ポスト・シネマ・クリティーク(20)「ファジー・ウォー」のポストシネマ性 クリストファー・ノーラン監督『ダンケルク』|渡邉大輔

シェア
初出:2017年10月20日刊行『ゲンロンβ18』

三つの視点からたどる戦争の史実


 すべての物語が終わったあと、この映画作家のエムブレムともいってよいだろう、映画の冒頭部分と同じく、真っ黒いヴィスタサイズの画面に、いくつかのクレジットとハンス・ジマーによる重低音の音楽に続いて映画のタイトルが白抜きの端正な文字でゆっくりと浮かびあがる。

 スクリーンを眺める観客は、そのすでによく見慣れた画面の少し前、物語の主要な舞台のひとつとなった、鉛色の曇天の空の下に広がる広大な砂浜のうえに、びっしりと転がったいくつものヘルメットを眼にする。まるで小さな亀の群れが身体を休めるように画面のはるか奥まで続くヘルメットの絨毯。その光景は、それらをかつてかぶっていただろう、個々の兵士たちの固有の容貌をこの世界から引き剥がし、そのままかれらをのっぺりとした匿名性の時空へと連れ去ってしまったかのようだ。

 クリストファー・ノーランの3年ぶりの監督作が公開された。第10作にして、かれがはじめて史実を題材にした『ダンケルク Dunkirk』(2017年)は、これまでもたびたび映画化されてきた、第2次世界大戦の西部戦線におけるいわゆる「ダンケルクの戦い」を、連合軍(英仏軍)の大規模撤退作戦(「ダンケルク大撤退」や「ダイナモ作戦」と呼ばれる)を中心に描いた戦争サスペンスである。

 ダンケルクの戦いとは、1940年の5月下旬から6月初旬までの10日間ほど、フランス最北端の港町ダンケルクにおいて起きた戦闘である。フランスに侵攻してきたナチス率いるドイツ軍の攻勢から逃れるため、沿岸部に追い詰められた英仏軍が行った一連の防戦とイギリス本国への撤退戦を指す。この戦闘のさなか、英仏軍の約40万人の将兵たちが、駆逐艦や大型の輸送船はもちろん、民間の小さな貨物船や漁船までをも動員して、大規模撤退を敢行した。この奇跡的な撤退・救出劇は、ノーランの故国イギリスではいまも愛国心を鼓舞する逸話として語り伝えられている。

 映画は、冒頭でダンケルクの戦いの概要をごく簡単な字幕で説明したあと、画面に浮かびあがる字幕とともに、3つの異なったシチュエーションを順に示す。最初の「防波堤:一週間の出来事」では、人気のない街の大通りを数人の分隊と歩いていたイギリス陸軍の若き2等兵トミー(フィン・ホワイトヘッド)が突如、市街戦に遭遇する場面からはじまる。ドイツ軍の銃撃からひとり逃れ、トミーはダンケルクの砂浜にたどり着くが、そこでは足止めを食らった膨大な数の兵士たちが、救出のための船舶を待って長い行列を作っていた。トミーは浜辺や防波堤で出会ったギブソン(アナイリン・バーナード)、アレックス(ハリー・スタイルズ)らとともに、間一髪でなんとか掃海艇に乗りこむことに成功する。続いて、「海:一日の出来事」では、ところ変わってイギリス本土、ダンケルクに取り残された同胞たちを救出するため、イギリス海軍が民間船を徴用している。小型のプレジャーボートの船長で愛国心溢れるドーソン(マーク・ライランス)は、19歳の息子ピーター(トム・グリン゠カーニー)とその友人ジョージ(バリー・コーガン)のふたりの若者とともにダンケルクを目指して船出する。そして3つめの「空:一時間の出来事」では、今度は広大な海のうえ、ダンケルクの大撤退を支援するため、イギリス空軍の3つの戦闘機スーパーマリンスピットファイアが飛行している。ドイツ空軍との空中戦の末、隊長機が撃墜されるが、残ったファリア(トム・ハーディ)とコリンズ(ジャック・ロウデン)という若きパイロットたちは、燃料計の故障にもかかわらず飛び続ける。

『ダンケルク』では、これら冒頭で示されたトミー、ドーソン、ファリアをさしあたりの主人公とする陸・海・空の3つの物語が、戦場を再現する迫真の映像・音響表現と、ひたすらディテールを積み重ねる演出で、交互に描かれてゆく。

「ファニー・ウォー」ならぬ「ファジー・ウォー」?


『ダンケルク』はいっけんして、──この監督の多くの作品がそうであるように──「奇妙」な戦争映画である。

 何が奇妙なのか。それは本作全体の語り口がかかえる、圧倒的な「ファジーさ」にある。本作では、西部戦線で名高い史実を映画体験として限りなく忠実に再現することを試みているにもかかわらず──あるいはだからこそ、物語やシチュエーション、また俳優が演じるキャラクターの描写といった映画のさまざまな構成要素において、本来こめられるべき全体性や統一性、もしくはあるいは連続性や固有性などの世界観を枠づける確固としたまとまりが徹底して欠如している。映画全体がもとからバラバラに分解されていて、それを眺める観客も、自分たちがいったいどこに連れて行かれるのかわからなくなるような感覚があるのだ。

 この独特の感覚をより深くたしかめるために、本作を論じるさまざまな批評家がすでにそのタイトルに言及しているが、やはりここでもスティーヴン・スピルバーグの『プライベート・ライアン Saving Private Ryan』(1998年)との比較検討が有益となるはずである。『ダンケルク』はその圧倒的にリアルな戦場の視聴覚体験が喧伝されているが、知られるように、もとよりノルマンディー上陸作戦を題材にした『プライベート・ライアン』もまた、そうした今日の戦争映画のリアリティ描写に画期をもたらした作品だと評価されている。実際にノーランは『ダンケルク』の撮影前に本作を見直したことをインタビューで明かしているが[★1]、しかしこの2本はさまざまな意味でじつに対照的な戦争映画だろう。
 たとえば、『ダンケルク』の冒頭直後から数十分にわたってえんえん展開される、ダンケルクの砂浜でのトミー2等兵たちの船舶による脱出シーンはやはり、同じく冒頭から約20分間インサートされて当時もその迫真の描写で世界に衝撃を与えた『プライベート・ライアン』の有名なオマハ・ビーチの戦闘シーンを思い起こさせる。ただ、『プライベート・ライアン』では海からフランスの海岸に入るのに対して、『ダンケルク』ではフランスの海岸から海に出る、あるいは前者では血しぶきや剥きだしになる内臓などのリアルな身体損壊表現が全面に出るのに対して、後者ではそれらはまったく描かれない、というふうに、その演出の方向性は真逆である。そもそも黒澤明の『七人の侍』(1954年)をなぞる『プライベート・ライアン』は、いま観るとごく正統的な戦争映画のスタイルを採っている。本作は、ノルマンディーにいるある大尉が国からの命令を受け、やはり同地に従軍しているひとりの若い2等兵を数人の兵士たちとともに広大な戦場のなかから探して見つけだすという物語である。その2等兵は、すでにかれ以外の兄弟全員が戦死してしまった。そのため、国は、かれだけでも見つけて祖国に無事帰還させようと考えたのである。映画は、主人公の大尉と2等兵をそれぞれ演じるトム・ハンクスとマット・デイモンを筆頭に、登場する兵士たちの個性や来歴を強烈かつ明確に描くとともに、劇的なクライマックスに向けて観客の感情移入を高めてゆく[★2]。そして、映画のラストで静かにはためく星条旗に象徴されるように、本作は公開当時、合衆国のナショナル・アイデンティティを強化するイデオロギー的役割も円滑に果たしていた。しかし、他方の『ダンケルク』でノーランが醸しだすファジーさは、こうした『プライベート・ライアン』の方針とはことごとく相容れない。休戦状態が長く続いた第2次大戦初期の西部戦線の呼び名──「奇妙な戦争」(ファニー・ウォー)をもじっていえば、『ダンケルク』が描きだす戦場の風景は、この意味でまさに「ファジー・ウォー」なのである。

あいまいな時制とシチュエーション


 そのわかりやすい例が、冒頭で挙げた複層化する時制の表現だろう。繰りかえすが、『ダンケルク』では106分の全編のなかで、陸上をおもな舞台とした「一週間」の物語と、海上を舞台とした「一日」の物語、そして上空を舞台にした「一時間」の物語という、時間的スパンのかけ離れた3つのパートが比較的短いクロスカッティングでつぎつぎにモンタージュされてゆく。それぞれ並列的に語られてきたそれら3つの物語は、映画の終盤で一挙に結びついてゆくことになるのだが、観客の多くは、複数の時間軸が、臨場感溢れるリアルな視聴覚体験と複雑に絡まりあいながら展開するこの演出に終始翻弄される。いうまでもなく、こうした語りの時系列の複雑化や時間軸の錯綜化といった演出は、出世作『メメント Memento』(2000年)から近年の代表作『インセプション Inception』(2010年)、『インターステラー Interstellar』(2014年)にいたるまで、ノーランの映画を色濃く特徴づける要素でもある。また、このノーラン作品のような「1990年代以降、古典的なストーリーテリングの技術を拒絶しつつ、それらを複雑化する映画作品のポピュラーな潮流」[★3]が総じて「パズル映画 Puzzle Films」などと呼ばれ、2010年代の映画研究の分野でさかんに取りあげられるようになっていることは、昨年のイエジー・スコリモフスキ監督『イレブン・ミニッツ 11 minut』(2015年)を取りあげた回(第9回)でも触れたとおりだ。

 たとえば、『ダンケルク』ではふたつの相互にかけ離れた状況に、おそらく意図的に類似するイメージをちりばめることで、それらを主題的に重ねあわせるような演出が複数見られる。映画の中盤あたり、浜辺に打ちあげられた漁船の船内に撃ちこまれた銃弾の穴から幾筋も水が侵入し、溺れそうになる船内のトミーたちの状況を描くシークエンスは、同様に、海上に着水したものの、コックピットの風防が開かず、やはり下から侵入してくる海水に溺れそうになるコリンズの姿と、イメージのレヴェルでシンクロする。あるいは、映画後半ではドーソンの船に向かって飛来するドイツの戦闘機は、やはりそのシーンと細かくモンタージュされる、ドイツ機を追撃するファリアのスピットファイアの機影とオーヴァーラップすることになるだろう。とはいえ、以上のようなシークエンス間に張り巡らされたいくつもの主題的類似が、逆に本作のかかえる高度のパズル性やモザイク性──つまりは、この連載でいう「ポストシネマ性」をなおのこと強調することにもなっている。

 このように、『ダンケルク』には物語のリニアな進展を絶えず脱臼し、パズル的に分解するような要素が垣間見られ、逆にいえばそこにはストーリーを段階的に語っていこうとする志向の希薄さが見られる。また、そうした作品世界の全体性を堅固に構築しようとする視点の希薄さは、『ダンケルク』についてはさらに物語の叙述やキャラクター表現の演出においてもいえるだろう。たとえば、本作はダンケルクの戦いを忠実に再現しているとはいえ、物語は冒頭からトミーがさまよい出る灰色の曇天の立ちこめたダンケルクの砂浜へと唐突に観客を投げだす。つまり、古典的な戦争映画において常識的な、観客を物語世界や登場人物にスムースに感情移入させるために必須な状況説明や前提──本作でいえば、このシーンの前後に本来描かれる(説明される)べき、ドイツ軍機甲師団による連合国軍の包囲からウィンストン・チャーチルによる作戦の決断、そしてのちに撤退作戦成功の重要な一因となったドイツ軍の電撃戦の一時停止……などといった文脈の描写がいっさい欠落しているのである。

 そうしたファジーなシチュエーション設定は、まさにこれも戦争映画の定型からは大きく逸脱する、本作における「敵」=ドイツ兵の姿の不在に決定的に表れている。『ダンケルク』において、主人公たちの生命を脅かす敵の存在感は、ほとんどない。それはドイツ空軍の爆撃機による上空からの空爆に限定されており、映画冒頭の広い街路ではじまる銃撃戦や、中盤でトミーやギブソンが隠れる漁船の薄暗い船内に外から浴びせられる銃撃も、発砲と被写体のそれぞれの位置関係は──常識的な演出から考えれば稚拙と思えるほど──ひどくあいまいにモンタージュされている。

 これと似たような演出はこのほかにも『ダンケルク』の全編に横溢しており、たとえば、Uボートの魚雷を受けて、乗りこんでいた掃海艇が爆破され、船内から海中へと必死に脱出しようとするトミーら兵士たちを描いた緊迫するサスペンスシーンでは、ショットはフラッシュカット的に極端に断片化され、状況の推移はほとんど客観的に明示されない。あるいは、その後、トミーとギブソン、アレックスは海中から救出され、なんとか浜辺までたどり着くが、その間の、おそらくはかなり長い過程も一挙に飛ばされてしまう。そのため、あの窮地からかれらがどのように助かったのか、観客のなかにはいささか唐突に感じる者もいるはずだ。したがって、作中の人物たちと、それを眺める観客たちは、物語が描く作戦の現状がどうなっており、どこまで進行しているのか、あるいは進展しているのか阻害されているのかすらまったくわからないまま、細切れに分断された宙吊りの時間を体験し続けることになるのだ。これらの本作の特徴もまた、いうまでもなく古典的映画の規範からは大幅に逸脱したものである。

密室と群れの氾濫


 思えば、こうした孤絶し、断片化したシチュエーションは、『ダンケルク』の映画世界に氾濫する「密室空間」の形象に端的に視覚化されているともいえる。本作では、スピットファイアのコックピットはもちろんのこと、トミーらが最初に乗りこむ掃海艇からのちに侵入する浜辺の漁船、そして謎の英国兵(キリアン・マーフィー)が閉じこめられるドーソンの船の客室にいたるまで、登場人物たちは何らかの形で外部との連絡を断たれた閉鎖空間に閉じこめられる。ちなみにこうした閉鎖空間は、初期の習作的短編『Doodlebug』(1997年)から最近の『インターステラー』にいたるノーラン作品でしばしば登場する舞台であり、またここには隣接する主題系として、『フォロウィング Following』(1998年)や『プレステージ The Prestige』(2006年)など、これもノーランがしばしば画面に登場させる「箱」のモティーフとも密接に共鳴しているだろう。ともあれ、『ダンケルク』に散らばった密室は、そうした全体性や固有性から分断された、曖昧模糊としたひとびとの生の輪郭を的確に表現している。

 最後に、そうした傾向は本作におけるノーランのキャラクター描写においてもどこか共通している。『ダンケルク』は一種の群像劇であり、じつに多くの人物が登場するが、いっけんして感じるのは、酸素マスクで顔を覆ったファリアはもちろん、かれら全員に共通する表情や個性の徹底した希薄さである。トミー役のフィン・ホワイトヘッドをはじめ、俳優たちが演じる兵士はいずれも特徴を欠いた棒人間のようなたたずまいを放っており、映画はそうしたかれらをさまざまな点で非個人的な「群れ」としてのみ捉える。たとえばそうした特徴は、やはりかれら兵士が密室空間にぎゅうぎゅうに詰めこまれる掃海艇の船内や浜辺の漁船のシークエンスにもっとも顕著に見られるだろう。掃海艇の船内や漁船の内部のシーンでは、映画のキャメラは、狭く薄暗い空間に所狭しと押しこまれている兵士たちの姿を捉えるが、そのショットではこのうちトミーら画面手前に立つ人物のみに焦点をあわせており、それ以外の対象は全体を浅いシャロウ・フォーカスで写しだす。このシーンの演出は、このほかの海上にいるドーソンらのシーン、そして空中のファリアらのシーンがいずれも手前から奥まではっきりとピントがあっているパン・フォーカスの手法で撮られているために、より映像上のコントラストが強調されることになる。したがって、イメージの次元においても、トミーら兵士たちはどこか個々の容貌や身体がたがいに溶けあい、アメーバのように匿名的な個体にまとまってゆくような印象を感じさせることになる。そして、その印象は、まさにこのなかの浜辺の漁船に侵入したまま出られなくなるシーンで、トミーとともに脱出してきた「ギブソン」という兵士のアイデンティティが突如、あいまい化し、宙吊りになる展開で、主題的にもはっきりと裏打ちされるだろう。

 いずれにせよ、以上のような理由のために、『ダンケルク』は、その「ファジー・ウォー」としての様相を強めてゆく。そして明らかなように、本論の冒頭に描写した、『ダンケルク』のラストでノーランが示す、おびただしい砂浜のヘルメットのショットは、こうした曖昧模糊とした主体のありようを象徴的に示しているのだ。したがって、それは『プライベート・ライアン』のように愛国心に訴えかける史実を描き、また観客を強烈な視聴覚体験へと巻きこみながらも、よくある戦争映画のように、特定の政治的イデオロギーをいっさい感じさせず、また映画が終わったあとの物語的なカタルシスも奇妙にもほとんど感じさせないのである。

「見ること」からのへだたり


 さて、このように『ダンケルク』には、ハリウッドの従来の戦争映画でよく見られる、わかりやすいカタルシスを喚起する演出やストーリーテリングは徹頭徹尾抑制されている。こうした『ダンケルク』の映画世界からは、さまざまな解釈の線をゆたかに引くことが可能だろうが、ここではこれらをいかに意味づけておけばよいだろうか。

 さしあたり「ポストシネマ的」な視点から示唆的に思われるのは、『ダンケルク』における視覚をめぐる主題系だと思われる。『ダンケルク』は、繰りかえすようにその映画自体は観客に強烈な視聴覚的臨場感をもたらす演出を氾濫させている。だが他方で、その作品世界に存在するキャラクターたちにとっては、いわば「見ることに対する不能性」に一貫して立ち会い続けるという物語にもなっている。

『ダンケルク』において固有の状況に投げこまれたひとびとはいちように、自らの状況が「視覚的」に把握できないという感覚をことあるごとに口にする。たとえば、ファリアはスピットファイアで出撃したあと、仲間のコリンズから敵は太陽に隠れて現れるから気をつけろと声をかけられる。ここにはすでに述べた本作における「敵の不可視性」という要素が顔を見せているのだが、その後、ファリアのスピットファイアは、あたかもこうした敵のはらむ不穏な不可視性に脅かされたかのように、操縦席に設置された、残量を視覚的に確認するための燃料計を破壊されてしまうのだ。つまり、ここでかれはやはり自らの状況を視覚的に確認する術を失うことになるのである。

 あるいは、このファリアとよく似た状況は、やがて陸地や海上にいるそのほかの人物たちにもおよぶことになる。漁船の内部に侵入し、潮が満ちて船が浮くのを待っているトミーたちもまた、当然ながら外部の状況を視覚的に確認することができない。したがって、漁船の持ち主であるオランダ人の男がやってきたときも、かれらは男の姿や動きをただ「足音」という聴覚的要素をつうじてのみたどることになる。また、こうした視覚的な不能性は、作中ではダンケルクに戻ることを拒絶し、船内で暴れまわる英国兵に突き飛ばされたジョージが、頭部に致命的な傷を負って横になりながらつぶやく、何も見えないという言葉にもっとも端的に示されてもいた。

 そして、この「何も見えない」という状況は、結局、本作の物語が終盤にいたるまで変化はない。実際、物語の終わり近くで、兵士たちに毛布を配る老人はかれらの顔をその視線でまなざすことは決してしないのだし、あるいは、その後、トミーとともに列車に乗りこんだアレックスにせよ、かれらに対して窓外から呼びかけるある人物に対し、「見ないぞ」と向かいに座るトミーに呼びかけるのである。むろん、たとえばなかには長年の経験から、そのロールス・ロイス製エンジンの唸りだけを耳にして、むしろ姿を視覚的に捉えずともスピットファイアを特定できるドーソンのような「見ることの不能性」をポジティヴに受け入れている人物も登場する。しかしながら、いずれにしても『ダンケルク』の人物たちは、本来、人間がもちうる視覚による世界把握の能力から決定的にへだてられている。その代わりに、トミーたちや、あるいは毛布を渡すさいに片手でトミーの顔を撫でる老人のように、かれらはむしろ音響(聴覚)や感触(触覚)によってこそその世界の茫洋とした輪郭をたしかめるのだ。おそらく、この映画の世界で視覚の権能を十全に行使しえているのは、ほぼ唯一、状況の具体的な進展にはほとんど介入せず、防波堤でなかば傍観者的に推移を見守るボルトン海軍中佐(ケネス・ブラナー)のみといってよい。眼下に広がる海原を双眼鏡で覗き、いち早く故国の船をそのなかに見いだすボルトンの姿は、まさにこの映画において超越的な視座から視覚によって世界を統御しうる人間として描かれている。

 思えば、視覚に対するこうしたへだたりの感覚もまた、やはり『プライベート・ライアン』にも見られるスピルバーグ的な映画的感性とは対極的である。というのも、スピルバーグ作品に初期から一貫して見られる典型的な主題系とは、むしろ「見えないもの」(表象不可能性)の克服、当初は画面には可視化されていなかった潜在的な対象や記号が、物語の進展や人物の成長に伴って、次第に「見えるもの」(表象可能なもの)となるというプロセスのカタルシスにこそあるからだ。むろん、そのなかには「ホロコースト」という出来事の「表象(不)可能性」をめぐって世界的な論争にまで発展した『シンドラーのリスト Schindler’s List』(1993年)も含まれているが、この『プライベート・ライアン』もまた、膨大な数の戦場の兵士のなかから当初は不可視化されているたったひとりのライアン二等兵を見つけだす=可視化させるという意味で、まぎれもなくスピルバーグ的な主題を反復していた物語であった。そう考えると、ここでも『ダンケルク』は、そうしたスピルバーグ的な見ること=まなざしの志向性から、決定的に遠くへだたった地点へと行きつく映画であるといえる。

 ともあれ、『ダンケルク』を彩るこうした「視覚=見ること」からの遊離、あるいは視覚的な不能性の主題が、ここまでに指摘してきた作品世界のさまざまなファジーさ、ひいてはその裏にあるポストシネマ性の手触りと結びついていることは明らかだろう。もとより、視覚が担う知覚的特性=パースペクティヴとは、ごく簡単にいえば、世界を統一的・連続的な地平のもとに輪郭づけ、全体化し、俯瞰する力にある。そして、いささか話を大きくすれば、よくいわれるように、写真や映画といった視覚的な複製メディアの発明に行きつく近代西欧固有の知とは、こうした「視の体制」(マーティン・ジェイ)に一貫して彩られてきたものであった。そして、そうした視の体制の内実を20世紀においてもっとも象徴的に体現するイメージとして、まさしく「映画観客」の主体が現代思想やメディア論の分野でしばしば語られてきたこともよく知られるとおりだ。そう、その意味で、『ダンケルク』においてひとり、双眼鏡を覗いて広大な海原を鳥瞰し、あらゆる光景を視覚におさめていたボルトンは、まぎれもなく「映画観客的」な主体としてたたずんでいた。

 だが繰りかえすように、一方でノーランは、トミーやファリアをはじめとするこの映画のなかのほとんどの人物たちを、そうした「視の体制」に基づいたまなざしの圏域から逃れさせようとしているように見える。そしてその代わりに、この映画作家は、かれらを、ときには見ること=視覚への集中から解放し、かつてベンヤミンらが述べたようなファジーな「気散じ」の状態へと追いこみ、またときには視覚以外の複数の感覚のはざまに立ち止まらせる。おそらくはこうした、「見ること」から距離を置くことや、「見ること」以外の諸感覚をざわめかせること。これらもまた、かつての「シネマ」の彼方にあるものだろう。ノーランが描きだす「ファジー・ウォー」は、はっきりとポストシネマをめぐる戦線を形作っている
 

★1 たとえば、「『ダンケルク』は、時間との戦いを描くサスペンス。生き残ろうとするひとびとを描くスリラーだ」、『ダンケルク』劇場パンフレット、2017年、21頁を参照。
★2 断っておけば、映画冒頭の瞳へのズームのオーバーラップによるスムースなモンタージュによって、物語の終盤にいたるまで、現代のシーンの老いたライアンと、過去のシーンの大尉を同一人物だと観客に錯覚させる(つまり、本作の中盤の戦場シーンはライアンによるいわば「擬似的な回想」として仮構される)『プライベート・ライアン』の奇妙なナラティヴも、公開当時の批評では古典的ハリウッド映画の定型を逸脱する演出として議論された。とはいえ、パズル映画全盛の現在の眼から見直すと、いまではむしろその演出のまっとうさのほうが印象に残るように思われる。
★3 Buckland,Warren . “Introduction: Puzzle Plots.” Puzzle Films. edited by Warren Buckland, Wiley-Blackwell, 2009, p. 1.
 
『新記号論』『新写真論』に続く、メディア・スタディーズ第3弾

ゲンロン叢書|010
『新映画論──ポストシネマ』
渡邉大輔 著

¥3,300(税込)|四六判・並製|本体480頁|2022/2/7刊行

渡邉大輔

1982年生まれ。映画史研究者・批評家。跡見学園女子大学文学部准教授。専門は日本映画史・映像文化論・メディア論。映画評論、映像メディア論を中心に、文芸評論、ミステリ評論などの分野で活動を展開。著書に『イメージの進行形』(2012年)、『明るい映画、暗い映画』(2021年)。共著に『リメイク映画の創造力』(2017年)、『スクリーン・スタディーズ』(2019年)など多数。
    コメントを残すにはログインしてください。

    ポスト・シネマ・クリティーク

    ピックアップ

    NEWS