反復性と追体験──触視的メディアとしてのゲーム/アニメーション(後篇)|土居伸彰+吉田寛+東浩紀

初出:2019年1月25日刊行『ゲンロンβ33』
前篇はこちら「平面」という条件
東浩紀 それではディスカッションを始めたいと思います。ここまで、吉田さんからはゲームの持つ「メタ性」と「反復」について、土居さんからはゲームの「追体験性」について、それぞれぼくが『ゲンロンβ』で論じている「触視的平面」とも絡めた論点を提出していただきました。
まずは、吉田さんから土居さんへの質問はありますでしょうか。
吉田寛 土居さんの発表はとても刺激的でした。まずおうかがいしたいのは、土居さんがゲームとアニメーションを扱われるときに、「平面」をどう考えているかです。
触視的平面は、まさに平面上で視覚と触覚が錯覚として結びつくという話ですし、土居さんが触れられていた『君の名は。』の主人公ふたりの手が触れるシーンも、平面だからこそ起こるイリュージョンですね。「平面であること」はアニメーションにとって非常に重要な要素だと思います。しかしゲームにおいて平面は、必ずしもメディウム・スペシフィック(メディアに特有な性質)ではない。スクリーンでプレイするビデオゲームは平面ですが、ある種の「音ゲー」のようにスクリーンの外部にある身体でプレイするもの、あるいはアナログゲームまで考えると、平面性は必ずしも必要な条件ではありません。アニメとゲームの親和性を考えるうえで、そのちがいはどのように考えられているのでしょうか。
東 よい質問ですね。割り込むようで申し訳ないですが、その問いは、なぜわれわれが世界を認識する際に「平面」というメタファーを使い続けるのかという、より大きな問いに展開できるものだと思います。ぼくが直感的に思うのは、平面、つまり二次元は、現実空間より次元がひとつ少ないということです。だから、世界を単純化して表象せざるをえず、逆にそれによって世界について複雑なことを表現できる構造があるのではないか。
吉田 ヘーゲルは『美学』という著作で、芸術の進歩は「次元の縮減」の歴史だと言っています[★1]。彫刻から絵画への移行は、立体が平面に、つまり三次元が二次元になる過程です。それが音楽や文学になると、次元がさらにひとつ減って、時間だけが残る。ヘーゲルのユニークなところは、この次元の縮減と内面性の拡張をパラレルな関係で理解したところです。つまり、彫刻よりも絵画の方が、豊かな感情表現が可能である理由は、平面が立体よりも次元が一つ少ないからなのですね。今日からみれば問題含みの議論かもしれませんが、次元の縮減が別のなにかを生み出しているという観点はおもしろい。
しかし現在では、進歩の向きが逆転し、技術はむしろ次元を増やす方向へと進んでいるわけですね。それでも縮減の問題は考えないといけない。だからいまわたしが問うた平面の問題についても、異なる角度から眺められるのではないかと思いました。
土居伸彰 おもしろいですね。ぼくは「平面」について、『個人的なハーモニー』で「約束事性」という言葉を使って考えています。
アニメーションの平面には物質的な描写とそれが喚起する抽象的なイメージの二層があって、描写にイメージが加わることでその絵が生きているように見える。その二層の関係が「約束事性」です。ざっくり言えば、アニメーションの具体的な描写からどのようなイメージを受け取るかは、アニメーションの外の「約束事」によって決まるということです。
短編作家の作品を見ると、約束事性という一種の「メタ性」を意識させることが、アニメーションにとって重要だと感じます。ぼくがインディーゲームに見た可能性もそれに近い。けれども、それに対して次元を増やしていくアニメーション、写実性を増していくアニメーションがあり、それはつまり「約束事性」を機能させないアニメーションです。ぼくは、日常で見ている現実世界を切り取るだけのそういったアニメーションについては、批判したいと思っています。
しかしその一方で、平面の限界についても最近は考えています。約束事の機能する平面においては、「原形質性」の下で無制限に想像力の幅が広がる自由が保障されていますが、そうすると結局ひとは自分自身を見てしまう。『21世紀のアニメーションがわかる本』で初音ミクを例に出したように、人々はみな自分自身のミク像を作っていくんです。その延長線上には、さきほど語った『君の名は。』のような、自分自身と同質な宇宙しか見ないという状況が生まれる。
最近、こうした限界を超える可能性を、ウェス・アンダーソンの『犬ヶ島』(二〇一八年)のような人形アニメーションや、山田尚子の『リズと青い鳥』(二〇一八年)に感じました。これらの作品には、ある種の立体性を感じます。自分とはちがう異種がただ目の前にいるような表現に見えたんです。もしかしたら、三次元の世界を「約束事」を通して平面に縮減する「表象」というシステムのつぎのモードとして、タッチパネル以降の粘土をこねくり回すような新たな知覚の条件のなかで、人形アニメーションやCGアニメーションの立体性のほうがポテンシャルを持ちはじめているのかもしれない。もちろん、二次元のスクリーンでアニメーションが上映されることそのものに限界を感じているわけではありませんが、次元の縮減だけが表現の可能性を保証するようなことはないのではないか。

表象を再定義する
東 また直感的なことを言いますが、ぼくはアニメーションはとても触覚的なメディアだと思っています。映画をモデルにした表象文化論の伝統的な思考方法においては、どのようにシーンが切り取られているかという「フレーム」が重要視される。それに対して、ひとはアニメーションを見るときに構図をあまり気にしない。少なくとも、楽しみのいちばん大事なところは構図にはないのではないか。
ではアニメーションのいちばんの楽しみがどこにあるかというと、止まっているはずの絵が生き物のようにうねうねと動くという、きわめて原始的で触覚的な感覚にあると思うんです。それは誕生初期の実験的・前衛的アニメーションから現在の萌えアニメまで、ほとんど変わらない。
土居 わかります。ぼくは『個人的なハーモニー』のなかで、作品の細部を見る、蓮實重彦さんが言うような「表層批評」をしないと宣言しています。アニメーションを見ているときにはむしろ、映っているものから飛び出し勝手に他のことを考えてしまうこと、頭のなかで粘土をこねるがごとく思いもよらぬ方向に想像がスライドしていく状況こそが起こっているのではないかと思うからです。ぼくはそれを「原形質性」という言葉で呼びました。
東 吉田さんも土居さんも東大表象文化論出身で、今日はじつは表象文化論出身者三人の座談会なんですね。そういう意味で、今日の裏テーマは「表象の限界」ということのようにも思います。ゲームやアニメは、もはや表象の枠組みでは捉えられないのだと。
その点で考えてみると、「個人的」も「ハーモニー」も、表象文化論ではほとんど出てこない単語です。表象文化論では、「個人的なハーモニー」よりも「単独的な差異」とか言ったほうが受けがいい(笑)。勇気のある単語のチョイスだし、そこに土居さんの研究のオリジナリティがあった。
土居 ありがとうございます。
東 いま表象の限界と言いましたが、裏返すと、それがほんとうの限界なのかとも思っているんです。もともと「表象 representation」という単語には「上演」という意味もあります。そして上演が行われる劇場は、けっして見る/見られるという単純な二項関係が成立する場所ではなかった。たとえばシェイクスピアの時代には、舞台のすぐ横には王や貴族のパトロン席が設置されていて、それは客席のほうを向いていた。つまり、舞台を見るためではなく、客から見られるための席だったわけです。パトロンもまた演者だった。
その意味では、表象がイコール平面の表現であり、見る/見られるの二項対立を前提にしたものだとは必ずしも言えない。そのような議論は、表象について映画をモデルにして考えているから成立するにすぎない。逆にその観点から言えば、触覚性を表象のパラダイムに導入することで、もともとその言葉に含まれていた見る/見られるを超えた複雑な関係性を回復することができるとも考えられる。じっさい、さきほど名前が挙がったブレンダ・ローレルには『劇場としてのコンピュータ』という著書がありますが、これはインターフェイスを劇場の比喩で捉えようとしています。
アニメーションは平面だけど、それはもはや映画と同じ平面ではないし、タッチパネルも同じく映画とは異なる。それはもうヘーゲルの図式から外れた平面であり、次元の縮減では説明できない平面といったほうがいいのではないか。
吉田 なるほど。たしかに触覚性と平面性を結び付ける発想は、ヘーゲルの時代にはありえなかったと思います。
東 ゲームやタッチパネルにおいては、見る/見られるの二項対立に還元できない、触覚性を含む平面が現れているのではないかと思うんですね。
ぼくは『ゲンロン8』の座談会「メディアミックスからパチンコへ」で、『おさわり探偵 なめこ栽培キット』(ビーワークス、二〇一一年)に一瞬触れています[★2]。名前を挙げただけですが、このゲームは触覚性を意識して作られた、ある意味でゲーム性が高い作品です。といっても、常識的な意味での「ゲーム性」ではない。なにせ、スクリーンに指を走らせ、なめこをスライドして収穫するだけのゲームです。しかしそれがすごく気持ちいい。この感覚こそ新しいメディアが作ったものだと思います。そしてそれは美学的な問題だけではなく、現在の社会や政治について考えるうえでも重要な問題になってきているのではないか。
まだうまく言葉にできていませんが、「いいね」を押すというのは触覚の表象で、その「押す」という行為がいま社会を動かしつつあるように思えるんです。いままで触覚的快楽と学問や政治の正しさは別の世界で考えられていたけれども、現実にはペットを触ってめでることと、アイドルや政治家を押す=推すことがつながる回路が人間のなかにはあり、その回路が新たな技術に支援されてますます重要になる世界にわれわれはいるのではないか。けれどもぼくたちの思想的パラダイムでは、まだそのことについてうまく語れない。
民主主義や資本主義やメディアの問題となにかを触ると楽しいという原初的な感覚が、いままでは無関係だったにもかかわらず、突然関係するようになってしまった。触覚性を使って金儲けもできるし、政治家になることもできるようになってしまった。いままではつながることのなかった世界が、タッチパネルによって、幸か不幸かつながったんですね。
「メタアニメーション」は可能か
吉田 もうひとつ、アニメをめぐっておふたりに聞きたいのは「メタアニメーション」はあるかということです。さきほど発表したとおり、ゲームには、エミュレーションなどを使った「ゲーム内ゲーム」があります。それは「メタゲーム」の一種です。ゲームのなかでゲームをプレイすることが可能であるように、アニメーションのなかでアニメーションを見ることも可能なのでしょうか。東 ぼくから答えてよいですか。ぼくはじつは、メタアニメーションは普通のメタの意味では成立しない、まさにそれこそがアニメの特質だと思うんです。
これは平面の問題ではありません。じっさい、映画にはメタ映画がたくさんあります。ただそれはカメラの外部=現実を志向することで可能になる。けれどもアニメは、たとえアニメの外部を描こうとしたとしても、結局はそれも絵コンテどおり作画せざるをえないので、外側にたどり着けない。
ぼくがこう考えるのは、押井守のファンだからです。彼は、まさにメタアニメを本気でやろうとした作家で、そして挫折し続けた作家なのだと思います。押井の作品を見ていると、アニメではメタすなわちアニメ批判の試みが、どうしても「メタを描く」ということに回収されてしまうことがよくわかる。彼は本質的にアニメの作家なので、実写を撮っても同じ弱点が出ていて、「作品の外部」まですべて脚本どおりに作り込もうとしてしまう。結果として彼がもっとも得意としたのは、サイバーパンクでもメタフィクションでもなく、じつは楽屋オチ的なコメディです。彼はそういうかたちでしか、自分のメタ志向を展開できない。
メタというのは、つまりはジャンルの成立根拠を疑い、アニメを描くことそのものが無根拠だという感覚を表現することです。けれど、アニメでは、その感覚そのものをアニメとして表現してしまった瞬間に、問いのラディカルさが失われてしまうんですね。
土居 ぼくの意見は少しちがいます。ウェス・アンダーソンは、アニメーションには絵コンテがあるので偶然性がないと言われたときに、「それはものすごくゆっくり起きているんだ」と言ってます。これは重要で、アニメにおけるメタ性は、時間のなかに存在するのではないかと思います。空間的外部という意味でのメタはなくても、アニメーションを見る時間のなかで、メタを感覚することはできるのではないか。
いま押井の名が挙がりましたが、彼が繰り返し人形を描いていることも、そういった異物をはらんだ時間性を描きたかったからではないかと思います。つまり押井はメタを描くのではなく、メタな感覚を召喚するものを作り出そうとしているというのがぼくの見立てです。だからぼくは『スカイ・クロラ』(二〇〇八年)がいちばんすごいと思っています。
東 なるほど。人形のモチーフに押井のメタが別のかたちで現れている。その読解はおもしろいですね。『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(一九八四年)にまで遡っても、その読解は妥当な感じがします。人形の問題というのは、ぼくの言葉では「不気味なもの」の問題ということになります。
土居 作品自体のメタについても、不可能ではないかもしれないと思いはじめています。さきほども述べたとおり、アニメーションの表現には描写とイメージの二重性があります。ぼくのインディーゲームへの関心はそことつながっている。ゲームを操作している自分とは別のもうひとりの自分がゲームのなかにいるという感覚です。
東 吉田さんが指摘するゲームにおけるアイコンとオブジェクトの二重性[★3]は、土居さんが指摘する描写とイメージの二重性と連動している。だとすれば、ゲームでメタが可能なのだから、アニメでも可能ではないかということですね。
たしかに、デフォルメして描かれたキャラクターは、アニメの世界では人間として描かれているけれど、現実世界に存在するとしたら異形の存在でしかない。しかしわれわれはその両者を同時に認識している。現実とアニメーションの世界を二重で見る思考ができないと、アニメはそもそも鑑賞できないわけです。
土居 そのとおりです。ただ、これもさきほども述べましたが、最近はその傾向が変わってきて、たとえばピクサーのアニメーションにおける自然描写は、現実の自然以上に自然主義的です。そこには二重性はもはやない。ただこれはゲームも同じかもしれない。『ファイナルファンタジーXV』(スクウェア・エニックス、二〇一六年)をプレイしたときにも、やはり二重性を感じませんでした。ハイビジョンの映像がゴーグルなしでも立体に見えてしまうように、鑑賞者の主体性を完全に持っていかれるような感覚がありました。
吉田 メディアのなかで構築される世界がただのリアルな「環境」になってしまい、フィクションの空間ではなくなりつつあるということですよね。その点で、手描きのアニメーションとCGアニメーションでは大きな隔たりがあると。CGアニメーションにおいては、フィクションを通して現実をみるような態度、あるいはわたしの言葉でいえばアイコンとオブジェクトの二重性が、もはや成り立たない。言い換えれば、そこではフィクションと現実の二分法や、伝統的な芸術作品が要請してきた「としてみる」という鑑賞の態度が無効になっている、と。よく分かる話です。VR技術が導入されて以降のゲームでも、同様なことがいえると思います。
東 そういえば、ぼくは最近、ウィル・グラック監督の『ピーターラビット』(二〇一八年)を見ました。ピーターラビット初の実写化ということで話題になっていた作品で、じっさいすごい技術だったのですが、そこで描かれたあのウサギはいったいどんな存在なのだろうと考えてしまいました。けっして現実のウサギの描写ではないし、かといって単にCGによって擬人化されたウサギでもない。自然主義的描写とアニメ的デフォルメが微妙なバランスでブレンドされ、場面場面で重点がスイッチされているような感じがある。あそこではなにが起きているのか。
土居 それはたいへん重要で、『ピーターラビット』のウサギは、意味づけが不可能であるような次元に触れていると思います。言い換えれば、昔は自然現象に感じていた崇高さを、ぼくたちはCGアニメーションに感じるようになりはじめているのではないか。またオライリーの言葉になりますが、彼はCGを「野生のアニメーション」だと言っています。手描きのアニメーションは、作ったひととのつながりが切り離せない。それに対してCGアニメーションは、誰の手のものでもないイメージで埋め尽くされている。この指摘は、デジタル化以降のアニメーションの本質を突いていると思います。いまのアニメーションは、人為的・人工的に作られたイメージであるにもかかわらず、ほんとうの自然と同じぐらいに人間を圧倒する、新しい自然を作りはじめている。
東 なるほど。いまのアニメやゲームの表現は、現実の自然を表象しているわけではないけれども、かといって特定の作家=人間がコントロールしているわけでもなく、むしろ「新しい自然」を生み出しはじめているということですね。それはたいへん興味深い指摘です。
ちなみに『ピーターラビット』は、アニメーション史ではどういう文脈に位置づけられるんですか?
土居 そもそもアニメーションに分類されず、VFXの文脈で語られる作品だと思います。アニメーション史では語ることができないんじゃないか。
東 つまりあれはアニメーションではない!
吉田 なるほど。同様に、もしも「メタアニメ―ション」なるものがあったとしても、それは、その他の映像作品のジャンルに分類されてしまい、アニメーション史のなかには位置づけられないかもしれない、ということですね。興味深いご指摘です。ゲームでも同じようなことがいえそうです。たとえば、ノットゲームや、ある種のメタゲームが、ゲームではなくむしろソフトウェアやアプリケーション一般に分類され、その結果、ゲーム史のなかで正当な位置づけや評価がなされなくなってしまう、といった事態は十分ありえます。

反復・セックス・原始性
東 「反復」と「追体験性」の関係について少し議論をできればと思います。土居さんがキーワードとして出した追体験性は、異質な体験を自らのものとして生きることを意味しています。ただ、吉田さんが指摘したように、ゲームを通した追体験については、ゲームプレイの反復があるからこそ可能だという考え方も、むしろ反復であるから不可能だという捉え方もあると思います。そこはどうですか。
吉田 それは、発表でもご紹介した「同じだが違う性」の問題ですね[★4]。ゲームの構造やルールは毎回同じでも、そこから得られる体験やゲームプレイは一回一回ちがう。これは個人のレベルでもそうですし、他人と比べるなら、なおさらそうです。
わたしはゲーム研究の授業を大学でやっていますが、これがじつはきわめて難しいんです。というのも、映画ならば、もしもそれを見ていない人がいたとしても、教室で全員で一緒に見れば議論ができますが、ゲームは、基本的に個人がバラバラにプレイするものなので、全員で一緒にやってみるというのが容易ではない。そのため、議論の前提となる経験の共有が難しく、なかなか深い議論にならない。同じゲームタイトルをプレイした経験を語っていても、実際には遊んでいたバージョンやコンソールが違っていて、細かい部分で話が合わなくなる、ということもざらです。そうなるとお互い曖昧な印象に基づいた議論以上のことができなくなる。ゲームが学問的研究対象になりにくい理由の一つはここにあるのでは、とも思っています。とはいえゲームについての批評は成立しているし、前提や土台としてそれなりに共有されているものはあるのだろうと思っています。ただ、一般にゲームについては、その本質にある「同じだが違う性」をカッコに入れてはじめて共有体験として語れるんですね。
土居 ゲームについても、ナラティブやヴィジュアルの話題であれば共通理解もできると思います。ただ、ぼく自身がゲームでいちばん好きなところは、共通体験ができない部分ですね。そこにぼくは、自分の本で書いた「個人的なハーモニー」を感じる。それは、自分と世界しかないような圧倒的な感覚、自分が宇宙までつながってしまうような感覚です。たとえば、ウォーキング・シミュレーターで、物語と直接には関係のない場所で関係のないなにかを眺めているようなときに、ぼくはアニメーションを見ているとき以上にそのような感覚を感じます。それは、とても強烈に、自分自身の時間だなと思う瞬間です。
ぼくはいちどゲームから離れた時期があり、それは『ポケモン』が出てきたときです。ゲームという個人的な体験ができるからこそ魅力的なメディアで、なぜソーシャルな体験をしなくてはいけないんだと。ぼくにとって、ゲームはひとりになるためのメディアだったんです。だからいまでも、ゲームプレイがちがう、というところに可能性を見ています。
東 いまおっしゃったゲームの徹底した「個人性」と「追体験性」の関わりについて、もう少し踏み込んでうかがえますか。ゲームの魅力が「共通体験のなさ」にあるのだとすれば、それは逆に追体験を不可能にするように思えます。
土居 少々アクロバティックかもしれませんが、「共通体験のなさ」が「追体験」の可能性を増やす、ということだと思います。僕の言う「個人的なハーモニー」は、それがあまりに個人的であるがゆえに、自分自身の個人的な体験の外にも異種なる世界があるということを痛烈に実感させるものだからです。ゲームの場合、先程『UNDERTALE』の例で挙げましたが、自分と同じように、しかし違うように同じ世界をプレイしている無数の他者の存在を、たとえば攻略サイトのようなものを通じても感じることができるわけです。
吉田 おもしろいですね。ゲームの「違う」は、そもそも「同じだが違う性」ですよね。まったく同じゲームプレイはありえないし、同様にまったく異なるゲームプレイも存在しない。それがゲームのユニークな特徴であり、豊かな可能性です。
東 「同じだが違う性」は、デリダにおいてはエクリチュールの問題そのものです。言葉とはそもそも「同じだが違う」ものです。たとえば、ぼくにとって「ゲーム」という言葉と吉田さんにとっての「ゲーム」は正確にはちがうものを指しているですが、同じように「ゲーム」と言われることで会話が成立している。言語のそのような「「同じだが違う性」は、コミュニケーショの支えであると同時に誤解の原因でもある。そう考えると、ゲームというメディアは、映画や文学などの他のメディアと質的にちがうというよりも、そこで隠れていた言語=コミュニケーションの特性がむしろもっともストレートに出ているメディアなのだと考えたほうがいいような気がします。映画鑑賞にせよ文学の読解にせよ、反復はそもそも「同じだが違う性」を持っていて、完全に同じものが反復することはありえない。
吉田 まさにそうですね。だからこそゲーム研究には可能性があります。今日お話ししたようなゲームの「メタ性」も、反復とつながっていると思います。というのも、ここをクリアに語るのはまだ難しいのですが、ゲームに対するメタな視点はそもそもゲームが遊戯=遊びだからこそ可能になっていると思うんです。そして遊戯とは本質的に、何度も繰り返せることを特徴とする反復的行為です。いちどしかできないことは遊戯にはなりえない。
東 ゲームが遊びであるという指摘から、ひとつ思いつきました。「同じだが違う性」や反復の問題は、要はセックスの問題ではないでしょうか。そもそもフロイトの「反復強迫」も性の問題でした。セックスは毎回同じです。でもちょっとずつちがう。他人ともほとんど同じ経験をしているはずなのに、経験を共有することはできない。そして、何回でも同じことをやってしまい、その反復から快楽を得る。このような特徴は、映画や文学を対象とした作品分析では語られてこないことでしたが、ゲームを考えるうえでは避けてとおれないことのように思います。さらにいえば、ゲームについて語ることの難しさも、それぞれの人間の性的嗜好を語ることの厄介さと似ている気がします。
もしそうだとすれば、ゲームについて真剣に考えることは、人間の危うい側面に触れることにつながるのかもしれません。さきほど劇場の話をしましたが、演劇にしても、いまのような表象=上演になるまえにはデュオニソス的な祝祭空間があった。ゲームについての思考は、その地点まで戻らないとできないのかもしれませんね。
吉田 ゲームには、人間が構築してきた文明的なものを破壊し、人間を原始的な地点にまで連れ戻してしまう力があるのかもしれない。
土居 僕もやはり、ゲームというものがもっている可能性は、危うさと表裏一体になっていると思います。だからこそ、しっかりと考え抜かねばならない。
東 ゲームはそもそもが言語の特性を明るみに出すメディアだとさきほど言いましたが、それ以前に、人間にとって文化とはなにか、きわめて原始的な問題をあぶり出すメディアなのかもしれません。ゲームについて語るとどうしてもハイテクで最先端な話が多くなりますが、むしろそれによってゲームの原始性が見えなくなっているのかもしれませんね。
今後もゲンロンでは、ゲームについて、このような議論ができる機会を継続的に作りたいと考えています。本日は、吉田さん、土居さん、ありがとうございました。
2019年9月11日 ゲンロンカフェ
構成・注=編集部
本対談は、2018年9月11日に、ゲンロンカフェ で行われた「ゲーム的リアリズムとアニメーション――『ゲンロン8 ゲームの時代』刊行記念イベント #2」を編集・改稿したものである。
★1 『ヘーゲル美学講義 上』長谷川宏訳、作品社、九〇−九六頁。
★2 井上明人+黒瀬陽平+さやわか+東浩紀「メディミックスからパチンコへ――日本ゲーム盛衰史 1991-2018」、東浩紀編『ゲンロン8 ゲームの時代』、ゲンロン、二〇一八年所収、六三頁参照。ここで東は、二〇一〇年代のゲームの傾向として、身体的かつ直感的な操作を可能にするインターフェイスが普及したことにより、さやわかがゲームの本質とみなしていた「ボタンを押すこと」が相対化されつつあると指摘しており、その典型的な例として、『おさわり探偵 なめこ栽培キット』をはじめとするスマホゲームに言及している。
★3 吉田によれば、ビデオゲームのスクリーンに表示される画像としてのキャラクターは、視覚的に認知され、スクリーンの外部にある別のものを指示する記号である点で「アイコン」なのだが、また同時にプログラムの内部において一定のデータによって定義され、アルゴリズムにしたがって操作される対象である点で「オブジェクト」でもあるという。吉田はスラヴォイ・ジジェクや東が指摘したインターフェイスにおけるイメージとシンボルの二重性という論点を引き受けつつ、ゲームのキャラクターが持つアイコンとオブジェクトの分割不可能性を通じてゲームのスクリーンのうちに二重性(ないしは「多重性」)を見出している。吉田「ビデオゲームの記号論的分析――〈スクリーンの二重化〉をめぐって」(日本記号学会編『ゲーム化する世界――コンピュータゲームの記号論』新曜社、二〇一三年所収、五四−七〇頁)参照。なおこの論点は、『ゲンロンβ32』所収の本鼎談前編でも取り上げられている。
★4 「同じだが違う性 same-but-difference」 とは、ゲームデザイナーで学者のケイティ・サレンとエリック・ジマーマンによって提唱された概念。ひとがあるゲームをプレイするなかで生じうるすべての経験の可能性は、あらかじめ構成されたゲームのルールや構造のうちにすべて含まれている。つまりプレイヤーは、かならずゲーム内の同じ位置からプレイを始め、同じルールに従ってプレイを進めていくのである。しかしながら、ゲームがこのように固定的な構造を持つにもかかわらず、プレイヤーがゲームプレイによって得られる経験や結果は毎回違ったものになる。サレンとジマーマンは、このような同一の構造からそのつど違った経験や結果がもたらされるゲームの特性を「同じだが違う same-but-different」と呼び、「同じ遊びの行為を繰り返す場合でも、ゲームを続けたくなるほど楽しい」理由として肯定的に論じている。ケイティ・サレン、エリック・ジマーマン『ルールズ・オブ・プレイ――ゲームデザインの基礎 下』山本貴光訳、ソフトバンククリエイティブ株式会社、二〇一三年、九六頁以下参照。なお本文にある通り、この概念は『ゲンロンβ32』所収の本鼎談前編でも言及されている。
ゲームというメディアは、いかに21世紀の生と認識を規定しているのか。
『ゲンロン8』
2018年5月発行 A5判並製 本体342頁
ISBN:978-4-907188-25-2
ゲンロンショップ:物理書籍版 / 電子書籍(ePub)版
Amazon:物理書籍版 / 電子書籍(Kindle)版

土居伸彰
1981年東京生まれ。株式会社ニューディアー代表、ひろしまアニメーションシーズン(ひろしま国際平和文化祭 メディア芸術部門)プロデューサー。アニメーションに関する研究、執筆、配給、イベント企画運営、プロデュースおよび制作に携わる。国際アニメーション映画祭での日本アニメーション特集キュレーターや審査員経験多数。著書に『個人的なハーモニー ノルシュテインと現代アニメーション論』、『21世紀のアニメーションがわかる本』(いずれもフィルムアート社)、『私たちにはわかってる。アニメーションが世界で最も重要だって』(青土社)、『新海誠 国民的アニメ作家の誕生』(集英社新書、2022年10月発売)。2023年7月より企画・プロデュースするTVシリーズ『いきものさん』(和田淳監督)が、MBS/TBS系 全国28局で放送。

東浩紀
1971年東京生まれ。批評家、作家。ZEN大学教授。株式会社ゲンロン創業者。博士(学術)。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。

吉田寛
1973年生まれ。専門は感性学、ゲーム研究。東京大学大学院人文社会系研究科准教授。著書に『絶対音楽の美学と分裂する〈ドイツ〉』(青弓社、第37回サントリー学芸賞受賞、2015年度日本ドイツ学会奨励賞受賞)、共著に『ゲーム化する世界コンピュータゲームの記号論』(新曜社)など。


