手に戦争をしたり、降伏したりできるようになってしまう。外交や軍事、通貨の管理、国際通商の管理、刑罰権の管理といったことは、国で一括して担う必要がある。
地方自治について言うと、わたしは中間自治体は不要だと思っています。地べたに足がついた基礎地方自治体が、住民のきめ細やかな要望を受けて、政府の方針に色づけをしながら進めていく。最小のコストで最高の行政サービスを実現するには、これがよいのではないかと思います。いま日本にはおよそ1700の地方自治体がありますが、いずれ少子高齢化により維持できないところが出てくる。そうなれば必然的に、それぞれ立派な市長がいたり、何十人も議員がいたりという状態も保てなくなるでしょう。わたしはアメリカのように、自治体によって行政事務をアウトソーシングしたり、能力に応じてあり方を選べるような制度が望ましいと考えます。
東 それはじつはぼくたちの提案とほとんど同じです。ゲンロン草案では第23条に「国民および住民は、基礎自治体と国に運営を委託する」という条文を入れました。これは、自民党の草案などとは真逆で、国家をサービス機関として位置づける条文です。また、国家には国と自治体というふたつのレイヤーがあり、違うサービスの領域を担当しているという考えです。

『憲法2・0』
西田 ゲンロン草案と小林先生の間に、いよいよ根本的な対立点はなさそうだということが明らかになってきました(笑)。しかし、財産権については議論の余地があるようにも思います。たとえば、土地の公用収用をどこまで認めるのか。小林先生は、いまよりも財産権について制限を強めたほうが効率的な運営が可能になるという立場をとっていらっしゃいます。
小林 現行憲法にも土地の公用収用については明記されていますし、そのための行政法も整備されていますが、実際の運用ではとても及び腰です。おそらく、いまの書き方では十分ではない。もっと簡単に、公用収用は可能だと強調して書いておけば、運用も改善されるのではないかと。そこに先祖代々住んでいたからといってだれも動かなければ、電車も通せないし、高速道路も整備できない。正当な対価を払い、丁寧に説明をしたうえで退去してもらったほうが、そのひとにとっても利益がある。それを憲法で後押しすることができるのではないか、といった意味あいです。
境 ぼくは行政に属する人間だからかもしれませんが、意見が少し違います。憲法に土地の所有の制限について記載するというよりは、土地収用法があるのにそれを実行しない行政官は効率性を無視しているわけですから、ある種の違法性がある。となると、効率性の原理から改善を求めるほうが筋がよいのではないか。
小林 それで問題なければ結構です。ただ、実際に土地収用委員をしている地元の弁護士会の先生は、きわめて消極的です。日本国憲法の第29条第1項には「財産権は、これを侵してはならない」と書かれていますからね。
東 しかし土地収用は法的には認められているはずなのですよね。それができないというのは、行政が敗訴したような判例が積み上がっているということでしょうか?
小林 いえ、裁判があれば勝ちます。
東 では、もっとあいまいな空気のようなものが、土地収用をやりづらくさせているのだと。
小林 そうです。わたしは枠組み全体に問題があると思っています。そのためにも、憲法において、財産権は制約つきの権利であり、土地は公共財に近いものだということをもっと明確にし、政府がたやすく動けるようにする必要がある。
東 ゲンロン草案では、財産権に限らず基本的人権の制約について、「この憲法が国民および住民に保障する自由および権利を縮減する手段を採用するとき、その採用目的の正当性と手段の必要性、さらに目的と手段の照応を事実に基づいて立証しなければならない」と書きました。権利を制約することはできるのだけれど、それにあたっては必ず立証責任を負うものであると。これについてはどう思われますか。
小林 画期的ですね。
東 おお!
小林 これを憲法に入れておけば、権利侵害や人権侵害は大いに減ると思います。日本の行政は警察を含め、「お上」のやっていることに追従する性質があります。LRAの原則[★8]、つまり最小限の制約であることを政府が立証して人権を停止していくという過程を明記するのは、きわめて重要です。アメリカでは、最高裁の判例によってこの原則が生きているのですが、日本では実務的に生きていない。
東 たまたまぼくは昨日、高崎青年会議所で憲法について話をする機会がありました。そこで「東先生が作った憲法のなかでは、人権はどのように扱われていますか」と質問が来た。ぼくは当然、ゲンロン草案できちんと人権が保障されているかどうかを尋ねられているのだと思ったのですね。そこで人権規定について説明したところ、「それではいまの憲法にくらべて、人権がもっと守られてしまうということですね?」と問い返されてしまった(笑)。
この質問には驚きました。たしかに昨今、憲法が人権を過剰に守っているために日本はダメになったのだという意見を耳にする機会が増えました。たとえば片山さつきさんが一昨年(2012年)、自民党草案は人権が天から与えられるものだという考え方を取らないのだ、それがいいのだという主旨のツイートをして話題になりました[★9]。人権というものに対する感覚がおかしくなってきているように思うのですが、小林さんはどう思われますか。
小林 昔から自民党のなかには、「人権」ではなく「国民の権利」と言うべきだというように、国を上位に置こうとする発想があります。これは明治憲法流の考え方で、臣民の権利は天皇が憲法の下で認める限りにおいて与えられるものだということになっている。しかし、これは本来の人権とは違うものです。人権には、政府と戦って転覆させる権利も含まれている。キリスト教国では神様から授けられたもの、先天的に与えられているものという説明になっていますが、いずれにせよこれは権力によって侵すことのできない権利で、譲れない一線です。
東 ただなぜこの話をしたのかというと、その質問者の方がまさに土地の問題を挙げていたからです。たとえば、ダムの建設に反対する運動を抑えるには、人権を制約するしかないだろうと。彼のなかでは、人権を制約しないと土地収用はできないということになっている。これについてはどう考えますか。
小林 政府側がプロジェクトの目的をきちんと住民に説明し、地域社会および社会一般にどれだけの利益があるのかを納得してもらい、補償についても明確化すれば済むことです。それでも不満ならば代替地を斡旋してもいい。
境 その質問をされた方は、憲法が直接適用されて物事が動くわけではないということを理解されていないのではないでしょうか。合憲的な法律が憲法のうえに作られて、それが機能することで実際の行政が動いていく。法律の次元をすべてすっ飛ばして憲法に放り込もうとすると、話がすごく混乱してしまう。
地方自治について言うと、わたしは中間自治体は不要だと思っています。地べたに足がついた基礎地方自治体が、住民のきめ細やかな要望を受けて、政府の方針に色づけをしながら進めていく。最小のコストで最高の行政サービスを実現するには、これがよいのではないかと思います。いま日本にはおよそ1700の地方自治体がありますが、いずれ少子高齢化により維持できないところが出てくる。そうなれば必然的に、それぞれ立派な市長がいたり、何十人も議員がいたりという状態も保てなくなるでしょう。わたしはアメリカのように、自治体によって行政事務をアウトソーシングしたり、能力に応じてあり方を選べるような制度が望ましいと考えます。
東 それはじつはぼくたちの提案とほとんど同じです。ゲンロン草案では第23条に「国民および住民は、基礎自治体と国に運営を委託する」という条文を入れました。これは、自民党の草案などとは真逆で、国家をサービス機関として位置づける条文です。また、国家には国と自治体というふたつのレイヤーがあり、違うサービスの領域を担当しているという考えです。

財産権の制限について
西田 ゲンロン草案と小林先生の間に、いよいよ根本的な対立点はなさそうだということが明らかになってきました(笑)。しかし、財産権については議論の余地があるようにも思います。たとえば、土地の公用収用をどこまで認めるのか。小林先生は、いまよりも財産権について制限を強めたほうが効率的な運営が可能になるという立場をとっていらっしゃいます。
小林 現行憲法にも土地の公用収用については明記されていますし、そのための行政法も整備されていますが、実際の運用ではとても及び腰です。おそらく、いまの書き方では十分ではない。もっと簡単に、公用収用は可能だと強調して書いておけば、運用も改善されるのではないかと。そこに先祖代々住んでいたからといってだれも動かなければ、電車も通せないし、高速道路も整備できない。正当な対価を払い、丁寧に説明をしたうえで退去してもらったほうが、そのひとにとっても利益がある。それを憲法で後押しすることができるのではないか、といった意味あいです。
境 ぼくは行政に属する人間だからかもしれませんが、意見が少し違います。憲法に土地の所有の制限について記載するというよりは、土地収用法があるのにそれを実行しない行政官は効率性を無視しているわけですから、ある種の違法性がある。となると、効率性の原理から改善を求めるほうが筋がよいのではないか。
小林 それで問題なければ結構です。ただ、実際に土地収用委員をしている地元の弁護士会の先生は、きわめて消極的です。日本国憲法の第29条第1項には「財産権は、これを侵してはならない」と書かれていますからね。
東 しかし土地収用は法的には認められているはずなのですよね。それができないというのは、行政が敗訴したような判例が積み上がっているということでしょうか?
小林 いえ、裁判があれば勝ちます。
東 では、もっとあいまいな空気のようなものが、土地収用をやりづらくさせているのだと。
小林 そうです。わたしは枠組み全体に問題があると思っています。そのためにも、憲法において、財産権は制約つきの権利であり、土地は公共財に近いものだということをもっと明確にし、政府がたやすく動けるようにする必要がある。
東 ゲンロン草案では、財産権に限らず基本的人権の制約について、「この憲法が国民および住民に保障する自由および権利を縮減する手段を採用するとき、その採用目的の正当性と手段の必要性、さらに目的と手段の照応を事実に基づいて立証しなければならない」と書きました。権利を制約することはできるのだけれど、それにあたっては必ず立証責任を負うものであると。これについてはどう思われますか。
小林 画期的ですね。
東 おお!
小林 これを憲法に入れておけば、権利侵害や人権侵害は大いに減ると思います。日本の行政は警察を含め、「お上」のやっていることに追従する性質があります。LRAの原則[★8]、つまり最小限の制約であることを政府が立証して人権を停止していくという過程を明記するのは、きわめて重要です。アメリカでは、最高裁の判例によってこの原則が生きているのですが、日本では実務的に生きていない。
東 たまたまぼくは昨日、高崎青年会議所で憲法について話をする機会がありました。そこで「東先生が作った憲法のなかでは、人権はどのように扱われていますか」と質問が来た。ぼくは当然、ゲンロン草案できちんと人権が保障されているかどうかを尋ねられているのだと思ったのですね。そこで人権規定について説明したところ、「それではいまの憲法にくらべて、人権がもっと守られてしまうということですね?」と問い返されてしまった(笑)。
この質問には驚きました。たしかに昨今、憲法が人権を過剰に守っているために日本はダメになったのだという意見を耳にする機会が増えました。たとえば片山さつきさんが一昨年(2012年)、自民党草案は人権が天から与えられるものだという考え方を取らないのだ、それがいいのだという主旨のツイートをして話題になりました[★9]。人権というものに対する感覚がおかしくなってきているように思うのですが、小林さんはどう思われますか。
小林 昔から自民党のなかには、「人権」ではなく「国民の権利」と言うべきだというように、国を上位に置こうとする発想があります。これは明治憲法流の考え方で、臣民の権利は天皇が憲法の下で認める限りにおいて与えられるものだということになっている。しかし、これは本来の人権とは違うものです。人権には、政府と戦って転覆させる権利も含まれている。キリスト教国では神様から授けられたもの、先天的に与えられているものという説明になっていますが、いずれにせよこれは権力によって侵すことのできない権利で、譲れない一線です。
東 ただなぜこの話をしたのかというと、その質問者の方がまさに土地の問題を挙げていたからです。たとえば、ダムの建設に反対する運動を抑えるには、人権を制約するしかないだろうと。彼のなかでは、人権を制約しないと土地収用はできないということになっている。これについてはどう考えますか。
小林 政府側がプロジェクトの目的をきちんと住民に説明し、地域社会および社会一般にどれだけの利益があるのかを納得してもらい、補償についても明確化すれば済むことです。それでも不満ならば代替地を斡旋してもいい。
境 その質問をされた方は、憲法が直接適用されて物事が動くわけではないということを理解されていないのではないでしょうか。合憲的な法律が憲法のうえに作られて、それが機能することで実際の行政が動いていく。法律の次元をすべてすっ飛ばして憲法に放り込もうとすると、話がすごく混乱してしまう。
緊急事態に対処するために
東 今日のイベントにあたって、伊藤真さんとの対談集(『自民党憲法改正草案にダメ出し食らわす!』、合同出版)を拝読しました。興味深いのは、緊急事態に対する認識の違いです。小林さんが、緊急事態についての規定が必要だと言うのに対して、伊藤さんは、緊急事態について新たに規定せずとも日本にはすでにさまざまな有事対応の法制度があるとおっしゃる。それには災害への対応も含まれており、3.11に政府がうまく対応できなかったのは、現場がその法制を熟知していなかったからで、憲法の問題ではないと主張されていました。
小林 しかし諸国の非常事態法制を見れば、一時的に人権を停止し、権力を集中すると明記されています。緊急事態への対応は時間の勝負です。津波が起きたあとに瓦礫の山を片づけるためには、まずブルドーザーで道路を通さなければならない。そこで、「おれの家を壊すな」とか、「わたしの車に触るな」という意見を聞いていてはなにも進みません。申し訳ないけれども、非常事態においては人権を停止し、国力を一点に集中するしかない。終わったあとにやりすぎがあったのならば、損害賠償を検討したり、場合によっては刑事責任を問うことがあってもいい。そういうことも含めて、憲法に基準を書いておくべきだと思います。
現在の日本国憲法には、人権停止についても権力統合についても書かれていないので、そういう規定を入れておかなければまずいだろうというのがわたしの立場です。しかし伊藤先生は憲法に触れたくないので、法律で十分だというふうに論を立てる。
東 伊藤さんは、災害時に道路に所有者不明の自動車が停まっていた場合、現状の法律でも撤去は可能だとおっしゃいます。小林さんとしては、それはそもそも人権侵害にあたるのであり、それを可能にしている法律があるとすればそれは憲法違反だという立場でしょうか。
小林 おそらく伊藤先生は、日本国憲法が人権は公共の福祉によって制約されると書かれていることを根拠に、法律も合憲だとみなすでしょう。しかし、公共の福祉というブラックボックスのような概念を持ち出すのはよくない。実際には時間がかかってしまい、二次災害の危険があります。
西田 自民党の憲法改正案では、第98条で内閣総理大臣が緊急事態宣言を発することができると定めています[★10]。またその効力について第99条で定めており、内閣は法律と同等の効力を持つ政令を制定でき、財政上必要な支出や、地方自治体の長への命令も可能だとされている[★11]。これを読むとやや専権的で、恣意的な運用が可能なように見えますが、小林先生はどう思われますか。
小林 それが緊急事態法制の本質なので、入口としては正しいと思います。しかし、事態が収束したあと、総選挙によってその信を問うというところまで明文化しておくべきだと考えます。補償についても触れておくべきでしょう。政治責任の確認と補償については、憲法中に明らかにしておかないと危険です。
東 なるほど。じつは先ほどの高崎での質問者からは、9条についても質問を受けました。そちらについても、ゲンロン草案での自衛隊の合憲化を批判されるのかと身構えていたら、「この条文では武力戦争ができませんよね」「もっと明確に集団的自衛権を規定したほうがよくないですか」と言われる。
こう紹介すると笑い話のようですが、重要な問題が隠れていると思います。ここ数年で日本が保守化したということでもありますが、憲法を巡ってもいつの間にか議論の構図が反転してしまっている。潮目が変わっているんですよね。小林さんはそういう空気の変化を感じられることはありませんか?
小林 ぼくは自民党の議員とも以前から付きあいがあって、そのなかで孤軍奮闘してきた意識があるので、昔からそういうひとはいたという印象ですね。
東 そういうひとが自民党の議員だけでなく市民のなかにもいることが見えるようになった。
小林 そうですね。恥ずかしげもなく出てくるようになった。
二元首制の可能性
西田 元首についてはいかがでしょう。ゲンロン草案では、天皇を文化と伝統の象徴として天皇を元首化しています。小林先生も、天皇を元首として位置づけるべきだと主張されている。
小林 しかしゲンロン草案では、それに加えて総理も元首となる二元首制[★12]を採用していますね。
東 それについてはどう思われますか。
小林 目からうろこのアイデアでした。いままでわたしは、首相公選制については否定的だったんですね。というのも、公選制を取ると、事実上の大統領制なので元首ということになり、天皇制と折り合いがつかない。天皇制は世界最古の王政であり、一系の血筋が守られている。文化財として残す価値があるものです。元首というのは「head of the state」のことで、対外的にこの国を代表する自然人で最高の地位にあるもののことを指します。権力は要件とされておらず、必要なのは尊厳性です。ですから、いまそれに該当するのは天皇とみなすのが自然です。しかし二元首制であれば、天皇制を維持したままで、公選制を採用することができる。総理は直接選挙で選んだほうが、政治責任を追及しやすくなります。いまの総理大臣は、自民党のなかで過半数の議員に気配りや金配りをした人物が就く立場になってしまっています。こうやって選ばれた総理大臣は、自分に票を入れた与党議員に対してしか責任を取らない。これは大きな問題です。ふたつ役割があるのだからふたりいればいいという発想は、本当に目からうろこでした。賛成です。
東 賛成ですか! またもや支持をいただいてしまいました。今日は小林さんには批判されるとばかり思っていたのですが、力強い応援団を手に入れた感じで嬉しいです。これからがんばっていきたいと思います。
といったところで会場に議論を開いていきたいと思うのですが、まずは客席にいるゲンロン憲法委員会の楠さん、お話をうかがえますか。
外国人参政権を巡って
楠正憲 楠です。「ゲンロン草案」に盛り込まれている住民と国民のたすきがけ構造――これはわたしが提案したものですが――に関連して、ひとつうかがいたいことがあります。住民に一定の権利を与えた背景には、外国の優秀な方をきちんと日本に迎え入れ、彼らが納税をするのであれば、それに見合った権利の付与について考えるべきだという思いがありました。もちろん、代表を出すだけが権利のあり方ではないですし、いろいろな方法はあると思いますが、こういった「代表なくして課税なし」というような意見についてはどう思われますか。小林さんのご意見をうかがえればと思います。
小林 「代表なくして課税なし」というのは、在日外国人の参政権要求でもよく使われるフレーズです。これはもともとアメリカ独立戦争のスローガンですが、それが誤って引用されている。当時、アメリカに植民している大英帝国の国民は、選挙権はあったものの、それを行使することができなかった。大英帝国が、イングランドとその周辺にしか選挙区を作っていなかったからです。それに加えてさらに課税負担まで押し寄せてきたために、抵抗運動が起こった。各国で在外国民の投票権が整備されつつある現在とは、状況がまったく違います。
また、在日外国人も日本で税金をたくさん払っているといいますが、納税額と選挙権は無関係です。たとえばわたしは税金をたくさん納めていますが、妻はまったく払っていない。しかしふたりとも、平等に一票ずつの選挙権を持っています。保守派の人々は税金は行政サービスの対価だといいますが、これも嘘です。福祉のサービスを受けているひとたちは、彼ら自身が税金を払えないからサービスの対象になっている。税金というのは、前年度に国内でこれだけ稼いだのだから、これだけ国の経費を出してくれという、稼ぎの代償です。それが選挙権に結びついたりはしない。
橘 非常によくわかりました。ありがとうございます。
西田 それでは会場からの質問をお受けしたいと思います。いかがでしょうか。
質問者A 外国人参政権について質問です。たびたび報道されているように、いまアメリカ各地に従軍慰安婦の碑が建てられて、社会問題になっています。また今年(2014年)4月、バージニア州では州内の公立学校の教科書に、日本海に東海と併記することを定める法案が可決されました[★13]。これらは韓国系住民が推進しているものです。日本でも在日韓国人の方々が参政権を獲得し、圧力団体として機能した場合、同じような事態が起こるのではないかという不安があります。そう考えると、日本における外国人参政権には素直に賛同できません。
その一方で、日本に長く住み、日本人がいやがる3Kの仕事を引き受けている移民の方もいる。彼らは日本で家族を作り、働いて納税もしている。そういう方々の権利を認めることで、日本社会に溶け込みやすくなれば、外国人による犯罪も減るのではないかと思います。このふたつは矛盾していて、わたし個人としても答えを出しかねているのが現状です。壇上のみなさんは、どのようにお考えでしょう?
小林 先ほども申し上げた通り、わたしは参政権までは与えず、外国人のモニター機関を公式に設置し、日本の議会に対する提案権を与える程度に留めるべきだという考えです。本当に参政権が欲しいのであれば、国籍を取得すればいい。わたしはディベートの席で在日韓国人と議論になり、そんなに参政権が欲しければ帰化すればいいと言ったことがあります。すると向こうは、「バカ野郎、おれは日本がきらいだから、あえて祖国の国籍を持っているのだ」と言う。しかし、そのきらいな国の決定権を欲しがるというのはおかしな話です。敵性外国人だと宣言している人物に参政権を与えても、ろくなことにならない。やはり、参政権まで与えるのはためらわれますね。
境 少し角度を変えて見てみると、いまの慰安婦像の問題にしても、アメリカで別の国を批判するものだから通ってしまったのだと思います。これがアメリカ自体を批判するものであれば、理解が得られるとは思えない。日本でも同様ではないでしょうか。「ゲンロン草案」では、在日外国人には住民として住民院への投票権を認める一方で、被選挙権を持つのは日本国民だという制約を設けました。在日外国人が在日外国人の代表を立てることはできないので、こういう仕組みであれば抑止力はあるだろうと思います。ただ、これがはたしてうまく機能するかについては意見があるでしょう。たとえば日本人のなかの反日的な立場のひとが彼らとつるんだらどうなるのか。しかしそれによって過半数を超える支持が集まるのならば、それもひとつの民意と捉えるべきかもしれない。
小林 外国人参政権を認めると、彼らがキャスティングボートを握ってしまうかもしれない。いま自民党と連立している公明党が離れたら政権が危なくなるように、在日韓国人は過半数を持っていなくても、キャスティングボートを握れてしまう可能性がある。また、彼らは強い社会基盤を持っているので、数としては少数でも、票を動かすだけの力を発揮するかもしれない。やはりリスクは大きいと思います。
東 いまやりとりを聞いていて、質問者の問題意識も小林さんのお答えも、外国人一般というより在日韓国人の問題に収斂したところが興味深いと思いました。日本在住の外国人に権利を開こうとしたときに、原則はいいけれどリスクが想定されるというのは、つまり在日韓国人の存在があるからだと。彼らはとても強固な組織を持っており、日本に対して敵対的な行動を起こす可能性があると思われている。しかしこの問題は、本来の憲法議論とは外れているのではないかとも思います。これは不変の条件として考えるべきなのでしょうか。
小林 歴史的に生まれてしまった所与の条件ですから、制度設計もそれを前提に考えざるをえないでしょうね。
質問者B 現行の日本国憲法でも、地方参政権については外国人参政権を否定していないという見方もあります。これについてはどう思われますか。
小林 条文には、住民が地方議会の参政権を持つと書かれている[★14]ので、そういう意見が出てくるのでしょう。しかしこれは日本国憲法の条文なので、ここに書かれている住民とは、当然日本国民たる住民のことを指します。住民を単純にそこに住んでいるひとと解釈するのは間違いで、メンバーシップクラブである日本国の憲法なのだから、そのなかでの地方自治について述べていると考えるべきです。
質問者C ゲンロン草案では、第一部が「政体」、第二部が「権利」となっており、統治に関する記述が先行しています。これにはどういった意図があるのでしょう。ぼくが学んだかぎりでは、憲法は人権を守るために存在しており、統治はその道具だという考えから、先に権利の規定があるべきだという説明がなされていました。あえてそれを転倒させたことには、どういった意味があるのでしょう。
東 まず、ぼくたちは条文の順番には特別な意味を込めていません。そのうえでつけ加えると、議論の過程でこういう話が出ました。そもそも憲法というのは、国民が国家に対して統治のあり方を示すものである。他方で、人権は、普遍的に人間にあらかじめ与えられているものとして、国家のあり方とは無関係に考えられるべきである。だとすれば、権利を保障するテキストは、むしろ憲法の外部にあるべきではないか。理想論を言えば、世界共通の人権宣言のようなものがあって、それを守ると定めればいいのではないか。
境 憲法と権利章典を別に起草しようという案もありましたね。憲法は国を縛るものだという認識が無意識のうちに条文に反映されて、まず統治について書き、それから守るべきものとしての権利について記述するような建てつけになった。
東 加えて言えば、ゲンロン草案では、第一部と第二部で改正に必要な要件を変えています。第一部は現行憲法よりも簡単に改正できるように、逆に第二部の権利についての記述は、追加することはできるのだけれど、削除はできないと定めている。これは、時代が進むにつれて人権が増えていくことはあるかもしれないが、減ることはありえないという発想に基づくものです。
西田 最後に、せっかくですから、客席の小倉秀夫弁護士とジャーナリストの津田大介さんからも意見と質問をうかがいたいと思います。まずは小倉さん、お願いします。
質問者A 外国人参政権について質問です。たびたび報道されているように、いまアメリカ各地に従軍慰安婦の碑が建てられて、社会問題になっています。また今年(2014年)4月、バージニア州では州内の公立学校の教科書に、日本海に東海と併記することを定める法案が可決されました[★13]。これらは韓国系住民が推進しているものです。日本でも在日韓国人の方々が参政権を獲得し、圧力団体として機能した場合、同じような事態が起こるのではないかという不安があります。そう考えると、日本における外国人参政権には素直に賛同できません。
その一方で、日本に長く住み、日本人がいやがる3Kの仕事を引き受けている移民の方もいる。彼らは日本で家族を作り、働いて納税もしている。そういう方々の権利を認めることで、日本社会に溶け込みやすくなれば、外国人による犯罪も減るのではないかと思います。このふたつは矛盾していて、わたし個人としても答えを出しかねているのが現状です。壇上のみなさんは、どのようにお考えでしょう?
小林 先ほども申し上げた通り、わたしは参政権までは与えず、外国人のモニター機関を公式に設置し、日本の議会に対する提案権を与える程度に留めるべきだという考えです。本当に参政権が欲しいのであれば、国籍を取得すればいい。わたしはディベートの席で在日韓国人と議論になり、そんなに参政権が欲しければ帰化すればいいと言ったことがあります。すると向こうは、「バカ野郎、おれは日本がきらいだから、あえて祖国の国籍を持っているのだ」と言う。しかし、そのきらいな国の決定権を欲しがるというのはおかしな話です。敵性外国人だと宣言している人物に参政権を与えても、ろくなことにならない。やはり、参政権まで与えるのはためらわれますね。
境 少し角度を変えて見てみると、いまの慰安婦像の問題にしても、アメリカで別の国を批判するものだから通ってしまったのだと思います。これがアメリカ自体を批判するものであれば、理解が得られるとは思えない。日本でも同様ではないでしょうか。「ゲンロン草案」では、在日外国人には住民として住民院への投票権を認める一方で、被選挙権を持つのは日本国民だという制約を設けました。在日外国人が在日外国人の代表を立てることはできないので、こういう仕組みであれば抑止力はあるだろうと思います。ただ、これがはたしてうまく機能するかについては意見があるでしょう。たとえば日本人のなかの反日的な立場のひとが彼らとつるんだらどうなるのか。しかしそれによって過半数を超える支持が集まるのならば、それもひとつの民意と捉えるべきかもしれない。
小林 外国人参政権を認めると、彼らがキャスティングボートを握ってしまうかもしれない。いま自民党と連立している公明党が離れたら政権が危なくなるように、在日韓国人は過半数を持っていなくても、キャスティングボートを握れてしまう可能性がある。また、彼らは強い社会基盤を持っているので、数としては少数でも、票を動かすだけの力を発揮するかもしれない。やはりリスクは大きいと思います。
東 いまやりとりを聞いていて、質問者の問題意識も小林さんのお答えも、外国人一般というより在日韓国人の問題に収斂したところが興味深いと思いました。日本在住の外国人に権利を開こうとしたときに、原則はいいけれどリスクが想定されるというのは、つまり在日韓国人の存在があるからだと。彼らはとても強固な組織を持っており、日本に対して敵対的な行動を起こす可能性があると思われている。しかしこの問題は、本来の憲法議論とは外れているのではないかとも思います。これは不変の条件として考えるべきなのでしょうか。
小林 歴史的に生まれてしまった所与の条件ですから、制度設計もそれを前提に考えざるをえないでしょうね。
質問者B 現行の日本国憲法でも、地方参政権については外国人参政権を否定していないという見方もあります。これについてはどう思われますか。
小林 条文には、住民が地方議会の参政権を持つと書かれている[★14]ので、そういう意見が出てくるのでしょう。しかしこれは日本国憲法の条文なので、ここに書かれている住民とは、当然日本国民たる住民のことを指します。住民を単純にそこに住んでいるひとと解釈するのは間違いで、メンバーシップクラブである日本国の憲法なのだから、そのなかでの地方自治について述べていると考えるべきです。
権利をどう記述するか
質問者C ゲンロン草案では、第一部が「政体」、第二部が「権利」となっており、統治に関する記述が先行しています。これにはどういった意図があるのでしょう。ぼくが学んだかぎりでは、憲法は人権を守るために存在しており、統治はその道具だという考えから、先に権利の規定があるべきだという説明がなされていました。あえてそれを転倒させたことには、どういった意味があるのでしょう。
東 まず、ぼくたちは条文の順番には特別な意味を込めていません。そのうえでつけ加えると、議論の過程でこういう話が出ました。そもそも憲法というのは、国民が国家に対して統治のあり方を示すものである。他方で、人権は、普遍的に人間にあらかじめ与えられているものとして、国家のあり方とは無関係に考えられるべきである。だとすれば、権利を保障するテキストは、むしろ憲法の外部にあるべきではないか。理想論を言えば、世界共通の人権宣言のようなものがあって、それを守ると定めればいいのではないか。
境 憲法と権利章典を別に起草しようという案もありましたね。憲法は国を縛るものだという認識が無意識のうちに条文に反映されて、まず統治について書き、それから守るべきものとしての権利について記述するような建てつけになった。
東 加えて言えば、ゲンロン草案では、第一部と第二部で改正に必要な要件を変えています。第一部は現行憲法よりも簡単に改正できるように、逆に第二部の権利についての記述は、追加することはできるのだけれど、削除はできないと定めている。これは、時代が進むにつれて人権が増えていくことはあるかもしれないが、減ることはありえないという発想に基づくものです。
世代は政治的区分になりうるか
西田 最後に、せっかくですから、客席の小倉秀夫弁護士とジャーナリストの津田大介さんからも意見と質問をうかがいたいと思います。まずは小倉さん、お願いします。
小倉秀夫 二点質問があります。国民が主権者であり憲法を作る立場なのだという考えからすると、憲法改正の発議権が国民にあってもよいのではないかと思うのですが、ゲンロン憲法では国民側に発議権を与えていないようです。これについてはいかがでしょう。また、いまの日本には世代間対立がかなり強固に存在しています。たとえば20代から30代までの議会を作って、ここで賛同を得られないような法律は通さない、というような仕組みは作れないでしょうか。
東 発議権については、草案作成の討議では議論が出ませんでした。ぼくは国民に発議権があってもいいと思います。
小林 わたしは不要ではないかと思います。日本のような大きな国家で、住民による改正の発議を認めた例はないはずです。まず、手続き的に難しい。そして日本は間接民主制を採用しており、国会を国民の代表として信頼して任せているのですから、発議権は国会にのみ認めていても問題はないはずです。
小倉 しかし、憲法上の人権規定は、立法府の側に「ここから先には踏み込んでほしくない」ということを定めるものですよね。だとすれば、いま侵害されている権利をこれ以上侵されないようにするためには、発議権を持っていてもよいのではないかと思います。手続き上の困難は、現在の情報技術によってある程度は克服されているとは言えないでしょうか。
小林 権利の侵害については、具体的に被害を受けているのであれば司法的救済に訴えることができます。また、その権利について国民に広く知れわたり、一定以上のうねりを起こせるのであれば、これは政治の側に反映され、国会で発議はなされるのではないかと思います。
境 いずれにせよ改正の是非は最終的に国民投票で判断されるので、国民が発議したものを国民投票で決めるという円環構造には、少々違和感がありますね。
西田 世代間対立についてはいかがでしょう。
東 ぼくは、世代は集団の強い区分にはなりえないと思うんです。そもそもだれしもが年を取るので、20代の有権者がずっと20代のままで20代の利害に対してロイヤリティを持つということがありえない。世代対立を地域間対立やイデオロギー対立と同じように政治的決定の基盤にするのは難しいのではないでしょうか。
境 ゲンロン草案では平等について定めた条文に、居住地や性別、人種と並び、世代についての言及をつけ加えています[★15]。高齢世代が多く、若年層に負担を押しつける政策が生まれやすい状況のなかでは、ひとり一票に係数をつけるなどの工夫はあってもいいかもしれません。
東 ただ、そもそも差別というのは、本人が変えられない条件を理由に、権利付与や資源配分が偏る事態のことを指すわけです。それを忘れてしまうと、なんでも差別ということになってしまう。その点、年齢はだれもが等しく推移していくものなので、たとえそこで高齢者が若者を不当に低く評価していたとしても、それを「差別」とは言いにくいでしょう。
小林 日本国憲法の第14条が法の下の平等をうたい、人種や信条での差別を禁止しているのは、これがやってはいけない差別でありながら、人間がいままで何度も繰り返してきてしまった反省からです。そういう観点からすると、世代間差別ははたしてそこまで深刻なものなのか。それにわたしも年を取るにつれて、若者を未熟者だと思うことが増えましたが、わたし自身も若い頃にはさんざん、未熟者だと言われてきました。これは許容すべきことではないかと思います。
楠 意見を挟ませてください。おっしゃるように、世代は有権者を区分する指標にはなじまないと思います。しかしその一方で、老人福祉には十分な予算がつくけれど、子育て支援はまったく進まなかったり、年金制度は先行世代に有利なままになっていたりと、人口が偏っていることによって、きちんとした意思決定がなされにくくなっているようにも思います。これはどう解決していけばいいのでしょう。たとえば比例代表制のほうが、若い世代から代表を出しやすいのかもしれませんし、いろいろな案が考えられるとは思うのですが。
東 ぼくもそれは大きな問題だと思いますが、それを前提としたうえで、こういうふうに考えています。たとえば日本では女性の社会進出はまったく進んでいません。これを解消しようとするときに、アファーマティブ・アクション[★16]を憲法に書き込むべきかというと、ぼくはそうではなく、個別の法律や実際の運用で対応すべきだと思う。それと同様に、たしかにいま若者の声が政治に十分に反映されているとは言えないけれど、それを調整するための条文を憲法に書き込むべきだとは思いません。
小林 アファーマティブ・アクションを憲法に書き込んでしまうと、能力や準備のないひとが、女性枠や若者枠で議会に入ってきてしまう。そうすると国会でもバカにされてしまい、むしろ女性や若者への差別が強化されることになりかねない。もちろん、伝統的差別は超えていかなければなりません。だからこそ、みんなで差別意識を否定する思想を広め、少数派になっている人々のなかから、志と能力のあるひとが出てこなければならない。実力で辿りつかないと、絶対に解決しません。
西田 ネット中継の視聴者から、参政権を18歳まで引き下げてはという声がありました。たしかに、世界標準としては18歳という規定が一般的ですね。ドイツでは、地方自治に関しては16歳まで認められている。これについてはいかがでしょう。
境 シンプルに賛成です。
小林 賛成ですが、複雑な立場です。というのも、国民投票法で投票権が18歳まで拡大された際[★17]に、大学1年生の教え子たちに意見を聞いたことがあります。18歳から選挙権が与えられるというと、彼らはすごく引いてしまった。そんな権限を与えられても困るという。彼らは慶應義塾大学の法学部に通い、わたしの授業を受けているかなり意識の高い学生たちです。それでもこういう反応だった。
西田 なぜ学生たちは引いてしまったのでしょうか?
小林 普段から政治に関心がないので、いざ道具を与えられても使い方がわからないということでしょう。しかしだからこそ、道具を与えて、試行錯誤のなかで育てていくしかないだろうというのがわたしの結論です。
東 しかし、慶應法学部の学生さんがそんなリアクションだというのは、なかなかたいへんなことですね。いったいだれのための選挙権引き下げなのか。
津田大介 ジャーナリストの津田です。今日も話に出ていたように、いま自民党の政権基盤は非常に安定しており、解釈改憲によって集団的自衛権の行使を認めようとする動きが本格化しています[★18]。条文が骨抜きにされるような事態も想定されるかと思うのですが、そうなったときに日本国憲法や、それに関する改憲の議論はどうなるのでしょう。
小林 安倍首相の性格を考えると、これから2年間は総選挙はないでしょうから、いまおっしゃったような悲観的なシナリオが進んでいく可能性は高い。ただ、閣議決定で憲法の解釈を変えたあと、自衛隊の海外派遣を認める手続法の制定が必要になってくる。それが国会で審議されるときに、野党がどのくらい有効な議論をできるかがポイントになってくるでしょう。理論的には安倍首相のほうが分が悪いので、かなり集中砲火を浴びることになるはずです。メディアはそれをきちんと国民に伝えなくてはならない。そしてその次の総選挙で、そんな内閣は倒すべきだという機運が高まらないようであれば、この動きは止まらないでしょうね。
東 安倍内閣が倒れない限り、解釈改憲は止まらないだろうと。
小林 そうです。倒閣しかない。彼の目的は9条の改正にあります。条文を変えるのが困難な以上、解釈改憲をするしかない。彼は二度目の内閣であとがないので、必ずやり遂げようとするでしょう。
東 発議権については、草案作成の討議では議論が出ませんでした。ぼくは国民に発議権があってもいいと思います。
小林 わたしは不要ではないかと思います。日本のような大きな国家で、住民による改正の発議を認めた例はないはずです。まず、手続き的に難しい。そして日本は間接民主制を採用しており、国会を国民の代表として信頼して任せているのですから、発議権は国会にのみ認めていても問題はないはずです。
小倉 しかし、憲法上の人権規定は、立法府の側に「ここから先には踏み込んでほしくない」ということを定めるものですよね。だとすれば、いま侵害されている権利をこれ以上侵されないようにするためには、発議権を持っていてもよいのではないかと思います。手続き上の困難は、現在の情報技術によってある程度は克服されているとは言えないでしょうか。
小林 権利の侵害については、具体的に被害を受けているのであれば司法的救済に訴えることができます。また、その権利について国民に広く知れわたり、一定以上のうねりを起こせるのであれば、これは政治の側に反映され、国会で発議はなされるのではないかと思います。
境 いずれにせよ改正の是非は最終的に国民投票で判断されるので、国民が発議したものを国民投票で決めるという円環構造には、少々違和感がありますね。
西田 世代間対立についてはいかがでしょう。
東 ぼくは、世代は集団の強い区分にはなりえないと思うんです。そもそもだれしもが年を取るので、20代の有権者がずっと20代のままで20代の利害に対してロイヤリティを持つということがありえない。世代対立を地域間対立やイデオロギー対立と同じように政治的決定の基盤にするのは難しいのではないでしょうか。
境 ゲンロン草案では平等について定めた条文に、居住地や性別、人種と並び、世代についての言及をつけ加えています[★15]。高齢世代が多く、若年層に負担を押しつける政策が生まれやすい状況のなかでは、ひとり一票に係数をつけるなどの工夫はあってもいいかもしれません。
東 ただ、そもそも差別というのは、本人が変えられない条件を理由に、権利付与や資源配分が偏る事態のことを指すわけです。それを忘れてしまうと、なんでも差別ということになってしまう。その点、年齢はだれもが等しく推移していくものなので、たとえそこで高齢者が若者を不当に低く評価していたとしても、それを「差別」とは言いにくいでしょう。
小林 日本国憲法の第14条が法の下の平等をうたい、人種や信条での差別を禁止しているのは、これがやってはいけない差別でありながら、人間がいままで何度も繰り返してきてしまった反省からです。そういう観点からすると、世代間差別ははたしてそこまで深刻なものなのか。それにわたしも年を取るにつれて、若者を未熟者だと思うことが増えましたが、わたし自身も若い頃にはさんざん、未熟者だと言われてきました。これは許容すべきことではないかと思います。
楠 意見を挟ませてください。おっしゃるように、世代は有権者を区分する指標にはなじまないと思います。しかしその一方で、老人福祉には十分な予算がつくけれど、子育て支援はまったく進まなかったり、年金制度は先行世代に有利なままになっていたりと、人口が偏っていることによって、きちんとした意思決定がなされにくくなっているようにも思います。これはどう解決していけばいいのでしょう。たとえば比例代表制のほうが、若い世代から代表を出しやすいのかもしれませんし、いろいろな案が考えられるとは思うのですが。
東 ぼくもそれは大きな問題だと思いますが、それを前提としたうえで、こういうふうに考えています。たとえば日本では女性の社会進出はまったく進んでいません。これを解消しようとするときに、アファーマティブ・アクション[★16]を憲法に書き込むべきかというと、ぼくはそうではなく、個別の法律や実際の運用で対応すべきだと思う。それと同様に、たしかにいま若者の声が政治に十分に反映されているとは言えないけれど、それを調整するための条文を憲法に書き込むべきだとは思いません。
小林 アファーマティブ・アクションを憲法に書き込んでしまうと、能力や準備のないひとが、女性枠や若者枠で議会に入ってきてしまう。そうすると国会でもバカにされてしまい、むしろ女性や若者への差別が強化されることになりかねない。もちろん、伝統的差別は超えていかなければなりません。だからこそ、みんなで差別意識を否定する思想を広め、少数派になっている人々のなかから、志と能力のあるひとが出てこなければならない。実力で辿りつかないと、絶対に解決しません。
西田 ネット中継の視聴者から、参政権を18歳まで引き下げてはという声がありました。たしかに、世界標準としては18歳という規定が一般的ですね。ドイツでは、地方自治に関しては16歳まで認められている。これについてはいかがでしょう。
境 シンプルに賛成です。
小林 賛成ですが、複雑な立場です。というのも、国民投票法で投票権が18歳まで拡大された際[★17]に、大学1年生の教え子たちに意見を聞いたことがあります。18歳から選挙権が与えられるというと、彼らはすごく引いてしまった。そんな権限を与えられても困るという。彼らは慶應義塾大学の法学部に通い、わたしの授業を受けているかなり意識の高い学生たちです。それでもこういう反応だった。
西田 なぜ学生たちは引いてしまったのでしょうか?
小林 普段から政治に関心がないので、いざ道具を与えられても使い方がわからないということでしょう。しかしだからこそ、道具を与えて、試行錯誤のなかで育てていくしかないだろうというのがわたしの結論です。
東 しかし、慶應法学部の学生さんがそんなリアクションだというのは、なかなかたいへんなことですね。いったいだれのための選挙権引き下げなのか。
解釈憲法の可能性
津田大介 ジャーナリストの津田です。今日も話に出ていたように、いま自民党の政権基盤は非常に安定しており、解釈改憲によって集団的自衛権の行使を認めようとする動きが本格化しています[★18]。条文が骨抜きにされるような事態も想定されるかと思うのですが、そうなったときに日本国憲法や、それに関する改憲の議論はどうなるのでしょう。
小林 安倍首相の性格を考えると、これから2年間は総選挙はないでしょうから、いまおっしゃったような悲観的なシナリオが進んでいく可能性は高い。ただ、閣議決定で憲法の解釈を変えたあと、自衛隊の海外派遣を認める手続法の制定が必要になってくる。それが国会で審議されるときに、野党がどのくらい有効な議論をできるかがポイントになってくるでしょう。理論的には安倍首相のほうが分が悪いので、かなり集中砲火を浴びることになるはずです。メディアはそれをきちんと国民に伝えなくてはならない。そしてその次の総選挙で、そんな内閣は倒すべきだという機運が高まらないようであれば、この動きは止まらないでしょうね。
東 安倍内閣が倒れない限り、解釈改憲は止まらないだろうと。
小林 そうです。倒閣しかない。彼の目的は9条の改正にあります。条文を変えるのが困難な以上、解釈改憲をするしかない。彼は二度目の内閣であとがないので、必ずやり遂げようとするでしょう。
実現のために
東 今日は小林さんから多くの点について支持をいただき、改善点も見えてきました。しかし、ではなぜぼくたちの憲法は世の中に広がらないのか。
小林 まず、カタカナの「ゲンロン憲法」というのが意味不明です。
東 名前を変えるべきだと!
小林 たとえば「新世代憲法」とすれば、わたしのようなおじさんやおじいさんにもわかる。また、いまのままではあまりにも唐突に受け取られるので、先ほども申し上げたように、現行憲法の改正案として再提案したほうがいい。そして本当に世の中に知らせたければ、だれか政治家を出すべきですよ。
東 ぼくたちの委員会から政治家を出すということですか?
小林 そうです。この二人が政治家になるということですよ。その責任を取らないから話が固まってしまう。
東 会場にいる津田さんが引き受けてくれると思うのですが……。
小林 いや、執筆者のなかから出すべきでしょう。シングル・イシュー・プレイヤーとして立候補し、参議院だったら6年間、憲法だけをやる。
東 いまの政治家の方では、今日のような議論には耳を傾けていただけないのでしょうか。
小林 そうは思いません。政治家と話をすると、彼らが迷い、理知を求めているのと同時に、憲法に関する知識が乏しいこともよくわかる。わたしが年に何回か会って説教をしても、すぐに忘れられてしまう。いつも近くにいて、一緒に昼飯を食べながら、あるいは党の会議でも憲法の話ばかりをするような議員がひとりいれば、実効性が出てくると思います。政権に入りたがっている政党はいくつかありますが、彼らには欲があっても知恵がない。それを整理してあげればいい。
東 しかしいまや自民党の強力な支配体制ができてしまい、維新の会やみんなの党のような第三極はほとんど散ってしまっている。そうなると、まず自民党にアプローチするべきということになりますが……。
小林 自民党には勝ち馬に乗ろうというひとが押し寄せているので、人材不足なのは民主党でしょう。もともと頭でっかちな人材が揃っていますから、そこに知的なリーダーシップを持った人が現れれば、育っていく素地はある。
東 小林さんは自民党と関係が深い印象を持っていたのですが、政権交代では民主党を支持されていたのですか?
小林 わたしは政権交代論者ですから、政権交代こそが最高の情報公開であり、大掃除であると思っています。政権を担って一定以上が経過すれば、どの政党でも下野すべきだと考えます。
東 先日の民主党政権についてはどうお考えですか。
小林 あまりに幼かったと思います。自民党との大きな違いは、自民党の議員はそれぞれ意見を持っていても、党議決定があればいやでも従う。民主党は党議決定を避けるし、されてもまだ文句を言い続ける。これでは、組織としてあまりに幼稚です。この欠点は忘れてはいけない。
西田 イベントの前半で東さんからもお話がありましたが、こういった議論の場は継続的に設けていきたいと思っております。どういう方を議論に巻き込んでいけばよいか、ご示唆いただけますでしょうか。
小林 憲法学者で柔軟にこの案に反応するひとは、なかなかいないと思います。ただ、早稲田大学の水島朝穂[★19]教授は、長年護憲派として地位を固めてきていながら、わたしとケンカをせずに声をかけ続けてきた不思議な方です。また、こちらも筋金入りの護憲論者ですが、議論に応じるという点では、伊藤真先生もまっとうです。
東 小林さんと伊藤さんはとても親しいようですが、お互いの価値観はそれでもまったく変わらないものなのですか。
小林 そうですね。ニコニコとケンカしているような感じでしょうか。お互い意見が違っても、罵倒しあわない。われわれのようなイデオロギー世代は、敵か味方かで色分けをして、敵だと思ったら汚い言葉を投げつけてでも侮辱するということをしてきました。ぼくはそれがとてもいやだったので、ひとりで孤立してフェアプレーと称していました。伊藤先生もフェアです。水島教授も伊藤先生も社会的な影響力をお持ちですから、まずはこのふたりに話を聞いて、理解してもらうのがよいと思います。
東 しかし、小林さんたちの関係性をもってしても見解が変わらないのだとすると、憲法学者の方と議論をしてもなにも変わらないのでは……。
小林 難しい質問ですね。しかしわたし自身、伊藤先生と何度も議論を重ね、9条問題以外はほぼ折り合えるようになってきました。十分な進歩だと思いますし、この経験は案外、捨てたものではないと思います。
東 しかし、9条だけは特別だと。
小林 そのようですね。ぼくは9条信仰を持っていないから、信者の本当の気持ちはわからない。伊藤先生はぼくより10歳若いけれど、それでもイデオロギー対立の時代を引きずってしまっている。みなさんは、そういうイデオロギーで識別して態度を決めたりしない。そこに希望を持っています。みなさんのようにきちんと根拠を持って発信を続ければ、どんどん仲間は増えていくはずです。憲法学者抜きで憲法を書き上げたのはすばらしい。だからこそ、こういったユニークなものを作り、時代の扉を開くことができた。しかしこのままでは、憲法論議の情報ルートから外れてしまい、時代の谷間に消えていってしまうでしょう。わたしをひとつの突破口として、政治家や憲法学者にも、議論を広げていってほしいと思います。期待しています。
西田 最後に、とても力強い応援の言葉をいただくことができ、たいへん恐縮しています。本日は長時間にわたって議論におつきあいいただき、ありがとうございました。今後も憲法を主題としたイベントは開催していきたいと思います。みなさま、また次回、お会いしましょう。
2014年5月3日 東京、ゲンロンカフェ
構成=編集部

★1 2012年刊行の『日本2・0思想地図βvol.3』(ゲンロン)で発表された、「新日本国憲法ゲンロン草案」のこと。特集「憲法2・0」のメイン企画であり、全100条の条文と、各委員が分担執筆したコンメンタールが併録された。今年(2014年)4月には、再構成されたKindle用電子書籍『憲法2・0』もリリースされている。
★2 自民党が2012年4月に発表した、「日本国憲法改正草案」のこと。交戦権を認め国防軍の保持を定めていることや、伝統の継承や家族の相互扶助について明記していることなどの特徴がある。
★3 今年(2014年)4月に設立された、憲法学者の奥平康弘と政治学者の山口二郎が共同代表を務める団体。物理学者の池内了や思想家の内田樹など、約50人の知識人が名を連ねている。
★4 大日本帝国憲法が制定される以前、1881年頃から自由民権運動の担い手によって発表された民間の憲法草案の総称。運動の隆盛に危機感を募らせた明治政府は、1887年に保安条例を成立させ、私擬憲法の検討を違法化した。代表的なものに、植木枝盛の『日本国々憲案』や、交詢社の『私擬憲法案』など。
★5 1980年生まれの法学者。首都大学東京准教授。著書に『キヨミズ准教授の法学入門』(星海社新書)、『憲法の創造力』(NHK出版新書)など。
★6 1958年生まれの法学者。司法試験の受験指導校「伊藤塾』を創設し、塾長を務めている。著書に『伊藤真の明快! 日本国憲法』(ナツメ社)、『現代語訳日本国憲法』(ちくま新書)など。
★7 「ゲンロン草案」は二院制を採用しており、従来の衆議院の地位を引き継ぐ住民院と、良識の府である国民院からなる。住民院の被選挙権は日本国国民が、投票権は住民(国内在住の国民および国内の長期合法滞在外国人)が持つ。逆に国民院の被選挙権は住民が、投票権は国民が持つというたすきがけ構造になっている。
★8 法学上の概念で、日本語には「より制限的でない他の選びうる手段」などと訳される。Less Restrictive Alternativeの頭文字を取ってLRA基準と呼ばれる。議会が制定した法律が憲法に規定された自由や権利を制約する場合、政府がその必要性を立証し最高裁判所を説得しない限り、立法自体が無効となる。
★9 2012年12月6日のツイート。「国民が権利は天から付与される、義務は果たさなくていいと思ってしまうような天賦人権論をとるのは止めよう、というのが私たちの基本的考え方です」「国があなたに何をしてくれるか、ではなくて国を維持するには自分に何ができるか、を皆が考えるような前文にしました!」と記されていた(現在は削除されている)。
★10 「日本国憲法改正草案」第98条には以下のように記載されている。「内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる」。
★11 「日本国憲法改正草案」第99条には以下のように記載されている。「緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる」。
★12 「ゲンロン草案」は象徴元首である天皇と、統治元首である総理の二元首制を採用している。これは国民と住民の区別(★7を参照)と対応しており、天皇は国民を、総理は住民を代表するものとされている。
★13 日本海(Sea of Japan)の韓国における呼称。英語では「East Sea」。韓国は1992年の国連地名標準化会議において、北朝鮮とともに呼称変更を提起して以降、繰り返し名称の変更や併記を求めている。
★14 「日本国憲法」第93条第2項には以下のように記載されている。「地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する」。
★15 「新日本国憲法ゲンロン草案」第22条には以下のように記載されている。「総理および国会議員の選挙に関する事項は、選挙人たる日本国民または日本住民が居住地、世代、性別、人種、信条、社会的身分、門地、教育、財産または収入によって差別されることなく、等しくその権利を行使できるよう、法律でこれを定める」。
★16 積極的な差別是正策のこと。黒人、少数民族など差別を受けてきたマイノリティの権利を確保するため、学校の入学者数や企業の雇用者数に受け入れ枠や目標値を定めるもの。
★17 2014年6月20日施行の改正国民投票法によって、4年後の2018年から、憲法改正国民投票の投票年齢が「一八歳以上」に引き下げられることが決まった。
★18 その後安倍内閣は、7月1日の臨時閣議で解釈改憲を断行。「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生」するなどの3つの要件を満たした場合、個別的、集団的自衛権と集団安全保障の三種類の武力行使が可能であると表明した。
★19 1953年生まれの法学者。早稲田大学教授。著書に『憲法「私」論』(小学館)、『東日本大震災と憲法』(早稲田大学出版部)など。


小林節
1949年生まれ。法学博士、弁護士。都立新宿高を経て慶應義塾大学法学部卒。ハーバード大法科大学院の客員研究員などを経て慶大教授。現在は名誉教授。著書に『白熱講義! 憲法改正』(ワニ文庫)、『「憲法改正」の真実』(樋口陽一との共著、集英社新書)、『自民党憲法改正草案にダメ出し食らわす!』(伊藤真との共著、合同出版)など。

東浩紀
1971年東京生まれ。批評家、作家。ZEN大学教授。株式会社ゲンロン創業者。博士(学術)。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。

西田亮介
1983年京都生まれ。日本大学危機管理学部教授/東京工業大学リベラルアーツ研究教育院特任教授。博士(政策・メディア)。慶應義塾大学総合政策学部卒業、同大学院政策・メディア研究科修士課程修了。同後期博士課程単位取得退学。同政策・メディア研究科助教(研究奨励Ⅱ)、(独)中小企業基盤整備機構経営支援情報センターリサーチャー、立命館大学大学院特別招聘准教授、東京工業大学准教授等を経て、2024年4月日本大学危機管理学部に着任。現在に至る。
専門は社会学。著書に『コロナ危機の社会学』(朝日新聞出版)『ネット選挙——解禁がもたらす日本社会の変容』(東洋経済新報社)、『メディアと自民党』(角川新書)『情報武装する政治』(KADOKAWA)他多数。

境真良
1968年生まれ。現在は国際大学GLOCOM、情報経営イノベーション専門職大学及び独立行政法人情報処理推進機構に所属。1993年に東京大学を卒業、通商産業省に入省し、東京国際映画祭事務局長、早稲田大学大学院客員准教授、株式会社ドワンゴ等を経て現職。著書に『テレビ進化論』(講談社現代新書)、『アイドル国富論』(東洋経済新報社)など。


