ひろがりアジア(8) 現世を映す、タイの地獄表現|椋橋彩香

ゲンロンα 2021年8月17日配信
1.我々がイメージする「地獄」
今、まさに世界は地獄のような状況だといわれている。新型コロナウイルスが猛威をふるい、先の見えない日々から未だ抜け出せていない。こうした終わりが見えない、逃げられない、見るに堪えない苦境を、現代の人々は比喩的に地獄──たとえば「通勤地獄」や「コメント欄が地獄」など──と称して、共通したイメージのなかに落とし込んでいる。罪人が熱々の釜で煮られたり、棘の木に登らされたり、閻魔様に舌を引っこ抜かれたりする、あの地獄だ。
このようなイメージは、仏教の地獄思想を表象した地獄絵を通して現代に受け継がれている。日本における地獄思想は、恵心僧都源信(942-1017)が985年に著した『往生要集』により大成されたといわれる。
『往生要集』は多くの仏教経典のなかから極楽浄土に関するものを源信が撰別、編集したものだ。仏教の基本的な世界認識である「六道輪廻」、すなわち、人間は死後、生前の業の結果として天道・人道・阿修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄のいずれかに輪廻転生する。つまり、我々が輪廻転生を繰り返して生きている世界は、どうしても苦しみがつきまとう。往生要集では、そのような苦しみに満ちた世界から離れ、浄土を目指す「厭離穢土」「欣求浄土」という思想が中心的に説かれている。
この書物は仏教で説かれる善因善果、悪因悪果の思想をわかりやすく解説する目的をもっていた。8段階に階層化された「八大地獄」という世界観が示されており、それぞれの地獄で「○○をした者は、××を受ける」といった罪と罰が詳述されている。後に『往生要集』の描写をもとに幾多の地獄絵や六道絵などが描かれ、これらのイメージが日本における地獄表現の基盤となる【図1】。

2.タイにも「地獄」がある
このような地獄思想は日本に限らず、仏教国では概ね共通している。本稿で主題とするタイでも、基本的には前述の「八大地獄」を中心に地獄思想が成立している。タイは人口の9割以上が仏教徒であり、仏教は人々の生活に欠かすことができない。六道輪廻の思想も然りであり、タイの人々にとって地獄もまた身近なものだ。
タイの地獄思想は『三界経(トライプーム・プラルアン)』という経典に依拠している。スコータイ王朝第6代王・リタイ(?-1369)によって1345年に撰述されたといわれている『三界経』では、仏教宇宙における「三界」が詳述されている。
「三界」とは、肉体を離れ物質の束縛を離脱した心のはたらきだけからなる無色界、欲や煩悩はないが無色界ほど肉体や物質から脱却していない色界、欲や煩悩が存在する欲界の三つの界をさす。それらがさらに細分化され、合計33の区分からなる階層になっている。そして、その最下層に地獄(界)が存在する。
『三界経』の地獄は、上位界と比較すると描写が具体的で生々しい。僧侶や両親に悪口を言った者は、象のように大きな4種の犬に追いかけまわされる。魚を殺し市場へ運んだ者は、肉屋のナイフで斬り刻まれ売り物のように陳列される。そのように、日本の『往生要集』同様「○○をした者は、××を受ける」という罪と罰の関係が詳細に記されている。
タイでは、この「悪いことをすると地獄へ堕ちる」という思想が長いあいだ口承され、視覚的にも表現されたことで共通の地獄イメージが形成されてきた。視覚表現は主に寺院壁画や貝葉または紙写本(古代インドや東南アジア諸国では紙のない時代、ヤシの葉に経典などを書写していた。これを貝葉写本といい、のちにこれを模して蛇腹状の紙写本が作られるようになった)を媒体としており、寺院に訪れた人々はそれらを前に僧侶の説法を聞き、地獄について学んだのだ【図2】【図3】。


寺院壁画や写本では、地獄と聞いてまず想起される「地獄釜」「棘の木」をはじめ、様々な図像によって地獄の世界が表現されている。なかでも、各八大地獄とそれに付随する小地獄の全体像をあらわした四角枠の表現や、亡者の身体に小さな炎を点々と配すことによる業火の表現、また亡者の頭部が鶏や水牛と化した獣頭人身の表現などは、タイに特徴的なものである。
また、『三界経』と並び『プラ・マーライ』という説話も、民衆の地獄イメージ形成に大きな影響を与えたといわれている。これは、神通力をもつ「マーライ尊者」という僧侶が地獄界と天界へ赴き、そこで出会った衆生や天人の伝言を人間界に持ち帰るという物語である。その起源はスリランカとされていて、タイのみならず、東南アジア各国で今日も広く親しまれている。成立年代や著作者、源泉資料などについては未だ確証がないが、『プラ・マーライ』が寺院壁画に描かれはじめたのは19世紀に入ってからであり、それ以前の例は認められていない[★1]。マーライ尊者は三界図とともに地獄釜の付近に描かれることが多く、地獄への飛来が表現されている。また同じ時期に写本にも書写されるようになり、そこでも「地獄釜」「棘の木」「獣頭人身の亡者」「飛来するマーライ尊者」などの表現をみることができる【図4】【図5】。


3.新しい表現媒体――「地獄寺」
寺院壁画や写本を媒体として表現されてきたタイの地獄思想は、20世紀に入り新しい媒体によっても表現されるようになった。それが、「地獄寺」と呼ばれる寺院の立体造形の数々だ。
現在タイには約3万の寺院があるといわれているが、そのなかに、カラフルでキッチュで、グロテスクな立体像によって地獄の世界を表現した空間をもつ寺院がある。そのような寺院では、責め苦を与える獄卒や責め苦を受ける亡者の立体像が、多いところで数十体から数百体もつくられており、参拝者が実際に足を踏み入れて地獄を疑似体験できる構造になっている【図6】。2021年現在、こうした立体的な地獄表現を有する寺院は、タイ国内に70か所以上確認されている。

しかしながら、「地獄寺」はあくまで日本における呼称であり、タイにおいてはこのような寺院を総称する言葉が特に存在しない。加えて、地獄寺に対して日本の人々がもつ「珍スポット」「B級スポット」という認識、そして「ヤバい」「おかしい」という違和感や物珍しさが、タイの人々にはほとんどないのである。地獄寺に注目するのはタイ国外の人々が圧倒的に多い。[★2]。
では地獄寺はなぜつくられたのか、タイの人々は地獄寺をどのように見ているのだろうか。以下では筆者の現地調査をもとに、その一端を探ってみたい。
バンコクから北上すること約70キロ、スパンブリー県ソーンピーノーン郡に位置するワット・パイローンウアという寺院は、タイを代表する地獄寺のひとつである。コーム師(1902-1990)によって1926年に建立されたこの寺院の敷地内には、様々な仏像や建造物が並んでいる。これらは僧侶の「開発活動」によって増築されたものだ。
タイでは1970年代、多くの民衆デモや学生運動が行われ社会的混乱の時代となったが、それに先んじて、俗世間とは一線を画すことを求められていた僧侶の間でも社会的な活動を行う者が現れるようになった。その活動は、道路・施設の整備、米などの貯蓄組合の設立、瞑想指導、森林保護など多岐にわたる。このように、仏法に基づく独自の活動を通じて、社会問題の解決に取り組む僧侶たちのことを「開発僧」というが[★3]、コーム師はこうした開発活動の一環として、1971年より地獄の立体像制作をはじめた。コーム師は地獄の立体像だけでなくカピラ城やサールナートといった仏教思想に欠かせないモチーフのレプリカを制作しており、また同時期に学校も設立していることから、立体像の制作は仏教思想の視覚的伝達を目的としていたと考えられる。このような経緯で制作されたワット・パイローンウアの立体像は、筆者が確認できた2019年まで、後継の住職たちによって制作が継続されている【図7】。

筆者は、2019年にワット・パイローンウアの住職であるアヌクーン・パンヤーコーン師へのインタビュー調査を行なった[★4]。「タイでは昔から壁画によって地獄をあらわしてきたが、なぜワット・パイローンウアでは立体像によってあらわしているのか。なぜ壁画を用いていないのか」という質問に、住職からは「明確さをもって、様々な次元から相手によりきちんと伝えるため」という回答が得られた。立体像は参拝者によりわかりやすく地獄の思想、ひいては善悪功罪の思想を伝えるメディアである、と理解できよう。平たくいえば、地獄寺は訪れた人々に「悪いことするとこんなふうに地獄に堕ちます。そうならないように仏教の教えを守りましょう!」という教育目的でつくられた場所なのである。
これは他の寺院でも概ね共通しており、これまで筆者が調査した数十の寺院でも、制作理由は「訓戒・教育のため」というほぼ同様の回答が得られている。加えて、参拝者側に実施したアンケートでも、回答者の3割が訪問理由を「教育のため」と答えている。参拝者の多くは子供を連れており、家族単位での訪問が目立っていたことからも、地獄寺は教育の場として機能していることがわかる。
一方で、地獄寺の制作目的が「教育」のみでは説明できないことも否定できない。前述のようにタイの1970年代は社会的混乱・変動の時代であったが、地獄寺が増加しはじめた時期も同じ1970年代なのである。それまで平面的な地獄表現が主流であったタイにおいて、なぜ突如として立体像がつくられるようになったか、いくつかの側面から推測することができる。
ひとつの考えられる理由は、経済発展だろう。1970年代には生活改善を求める大規模な農民デモが行われ、「タンボン(行政区・村)計画」設置によって地方主体の農村開発が進められた。その結果、一人あたりのGNP(国民総生産)は年々上昇する。こうした経済発展を背景に、道路などのインフラの整備によって市民の国内観光も増加し、そこに寺院内建造物の増築があわさったことで、地獄寺はテーマパーク的側面をもつようになった。一部の地獄寺では大規模な造像が行われ、観光ツアーが組まれているほどである。立体像のなかには硬貨を投入すると動き出す電動からくり式のものもみられる【図8】。こうした経済活動は従来の寺院形態ではみられず、明らかに外部からの観光客を意図したものであるといえよう。

【図8】硬貨を投入すると動き出す立体像(ワット・パーラックローイ/ナコンラーチャシーマー県)
これは他の寺院でも概ね共通しており、これまで筆者が調査した数十の寺院でも、制作理由は「訓戒・教育のため」というほぼ同様の回答が得られている。加えて、参拝者側に実施したアンケートでも、回答者の3割が訪問理由を「教育のため」と答えている。参拝者の多くは子供を連れており、家族単位での訪問が目立っていたことからも、地獄寺は教育の場として機能していることがわかる。
一方で、地獄寺の制作目的が「教育」のみでは説明できないことも否定できない。前述のようにタイの1970年代は社会的混乱・変動の時代であったが、地獄寺が増加しはじめた時期も同じ1970年代なのである。それまで平面的な地獄表現が主流であったタイにおいて、なぜ突如として立体像がつくられるようになったか、いくつかの側面から推測することができる。
ひとつの考えられる理由は、経済発展だろう。1970年代には生活改善を求める大規模な農民デモが行われ、「タンボン(行政区・村)計画」設置によって地方主体の農村開発が進められた。その結果、一人あたりのGNP(国民総生産)は年々上昇する。こうした経済発展を背景に、道路などのインフラの整備によって市民の国内観光も増加し、そこに寺院内建造物の増築があわさったことで、地獄寺はテーマパーク的側面をもつようになった。一部の地獄寺では大規模な造像が行われ、観光ツアーが組まれているほどである。立体像のなかには硬貨を投入すると動き出す電動からくり式のものもみられる【図8】。こうした経済活動は従来の寺院形態ではみられず、明らかに外部からの観光客を意図したものであるといえよう。

4.地獄が映す、タイの現代社会――政治批判の媒体として
開発活動や観光化により寺院の在り方が変化すると同時に、地獄表現も立体化していった。立体像の制作を担ったのは、寺院の近隣の職人(といってもタイ全体で地獄寺専門の職人がいるわけではない)や民衆である。それまでの平面的な地獄表現、すなわち伝統的な寺院壁画や写本の制作と比較して、必要とされる専門性や熟練性が薄れ、一般民衆の手による制作が可能となったのである。こうした担い手の変化にあわせて、タイの地獄表現はより自由な技法を獲得した。
現在、地獄寺では地獄釜や棘の木などの伝統的なものに加え、「薬物中毒」「バイク事故」「環境破壊」などといった表現をみることができる【図9】【図10】【図11】。たとえば、薬物中毒の様子をあらわした像には、竹筒を使用し大麻を吸引しているものに加え、「ヤーバー」を使用しているものもつくられている。ヤーバーは1970年代まで、タクシー運転手などの間で眠気覚ましとして合法的に使用されていた覚醒剤の錠剤のことで、2000年前後に大きな社会問題となった。また、ナコンラーチャシーマー県にあるワット・パーラックローイには「木の精霊像」がある。「森林伐採を好む者に罰を与えるための『世にも不思議なチェーンソー』」を片手に罪人に責め苦を与える木の精霊は、急速な経済成長による環境破壊に警鐘を鳴らしている【図12】。




薬物中毒や交通事故、環境破壊などの表現は、当然『三界経』や『プラ・マーライ』には説かれていない。これまでの伝統的な寺院壁画や写本にはみることのできない、まったく新しい地獄表現として創出されたものである。これらの表現が、現代社会の状況を色濃く反映していることは誰の目にも明らかである。
こうした新しい地獄表現のなかでも、政治批判は特に注目に値する。先のワット・パイローンウアには「横領する/賄賂をとる」「民衆を騙す」などの罪状が書かれた立体像がつくられており、これらは明らかに政治的な抗議の意図をもってつくられている【図13】。ワット・パイローンウアの立体像が制作されはじめたのは1971年であったが、先立つ1960年代には軍および官僚と中国系実業家との癒着による汚職が盛んに行われていた。また、チェンマイ県のワット・メーゲッドノーイでは、より明確に政治批判の意図をもった立体像が散見される【図14】【図15】。その内容は、農民への重圧や急速な工業化、汚職、警察による弾圧などへの批判である。



このような直接的な政治批判の表現は、伝統的な寺院壁画や写本にみられない。しかしながら、地獄という思想を媒介に社会風刺を行う事例は、18世紀頃には確認できる。
畝部俊也と山本聡子によると、前述の『プラ・マーライ』は葬式儀礼で節をつけて歌うことが習慣となっており、これに対して現ラタナコーシン朝の初代国王ラーマ1世(在位:1782-1809年)は、「サンガ(僧団)のメンバーは、カンボジアや中国などといった外国風のおかしなメロディーで、『プラ・マーライ』を唱えてはならない」という趣旨の布告を出したという[★5]。
当時、タイはアユタヤーの陥落・新たな王朝の樹立を受け混乱の最中にあり、信仰の乱れも問題となっていた。そのような状況のなかで、僧侶たちが外国人風の衣装を身に着け、外国語をまねた話し方で喜劇的にこの説話を唱えていたのだという。それが次第に、僧侶を模した芸人などの人々にも広がっていった。語りのなかでは、不正を働く堕落した役人が地獄の住人にたとえられており、社会風刺の要素が加えられていた。このような『プラ・マーライ』の読誦は統治側にとって好ましくないものであり、そのため先の布告が出されたのである。
このように、地獄思想と社会風刺は18世紀にはすでに親和的なものになっていた。以降、伝統的なイメージに各時代の社会状況が描き加えられ、地獄表現は変化していったのである。現代の地獄寺における政治批判も、その延長線上にあると捉えてよいだろう。
こうした変化のなかで出現した立体像という媒体は、地獄表現をより自由なものへと拡大させた。一方でその変化は、現代の平面的な地獄表現、すなわち寺院壁画にもみることができる。
ロッブリー県のある寺院では、壁画に描かれた地獄釜のなかに、タイの人々なら誰もが知っているような政治家や僧侶、軍人の似顔絵が描かれている。彼らはいずれも汚職などにまみれた人々である。このように、タイの地獄表現はその時代を映す、社会風刺ひいては政治批判のメディアとしての性格をもっているのである。


5.見えないものへの恐怖――コロナはどう表象されるか?
これまで述べてきたように、タイにおける地獄表現はその時代の諸相を反映している。それでは、新型コロナウイルスによって大きく変化した世界は、今後どのように表象されるだろうか。
ひとつ考えなければいけないのは、地獄思想の根本をなす善悪功罪という考え方は、こうした「病」には適用しづらいということだ。ウイルスという明確な元凶はあれども、仏教思想における「○○をした者は、××を受ける」という因果にはそぐわないのである。
このような目に見えない、原因のわからない恐怖を表象する際、タイでは古来「ピー」が想定されてきた。「ピー」とはタイ語で「精霊」を意味するが、祖霊・善霊・悪霊・守護霊などに加え、幽霊や妖怪など土着的な信仰における心霊的存在、ホラー要素の強い現代的な「オバケ」まで、幅広い意味をもつ概念である。タイにおける精霊信仰は「ピー信仰」とも称され、仏教が普及する以前から現在まで続いている。
ピーは、ある時は現世利益の祈願対象であり、またある時は諸悪の原因を負わせる存在として機能してきた。タイの人々は儀式や供物を通じてピーに願いを叶えてもらい、また人知を超えた現象、たとえば不慮の病気や事故などが起こると、その原因としてピーを想定してきたのである。
ピーは古来「語り」のなかにのみ存在するものだった。したがって、その視覚的表象は豊富な語りとはアンバランスなほどに欠落していた[★6]。
しかしながら、ピーは現代になると怪奇映画や漫画のなかで繰り返し表象されるようになる。四方田犬彦によれば、タイの映画制作は1927年にはじまり、1932年から1942年の10年間に最初の興隆期を迎える。この時期にすでにピーを主題とした映画は制作されており、その後も一定の本数を維持しながら、ピー映画はタイ映画のなかで独特の地位を確立してきた[★7]。こうした視覚表現を通じて、「オバケ」としての異形な様相がピーの定型表現となったのである【図18】。

このようなピーの表象は地獄表現にも影響を及ぼしている。地獄寺の立体像や寺院壁画のなかには異形化した亡者の像が散見され、それらは現代におけるピーの表象と類似がみられる。ピーそのものを地獄空間に混在させて制作している例も確認できる【図19】【図20】。こうした事例からは、地獄思想とピー信仰の親和性が高いことや、図像的な習合があることが認められる。

【図19】地獄空間に混在するピーの立体像。左端の赤ん坊を抱いた女性像および中央に浮かぶ人の顔のようなもの(ワット・メーゲッドノーイ/チェンマイ県)

【図20】前掲図部分拡大。女性に取り憑き夜中に動き回るとされるピー・クラスー(ワット・メーゲッドノーイ/チェンマイ県)


こうした点から、新型コロナウイルスの影響下の社会情勢を表象するにあたって、地獄だけでなくピーの存在が大きな役割を担うのではないかと推測できる。その表象の場は、地獄寺であるかもしれないし、怪奇映画であるかもしれない。いずれにせよ、遠からず昨今のコロナ情勢を反映した表現が創出されるはずだ。
本稿では「地獄表現」を軸に論を進めてきた。再三述べた通り、タイにおける地獄表現はそれぞれの時代の諸相を反映しており、それは現在進行形で継続されている営みである。したがって、今後生まれるタイの地獄表現に少なからず新型コロナウイルスが影響を及ぼすであろうことは、さいごに提言しておきたい。
そして将来、そうした地獄表現を観測することで、タイ・コロナ禍においてどのようなことが問題として認識されたかが、あらためて──視覚的に・共通イメージとして──浮き彫りになるだろう。そこに描かれるのは対策に失敗した政治家なのか、はたまた「元凶」たるウイルスなのだろうか、いつかタイで実際に調査できる日が来ることを願ってやまない。
撮影=椋橋彩香
★1 ソン・シマトラン「タイの寺院壁画――その地域的特徴、壁画の物語とその変遷」坂本比奈子訳、石澤良昭編『タイの寺院壁画と石造建築』、めこん、1989年、23-89頁。
★2 たとえば 日本では、「珍スポット」「B級スポット」めぐりのようなブログ記事が数多くアップされているほか、2010年には写真家・編集者の都築響一により『HELL 地獄の歩き方<タイランド編>』(洋泉社)という写真集が、さらに同年には写真家の佐藤健寿により『奇界遺産――THE WONDERLAND’S HERITAGE』(エクスナレッジ)という写真集も刊行されている。さらに2012年には、『想像の共同体』で知られる政治学者、ベネディクト・アンダーソンによる "THE FATE OF RURAL HELL Asceticism and desire in Buddhist Thailand(農村部における地獄の因果:仏教国タイの禁欲主義と欲望)" (Seagull Books)が刊行された。本書は、後述するワット・パイローンウアにおける現地調査をもとに、タイの地獄寺および地獄思想、その社会・政治的な側面への言及がなされている。その後、筆者が複数の地獄寺を現地調査し、その結果として2018年に『タイの地獄寺』(青弓社)を刊行、体系的な地獄寺研究を試みるに至った。タイの地獄寺について詳細は拙著『タイの地獄寺』に譲る部分があるが、本書では前掲 "THE FATE OF RURAL HELL" に対する検討が多分に不足している。この点について中村紀彦「地獄からの手招きに応える――『タイの地獄寺』からアピチャッポンまで」(『美学芸術学論集』第16号、神戸大学文学部芸術学研究室、2020年、136-147頁)では詳細に批判的検討がなされているので、本書とあわせて参照されたい。
★3 岡部真由美『「開発」を生きる仏教僧――タイにおける開発言説と宗教実践の民族誌的研究』、風響社、2014年。
★4 椋橋彩香「タイにおける地獄表現の現状――20世紀に新出した立体表現と周辺地域との関連」、『鹿島美術財団年報』第37号、2020年、506-515頁。
★5 畝部俊也・山本聡子「タイ仏教写本『プラ・マーライ』について――説話とその図像表現」、『アジア民族造形学会誌』第8号、2008年、87-97頁。
★6 津村文彦「ピーは『精霊』か─―変転する作用体としてのピーポープ論」、『九州人類学会報』第39号、2012年、1-18頁。
★7 四方田犬彦『怪奇映画天国アジア』、白水社、2009年。


椋橋彩香
1993年東京生まれ。地獄寺研究家。早稲田大学大学院文学研究科にて美術史学を専攻、タイ仏教美術における地獄表現を研究テーマとする。2016年修士課程修了。現在、同研究科博士後期課程在籍、および早稲田大学會津八一記念博物館助手。タイの地獄寺を珍スポットという観点からだけではなく、様々な社会的要因が複合して生まれたひとつの「現象」として、また地獄表現の系譜において看過することのできないものとして捉え、フィールドワークをもとに研究を進めている。著書に『タイの地獄寺』(青弓社、2018年)。
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