アンビバレント・ヒップホップ(15) 変身するラッパーの身体を演じよ!|吉田雅史

初出:2018年10月26日刊行『ゲンロンβ30』
1 ラッパーはスーパーヒーローなのか
前回は、ヒップホップのMVに表れる「群衆」の特異性から、ラッパーの「顔」に目を向けた。ヒップホップのジャケットにおけるラッパーの顔は、特に近年、デフォルメされたイラストや加工されたイメージで表現されることが多く、それはラッパーがリリックのなかで歌っているキャラクターへの変身願望の表れなのではないかと仮説を立てた。
そしてこの変身願望が露わになっている例として、ウータン・クランというヒップホップグループの成立過程と、そこに影を落とすマーベル・コミックスの関係を取り上げた。マーベルとヒップホップの関係性は深い。ラッパーたちはリリックのなかで自身をスーパーヒーローたちに重ね合わせる。そこにはスーパーヒーローとは誰もが抱きうる変身願望の結実であることと、ラッパーもまた変身願望を匿う存在であることの共鳴が見て取れるだろう。
さらにマーベル公式のイラスト集のなかには、逆にスーパーヒーローたちがヒップホップのクラシックアルバムのジャケットに写るラッパーを模したものさえある[★1]。ここでは、スーパーヒーローたちがラッパーのいわばモノマネをしているという、些か倒錯的な関係が成立している。これまでの連載で見てきたように、あるいは後述するように、ラッパーもまた、「リアル」を演じるフィクショナルな存在である。しかし共にフィクショナルな存在であるとはいえ、なぜ両者の交流はここまで密なのだろうか。両者の共通項とは一体何だろう。
美学研究の高田敦史は「スーパーヒーローの概念史」と題した論考で、文字通りスーパーヒーローの小史をまとめている[★2]。そのなかで高田は、コミック研究者のピーター・クーガンによるスーパーヒーローの定義を紹介し、次の3点に要約している。典型的なスーパーヒーロー像とは、①正義のため、②人間を超えた力を持って、③派手なコスチュームとコードネームで活動するキャラクターである。
ラッパーをスーパーヒーローに見立てた場合、②と③における類似性を指摘するのは難しくないだろう。②についてはまさにラップのスキル──楽器の演奏のようなテクニカルなフロウや、巧みなストーリーテリング、韻を踏みながら相手をディスるフリースタイルバトルのスキル──がラッパーの必要条件である。さらに③については、ラッパーは数々のモードや独自のコードを持つヒップホップファッション──ゴールドチェーンや高級時計からブランド品の数々、そしてジャージ、スニーカーにハットやキャップ、サングラスなど──に身を包んでおり、アーティストごとの愛用のファッションがはっきりしている場合、それが独自のコスチュームのように機能する。そして彼らはラッパーネームを持つばかりか、「AKA(As Known As)」で表記される変名をいくつも持っているのが普通だ。
それでは残りの①についてはどうだろう。正義のために戦う。これはその戦いに大義名分があるかどうかと翻訳可能かもしれない。しかしいずれにせよ、フッドをレペゼンするために戦うヒーローとしてのラッパーを想定してみたところで、ときに口汚く相手を罵り、犯罪沙汰がハクを付けることになるような「ラッパー」と「正義」という言葉を並置したときの違和感は、いかんともし難いだろう。
だが実はスーパーヒーローたちもまた、同様の「違和感」を抱えているのだ。
どういうことか。事実、正義のためといった道徳的規範を持つのは、いわゆるゴールデンエイジと呼ばれる戦前戦中のスーパーヒーローたちなのだ。具体的にはスーパーマン、バットマンなどがこれにあたる。
一方でシルバーエイジと呼ばれる50年代から60年代のスーパーヒーローたち、特にファンタスティック・フォーの登場以降、この前提は変化する。彼らのなかから、まさにヒーローとモンスターの中間的な存在が登場するのだ。より日本の読者に馴染深いと思われるアベンジャーズを取ってみても、仲間同士で喧嘩が絶えないし、道徳的規範だけが彼らを律しているわけではないのは明白だ。たとえばハルクの存在はどうか。彼は怒りや憎しみによって駆動され、ときに暴走する。モンスタラスなヒーロー。これはまさに一定のラッパー像を言い当てているようではないか。
ラッパーを品行方正なゴールデンエイジのスーパーヒーローに重ね合わせるのは現実的ではないにせよ、成功して名を上げたラッパーたちは、たとえば彼らの出身のフッドの子供たちにとって、ヒーローにほかならない。2パックはかつて「Young Niggaz」と題された曲でフッドの若者たちに向け、「ドラッグディーラーじゃなくて会計士にもなれる、弁護士にもなれる」と歌った[★3]。若者たちは、そのように歌うラッパーの彼にこそ、憧れのまなざしを投げかけたに違いない。また、ケンドリック・ラマーはインタビューで、彼のファンが彼の言葉をあまりにシリアスに受け取っていることへの驚きを口にしている。実際に死を選ぼうとしていたところを、彼のラップに救われたと告白されたという。ラッパーの言葉はときに彼らにとっては聖句のように響き、生きるための糧となる。
彼らがヒーローと目される理由のひとつは、ゲットーやプロジェクト(低所得者団地)から脱出するには、バスケの選手になるか、あるいはラッパーとして成功するしかない、という言説がいまだに流通している実態があるからだ。
ラッパーにとって成功とは何か。1990年頃までのオーセンティックなヒップホップにおいては、商業的な成功は特にセルアウトと揶揄され、忌避された。しかしヒップホップが、あるいはラップ・ミュージックが商業的に巨大になるにつれ、成功に伴う成金、成り上がりというイメージは肯定されていく。それはラッパーがその手で掴み取った成功であり、ひいては出身のフッドのレペゼンにもつながるからだ。フッドやコミュニティへの恩返しにチャリティーイベントを行うラッパーも多い。
しかし当然、成り上がりへの道は、綺麗事だけでは済まされない。クール・G・ラップは「Road to the Riches」のなかで、ストリートのビジネスで成り上がることの危うさを描いている。音楽業界で成功を掴むラッパーたちは皆多かれ少なかれ、ダーティなストリートの現実に対峙している。たとえギャングスタラッパーでなくとも、成功するラッパーのイメージは、クルーのボス、親玉、ドン、キングといった存在に重ね合わせられることも多い。そのような存在として君臨することへの欲望に裏打ちされている。
そしてそのような欲望の顕現は、またしてもMVのなかに見られるのだ。どういうことか。
彼らがヒーローと目される理由のひとつは、ゲットーやプロジェクト(低所得者団地)から脱出するには、バスケの選手になるか、あるいはラッパーとして成功するしかない、という言説がいまだに流通している実態があるからだ。
ラッパーにとって成功とは何か。1990年頃までのオーセンティックなヒップホップにおいては、商業的な成功は特にセルアウトと揶揄され、忌避された。しかしヒップホップが、あるいはラップ・ミュージックが商業的に巨大になるにつれ、成功に伴う成金、成り上がりというイメージは肯定されていく。それはラッパーがその手で掴み取った成功であり、ひいては出身のフッドのレペゼンにもつながるからだ。フッドやコミュニティへの恩返しにチャリティーイベントを行うラッパーも多い。
しかし当然、成り上がりへの道は、綺麗事だけでは済まされない。クール・G・ラップは「Road to the Riches」のなかで、ストリートのビジネスで成り上がることの危うさを描いている。音楽業界で成功を掴むラッパーたちは皆多かれ少なかれ、ダーティなストリートの現実に対峙している。たとえギャングスタラッパーでなくとも、成功するラッパーのイメージは、クルーのボス、親玉、ドン、キングといった存在に重ね合わせられることも多い。そのような存在として君臨することへの欲望に裏打ちされている。
そしてそのような欲望の顕現は、またしてもMVのなかに見られるのだ。どういうことか。
2 姿勢のテマティスム
今回MVの映像で注目したいのは、ラッパーたちの「姿勢」だ。多くのMVにおいて、ラッパーたちは一体どんな姿勢を取っているか。たとえば映画『キング・オブ・ニューヨーク』の主人公フランク・ホワイトの名をAKAに持ち、ビギー・スモールズの愛称で呼ばれるノトーリアス・B.I.G.の「One More Chance」を見てみよう。彼は、ベラスケスが1650年に描いた《教皇イノケンティウス10世の肖像》のように、玉座を思わせる豪奢な椅子に腰掛けている。その他の場面でも、ハウスパーティの会場の階段や、ベッドサイドに座っている。「Warning」でも同様にベッドやオフィスの革張りの高級チェアに腰を下ろしている。「Big Poppa」でもパーティのソファに座っている。
あるいはラッパーのなかでも最もビジネスにおいて成功したうちのひとり、ジェイ・Zはどうか。「Show Me What You Got」ではフェラーリやクルーザーの運転席に腰を下ろし、「Dead Presidents」ではストールのようなチェア、「Feelin’ it」では靴磨用の椅子やクルーザーの運転席、そして浜辺の食卓に腰掛ける。さらには商談、車の運転、パーティのシーンから成る「Can’t Knock The Hustle」のMVでも、ほぼ全編を通して座っている。
ノトーリアス・B.I.G.やジェイ・Zは、ヒップホップ界のキングたる称号を手中に収めている。そんな成功者たちにふさわしい姿勢とは、様々な椅子に座っている姿勢なのだ。そしてこれらの椅子とは、高級車やクルーザーのシート、パーティのVIP席、オフィスの革張りチェアといった、一様に成功者しか座ることのできないものだ。まさにヒップホップ界で「キングの座」を手に入れたことを、これらの椅子に座ることで主張しているようだ。
なかでも象徴的なのは、前述の「One More Chance」でビギーが腰掛ける玉座だ。赤い革張りに、金色の装飾。ビギーの姿勢は、リラックスしつつも、いつ襲ってくるか分からない敵に対しての緊張を崩していないようにも見える。
芸術学者の多木浩二は、このような玉座に座る王の姿勢を「僅かに後ろに倒れた『背』にゆったりと靠れかかっているが、威厳を失うほどには姿勢を崩していない」と表現している[★4]。多木は、中世からバロックにいたる西欧の椅子の発展の歴史にはふたつの種類の身体が関わっていると指摘する。
それは儀礼的身体と、快楽の身体だ。前者は、たとえば宮廷で威厳を保つ権力者の身体だ。王は玉座に座り、高位の聖職者や貴族はベンチに腰掛け、位の低い人々は立っているというように、宮廷の面々の立場が姿勢と結びついている。
そして後者の「快楽の身体」は、単純に生理的な欲求に結びついている。16世紀末から17世紀にかけて、人々は椅子に座る際の生理的な快適さを求めるようになった。そしてそれまでも使用されていたクッションが椅子とひとつになり始める。すると、宮廷のような政治空間にも、快楽の要素が入り込むことになる。
ビギーとジェイ・Zについても、まずはキングとしての儀礼的身体が発現している。種々のMVを通して座り続けているのは彼らだけであり、残りの出演者たちは一様に従者のように側に立っているか、あるいは歩き回っている。たとえば「Feelin’ it」には、ジェイ・Zの靴を磨いたり、荷物を持ったり、食事をサーブする従者たちさえ出演している。例外的に座っていられるのは、たとえばビギーを見出したプロデューサーのパフ・ダディや、彼らが侍らせる女性たちだけだ。
そして同時に、そこにはもちろん快楽の身体の存在も認められる。彼らの玉座たるパーティルームのソファやビジネスチェアは、座り心地を重視していると思しき膨よかでリッチな革張りだ。高級車やクルーザーのシートにいたっては、言うまでもないだろう。
さらに多木が指摘するのは、エリアス・カネッティが著書『群衆と権力』のなかで、このような軟らかな椅子に座ることの現代的な意味について述べていることだ。カネッティは、現在において、それらの豪奢なシートはもはや玉座の象徴性を失っているにも関わらず、それはかつて生きた人間の身体の上に座った権力者の記憶を呼び覚ますというのだ。
それは儀礼的身体と、快楽の身体だ。前者は、たとえば宮廷で威厳を保つ権力者の身体だ。王は玉座に座り、高位の聖職者や貴族はベンチに腰掛け、位の低い人々は立っているというように、宮廷の面々の立場が姿勢と結びついている。
そして後者の「快楽の身体」は、単純に生理的な欲求に結びついている。16世紀末から17世紀にかけて、人々は椅子に座る際の生理的な快適さを求めるようになった。そしてそれまでも使用されていたクッションが椅子とひとつになり始める。すると、宮廷のような政治空間にも、快楽の要素が入り込むことになる。
ビギーとジェイ・Zについても、まずはキングとしての儀礼的身体が発現している。種々のMVを通して座り続けているのは彼らだけであり、残りの出演者たちは一様に従者のように側に立っているか、あるいは歩き回っている。たとえば「Feelin’ it」には、ジェイ・Zの靴を磨いたり、荷物を持ったり、食事をサーブする従者たちさえ出演している。例外的に座っていられるのは、たとえばビギーを見出したプロデューサーのパフ・ダディや、彼らが侍らせる女性たちだけだ。
そして同時に、そこにはもちろん快楽の身体の存在も認められる。彼らの玉座たるパーティルームのソファやビジネスチェアは、座り心地を重視していると思しき膨よかでリッチな革張りだ。高級車やクルーザーのシートにいたっては、言うまでもないだろう。
さらに多木が指摘するのは、エリアス・カネッティが著書『群衆と権力』のなかで、このような軟らかな椅子に座ることの現代的な意味について述べていることだ。カネッティは、現在において、それらの豪奢なシートはもはや玉座の象徴性を失っているにも関わらず、それはかつて生きた人間の身体の上に座った権力者の記憶を呼び覚ますというのだ。
もちろんヒップホップゲームにおいても成功者はほんのひと握りにすぎず、ビギーやジェイ・Zのキングの座を支えているのは、無数の名もなきラッパーたちであり、あるいはラッパーを目指すことのなかったストリートの住人たちだ。しかしヒップホップを支えるコミュニティの考え方からすれば、キングとは、彼ら(=身体の上に座られた人間たち)の母集団があったからこそ誕生できるのだと言える。つまり翻って、出身のフッドやコミュニティが見えず、ぱっと出で登場し成功を手にするようなアーティストとは違い、キングを名乗る座につくことこそが、彼の属するコミュニティを可視化するのだ。
実際ストリートにおいて、座るという姿勢は、権力の記号というだけではない。
ここに、とある貴重なホームビデオが存在する。1989年、当時弱冠17歳だったビギーが地元ブルックリンのブロックパーティで音楽を楽しみ、フリースタイルをする様子を収めたものだ[★5]。ブロックパーティで音楽に興じるストリートの住人たちには、座ってくつろいでいる者も多い。彼らは一体どこに座っているか。露店から借り受けたと思しき椅子や、車のボンネット、そしてゴミ箱の上。
王座を持たざる者のためにも、ストリートは座る場所を提供するのだ。思えばブロックパーティとは、高級機材やイベント開催のクラブスペースを持たないがために、あり合わせの機材をかき集め路上で開催する、持たざる者のパーティだった。
つまり座るという姿勢は、ストリートにたむろすることの記号でもある。持つ者と持たざる者の両方を象徴するアンビバレントな記号。
近い将来、ヒップホップ界の王座に座ることになるビギーことノトーリアス・B.I.G.が、このビデオが撮影された時点ではストリートの側にいることが、全てを象徴していると言っても過言ではないだろう。座るという姿勢のアンビバレントさと、この記号を引き受けるヒップホップコミュニティの有り様が、ここに示されているのだ。
実際ストリートにおいて、座るという姿勢は、権力の記号というだけではない。
ここに、とある貴重なホームビデオが存在する。1989年、当時弱冠17歳だったビギーが地元ブルックリンのブロックパーティで音楽を楽しみ、フリースタイルをする様子を収めたものだ[★5]。ブロックパーティで音楽に興じるストリートの住人たちには、座ってくつろいでいる者も多い。彼らは一体どこに座っているか。露店から借り受けたと思しき椅子や、車のボンネット、そしてゴミ箱の上。
王座を持たざる者のためにも、ストリートは座る場所を提供するのだ。思えばブロックパーティとは、高級機材やイベント開催のクラブスペースを持たないがために、あり合わせの機材をかき集め路上で開催する、持たざる者のパーティだった。
つまり座るという姿勢は、ストリートにたむろすることの記号でもある。持つ者と持たざる者の両方を象徴するアンビバレントな記号。
近い将来、ヒップホップ界の王座に座ることになるビギーことノトーリアス・B.I.G.が、このビデオが撮影された時点ではストリートの側にいることが、全てを象徴していると言っても過言ではないだろう。座るという姿勢のアンビバレントさと、この記号を引き受けるヒップホップコミュニティの有り様が、ここに示されているのだ。
3 ストリートという劇場
それにしても、ビギーのブロックパーティでのフリースタイルの動画は非常に示唆に富んでいる。彼のフリースタイルは、この日のブロックパーティで長時間マイクを握っている別のラッパーをディスる内容だ。あまりの完成度の高さに観衆からは悲鳴にも似た歓声が上がり、ディスられた当のラッパーはあまりのいたたまれなさに、その場から去ってしまう。まるで仕込まれたショウを見ているようだ。しかし一方で、これがストリートという公共の場で、仕込みなしの完全即興で行われたことは明らかなのだ。それではこれは一体、何なのだろうか。
もうひとつ例を挙げよう。このビデオから約4年後の1993年、ニューヨークのキングに向け歩みを進めつつあったビギーが、ウエストコーストのキングのひとりである2パックとふたりでテーブル越しに相対し、フリースタイルを始める動画が存在する[★6]。このわずか2、3年後に2パックがビギーをディスり始め、東西抗争に巻き込まれる形でふたりとも凶弾に倒れるとは、誰が予想できただろう。ふたりの間には、ごく親密な空気が流れている。冒頭、ビギーからフリースタイルを促された2パックは、まずは素で「フリースタイルするのが怖いぜ」とつぶやく。しかし次の瞬間、同じ文言を、フロウに乗せて発語する。この瞬間に、場の雰囲気は、変容する。素の語りから、ラップが始まる。
それではこの一瞬の切り替えに、一体何が宿っているのだろうか。一体何が、ふたりの単なる語らいを、フリースタイルのショウに変容させてしまうのか。
演出家のピーター・ブルックは、「なにもない空間」から演劇が始まることを指摘した。演劇において、特別な舞台は必要ない。誰かと誰かが出会い、それを見ている観客がいるだけで、そこには演劇が成立する、というのが彼の主張だった[★7]。
これまで見てきたように、ヒップホップのMVにおいては、一方で大規模な予算を投入した舞台装置が組まれていた。しかし他方で、ラッパーのリアルさを担保する「なにもない空間」が映り込んでいた。彼らのフッドの何気ない風景。そのような空間において、ラップは、フリースタイルやアカペラで突然開始され、聴衆やカメラがあれば途端に一種のショウとして成立する。どんな場所でも始めることができてしまう。
これを、なにもない空間で突然開始される、即興劇と見ることは可能なのだろうか。あるいは事前に書かれたリリックをラップするライブのステージを、一種の演劇だと見ることは。
この問いに答えるため、第1に俳優とラッパーの違いについて考えてみたい。成功したラッパーのキャリアとして、俳優という道があることは良く知られている。先述のフリースタイル動画に登場している2パックも、俳優として評価が高く、いくつかの映画に出演している。なかでも『ジュース』での名演は、まるで彼のリリックの世界の登場人物をそのまま演じているようなのだ[★8]。
しかしここではまず舞台俳優のケースを考えたい。俳優は、自伝的な戯曲を書いて自分自身で演じない限り、自分ではない誰かを演じる。一方でラッパーは、自伝的なリリックで、自分自身を演じる。いや、それは「演じる」ことなのだろうか。リアルを「演じる」とは一体どういうことなのか。どんなにリアルで自伝的なリリックだとしても、少なからずそこにラッパーとしての自分という「キャラクターを演じる」側面があるだろう。そしてそのことは結局のところ、俳優が自伝的な戯曲を元に自分自身を演じるケースにおいても同様なのだ。
自伝的な経験をベースにしていても、そこでは「キャラクターを演じる」、つまりフィクションの粘土を積み上げ整形する物語が展開される。そしてそのような物語は、人間の持つ限りない想像力によってどこまでも羽ばたくだろう。アイスキューブは、スタジオギャングスタとして、ギャングスタの物語を紡いだ。生粋のギャングスタを演じた。それは1人称のリリックだが、3人称のギャングスタの物語を、自ら乗っ取り、自らの口で語るのだ。
そのような例があるのだから、ラップというジャンルの多様性、さらなる発展を考えるなら、自伝的なリアルなリリックしか認められないという立場はすぐに棄却すべきではないか。誰の物語でも、本当のことのようにライムにしたため、本当のことのようにラップで表現する。前者には、劇作家の想像力──どんな言葉で、言い回しで、言語化するのか──が必要とされ、後者には、俳優の想像力──どんな声色で、表情で、身振りで、ラップするのか──が必要とされるだろう。
しかしここではまず舞台俳優のケースを考えたい。俳優は、自伝的な戯曲を書いて自分自身で演じない限り、自分ではない誰かを演じる。一方でラッパーは、自伝的なリリックで、自分自身を演じる。いや、それは「演じる」ことなのだろうか。リアルを「演じる」とは一体どういうことなのか。どんなにリアルで自伝的なリリックだとしても、少なからずそこにラッパーとしての自分という「キャラクターを演じる」側面があるだろう。そしてそのことは結局のところ、俳優が自伝的な戯曲を元に自分自身を演じるケースにおいても同様なのだ。
自伝的な経験をベースにしていても、そこでは「キャラクターを演じる」、つまりフィクションの粘土を積み上げ整形する物語が展開される。そしてそのような物語は、人間の持つ限りない想像力によってどこまでも羽ばたくだろう。アイスキューブは、スタジオギャングスタとして、ギャングスタの物語を紡いだ。生粋のギャングスタを演じた。それは1人称のリリックだが、3人称のギャングスタの物語を、自ら乗っ取り、自らの口で語るのだ。
そのような例があるのだから、ラップというジャンルの多様性、さらなる発展を考えるなら、自伝的なリアルなリリックしか認められないという立場はすぐに棄却すべきではないか。誰の物語でも、本当のことのようにライムにしたため、本当のことのようにラップで表現する。前者には、劇作家の想像力──どんな言葉で、言い回しで、言語化するのか──が必要とされ、後者には、俳優の想像力──どんな声色で、表情で、身振りで、ラップするのか──が必要とされるだろう。
だから、日本で言えば歌謡曲の作詞家と歌手が別々であるケースを考えてみれば、そこに大いなる可能性を見て取れるだろう。作詞家が想像力を駆使して誰かの物語を紡ぎ、歌手もまた別種の想像力を駆使してその物語を歌うのだから。あるいは特に演歌においては、男唄を歌う女性歌手のように、ジェンダーを交差するケースも多い。
そのようなケースにおいて働くラッパーの想像力は、俳優のそれとは違うのだろうか。自らで独白形式の戯曲を書き、自らで俳優として演じるのがラッパーではないのだろうか。そのとき想像力は、いわば第3者の──架空の人物の──独白を戯曲としてしたためるのに発揮される。さらには想像力を駆使して、その戯曲をベースにどのようにその人物をラップというフォームで演じるのかが策定される。
俳優はあるキャラクターを演じる際、そのキャラクターの身体をも想像する。俳優で演出家のマイケル・チェーホフはこの想像された肉体をイマジナリー・ボディと呼び、その肉体を「着物のように着る」のだと、「仮装」するのだという[★9]。このときイマジナリー・ボディは、現実の肉体と心理の丁度中間に位置し、その両者に影響を及ぼすという[★10]。
ラッパーの場合、このイマジナリー・ボディはまず何よりも、彼の声であるだろう。ラップをするときの声色、抑揚、感情表現、そしてリズムとフロウ。ケンドリック・ラマーのように様々な人物の視点で一人称のラップをする場合、彼はその人物の声色や感情を、文字通り仮装する。しかし自伝的なラップを中心に据える多くのラッパーの場合、自身の素の声と想像するリリック内のキャラクターとしての自己の声の間に、いわばイマジナリー・ヴォイスが立ち上がるのだ。
この「想像的な声」が発せられる瞬間に、ラップは開始され、フリースタイルはショウとなりうるのではないか。それはラッパーの輪郭が、実際の身体の稜線からズレ出す瞬間だ。
そのようなケースにおいて働くラッパーの想像力は、俳優のそれとは違うのだろうか。自らで独白形式の戯曲を書き、自らで俳優として演じるのがラッパーではないのだろうか。そのとき想像力は、いわば第3者の──架空の人物の──独白を戯曲としてしたためるのに発揮される。さらには想像力を駆使して、その戯曲をベースにどのようにその人物をラップというフォームで演じるのかが策定される。
俳優はあるキャラクターを演じる際、そのキャラクターの身体をも想像する。俳優で演出家のマイケル・チェーホフはこの想像された肉体をイマジナリー・ボディと呼び、その肉体を「着物のように着る」のだと、「仮装」するのだという[★9]。このときイマジナリー・ボディは、現実の肉体と心理の丁度中間に位置し、その両者に影響を及ぼすという[★10]。
ラッパーの場合、このイマジナリー・ボディはまず何よりも、彼の声であるだろう。ラップをするときの声色、抑揚、感情表現、そしてリズムとフロウ。ケンドリック・ラマーのように様々な人物の視点で一人称のラップをする場合、彼はその人物の声色や感情を、文字通り仮装する。しかし自伝的なラップを中心に据える多くのラッパーの場合、自身の素の声と想像するリリック内のキャラクターとしての自己の声の間に、いわばイマジナリー・ヴォイスが立ち上がるのだ。
この「想像的な声」が発せられる瞬間に、ラップは開始され、フリースタイルはショウとなりうるのではないか。それはラッパーの輪郭が、実際の身体の稜線からズレ出す瞬間だ。
★1 『Marvel: The Hip-Hop Covers』と題された公式のイラスト集で、2016年に第1弾が、翌年には第2弾が出版されている。
★2 高田敦史「スーパーヒーローの概念史──虚構種の歴史的存在論」、『フィルカル Vol.3, No.1』、株式会社ミュー、2018年。
★3 1995年にリリースされた彼の代表作のひとつ『Me Against the World』に収録。
★4 多木浩二『眼の隠喩──視線の現象学』、青土社(新版)、2002年、249頁。
★5 https://www.youtube.com/watch?v=H2pBir2psyg https://www.youtube.com/watch?v=f41tlq2KcVo&t=447s[編集部注:2022年2月22日現在、2本目の動画は非公開になっている]
★6 https://www.youtube.com/watch?v=Vi6TnG2SpvM[編集部注:2022年2月22日現在、動画は非公開になっている]
★7 ピーター・ブルック『なにもない空間』、晶文社、1971年、7頁。
★8 1992年公開。監督は『マルコムX』や『ドゥ・ザ・ライト・シング』などのスパイク・リー作品の撮影監督を務めたアーネスト・ディッカーソン。
★9 マイケル・チェーホフ『演技者へ!──人間―想像―表現』、ゼン・ヒラノ訳、晩成書房、1991年、158頁。
★10 僕たちはここで、スーパーヒーローの議論を思い出しても良いかもしれない。そして突然に超人ハルクというイマジナリー・ボディを着せられてしまった主人公の物理学者、ロバート・ブルース・バナーの戸惑いを想像してもいいかもしれない。冒頭で言及したマーベルのヒーローたちがヒップホップの名盤のジャケットをモノマネするイラスト集で、ハルクが「仮装」していたのは、紛れもない、ウータン・クランのメンバーのアルバムだった。


吉田雅史
1975年生。批評家/ビートメイカー/MC。〈ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾〉初代総代。MA$A$HI名義で8th wonderなどのグループでも音楽活動を展開。『ゲンロンβ』『ele-king』『ユリイカ』『クライテリア』などで執筆活動展開中。主著に『ラップは何を映しているのか』(大和田俊之氏、磯部涼氏との共著、毎日新聞出版)。翻訳に『J・ディラと《ドーナツ》のビート革命』(ジョーダン・ファーガソン著、DU BOOKS)。ビートメイカーとしての近作は、Meiso『轆轤』(2017年)プロデュース、Fake?とのユニットによる『ForMula』(2018年)など。
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