平和について、あるいは「考えないこと」の問題(後篇)|東浩紀

9
エミール・クストリッツァの話から始めることになっていた[★1]。
クストリッツァについての紹介は必要ないだろう。世界的に知られる映画監督で、1954年にサラエヴォで生まれた。カンヌ国際映画祭で最高賞を2度受賞しているほか、ベルリン国際映画祭とヴェネツィア国際映画祭でも賞を獲得している。作品はいずれも評価が高く、とくに1995年に公開された『アンダーグラウンド』は、ユーゴスラヴィアの誕生から崩壊までの半世紀を寓話的に描いて話題となった。ぼくも個人的にたいへん好きな作品である。
けれども、そんなクストリッツァは政治的発言で毀誉褒貶の強い作家でもある。前回記したように、欧米メディアでは、ユーゴスラヴィア内戦の原因はセルビアのミロシェヴィッチ政権の拡張主義にあり、ほかの民族は被害者だったという見かたが支配的である。クストリッツァはその歴史観に公然と異議を唱えている。それゆえリベラル派から激しく批判されている。
ぼくはクストリッツァの支持者ではない。だから彼の政治的立場を擁護するつもりはないが、これからの議論の前提として記しておけば、彼はけっして単純なセルビア民族主義者ではない。そもそも出自はセルビア人ではない。ボシュニャク人である。
旧ユーゴスラヴィアではセルビア人が権力を握っていた。そのとき彼はセルビア人ではなかった。だから当時を単純に礼賛しているわけではない。1985年に公開された2番目の長編映画『パパは、出張中!』は、1950年代のサラエヴォを舞台にしている。主人公は不当逮捕で父を奪われた幼い少年である。公開時はまだティトーの死から五年しか経っておらず、体制批判の意図は明らかだ。また彼はロマの人々に共感を抱いているのでも知られている。1988年の『ジプシーのとき』は、全編ロマ語で撮影された世界初の映画だと言われる。
クストリッツァの政治的感覚の基礎にあるのは、特定の民族の優越性ではなく、むしろ内戦前のサラエヴォで実現していた多民族共生の経験であろう。少なくともある時期まではそうだったと考えられる。
サラエヴォが首都になっているボスニア・ヘルツェゴヴィナは、内戦が起こるまではセルビア人とボシュニャク人とクロアチア人が混在する多民族共生の地だった。むろん実際には葛藤があり、その抑圧こそが内戦につながった。とはいえ、とりあえず表面的には共生の平和が実現していた。
クストリッツァはその時代の記憶を大切にしている。前述の『アンダーグラウンド』や、同じようにユーゴスラヴィア内戦を扱った2004年の『ライフ・イズ・ミラクル』を観ると、彼の関心が、だれが正しくだれが悪かったのかといった善悪の判断になく、同じ文化を共有し、同じ言葉を話していた民族が殺しあうことの不条理さに向けられていることがよくわかる。彼の映画には兄弟のモチーフが頻出するが、それは明らかに民族関係の隠喩になっている。クストリッツァも、さすがにセルビア人が悪くなかったとは考えていないだろう。ただ、セルビア人だけを悪者にしても、共生は戻って来ないと訴えているのだ。
とはいえ、その主張は確かにセルビアの罪を相対化するものではある。だから批判されている。それにじつのところ、あとであらためて見るように、最近ではクストリッツァの発言自体も素朴な歴史修正主義に近づいている。
クストリッツァは2005年に洗礼を受けて、セルビア正教徒となった。彼自身はイスラムを信仰したことはない。とはいえボシュニャク人は伝統的にイスラム教徒として知られる。その出自を否定したことになる。2012年にはセルビア正教会から最高位の勲章を授かっている。
ロシアのプーチン大統領とも親交がある。2012年の大統領就任式に列席し、2016年には勲章をもらっている。2022年にロシアがウクライナを侵攻した直後には、セルビアとロシアの連帯を重視する立場を表明している。最近では、プーチン政権の援助を受けロシア文学を主題とした新作を撮る構想も発表している。こうなってくると、いくらむかしの作品が好きでも擁護はむずかしい。
ちなみに翌年の2023年には、かつて1999年のNATOによる空爆に反対し、そのためにクストリッツァと同じく批判され続けているドイツの作家、ペーター・ハントケと連帯する書物も出している。ページをめくると、ハントケの名「ペーター」が聖人ペトロになぞらえられており、クストリッツァのなかで問題が宗教的次元にまで高まっていることがよくわかる[★2]。いまの彼は、現代世界を支配する大きな不条理に対して、芸術と宗教の力で戦っているつもりなのだろう。
さて、そんなクストリッツァは、セルビア西部のリゾート地に小さなテーマパークを建設している。その名を「クステンドルフ」または「ドルヴェングラード」という。
クステンドルフは、クストリッツァ自身の名前の一部に、ドイツ語で村を意味する「ドルフ」を付け加えた名称らしい。「クストリッツァの村」というわけで、クストリッツァ本人も近くに自宅を構えている。セルビア語ではドルヴェングラードという別名をもち(こちらは木の街という意味)、公園が位置する丘全体はメチャヴニクと呼ばれている。たいへんややこしく現地に行くまえは混乱したが、結論から言えば、クステンドルフでもドルヴェングラードでもメチャヴニクでも、好きなように呼べばよいようだ。この原稿ではクステンドルフと呼ぶ。
クステンドルフはモクラ・ゴラの近くにある。モクラ・ゴラは首都のベオグラードから車で3時間ほどの距離に位置する山間の村である。村を含む一帯は自然公園に指定されており、緑深い山々が連なっている。ボスニア・ヘルツェゴヴィナからわずか数キロの国境地帯でもある。
モクラ・ゴラには、かつてベオグラードとサラエヴォを結ぶ狭軌鉄道が走っていた。サラエヴォから来た蒸気機関車は、ここでセルビアへ抜けるため250メートルほどの標高差を登って峠を越えねばならなかった。そのため、平面図で見ると8の字型をした、トンネルだらけの特徴的な軌道が敷かれることになった。
ベオグラードとサラエヴォをつなぐ鉄道は1970年代に廃線となった。しかし、この特徴的な峠越えの部分だけは2003年に新たに観光鉄道「シャルガン・エイト」として蘇った。シャルガンは峠の名前で、エイトという単語が入っているのは軌道が8の字型だからだ。セルビア語では「シャルガンスカ・オスミツァ」という名称だが、こちらも同じくシャルガンの8という意味である。いまは毎日数便、麓のモクラ・ゴラ駅から山頂のシャルガン=ヴィタシ駅へ行き、途中で長い休みを入れながら戻ってくる往復2時間半ほどの観光列車が走っている。
クストリッツァは、前述の『ライフ・イズ・ミラクル』でこのシャルガン・エイトをロケ地として選んだ。映画を観ると冒頭から鉄道が出てくる。それがシャルガン・エイトだ。物語を通して大きな役割を果たしている。
そして彼はその撮影にあたり、周囲の自然の美しさに惚れ込み、近くのメチャヴニクの丘を買い取ってテーマパークをつくることにした。それがクステンドルフである。
クステンドルフはいわゆる民俗村だ。セルビアの伝統的な木造建築が並んでいる。宿泊が可能で、テニスコートやプールも併設されている。基本的には観光施設だ。
しかし、公式サイトに寄せられた言葉によれば、クストリッツァにはより深い思いがあったようだ。彼はサラエヴォの生家を戦争で失った。だから故郷を再建したいとずっと考えていた。そんなときメチャヴニクの丘に出会った。
古い故郷は社会の混乱のせいで失われた。だから新たに建設される故郷は住民を「社会の毒」から守る「要塞」でなければならない、とクストリッツァは書く。それは古代ギリシアの都市のような自律的な存在でなくてはならず、食糧を自給し、文化活動も営まれる場でなければならない。だからクステンドルフには厩舎を併設している。近くでは野菜や果物も生産する。映画祭や音楽祭も開催する。クストリッツァは、クステンドルフは「夢の街」であり「ユートピア」になるのだと、熱のこもった筆致で記している[★3]。
ここらあたりで本稿のテーマを振り返っておこう。ぼくは前回、サラエヴォの住民は「隔離の平和」ではなく「多民族共生の平和」を信じており、だから五輪と内戦の記憶を重ねて保持しているのだと記した。
隔離の平和は単純な平和である。それは、不愉快な隣人を視界から消し、考えないようにすることで実現する平和だからだ。
けれども共生の平和はそうはいかない。共生すればつねに不愉快な隣人が目に入る。衝突も起きる。そのうえで利害を調整し、友好を維持しなければ、平和はあっというまに蒸発してしまう。
しかも、そうやって維持した平和でさえ、あとから振り返って「じつは平和ではなかった」と否定される可能性がある。実際、ユーゴスラヴィアが実現したはずの多民族共生は、のちにセルビア民族が支配する偽の平和だったと読み換えられた。そして内戦が起きた。共生の平和は、この点でとても厄介で、逆説的ですらある概念だ。
逆説の内実にもう少し踏み込んでみよう。ぼくは前回、平和を「考えないこと」で定義しようと提案した。いくら重要な課題があり、世論や権力が政治への参加を要求したとしても、あるていど身を引き、「考えない」でほかの活動を行う自由が保証されていること。それがぼくの考える平和の条件だ。この定義の具体性は、裏返しの事態を想像してみるとわかりやすい。いまは非常時なのだから娯楽は自粛しろ、不要不急の活動はやめろ、公の利益をつねに考えて行動しろ──そのような意見が支配的になったら、たとえ現実に銃弾が飛び交っていなかったとしても、すでに平和は脅かされ始めている。ぼくはそのように考える。
隔離の平和は、この前回の定義を素直に満たしている。不愉快な隣人が消えれば、確かにみななにも考えなくてよくなる。
けれども共生の平和はどうか。そこでは不愉快な隣人は変わらず存在し続けている。放置すれば衝突が起こる。だとすれば平和を維持するためには、だれかが状況に配慮し続ける必要がある。
これは言い換えれば、共生の平和においては、平和の条件である「考えない自由」を守るため、だれかが裏方として考え続ける必要があるということである。考えないために考える。考えて、考えていないふりをする。共生の平和はそのようなアクロバットなしにありえないが、これは見かたによっては自己矛盾であり、嘘である。
したがって共生の平和には構造的に弱点が宿る。「考えない自由」は嘘によって維持されているのだから、それにつきあいたくなくなった当事者が平和は嘘だったと言い出したら、どうしようもなくなってしまう。あなたはあれを平和だと思っていたようだが、それはカンチガイだ、なぜならばあのとき考えない自由を享受していたのはあなただけで、わたしのほうはつねに破局を恐れ、暴力を避けるために考え続けていたのだからと、ともに平和を享受していたはずの仲間から訴えられたとき、訴えられた側は原理的に反論することができない。平和の記憶は「じつは」の告発のまえに蒸発してしまう。これが、共生の平和はつねに事後的に否定される恐れがあると記した理由である。
これは極端な思考実験ではない。むしろ、組織や家族や共同体が壊れるときに広く一般的に起きていることである。あのときは仲間だと信じていた、愛しあっていると思っていた、しかしじつは騙されていた、搾取されていた、許せない──人生はそんな過去の読み替えで満ちている。そしてそのような読み替えは個人の人生でなく国家や民族の歴史でも起きる。それがまさに1990年代のユーゴスラヴィアで起きたことである。また、いわゆる犠牲者意識ナショナリズムの台頭で多くの国が経験していることである。その読み替えのメカニズムを明らかにすることは、平和の記憶や持続可能性を考えるうえでとても重要なのだ。
あらためて整理しよう。平和には2種類の平和がある。隔離の平和と共生の平和だ。
隔離の平和は他者を排除する。共生の平和は他者を排除しない。多くのひとは、前者は偽物でしかなく、後者こそが求めるべき本物の平和だと考える。それは確かにそうだ。
けれどもその「本物の平和」なるものは、哲学的に考えると、原理的な矛盾を孕んだじつに危うい概念なのである。共生の平和は、みなが考えないふりをし、考えない自由を守ることで成立する。だから、だれかひとりでも、そのふりの有効性、つまり平和のルールの有効性を疑い始めると、いまここでの平和の感覚が消滅するだけでなく、過去の平和の記憶も遡行的に消滅してしまう。前回平和が戦時には「思考不可能なもの」になると記したのは、この「じつは」のメカニズムがあるためだ。
哲学に興味のある読者に向けて付け加えれば、ぼくはこの「じつは」のメカニズムについて『訂正可能性の哲学』という本で多少詳しく論じたことがある[★4]。そこでぼくは、ソール・クリプキという哲学者の仕事を援用して、足し算(加算)のような単純な言語ゲームにおいてさえ、「じつは」による遡行的訂正を完全には排除できないことを明らかにしている。ここでその議論を要約することはとてもできないが、加算のようないかにも単純明快に見える言語ゲームにおいてさえ、ぼくたちは、わたしたちがいままでやってきたのは加算ではない、「クワス算」というべつの演算だったのだと主張する懐疑論者の声をけっして完全には排除できない。それが人間のコミュニケーションの本質なのである。
平和と戦争の関係は、じつはこの加算とクワス算の関係に似ている。ぼくたちはいま平和な社会に生きている。少なくともそう感じている。にもかかわらず、近い将来、あなたたちがいままで暮らしてきたのは平和な社会ではない、じつはずっと戦争状態だった、世論は操作されスパイが暗躍し富は外国勢力に奪われていたのだという主張が現れたとき、ぼくたちはその声をけっして完全には排除することができない。そしてそのような読み替えが進めば進むほど、実際に戦争は近づいてくる。
話が抽象的になりすぎた。いずれにせよ、以上のような理由で共生の平和について語るのはとてもむずかしい。あのときは平和だったね、と振り返ること自体も暴力になりかねない。
そしてぼくの考えでは、クストリッツァはまさにこの困難に直面し続けている作家である。『アンダーグラウンド』も『ライフ・イズ・ミラクル』も、出自が異なる人々が共生していたさまを、のちの内戦と対比させつつ肯定的に描いた作品だ。そしてその共生の記憶は、彼特有のマジックリアリズムで表現されている。わかりやすく言えば、現実と夢が混ざりあうような映像によって表現されている。のちにスラヴォイ・ジジェクによる批判を紹介するが、それは確かに一部のひとには過去の理想化や戦争犯罪の矮小化に映る。クストリッツァはまさに、あのときは平和だったね、と振り返ること自体が暴力だと批判されている作家なのだ。
それゆえ、そんな彼が、セルビアとボスニア・ヘルツェゴヴィナの国境近くに、つまり内戦によって分断されたふたつの国家をつなぐように、しかも失われた故郷を取り戻すという宣言とともにつくりあげたテーマパークとはどのようなものなのか。ぼくは関心を抱かざるをえなかった。そこには共生の平和について語るための重要なヒントがあるのではないか。
そのような期待に駆動されて、わざわざ首都から遠く離れた山間地のリゾートまで出向いたのである。
10
ではどんなヒントがあったのか。結論から言えば、それはまったくの期待はずれだった。
さきほども記したように、クステンドルフは基本的には観光施設だ。伝統建築が並んでいる。宿泊もできる。教会もある。スポーツ施設もある。料理も楽しむことができる。冬には近くにスキー場も開かれるという。ウェブサイトだけ見ると、ずいぶんと立派な施設を想像する。
しかし現実にはかなり規模が小さい。クストリッツァが個人で事業を立ち上げたのだから当然といえば当然だが、とてもテーマパークという言葉で想像する大きさではない。1時間もあれば楽に回ることができる[図1]。

しかも客も少ない。ぼくたちが訪れたのは35度を超える灼熱の日で、おまけに平日だった。そのせいかもしれないが、園内はひどく閑散としていた[★5]。映画祭は確かに継続しているらしく、あちこちにポスターが貼ってあったが、賑わうのはそんな催事のときだけかもしれない。
というわけで、クストリッツァのよほどのファンでないかぎり、わざわざ行く場所ではないという印象だった。それは残念なことだったが、ただひとつ興味深い気づきはあった。それは敷地全体を覆うキッチュさだ。
いま記したように、クステンドルフは毎年映画祭を開催している。それを象徴するように、通りや広場にはクストリッツァが尊敬する映画監督の名がつけられている。フェリーニ通りがあり、ベルイマン通りがあり、タルコフスキー広場があり、キューブリック劇場がある。
そこまではいいのだが、よく観察すると、イヴォ・アンドリッチ通りやニコラ・テスラ広場、ノヴァク・ジョコヴィッチ通りなどもある。こちらは映画人の名前ではない。アンドリッチは作家、テスラは発明家、ジョコヴィッチはテニス選手だ。生きた年代も活動もばらばらで、共通するのは最近のセルビアの愛国主義に結びついていることぐらいである。では政治的意図が優先されているのかといえば、マラドーナ広場やブルース・リー通りなどもあり、ほか家屋に革命家のチェ・ゲバラや宇宙飛行士のテレシコワの肖像画も描かれたりしていて、選択の基準が判然としない。
園内には大きなホールがある。壁には多くの写真が飾られていたが、こちらもまた、プーチン大統領との会食の写真があると思えば、ゲバラやアンドリッチら歴史的人物の肖像写真が並び、ジョニー・デップなどセレブとのプライベートなツーショットがあるという感じで、じつに雑然としていた。
頭を悩ませたのだが、結論から言えば、この壁にしろ前述の通りや広場の名前にしろ、単にクストリッツァが好きなものを集めただけだと理解するのが正解だろう。政治性がありそうでない、ただそれっぽいだけというこの中途半端な性格は、園内のある倉庫の扉に描かれた風刺画にも表れている[図2]。2000年代にアメリカの正副大統領だった二人、ブッシュとチェイニーが牢屋に閉じ込められているさまが描かれているのだが、主張は曖昧だ。反米の気持ちが盛り上がるなか、悪ふざけでやったようにも見える。

そもそもクステンドルフは民俗村ということになっているが、建造物がどれほど真正な伝統に基づくものかはわからない。素人目には、なんとなくバルカン風のデザインのコテージを建てただけのようにも見える。少なくとも建築様式についての説明はない。いくつかの建物のなかには民芸品の展示があるが、そちらも説明はない。土産物屋に並ぶ商品も、よくあるマグカップやマグネットのほかはクストリッツァ自身の書籍やDVDが中心で、地域文化に配慮したようには感じられなかった。
その歴史感覚の欠如は、前述のシャルガン・エイトとは対照的である。そちらには小さな博物館が併設されていて、狭軌鉄道時代の記録写真や当時の券売機などが詳細な説明つきで展示されていた[図3]。そしてシャルガン・エイトのほうには、同じ灼熱の平日でも観光客が集まっていた。

クステンドルフには現実がなかった。脈絡のない俗悪な夢しかなかった。ぼくが感じたのは要はそういうことだ。
だからぼくはこのテーマパークをキッチュと形容したのだが、考えてみればそれはクストリッツァの映画全体の特徴でもある。
彼の作品は現実と夢の混在を特徴としている。国家の歴史と個人の妄想が区別されず、政治も性も暴力もすべてが渾然一体となって表現されている。その幻想的な演出、べつの見かたをすればいささか独善的な美学は、前述の『アンダーグラウンド』では公的な歴史の脱構築としてうまく機能している。少なくともぼくはそう判断している。だからこの作品を評価する。
けれども、それはほかの作品では必ずしも機能していない。ぼくでさえそう感じるし、そもそもそのような美学を嫌う人々もいる。この点で彼の映画を認めないひとも多い。
そんな批判者のひとりに、いまや世界的に知られる哲学者となったスラヴォイ・ジジェクがいる。ジジェクは『アンダーグラウンド』の公開直後に、すでに早くも辛辣な批判を記している[★6]。そこで展開されたのは、ひとことで要約すれば、この映画のいっけん政治的に見えない、夢のような表現こそがじつはもっとも政治的な効果をもつものなのであり、それは公開当時ボスニアで進行していた虐殺の隠れ蓑になっている、だから支持できないという批判である。
非政治的なものこそもっとも政治的だというこの逆説は、ポストモダニストがたいへんよく好むものである。彼らはこの理屈であらゆるものを政治的に批判する。その点では独自性の高いものではない。ジジェク自身、同じ理屈をさまざまなエッセイで使い回している。
いささか自己言及的に付け加えれば、このぼくの平和論はそんなクリシェから脱出するために書かれたものでもある。非政治的なものこそもっとも政治的だという彼らのレトリックは、あらゆる文化的な営みをすべて政治へ回収し、人間が政治から距離を取る可能性を封鎖する、また別種の暴力の表れだと思われるからである。
話を戻そう。いずれにせよ、ぼくはジジェクの批判に必ずしも賛同するわけではない。そもそもぼくは、なんども言うように『アンダーグラウンド』を高く評価している。
とはいえ、ここで注意しておきたいのは、ジジェクがクストリッツァと同じ旧ユーゴスラヴィアの出身だということである。ジジェクは1949年にスロヴェニアのリュブリャナで生まれ、クストリッツァは五年後にボスニア・ヘルツェゴヴィナのサラエヴォで生まれた。つまり、この二人はほぼ同世代の同国人なのである。彼らはともにティトー存命中のユーゴスラヴィアで青年時代を過ごし、社会主義下の多民族共生を経験した。
にもかかわらず、二人の祖国への態度は対照的である。ジジェクはのち完全に欧米に拠点を移し、グローバルな左派知識人のひとりになる。他方でクストリッツァはバルカン半島に戻り、セルビア正教徒になり民族主義者となる。その選択は映画の公開からかなりあとのことだが、ジジェクの批判にはすでに未来の人生の差異が予告されている。
クストリッツァは『アンダーグラウンド』で、ユーゴスラヴィアの半世紀を幻想的なかたちで描き出している。現実には起こりえないことが起こり、つながらない事件がつながる。セルビア人がいて、ボシュニャク人がいて、ロマがいて、障害者がいて、テロリストがいる。セックスがあり、食があり、結婚があり、死があり、そして全編を通してハイテンションなロマの音楽(ジプシーブラス)が鳴り響く。その狂騒的な演出は、兄弟民族が敵味方に別れた過酷な現実を見つめたうえで、それでもかつての共生を描き出すため、やむをえなかった表現的な工夫だと解釈できる。
けれどもそれはジジェクにはまったく異なるものに感じられたようだ。ここで議論を細かく紹介する余裕はないが、彼の批判の起点になっているのは、当時の西側メディアがユーゴスラヴィアに対して抱いていた幻想的な視線(オリエンタリズム)の問題である。
ヨーロッパはバルカン半島を美化している。あるいは悪魔化している。だから民族浄化のような戦争犯罪も、その差別的な視線のなかで曖昧に「理解」されてしまう。ジジェクはその視線こそ危険だと感じている。
そこにはもしかしたら、当時40代でグローバルなキャリアに足を踏み入れかけていた、彼自身のスロヴェニア出身者としての苦悩も反映されていたのかもしれない。いずれにせよ、彼はそのようなバルカン差別こそが問題だと感じているのに、クストリッツァのほうはそんな差別意識を強化する映画を嬉々として制作している。少なくともジジェクはそう感じている。そしてその鈍感さに強く反発している。彼はつぎのように記している。「バタイユもどきの過剰な蕩尽によるトランス状態、飲んだり喰ったり、踊ったり姦淫したり、この狂騒的リズムの延々たる継続──民族浄化主義者の『夢』はこういったものから成っている」のであり、「クストリッツァのこの映画は、ユーゴスラヴィアの民族浄化、戦争の残虐行為について、ナチと同じ『非政治的』なファンタスムの素地を現出させている」から危険なのだと。
クストリッツァは旧ユーゴスラヴィアの腐敗を意識しつつも、それでも共生の崩壊は悲劇だと考える。だから平和の記憶を幻想として描き出す。ジジェクにはそのような平和への郷愁がない。それゆえ逆にクストリッツァの幻想はユーゴスラヴィアの悪を覆い隠すだけだと糾弾する。ここに二人の対立の焦点がある。
ここにはまさに、さきほど指摘した共生の平和の問題が表れている。クストリッツァはあのときは平和だったねと言っている。そしてジジェクはまさにそれに怒っているのだ。
なお、その対立は、二人の出身地であるスロヴェニアとボスニア・ヘルツェゴヴィナの国情の差異も反映しているのかもしれない。スロヴェニアはそもそもスロヴェニア人が多数派で、セルビア人中心の連邦への参加に無理がある土地だった。対してボスニア・ヘルツェゴヴィナは歴史的に多民族が混在し、まさにユーゴスラヴィアの理念を体現したような土地だったからである。
説明が長くなった。いずれにせよ、クストリッツァには現実がない。夢しかない。より正確には現実を覆い隠す夢しかない。それはすでにジジェクによって30年近くまえに指摘されていた。クステンドルフは、その弱点をあらためて露呈した、いかにもクストリッツァらしい場所だった。
11
しかし話はここで終わらない。ジジェクは、クストリッツァは現実を夢で覆い隠していると批判した。クステンドルフもキッチュなハリボテでしかなかった。それはふつうは弱点だ。
けれども、ここで問われているのはそんな指摘で済ませてはならない問題なのかもしれない。キッチュさはむしろ強みだったのかもしれない。平和の記憶を幻想的な夢として描いたことは、ジジェクが指摘したように悪の隠れた肯定だったのではなく(少なくともそれだけだったのではなく)、むしろ逆に、彼が悪に直面していたことの転倒した表現だったのかもしれない。現実を夢で覆い隠しているほうが、現実を露呈させるよりもまだましだったのかもしれない。ぼくは旅を続けることで、だんだんそんなふうにも考えるようになっていった。
どういうことか。
クストリッツァはじつは、クステンドルフのあと、2010年代にもうひとつ公園を建設している。そちらの名は「アンドリッチグラード」という。アンドリッチの街という意味だ。
アンドリッチグラードはヴィシェグラードという小さな地方都市に位置している。ヴィシェグラードは、クステンドルフのあるモクラ・ゴラからたいへん近い。直線距離だと20キロもない。ただしあいだには国境がある。モクラ・ゴラはセルビアの村だが、ヴィシェグラードはいちおうボスニア・ヘルツェゴヴィナの街だ。
モクラ・ゴラの中心を出発し、五分ほど車を走らせると国境がある。出入国審査はたいへん簡素で、降車も求められない。そのまま山道を走ると、30分もかからずにヴィシェグラードに到着する。ヴィシェグラードはドリナという大きな川に面している。アンドリッチグラードは、モクラ・ゴラから流れてきた小さな川がその大河に合流する場所に建設されている。
アンドリッチグラードの「アンドリッチ」は、小説家のイヴォ・アンドリッチから取られている。クステンドルフでは通りの名になっていた。1961年にノーベル文学賞を受賞したユーゴスラヴィアを代表する作家で、ヴィシェグラードで幼少期を過ごした。そしてこの街を舞台に『ドリナの橋』という歴史小説を書いた。
ドリナ川には、「ソコルル・メフメト・パシャ橋」という名の美しい石組みの橋がかかっている。16世紀のオスマン帝国時代に建設され、いまはユネスコ世界遺産に登録され観光地になっている。『ドリナの橋』は、この橋を語りの結節点に使った4世紀にわたる長い年代記である。正教徒、イスラム教徒、ユダヤ人らが混住し、ときに戦乱に巻き込まれつつ共生してきた長い歴史が美しい文章で綴られる。邦訳もある。
クストリッツァは、かつてこの『ドリナの橋』の映画化を試みたらしい。そしてオスマン帝国時代やオーストリア帝国時代の街並みを再現したオープンセットを建設し、撮影後は観光施設に転用しようとしたらしい。結局その映画は制作されなかったのだが、セットだけは2014年に完成し、それが公園として整備されたのが現在のアンドリッチグラードらしい──のだが、「らしい」を連発しているところからわかるように、これらの説明は正確でないかもしれない。公式サイトなどに情報がなく、どうも経緯が判然としないのだ[★7]。
いずれにせよ、アンドリッチグラードという公園は確かに存在する。クステンドルフと異なって入場料は取らない。クステンドルフは木造建築が集められていたが、アンドリッチグラードには石造建築が集められている。クステンドルフと同じように教会があり、土産物屋があり、レストランがあり、敷地内に宿泊することもできる。
アンドリッチグラードはクステンドルフほどにはキッチュな印象を与えない。教会も街並みも規模が大きく、必要な時代考証もされていると感じる[図4]。市民にも愛されている。ぼくたちが訪れたときには、新婚衣装に身を包んだカップルが記念撮影をしていた。もともとが映画のセットなので、確かにその手の撮影には適している。そしてなによりも大事なことに、チェ・ゲバラやテレシコワのような意図不明な人物の壁画がない。銅像は建てられているが、みな調べると名のある政治家や文学者ばかりだ。

つまりはアンドリッチグラードはちゃんとした公園なのだ。クストリッツァとの関係を知らずに訪れても、それほど困惑しないだろう。
しかし、ちゃんとしているということは設計の意図が合理的に理解可能だということでもある。実際、ここはクステンドルフよりもはるかに強く政治的な意図を感じる空間でもある。そしてその意図はあまり愉快なものではない。
ぼくはさきほど、ヴィシェグラードは「いちおう」ボスニア・ヘルツェゴヴィナの街だと記した。なぜそんな奥歯にものが挟まったかのような表現をしたのかといえば、ヴィシェグラードが位置するのは、ボスニア・ヘルツェゴヴィナといっても「スルプスカ共和国」の領域だからだ。クストリッツァは、この共和国から資金協力を得てアンドリッチグラードを建設した。
前回も説明したように、ボスニア・ヘルツェゴヴィナという主権国家は、いまは「スルプスカ共和国」と「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦」のふたつの政体(国家内国家)に分割されている。前者にはおもにセルビア人が、後者にはおもにボシュニャク人とクロアチア人が住んでいる。両者のあいだにはいまだに政治的に軋轢があり、とくに1990年代の内戦についての認識は大きく異なっている。スルプスカ共和国はこの点では、同じ国家を構成する仲間であるボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦よりも、隣の国であるセルビアに立場が近い。
したがっていまのヴィシェグラードは、行政区分としてはボスニア・ヘルツェゴヴィナに属するものの、精神的にはセルビアに属する街だと言える。実際に街中ではキリル文字の看板を多く見かけるし、店によってはセルビアの通貨も通用する。歴史認識もはっきりとセルビア寄りだ。観光客が集まる広場には大きな石像が立ち、ボスニア紛争でのセルビア人兵士の戦いを讃えている[図5]。足もとの台座には「スルプスカ共和国の擁護者たちへ」と刻まれている。街を見下ろす墓地にはセルビア人兵士の墓が並んでいる。この街の歴史観においては、セルビア人は加害者ではなく、故郷を守るため侵略者に抵抗したことになっている。だからこそ、セルビア民族主義者として知られるクストリッツァの計画も歓迎されたわけである。

しかしこの認識は大きな問題を孕んでいる。というのも、ヴィシェグラードはもともとはセルビア人の街ではなかったからだ。
アンドリッチが『ドリナの橋』の舞台に選んだことに示されているように、ヴィシェグラードは本来は複数の民族が混在する街だった。小説には、正教会の司祭、イスラム教の指導者、ユダヤ教のラビが、橋のうえで顔を突き合わせて街の未来を相談する印象的な場面がある。ユダヤ人は第二次大戦を経ていなくなったが、戦後もイスラム教徒(ボシュニャク人)は住み続けた。というよりも彼らこそが長いあいだ多数派で、正教徒(セルビア人)は少数派だった。1991年の時点では、住民の6割はボシュニャク人だった。
それが内戦で変わった。ボスニア紛争は1992年に始まった。ヴィシェグラードはすぐに戦地になり、セルビア人勢力に占領された。そしてそれから停戦までの3年間、街はセルビア人に支配され、民族浄化が行われた。多数のボシュニャク人が勾留され、追放され、殺された。一連の事件はヴィシェグラード虐殺と呼ばれ、責任者は旧ユーゴスラヴィア国際戦犯法廷(ICTY)で裁かれている。とはいえ、司法の場で真実が明らかになったからといって街が戻るわけではない。1995年に停戦合意が成立した時点では、ヴィシェグラードは変わらずセルビア人勢力に占領されており、街はそのままスルプスカ共和国の領域に組み込まれた。ボシュニャク人は帰って来ず、住民は9割がセルビア人となった。
そして、そんな新住民はいまもICTYの歴史認識に同意していない。ヴィシェグラードでは、前出のメフメト・パシャ橋をはじめ、まさに街の中心部が戦争犯罪の現場となった[★8]。しかしいま訪れても、そのような過去を示す案内板などは存在しない。少なくともぼくたちは発見できなかった。かわりに、観光客が集まる広場には、さきほども記したように、セルビア人兵士を讃える大きな記念碑が聳え立っている。
ヴィシェグラードは、30年ほどまえにセルビア人がボシュニャク人から簒奪して成立した街である。いまのヴィシェグラードはその過去を否認している。それは、五輪と内戦の記憶を複雑なかたちで重ね合わせた、サラエヴォの両義的な過去への態度とはじつに対照的だ。
ひとつ紹介しておくと、その否認をもっともグロテスクなかたちで体現しているのが、街の中心部から4キロほど離れた森のなかに位置するヴィリナ・ヴラスという名の温泉保養施設である。
ヴィリナ・ヴラスは、旧ユーゴスラヴィア時代に建設された古いリゾートである。かつては高級リゾートとして知られ、政治家や著名人が利用していたらしい。それが内戦時にスルプスカ共和国軍に占領され、性的接待のための収容所に転用された。多数のボシュニャク人女性が監禁され、セルビア人兵士の暴行を受けた。被害者には14歳未満の少女もいた。犯罪の詳細はさまざまな証言で明らかになっている。ICTYでも裁かれている。
ところが、驚くべきことに、このリゾートは戦後営業を再開し、いまもなにもなかったかのように営業し続けている。ウェブサイトにアクセスすると、高齢者夫婦や家族連れが休暇を楽しむ姿がアップされている。インスタグラムのアカウントもある。歴史を知らなければ、いい感じのホテルとして予約してしまいかねない。この醜悪な事実は英語圏のメディアでは紹介され批判されている。告発するドキュメンタリー映画もある[★9]。けれども市民は気にしていないようだ。
ぼくたちはこの場所も訪れてみた。施設の外観は収容所に転用された時代から変わっていない。内装もおそらく変わっていない。ロビーの吹き抜けは黒と金を基調とした重厚なデザインで、いかにも共産主義時代の建築という印象だ。
歴史を知っていると緊張感が高まる。けれども記念碑も案内板もなにもない。過去を想起させるものはなにもない。おそるおそる足を踏み入れたが、職員に怪しまれて声をかけられるわけでもない。
ぼくたちは土産物屋でロゴ入りのマグネットを購入し、カフェのテラスに腰を下ろした。ワインと名物の鉱泉水を注文し、宿泊客を眺めながら小一時間を過ごした[図6]。年配の女性客が多かった。アルコールが回ってくると、そこがわずか30年前、多数の少女が性奴隷として監禁されレイプされ続けていた施設であると想像することはむずかしくなっていった。歴史修正主義はこのようにして完成するのだなと思った。

話を戻そう。クストリッツァは、そんなヴィシェグラードに、スルプスカ共和国の支援を受けて巨大なオープンセットを建設した。そしてそこで撮影される映画は、アンドリッチが『ドリナの橋』で描いた多民族共生を主題とすることになっていた。それがアンドリッチグラード建設の背景だ。
ここには、ヴィリナ・ヴラスのグロテスクさにも通じる、はっきりした歴史の否認が認められる。アンドリッチグラードは表面的には、セルビア人とボシュニャク人の共生を主題としている。そのテーマを象徴するように、公園の入口には、セルビア正教会の総主教とオスマン帝国の宰相、つまりいまでいうセルビア人とボシュニャク人が手を取り合っている像が建てられている[図7]。両民族の共生は確かにクストリッツァの生涯の願いだ。そこに嘘はあるまい。

しかし問題はその願いが足もとの現実とあからさまに衝突していることである。クストリッツァは、セルビア人とボシュニャク人の共生を主題とした映画を、まさにセルビア人がボシュニャク人から奪った占領地で撮影しようとしている。それは子どもでもわかる矛盾である。矛盾を自覚して進めているのだとすれば、あまりに露骨で暴力的である。
そもそもアンドリッチグラードの敷地については気になる報道がある。そこにはかつてスポーツセンターがあり、内戦時には収容所として使われていたというのである[★10]。収容所の跡地が娯楽施設になる。それはヴィリナ・ヴラスの構図そのものである。もしこの報道が正しいのだとすれば、公園建設に込められたグロテスクな政治性はますます明白になる。
ぼくはさきほどアンドリッチグラードはあまりキッチュな印象を与えないと記した。全体としてはそうなのだが、ひとつ例外がある。それはメインストリートにある映画館の入口に掲げられた大きなモザイク画である[図8]。

壁画のなかでは、リンゴの樹を背景に複数の中年男性が綱引きをし、それを青年や女性が見守っている。描かれた人物にはそれぞれモデルがあるようだが、全員の名前は定かではない。けれども、先頭がこの壁画が公開された当時のスルプスカ共和国の大統領、ミロラド・ドディクで、2人目がクストリッツァ本人であることはわかる[★11]。彼らがなにを引き寄せているのかは定かではない。けれども、特定の民族の利害を代表する政治家とともに、笑顔を浮かべて共同作業する自分の姿を誇らしげに掲示するクストリッツァには、もはやかつてジジェクが批判したような、現実を夢で覆い隠してしまう弱さは残されていないように思われる。
いまのクストリッツァは夢に逃げていない。現実に関与している。しかしそれゆえに都合の悪い現実は否認しているのだ。
12
それゆえ、ぼくは、アンドリッチグラードを訪れたあと、むしろクステンドルフのキッチュさが懐かしくなったのである。
共生の平和について語るのはむずかしい。かつてのクストリッツァはそのことを知っていた。だから共生の記憶を夢としてしか描くことができなかった。それはジジェクに現実から逃げていると批判された。
その指摘は正しかったのかもしれない。しかし、少なくとも当時のクストリッツァには、実際に凄惨な殺しあいが起こってしまったいま、平和だった過去はもはや現実としては語れない、夢としてしか表現できないという限界の自覚があった。
その自覚をはっきりと示しているのが、『アンダーグラウンド』の有名な最後の場面である。この作品の物語はあまりに複雑で要約にほとんど意味がないが、それでも必要なかぎりで紹介すれば、映画の中心はマルコとクロという二人の男性である。
マルコとクロは親友で、ともにパルチザンとして戦い、同じ女性に恋焦がれている。映画はこの二人を軸として進み、それぞれの妻や子どもや兄弟、そして友人たちが織りなす複雑な人間関係が、ユーゴスラヴィアの入り組んだ歴史を寓話的に表現する構造になっている。マルコとクロは深い友情で結ばれているが、最後まで幸せな関係はつくれない。マルコはクロを裏切り、地下に幽閉し、戦後はその名声を搾取することで高い政治的な地位につく。けれどもそれも結局は長続きせず、内戦では逆にマルコのほうが武器商人に身を落とし、クロの部下に殺されることになる。クロも自殺する。そして問題の場面は、そんなふうにマルコとクロの物語が悲劇的な結末を迎えたあと、突然夢のように挿入される。
そこでは、クロの息子、ヨヴァンの結婚式が行われている。しかし実際はヨヴァンは新妻とともに死んでいる。それが生き返っている。クロも生き返っている。マルコも生き返っている。ほかも死者が生き返っている。それはまさに失われた大家族の再集結の場面である。いちどはばらばらになった家族が、ふたたび集まり、川のほとりの緑の草原で、白いシーツがかけられた大きなテーブルを囲み、ジプシーブラスの演奏とともに、飲み、食い、笑い、踊りまくる。作中で交わせなかった会話が交わされ、許しあえなかった人々が許しあう。それはとても感動的で美しい場面である。にもかかわらず、その最後の最後、クストリッツァは、パーティの舞台である草原そのものを大地から削り取り、川に流してしまうのだ[★12]。
この演出に込められた意図ははっきりとしている。当時のクストリッツァは内戦前の平和に郷愁を感じていた。それはいまと変わらない。しかし当時の彼は、その平和がもはや帰ってこないこと、夢そのものを諦めなければならないこともまた痛感していた。
だからこそ彼は、失われた祖国の統一を死者たちの宴として描いたあと、全体を川に流すしかなかったのだ。ぼくの考えでは、『アンダーグラウンド』はそもそもがユーゴスラヴィアの夢を葬送するための作品だ。そしてその意図とキッチュな表現は不可分に結びついている。
それに対してアンドリッチグラードのクストリッツァはどうか。そこではもはやキッチュな夢は必要とされていない。
いまの彼は現実から逃げていない。政府から巨額の資金を引き出し、共生の夢を実現するテーマパークを建設し、開園式にセルビアの首相とスルプスカ共和国の大統領を呼びつけるまでになった。
しかし、現実を夢で覆い隠さなくなったかわりに、いまのクストリッツァはべつの現実を否認せざるをえなくなっている。それは、彼が共生のための理想的な場だと思い込もうとしたヴィシェグラードの街、それそのものが30年前に暴力の現場になったという現実である。共生の記憶は、内戦によってすでに大きく損なわれている。
ここで「じつは」の話を思い起こそう。共生の平和には弱点がある。それはつねにあとから否定される恐れを抱えている。
ぼくはそう記したが、あえてさきほどは指摘しなかったことがある。それは、そのような事後的な否定において、「じつは」と言い出すのはたいてい暴力の被害者だということである。共生に隠された加害と被害の関係を明らかにするために、あるいは明らかになったと広く公衆に認めさせるために、被害者が行うのが「じつは」の訂正なのだ。
クストリッツァの否認の本質も、この「じつは」のメカニズムに注目すると明確に理解することができる。ヴィシェグラードは、かつて確かにセルビア人とボシュニャク人が共生する街だったのかもしれない。アンドリッチグラードの建設にふさわしい場所だったのかもしれない。
しかしその過去はもはや参照することができない。なぜならば、のちに現実に虐殺が起こった以上、あなたたちセルビア人はあの過去を平和な時代だったと考えているようだが、それは誤りだ、なぜならばあのとき平和を享受していたのはセルビア人だけで、わたしたちはつねに暴力の可能性に怯えていたのだからとボシュニャク人が告発したとき、セルビア人は原理的に反論することができないからである。にもかかわらず、クストリッツァはまさにその告発を認めていない。つまり、クストリッツァは平和の訂正可能性そのものを否認しているのである。
ぼくは前回、平和と愚かさはつながっているのだと指摘した。平和のなかに住まうとは、考えないことが許されるということであり、それゆえ愚かであることが許されるということである。
しかしひとは愚かだと悪をなす。害をなす。平和は本質的に害の危険に結びついている。だから逆に、平和の記憶はつねに訂正可能性に開かれている必要がある。共生の平和は「じつは」の読み替えと切り離せないというのは、要はそういうことだ。
平和は愚かだ。だからこそ平和は尊いのだが、しかし同じ理由でその記憶は告発に開かれていなければならない。告発が現れた瞬間に、共生だったはずの空間は加害者と被害者のあいだの敵対的な空間へ反転し、平和の記憶は愚かさの肯定へと変質する。それは悲しいことだが、それこそが平和のなかに生きることの代償なのだ。その代償こそが、『アンダーグラウンド』のクストリッツァが知っていたものであり、アンドリッチグラードのクストリッツァが忘れてしまったものなのである。
クストリッツァの話を終えるにあたり、ヴィシェグラードで見かけた印象的な看板を紹介したい[図9]。この看板はドリナ川の河岸に立っていた。

看板にはセルビア語で「わたしたちはジェノサイドの国民ではありません」と大きく書かれている。赤、青、白の汎スラブ色のリボンに重ねられているのは、セルビアとスルプスカ共和国の国章である。その下には「誇り高いセルビアとスルプスカ」と記されている。看板のうしろにはアーチ型の石橋が小さく映り込んでいる。それが有名なメフメト・パシャ橋である。
メフメト・パシャ橋には多くの観光客が集まる。だからこれは両国政府による外国人向けの意見広告とも考えられる。しかし公的機関の設置にしてはデザインが拙いし、セルビア語だけなのもおかしい。推測でしかないが、おそらくは保守系の市民団体が掲示したものなのではないか。現実に外国人が読むことは想定されていない。つまりは自己満足のための看板なのだ。
観光地に自分たちは虐殺をする国民ではないとメッセージを掲げる。しかも自国民のために自国語で掲げる。のちにサラエヴォでボシュニャク人の作家とこの看板の話になった。彼は、だれもセルビア民族の全体を非難してはいない、犯罪者を許さないだけなのにと困惑の表情を浮かべていた。そのとおりだ。そもそもヴィシェグラードでは実際に虐殺が行われていた。その事実を無視したまま、看板を立てたところで説得力はまったくない。あまりにも滑稽である。
しかし、ぼくたち日本人は──本稿の読者の大半が日本人だと仮定して記させてもらうが──、けっしてこの滑稽さを笑えないはずである。
なぜならば、同じ滑稽さは日本にも満ちているからだ。わたしたちは世界が非難するような悪じゃない。ヴィシェグラードの看板が訴えているのはそういうことだが、日本でも80年前の戦争をめぐって同じ訴えがあちこちで掲げられている。書店に行けば戦前礼賛の書物が並んでいる。SNSでも愛国主義のメッセージが毎日のように投稿されている。日本は悪くない、大東亜戦争は正義の戦争だった、日本人と朝鮮人は平和に共存していた……それらのメッセージのほとんどは、日本人によって、日本人のために、日本語で、国際社会が認める事実を無視して発せられている。ヴィシェグラードの看板とまったく同じだ。
クストリッツァとセルビア民族主義の問題は、ここでぼくたち日本人自身の問題に重なってくる。リベラルの立場からクストリッツァを批判することはたやすい。まさに30年前のジジェクが行なったように。しかし、他方で、ぼくたちはその罠を簡単には脱出できないことを経験的に知っている。ここにこそ考えるべき課題がある。
日本では、いま言及したような歴史修正主義的な自国礼賛は1990年代に現れた。それは当初は一部「ネトウヨ」の妄言と蔑まれ、無視されていたが、いまは現実の政治で大きな影響力をもっている。
リベラルの歴史家は、この30年のあいだ、彼らの主張は事実に反していると批判し続けてきた。しかしその言葉はまったく届いていない。なぜ届かないのかといえば、そこで問われているのが、実際は事実の問題ではなく心の問題だからである。歴史修正主義者はじつは過去そのものには興味がない。過去を美化せざるをえない自分を肯定してほしいだけなのだ。その願いの必然性に踏み込まなければ、歴史修正主義の本質は理解することができない。
そして、ぼくがここまでの議論で示してきたのは、その願いがまさに歴史の訂正可能性と関係して現れているということなのである。
共生の平和は訂正可能な平和だ。つねに告発される可能性がある。その脆弱性こそが、共生の平和を隔離の平和と区別し、偽物ではない本物の平和たらしめている。
しかしそれは、共生の平和を生き、記憶している当事者からすればたいへん恐ろしいものでもある。ぼくたちはいま幸せだよね、傷つけあっていないよねといくら確認しあっても、それはなんの保証にもならないということなのだから。あるいは、ぼくたちはあのとき幸せだったよね、楽しかったよねといくら思い出を共有しあったとしても、いつひっくり返されるかわからないということなのだから。繰り返すが、その緊張感こそが本物の平和の証なのだ。けれども、やはり多くのひとは緊張感の存在を恐れる。平和がかつて存在したこと、少なくとも自分たちはそのように記憶していること、その記憶ぐらいは訂正しないでくれと願う。歴史修正主義が支持される大きな理由はここにある。
だから、歴史修正主義者は必ずしも差別主義者というわけではない。軍国主義者でもないし、暴力が好きなわけでもない。彼らはむしろ平和を愛している。人々が平和に暮らしていた、そんな時代の記憶を引き継ぎたいと考えている。
しかしだからこそ、彼らは過去を美化し、被害者からの告発を無視せざるをえないのである。ぼくがクストリッツァに関心を抱いたのは、平和の記憶と過去の訂正のそのあいだの葛藤が、彼の履歴にはわかりやすく現れているからだ。
加害者は平和の記憶を愛している。だから告発を拒否する。つまりは、歴史修正主義者こそがもっとも歴史の訂正を認めないものたちなのだ。逆説的に響くかもしれないが、ぼくはそう考えている[★13]。
13
さて、本稿もようやく終わりに近づきつつある。前回と今回を通した議論を簡単に振り返っておこう。
戦争は人間の活動のすべてを呑み込んでしまう。戦時にはすべての行為が政治的に解釈され、「だれのため」のものかが問われる。おまえは日本の味方なのか、それとも中国やロシアの味方なのか、とたえず尋問される。政治の本質は友と敵を分けることだと喝破したのはカール・シュミットだが、戦争の本質はそんな友敵関係の全面化にある。
平和はそんな戦争に対立する。ぼくの平和の定義はここから導かれる。戦争がすべてを政治にするのだとすれば、それに対立する平和は、なによりもまず「政治的思考から離れる自由」(考えないこと)の確保として考えられるべきではないか。これが本稿の出発点である。
平和では「考えないこと」が許される。これはとても具体的な話である。特定の小説を読んだり、特定の楽曲を聴いたり、特定のスポーツチームを応援したりといった活動が、作家や選手が属する国家についての意見表明につながらない。恋愛や結婚の相手を選ぶにあたっても、国籍や民族が致命的な障害にならない。文化的な選好や私的な人間関係がみだりに政治的に解釈されない。そのような脱政治性の尊重は平和の重要な条件である。
この意味での平和は、軍と軍が交戦する狭義の戦争が起こらなくても失われる。
この論考は、そんな平和の哲学的な諸相について、紀行文のかたちで考える試みである。
旅の舞台としては、30年前に凄惨な内戦があった旧ユーゴスラヴィアが選ばれた。ぼくはサラエヴォの旅行者としての印象を記し(第4-5節)、隔離の平和と共生の平和の区別を提案した(第6節)。いまはセルビア人とボシュニャク人は隔離されている。けれどもサラエヴォの市民は、そのような隔離がなく、複数の民族が共生した時代の記憶を大切にしている。ただし、その時代の記憶は、冬季五輪の祝祭的な経験と包囲戦の悲劇的な記憶に引き裂かれ、しかも重ね合わされている。ぼくはその屈折に、平和の記憶のむずかしさが示されていると考えた。
続けてぼくは、セルビア人によるボシュニャク人の大量虐殺が起きた街、スレブレニツァにある博物館の印象を記した(第7節)。このような事件を扱う博物館では、被害者から加害者への糾弾があり、展示も煽情的なことが多い。ところがスレブレニツァではそうなっていなかった。ぼくはその抑制に平和の記憶と悪の記憶の複雑な関係を見た(第8節)。
そして今回の原稿では、サラエヴォ出身の映画監督、クストリッツァの活動を導きの糸として、以上の平和論を『訂正可能性の哲学』の議論と結びつけようと試みてきた。
平和では「考えないこと」が許される。それは友と敵を隔離すれば達成される。それが隔離の平和だ。
けれども共生の平和ではそうはいかない。そこでは友と敵が隔離されない。にもかかわらず、だれが友でだれが敵か、みなが考えないふりをしている。それが共生の平和の本質である。
したがってそこにはつねに告発の可能性がある。なにも考えずに平和を享受していたのはおまえたち加害者だけだ、そもそも平和なんて存在しなかったのだと、事後的に告発され、記憶そのものを訂正される可能性がある。ぼくはそれを、共生の平和とは訂正可能な平和のことだというかたちで定式化した(第9節)。
かつてのクストリッツァは、そんな訂正可能性の怖さを知っていたがゆえに、内戦前の共生の記憶を夢としてしか描くことができなかった(第10節)。けれどもいまの彼は、訂正可能性を否認することで、歴史修正主義の罠に落ち込んでいる(第11節)。歴史修正主義者とは、過去の訂正を拒否する人々のことなのである(第12節)。
哲学は考えることを要求する。政治もまた考えることを要求する。哲学者も政治家もつねにひとは考えないとだめだと訴えている。
それは当然といえば当然だ。しかし実際には人間は考えることだけで生きているのではない。考えないことは必ずしも堕落ではない。思考停止が必要になるときもある。人間社会を構成するいくつかの重要な価値は、考えないことの肯定から出発しないとうまく説明できない。そのひとつが平和の価値だ。ぼくが本稿で論じてきたのは、要はそのようなことである。
前回も記したように、本稿は近日刊行の論集の長い導入でもある。論集の中心は「悪の愚かさについて」と題されたふたつの長い論考だ[★14]。
そこで主題となっているのは、ひとつは凄惨な戦争犯罪を生み出した愚かさをいかに記憶するかという問題で、もうひとつは不用意な事故を生み出した愚かさをいかに記憶するかという問題である。使われる道具立ては異なるが、本稿のあとに読んでくれれば、そこでの問いが本論と通じるものであることがわかるだろう。その2論考で、ぼくは、過去のある時点で「なにも考えていなかったこと」、すなわち愚かさを、事後の善悪の評価から独立してどのように言語化し記憶すればよいのかについて考えた。それはつまりは、共生の平和を、のちの善悪の判断から独立して、しかし歴史修正主義に陥らずにどのように記憶すればよいのかという問題と同じものである。
論集の最後には、「哲学とはなにか、あるいは客的─裏方的二重体について」といういっぷう変わった題名の小論が収録されている[★15]。
ぼくはそこではこんどは、現代の人々はサービスを提供する「裏方」になるときもあれば、サービスを消費する「客」になるときもある、その二重性こそが重要なのだという議論を展開している。その裏方と客の区別は、本稿で問題にしてきた「考えること」と「考えないこと」の区別と重なっている。
人間は考える葦なだけではない。考えもすれば、考えもしない葦なのだ。考えずに揺れる弱さがなければ、考える葦はすぐに折れてしまう。いままでの哲学はその弱さについてあまりにも考えてこなかった。だから平和についても愚かさについても思考できなかったのである。
ひとはつねに歴史を訂正している。それはつまりは、ひとがつねに、「かつて考えなかったこと」を「いま考えていること」で塗りつぶし続けているということを意味している。ひとは、考えなかったときの自分をうまく記憶することができない。
だから、哲学は、考えないことについてもっと考える必要がある。この論集に含まれる論考は、そのための研究ノートのようなものである。
14
最後に新たな論点を──というよりも、新たな論点を考えるための材料を付け加えておきたい。
ここまでの文章は2024年6月の取材をもとに書いている。ぼくと上田洋子は、じつはそのあともういちど旧ユーゴスラヴィアを訪れている。第二の取材は10月に行われ、クロアチアとスロヴェニア、そしてスルプスカ共和国の首都であるバニャ・ルカを駆け足で回った。モンテネグロにも半日だけ滞在した。
そんな追加取材を行なったのは、ユーゴスラヴィア紛争について語るのであれば、いくら「観光客」のエッセイとはいえ、セルビアとボスニア・ヘルツェゴヴィナに触れるだけでは決定的に不十分だという思いが募ってきたからである。
なぜか。1990年代の内戦は、そもそもセルビア人とクロアチア人とボシュニャク人の三つ巴で戦われていた。
にもかかわらず、紛争終結から30年近くが経ったいまも、三つの民族の評価は大きく異なっている。まえにも記したとおり、西側のメディアでは、セルビア人が加害者で、ボシュニャク人は被害者だという構図が広く受け入れられている。他方で、さきほど紹介した看板に示されるように、セルビア人はその構図にいまも不満を抱いている。
前回も今回も紹介する余裕がなかったが、じつはベオグラードには、1999年のNATOによる空爆を非難し、犠牲者を追悼する記念碑がいくつも建てられている。空爆の跡も保存されている[図10]。実際、NATOの空爆は国際社会の承認を得ておらず、多くの市民が巻き込まれて亡くなっている。その点に注目すれば、セルビアこそが被害者という話になる。むろん、そのような相対化には政治的な危険があるが、かといってその感情はたやすく解除できるものでもない。これもまたさきほど述べたとおりだ。

いずれにせよ、セルビア人はいま加害者とされているので、共生の過去をまっすぐに語ることができない。他方で、ボシュニャク人は被害者なので、共生の過去をより公正に語ることができる。
ここまでそのような非対称性について記してきたわけだが、ではもうひとつの当事者であるクロアチア人はどうなっているのだろう。ユーゴスラヴィア紛争について考えると、当然そのような疑問が湧いてくる。
ユーゴスラヴィアの解体は、そもそも1991年にスロヴェニアとクロアチアが独立を宣言したことから始まった。当時のユーゴスラヴィアはセルビアが支配していた。そのためセルビアに率いられたユーゴスラヴィア人民軍が両国に相次いで軍事介入を行い、内戦が始まった。
スロヴェニアでの戦闘はわずか10日で終わっている。死者が数十人規模で出たが、この国は惨禍をほぼ免れた。
ぼくたちは、スロヴェニアの首都、リュブリャナにある国立近現代史博物館も見学している。1980年代の民主化運動が独立の実現へそのままつながる構成で、戦争の展示はほとんどなかった。スロヴェニアの現代史において、内戦はあくまでも他国の出来事なのである。ジジェクの態度がクストリッツァと大きく異なった理由を、あらためて確認したかたちとなった。
けれどもクロアチアは状況がまったく異なる。当時のクロアチアには50万を超えるセルビア系住民が住んでいた。他方で国内では民族主義が高まっていた。セルビア系住民はその動きを不安に感じていたが、独立はそんな少数派の感情を無視して決行された。
そこでセルビア系住民は隣国のセルビアに助けを求めた。そのため事態はたいへんに拗れることになった。独立後、クロアチアに侵入したユーゴスラヴィア人民軍は、現地のセルビア人勢力と結びついて戦闘を展開した。セルビア人とクロアチア人が混在して住んでいた東部(スラヴォニア地方)では戦闘はとりわけ激しいものとなり、中心都市のヴコヴァルは灰燼と化した[★16]。クロアチアでの戦争は1992年からはボスニア・ヘルツェゴヴィナでの戦争と連動し、最終的に1995年まで続いた。戦争は政府軍の勝利に終わり、セルビア人勢力の支配地域はすべて解放されたが、その結果こんどは多くのセルビア系住民が故郷を追われることになった。つまり、クロアチアは内戦でじつに大きな傷を負った国なのである。
そして、さらに話を複雑にするのが、そもそもこの戦争の遠因が1940年代のクロアチアの振る舞いにあると考えられていることだ。少なくとも多くのセルビア人はそう考えている。
日本ではあまり知られていないが、クロアチアは大戦時にウスタシャと呼ばれる民族主義団体に支配され、ナチスドイツの傀儡国家となっていた。そしてユダヤ人やロマだけでなく、セルビア人も対象にした組織的な虐殺を行なっていた。舞台となったのがクロアチア東部にあるヤセノヴァツ収容所で、ここでは8万人から40万人が殺されたと言われている。
数字が大きく異なるのは、犠牲者数をめぐって論争があるからである。収容所跡地はいまはクロアチアとボスニア・ヘルツェゴヴィナ(のなかのスルプスカ共和国)にまたがっており、ともに歴史公園として整備されている。クロアチア側の博物館は犠牲者は8万人だと主張しているが、スルプスカ側に建てられた記念碑は40万という数字を掲げている[図11・12]。後者の数字は、スルプスカ共和国の首都、バニャ・ルカにある国立博物館の特別展示でも採用されている。ぼくたちはこの公園と博物館も訪れているのだが、詳しく紹介するのはべつの機会に譲ることとしよう。


いずれにせよ、かつてクロアチア人はセルビア人を虐殺していた。その歴史はティトー体制のユーゴスラヴィアではあまり語られなくなった。けれども1990年代に入るとその記憶は力強く蘇り、セルビア人の警戒心を刺激することになったのである。
かつては、クロアチア人が加害者で、セルビア人こそ被害者だった。ところが一九九〇年代には、逆にセルビアがクロアチアに攻め込み、こんどはクロアチア人が被害者になった。
このくるくると反転する加害と被害の関係を、クロアチアの街や博物館はどう記憶しているのだろう。ぼくたちはそれが知りたくて、ふたたび旧ユーゴスラヴィアに向かったのである。
結論から言えば、その期待はあまり満たされなかった。とはいえ取材は無駄だったわけではない。
ぼくたちはクロアチアで最初にドゥブロヴニクを訪れた。ドゥブロヴニクはアドリア海沿岸の城塞都市で、かつては海洋貿易で栄えた。城壁に囲まれた旧市街が岬状に海に突き出し、なかにはルネサンス様式の宮殿やバロック様式の教会、赤い屋根瓦の特徴的な住宅が所狭しと建てられている。全体がユネスコの世界遺産に登録されており、ぼくたちが訪れたときも観光客で溢れていた。
しかし、取材の目的はより地味な博物館にあった。クロアチアでは、一連のユーゴスラヴィア紛争のうち、クロアチアの独立に関わるものを「祖国戦争」と呼んでいる。ドゥブロヴニクはこの祖国戦争で短いあいだ戦場になった。1991年10月から1992年5月にかけて、セルビアとモンテネグロの連合軍に包囲され、砲撃を受けた。旧市街の家屋が破壊され、市民にも死者が出た。近くに聳えるスルジ山の山頂には19世紀に建設された古い要塞があり、ここも戦地となった。いまはそこが博物館になっている[図13]。

クロアチアには内戦を扱った博物館が少ない。検索するとこのドゥブロヴニク祖国戦争博物館が上位に出てくる。そしてドゥブロヴニクは世界的な観光地でもある。それゆえぼくは、ここはクロアチアの立場を外国人向けに説明する力の入った施設だろうと推測した。
ところがその推測は外れた。博物館は小さかった。展示も地味だった。そもそも運営者は国ではなく市だった。
ドゥブロヴニク祖国戦争博物館は、ユーゴスラヴィアやクロアチアといった大きな枠組みで内戦の意義を語るものではなく、あくまでもドゥブロヴニクの歴史のなかで、そこに住む市民の共通経験として戦争を語る、一種の郷土博物館だった。実際、展示では内戦勃発の経緯など複雑な政治的事情はほとんど説明されていなかった。ほかの戦地についても紹介がなかった。かわりにドゥブロヴニク包囲戦の展開についてだけは、やたらと詳しく紹介されていた。市周辺の地図が引き伸ばして壁に貼られ、部隊の移動が逐一図解されていた。被害にあった住宅が写真つきで紹介され、包囲時に市民が活用した台車やポリタンクが誇らしげに展示されていた。過去の特別展の図録をめくると、銃を手に取った男性市民の集合写真が多数収録されていた。
ドゥブロヴニクの市民は祖国戦争で街を守り切った。その記憶はいまも輝いている。おそらくは元軍人や犠牲者の遺族たちが、定期的にここに来て、その記憶を確かめあっているのだろう。
ぼくたちは数日後にクロアチア中部のカルロヴァツを訪れた。ここにも内戦を扱った博物館がある。やはり検索では上位に出てくる。
カルロヴァツは、クロアチアの首都、ザグレブから南西に50キロほどのところに位置する小都市である。複数の河川が交わる要衝で、セルビア系住民の居住地域に近かった。そのため激戦地のひとつになった。
博物館の正式名称は、カルロヴァツ゠テュラニ祖国戦争博物館という。内戦で破壊された施設を改修したもので、市の中心から数キロ離れたテュラニという田園地帯に建てられている。博物館の建物は、煉瓦づくりの古い施設をガラスのカーテンウォールで包み込み、弾痕だらけの壁が覗ける構造にしたスタイリッシュなものだ[図14]。新しい博物館で、開館は2019年だ。

この博物館はドゥブロヴニクの博物館よりかなり規模が大きい。展示では映像やマルチメディアが駆使され、きちんと予算が投じられている。屋外展示もあり、内戦でクロアチア側で活躍した、あるいは逆に鹵獲されたセルビア側の戦車や自走砲が並んでいる。目玉は、鉄骨で支えられて、まるで空中に飛び立たんとしているかのように演出されたミグ21だ[図15]。

とはいえ、この博物館もやはり市の運営で、本質的には郷土博物館に近い施設だった。室内展示は5つのセクションに分かれていたが、最初以外の4つは周辺地域の戦闘の紹介にあてられていた。戦死者のための追悼室が設けられていたが、名前と顔が掲げられているのはカルロヴァツの住民だけだった。ここもまた、クロアチアという国家全体の内戦経験を引き受ける博物館ではなかったのである。
15
ドゥブロヴニクの博物館は地元住民のための博物館で、カルロヴァツの博物館もまた地元住民のための博物館だった。そこではともに、内戦の国家的な意味は語られていなかった。
ぼくはそれを批判したいわけではない。それに率直に告白すると、それができるほどの知識もない。ぼくたちはヴコヴァルを訪れていない。ヴコヴァルは祖国戦争最大の激戦地で、市街地が廃墟になった。そこにも博物館があり記念碑がある。そして、いま調べるとどうもそちらこそが国立の施設らしい[★17]。だとすれば、そちらには質の異なった展示があったのかもしれない。取材計画をつくった時点では、博物館の運営者まで気が回っていなかった。
とはいえ、このふたつの博物館において、30年前の内戦が、国家の物語ではなく、あくまでも市民のローカルな思い出に引き寄せて語られていたことにはそれなりの意味があるように思われる。
ぼくたちはカルロヴァツのまえにザグレブに滞在した。ザグレブは首都なので、国立の歴史博物館がある。しかし改装中で閉館していた。そこでぼくたちは市立博物館を覗いてみることにした。ザグレブは戦場にこそなっていないものの、独立時に数々の政治的ドラマの舞台になっている。関わる展示もあるだろうと考えたからである。
市立博物館は予想以上に大きかった。常設展だけで45もの展示室があり、1000年近いザグレブの歴史が豊富な収蔵品で紹介されている。ひとまわりするだけでも2時間以上かかる[図16]。

ところが、驚いたことに、ユーゴスラヴィア時代から内戦を経て独立にいたる80年ほどの歴史については、おそろしく貧しい展示しかなかった。
展示室の並びはほぼ時系列に沿っている。ところが第二次大戦に到達するのが第41室で、残りは4部屋しかない。しかもそのうち2部屋は特別のテーマ展示にあてられており、1945年以降の80年はたった2部屋で扱われている。ひと部屋が社会主義時代、もうひと部屋が独立クロアチアである。前者には家具やポスターなどが展示されていたが、市民生活を想像させるものとしてはいかにも寂しい。後者の展示はもっと悲惨で、多少工夫が凝らされているのは数少ない内戦時の市内の被害を紹介する特設コーナーくらいで、あとは壁に報道写真や映像が並んでいるだけだった。クロアチア独立の時期を扱う部屋のはずなのに、高揚感もまったくない。
むろん、この博物館はあくまでもザグレブ市の博物館だ。政治的な主題に深入りする必要はない。しかし、だとしてもこれはいささか極端だ。クロアチアでも1848年は大きな節目なのだが、それは第28室で扱われている。1848年から1945年までの一〇〇年には10部屋以上があてられている。それなのに、1945年からの80年にはなぜ2部屋しか使わないのか。
首を傾げながら博物館を出て地図アプリを開くと、近くに「ザグレブ80年代博物館」なるものがあることに気がついた。博物館といっても、ビルのひとフロアを借りただけの観光客向けの施設だ。社会主義時代にノスタルジーやエキゾチズムを感じるひとは多い。そのような観光客向けだろう。ぼくたちはそこも覗いてみることにした。
ところがここでも軽い衝撃を受けることになった。80年代博物館の名のとおり、古いものが並んではいた。古いテレビがあり、古いソファがあり、古い本がテーブルのうえに積まれていた。けれどもその選択と配置がじつにいい加減だったのだ。古道具屋でかき集めたものを並べただけで、当時の生活を再現しようという意志がまったく感じられない。説明もほとんどない。
それはサラエヴォの類似の施設とはあまりにも対照的だった。サラエヴォの旧市街、フェルハディヤ通りに面したビルの一室に「ティトー博物館」なる施設がある。ザグレブと同じく観光客向けの小さな空間で、面積はむしろ狭いくらいだ。
しかし収蔵品と解説はたいへん充実していた。旧ユーゴスラヴィア時代への溢れんばかりの愛を感じ、見学していたらあっというまに1時間近くが経っていた[図17]。同じ旧ユーゴスラヴィア構成国の、同じ首都のまんなかにある同じような観光客向けの施設で、これほどまでに過去への視線が異なるものか。

ぼくは驚いた。そして、クロアチア人は、もしかしたら、かつての多民族共生から内戦を経て現在の国民国家独立にいたる過程、それについて語ることそのものを苦手としているのではないかと思ったのである。
前回も注意したことだが、この原稿で記しているのは、あくまでもぼくというひとりの「観光客」がたまたま出会った訪問先で受けた印象にすぎない。学問的な裏づけはないし、すべてが早とちりなのかもしれない。そのことはなんどでも強調しておく。
とはいえ、ザグレブがサラエヴォやベオグラードに比べて内戦の記憶が希薄な都市であることは、専門家も含めて多くのひとが同意してくれるのではないかと思う。
サラエヴォは長い包囲戦の舞台になったし、ベオグラードも空爆された。けれどもザグレブはほとんど被害を受けていない。そしてなによりも、いまのクロアチアは政治的に完全に「西」を向いている。2009年にNATOに加盟し、2013年にEUに加盟し、2023年にはついにユーロ圏とシェンゲン圏に加わった。かつて「東」の構成国だった歴史は、そこからの離脱の痛みを含め、忘れたい過去なのかもしれない。
そんな国に一週間ほど滞在しながら、ぼくが思い出していたのはカール・シュミットが記したある短い文章である。
シュミットは19世紀の末に生まれ、戦前のドイツで活躍し、法哲学や政治哲学で業績を残した大学者だ。1930年代にナチスに接近し、戦後は戦犯容疑もかけられた。とはいえ、その洞察は鋭くかつ独創的で、いまもさまざまな領域の研究者から言及され続けている。とりわけ政治の本質が友と敵の峻別にあるという理論は有名で、それは本稿の平和論の前提にもなっている。ちなみにシュミットの最初の妻はクロアチア人で、2番めの妻はセルビア人だった。
そんなシュミットは1949年に「アムネスティー、もしくは忘却の力」と題した小論を発表している[★18]。そこでシュミットは短いながらも力強い文章で、いまや世界の戦争は本質において内戦になってしまったこと、内戦においては「あらゆる党派が無条件に犠牲者として正義の側に立」ち「正義の名のもとに復讐を行う」ので「相手方の完全な殲滅」を目指すほかなくなってしまうこと、それゆえもし全面的な破局を避けたいのであれば「忘却の力」に頼るほかないこと、具体的には「過去をほじくり、そこからさらなる復讐や一層の賠償要求を呼び起こすことを、厳に禁じる」しかないことなどを指摘している。ひとことで言えば、シュミットは、第二次大戦が終わってまだまもない時点で、平和を維持するためには正義ではなく忘却が必要だと主張していたのである。
そもそもシュミットは過去が非難されていた。忘却を肯定する主張は、もしかしたら都合のいい自己弁明だったのかもしれない。
しかし、たとえそうだとしてもこの小論の重要性は変わらない。この文章が書かれたとき、冷戦は始まったばかりで、イスラエルも建国したばかりだった。
にもかかわらず、シュミットはその後の国際社会を悩ます問題を異様なほどクリアな視線で見透している。2025年のいま、ぼくたちは確かに、すべての戦争が実質的に内戦になり、すべての党派が正義の名のもとに復讐を続け、すべての被害者が加害者に反転する世界に生きている。それがウクライナの問題であり、ガザの問題である。そして30年前にはバルカン半島の問題だった。
ぼくはここまで、平和をいかに記憶するかについて考えてきた。共生の平和の記憶は原理的に危ういもので、たやすく加害と被害の記憶に入れ替わる。
そのとき被害者はまだ過去を公正に語ることができるが、加害者は過去を歪めずに語るのがむずかしい。まっすぐに平和の記憶を語ろうとすると、どうしても歴史修正主義に近づいてしまう。ではどうすればよいのか。それが、本稿を、そして本稿に続いて収録される論考を貫く問題意識である。
けれども、この問題には、もしかしたらまたべつの角度からのアプローチが必要なのかもしれない。その鍵になるのが忘却、すなわち記憶の禁止なのかもしれない。くるくると反転する加害と被害の関係は、結局はそのようにしてしか止まらないのかもしれない。ぼくはクロアチアでそんなことを考えた。そしてこれからも考え続けたいと思う。
忘却について考えることは、平和について考えることと同じようにむずかしい。いま紹介したシュミットの論文について、哲学者の神崎繁は「正義と責任の追及という『記憶の倫理』に対して、共存のための『忘却の政治』を対峙させる思考」を提示するものだと指摘している[★19]。
まったくそのとおりだが、では肝心の「忘却の政治」がどのようなものでありうるのかといえば、そこは神崎も明らかにしていない。「記憶の政治」は、現実に現代の国際政治の鍵概念のひとつだ。研究書もある。けれども忘却の政治の研究はない。そもそも哲学には忘却を肯定的に考えるための語彙がほとんどない。ぼくたちは、正義も責任もつねに記憶と関わるものだと教えられてきた。忘却から始まる正義や責任がありうるのだろうか。それはほとんど語義矛盾に響く。しかし、裏返せば、だからこそそこには新しい思考の課題があるのかもしれない。
平和は考えないことと関係しているだけでない。きっと忘れることとも関係している。ぼくたちは、なにも考えず、すべてを忘れているときに、おそらくはもっとも平和を感じることができる。
ものごとは記憶すればいいだけではない。おそらくはその横に、記憶の禁止という、より高次の記憶の倫理があるのだ。最後にそのような思考の可能性があるということだけ記して、この長い導入を終えることにしたい。
*
この2年ほど、あちこちで平和論を書こうと思っていると話してきた。そのたびにずいぶんと期待された。それだけ、日本でも戦争が身近に感じられるようになっているということだと思う。
この原稿はその期待を裏切っているだろうと思う。ぼくはここでウクライナの話もトランプの話もしていない。平和憲法の話も日米安保の話も台湾有事の話もしていない。遠くの国に行って、平和という言葉をきっかけに考えたことを記しているだけだ。骨太でアクチュアルな論考を待っていた読者には謝罪したい。
けれども、そのうえで書かせてもらえば、それでもやはり、これこそがぼくが書きたかった平和論なのである。少なくとも出発点はこういう文章でなければならなかった。平和は政治の外にある。それがぼくの主張なのだから、政治の話から始めたくなかった。政治の外がなぜ大事なのかという、原理の原理の話をしたかった。
政治は政治の外を必要とする。政治の外がなければ政治は痩せ細る。これはぼくがこの数年ずっと主張していることである。『訂正可能性の哲学』で、ルソーの一般意志論の傍らで彼が記した恋愛小説を長々と読解しているのも、その逆説的な関係をわかってもらうためだ。民主主義を民主主義だけで考えてもだめなのだ。民主主義が豊かであるためには、選挙とも政治参加ともなんの関係もない、政治の外の遊びが必要なのだ。その外は、そもそもが外だから、哲学や政治の言葉で捉えるのがとてもむずかしい。正面切って考えると消えてしまうものでもある。でも考えなければならない。考えないふりをして、考えなければならない。そんな逆説が平和な社会の基礎にはある。
平和は哲学と政治だけでは達成できない。哲学と政治はひとに考えることを強いる。ひとは考えると必ず友と敵をつくる。平和を維持するためには、人々をその罠の外へ導かなければならない。
ぼくたちはいま、あまりにも賢さが過剰な世界に生きている。AIの普及がそれを加速している。近い将来、政治家の言葉とLLMの出力は区別がつかなくなるだろう。そのとき人間の政治家にはなにができるかが、あらためて問われることになるだろう。
最後に付け加えれば、ぼくが政治には外が必要だと強調しているのは、その時代に備えるためでもある。AIは戦争は理解できるだろう。そもそもいまのAIは敵対的生成ネットワーク(GAN)で賢くなったものなのだから。しかし平和は理解できないだろう。AIにとって平和は意味がないだろう。それは単なる停滞でしかないだろう。しかし人間にとっては平和には意味がある。意味の外という意味が。
アウシュヴィッツのあとに詩を語るのは野蛮だ、とアドルノは言った。それにならうとすれば、この論集でぼくが言いたいのは、たとえ野蛮でも、平和のためには結局は詩を語るしかないはずだということだ。
平和は詩でつくられる。詩は野蛮だ。愚かだ。しかしその愚かさを失ってしまえば、ぼくたちは結局のところ永遠の戦いに閉じ込められるだけだろう。心の傷は、賢さではけっして癒されないからである。
撮影=編集部
キャプション=東浩紀
★1 前回はこの人物の名を「クストリツァ」と表記していた。地名のスレブレニツァと音訳の原則を合わせたからだが、クストリッツァは日本でもよく知られている人物なので、今回から日本での慣例にしたがい促音を入れて表記することにした。
★2 Емир Кустурица, Видиш ли да не видим, Српска књижевна задруга, 2023. セルビア語の書籍。自動翻訳で読んだ。本稿の資料収集においてはかなり自動翻訳の助けを借りている。
★3 Емир Кустурица, “О Нама.” URL=https://mecavnik.info/ サイトには英訳も掲載されている。なお、日本語ではクステンドルフは『ライフ・イズ・ミラクル』のオープンセットが転用され公園になったと紹介されていることがあるが、それは誤りだと思われる。シャルガン・エイトの観光鉄道、あるいは後述のアンドリッチグラードと混同しているのではないか。公園内を歩いても、映画に登場した建築があるようにはみえなかった。
★4 東浩紀『訂正可能性の哲学』、ゲンロン、2023年。
★5 公平を期すために紹介しておくと、2012年夏に現地を訪れた日本人旅行者のブログには、いまだ多くの観光客で賑わっているようすが投稿されている。URL=https://4travel.jp/travelogue/10712813
★6 スラヴォイ・ジジェク「『アンダーグラウンド』、あるいは他の手段による詩の継続としての民族浄化」、森田祐三訳、『InterCommunication』第18号、NTT出版、1996年、26-32頁。この論文はいまはネットで公開されている。引用はネット版からだが、句読点のみあらためた。なお、ジジェク自身は「キッチュ」という言葉は使っていない。URL=https://www. ntticc.or.jp/pub/ic_mag/ic018/intercity/zizek_J.html
★7 2014年の開園式の模様は以下の記事で報じられている。この時点ではまだ映画撮影に使う予定と記されている。URL=https://balkaninsight. com/ 2014/06/26/andricgrad-plans-opening-on-centenary-despite-controversies/
★8 ヴィシェグラード虐殺では1000人から3000人のボシュニャク人が殺害されたと考えられている。虐殺はメフメト・パシャ橋周囲でも行われ、死体はドリナ川に投げ込まれた。英語版ウィキペディアによる。URL=https://en.wikipedia.org/wiki/Vi%C5%A1egrad_massacres
★9 ヤスミラ・ジュバニッチ監督『物語ることのできない人々のために』、2013年。あるオーストラリア人の女性が旅行中たまたまヴィリナ・ヴラスに宿泊してしまい、その異様な雰囲気に接したことをきっかけにホテルの過去を知り、ヴィシェグラードの闇に迫っていくというドキュメンタリー仕立ての作品。トロント国際映画祭出品。
★10 以下の記事に記述がある。URL=https://www.ibtimes.co.uk/franz - ferdinand -assassination-serb-leaders-boycott-sarajevo-ceremony-unveil-gavrilo-princip-1454487
★11 アンドリッチグラードは2014年6月28日に開園した。開園式典には、この絵に描かれたスルプスカ共和国のドディク大統領が、セルビアのアレクサンダル・ヴチッチ首相とともに出席した。この日はじつは第一次世界大戦の引き金となったサラエヴォでの暗殺事件から100年の日にあたる。日本ではあまり知られていないが、1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者夫妻を射殺した若いセルビア人、ガヴリロ・プリンツィプは、最近セルビアでは、帝国支配に抵抗し民衆を解放した愛国者として再評価が進んでいる。観光地では顔がプリントされたTシャツも見かける。クロアチア人やボシュニャク人のあいだではいまだにテロリストであり、ここでも歴史認識の衝突が起きている。いずれにせよ、そんな日をアンドリッチグラードの開園日に選んだことには、当然のことながら強い政治的な意図が込められている。説明が煩雑になるので本文では紹介していないが、クストリッツァが描かれたこのモザイク画の隣には、じつは同じ大きさでプリンツィプと彼の仲間(青年ボスニア)が描かれたもうひとつのモザイク画も掲げられている。いまのクストリッツァは自分をプリンツィプになぞらえているのかもしれない。
★12 妄想めいた読解を許してもらえれば、アンドリッチグラードのモザイク画に描かれたクストリッツァたちが引き寄せているのは、この映画で流された草原なのかもしれない。『アンダーグラウンド』でいちど葬送されたユーゴスラヴィアの統一の夢を、いまのクストリッツァは、セルビア系政治家たちとともに復活させようとしている。
★13 本稿の執筆後(2025年3月27日)、アメリカのトランプ大統領がスミソニアン博物館群の展示に介入する大統領令を発した。とりわけ介入が必要な博物館として名指されたのが2016年のオバマ政権時に開館したアフリカ系アメリカ人歴史文化博物館で、こちらの歴史展示には今後大きな変更が加わることが予想される。じつはぼくは2023年にワシントンに1週間滞在し、スミソニアン博物館群を集中的に見学したことがある。そのときもっとも強い印象を受けたのがこの博物館で、そこでは建国以来のアメリカの2世紀半が、白人と黒人が「ともに」手を取り合って自由や平等の理念を実現した歴史として語りなおされていた。むろん、現実にはアメリカは奴隷制から出発した国であり、1960年代まで強い黒人差別が残っていたことも知られる。したがってその語りはフィクションといえばフィクションなのだが、裏返せば、それは、この半世紀のアフリカ系ほかマイノリティからの告発を真摯に受け止め、建国の理念を遡行的に「訂正」した試みだと理解することもできる。それゆえぼくはその歴史展示をたいへん好意的に見ていたのだが、それがこれからトランプの介入で覆るとすれば、それこそがまさにここで議論されている「訂正を拒否する歴史修正主義」の典型的な例である。トランプは白人男性が支配したかつての「古き良き合衆国」の記憶をあまりに大事にしている。それゆえマイノリティによる訂正を認めることができない。しかし、民主主義とは、本当はそのような訂正の営みなしには成立しないのである。なお、この2023年の取材報告はシラスで番組になっており、本誌刊行時には再公開されているはずである。東浩紀、聞き手=上田洋子、「民主主義とは訂正する力のことである──ワシントン『観光』レポートと考察」、2023年8月18日。URL=https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20230818
★14 東浩紀「悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題」、『ゲンロン10』、2019年。「悪の愚かさについて2、あるいは原発事故と中動態の記憶」、『ゲンロン11』、2020年。
★15 東浩紀「哲学とはなにか、あるいは客的─裏方的二重体について」、『ゲンロン15』、2023年。
★16 ロシア系カナダ人の政治学者、マイケル・イグナティエフは、このときクロアチアからセルビアへ向かう取材旅行を敢行しており、スラヴォニアの幹線道路が砲撃で寸断され、住民の心も荒廃しているもようを迫真の筆致で描き出している。『民族はなぜ殺し合うのか』幸田敦子訳、河出書房新社、1996年、第1章。
★17 ヴコヴァル祖国戦争記念センターの公式サイトには、2013年に共和国の政令で設置が決まったと記されている。ただしこの説明はクロアチア語版のみにあり、英語版にはない。URL= https: //www.mcdrvu.hr/o-nama/o-ustanovi/
★18 このシュミットの小論は神崎繁のつぎの著書に訳出されている。『内乱の政治哲学』、講談社、2017年、98-100頁。
★19 同書、11頁。
2025年夏に東浩紀の新刊『平和論、あるいは愚かさについて』(仮)がゲンロンから刊行予定です。今号で後篇を掲載した「平和について」は、加筆修正のうえその第一部になる予定です。同書にはほか、本文で紹介した3つの論文、『ゲンロン14』に掲載された「声と戦争」、『ゲンロン16』に掲載された「ウクライナと新しい戦時下」などが収録予定です。全国の書店で購入可能なほか、友の会第15期の会員のみなさまは「選べる単行本」で特典の1冊として受け取ることもできます。詳しくは友の会からの案内をご覧ください。
『ゲンロン18』の刊行を記念して、東浩紀と上田洋子によるトークイベントが開催されました。イベントでは、原稿には入れることのできなかった取材写真を豊富に紹介しています。ぜひ記事とあわせてご覧ください。
東浩紀×上田洋子 【『ゲンロン18』刊行記念特別番組】平和は記憶できるか?──クロアチア&ヤセノヴァツ取材報告
URL=https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20250516


東浩紀
2 コメント
- 浦野竜一(U_Ryuichi)2025/05/19 21:00
なぜ自分が「歴史修正主義」的なものに、警戒と同時に共感を覚えるのか、精緻に言語化されていて、すごくよかったです。
- 松井邦晃2025/09/02 15:31
平和について、あるいは「考えないこと」の問題(後篇)を読んで感想を残しておこうと思う。 私には4歳と2歳の娘がいる。彼女らは実に巧みに訂正可能性も忘却も使いこなす。お菓子1個だけでいいからどうしても欲しいと懇願し、食べ終わったら本当は2個欲しかったんだと泣き叫ぶ。そして一晩寝れば面白いほど同じ失敗を繰り返す。 私はこれから彼女らに、人間が行なってきたいいことも悪いこと教え、自分の内側に何を渇望するかを芽吹かせ、それを守るために外側で何を実現していくかをを見守り、必要があればサポートしていく。 現実には、そんなことはムリゲーだなと思う。しかも親の存在するだけで暴力問題や知ることとわかることの違いや誤配などを勘案すると私が子供達に平和について教えることは不可能だ。 私が臨んで子供を持ったので、教育を諦める訳にはいかない。私の言葉で無理ならば、他者の言葉で平和を学んでもらうしかない。 この東氏の平和論は最も優れた指南書の一つであると確信する。 私の娘達が惨たらしい戦争の現実と、その現実に何も出来ない自分達の無力感に思考停止してしまった時に、この平和論はししおどしの音のように心に響く力がある。 東氏の言葉に思い馳せながら、私も考え続けたいと思います。




