福島第一原発観光地化計画の哲学(2)フード左翼と原発のただならぬ関係(後篇)|速水健朗+東浩紀

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初出:2014年6月1日刊行『ゲンロン観光地化メルマガ vol.14』
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原発への賛否


東浩紀 速水さんは、原子力発電についてはどのような考えをお持ちですか。

速水健朗 一言でいうと推進派です。ただ、ずるい言い方になりますが、「事故が起こらないようなテクノロジーで制御する限りにおいて」という留保つきです。でも、やっぱり難しいかな。太平洋戦争で、軍部から政府から町内会に至るまで、皆が負けることを前提に自分の利益を横領することに全勢力を傾けたという国民性は変わってなさそうなので、事故が起こることを前提にしそうだな、日本人は。ただ、原子力発電というテクノロジーを否定しようとはまったく思いません。

 再稼働については。

速水 同じ留保つきで賛成です。

 新設については。

速水 それは、積極的にすべきだと思います。国民感情的には無理だと思いますが。

 なるほど。

速水 堀江貴文さんがよく言っているように、原子力研究に予算がなくなり、そこに人材がいなくなる方が怖いです。廃炉作業に関しても、技術の革新なしには進展しないですし。一方、廃炉作業については、東京電力に任せるべきではないと思っています。運用すらできなかった企業が、廃炉などできるはずがない。運用にはともかく、メリットのない廃炉をうまくやろうとする気すらないに決まっているので。

 事故処理については、国が面倒を見るべきだということですね。

速水 仕方がないですね。理想的には、廃炉にまつわるインセンティブを作ればいいのだろうとは思いますけど、現実には難しそう。ただ、ぼくは「小さい政府」論者なので、このように国家が介入しなければ収束できない技術である原子力発電は、そもそもやるべきではないという立場に立つべきなのかもしれないですね。しかしこうなってしまった以上、収束させていくためには産業としての原子力を育てていくしかない。だから新設も認める、という考え方ですね。

左翼のジレンマ


 少し質問の方向を変えたいと思います。速水さんは、流動性の高いライフスタイルの分析を得意とされています。そこから都市や消費への注目が出てくると思うのですが、逆に速水さんにとって「ふるさと」はどこなのでしょう。

速水 生まれは石川県の金沢市ですが、2歳くらいで引っ越して、それからは東京、仙台、秋田、新潟と、全国を転々としていました。とくに、ふるさとに思い入れはないです。

 では、ここが自分の故郷だ、というような思い入れはあまりない?

速水 東京が好きです。

 原発事故によって可視化された対立軸のひとつに、流動性をめぐる感覚があると思います。どんなにコストがかかろうと故郷を離れたくないというひとがいる一方で、それならば引っ越せばいいというひともいる。これはフード左翼とフード右翼の対立軸とも関連している。フード左翼はグローバル化に対抗してローカル重視の立場を取っているように見える。けれども実際には、そんな彼らは、福島の農家の人々とはまったく違い、実際には都市に住み流動性の高い生活を送っていたりする。だから福島の人々とも連帯できない。そこらへんのねじれはどう解きほぐしていけばいいのでしょう。
速水 このねじれは『フード左翼とフード右翼』の根本的なテーマのひとつです。たとえば左翼の基本的な行動原理のひとつに、「弱者の味方」というものがありますが、いま弱者とはいったいどのようなひとを指すのか。

 本のなかではオキュパイ・ウォールストリートの事例を紹介しました。彼らは「われわれは99%である」をスローガンに、1%の資本家・富裕層を打倒しようと訴えた。しかし視野を広げてグローバルな基準で見れば、デモ参加者もまた、世界全体の1%の富を独占している立場です。

 これと同じ現象は日本でも見られます。オリンピック招致への反対が代表的なように、フード左翼の基本的な立場は「開発反対」ですが、これは自分たちの既得権益を守ろうとするものでしかない。自分たちの住む土地に新しい住民を増やしたくないという排除の論理を働かせているからです。都市は新陳代謝が滞ると、地価が高くなり、さらに排除が働きます。

 昨今話題のコミュニティデザインという考え方も、既存の住民からよく話を聞いて、利害を損なわないように新しいものを作っていこうという発想です。しかしこれは、これから移り住みたいと思っている潜在的な住民を切り捨てるものにほかならない。よい都市というのはふつう、自動的に住民が増えていくものです。新しい住民が移り住んで来るためには、新しい住宅が必要です。コミュニティデザインの考え方は、この流れに完全に逆行します。彼らは自分たちが左派だと思っているかもしれないけれど、実際の行動はそうなっていない。『フード左翼とフード右翼』は、こういう左翼のジレンマをひとつひとつ、彼らに突きつけていこうと思って書いた本でもあります。

 重要な指摘ですね。福島に限らず、知識人の役割は地元のひとの意見に耳を傾けることであり、それこそがリベラルなのだということになっていますが、じつはそれは住民の既得権益を守ろうという話でもある。その点では観光地化計画はリベラルな運動に見えない。

速水 一見いい意見のようでも、じつはまったく間違っている、ということが増えてきている気がします。わかりやすいのは商店街とショッピングモールの対立構造で、商店街は守るべきものであり、ショッピングモールは個人事業主を排除しようとしていると捉えられがちだけれど、むしろそれは逆ではないのか。商店街のほうが既得権益で、それに参入しようとする新しい層を排除しようとしているだけではないのか。ぼくはそこに強い矛盾を感じています。

 同感です。福島第一原発観光地化計画は「地元の意見ばかりを聞いていてもものごとは動かない」という前提で始まっており、だからこそ反発を買ってもいます。福島第一原発の事故はあまりにも巨大な事件なので、近隣住民だけでその未来を決めるべきものではない。極端な話、もし周辺住民が、原発事故をすべて忘れ事故跡地を更地にしたいと望んだとしても、「人類のために」そうすべきではないといった視点が必要だと思う。だからこそ、日本国内外の観光客の視線を導入することが重要なんですね。

ショッピングモールの可能性


 ショッピングモールにはフードコートがつきものですが、フードコートはフード右翼かというと、なかなか割り切れません。健康に配慮していたり、オーガニックな食材が使われていたりもする。最近の都市型のショッピングモールでは、フードコートにも多様性が出てきました。

速水 フードコートのいいところは、原則的に、お客さんの選択による自然淘汰の原理が働いているところだと思っています。いいショッピングモールには、それに見合ったお店が生き残っていく。ぼくはそれこそが正しい原理だと思っていて、選択は消費者に委ねるべきです。

 都市型のショッピングモール、たとえば新丸ビル──ぼくの定義ではショッピングモールに含まれます──には有機野菜を使ったテナントがいくつも入っていて、OLを中心に人気を集めています。これもまた、裕福な都市生活者の需要に合わせて洗練されたあり方といえます。

 つまり、ふくしまゲートヴィレッジのフードコートがどうなるべきかは、出店してみなければわからない。世界中から観光客が集まるのであれば、それに見合った多様性が確保されるはずですし、地元のひとが足しげく買い物に来るようなショッピングモールになるのであれば、彼らの階層に合った店舗が残ることになる。両方ともありうると思っています。

 どちらにも需要はあると。

速水 アメリカと日本との人口比で計算すると、日本にはあと10倍、ショッピングモールがあってもいい計算になるんです。逆になぜ日本にはそれしかショッピングモールがないのかというと、大店法をはじめとする各種の法規制の影響です。2006年以降は、新規に出店しにくいような規制がかけられています。もちろん、ピエリ守山のようにゴーストタウン化した事例もありますが、適切な立地であればまだまだ出店の余地はあります。ぼくは、都市への集積をよしとする論者で、郊外への都市の拡散は反対なので、これ以上の都市圏のスプロールは、やるべきではないとは思いますけど。

未来の福島を空想する


 福島第一原発の事故の記憶を残し後世に伝えていくために、観光地化計画以外にどのようなアプローチがあると思いますか。

速水 基本的にぼくは意識が低い人間なので、いまの若手論壇みたいに、みな意識が高くて、社会貢献や福祉社会の実現みたいなことを言っている状態は、あまり好きじゃないんです。じつは、社会にとってマイナスなんじゃないかって思ってさえいる。理想主義ばかりを言っていた社会主義がなぜうまくいかなかったかというと、その裏で組織全体が腐っていたから。だから根本的に、良いことばかりを言うひとを信用してないんです。逆に、素直にお金が欲しいとか、いいクルマに乗りたいという原理で動いている人たちの方が、結局はいい社会を作っていくんだというのが、ぼくの世界観です。だから、観光地化計画の他のひとの、意識が高い地元貢献系のアイデアに対して、意地の悪い見方をしてしまう(笑)。

 観光地化計画のなかで今後のアイデアはありますか。

速水 本を出版するまでは、なにもないゼロのところからアイデアを出していく段階だったと思っています。いまは東さんや津田さんが「ゲンローグハウス」に取り組んでいるように、それを実現化するフェイズに来ている。ただ、実現化のフェイズでは、あまりぼくが貢献することはないのかなとも思ってます。むしろぼくの役割は、もう一度想像力を膨らませ、最初の段階を再強化することではないかと思っています。

 最近、ある若手論客を話をしているときに、「行程表を作ればいいじゃないですか」と言われました。いつまでにどういうことを達成すればいいかを表にして、ひとつひとつ実現していけばいいというわけです。これは彼に限ったことではなく、いまは発言よりも行動するひとが価値があるという風潮がある。

 現実的な提案だけが重要だと思っている。
速水 だったらぼくは、実現不可能な方向へ発展させていくポジションの重要性を説きたい。たとえば、小説版「福島第一原発観光地化計画」をつくると仮定して、舞台となる作品世界の設定を考えていく。政権与党はどうなっており、テクノロジーはどのくらい進んでいるのか、世界は福島をどうイメージしているのか……。極端な予測があってもいいので、設定集を作る。そのうえで小説家に、これをもとに小説を書いてみないかと持ちかけてみたい。たとえばですけど。

 エコノミストの『2050年の世界』(文藝春秋)がベストセラーになっているように、未来予測というのはそれ自体がエンターテインメント性を持っています。福島を舞台にした未来予測には、十分価値があるし、知的にも面白いもののはずです。怒られて炎上するリスクもありますが、それくらいのことをやってもよいのではないか、というのがぼくの提案ですね。

 なるほど。「ギートステイト」の精神を取り戻そうと。

速水 ぼくらの世代の論客は、みな特化した専門分野を持ち、そこから外れることを話さないという傾向がある。もしくは、専門家しかメディアに呼ばれないんです。かつては、そうではないコラムニストという立場があったんだと思います。コラムニストというのは、現場も取材していないし専門家でもないのだけれど、事件に対してずけずけと突っ込んでいく。エビデンスがなくても、部外者、一市民的な立場で外からものを言う。時には茶化したり、笑い飛ばしてみたり。かつての神足裕司さんとか、いまだと小田嶋隆さんがそういった機能を果たしてきた。そのコラムニスト的な存在が持っていた機能って、社会にとって必要なものだと思っています。大局が見えてない、細かな議論に陥るのを修正したり、異化作用だったり、まあときに、害悪でしかないコラムニストもいますけど。ぼくは本当は、そういう存在に憧れてきた。実際の現在のぼくの仕事って、評論家っぽくも、ジャーナリストっぽくも、社会学的な視点でものを言うひとにも見えたりもすると思うんですよね。それは、戦略的にそうふるまってきたところもあるんですけど、本当はコラムニスト的な存在を狙っているんです。

 ぼくも『福島第一原発観光地化計画』のあとがきで、この計画は「文学的」な計画だったと書きました。観光地化計画は妄想かもしれないけれど、妄想は妄想でそれなりにコストをかけ、きちんと世のなかにボールを投げていく。それが結果として、現実を変えることもあると思います。これからもご協力いただければと思います。

 今日は長時間にわたり、ありがとうございました。

速水 ありがとうございました。

2014年2月6日 東京、ゲンロンオフィス
構成=編集部

速水健朗

1973年生まれ。フリーランス編集者・ライター。著書に『ケータイ小説的。 〝再ヤンキー化〟時代の少女たち』(原書房)、『ラーメンと愛国』(講談社現代新書)、『1995年』(ちくま新書)、『フード左翼とフード右翼』(朝日新書)、『東京β』(筑摩書房)、『東京どこに住む?』(朝日新書)など。

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家、作家。ZEN大学教授。株式会社ゲンロン創業者。博士(学術)。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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