ひろがりアジア(1) 紛争地域の日常と新型コロナウイルス──タイ南部国境3県の事例(後篇)|原新太郎

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ゲンロンα 2020年10月23日配信

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制限の緩和後


 5月に入ると、タイ全土、並びに南部国境3県においても、感染者数の増加傾向がほぼ収まってきた。5月3日には、チュラーラーチャモントリー事務局から、金曜礼拝を含むモスクでの礼拝の条件付き再開を許可する声明が出された。その際に、説法と礼拝の時間を合わせて20分以内で収めること、参列者は通常時のように密着した状態で礼拝するのではなく社会的距離を保つこと、モスクの建物に入る前に手を消毒してマスクを着用すること、などの指針が示された。その後初めて行われた5月8日の金曜礼拝の際には、マスクを着用し社会的距離を保ちながら礼拝を行うムスリムの様子がテレビや新聞などで報道された。

 しかしながら、南部国境3県の各地で、このような措置が徹底されていたわけではない。例として、筆者自身が参列し、5月26日にパッタニー県サイブリー郡のある村落で行われた、ラマダン(断食月)明けのアイディルフィトリと呼ばれる祭礼での礼拝の様子を紹介しよう。まず、マスクを着用した参列者の一部が、社会的距離を保ったままモスクの内部に座る。中に入りきらなかった人間は、これまた社会的距離を保ちつつモスクの敷地内で待機する。その様子を、村落担当の保健ボランティア(当該村落出身のムスリム)が携帯電話で撮影し、撮影された写真を保健ボランティアのライングループに投稿する。そのライングループに投稿された写真こそが、この村のモスクは感染防止手段に従っています、という証拠として扱われるのである。従って、写真さえ撮り終われば、それまでモスクの外で待機していた参列者はモスクの建物内部になだれ込み、社会的距離は保たれなくなる。そしてその状態が礼拝の終了まで続くのである。

ラマダン(断食月)明けの、アイディルフィトリと呼ばれる祭礼の際の礼拝。ソーシャルディスタンスのために人が入りきらないので、モスクの建物の外にまで参列者があふれている。パッタニー県内で撮影 写真提供=The Motive
 

 ナラーティワート県のスンガイ・パディ郡のある村の村長によると、都市部や街中、あるいは車の行き来が頻繁な幹線道路沿いにある人目につきやすいモスクでは、金曜礼拝において最後まで社会的距離が保たれていたそうだ。だがそれ以外のモスクでは、社会的距離が保たれているのは、保健ボランティアによる撮影が終了するまでであるとのことであった。筆者は10人以上の地元出身のムスリムに聞き取りを行ったが、通常の礼拝において厳格に社会的距離を守っているモスクは確認できなかった。

 つまり、新型コロナウイルスの感染拡大当初(3月中旬以降)は、南部国境3県の地元住民もウイルスを脅威として認識しており、そのために宗教儀礼に関する制限についても渋々ながら受け入れていた。しかしのちに感染が収まり、地域内での感染者数がゼロの日が続くにつれて、たとえ政府からの通達であっても、感染対策のために宗教儀礼を犠牲にせねばならないという機運自体がすぼんでいってしまったといえる。そして、徐々に名目化していった政府の感染対策に対して、それをすり抜ける方法が編み出されていったのである。本稿執筆時点においても、これらの感染防止対策は解除されてはいないが、南部国境3県においてはほぼ有名無実化している。

 また、この期間には断食月(ラマダン)が挟まれていた★1。ムスリムにとっては、ラマダン中は、夜明け前から日没までの断食のみならず、タラウィーと呼ばれるスンナ(預言者の慣行、従って義務ではない)に基づく礼拝を行える唯一の月でもある。この礼拝は、夜の礼拝(イシャー、これ自体は義務の礼拝)に続いて行われるため、ラマダン中、ほとんどのモスクは、イシャーの礼拝からタラウィーの礼拝に続けて参列する人で溢れかえる。男性のみ参列が義務付けられている金曜礼拝とは異なり、この礼拝には女性の参列者も多く、モスクに集まる人数は金曜礼拝すら上回るのである。従って、今年はタラウィーの礼拝すらもモスクでは行わず、各々の家で行うように、チュラーラーチャモントリー事務局から要請があった。この通達についても、地元ムスリム住民の反応は金曜礼拝の時と同様であった。目につくモスクではこの通達は順守されていたが、村落部では必ずしもそうではなく、明かりを消すなどして目につかないようにタラウィーの礼拝が行われていたモスクが多くあった。

紛争と新型コロナウイルス


 このように、南部国境3県住民の信仰生活は、新型コロナウイルスの感染拡大によって極めて大きな影響を受けている。しかしながら、この地域の紛争に対して新型コロナウイルスの感染拡大が与えた影響はいささか趣が異なる。

 前述の通りBRNは、3月26日に、地元住民に対して、間接的ではあるが、政府の感染対策への協力を呼びかける声明を出した。そのおよそ1週間後の4月3日に、今度はさらに踏み込んだ、一方的な一時停戦のための声明が出された。その内容は「医療従事者と感染防止に努める諸機関の便宜のために」BRNは「タイ政府の攻撃にさらされない限り」すべての活動を停止する、というものだった。

 紛争勃発以来、過去に何度か、政府と反政府武装組織との間で一時的な停戦合意が結ばれたことがあった。しかし、紛争地域全域にわたる停戦合意は、悉くわずか数日のうちに反故にされた。逆に、合意通りの停戦は、せいぜい郡(タイにおける、県の下の行政単位)レベルで行われたに過ぎなかった。こうした背景もある上に、今回はBRNの側からの一方的な声明であるので、その実効性が疑問視された。

 また、この期間中も政府側、特にこの地域の治安維持を担当しているタイ国軍第4方面軍による、反政府側の取り締まりは継続していた。感染拡大中であっても、暴力事件の容疑者が潜伏している(と疑われる)村落に対して多数の兵力を動員した包囲が行われていた。さらに、こうした包囲の際に殺害された容疑者の数は、9月の時点において27人に上っており、これはすでに昨年の18 人を上回っている。こうした合法性が大いに疑われる強硬手段に対して、主に政府の治安部隊を狙った反政府側の報復とみられる暴力事件は、散発的ではあるが発生している。しかしながら、全体的にみるとこの地域における暴力事件の件数はこれまでで最少となっており、現時点では、2020年は、紛争勃発以来タイ南部国境3県にとって最も平穏な年となっている。
 この背景として挙げられるのは、第1に、2013年の和平対話の開始以来、暴力事件の件数が減り続けていることである。この件について、BRNの軍事的な弱体化を指摘する安全保障専門家もいる。だが、BRNをはじめとするパタニ解放運動の諸組織は政治的目的を持った団体であるため、和平対話という政治的な解決へ向けた経路が開けたことにより、その目標達成のための暴力事件への依存度が下がったという側面も否定はできない。

 もう1つは、BRNに、その武力の行使をより国際的な人道規範に則ったものにしていこうという動きがあることである。タイ政府とBRNの第3次和平対話の開始が報じられたのは、1月20日だった。その5日前(1月15日)に、BRNは、非政府武装組織による国際人道規範の順守を推進する国際NGOのジュネーブ・コールの下で「武力紛争被害からの児童保護に関する宣言書」★2に署名している。また3月16日には、国連事務総長が、世界中すべての紛争当事者に対して、新型コロナウイルスに対処するための「地球規模の停戦」を呼びかけている。医療従事者並びに医療施設に対する保護は、国際人道規範の中でも重要な柱の1つである。従って、BRNによる「医療従事者と感染防止に努める諸機関の便宜のため」の一方的な停戦の声明も、こうした規範を順守していこうという意志の表れと解釈することができる。

 このBRNによる停戦の声明と、それに伴うかつてないほどの平穏状態は、南部国境3県の住民にきわめて好意的に受け入れられている。それ以前は、地元住民は、いつどこで起こるかわからない事件に対して常に神経を尖らせていなければならなかった。しかし、店舗の営業制限や、夜間外出禁止、県境をまたいだ移動の禁止といった、全国的なコロナウイルスの感染対策が緩和された後は、2014年以来初めての、紛争地域全体にわたる長期の平穏な状況を享受することになったのである。

深南部に起きた変化


 この地域における市民組織の統括団体のリーダーへのインタビューによると、その効果は2つの面で現れているという。1つは、地元住民による域内観光の活発化である。それ以前は、域内でどこかで出かけようとしても、暴力事件の発生が予測不可能であるために二の足を踏んでしまうことが多かった。しかし、停戦状態に入ってからはその懸念がなくなったために、以前であれば出かけなかったような場所にも出かけることができるようになったのである。例えば、人里離れた山岳地帯などは、いつ武装集団に襲われるかわからないという不安からこれまで避けられてきたが、こうした場所にもキャンプ場が開かれたり、展望台などの観光施設などが新設され、多くの人が訪れるようになっている。こうした変化を裏付けるように、ソーシャルメディアにおいても、地元住民が域内の観光地で撮影した写真やビデオの投稿がかなり増えている。

 域内観光のみならず、域外の人間がこの地域に観光の目的でやってきて、現地の風景、食べ物、生活の様子などをブログやYouTubeなどを通じて発信し始めている。以前は、この地域に対して危険な地域であるという認識が強く、域外の人間は、学会、会議、行事などに参加するといった特定の理由がなければこの地域にやってくることは稀であった。しかし、これまで述べてきた変化は、再びこの地域が外部の者に開かれつつあることを示している。また、この流れに沿って、域内、とりわけ都市部では多くの新たな飲食店が開店している。これは、例えばプーケットやパタヤなどの観光地がコロナウイルスにより甚大な打撃を受けていることと比べて明らかな対照をなしている。
 もう1つは、(朝市、夜市など臨時の)市場が活発化したことである。例えば、これまで1週間に1度しか市場が立たなかった場所で、1週間に複数回、或るいはほぼ毎日立つようになった。また、以前は市場がなかった場所にまで市場が立つようになった。こうした市場は、不特定多数の人や乗り物が出はいりするので極めて警備が難しく、また監視カメラなどももちろんないため、暴力事件の標的になりやすかった。このため、仏教徒の村落では市場自体が立たないことが多かった。しかし、仏教徒系の市民組織活動家によると、一時停戦後はこれらの村でも市場が再開され始めてきたそうである。この市場の活動が活発化した背景には、マレーシアに出稼ぎに行っていた労働者や、イスラム諸国に留学していた学生が長期にわたる帰国を強いられたものの、地域内に十分な臨時雇用機会がないために、とりあえずあまり元手のかからない市場での商売を始めたという側面もある。しかしながら、停戦により、市場での暴力事件が発生する要素が排除されたということは、こうした判断を促進したということもこれまた否定できないだろう。

例年であれば、ラマダン期間中に行われるタラウィーの礼拝はこのように参列者であふれかえる。パッタニー県中央モスクにて撮影 写真提供=The Motive
 

 南部国境3県の住民は、現時点で、この新型コロナウイルス拡大の副産物ともいえる平穏な状態を享受してはいるものの、これがいつまで続くかはわからない。今回の停戦状態は、紛争当事者同士による停戦合意ではなく、BRNからの一方的な声明に基づくものであるため、その政治的枠組みは極めて脆弱である。しかし、このように平穏な状態が、紛争地域全域で長期間にわたり(本稿執筆時点ですでに6か月)継続し、その状態が地元住民におおむね好意的に受け入れられているという事実は、今後のBRNの武力行使についても影響を及ぼすものと考えられる。現状がおおむね好意的に受け入れられているのは、現在進行中である紛争から市民生活が受ける影響が、以前と比べかなり限定的になってきたからである。もちろん、南部国境3県を担当する治安維持部隊による強硬な取り締まりはいまだに進行中であるし、さらにほとんどの道路において、わずか数キロの間隔で軍隊などによる検問があるなど、紛争による生活への影響は続いている。しかし、暴力事件からの影響を懸念する必要がない生活というのは過去十数年で初めてのことであり、再び、以前のような状態に戻ることを望まない空気が地元住民の間で醸成されつつあるのも確かなのである。
 また、こうした雰囲気の変化は外部にも伝わりつつある。以前は、南部国境3県がメディアに登場する場合、そのほとんどが紛争がらみの事柄であった。しかし、『サーラカディー』という月刊誌の2020年10月号ではパッタニー県の特集が組まれ、そこでは紛争についてはほとんど触れられず、地元で活躍している芸術家や、若者の関心、地元の文化などが取り上げられている。つまり、「南部国境3県=危険な紛争地帯」という根強いイメージ自体に、わずかながら変化が起き始めているのである。

 従って、ふつうの状態であれば、コロナウイルスやそれに伴うもろもろの感染防止対策により緊張状態をもたらすが、タイ南部国境3県における紛争地域では、おそらく一時的なものではあるが、緊張緩和をもたらすという逆説が見て取れる。

タイの政治的構造と深南部のこれから


 とは言え、これを以て、今後BRNが武力行使を停止し、和平対話を通じて紛争の政治的な解決に全力を注ぐと考えるのはいささかナイーブに過ぎる。これまでの変化を受けて、今後の暴力事件がより国際人道規範に則ったものになっていくことは想定できる。今後、無辜の市民に対する殺害や文民施設への爆破事件は減少し、BRNの武力行使が治安維持部隊を狙った攻撃を主体とする傾向はより強くなっていくであろう。しかし、BRNが和平対話を通じてタイ政府と交渉する際の切り札としての武力行使を手放すことは、現状では考えられない。

 一般的に、政府と反政府武装組織の間における和平プロセスにおいては、紛争当事者、とりわけ反政府側に、武力行使ではなく政治的手法こそが問題の解決につながるという確信がなければ、最終的な合意には達しない。

 
 
パッタニー県の中央病院に、政府からの医療支援物資が引き渡される様子。こうした公式な行事においてはソーシャルディスタンスは守られている。また、南部国境三県は戒厳令下であるために、こうした行事は主に軍隊主導で行われる 写真提供=The Motive
 

 タイにおいては、1932年の立憲革命以降、民主的プロセスを経て選ばれた政権が軍部のクーデターにより打倒されてきた。21世紀に入ってからもすでに2度のクーデターを記録している。軍部によって運営される現政権は、2014年のクーデターの後に成立し、2018年の総選挙を経て国民の信任を得た形にはなっている。しかし選挙で選ばれた500人の下院議員に加え、政府の任命による250人の上院議員にも首相を選出する権利があるため、すでに首相の選出に必要な票数(750の過半数以上、326)のうち3分の1はすでに軍事政権によって確保されてしまっているのである。現在バンコクを中心として発生している、若者による反政府運動の盛り上がりの背景の1つには、こうした構造が挙げられる。こうした不満は、経済が順調に回っていればおそらくあまり表面化しないであろうが、コロナウイルスによってもたらされた打撃が、こうした蓄積された不満を一気に噴出させるきっかけになったと考えられる。タイにおいては、コロナウイルスの蔓延が始まって以来、このウイルスが原因で亡くなった人数よりも、それによりもたらされた経済的苦境により自殺した人の数のほうが多いのである。

 ここにおいて、民主的な政治過程を経た意思決定が軍部のクーデターによりいつでも反故にされてしまう可能性は、タイ政治の枠組みからいまだに取り払うことができない深刻な問題である。かかる条件の下では、紛争に対する政治的な解決過程である、和平対話の実効性に対する信頼度は極めて低いといえよう。たとえ紛争当事者が合意に達しても、それがいつ反故にされるかわからないからである★3。東南アジアのほかの地域、例えばインドネシアにおけるアチェーや、フィリピンにおけるミンダナオにおける紛争において、和平交渉が最終的な合意に達したのは、スハルトやマルコスによる独裁政権が崩壊した後であることは偶然ではないのである。民主的なプロセスに基づく政治的解決に対する信頼というのは、紛争解決のための和平プロセスにおける重要な条件の1つであるといえよう。

 新型コロナウイルスの感染拡大は、タイ南部国境県の紛争地帯の生活のみならず、この地域で16年以上にわたって続いている紛争の在り方にも大きな影響を及ぼした。こうした変化を紛争解決に向けた有効な解決策に結び付けられるか否かは、タイ政府が、民主的なプロセスに対する国民からの信頼をどれだけ取り戻せるかにかかっていることを、最後に明記しておきたい。

★1 2020年は、4月23日より5月22日まで。
★2 正式名称は「武力紛争被害からの児童の保護に関するジュネーブコールの下での宣言書(Deed of Commitment under Geneva Call for the Protection of Children from the Effects of Armed Conflict)」。
★3 タイにおけるクーデターは、軍部による文民政権の打倒のみならず、クーデターによって確立された政権が、同じく軍部によって再び覆されるということもあるので、軍事政権であれば政権基盤が安定しているということにはならない。

原新太郎

1973年東京生まれ。1997年慶應義塾大学総合政策学部卒業後、2002年マレーシア国立マラヤ大学においてマレー研究の修士号を取得。2009年より2015年までタイ国立プリンス・オブ・ソンクラー大学パッタニーキャンパスにてマレー語の講師として勤務。現在はフリーランスとして、研究、執筆、通訳・翻訳などに従事。1999年よりタイ在住。現在の主な研究対象は、タイ南部国境県における紛争とその関連事項。
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