愛について──符合の現代文化論(5) 少女漫画と齟齬の戦略(後)|さやわか

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初出:2020年6月26日刊行『ゲンロンβ50』

 70年代以降、日本社会の基盤を成すイデオロギーが崩壊し、それまで人々が何気なく受け入れていた恋愛観や結婚観、家族観が揺らぎ始めた。筆者は、このイデオロギーの一大変動こそが、今日の日本で見られる多くの軋轢の根底にあると考えている。

 少女漫画はこの新しい時代性をいち早く感じ取り、応答したジャンルだ。具体的に言うと70年代には多くの少女漫画家が、汚れのない恋愛の最終目標として結婚を目指す恋愛物語、すなわちロマンティックラブからの解放を模索した。この連載では前回までに、山岸凉子、大島弓子といった作家たちのこうした試みを、記号と意味が一対一に符合することから逃れようとする「齟齬」であるとした。

 その齟齬の戦略は、後の時代にどう対応していくのか。今回はそれを辿っていこう。


 そもそも70年代の少女漫画は、なぜ結婚を目標とするロマンティックラブを否定したのか。それはロマンティックラブで描かれる結婚が、要するに代々の家系を維持し、職業や財産を子孫へ継承する永続主義へ帰結し、またそれを是とするものだったからだ。

 ロマンティックラブは、自由意志による恋愛の末に結婚することは尊いと、読者に感じさせる。ところがそこで古い価値観と相まって、「純潔を守る」ことの徹底、つまり婚前交渉の否定に結びつく。自由恋愛を推奨していたはずのロマンティックラブが、いつの間にか家系存続を目的とした生殖と出産を目指す、旧来的な結婚観の強化へと利用され、夫婦をイエの社会制度に組み込むわけだ。

 本来、人は互いの愛情がなくともセックスをしたり、結婚することが可能だ。これは、近代以前に世界中で見られた性習俗や結婚制度に思いを巡らせれば容易に理解できる。ロマンティックラブは、そうした人々の恋愛に対する自由さを崇高なものだとした。しかし近代社会は、セックスや結婚は愛情が存在してこそ行われると強調し、その結果、個人が愛情に率直に生きることを肯定していたはずのロマンティックラブが、なぜか自由の制限につなげられてしまった。

 70年代以降のイデオロギー崩壊とは、人々がこの矛盾に疑問を抱くようになったという意味である。その意識の目覚めによって、少女漫画もロマンティックラブを安易に描かないようになった。このジャンルの主な読者が恋愛物語を好むからこそ、作家たちは恋愛について突き詰めて考えるようになり、結果的にロマンティックラブの矛盾に自覚的になっていく。ロマンティックラブ的な物語類型を扱うにしても、そこに批評的な問題意識を持つようになったのだ。
 こうして70年代の少女漫画は、若者らしい心情や恋愛を繊細に描き、それゆえに結婚観や家族観、ジェンダーなど現代人が抱える問題についての深い洞察を行うジャンルとなった。前回で紹介した大島弓子や、彼女を含めた「二四年組」と呼ばれる一連の作家たちは、そうした作風を持つ描き手の代表格として、大人や男性読者にも注目されていった。


 少女漫画に限らず、恋愛を人々の自由な愛情の発露として捉え、また結婚においても家系の存続より両者の愛情こそを重視する意識は、70年代以降の社会全体に広がった。ただ、実はその結果、かえって人々は恋愛や結婚へ不安を抱くようになっていった。

 なぜだろうか。社会学者の橋爪大三郎は、結婚やセックスが、愛情あってこそのものと考えられるようになった弊害を次のように書いている。

 愛情の確認を経て婚姻へいたる身体を一様にとらえたイデオロギーは、“純潔”観念である。純潔とは、婚姻にいたるまで正当化されないタイプの性愛表現がまだ控えられている場合に、その境界に与えられた記号的標徴である。
 純潔は、性交(=男性性器を膣に挿入すること)と密接に関連づけて、解釈されてきた。[中略]婚姻が聖別され、夫妻のあいだでの性交渉が正当なものとされたのは、それが生命の再生産を遂行する社会的に是認された唯一の仕方だからであった。ところがこれを逆からみると、性交以外の性愛表現であるならば、愛情を追求する過程で実行されても、純潔を破棄したことにはならず、古典的な性愛観にもとづく性愛倫理に違背したことにもならない(と解する余地がある)ことになる。
 とりわけ今世紀、欧米諸国で顕著に生じた性愛文化の地すべり的な変動は、実際、このような性愛倫理の全面的な変容にうらづけられている。★1


 橋爪が言っているのは、こういうことだ。まず近代の社会規範は、結婚やセックスには、愛情が伴うとした。つまり結婚やセックスに、記号的な意味として、愛情が分かちがたく符合した。これによって人は愛情なくして結婚やセックスができないこととなり、純潔のままで結婚し、子供をもうけるロマンティックラブが、旧来の家族制度を守る理想的モデルとして目指されることになったのだ。

 だが愛情なくして人が結婚できないならば、結婚の前段階で既に愛情の存在が明らかでなければならない。にもかかわらず、婚前のセックスは純潔ならざるものとして禁じられており、人々は肉体関係を持つことで愛情を確かめることもできない。

 そこで人々は、発想を逆転させる。婚前のセックスが純潔を破る禁忌なのであれば、つまりセックス以外すべての婚前コミュニケーションは純潔である、と考えることにしたのだ。純潔という概念を免罪符にして、橋爪の言葉で言えば純潔を「記号的標徴」にして、婚前の恋愛や性を自由に楽しむことを正当化した、と言ってもいい。

 前述した少女漫画の達成も含め、60年代末から70年代以降に自由恋愛を礼賛する風潮が起こったのは、右のような経緯によるものだった。近代の社会規範が貞淑を求めたにもかかわらず、人々の規範意識はむしろ性や恋愛の自由へ向かっていったことになる。

 だが橋爪が示唆するのは、それにとどまらない。彼が言うのは、セックスや結婚に愛情が符合したことで、人々が自由を謳歌するようになったというより、むしろそれらの行為をしあぐね、思い悩むようになったということだ。
 それはなぜか。前述のように、結婚やセックスは、本来なら愛情が伴わなくても行えるものだ。しかし近代に現れたイデオロギーが、これらに愛情という意味を根拠なく符合させたことで、人々は自身の結婚やセックスに愛情が伴うかどうか、常に内省しなければならなくなった。過去には特段の意識を持たずにセックスや結婚生活を営んでいたからこそ、突如そこに愛情を実感すべきだとされた近代以降の人々は、不安を覚えるのだ。あるいは、強い愛情を感じた相手がいた場合に、ならば自分は、この相手とセックスや結婚がしたいのだろうかという一種の強迫観念で、他者との適切な距離感を見失ってしまうケースもあるだろう。

 こうした現代人を、橋爪は「性的無規範状態(アノミー)」と呼んでいる。愛情という意味を符合したことで、かえって結婚やセックスが記号的な空虚さを持つようになる。結果として人々は、何を基準にセックスや結婚をすればいいかわからなくなり、虚無的に、あるいは無軌道に振る舞うようになる。




 実際、この流れを受けて、80年代以降には多くのフィクションで、恋愛が自由に、そして時には野放図に描かれるようになった。 日本ではテレビドラマ『金曜日の妻たちへ』(1983年)のように不倫を描いた物語が流行したり、村上春樹『ノルウェイの森』(講談社、1987年)以降には「純愛」がブームになったりした。たとえば女性隔週刊誌『微笑』(祥伝社、1988年7月30日号)は、『ノルウェイの森』のブームによって『朝日新聞』紙上で起こった読者同士の論争を、面白おかしく報じている。

 そして、極めつけは、19才の女の子による投稿だろう。彼女は、『ノルウェイ…』を読み終わって男性観が変わったという。
「この本の主人公は、好きな女性を本当に大切に思い、自分をさらけ出し、その人との精神的つながりを求めることに努力しています」
 肉体しか求めない男性、平気でワイ談をする無神経な男――そうした男性に対する不信感が、修正されたというのだ。
 そして、『ノルウェイ…』を本当の“純愛小説”とみなし、主人公たちの“純愛”で結ばれる姿に、限りない羨望を向ける。


 純愛ブームによって、旧来的な社会規範を逸脱した恋愛を描く人気作品は次々に生まれるようになる。その当初、同じテーマを扱った先行例として参照されたのが、前回までに紹介した、70年代の少女漫画である。したがって80年代以降のポスト・ロマンティックラブを描く日本のフィクションには、70年代の少女漫画が描いた内容を発展的に受け継いでいるものが多い。

 文学には、その影響が特に強く表れている。山田詠美のように、少女漫画タッチの絵で『シュガー・バー』(1981年)『ヨコスカフリーキー』(1986年)など性的アノミー以後の恋愛漫画を描き、のち作家に転身した者もいる。またデビューするやいなやブームを呼び、人気作家となった吉本ばななも、大島弓子からの影響を公言している。実際、彼女の商業デビュー作であり海燕新人文学賞を受賞した「キッチン」(1987年)は、大島の短篇作品「七月七日に」(1976年)との類似が指摘されている。山本周五郎賞を受賞した『TUGUMI』(1988-89年)では、井上ひさしが選評として「少女漫画風とかいろいろ難点はあります」とも述べている。

 その他にも、80年代以降の日本では、疑似家族、ジェンダー、自由恋愛など、70年代の女性漫画家が描いたモチーフを積極的に採り入れた文学作品が注目され、読者や評者もその影響を感じながら前向きに評価した。要するに80年代以降の文壇では、70年代における少女漫画の達成が純愛ブームという形で再発見されたのだ。
 純愛ブームはゼロ年代以降にも続き、文壇に限らず、フィクション全般で散発的なヒット作を飛ばしながら今日にいたっている。社会学者の土井隆義は、ゼロ年代半ばに若者に支持されたケータイ小説について「たとえば、第一回日本ケータイ小説大賞を受賞した『クリアネス』は、自宅で売春をしている女子絵大生がホストと恋に落ちる物語だが、選考会では『ピュアな恋』と評された。また、同じくケータイ小説として書籍化された『恋空――切ナイ恋物語』でも、女子高校生がレイプ、妊娠、流産といった過激な体験を次々と重ねていく」と書いている★2。つまり土井は、性的に堕落しているにもかかわらず「純愛」と称するケータイ小説の恋愛観に新奇性を見ているわけだが、こうした恋愛観は80年代の『ノルウェイの森』から続く、愛情と符合した結婚やセックスを果てしなく探し求める(=純愛)性的アノミー状態と同根であり、そうしたフィクションがゼロ年代以降も人気を集めているのだと考えればしっくりくる。つまり純愛は一過性のブームではなく、事実上、80年代以降の日本人の価値観の根底で流れ続けている概念だと言える。


 では、先行して性的アノミー状態を描いていた当の少女漫画は、80年代以降にこの純愛パラダイムにどう対峙しただろうか。サブカルチャー評論でよく言及される作品としては、『ヤングユー』(集英社)『FEEL YOUNG』(祥伝社)他のヤングレディース向け雑誌で活躍する作家による作品がある。系譜的に並べれば、岩館真理子『うちのママが言うことには』(1988‐1995年)、岡崎京子『pink.』(1989年)、桜沢エリカ『メイキン・ハッピィ』(1992-1993年)、安野モヨコ『ハッピー・マニア』(1996-2001年)などが挙げられるだろう。

 これらの作家や作品は、性的アノミー状態に陥った現代的な恋愛や結婚に戸惑い、新たな生き方を探る人々を描いている。だが、ヤングレディース向け雑誌は対象読者が20代を中心とした若い社会人女性である。厳密に言えば少女漫画ではなく、少女漫画を経た、高年齢化した読者層を持つジャンルだと言える。

 読者が大人であるがゆえに、こうしたジャンルの作品は現実に即して問題意識を深め、読者の共感を誘うものになることが多い。職場の人間関係を描いたり、性風俗業界を描くなど、実際の社会そのものをリアリスティックに描きながら、消費社会、職業、ジェンダーなど、そこに生きる女性が直面する諸問題を、やはりストレートに訴えるのだ。簡単に言えばこうした作品は、絵空事のような物語ではない。その設定とストーリー内容によって、性的アノミー状態の時代を真に迫って描いている。

 それゆえにこのジャンルの漫画は社会反映論的なサブカルチャー評論の俎上にも挙げやすい。だが一方で、山岸凉子や大島弓子らが、少女漫画、あるいは漫画の持つ記号性を自覚し、その意味の符合に齟齬を発生させることで現実問題に相対したのとは別の方向性を持った試みだと言える。山岸らが少女漫画の図像も含めた、形式そのものの改変を目指したこととは、源流は同じでも、既に別の路線へ進んだものだ。


 だが山岸や大島のような批評性を持ち、少女漫画の表現を逸脱しようとする作品が消えたわけではない。サブカルチャー評論や一般読者が積極的に語らなくなっただけで、少女漫画ではそれぞれの時代に応じてこうした齟齬の戦略を行う作品が絶えることなく、現在までいたっている。その例として、ここでは神尾葉子『花より男子』を取り上げよう。
 これは今日までの少女漫画作品の中で、最多の刊行部数を誇る大ヒット作品だ。累計部数は6000万部で、2位の美内すずえ『ガラスの仮面』(1974年-)に1000万部の差を付けている★3

 物語の主人公である牧野つくしは、中流家庭に育ったものの、親の見栄から最高級の富裕層向け私立高校へ強引に通わされている。派手好きでカネ使いが荒く、権力志向も強い生徒ばかりがいる学校に絶望したつくしは、学校では目立たないよう髪を三つ編みにして、おとなしく過ごそうとしている。

 しかし、実はつくしには、生まれ持った勝ち気さがあり、それがトラブルを招いてしまう。教師たちにも手出しできない、校内で最高の権力を持つF4と呼ばれる4人の男子生徒に啖呵を切ってしまった彼女は、学校中からの強烈ないじめと迫害の対象になる。

 そんな折、つくしは、F4のメンバーである花沢類と偶然に二人きりで話す機会を持ち、身分の分け隔てなくつくしをかばうこともある、どこかヒーロー然とした彼へと、次第に惹かれていく。

 以上が物語冒頭の設定だ。平凡な娘が富裕層の社会に巻き込まれ、対立関係にある男子に恋をする。いかにも少女漫画らしい、よくあるパターンの話だ。ありきたりだと言ってもいいだろう。

 ただ、この物語が『マーガレット』(集英社)に連載されたのは、1992年から2004年までだったと知ると、いささか意味深く思えてくる。なぜなら連載開始の前年、1991年はバブル景気が崩壊した年だ。以後、失われた10年とも20年とも言われる、長らく続く平成不況が始まった。

『花より男子』は、そうした時代の真っ只中に開始した作品だった。物語序盤では「ジュリアナ東京」「渋谷WAVE」「ハナエモリビル」などが登場し、まだ好景気の残滓が残る、バブル崩壊直後の空気感がリアルに描かれている。

 しかも物語が進むと、時代性をさらに生々しく感じることができる。中流だったはずのつくしの一家は、やがて父が会社をリストラされ、ギャンブルにも手を出して借金を抱え、一家は離散状態になる。両親は漁村での住み込みやスーパーマーケットで働き、つくしも生計を立てるため複数のアルバイトをしたり、居丈高で金持ちなF4メンバーの道明寺司の家で住み込みメイドとして働く羽目になる。

 こうしたつくし一家の没落は、基本的にコミカルに描かれている。だが70年代には「一億総中流」と呼ばれた時代も今は昔、中流層が崩壊して貧困層にまで一気に堕ちてしまうさまは、平成不況を背景にした物語として極めてリアルに思われる。他方で、この時代にあっても、良家の子息であるF4は家が没落するようなことはなく、物語の結末までその地位を保っている。つまり、作者の意図したものかはわからないが、『花より男子』は、今日まで続く社会の経済的格差が決定的に広がっていくさまを正確に描いているのである。

 印象的なのは物語の序盤でハナエモリビルなど東京らしい固有名が登場し、バブルの空気感を匂わせていたのに対し、中盤以降はつくしの家族が働いた漁村も、さらには富裕層が遊ぶリゾートも、全くその名が呼ばれないことだ。華やかだった東京も場所の強い固有性を失い、他の場所と等しく匿名的に扱われている。これもまた、バブル崩壊後の日本の描写として相応しく思える。
 前述したように、『花より男子』の世界観は少女漫画の典型を全く崩していない。ありきたりなものだと言ってもいい。しかし、その典型を現代的な設定で捉え直している。つまりこの作品は、上流社会で奮闘する庶民の主人公という記号を、今日的な格差社会を意味するものへと読み替えているのだ。つくしがF4と親交があると知ってから、両親は、彼女が玉の輿に乗って、それが自分たち一家の貧困を救うことを夢見てやまなくなる。これも、現代の経済的困難を理由にしつつ、家系(家計)を存続させる前時代的な結婚=ロマンティックラブへ少女漫画を揺り戻そうとする圧力として見ることができる。

 このような記号性の読み替えを行った上で、『花より男子』は、少女漫画的な記号のさらなる操作を行う。というのも、中盤以降つくしが彼女の自由恋愛の相手として選ぶのは、物語冒頭で王子様然として現れる花沢類ではない。F4の中でも、初期につくしをいじめたり、小馬鹿にしたり、一方的に好きになったりと、いかにもコメディリリーフ的な役回りを演じていた、道明寺司なのだ。

 少女漫画では、物語の開始直後に「王子様」的な男性キャラクターが登場し、主人公と唯一無二の関係を築くことが非常に多い。そして、こうした男性が現れた場合は、結末で主人公が確実にそのキャラクターと結ばれることになる。ほとんど100パーセントそうなると言っていい。ところが『花より男子』では、冒頭で定型通りに登場した花沢類と、つくしは恋仲にならない。これは、少女漫画においてかなり異例なことだ。著名な作品では高屋奈月『フルーツバスケット』(1998‐2006年)くらいしか類例がない。

 連載開始当初は、つくしは花沢類と恋仲になる予定だったようだ★4。それが道明寺司に変更されたのには様々な事情があったに違いない。しかし、この物語が平成不況期にロマンティックラブから逃れ、いかにして自由恋愛を選択するかを描いたものだとする視点に立つと、次のように言うことができる。

 花沢類は最初から、容姿も性格も、つくしが好きになることのできる部分のある人物だった。しかし道明寺司はそうではない。金持ちであることも含めて、ほぼ嫌いな部分しかない。しかも前述の通り、つくしは勝ち気な性格で、道明寺司とはことあるごとに対立する。したがってつくしが道明寺司と恋仲になることがあるとすれば、それは家系存続や経済事情を意識したものであるはずがない。真に愛情が理由であるに違いないのだ。

 では、つくしはどのようにして道明寺司に愛情を感じるのか。実はつくしは、表面的には意地悪な金持ちそのものである道明寺司と過ごすうちに、先入観で気づいていなかった優しさや格好良さを発見していく。つまり神尾葉子はここで、道明寺司に符合させられている、いかにも「意地悪な金持ち」という記号的な意味に齟齬を発生させる。それによって、主人公が王子様的なキャラクターと結ばれることや、家系維持のために結婚するロマンティックラブなど、この漫画が根底に敷いているすべての少女漫画的な記号が裏切られ、物語は定型から逸脱した結末を迎えることになる。
 道明寺司と結婚すれば、つくしが経済的に困ることはなくなるだろう。しかし、最終話でつくし一家の経済状況は今後もさほど変わらないかのようなラストシーンが描かれ、困窮が終わることは暗示されない。この物語はバブル崩壊後の不況を背景とし、経済的格差のある人間関係を少女漫画的な記号で描く物語でありながら、主人公が金持ちと結ばれるのに相応しい人物になり、玉の輿に乗って金持ちになることが目的ではないのだ。それはつくしと道明寺司が愛情関係を築く主題とは無関係で、重要なことではない。物語のラストでつくしは、道明寺司に「4年後/いい男になって戻ってきたら/あたしがあんたを幸せにしてあげてもいいよ!」と言う★5。つまり、つくしは、経済的な庇護を受けて生き延びるために道明寺司と結ばれるとは考えない。むしろ彼女にとって、金持ちの坊ちゃんである彼に、幸せを与えるのは自分なのだ。


 性的アノミー状態とは、結婚やセックスを記号化した結果、そこに符合された意味よりも、それが記号であるということに人々が不安を感じ、虚無的になってしまうことだ。80年代から90年代にかけて、前述の少女漫画から影響を受けた文学や、ヤングレディース雑誌系の漫画が強く打ち出したのは、そのように記号化していく社会や人間への不安だった。

 それらもまた、時代の実感をリアルに伝える作品になってはいるだろう。たとえば、既に述べたように、ヤングレディース雑誌系の漫画は設定やストーリーをリアリスティックにすることで、性的アノミーの時代を真に迫って描いた。だが、それゆえにこうした作品は、結婚やセックスが記号化した時代に対して、実際に人々が抱いている不安そのものしか描くことができない。つまりこうした作品は、たとえ登場人物が恋人や結婚相手を得ようとも、記号化自体は単に空虚なことと捉えたまま、そのことに、まさしくアノミー的な絶望を感じたまま終わってしまう。その絶望もまたリアリスティックなものだが、現実に対して抗する手段は描き出せない。

 だが少女漫画の強い定型性に自覚的な作品の場合、結婚やセックスを記号的に扱う性的アノミー状態に対しても怯むことはない。こうした作品にとって結婚やセックスが記号的であるのは前提であり、その事実よりも、そこにどんな符合があり、どんな齟齬を導入できるかのほうに意識が割かれる。

『花より男子』も、冒頭で王子様的なキャラクターと出会ったり、富裕層と庶民の恋愛の構図が作られるといった、いかにも少女漫画的な記号性をあえて崩さない。しかしその意味に齟齬を発生させることで、逃れられない平成不況の最中にあってなお、経済的格差が力関係を決定しない恋愛として物語を決着させた。

 振り返ればこの作品は、つくしが三つ編みにすることで「目立たない生徒」を偽装する物語冒頭から、一貫して、記号とその意味に対して敏感な作品だった。作者が髪型の記号的意味を重視していたことは、物語中盤でつくしが一度だけ散髪を行うシーンがあることからもわかる。神尾葉子は絵柄が安定した作家であり、物語冒頭と終盤を見比べてもさほど絵の変化に違和感を覚えることはない。つまりこの作品はビジュアルイメージが強力に固定されているが、その中で唯一、絵的に明確な変化が見られるのがつくしの髪型なのだ。
 散髪によって、以後つくしは物語冒頭でおとなしさの象徴としてトレードマークにしていた三つ編みをしなくなる。彼女は、勝ち気な自分を隠さずに生きることにするのである。しかも、その散髪の際に髪を整えるのを手伝うのが花沢類なのだ。彼はつくしとは結ばれないものの、つくしが自己を偽装するためにまとっていた記号を捨てて成長するのを後押しする、重要な役割を与えられているのがわかる。

 これほどまでに本作が少女漫画の記号性に敏感だからといって、それは特異なことではない。既に触れたように、山岸凉子や大島弓子など、記号性に自覚的で、その操作を心がけた先行世代の少女漫画の系譜に連なるものだ。

 文学やヤングレディース雑誌系の漫画も、本来はこの系譜に連なるものだ。しかし少女漫画の定型性を排した結果、性的アノミー状態への不安をストレートに示す作品は生み出されたが、その不安に力強く立ち向かうことはできなかった。これに対して少女漫画の記号性にいっけん忠実で、性的アノミーにも鈍感のように見える作品のほうが、実は符合と齟齬の戦略を活かしながら、新たな時代に人々のあるべき姿を、積極的に示そうとしていたのだ。


 ただし『花より男子』の描いた結末にも、課題は残されている。つくしは物語終盤のモノローグで「破れたドレスをかかえて走りながら思った/道明寺/あたしはあたしらしく生きるね」と述べる★6。「自分らしさ」は、つくしが作中でたびたび立ち返ろうとするスローガンで、前述の三つ編みをやめるシーンもその実践となっている。

 物語がもともと花沢類という王子様を用意していたことからもわかるように、道明寺司と結ばれることに絶対の理由はない。しかし、ここでつくしは彼を選ぶことを「自分らしさ」だと述べるのだ。

 前回で紹介した大島弓子『バナナブレッドのプディング』のラストは、符合の根拠のなさを認めて、登場人物が成り行きのように新しい人間関係を築いていくというものだった。しかしその不安定さゆえに、主人公の三浦衣良が物語冒頭から抱いている不安は、物語が終わってもなお解消しないだろう。これに対して『花より男子』は、自分が選んだ将来こそが「自分らしさ」であると自己肯定することで、この不安を乗り越える。『花より男子』はこの宣言によって、性的アノミー状態のアイデンティティ不安を、ロマンティックラブに後退することなく乗り越えることができたと言える。

 ただ、つくしの宣言とは結局のところ、自分の選択には根拠があるのだと、つまり既存の符合に齟齬をもたらし、自ら生み出した新たな符合こそが絶対なのだと抗弁するだけに等しい。本来、符合が無根拠なものだからこそ、人はそこに齟齬を生み出せる。つまり、つくしが道明寺司を選ぶことができるのは、花沢類を選ぶことに根拠がないからだ。しかしそれと同様に、道明寺司を選ぶことにも実は根拠がないのだ。
 だが、人はその根拠のなさに、性的アノミー状態の不安に耐えることができない。それゆえに、つくしは道明寺司を選ぶという少女漫画の文法にとっての齟齬を、これこそが真正な符合であると言って絶対視しようとする。だが右記したように、それにも本当は根拠がない。しかもその愛情の根拠になるのが「自分らしさ」だというのは循環論法的であり、疑わしいと言わざるを得ない。それは自分の選択を確かなものだと力強く宣言することで、愛情の符合された結婚やセックスを求める、純愛パラダイムの範疇にある。

 つまり『バナナブレッドのプディング』にせよ、『花より男子』にせよ、たとえ齟齬の戦略を採る少女漫画であっても、今日の性的アノミー状態と、それが生み出す純愛パラダイムを脱却することはできていない。ただここで気になるのは、人はなぜそこまで自らの選択に根拠を求めるのかということだ。一対一の符合に抗うために、齟齬の戦略はたしかに有効だった。しかし人は、今度は齟齬によって生み出された新たな符合を絶対視し始めようとするのだ。

 この疑問は、筆者が連載の第1回で提示した問いに直接つながっている。すなわち、なぜ人々は記号を一意に解釈したがるのか。なぜそのような符合を行ってしまうのか、という問いだ。

 それを考えるためには、少女漫画を参照しつつ、その記号表現をより純化したジャンルを例に語ることが望ましいと思われる。具体的に言えばそれは、大きな目をした「美少女」キャラクターが登場する、いわゆるオタク系ポップカルチャーだ。ゼロ年代に大きなブームとなったこれらのカルチャーは、一般に、男性の想像力のみに依って生まれたものだと考えられがちだ。しかしもともとは70年代末に漫画家の吾妻ひでおらが、少女漫画の絵柄で性的な物語を描くことで女性作家や劇画への対抗を志したことがルーツになっている。

 この分野では特にゼロ年代以降、記号と意味の符合に齟齬を生み出した少女漫画の試みが、「萌え」や「キャラ」といった概念を伴って、異なる整理をされていくことになった。そこで『花より男子』もかすかに触れていた、キャラクターの自由意志の問題に迫ることで、人々が記号を一意に解釈する理由を探ることは可能になる。次回では、それについて語ろう。

★1 橋爪大三郎『性愛論』、河出文庫、2017年。電子版より引用。
★2 土井隆義『友だち地獄 ――「空気を読む」世代のサバイバル』、ちくま新書、2008年、105頁。
★3 「歴代発行部数ランキング」、『漫画全巻ドットコム』、2020年6月10日閲覧。
★4 作者はTwitter上で「だって最初は花沢類がつくしの相手役でしたからね。道明寺なんて全然…」と証言している。URL=https://twitter.com/yokokamioo/status/1142335279933448192
★5 『花より男子』第36巻、集英社、2004年、148頁。
★6 同書、127頁。
 

さやわか

1974年生まれ。ライター、物語評論家、マンガ原作者。〈ゲンロン ひらめき☆マンガ教室〉主任講師。著書に『僕たちのゲーム史』、『文学の読み方』(いずれも星海社新書)、『キャラの思考法』、『世界を物語として生きるために』(いずれも青土社)、『名探偵コナンと平成』(コア新書)、『ゲーム雑誌ガイドブック』(三才ブックス)など。編著に『マンガ家になる!』(ゲンロン、西島大介との共編)、マンガ原作に『キューティーミューティー』、『永守くんが一途すぎて困る。』(いずれもLINEコミックス、作画・ふみふみこ)がある。
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