多様性と孤独を抱える理想郷── ムーミン・シリーズ|池澤春菜


トーベ・ヤンソン Tove Jansson(1914-2001)
引用元= https://en.wikipedia.org/wiki/File:Moominsgreatflood.jpg
あなたのムーミンはどこから?
ムーミンには幾つかの誤解がある。
まず、ムーミンはカバではない。
スノークのおじょうさん(ノンノン、もしくはフローレン)とムーミンは種族が違う。
スナフキンにはしっぽがあるし、達観した孤高の存在ではない。
スナフキンは英語名で、本当はスヌスムムリク。
ミイはムーミンより年下ではない。
挙げ始めればきりがないが、これらは、ムーミンと聞いて思い起こすものが人それぞれ違うからだろう。
トーベ・ヤンソンの原作ムーミン。
トーベと弟ラルス・ヤンソンによる漫画版。
アニメも世代によって見ていたものが違う。1969年と1972年の岸田今日子版、1990年の高山みなみ版。パペットアニメーションも、劇場版も、テーマパークのみで見られる日本オリジナル版もある。
そして無数のキャラクターグッズ。
トーベが子どもの頃、トイレの壁に描いた落書きから生まれたムーミンは、いまや世界中を席巻する一大IP(知的財産)だ。だからこそ、人それぞれのムーミン観がある。
本稿ではそれら全てが拠って立つところの小説版ムーミンシリーズを取りあげたいと思う。
戦争文学としてのムーミン
トーベ・ヤンソンは1914年にヘルシンキで生まれた。スウェーデン系フィンランド人の家庭で育った彼女は、生涯スウェーデン語で執筆したという。
小説版ムーミンが生まれたのは1945年に刊行された第一作『小さなトロールと大きな洪水』。フィンランドのスウェーデン語系出版社から刊行されたこの作品は、駅の売店《キオスク》に並べられた、50ページ足らずの小冊子だった。
画家として政治風刺雑誌『ガルム』など数々の雑誌にイラストを載せていたトーベは、時折片隅に鼻の長い不思議な生き物を描き込んでいた。しかめっ面だったり、無表情だったりするこのキャラクターは、当時の社会情勢に対するトーベなりのレジスタンスだった。
『小さなトロールと大きな洪水』も不安と孤独から始まる。八月の終わり、ムーミントロールとママは、深い森の中を彷徨っている。二人には住む場所もなく「冬がやってくるまえに、もぐりこむ家をたてようと、あたたかくて気もちのいい場所をさがして」いた。ムーミンは幼いころにパパと別れたまま、久しく会っていない。旅の途中で出会ったスニフ、チューリップから生まれた花の精チューリッパらと共に、一行は旅を続けるが、さまざまな危機や試練がムーミンたちを襲う。何もかもが作り物の人工楽園、アリジゴクの支配する砂浜、恐ろしい洪水……。
ようやくパパと再会したムーミンたちは、やがて「どこよりもうつくしい谷」に辿り着く。そこには洪水で流されたパパの家もあった。ここに来てようやく、わたしたちの知る、ムーミン一家がムーミン谷でムーミンやしきに住む、という形になる。
冬戦争の最中に書かれたこの一作目には、戦争の影がいたるところに見える。家を失った母子、父親の不在、独裁的な登場人物、抗いようのない災害。しかし最後には希望に辿り着く。それは、どんどん暗くなっていく現実に対して灯された、小さな光だった。
次作『ムーミン谷の彗星』でもまた、トーベは恐ろしい天災に翻弄されるムーミンたちを描く。
土砂降りの雨が降った明くる朝、ムーミンやしきの周りは一面どす黒い何かに覆われていた。じゃこうねずみは彗星によって地球が滅びるのだ、と予言する。ムーミンとスニフはおさびし山にある天文台に真実を確かめるために、途中で出会うスナフキンやスノーク、スノークのおじょうさんと共に、彗星がもたらす様々な天変地異の中、旅を続ける。
ここでもまた、戦争は気まぐれで悪意に充ちた彗星という形でムーミンたちを襲う。
第三作『たのしいムーミン一家』の原題は『魔法つかいの帽子』。冬眠から目覚めたスニフが見付けた黒い帽子は、中に入れたものの姿を変えてしまう不思議な力を持っていた。卵の殻を雲に、ムーミン谷をジャングルに。そしてかくれんぼ中に帽子の中に身を隠したムーミンを、ぎょろりとした目玉に大きな耳のまるで違う姿に。誰からもムーミンだと信じて貰えず悲しむムーミンを、ママだけがわかってくれた。
この話でもう一人、圧倒的な孤独を抱えるのがモランだ。触れるもの全てを凍り付かせるモランは、誰からも忌み嫌われていた。暖かさを求め、火や灯りを見付けると近づくが、自身の冷気のためにあっという間に火は消えてしまう。誰にも愛されず、誰も愛さない。冬そのものを体現したような、圧倒的な存在。
モランは、トフスランとビフスランという二人組に宝物のルビーの王さまを盗まれ、それを取り返すために追ってきたのだった。ムーミンママのとっさの機転で、ルビーの代わりに魔法の帽子を手に入れ、去って行くモラン。だが今度は飛行おにがやってくる。実は魔法の帽子は飛行おにの物だった。
前二作と違って、今作にはのどかで牧歌的な雰囲気とドタバタ喜劇の楽しさがある。その中にムーミンの孤独、モランの孤独、一人きりで星々の中を旅する飛行おにの孤独がちりばめられている。
『小さなトロールと大きな洪水』で旅に出ていたムーミンパパの謎の一部は、『ムーミンパパの思い出』で明かされる。
実は捨て子だったムーミンパパ。自由と冒険を求め、みなしごホームを抜け出し、発明家のフレドリクソン、ロッドユール(後にスニフの父になる)、ヨクサル(スナフキンの父と言われている)とともに、海のオーケストラ号に乗り込んで壮大な冒険へと漕ぎ出した。
そして冒険の最後で、パパは海で溺れていた美しく可愛らしいムーミントロールを助け出す。生涯の伴侶となるムーミンママと出会い、腰を落ち着けたはずのムーミンパパだが、生来の自由人の気質が騒ぎ出すと、またふらりと旅に出てしまうのだった。
『ムーミン谷の夏まつり』には、北欧らしい短い夏の美しさ、儚さがいっぱいに詰まっている。
大洪水によってムーミン谷に流されてきた大きな建物、実はそれは劇場だった。劇場ねずみのエンマや、洪水から逃れてきたホムサとミーサと共に、水に浮かぶ劇場に暮らすムーミンたちだったが、やがてムーミンとスノークのおじょうさんは家族と離ればなれになり、ミイもまた水の中に転がり落ちて流されてしまう。
アナーキーで悪者なスナフキンも描かれる。直後に今度は二四人の子どもの面倒を見なければならなくなり、大変しょぼくれた姿も見せる。スナフキンを物静かに話す、何事にも動じない仙人のように思っている人には、驚きのシーンだろう。
孤独を託つフィリフヨンカの旅立ち、ムーミンたちとスナフキンのすれ違い、その後も物語は『真夏の夜の夢』のように、めまぐるしく進んでいく。最後は全員揃ってのお芝居の上演だ。華やかに賑やかに、笑って泣いて、夏が終わる。
そして冬がやってくる。『ムーミン谷の冬』は、冬眠中に一人目覚めてしまったムーミンが経験する、初めての冬の話。起きているのはミイのみ。今まで見たことのないムーミン谷の冬をムーミンは最初は恐怖と不安を、やがて自由と解放を感じて迎え入れる。
冬にしか出会えない人々もいる。冬の旅人おしゃまさん、水浴び小屋の戸棚の中に潜むご先祖さま、騒々しく厚かましいへムルに、臆病なイヌのめそめそ、ムーミンやしきは思わぬ来訪者でごった返している。
やがて、待望の春がやってくる。客人たちは去って行く。ムーミンは少し大人になる。北欧の冬の姿を静謐に、鮮やかに描き出すトーベの筆が素晴らしい。
『ムーミン谷の仲間たち』は、シリーズ唯一の短編集。
特に印象的なのは、意地悪なおばさんに虐められ萎縮して透明になってしまった少女ニンニのお話。おしゃまさんに連れられてやってきたニンニを、ムーミンたちは優しく迎え入れる。ムーミンたちと接するうちに少しずつ姿が見えるようになってきたニンニだったが、心配したり罪悪感を感じるとまた透明に戻ってしまう。ニンニが自分の顔を本当に取り戻したのは、愛するムーミンママを守るため、怒りを外に出したときだった。全てを諦念と礼儀正しさで受け入れてきたニンニが、本来の闊達で明るい女の子へと再生するこの話は、短編集の中でもとりわけ強い印象を残す。
ちなみに『冬』と『仲間たち』に出てくるおしゃまさんは、トーベの同性のパートナーであった、トゥーリッキ・ピエティラがモデル。
シリーズ屈指の名作にして異色作、とわたしが思っているのが『ムーミンパパ海へいく』。
夏の終わり、ムーミン一家とミイは谷を離れ、小さな島へ渡る。誰もいない灯台を家としたムーミンたちは、絶海の孤島でそれぞれ自分の抱える孤独と向き合うことになる。
頼れる父親像を見せようと魚釣りに没頭するパパ。一方ママは部屋の壁一面にムーミン谷の草木を描き、いつしかその中に入りこみ、夢とも現ともつかない状態に逃避してしまう。
ムーミンは自分だけの秘密の場所を見付けるが、そこにはたくさんのアリがいた。そのことをミイにこぼすと、ミイは自分に任せておけ、と請け合う。次の日、ムーミンが秘密の場所に出かけると、灯油を撒かれ、アリたちは全て死んでいた。もう一つ、ムーミンとミイが見つけた無数の小さな十字架のシーンもとても印象的だ。「これはね、鳥のお墓よ。だれかがたくさんの鳥をここに埋めたのよ」とミイは言う。
どちらかといえば呑気で、のどかな日々を送っていたムーミンたちが、どんどんおかしくなっていく、ほぼホラーのような展開。その陰にいるのは、島の先住人の漁師。彼が抱えている秘密が明らかになったとき、ムーミンたちはもう一度家族としての形を取り戻す。
救済も描かれる。皆が孤独に打ちのめされる一方、最も孤独な存在として描かれていたモランがムーミンと交流するとき、奇跡が起きる。解体と再生の物語。
最終作『ムーミン谷の十一月』にムーミンたちは登場しない。ムーミン一家が不在の屋敷に、彼らを慕う者たちが三々五々集まる。へムル、フィリフヨンカ、トフト、スクルッタおじさん。それぞれが勝手なムーミン一家像を描き、勝手に理想化している。そこにミイを探しに来たミムラ、そしてスナフキンが加わり、でこぼこな共同生活が始まる。
各々がムーミンたちを思い描く中で、自身が抱える問題に向き合う。ムーミンたちの不在が触媒となってそれぞれを癒していく。それは、これを最後にムーミンたちの物語を書くことを止めるトーベ自身の寂寥と追想のようだ。
開かれた共生のかたち
ムーミンの物語では、家族や一族は緩やかに外に開かれている。ひとりぼっちのスニフを家族として迎え入れ、スナフキンはミムラ族とムムリク族という二つのルーツを持ち、ムーミンやしきを訪れる客は誰でも温かいもてなしを受ける。種族が違っても、分け隔てはない。
周囲を険しい山に囲まれ、世界から閉ざされたムーミン谷の中で、ムーミン一族はそれぞれに孤独を抱えているが、孤立はしていない。だからこそ『十一月』でさまざまに孤立した人々が、ムーミン谷を目指すのだ。
ムーミン一族のこの在り方は、現代のわたしたちに大切な示唆を与えてくれる。血縁や種族という枠を超えて、誰かを受け入れ、共に生きていく。そこには確かな絆がありながら、スナフキンのように自由に出入りできる柔軟さもある。個々の孤独を認めながら、決して見捨てない。
トーベ・ヤンソンは、この理想的でありながら現実的な共同体の姿を、ファンタジーという形を借りて描き出した。だからこそ、時を超え、心に深く響く普遍的な物語となったのだ。
ムーミン谷は、わたしたちが目指すべき共生の理想郷なのかもしれない。


池澤春菜
1 コメント
- TM2025/08/20 16:38
ムーミンの物語は子どもの頃に沢山読んだ。他のファンタジーはなぜだか遠くの物語のようだったけど、ムーミンの物語は違った。 池澤さんの指摘された通り、ムーミン一家は他者を絶えず受け入れていく。多分子どもながら私はその 未知ととけて変化するということが魅力的に映ったし、希望として灯ったのだと思う。 一方で今回の論考を読んで気付かされたのはムーミンたちの孤独だった。子どもの頃、感覚でその肌触りは受け取っていたのかもしれないが、それはこれまで言語化されてこなかった。 強く印象に残るムーミン谷の冷たい冬、冬眠の深さ、あれらは生まれ落ちて人間が皆抱える孤独だったのだろう。 受け入れと孤独。 これらは真摯に人生を描き、そこに明かりを灯してくれた。だから、私は繰り返し読んだのだと思う。 それは子どもに手渡すとしたらムーミンという媒介が必要だったのだと思う。




