イスラームななめ読み(6) 日本・イスラーム・文学──中田考『俺の妹がカリフなわけがない!』について|松山洋平

初出:2022年1月26日刊行『ゲンロンβ69』
野蛮な物質主義の西洋による植民地支配からアジアの諸民族を解放しなければならない。そして日本民族の指導の下に、アジアの全ての民族が、東洋の深遠な精神文明、民族と宗教の自治を認める多元的イスラーム法に基づいて共存共栄する王道楽土。それが真人祖父さんが夢見た大日本カリフ帝国だった。[★1]──中田考『俺の妹がカリフなわけがない!』より
筆者は、本コラムの第3回「大日本帝国の汎イスラム主義者」において、戦前・戦中に日本とイスラームの間に存在した浅からぬ関係に触れた[★2]。日本はかつて、世界のイスラーム教徒に対してジハードを称揚し、彼らに、日本の戦う「聖戦」に加わるよう呼びかけた。西方のイスラーム教徒の多い植民地では、彼らのための福利厚生施設を建設し、学校では「イスラーム教育」と呼んでも差し支えないような内容の教育も施している[★3]。日本内地では、イスラーム諸国についての知識を国民に普及させる政策も実施され、官・民・軍の協力により、東京にモスクが建てられもした。かつて日本では、「回教徒」という、宗教的な紐帯によって成立する(と想像された)勢力との共闘が、大東亜の秩序を確立するために必要であると喧伝されていたのである。
しかし、今日の日本においてこれらの事実は忘れ去られている。
臼杵陽(日本女子大学教授、1956年生まれ)は、日本でときおり現れるイスラームへの(わずかながらの)関心が常に一過性のものとして過ぎ去っていくことを、以下のように指摘している。
「イスラームとは何か」という問いが国民的な関心の的になったのは「九・一一」事件が最初ではない。一九七三年の石油ショック、一九九〇-九一年の湾岸危機及び湾岸戦争など日本を揺るがす事件が起るたびに、「忘れ去られたイスラーム」を救い上げようとする動きが起こった。にもかかわらず、その都度イスラームが「問題」としてしか設定されず、突然思い出したかのように、短期的に解決されるべき一過性の事態として認識されてきたのは何故なのかを改めて問い直す必要がある。[★4]
鈴木規夫(愛知大学教授、1957年生まれ)もまた次のように言う。
ここで鈴木は、戦中日本でイスラーム研究が盛んになり、終戦によってその熱が冷めたのは社会的要請の有無によることに理解を示しつつも、戦後の社会でそうした事実があたかも存在しなかったかのように「忘却」されていることを問題視している。
さて、この「忘却」を成立させるさまざまな要因のひとつが、日本とイスラームをつなぐ文学的表象の不在であると考えることは、おそらく不可能ではない。
柳瀬善治(広島大学大学院准教授、1969年生まれ)は、戦前期の日本とアジアの関係が想起される際に、〈回教〉という問題群が忘却される事実を指摘し、まさに、この忘却についての日本文学および日本文学研究の責任を難じている[★6]。
柳瀬によれば、日本には戦前より、「〈回教〉をめぐる膨大な言説、ジャーナリズム・交通・技術・歴史・政治・資源などあらゆる分野にいたる広がり」[★7]が存在した。にもかかわらず、日本文学者はイスラームをまともな形で表象しなかった。
同時に、日本文学研究者は、日本文学におけるイスラームの表象のありかた──あるいはその奇妙な不在──の問題に「徹底的に無関心」[★8]であり続けた。日本の「複数の戦後」あるいは「複数の戦前」の中に確かに存在した〈回教〉という問題群を無視する態度を、「アクチュアリティからの逃避」[★9]として柳瀬は批判する。
一九三〇年代に組織化されたイスラーム研究自体は、あきらかに時流に乗ったのであり、敗戦後はそれに乗らなかっただけなのだ。ただ、それがあたかもなかったことのようにされてきた、つまりは「忘却」を導いてきたような、敗戦後の日本社会の心性には、何かイスラームとの関わりを否認せざるをえないような病理があると疑ってかかってもよいのではないだろうか。[★5]
ここで鈴木は、戦中日本でイスラーム研究が盛んになり、終戦によってその熱が冷めたのは社会的要請の有無によることに理解を示しつつも、戦後の社会でそうした事実があたかも存在しなかったかのように「忘却」されていることを問題視している。
さて、この「忘却」を成立させるさまざまな要因のひとつが、日本とイスラームをつなぐ文学的表象の不在であると考えることは、おそらく不可能ではない。
柳瀬善治(広島大学大学院准教授、1969年生まれ)は、戦前期の日本とアジアの関係が想起される際に、〈回教〉という問題群が忘却される事実を指摘し、まさに、この忘却についての日本文学および日本文学研究の責任を難じている[★6]。
柳瀬によれば、日本には戦前より、「〈回教〉をめぐる膨大な言説、ジャーナリズム・交通・技術・歴史・政治・資源などあらゆる分野にいたる広がり」[★7]が存在した。にもかかわらず、日本文学者はイスラームをまともな形で表象しなかった。
同時に、日本文学研究者は、日本文学におけるイスラームの表象のありかた──あるいはその奇妙な不在──の問題に「徹底的に無関心」[★8]であり続けた。日本の「複数の戦後」あるいは「複数の戦前」の中に確かに存在した〈回教〉という問題群を無視する態度を、「アクチュアリティからの逃避」[★9]として柳瀬は批判する。
明治・大正のムハンマド伝
もっとも、戦前および戦中の日本に、イスラームを取り上げる文学作品が全くなかったわけではない。むしろ、今日わたしたちが何気なく想像するよりも、その表象は豊かであったと言えるかもしれない。
たとえば、明治・大正の日本で、ムハンマドの伝記が何冊も出版されている──坂本健『麻謌末』(1899年)、池元半之助『マホメットの戦争主義』(1903年)、忽滑谷快天『怪傑マホメット』(1905年)、松本赳『マホメット言行録』(1908年)、口村佶郎『創作・野聖マホメツト』(1923年)、坂本健一『ムハメツド傳』(1923年)など[★10]。
筆者の手元に、仲小路彰(1901年生まれ、1984年没)の『砂漠の光』(新光社、1922年)という著作がある。この作品も、同時代に書かれたムハンマド伝のひとつだ。仲小路の処女作でもある。後にスメラ学塾を設立し各界に影響を与えた仲小路の原点の書は、このムハンマド伝だった。
『砂漠の光』は単なる伝記ではなく、長篇の戯曲形式で書かれている。作中では、ムハンマドと周囲の人々との間に、愛憎をからめた生々しい人間ドラマが展開する。
たとえば、ムハンマドの愛妻アエシヤ(今日の一般的表記ではアーイシャ)と、サフワン(サフワーン)という男の間に姦通疑惑が持ち上がるシーンがある。疑惑をめぐって、アエシヤ、サフワン、マホメツト(ムハンマド)、ムハンマドの側近アリ(アリー)の間で次のような会話が交わされる。
サフワン「それから、私は、非常に迷ひ、苦しんだので御座ます。善と悪は──盛んに私の心の中で争ひました。そして遂に私は善に敗けました。──私は、──遂に断念して又帰らうとする時、──此の一隊の人が──参つたので御座ます。」
マホメツト「サフワン、──それに決して偽りはないか──」
サフワン「私は、──生命を賭して真実なる事を申上ます。──」
アエシヤ「ああサフワン──」(泣く)
アリ(アエシヤとサフワンを見くらべつつ)「サフワン──貴様は、──嘘を云つた──嘘だぞ。──」
マホメツト「アリ、──お前はサフワンの告白を嘘と思ふのだな──。」(間)(アエシヤに向つて)「アエシヤ、では此度はお前に聞く。──今云つた、サフワンの言葉にお前は反対する所があるか。──若しあるならば言つて見よ。──」
アエシヤ「マホメツト様、──」(泣き伏す)
マホメツト「アエシヤ、どうした──さあ言へ、言はなくてはならぬぞ。──嘘か、──誠か──」(アエシヤ、泣くのみで答へず)
サフワン(決然と)「さあ、──私を私を死刑にでもなんでもして下さい。──私こそ──凶悪な罪人なのですから。──」
アエシヤ「ああ、サフワン──」[★11]
妻アエシヤを信じきれないマホメツト、泣きしきりのアエシヤ、アエシヤを疑い真相究明を急き立てるムハンマドの側近アリ、アエシヤを救うために決死の弁明を行うサフワンの間の緊迫した掛け合いは、さながらメロドラマのようだ。この掛け合いの後、結局サフワンは処刑されてしまう。
イスラーム勢力の拡大に成功しつつも、ときに孤独を感じ、周囲との関係に苦悩する「人間ムハンマド」の姿は、今日の読者には新鮮に映るかもしれない。
『砂漠の光』はそれなりの数の読者を得たのか、当時の新聞では本書をとりあげたインタヴュー記事が組まれている[★12]。出版から20年もあとのことだが、東京では実際に演劇が上演されたようだ[★13]。
ところで、作者の仲小路は、ムハンマドを自身のデビュー作の主人公として選んではいるものの、イスラームやアラビア文化に特に強い関心を持っていたわけではなかった。「砂漠」や「偶像の破壊」というキーワードが自身の人生観の中で大きな位置を占めていたことが、それらのキーワードを連想させるムハンマド伝の執筆に彼を向かわせたようである[★14]。
実際、『砂漠の光』は演義であり、史実とかけ離れた描写も多い──現代であれば、おそらく出版することはできなかっただろう。「アラビア」「ムハンマド」「イスラーム」は、あくまで、仲小路が自身の人生観を投影し、その想像力を具現化するための都合のよい素材にすぎなかったのかもしれない。
しかしだとしても、日本において、宗教的性格の強いイスラームの物語が文学のモチーフとして選ばれ得たという事実を、『砂漠の光』ほか、これらムハンマド伝の存在は示している。
在日イスラーム教徒を描く
昭和になると、はるかアラビアの地を夢想するのではなく、日本国内に生活するイスラーム教徒に言及する文学者が散見されるようになる。この時期の文学者による在日イスラーム教徒への言及については福田義昭(大阪大学大学院准教授、1969年生まれ)による一連の紹介があるので、仔細に興味がある方はそちらをお読み頂きたい[★15]。
ここでは、宮内寒彌(1912年生まれ、1983年没)の作品に着目したい。
宮内は今日では名の知れた人物とは言えないが、雑誌『早稲田文科』の創刊者のひとりで、「中央高地」が芥川賞候補にも選ばれた昭和の中堅作家である。この宮内のいくつかの小説には、日本に暮らすイスラーム教徒が登場する。
1938年に発表された「贋回教徒」では、主人公の日本人男性が、在日トルコ人(タタール人)の女性に恋慕を抱いた末にイスラームに入信するストーリーが展開する[★16]。
本作の主人公は洋装デザイナーの有島という男である。有島は、妻がかつて勤務していた洋装店でトルコ人女性に出会い、彼女に惹かれる。想いが深まるにつれて、彼の中にイスラームへの関心が芽生え、信仰を持つに至る。
「回教徒」を自認するようになった有島は、イスラームに正式に「入門」することを志し、或る「回教僧」に「入門懇願」の手紙を送るものの、何ゆえか一向に返信をもらうことができない。しかし、「入門」を果たせないことで、かえって彼の信仰心は強化される。
1938年に発表された「贋回教徒」では、主人公の日本人男性が、在日トルコ人(タタール人)の女性に恋慕を抱いた末にイスラームに入信するストーリーが展開する[★16]。
本作の主人公は洋装デザイナーの有島という男である。有島は、妻がかつて勤務していた洋装店でトルコ人女性に出会い、彼女に惹かれる。想いが深まるにつれて、彼の中にイスラームへの関心が芽生え、信仰を持つに至る。
「回教徒」を自認するようになった有島は、イスラームに正式に「入門」することを志し、或る「回教僧」に「入門懇願」の手紙を送るものの、何ゆえか一向に返信をもらうことができない。しかし、「入門」を果たせないことで、かえって彼の信仰心は強化される。
自分は決して形式的な回教徒ではない。アラーへのこの宿命の如き信仰と絶えざる讃美! 神はわれに不屈の意志を与へ給うではないかと思うのだ。回教徒と呼ばたれて真の教徒に非ざる輩、例へば君府の夫婦を見よ、神は果して彼等に自分のやうに烈々る魂を恵み給つてゐるであらうか。神は、不断に祈る者をのみ宗門に許し給ふ。形式打破。このためにマホメツトは迫害と戦つたのではないか、最早、自分にとつて、礼拝堂も教区も形式に過ぎぬ………かうして、同宗への仲間入りを拒まれたことは彼をして益々熱心な教徒にしたのである。不断に祈り、讃美する者にのみ、神は回教徒の名を許し給ふのだとして……[★17]
形式主義を嫌い、心を真摯に神に向けることのみを信者の条件と考える有島のこのストイックな原則主義は、物語終盤における「棄教」の結末を導く伏線となる。
結局、有島と件のトルコ人女性は結ばれず、半ば有島の独り相撲のまま、2人は離れ離れになる。彼女を忘れられない有島は、ある夜、彼女を夢に見て夢精を経験する。この夢精の経験により、突如として彼は自身の信仰心に疑いを向け始める。自分は結局、神ではなく、女の美しさを崇めていたに過ぎなかったのだ。そう悟った有島は、自らを「偶像崇拝の徒」「贋教徒」と断罪するに至り、「さようなら、神よ、マホメツトよ」[★18]とつぶやいて「棄教」する。
トルコ人女性との出会いをきっかけにイスラームに入信し、彼女との別れによって信仰からも離れていくこの物語は、イスラームを、あくまで日本の中に存在する他者として描いたものと言えるかもしれない。しかし、それでも宮内は、肉体的な交わりが可能な距離の中に、「イスラーム」を描こうとした。
結局、有島と件のトルコ人女性は結ばれず、半ば有島の独り相撲のまま、2人は離れ離れになる。彼女を忘れられない有島は、ある夜、彼女を夢に見て夢精を経験する。この夢精の経験により、突如として彼は自身の信仰心に疑いを向け始める。自分は結局、神ではなく、女の美しさを崇めていたに過ぎなかったのだ。そう悟った有島は、自らを「偶像崇拝の徒」「贋教徒」と断罪するに至り、「さようなら、神よ、マホメツトよ」[★18]とつぶやいて「棄教」する。
トルコ人女性との出会いをきっかけにイスラームに入信し、彼女との別れによって信仰からも離れていくこの物語は、イスラームを、あくまで日本の中に存在する他者として描いたものと言えるかもしれない。しかし、それでも宮内は、肉体的な交わりが可能な距離の中に、「イスラーム」を描こうとした。
宮内はなぜ「未來」を書いたか
宮内は、「贋回教徒」を発表した4か月後に、「未來」という作品を発表する。
奇妙なのは、この「未來」のプロットが、「贋回教徒」のそれと酷似していることだ。「未來」の主人公もまた、イスラーム教徒の女性と出会い、自身もイスラーム教徒となり、その後、その女性との別れを経験するのである。
宮内はなぜ、プロットの酷似する作品をふたたび書いた──書き直した?──のだろうか。
「未來」の主人公曾我は、貸室管理人として平穏な日常を送る日本人男性である。曾我は、物語冒頭から既にイスラーム教徒となっている。小説を読み進めると、彼の管理する部屋にたまたま住むことになったトルコ人(タタール人)女学生を介してイスラームを知り、その教えに感銘を受けたことが入信のきっかけだったことがわかる。この女学生と曾我は、相思相愛の恋愛関係にある。
英語のできる曾我は、仕事の合間にクルアーンの英語訳を少しずつ日本語に翻訳しているのだが、この翻訳作業は、件のトルコ人女学生の「仕事」に必要だということで始めたものである。2人は、彼女の「仕事」に目途がつき次第、東京か、彼女の故郷の樺太で一緒になることを誓い合っている。
ところが、彼女は卒業を期に樺太へ帰郷する途中、不慮の事故に遭いこの世を去ってしまう。曾我はひとり残される。
しかし、「贋回教徒」で描かれた「棄教」の結末とは対照的に、「未來」の主人公曾我は、死別の悲しみを神からの試練と捉え、その信仰を強く保つ。
風の如く私の耳に伝つたのは、前に申した如き、そなたの訃だつたのである。けれど、私は別離の日のやうなかなしみは持たなかつた。回教徒であつてみれば、そなたが必らず、力強く経典に描かれた花園に導かれたと信ずるからである。[★19]
「永遠の花園」で彼女との再開を果たす「未來」を想いながら、クルアーンの翻訳作業に専心する主人公の姿を描き、小説は終わる。「未來」には、他者としてのイスラームを喪失した後にも、独り、日本人回教徒としての人生を生きる者の可能性が示されている。
ところで、「未來」が「贋回教徒」と異なるのは、結末だけではない。
「未來」には、登場人物たちが、仏教やキリスト教と比較しながらイスラームの教えをやや饒舌に批評するような場面がある。たとえば、ヒロインの口からは次のように語られ、他の宗教とは別種の教えとして、イスラームが提示される。
曾我は曾我で確固としたイスラーム観を持っている。以下の言葉は曾我のものだ。
ところで、「未來」が「贋回教徒」と異なるのは、結末だけではない。
「未來」には、登場人物たちが、仏教やキリスト教と比較しながらイスラームの教えをやや饒舌に批評するような場面がある。たとえば、ヒロインの口からは次のように語られ、他の宗教とは別種の教えとして、イスラームが提示される。
マホメット様は、貧しい商家に生れて、隊商になつたり、銃をとつたり、年上の未亡人に愛されたりして、生きた方よ。基督のように勿体ぶつたり、仏さんのやうに死んだ先のことを考へるばかりしないのはそこなのよ。[★20]
曾我は曾我で確固としたイスラーム観を持っている。以下の言葉は曾我のものだ。
筋をそれることになるが、正直に云って、はるななくしては回教に触れる機会なかつたと思はれる私である。しかし、今の私は、凡ゆる宗教の中で、回教が最も現実的精神に溢れ、又最も素朴な形式を持つことを発見して人知れず欣ぶものである。再びいふが、回教の教義は「ひたすらに祈り、よく忍ぶべし」に尽きる。これは、大切なことに属すると信ずるのだ。そして、敢へて一部の民衆とは言はぬ、時利あらずして不幸におち、苦しみと絶望を支ふべき気力も失せんとする人に、せめて、断えざる祈りに酬ゆるに不撓の意志を以つてする神のあることを知つて貰ひ度いこと、切なのである。[★21]
「未來」の主人公は、イスラームを、トルコ人の宗教、恋人の宗教としてはもはや捉えていない。彼の中でそれは、日本人一般に意味を持ち得る教え──救いをもたらし得る教え──として、自らの恋愛とは切り離された形で理解されている。
イスラームの教え自体へのこうした言及は、「贋回教徒」ではなく、「未來」においてはっきりと確認される。
「未來」が「贋回教徒」と異なるいまひとつの点は、性欲のテーマが扱われないことである。
鈴木貞美(国際日本文化研究センター名誉教授、1947年生まれ)が「性愛をテーマとした作風」と評するように[★22]、「贋回教徒」では性欲が大きなテーマとなる。主人公の有島がトルコ人女性に惹かれたのは、何よりも彼女の肉体的な美しさ故だった。有島が自らを「贋回教徒」と判断したのも、性欲に囚われている自分を発見したためであった。
しかし、「未來」では事情が異なる。本作では、トルコ人の女性性は極めて希薄に描かれており、曾我が彼女に向ける愛もプラトニックなものであることが強調されている。「贋回教徒」の有島が苦悩した性欲の問題を、「未來」の曾我がさらりと克服するような描写もわざわざ挿入されている。「未来」では、「贋回教徒」において目立っていた性欲というテーマが意識的に退けられているようである。
「未來」において宮内は、宗教としてのイスラーム自体への言及の度合いを強めるとともに、信仰以外のテーマを排斥した。この辺りに、彼が「未來」を執筆した目的も見出せるのではないだろうか。
宮内が「日本イスラーム文学」の可能性を模索したと言えば、あるいは言い過ぎになるかもしれない。しかし、少なくとも彼が、複数の作品の主人公をイスラーム教徒として描きながら、イスラームを自身の文学の素材として受容しようとしていたことは確かである。
イスラームの教え自体へのこうした言及は、「贋回教徒」ではなく、「未來」においてはっきりと確認される。
「未來」が「贋回教徒」と異なるいまひとつの点は、性欲のテーマが扱われないことである。
鈴木貞美(国際日本文化研究センター名誉教授、1947年生まれ)が「性愛をテーマとした作風」と評するように[★22]、「贋回教徒」では性欲が大きなテーマとなる。主人公の有島がトルコ人女性に惹かれたのは、何よりも彼女の肉体的な美しさ故だった。有島が自らを「贋回教徒」と判断したのも、性欲に囚われている自分を発見したためであった。
しかし、「未來」では事情が異なる。本作では、トルコ人の女性性は極めて希薄に描かれており、曾我が彼女に向ける愛もプラトニックなものであることが強調されている。「贋回教徒」の有島が苦悩した性欲の問題を、「未來」の曾我がさらりと克服するような描写もわざわざ挿入されている。「未来」では、「贋回教徒」において目立っていた性欲というテーマが意識的に退けられているようである。
「未來」において宮内は、宗教としてのイスラーム自体への言及の度合いを強めるとともに、信仰以外のテーマを排斥した。この辺りに、彼が「未來」を執筆した目的も見出せるのではないだろうか。
宮内が「日本イスラーム文学」の可能性を模索したと言えば、あるいは言い過ぎになるかもしれない。しかし、少なくとも彼が、複数の作品の主人公をイスラーム教徒として描きながら、イスラームを自身の文学の素材として受容しようとしていたことは確かである。
イスラーム文学としての『俺の妹がカリフなわけがない!』
「忘却」の問題に話を戻そう。
宮内が試みたような、日本を舞台とする「イスラーム文学」には今日ではあまりお目にかかれない。純文学においても、エンタメ小説の中でも、イスラームという要素が有機的な意味を持つことはまれだ。
定金伸治『ジハード』(1993年)や古泉迦十『火蛾』(2000年)、陣野俊史『泥海』(2018年)など、イスラームが描かれる作品はいくつか思い浮かぶが、これらの作品は基本的に中東や欧州を舞台としている。日本人イスラーム教徒とおぼしき人物も、もちろん登場しない──陣野の『泥海』には、「テロ」に対してある種の「共感」を覚える日本人ハヤマ・シュンが登場するが、彼がイスラーム=テロの実相にかろうじて触れるためには、日本を離れ、パリの町を何ケ月もさまよう必要があった。イスラームはいつも、日本から遠い場所に存在する。
この点において、イスラーム学者の中田考(元同志社大学教授、1960年生まれ)が2020年に上梓したライトノベル『俺の妹がカリフなわけがない!』(晶文社)──以下『オレカリ』と呼ぶ[★23]──は、ひとつ特異な作品と言える。
『オレカリ』は、現代日本が舞台の学園ものだ。しかし同時に、イスラームの物語でもある。なお、タイトルは言うまでもなく伏見つかさ『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』(2008年)のオマージュであるが、内容は全く関係がない。
『オレカリ』のストーリーはこうだ。
君府学院に通う主人公の男子高校生天馬垂葉は、自身の双子の妹愛紗が、「自由と正義に基づく地球の解放」を公約に掲げて生徒会長に当選し、生徒会長の役職名を「カリフ」に改称したことに困惑する。実は、天馬家と君府学院は、大日本カリフ帝国建国の野望を垂葉の曾祖父から受け継ぐ存在だった。垂葉は、カリフ帝国建国を目論む愛紗たちの活動に巻き込まれていく…。
ラノベ本文の前後には、著者の手による「前書」、「解説:君の妹もカリフかもしれない」、「後書き」が付されており、メタフィクション的な仕掛けもみられる。

『オレカリ』の著者中田は、イスラーム政治哲学を専門とする研究者である。イスラーム教徒としての自身の思想も積極的に発信している。2014年には、内戦中のイラクに戦闘目的で渡航を希望する青年の渡航援助を試みたため、私戦予備及び陰謀罪の容疑で警視庁公安部の捜査対象となり、世間を騒がせたことがあった(2019年に不起訴処分)。事件を通して中田の名を知った読者も多いかもしれない。
いまより10年以上前から、中田は、ビデオゲームや音楽、マンガなど、論文や学術書以外の媒体による表現の可能性を模索していた。これまでも、『オレカリ』の試作版を含むラノベやマンガの同人誌をコミケなどに出品していたが、今回の『オレカリ』が初めての商業出版となる。
中田は近年、著作やSNSにおいて、現代イスラーム世界の喫緊の課題として、「カリフ制再興」の義務を訴え続けてきた──現代のイスラーム教徒にとって、カリフの擁立はイスラーム法上優先的に取り組むべき義務であり、カリフ制こそ、イスラーム世界と非イスラーム世界の共存のための基盤となる、との主張だ。その意味で『オレカリ』は、中田の思想のまさに中心的テーマを扱っている。
しかしながら、日本人女子高生がカリフを宣言するこのラノベは、あくまで中田の「遊び」として捉えられている感が強い。中田に好意的な論者によっても、反対に、批判的な論者によっても、『オレカリ』はほとんど論評されていない。
しかし筆者は、このラノベをそのように片づけてしまうことにどこか物足りなさを感じる。このラノベに、別の意味を与えることはできないだろうか。たとえばこの作品を、戦前から今日に至るまでの、「忘却」された日本-イスラーム間関係と、その表象の問題について、時代をまたぐ視座を作り直す文学的試みとして捉えることはできないだろうか[★24]。
本コラム冒頭で言及した柳瀬の指摘を思い出してほしい。
戦前の日本には、「〈回教〉をめぐる膨大な言説、ジャーナリズム・交通・技術・歴史・政治・資源などあらゆる分野にいたる広がり」があった。にもかかわらず、日本文学はイスラームを文学の素材として受容することができなかった。
筆者の見解では、日本文学のこの「失敗」は、〈回教〉という、日本の歴史に横たわる問題群が忘却される条件を成立させている。『オレカリ』は、この「失敗」からの回復を指向する作品として読むことが可能である。
いまより10年以上前から、中田は、ビデオゲームや音楽、マンガなど、論文や学術書以外の媒体による表現の可能性を模索していた。これまでも、『オレカリ』の試作版を含むラノベやマンガの同人誌をコミケなどに出品していたが、今回の『オレカリ』が初めての商業出版となる。
中田は近年、著作やSNSにおいて、現代イスラーム世界の喫緊の課題として、「カリフ制再興」の義務を訴え続けてきた──現代のイスラーム教徒にとって、カリフの擁立はイスラーム法上優先的に取り組むべき義務であり、カリフ制こそ、イスラーム世界と非イスラーム世界の共存のための基盤となる、との主張だ。その意味で『オレカリ』は、中田の思想のまさに中心的テーマを扱っている。
しかしながら、日本人女子高生がカリフを宣言するこのラノベは、あくまで中田の「遊び」として捉えられている感が強い。中田に好意的な論者によっても、反対に、批判的な論者によっても、『オレカリ』はほとんど論評されていない。
しかし筆者は、このラノベをそのように片づけてしまうことにどこか物足りなさを感じる。このラノベに、別の意味を与えることはできないだろうか。たとえばこの作品を、戦前から今日に至るまでの、「忘却」された日本-イスラーム間関係と、その表象の問題について、時代をまたぐ視座を作り直す文学的試みとして捉えることはできないだろうか[★24]。
本コラム冒頭で言及した柳瀬の指摘を思い出してほしい。
戦前の日本には、「〈回教〉をめぐる膨大な言説、ジャーナリズム・交通・技術・歴史・政治・資源などあらゆる分野にいたる広がり」があった。にもかかわらず、日本文学はイスラームを文学の素材として受容することができなかった。
筆者の見解では、日本文学のこの「失敗」は、〈回教〉という、日本の歴史に横たわる問題群が忘却される条件を成立させている。『オレカリ』は、この「失敗」からの回復を指向する作品として読むことが可能である。
『オレカリ』の企て
『オレカリ』は日本を舞台とする日本人の物語である。しかし、この物語の中でイスラームは、外部から到来するものとして描かれていない。イスラームは、すでに日本に根を持つ要素として物語の世界に組み込まれている。
主人公の通う君府学院は、大日本カリフ帝国建国の野望のために、主人公の曾祖父がタタール人ウラマーのアブドゥルレシト・イブラヒム(عبد الرشيد إبراهيم:1857年生まれ、1944年没)と共に創立したものだ。筆者の第3回目コラムで取り上げたように、イブラヒムは実在の人物で、晩年を戦中の日本で過ごし、日本の回教徒政策に協力した汎イスラーム主義の活動家である。
主人公の曾祖父が大アジア主義者であったという設定にも注目すべきかもしれない。この設定は、作中ではさほど重要な機能を果たしていないようにも見えるが、読者に対し、日本とイスラームの歴史的な関係を想起するように働きかける。戦中日本の回教徒政策には、アジア主義の思想とその担い手が関与していた。また、当時イスラーム教徒として活動した日本人の多くは、イスラーム教徒であると同時にアジア主義の信奉者でもあった。
中田は、ポストモダン的な遊びとして「日本」と「イスラーム」を結び付けているわけではない。イブラヒムやアジア主義を介することで、日本のリアルな歴史に素地を持つ要素として、イスラームを描いている。現代日本を舞台に展開するカリフ帝国再興の物語は、戦前・戦中のリアルな日本から継承されるイスラームの物語なのである。
とはいえ、愛紗らが試みる日本発のカリフ帝国再興というモチーフは、一見突拍子もないものに感じられるかもしれない。日本とカリフを結び付けることへの違和感は、作品の登場人物によっても「厨二病の妄想」[★25]と言い表されている。これは、多くの読者が抱く一般的な感覚だろう。
しかしながら、カリフ制を指向するような「厨二病」的妄想が、戦前・戦中の現実の日本には見え隠れしていた。
明治・大正時代のジャーナリスト渡辺巳之次郎(1869年生まれ、1924年没)は、その著書『回教民族の活動と亜細亜の将来』(1923年)の中で、アジア諸国の復興を加速させる政策として、イスラーム系諸民族を参画させた地球規模でのカリフ制の確立を提言している。
渡辺の基本構想は、まず、世界規模で汎イスラーム主義を称揚し、各地のイスラーム教徒から成る大連合本部を設立、その主宰者としてカリフを選出し、さらにこれをトゥーラン主義運動と連動させるという大規模なものだった[★26]。イスラーム系諸民族の間に不満が出ないようにカリフを任期制にする可能性や、政治的な問題が生じる場合には「カリフ」という名称にこだわる必要はないことを論じるなど、政策の細かい部分にも考えを及ばせている。
これはあくまで渡辺一個人の提言であったが、昭和初期には、中国西北部に日本の傀儡となるイスラーム帝国を建国する計画が、日本政府によってまじめに検討されたこともあった。帝国建設に際しては、旧オスマン帝国の太子を擁立する可能性もあったと言われている。この政策が仮にも実現していれば、トルコが廃したカリフ制を、あるいは日本が再興するということにもなっていたかもしれない。
日本とカリフ制が接近する事態は、一部の日本人が勝手に妄想していただけではなかった。当のカリフが生きていた20世紀初頭のオスマン帝国では、日本がイスラーム国家に転じ、天皇がカリフ位を宣言する可能性を危惧する向きがあった。突飛な発想にも思えるが、日本が大量のイスラーム教徒を抱えるアジアに覇権を及ばせるとき、天皇あるいは日本国自体がイスラーム化することで、イスラーム系民族の民心をある程度掌握することができる(と同時に、腐敗したオスマン帝国から民心は離れていく)。オスマン側からすれば、その可能性を憂慮するのは当然の理だった。一方、全く反対に、体制が危惧したこの可能性をむしろ待ち望む声もあった。すなわち、イスラームに改宗しさえすれば、腐敗したオスマン帝国のスルタンよりも、徳を具えた日本の天皇こそが、世界のイスラーム教徒を率いるカリフとしてふさわしい、と主張する論者も存在したのである[★27]。こうした「恐れ」や「期待」が集団的な幻想となったのか、中東では、天皇のイスラーム改宗にまつわる噂が広まることもあった。この噂は、対外戦略として日本側が意図的に広めたとも言われている[★28]。
日本人の女子高生である愛紗がカリフになるという『オレカリ』の構図は、近代史上に表出した、「カリフ制を再興する日本」あるいは「カリフ帝国としての日本」という可能世界の片鱗を、今日の日本を舞台に描き直すものだ。
中田は従来、〈現代・日本〉という地点からイスラームを捉えるためにはどうすればよいかという強い問題意識を持ち、日本の読者に向き合ってきた[★29]。そのような論者が、日本におけるイスラームの文学的表象の欠落に目を向け、「日本イスラーム文学」の(再)開拓に向かうのは、極めて自然なことだったと言える。
中田はときに、イスラームのイデオロギーを日本に植え付けようとする危険な活動家——もう少しマイルドな表現を好む論者からは、日本でイスラームの「布教」に熱心に取り組む宗教家——として批判されることがあるが、かかる批判の中で『オレカリ』が取り上げられることはない。それは、前述のように、『オレカリ』が中田の「遊び」とみなされているからであろう。
しかし、筆者の見解では、『オレカリ』は中田の思想活動のひとつの達成であり、彼の最も「危険な」著作である。中田は『オレカリ』「前書」の中で、「二次創作も大歓迎」、「私の代わりに誰かが『俺の妹がカリフなわけがない! 第二部』を書いてくれてもいっこうに構わない」[★30]と述べ、物語の利用を読者一般に開放している。忘却された日本イスラーム史をふたたび想起させること、そのための文学の可能性をふたたび開くこと。そこに『オレカリ』の企てがある。
これはあくまで渡辺一個人の提言であったが、昭和初期には、中国西北部に日本の傀儡となるイスラーム帝国を建国する計画が、日本政府によってまじめに検討されたこともあった。帝国建設に際しては、旧オスマン帝国の太子を擁立する可能性もあったと言われている。この政策が仮にも実現していれば、トルコが廃したカリフ制を、あるいは日本が再興するということにもなっていたかもしれない。
日本とカリフ制が接近する事態は、一部の日本人が勝手に妄想していただけではなかった。当のカリフが生きていた20世紀初頭のオスマン帝国では、日本がイスラーム国家に転じ、天皇がカリフ位を宣言する可能性を危惧する向きがあった。突飛な発想にも思えるが、日本が大量のイスラーム教徒を抱えるアジアに覇権を及ばせるとき、天皇あるいは日本国自体がイスラーム化することで、イスラーム系民族の民心をある程度掌握することができる(と同時に、腐敗したオスマン帝国から民心は離れていく)。オスマン側からすれば、その可能性を憂慮するのは当然の理だった。一方、全く反対に、体制が危惧したこの可能性をむしろ待ち望む声もあった。すなわち、イスラームに改宗しさえすれば、腐敗したオスマン帝国のスルタンよりも、徳を具えた日本の天皇こそが、世界のイスラーム教徒を率いるカリフとしてふさわしい、と主張する論者も存在したのである[★27]。こうした「恐れ」や「期待」が集団的な幻想となったのか、中東では、天皇のイスラーム改宗にまつわる噂が広まることもあった。この噂は、対外戦略として日本側が意図的に広めたとも言われている[★28]。
日本人の女子高生である愛紗がカリフになるという『オレカリ』の構図は、近代史上に表出した、「カリフ制を再興する日本」あるいは「カリフ帝国としての日本」という可能世界の片鱗を、今日の日本を舞台に描き直すものだ。
中田は従来、〈現代・日本〉という地点からイスラームを捉えるためにはどうすればよいかという強い問題意識を持ち、日本の読者に向き合ってきた[★29]。そのような論者が、日本におけるイスラームの文学的表象の欠落に目を向け、「日本イスラーム文学」の(再)開拓に向かうのは、極めて自然なことだったと言える。
中田はときに、イスラームのイデオロギーを日本に植え付けようとする危険な活動家——もう少しマイルドな表現を好む論者からは、日本でイスラームの「布教」に熱心に取り組む宗教家——として批判されることがあるが、かかる批判の中で『オレカリ』が取り上げられることはない。それは、前述のように、『オレカリ』が中田の「遊び」とみなされているからであろう。
しかし、筆者の見解では、『オレカリ』は中田の思想活動のひとつの達成であり、彼の最も「危険な」著作である。中田は『オレカリ』「前書」の中で、「二次創作も大歓迎」、「私の代わりに誰かが『俺の妹がカリフなわけがない! 第二部』を書いてくれてもいっこうに構わない」[★30]と述べ、物語の利用を読者一般に開放している。忘却された日本イスラーム史をふたたび想起させること、そのための文学の可能性をふたたび開くこと。そこに『オレカリ』の企てがある。
★1 中田考『俺の妹がカリフなわけがない!』、晶文社、2020年、24頁-25頁。
★2 松山洋平「大日本帝国の汎イスラム主義者(イスラームななめ読み #3)」、『ゲンロンβ57』、ゲンロン、2021年1月(URL=https://webgenron.com/articles/gb057_02/)。
★3 新保敦子『日本占領下の中国ムスリム:華北および蒙疆における民族政策と女子教育』、早稲田大学出版部、2018年。Kelly A. Hammond, China’s Muslims & Japan’s Empire: Centering Islam in World War II, The University of North Carolina Press, 2020.
★4 臼杵陽「戦時下回教研究の遺産:戦後日本のイスラーム地域研究のプロトタイプとして」、『思想』、第941号、2002年、191頁。
★5 鈴木規夫『日本人にとってイスラームとは何か』、ちくま新書、1998年、176頁。
★6 柳瀬善治「戦前期における〈回教〉をめぐる言説・研究序説:同時代の「文学者」との接点を軸に」、『近代文学試論』、第40巻、2002年、156頁-167頁。
★7 同論文、164頁。
★8 同右。
★9 柳瀬善治「世俗的批評の〈神学的次元〉:「9・11」・「複数の戦後」」、『日本近代文学』、第66集、2002年、248頁。
★10 杉田英明『日本人の中東発見』、東京大学出版会、1995年、148頁-149頁。日本で一連のムハンマド伝が書かれるきっかけを作ったのは、1893年に邦訳が出版されたトマス・カーライル(Thomas Carlyle、1795年生まれ、1881年没)の『英雄崇拝論』(On Heroes, Hero-Worship, and the Heroic in History)だったようである。この本は、ムハンマドを人類史上の「英雄」のひとりとして取り上げており、当時日本でも広く読まれていた。この点に鑑みれば、この時代の日本におけるムハンマド伝の執筆は、アラビア趣味というよりも、むしろ西洋趣味に基づくものであったと言えるかもしれない。
★11 仲小路彰『砂漠の光』、新光社、1922年、598頁-600頁。旧字体などは現代的表記に改めた。
★12 「仲小路彰氏が自著「砂漠の光」に就いて語る」、読売新聞、大正12年6月18日、第7面。なお、野島芳明によれば、「砂漠の光」は当時の「ベストセラー」になったという(野島芳明『昭和の天才仲小路彰:終戦工作とグローバリズム思想の軌跡』、展転社、2006年、303頁)。
★13 昭和17年6月-11月に上野のイタリア文化会館でレオナルド・ダ・ヴィンチ展覧会が開催された際、会場の内庭で『砂漠の光』が毎日上演されたという(野島芳明、上掲書、29頁-30頁)。本展覧会は、仲小路の主導の下、レオナルド・ダ・ヴィンチ展覧会委員会(会長は末次信正海軍大将)が開催したものである。
★14 「仲小路彰氏が自著「砂漠の光」に就いて語る」、読売新聞、大正12年6月18日、第7面。
★15 福田義昭「昭和期の日本文学における在日ムスリムの表象(1):東京・朝鮮篇」、『アジア文化研究所研究年報』、第50号、2016年、91(256)頁-69(278)頁。「昭和期の日本文学における在日ムスリムの表象(2):神戸篇(前篇)」、『アジア文化研究所研究年報』、第51号、2017年、129(308)頁-108(329)頁。「昭和期の日本文学における在日ムスリムの表象(3):神戸篇(後篇)」、『アジア文化研究所研究年報』、第52号、2017年、1(366)頁-22(345)頁。「昭和期の日本文学における在日ムスリムの表象(4):軽井沢篇」、『アジア文化研究所研究年報』、第53号、2019年、1(238)頁-18(221)頁。
★16 この他、主要登場人物が明示的にイスラーム教徒であるとわかる宮内作品に、後述の「未來」(1938年)、「土耳其人サギタ孃に失戀した頃」(1938年)、「ぶるう・ぶつく」(1940年)がある(福田義昭「昭和期の日本文学における在日ムスリムの表象(1):東京・朝鮮篇」、80頁)。
★17 宮内寒彌「贋回教徒」、『中央髙知』、砂子屋書房、1938年、273頁。旧字体などは現代的表記に改めた(以下同様)。引用文中にある「君府」は、有島の妻が務めていた洋裁店「君府洋裁店」を指す。なお、「贋回教徒」は、『中央髙知』に収められる前に『早稲田文学』、昭和12年6月号(第5巻第6号)に掲載されているが、文言に多少の異同がある。本コラムの引用は『中央髙知』版から行った。
★18 「贋回教徒」、280頁。
★19 宮内寒彌「未來」、『中央公論』、昭和13年10月号、1938年、創作28頁。旧字体などは現代的表記に改めた(以下同様)。
★20 「未來」、19頁。
★21 「未來」、20頁。
★22 鈴木貞美「「私」の位置」、『宮内寒彌小説集成』、作品社、1985年、518頁。「贋回教徒」の性欲のテーマは福田も指摘するところで、トルコ人女性の、白人女性でありながらどこかアジア人風の風貌に性的な魅力を見い出す主人公の視点を分析している(福田義昭「昭和期の日本文学における在日ムスリムの表象(1):東京・朝鮮篇」、269頁-271頁)。
★23 単純に略せば「俺カリ」になるが、著者の中田が頻繁に用いる「オレカリ」の表記を採用する(中田考Twitterアカウント、URL= https://twitter.com/hassankonakata)。
★24 中田自身の執筆意図はここでは関係がない。中田自身は、現代におけるイスラーム法の再生が『オレカリ』執筆の目的(のひとつ)であると述べている(中田考『増補新版 イスラーム法とは何か?』、作品社、2021年、296頁)。
★25 中田考『オレカリ』、25頁。
★26 渡辺巳之次郎『回教民族の活動と亜細亜の将来』、大阪毎日新聞社、1923年、564頁-568頁。
★27 Renée Worringer, 2014, Ottomans imagining Japan: East, Middle East, and non-western modernity at the turn of the twentieth century, Palgrave Macmillan, pp. 100, 284n150. 杉田『日本人の中東発見』、221頁。
★28 Worringer, Ottomans imagining Japan, p. 81.
★29 たとえば、中田考『イスラームのロジック:アッラーフから原理主義まで』、講談社選書メチエ、2001年、特にその「プロローグ」および第2章にこのような問題意識が明白に表われている。
★30 中田考『オレカリ』、5頁。


松山洋平
1984年静岡県生まれ。名古屋外国語大学世界教養学部准教授。専門はイスラーム教思想史、イスラーム教神学。東京外国語大学外国語学部(アラビア語専攻)卒業、同大学大学院総合国際学研究科博士後期課程修了。博士(学術)。著書に『イスラーム神学』(作品社)、『イスラーム思想を読みとく』(ちくま新書)など、編著に『クルアーン入門』(作品社)がある。
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