浜通り通信(38)絶望でもなく、希望でもなく|小松理虔

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初出:2016年05月13日刊行『ゲンロンβ2』

リベラルへの失望と望まぬ右傾化


 熊本と大分の震災、現地の情報が何か出てないかなあとツイッターを開くと、どうにもこうにもタイムラインが殺伐としていて目のやり場に困っている。一部の心ないボランティアに対する怒り、ボランティアへの参加そのものを自粛せよと語る専門家、「不謹慎狩り」と呼ばれる匿名アカウントからの当てつけ、災害時恒例のマスコミ批判、暴走する極左が流布させる原発デマや、そのデマの収拾を図る反デマ義勇兵の参戦など、あまりにも殺伐としているので白目を剥きながらツイッターを開いては「そっ閉じ」する日々である。

 誰も彼もが義憤のようなものに駆られている。肩を叩いて「おいおいそこまでに……」と呼びかけるのも難しい。しかもそれぞれ一定の固定客がついていて、その中で議論が白熱するから止めるのはさらに困難になる。議論が先鋭化し、皆が反対意見をぶっ叩くのに一生懸命。周囲はなんでそこまで怒りに駆られているのか理解できないから「さささ~」っとハケているのに、それに気が付かず、ますます議論はタコツボ化していく。思い返せば、同じような光景は東日本大震災からずっと続いているような気がする。少数の「悪い奴ら」を懲らしめたくて、一部の方々が義憤に駆られて続けてきた発言が、結果的にその他大勢の良心ある人たちを萎縮させてしまう。そんな光景は、いつの間にかSNSでよく見るものとなった。「もう関わらないでおこう」。むしろそんな空気に支配されているような気がしている。

 福島第一原発の事故から5年以上が経過した今なお、デマvs.反デマの闘争は続いている。悪質なデマを叩き、正しい情報を発信されている皆さんにとっては、ストレスの溜まる日々だったことだろう。しかし、未だに健康被害を過剰に盛る言説は根強く残っており、安倍政権批判と絡めて福島の食品を貶める輩も多い。反原発勢力の中には、ぼくが「胃が痛い」とか「体がダルい」とつぶやくたびにファボる下衆もいる。福島の魚の安全性について記事を書けば、変なメールやコメントが届くことも一度や二度ではない。悪質極まりないデマ野郎は、むしろさらに先鋭化し、しぶとく生き延びているように見える。本当に迷惑な話だ。

 先鋭化した敵を徹底的にこらしめるためか、一部の反デマは徐々に過激化し、政治運動化しつつあるようだ。本来の目的は「デマの撲滅」だったはずなのに、今ではもうデマ撲滅ではなく「左翼叩き」のような様相を呈している。またそうした言説が、福島にまつわる言論全般を萎縮させ、関わろうとする人たちの思いを挫き、うっすらと関心を持っていた人たちや伝える側の人たちを、福島から離してしまっているようにも感じている。福島に中途半端に関わると面倒だな、という思いを抱かせてしまっているのではないか、そう危惧することが増えた。まあ、ほとんどの人たちは関心なんてそもそも失ってしまっているのだろうけれど。

 世界史に残るような未曾有の原発事故を経験した福島県は、左傾化するのではないかというのがぼくの当初の見立てであった。これは今思えばあまりにも浅はかな考えだったが、あれだけの事故を経験したのだから、脱原発は当然として、憲法改正なども絡みつつ、地方自治体の自立や小さな政府を目指すようなリベラル色の強い人が意見を出しやすい地域になるのではないかと思っていたのだ。実際、震災後に県内で様々な活動をスタートさせてきた方に取材などで話を伺うと、リベラルな考えを持った方であることが多かった。出会う人が偏っていたと言われてしまえばそれまでだが。

 結末は逆であった。福島県は右傾化しているように見える。いや、右傾化というより「反左翼」「リベラルへの失望」といったほうが正しいかもしれない。本来は、慎重に被害を見極め、福島県産の食品を応援したいという声も多かったはずだが、山本太郎に代表されるような過激派の言説が目立ち、彼らの声がリベラルの声として流布された。福島では数万人が死ぬ、福島の食品は放射性廃棄物と同じだ……そんな方々と同じ未来を描けるはずがない。さらにここに、震災後の総選挙における民主党の惨敗も加わった。このようなときに福島で脱原発を叫べば、「あなたもあいつらの仲間か」と攻撃され、「福島の敵」認定されてしまう。リベラルな側に立つ発言はますますしにくくなり、結果として右傾化した発言が福島の地元の声として発信されてしまうのだ。これは特にネットで増えているように思う。

 問題は、「福島県産品も食うし健康被害もさほど心配していないが、原発はもうヤメにしてもらいたい」と考えている人たちの受け皿がないということである。受け皿といっても、政治的な受け皿だけでなく思想的な受け皿がないのも問題だ。例えば、原発事故後に「原発事故を経験した私たちはこんな福島県を作るんだ」という「福島宣言」のようなものがあればよかったのかもしれない。震災後、福島県立博物館の赤坂憲雄館長を座長に様々な専門家や市民が集まり、対話シンポジウムの開催や政策提言などをしてきた「ふくしま会議」が、そうした宣言を起こす母体になるのではないかと期待をしていたのだが、2014年の福島県知事選で、共産党が支援した熊坂義裕さんへの投票を呼びかけるなど極左的、政治的な動きを見せてしまい、多くの人たちの失望を買ってしまった。そのふくしま会議は昨年解散している。

 今や「福島ネタ」は、安倍政権支持者にとっては自分の意見を正当化する格好の材料になってしまった。「左翼は福島に迷惑をかけている」と書けば、「被災地福島を応援している自分」と「大嫌いな左翼をぶっ叩ける自分」の両方を手に入れられるからだ。ぼくが蒲鉾メーカーに勤めていたとき、福島の海産物について安全だとつぶやくと、「生産者に迷惑をかける左翼死ねばいいのに」みたいなリプライをもらうことが幾度となくあった。店先で政治論争が繰り広げられるのは左も右も勘弁願いたいけれど、「福島県産応援」とかプロフに書かれていると、あからさまに「迷惑だ」と言うこともできない。本来は右だろうと左だろうとお客様である。「福島の食応援」と「左翼叩き」を混ぜ込まないで欲しいと、何度思ったことか。
 実際、ツイッターで一貫して福島応援をしてきた複数の匿名アカをよく見てみると、確かに「福島の食は安全だ」「福島の生産者を苦しめるな」「福島の◎◎をおいしく食べた」などとつぶやいていて、応援して下さっているように見えるけれど、福島応援と並行して「左翼叩き」も同じくらいつぶやいている。「福島の理解者」「福島の応援者」という立場を得ながら発言力を上げ、気に入らない意見をぶっ叩く。彼らは次第に「ご意見番化」し、福島を自分のネタにして政治的発言力を高めているのであった。原発事故から5年余り、こうした「外部からの政治利用」に、福島は晒されてきた。左サイドからの政治利用はあまりに非科学的で福島を貶めるものだから容易にわかる。しかし右サイドからの政治利用は「福島応援」と紙一重なのでわかりにくいし、反論もしにくい。だからややこしいのである。

 このように、「内側からのリベラルへの失望」と「外側からの政治利用」、この二方向からの圧が、福島県を右側に傾けてきたように思う。望まぬ右傾化かもしれない。しかし、「被災地」の右傾化は、政権にとってはとても都合がいい。例えば、最近話題になっているNHK籾井会長の発言に対する評価にも、それは見て取れる。問題になっているのは、籾井氏の「原発について住民不安をかき立てないよう公式発表をベースに伝えるべき」とした発言だが、意外にも賛同する声が県内からあがっているのだ。我々はデマに散々苦しめられてきた。だから自由な報道を約束してトンデモ左翼の跋扈を許すくらいなら、しっかり政府で情報を統制し「正しい情報だけを流して欲しい」というわけだ。こうした発言は一部かもしれないが、何しろ被災者の声は当事者性が高い。「福島の皆さんもそれを望んでいる」というように、利用されかねない。

 こうした状態が進行すると、おそらく政府が見据えているであろう「福島第二原発再稼働」に利用されることも考えなければならない。反原発やリベラルに対する失望と反感が、福島県民に「脱原発」を言わせない空気を生み、「脱原発=左翼=復興の邪魔をする人」の構図に当てはめられ、次第に脱原発を語ることそのものがタブーになっていく。このような状態で、福島を応援する著名アカウントが「復興のために福島第二も再稼働だ」と言い始めたらどうだろう。私たちはそこで堂々と声を発することができるだろうか。今も避難者が大変な思いをし、溶け落ちた燃料デブリの在処さえわからず、故郷を奪われた人たちが大勢いるというのに、そんな経験をした被害者たる福島県民が、自ら福島第二の再稼働を望むというような構図が生まれてしまうのではないだろうか。

 実際には、新聞の世論調査などを見ると福島県民の8割を超える人たちが福島第二の再稼働に反対しているし★1、福島県自体も、東電に福島第二の廃炉を求めているので、現状、福島第二の再稼働は相当に難しいだろう。しかし、東電は未だに福島第二を廃炉にするとは宣言していないし、政府も「廃炉にするかは東電が決めること」というスタンスを崩していない。昨年の10月に林経済産業大臣が福島第一原発を視察した折、マスコミから福島第二について問われると「事業者である東電が地元の意見を聞いて(廃炉を)決めていくものと考えている。対応をしっかり見守っていく」とコメントしている。

 しかし、福島県内での「原発廃炉」を巡る議論はかなり下火になっていると言わざるを得ない。リアルな人間関係が反映されやすいフェイスブックなどでも、廃炉を訴えるような投稿は毛嫌いされるようで、やはり反原発勢力と同一視されることを嫌ったり、政治的な発言をすることへの抵抗があったりと、意志の表出機会が減っているようにも感じている。昨年行われた福島県議選でも「原発廃炉」は既定事実だからと選挙の争点になることはなかった。しかし、「福島県内で原発廃炉が盛り上がっていない」という状況に、政府はほくそ笑んでいるのではないか。争点になっていない状況を拡大解釈して「福島第二再稼働について福島県民は異論はない」と舵を切る可能性もあるのではないか。そうならないためには、福島県民が廃炉を求めていく必要があると思うのだが、積極的な声は聞こえてはこない。しかしそれでいいのだろうか。声をあげる必要はないのだろうか。共産党でも自民党でもない、左でも右でもない、福島だからこそ表明できる立場や思想、受け皿を作らなければいけないのではないか。

引き裂かれた風景に何を見るか


 震災から6年目に入っている福島。メディアで取り上げられることも減り、ごくたまにテレビに取り上げられたときには、ネガティブなニュースばかりが報じられる。このような状況はここ数年変わらない。先の3月11日にはNHKの震災特番「明日へ つなげよう」にお呼び頂き、「うみラボ」のことなどを中心に話をさせてもらったのだが、ネットで番組について検索をかけても、福島に関心のある方か、福島の魚なんて食えるか! 的な方の2通りの人間しか見えてこず、この状況はさらに拍車がかかっているようにも思える。

 全国での関心が低くなっているのに対し、福島県内や関係者の間では、福島を取り上げた番組や紙面がよく見られたようだ。特に3月はNHKなどで長編のドキュメントが多数放映されたが、野生動物の被曝の状況を綴ったNHKスペシャル「被曝の森」などは、番組の演出や中身について多くの批判的意見が集まりタイムラインも賑わった。この番組だけでなく、福島を取り上げたドキュメント番組などにおいて、この演出はどう、このBGMはどう、あの撮り方はどうと、厳しくチェックされる状況である。これでは作り手もやりにくいだろう。もしかしたら、福島を伝える番組は「福島県外の、あまり詳しくない日本人」に向けて、敢えてわかりやすく作ったものかもしれないのに、福島の事情を深く知る人から「初歩的すぎる」などと声をかけられてしまっては、局のディレクターも立つ瀬がない。もちろん、非科学的な内容や、デマを助長するような番組は批判されてしかるべきだが、視聴者にとって有益かそうでないかは、一部の人が決められるものではない。
 テレビや新聞などマスメディアに対して最近強まっているのが「福島のポジティブな面を伝えて欲しい」という声だ。演出に暗いBGMが使われたり、被害の残る場所のみを取り上げることに対して反感の声があがっているのだ。これはぼくももっともだと思う。復興した姿や、福島でがんばる人たちをポジティブに伝えて欲しい。福島に関する正しい情報の発信はまだまだ足りていない。しかし、「被災地である福島」を離れ、福島を他の自治体と同じラインに立たせたとき、他県の有名観光地と比べて素晴らしいものがあるかと言われればそうでもない。だからメディアで伝えられる福島は、どうしても被災地であることとセットになってしまう。しかし、ぼくはそれはそれで仕方がないし、それでいいと思っている。ひどい体験をしたし、まだまだ大変なことはある。しかし、だからこそ素晴らしいものがある。絶望も希望も一緒に経験したからこそ伝えられるものがある。それでいいではないか。怒りを覚えるネガティブな報道もあろう。しかしそうした報道を覆し「福島ってこんな面白いものがあったのね」と思わせられるものを作ればいい。そしてそれを作るのはメディアではない。ぼくらの仕事だ。

 この問題と似たようなものに、福島県の内堀知事がぶちあげた「ホープツーリズム」がある。先月、仙台市で開かれた東北の観光振興をテーマにしたシンポジウムで、福島県が復興へと歩む姿を国内外に発信するホープツーリズムを進める方針を打ち出したのだ。復興進展や地域の産業、文化など県の現状と魅力に直接触れてもらうことで、福島第一原発事故後の福島に対するイメージを刷新し、インバウンドの増加を目指すという。前進する県民の姿や県の希望、未来を感じてもらうため、前向きな意味を込めての「ホープツーリズム」だという。しかしながら、福島に希望があるのは、大きな災害と事故を経験したことが出発点としてあるからであって、そこに触れない上っ面のホープに何の価値があるというのか。あれだけの傷を負い、それでもここまで復興したそのことに価値があるのだ。受けた「傷」を伝えないわけにはいくまい。それを伝えずにホープだけ伝えるのであれば、それはもはやホープツーリズムでもなんでもない。復興だ風評だと言わず、シンプルに他県と観光の勝負をすべきだ。

 福島を発信する観光拠点として期待しているのが、福島県が計画している、震災と原発事故の記録や教訓を後世に伝えるアーカイブ拠点施設「ふるさとふくしま再生の歴史と未来館」(仮称)である。地元紙によれば、アーカイブ施設は、浜通りを廃炉やロボット開発などの拠点とする福島・国際研究産業都市(イノベーション・コースト)構想の国際産学連携拠点の1つとして位置付けられ、双葉、浪江両町にまたがる復興祈念公園への併設が検討されているという。東京五輪に合わせたオープンを目論んでいるらしく、中身はほとんど決まっていないようだが、こちらは世界に向けて発信する拠点になる。上っ面のホープだけではない、原発事故の全貌に迫る記録を残して欲しいと思う。世界の目は「絆」や「がんばろう」という言葉ではごまかすことができない。絶望と希望が隣り合いながらも、しかし最後には希望が残るような、福島の価値を示してもらいたい。

 ネガティブなことを言うな、地元の復興の邪魔をする行動は慎め、不謹慎なことをするな、被災者の迷惑になることをするな、ポジティブなことを発信しろ、そのような圧力はこれからますます強くなっていくのだろう。そんな空気は、熊本の震災を経てさらに大きなものになっている。最近では、「こんな風に苦しんでいる人がいる」ということを紹介することすら「風評被害を助長する」として批判される傾向にある。人々はそれを過剰に汲み取り、忖度し、「自主規制」していくのかもしれない。そんな中で、震災や原発事故をどう伝えていけばいいのか。

 被災してしまったという事実は変えられない。希望もある、しかし絶望もまた同時にあるという、この引き裂かれた風景から何を感じてもらうかが大事なのではないか。絶望でもなく希望でもない、左でも右でもない、『ゲンロンβ』の読者向けに言うのであれば、東でも開沼でもない。ぼくが伝えていこうと思うのは、そのような福島である。だって、それを伝えられるのは、ぼくらしかいないのだから。

追記



 今回の寄稿のタイトル「絶望でもなく、希望でもなく」と同じタイトルの展覧会が、福島県猪苗代町の「はじまりの美術館」で開催されています。県内外の作家が作品を寄せる中、珍しくぼくも作家の1人として作品を展示しています。絶望でもなく、希望でもなく、絶望であり、希望でもあるナニカ。それこそ福島県が伝えていかなければならないものだ。そんな思いもあり、展覧会のタイトルを寄稿のタイトルに使わせてもらいました。猪苗代に来ることがあれば、ぜひ美術館にも足を運んでもらえればと思います。企画展は6月27日まで。猪苗代には「稲川」というおいしいお酒もあります。ぜひ。

★1 原発再稼動に関する自治体アンケート(毎日新聞) http://mainichi.jp/select/shakai/saikado/fukushima.html
「本書は、この増補によってようやく完結する」。

ゲンロン叢書|009
『新復興論 増補版』
小松理虔 著

¥2,750(税込)|四六判・並製|本体448頁+グラビア8頁|2021/3/11刊行

小松理虔

1979年いわき市小名浜生まれ。ローカルアクティビスト。いわき市小名浜でオルタナティブスペース「UDOK.」を主宰しつつ、フリーランスの立場で地域の食や医療、福祉など、さまざまな分野の企画や情報発信に携わる。2018年、『新復興論』(ゲンロン)で大佛次郎論壇賞を受賞。著書に『地方を生きる』(ちくまプリマー新書)、共著に『ただ、そこにいる人たち』(現代書館)、『常磐線中心主義 ジョーバンセントリズム』(河出書房新社)、『ローカルメディアの仕事術』(学芸出版社)など。2021年3月に『新復興論 増補版』をゲンロンより刊行。 撮影:鈴木禎司
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