【 #ゲンロン友の声|043】 罪悪感にどう向き合えばいいのでしょうか?

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webゲンロン 2026年8月14日配信

こんにちは。『平和と愚かさ』を大変興味深く拝読し、質問がひとつ浮かびました。

プールでぼんやり浮かんでいた人が、バックヤードの人々の存在に気付いたときの罪悪感へどう対処するか、たくさんの方法があると思いますが、現在観察し得るなかで、有効なものは少ないように思えます。罪悪感を乗り越えるのは、ある種の人たちにとってはかなり大変なことで、多分バックヤードの人とは違う意味で大変なことがあるかもしれないと思います。罪悪感に対する、一貫し、かつ周辺のアジア国家とも摩擦を起こさないようなナラティブを、国家(日本国)はこれまで作れていないのかもしれないと思いました。こうしたナラティブがあるとしたら、どういう形で現れるでしょうか?(海外・40代・非会員)

 質問ありがとうございます。

 プールの比喩で始まっていますが、とても抽象的に、加害者と被害者の非対称性についての質問だと受け取りました。リゾートのプールに浮かんでいるひとは、ふつうそこそこのお金を払って浮かんでいるので、スタッフの存在に気づいても罪悪感を覚えることはない。けれども質問者さんはそんな話をしたいのではない。ではなにが問われているのか。おそらくはこういうことでしょう。東浩紀は『平和と愚かさ』で、「客」と「裏方」は一種の分業であり、交換可能だと述べた。けれども、要は客とは加害者のことで裏方とは被害者のことではないのか。客の快楽は、面倒をすべて裏方=被害者に押し付けることで成立しているのであり、それはつまりは加害ということではないのか。そのとき、自らの加害性に気がついた客はどのように客であることを正当化するのか。

 大事な質問です。ただ、まずはじめに伝えておきたいのは、ぼくが『平和と愚かさ』で記したのは、まさにそのような罠から逃れてほしいという訴えだったということです。ぼくたちの時代はすべてを加害と被害の関係で理解しようとします。実際にそれですべて理解できます。なぜならば、人間関係に本当の意味で対等なものなどないからです。必ずだれかが得をしているし、だれかが損をしている。必ずだれかが決めているし、だれかは従っている。それらを加害と被害というならば、人間社会はすべて加害と被害でできている。資本家は加害者だし多数派は加害者だし教師は加害者だし親は加害者で、そもそもこの世界に命を生み出すこと自体も加害だということになる(反出生主義)。繰り返しますが、ぼくはそのような理解の枠組みがまちがっていると言いたいわけではありません。しかし、それはあまりにも万能すぎて、しばしばひとを思考停止に誘ってしまう。加害者も動けなくなり、被害者も動けなくなる。

 だからぼくは、社会のさまざまな関係を、加害−被害の関係ではなく客−裏方の関係として捉え返してみたらどうか、と提案したのでした。たとえばいまはみな親は加害者で子供は被害者だと捉えている。けれど、親を裏方で子供を客だと考えてみたらどうなるか。被害者の子供が成人して加害者である親になる、とかいうとこれはもう絶対に耐えられない感じがするわけですが、客だった子供が成人して裏方の親になると聞けば、まあそんなものかなという気もしないではない。そのような発想の転換、というか視野の拡大こそがぼくが提案したかったことで、この例からもわかるように、客とは決して加害者の言い換えではありません。ぼくとしては、リゾートホテルの例があったとはいえ、客が加害者で裏方が被害者だと連想されてしまったこと自体、ぼくの文章はまだまだうまく伝わらないものだったのだなと、反省を迫られる質問でもありました。

 さて、しかし、以上の前提のうえで、質問者さんの問いかけにも正面から答えたいと思います。質問はどうやら2つあります。加害者(客ではない)は罪悪感へどう対処すべきか。そして加害者はどのようなナラティブを作れば被害者を説得できるのか。

 この2つの質問に対するぼくの答えは、質問者さんを納得させることができるかどうかわかりませんが、とてもシンプルです。前者の質問に対しては、罪悪感には対処しようがないし、対処するようなものでもないと答えます。加害者は罪悪感を抱き続けるしかない。加害とはそのようなものです。そして後者の質問に対しては、そのようなナラティブは原理的に存在しないと答えます。そもそも加害者は被害者を説得しようと考えるべきではない。許されようと考えるべきではない。被害者はいつまでも怒り続ける権利をもっているし、加害者はそれを受け入れるしかない。これは謝罪し続けろという話でもありません。謝罪し続けてもいいですが、いま記したとおり、どうせそこで許されることも期待できないのだから、謝罪しなくてもいいかもしれない。少なくとも謝罪に合理性はない。実際に加害者のなかには、そのように「逆ギレ」して、謝罪をやめてしまうひとが多くいますね。質問者さんはアジア外交の例を挙げていますが、いまの日本はまさにそのような「逆ギレ」の罠に陥りつつあるのかもしれません。

 希望のない答えになって申し訳なく思います。けれども、加害−被害というパラダイムは、そもそもがこういう結論しか出なくするものなのです。ひとは、加害−被害という関係に入った瞬間、出口のないコミュニケーションのなかに落ち込んでしまう。だからこそ、ぼくは、『平和と愚かさ』で、加害でも被害でもない言葉で戦争や平和の記憶を語ろうとしたのでした。害は忘れてはならない。けれども加害と被害の言葉で関係をつくろうとしているかぎり、永遠に平和は訪れない。そこを考えることが重要だと思います。(東浩紀)

東浩紀

1971年東京生まれ。哲学者、ZEN大学教授。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』、『平和と愚かさ』など。
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