ミンスクの夢、浅草の夜
私は今年とあるイベントの司会を務めた。登壇者は東浩紀さんと植田将暉さん。東さんの新著『平和と愚かさ』を紹介する内容で、私は司会という役目柄、その日に向けて仕事の合間を見つけては少しずつ本を読み進めた。ページを捲るたびに、かつて中東欧を巡った記憶がふいに蘇ってくる。
東さんは「平和とは青春そのものだ」とイベントを締め括った。私はその言葉を長いあいだ反芻していた。平和とは何か。青春とは何か。考えているうちに、私の関心は国家や戦争そのものから離れ、純粋無垢な一人の少女へと向かっていく。このエッセイを執筆するにあたり、戦争や国家について論じるより先に書くべきことが、自らの内にある気がしてきたのだ。私は「愚かさ」の視点から書こうと決めた。この迂遠な作業によって「平和」の輪郭を描ける気がしたからだった。
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2012年9月、私はベラルーシ共和国のミンスクにいた。15歳だった。ベラルーシ。Рэспубліка Беларусь。Weißrussland。白いロシア。ロシアとウクライナのあいだに位置する、遠い国の、遠い名前だった。
私が着ていたジャケットは世界から身を守るための外殻だった。フィギュアスケート・ドイツ代表のユニフォーム。それを羽織っていれば、女性でも男性でも日本人でもデラシネでもない、一人のドイツ代表フィギュアスケーターとして存在を赦される気がしていた。
ドイツ代表選手団を乗せた飛行機がミンスク国際空港に到着した。入国審査を抜けて荷物を受け取ると、漆黒の機関銃を持った警官たちが巡回している。緊張が走る。しかし何も起こらなかった。私たちの存在を訝しむ様子もない。それはヨーロッパ最後の独裁国家と呼ばれる国の、ありふれた日常の一部にすぎなかった。私たちは大きなスーツケースを転がして、待機していたシャトルバスへ乗り込み座席にそっと腰を下ろした。バスが発車すると、規則正しく並んだアッシュグレイの建築物が横切っていく。やがて視界の先に、大統領アレクサンドル・ルカシェンコの主導によって建設された巨大建築、「ミンスク・アリーナ Мінск- Арэна」が姿を現した。これから出場する国際試合の舞台だ──。
6歳でフィギュアスケートに出逢い、スケートリンクから徒歩圏内のマンションを借りて近所の小学校に通った。文字通りフィギュアスケートを主軸とした生活を送ってきた。放課後にクラスの友人と遊んだ記憶は指折り数えるほどしか存在しない。友達と遊べなくて悲しいとか、そうした感情はなかった。孤独だったかもしれない。しかしそれでも、少女は矜持を抱きながら生きていた。毎日練習を積み重ねていけば、実力もまた右肩上がりに伸びていくものだと、疑いもなく信じていた。
県内や関東圏の競技会で入賞経験があるという意味では、下手ではなかった。むしろ家族や友人に勝利を祝福される喜びを知っているだけ恵まれていたのだと思う。しかし日本は世界屈指のフィギュアスケート大国であり、当時から国内での競争率が極めて高かった。残念なことに、私は日本代表に選出されるほどの才能を持ち合わせていなかった。
全国中学校スケート大会で12位になり、今後が楽しみな選手などと噂されるようになっていた頃、私は練習拠点をドイツのベルリンに移すことになった。きっかけはあるドイツ人コーチの一言だった。
「きみならドイツ代表選手になれる」
多感な13歳の少女にとって、その言葉はほとんど神託のように響いた。当時の連盟規定では、ドイツ国籍を持たない選手であっても、オリンピックを除く国際大会への出場が認められていた。私の夢は国際試合に出場することだったから、どの国の代表であるかはそれほど重要ではなかった。こうしてドイツ代表を目指すと心に決めた私は、あっさりと母国を離れてしまった。
フィギュアスケートは私にとって第二の母語だった。技が成功したら拍手が起こる。選手同士の称え合いの文化が根付いていたドイツでは尚のこと、身体運動でコミュニケーションがとれた。技の名前もルールも世界共通だ。だからこそ異国の地へ赴くことを厭わなかったのである。
ベルリン行きの便に乗り込んだのは、2011年3月11日、東日本大震災が起きたその日の午前中だった。巨大な悲劇が祖国を覆っているにもかかわらず、私は安全な異国の学生寮にいて日本列島を呑み込んでいく黒い津波を画面越しに見つめていた。耐えがたい疎外感に苛まれた。自分だけが、そこに居合わせていない。ほとんど罪悪感に近い痛みがあった。日本人でありながら、日本の外側から日本を眺める人間になり始めていた。
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日本を発った約1年後、私はドイツ代表の座を獲得し、晴れて国際試合への切符を手にできた。はじめて派遣された国際試合の舞台が、ベラルーシの首都、ミンスクだった。
車窓の向こう側の景色は、外国にいるという確かな実感を与えてくれるものだった。大通りにはスターリン様式の大規模な建築物が並び、その背後には集合団地が延々と続いている。みょうに整然としていて、廃棄物ひとつ落ちていない無味乾燥な街。巨大な思想がそのままコンクリートになったみたいな景色だった。
しかしながら、ベラルーシが旧ソ連圏の国であることも、ルカシェンコの独裁体制のもとにあることも、当時の私にはただの知識にすぎなかった。そこに暮らす人々の生活を具体的に想像することもなかった。思考の中心にはただひとつ、フィギュアスケートがあった。ショートプログラムとフリープログラムの演技構成。技の難易度と成功率のバランス。ウォームアップの時間。試合前の食事内容。スケートリンクの氷の硬さ。フライトによる身体の浮腫み具合。そうしたことばかりを考えていた。
宿舎では同じスケートクラブに所属するドイツ代表選手と相部屋になった。二人でユーロからベラルーシ・ルーブルに両替しに行くと異様な厚みの札束になって返ってきた。私たちは大量の紙幣をベッドに広げて写真を撮り、さらにその上に寝転んでみたりしてかなり浮かれていた。
朝、ホテル1階のレストランで食事をしていると車椅子の男性が入ってきた。どうやら彼は食糧を求めているらしかった。それを見た店員は迷いなく車椅子を蹴った。何度も何度も蹴った。まるで野良犬でも追い払うみたいだった。鈍い音が響き、車輪は少しずつ後退していく。車椅子の男性は、いまにも泣き出しそうな表情をしていた。毎朝決まった時間に生じる儀式めいた光景なのか、周囲の客はあまり気にしていない様子だった。私はその一部始終を動揺しながら見ていた。見ていただけだった。
私たちは会場に赴き、試合前の公式練習に参加した。天井がうんと高く、広大な会場に足を踏み入れ、期待に胸を高鳴らせた。当時の私はそんなことを考える余裕もなかったが、あの建築物は独裁者の意志そのものだった。ルカシェンコは筋金入りのアイスホッケー愛好家で、自身も競技を行っている。このアリーナも彼の肝煎りである。
もっとも、それはたんなる独裁者の道楽として片づけられる話ではない。日本ではバブル崩壊以後、民営のスケートリンクが次々と閉鎖に追い込まれたらしい。銀盤で夢を見るためには、まずそこに氷を張るための莫大なエネルギーが消費されなければならない。だからリンクはしばしば経済合理性によって切り捨てられる。その一方で、ほとんど狂気じみた規模でスポーツへの投資を続ける国家も存在する。選手たちを国威発揚の装置として利用できるからだ。
スポーツ施設では、アスリートたちが「国家の顔」として育成されている。国際大会でメダルを取ることは、そのまま体制の正しさを証明する行為になる。個人の身体は、いつしか国家という共同幻想を背負わされるのである。その圧力に耐えかねて、遠征先から亡命した選手も多数存在する。2021年の東京五輪でも、ベラルーシ代表選手がポーランドへ亡命したことが話題になった。国家は、スポーツや芸術が人間の感情をどれほど激しく揺り動かすかを熟知している。

勝利によって生まれる陶酔。その熱狂を権力者が利用してきた歴史は古い。これは独裁国家に限られた話ではない。そしておそらく21世紀になった現在も、本質的には何ひとつ変わっていない。
試合の結果は3位だった。あまりにひどい演技だったので、まさか入賞するとは思わなかった。それでもはじめての国際試合での入賞が決まると、家族が誰よりも喜んでくれた。その横で、私のコーチも笑みを浮かべていた。
表彰式が始まる。会場には壮大なファンファーレが鳴り響いた。私はフィンランド人選手とリトアニア人選手と一緒に名前が呼ばれるのをリンクサイドで待っていた。生まれた場所はちがう。言葉も通じない。しかし、氷上においては国境の壁を越えて、みなが平等につながっているように思われた。やがてそれぞれの名前が呼ばれ、観客席から拍手が起こる。表彰台に立つとメダルと賞状を授与され、記念撮影の時間に入る。そのとき、自分が何者かになれたような錯覚を抱いた。世界と接続されたような気がした。
いま振り返ると、それはずいぶん愚かな錯覚だったのかもしれない。世界では領土や宗教をめぐる争いが絶えず繰り返されている。貧富の格差、人種差別、政治的対立。人間社会には無数の亀裂が走り、相互不信と分断が深まっている。だがそれでもなお、スポーツの世界には、そうした苛酷な現実を一瞬だけ忘却させる力が存在する。そこには涙ぐましい努力があり、身体運動の美しさがあり、勝ち取った栄光があり、そして国境を越えて結ばれる友情の物語があった。少なくとも当時の私には、そのすべてが疑いようのない真実として輝いて見えたのである。
入賞者はガラに出演できた。いわゆるエキシビションだ。競技とは異なり、そこには順位も点数もない。私はアイスショーの準備をしていなかったので、かつて使用していたショートプログラムをアドリブで改変しながら滑ることにした。リハーサルでは著名なロシア代表選手と写真を撮った。そのほかにも多くの国の選手たちがスケートリンクに集まっていた。みんな若くして才能があり、自信に満ち溢れ、将来どうなるかなんて考えていない顔をしていた。迎えた当日、会場は地元の観客でぎっしりと埋め尽くされていた。競技本番ではなく、むしろ試合後のショーを目当てに多くの人々が集まっていたことに驚いた。
演技が始まる。次の瞬間、眩いスポットライトが斜めに降りそそぐ。私は蒼色に染まる光の大海原を滑走した。エッジが氷を削るたび、氷片が星屑のように散る。演技が終わると、歓声と拍手が波のように押し寄せてきた。このとき私はベラルーシの中心で色彩豊かな夢を見ていた。それはきっと私だけではなかった。観客席の人々もまた、同じ夢を見ていたのだと思う。しかしこの夜の喝采は、のちに永遠に失われることになる。
私が参加したミンスクの国際競技会は、2022年以降開催されていない。ロシアによるウクライナ侵攻を受け、国際スケート連盟がロシアとベラルーシの選手・関係者に対して国際大会の開催および参加を禁止したためだ(2026年現在は緩和されている)。同大会は2021年を最後に幕を閉じることとなった。
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『平和と愚かさ』のイベント終了後しばらくして、私は浅草にいた。かつて東京大空襲で焼け野原になったその中心地で、女性の裸体を眺めていた。浅草ロック座では、日夜ストリップ・ティーズが行われている。
ストリップ・ティーズとは、strip(脱衣する)と tease(焦らす)を掛け合わせた言葉で、日本では「ストリップ」として広まった。文字通り、観客の前で脱衣していく一連のパフォーマンスである。ストリップに通う観客のことを「スト客」と呼ぶのだが、私もそのうちの一人であり、大学時代から年に数回ほど通ってきた。
戦後1947年に開館した浅草ロック座は、しばしば昭和の遺構と称される。だが、今日に至るまでに幾度となく閉館の危機に直面し、そのたびに業態を変えながら経営を続けてきた歴史がある。近年では、女性客やインバウンド客などの新しい顧客層を獲得しつつある。この日も場内では多言語のアナウンスが響き渡り、観光客の姿もちらほらと散見された。浅草ロック座はいま、新たな時代の局面を迎えているのだ。
会場に足を踏み入れると、すでに演目が始まっていた。空間内には白粉のような独特な香りを放つスモークが充溢している。週末ということもあり、客席はほとんど埋まっていた。私は中腰になって観客のあいだをすり抜け、やっとの思いで空いた座席に身を沈めた。
姿勢を正して視界の中心に踊り子を捉えたその刹那、ふと裸体の彼女と目が合った気がした。黒いベビードールからシルクのような純白の肌を覗かせている。もちろん全体を俯瞰するように眺めても、身体のある一部位を見つめ続けても、誰かに咎められることはないのだが、この感覚に慣れるまでには毎度のこと時間がかかる。しかしそんな私の緊張を見透かしたかのように、彼女はふっと笑みをこぼした。大丈夫だよ、と囁くようなほほえみだった。そんな彼女の表情を見て、私はようやく安心して一人の観賞者となった。
その日、最も私の心を掴んだのは森の妖精をイメージした演目だった。彼女は花道を辿って回転盆へと移動すると、薄手のロングドレスで自らの身体を繭のように包み込んだ。曲調が変わると、たちまち歓喜に満ちた表情で外界を眺め、四肢をうんと伸ばして幾つものポーズをとった。アクロバティックに体勢を変えるたび、会場からは拍手が沸き起こる。やがて音が止み、夢の終わりを告げるように暗転した。気がつけば、私の頬には涙が伝っていた。
休憩時間に入ると横にいた中年男性たちが、〇〇ちゃん太ったよね、いや、むしろそれがいい、などと小声で話し合う声が聞こえてきた。常連のスト客だろう。私はその横で、氷上で過ごした10年前までの日々について思いを馳せていた。
氷上の世界では、痩身はもはや身体の状態ではなく、一種の倫理だった。拒食症によって痩せた者は、命の極限まで自己統制する精神そのものを称揚される。身体は、勝利のための道具であり、理想へと彫刻される石材のようなものだった。しかしそれは(よく誤解されることでもあるが)、必ずしも美しさの追求を意味しない。
フィギュアスケートのルールでは、ジャンプの回転数が得点に直結する。身体の軸が細くなれば回転速度が上がるため、選手たちは減量を求められる。私も例外ではなかった。第二次性徴によって体重が増加し、ダイエットの必要に迫られたが、ストレスから暴飲暴食を繰り返すようになった。下剤乱用や自己誘発性嘔吐も習慣化していった。気づけば身体も精神も摩耗していた。やがて代表の座を失い、17歳で現役引退を余儀なくされた。
あの頃の私は、自らの身体を煩わしい「モノ」として感覚していた。女性らしさの象徴である胸や臀部は、ジャンプを跳ぶ際に邪魔になる遠心力の元としか思えず、心の底から嫌悪していた。試合の得点やジャンプの回転数、体重計の数値こそが自らの価値を決定し、空腹感や疲労感は克服すべき対象だった。引退後も、食事をする罪悪感からは解放されなかった。
翻って浅草ロック座の本舞台には、身体美に関する単一の理念は存在しなかった。痩せた身体もあれば、豊かな肉をたたえた身体もある。若さを武器にした踊り子もいれば、歳月を魅力へと変えた踊り子もいる。彼女たちの身体が、ひとつの規範に収斂することはない。少なくとも、私の双眸にはそのように映った。
彼女たちの身体は解放的で等しく美しかった。私にとってそれは、裸体主義にも似た、美をめぐる規範やナラティブからの解放を意味していた。アンダーヘアの有無、骨格の大きさ、乳房のかたち、筋肉のつきかたに至るまで、ひとつとして同じ身体は存在しない。そのあたりまえの事実を思い出させてくれたからだ。そして何より、氷上において勝利のための道具だった身体は、生きられるために存在すると実感できたからだ。長い競技生活を通して、身体を精神でコントロールすることばかりを考えてきた。しかし裸体を眺めているうちに、私自身の身体を受け入れることができた。それは、身体の復権の経験だった。
スト女(ストリップ愛好女子)はしばしば、ストリップを観賞するたびに感動する、涙が出てしまうと語るのだが、たいていの場合、スト客でない男性から奇異の目を向けられる。女がなぜ同性の裸体を見に行くのか、その裸体を前にしてなぜ泣くのか、疑問に思うのかもしれない。
しかし、それは少しも不思議なことではない。なぜなら、踊り子たちはまぎれもなく表現者であるからだ。観客は、彼女たちの身体の内に生命の輝きを見る。光へと指先をぴんと伸ばし、何かを掴もうとする動き。空気をかき集めて抱擁するようなしぐさ。あるときは観客席に向かってほほえみ、またあるときは挑発的なまなざしを向ける。その一連の運動は、言語によって分節化されるより先に、直接心に訴えかけてくるものがある。
客電が灯り会場全体が明るくなると、前の座席の男性がハンカチで涙を拭っていた。
「〇〇さんの演目って、泣けてくるんだよね」
私だけではない。女だけではない。その事実が私をどこか安堵させた。
他方で、踊り子たちが常に「見られること」を意識しながら生活し、美容への投資を惜しまずに生きていることを思えば、ナラティブから解放された私たち自身が新たなナラティブを再生産し、彼女たちを縛りつけている可能性を否定できない。果たして夢を見ることは総じて搾取であり、愚かなことだろうか。そう問われたら否定はできないし、それでも涙は流れる。依然としてこの矛盾は解消されないまま、私のなかに残っている。ただ、愚かさのなかにしか見出せない何かが、確かに存在するような気がした。
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戦闘機の飛ばない夜空の下で、人は安心して幻想を消費する。焼け跡の上に歓楽街ができ、死者の記憶の上にネオンライトが灯る。そして私たちは光のなかで忘我する。死の気配が遠ざけられ、暴力が不可視化された、軍用機の飛ばない世界で息をしていた。
私もかつてスポットライトのなかで舞い、波のような拍手に包まれる恍惚を味わった経験がある。それは何にも代えがたいもので、遠い記憶のなかで明滅している。無論その背後には、常に政治的な緊張関係や戦争の気配が横たわっていたはずだ。それでもいま振り返ってみれば、スポットライトのなかで観客とつながり、さまざまな国の選手たちと交流しあった過去は、私にとってかけがえのない青春の記憶であり、平和だった。東さんの言葉を借りれば、そこには人々が政治について「考えなくてもよい」平和が確かに存在していた。
私がイベントに向けて読んだ『平和と愚かさ』は、人間の愚かさを断罪するような本ではなかった。青春や平和と呼ばれるような時間が、この先もずっと家族や子孫や友人のもとに残されることを願う、祈りのような本だった。
空襲が予想された昭和19年の浅草では、木造の劇場が次から次へと取り壊された。これから先、浅草ロック座が営業禁止や休業命令を言い渡されるような、そんな未来が訪れない保証はない。もし仮に、ミラーボウルと回転盆が動きを止めて、煌びやかな光景が過去になったとしたら、人々はどのように浅草の夜を振り返るのだろうか。
帰りに寄るつもりだった老舗の洋食屋は、数日前に暖簾をおろしていた。その店には過去に一度だけ訪れたことがあった。おいしいね、私たちは食の好みが合うね、と笑い合った記憶がふいに蘇る。硝子戸の向こうには誰もいない。そこに映っていたのは、街を行き交う人々と呆然と立ち尽くす私自身の影だけだった。閉店を知らせる一枚の貼紙を読み終えたとき、上野方面へと歩く若者たちの声が風に乗って耳を掠めた。その夜もまた、誰かの青春なのだろう。
一瞬でもいい。どうかその一瞬の青春が、いつか遠い未来に振り返られる、美しい過去でありますように。そして日々の苦悩から解放され、忘我できるような幸せな時間が、これから先もずっと守られてありますように。
2026年10月24日刊行『ゲンロン19』

花城みなみ




