浜通り通信(31) 福島第一原発視察記|小松理虔

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初出:2015年10月9日刊行『ゲンロン観光通信 #5』
 先日10月1日、東京電力福島第一原子力発電所の視察に参加してきた。原発事故からもう4年半以上経過した今、ようやく、といったところだろうか。実はこれまで何度か取材や視察の誘いはあったのだけれど、都合が悪く機会に恵まれなかった。今回は、元東電社員で、原発構内の視察コーディネートなど、さまざまな活動を行っている一般社団法人アプリシエイトフクシマワーカーズ(以下AFW)(http://a-f-w.org/)を主宰する吉川彰浩さんに声をかけて頂いた。
 
 わたしは、福島第一原発沖の海洋調査を行う「うみラボ」(http://umilabo.hatenablog.com/)というプロジェクトを主催していて、これまで10数回ほど、原発沖1.5kmまで近づいている。しかし、やはり1.5kmの壁は厚い。遠目に原発を眺めることはできても、それは旅行で訪れた土地の丘の上のお城の天守閣からその町を見下ろすような、どこかのんびりとした、物見遊山的な感覚があった。もう10数回も行っているから慣れてしまったということもあるのだろう。一方、吉川さんの視察では、バスに乗って原子炉建屋の目の前まで近づくという。それで、とても興味が湧いたのだった。

 意外に聞こえるかもしれないが、東京電力はこれまで国内外の16,000人以上の視察を受け入れてきたという。東京電力福島復興本社の中には「視察センター」という部署があり、そこが受け入れ元になって、国内外のさまざまな人たちを受け入れている。おそらく東浩紀さんたちがイチエフを視察したときも、この視察センターの方々が対応したはずだ。そしてこの16,000人という数字、わたしには意外にも多く思われる。もっと閉鎖的だと思っていたのだ。事故当時のあの悲惨な状況を考えると、16,000人という数字はこの1、2年で劇的に増加しているに違いない。それだけ現場の大混乱がおさまり、除染によって線量が下がってきた、ということだ。
 午後1時。広野町のJヴィレッジに到着。わたしの住んでいる小名浜から1時間ほど、国道6号線をひた走るだけである。Jヴィレッジ。そこがかつて日本サッカー協会のナショナルトレーニングセンターだったことをわかりやすく示すのは、国道6号線沿いのゲートに置かれた2つのサッカーボールと、本館入り口のドアにプリントされたサッカー日本代表の選手の写真くらいのものになってしまった。今は原発廃炉のための最前線基地である。廃炉作業に携わる7000人の作業員が毎日ここに集合し、それぞれの「戦場」へ向かうバスのターミナルになっている。

 わたしはまず、Jヴィレッジの中庭にあるテント式の事務所に通され、20名ほどの視察団全員で、東電社員から視察についての簡単なレクチャーを受けた。東電が、廃炉に向けてどのような取り組みをしているのか、汚染水対策はどのように施されているのか。そのような説明である。説明の理解を手助けしてくれる手元の資料は実に詳細である。1~4号機の現状と課題。廃炉に向けたロードマップ。汚染水対策。作業員確保と労働環境についてなどなど。これでも前に比べればわかりやすくなったということだが、この説明の多さに原発廃炉の難しさが伺い知れる。もちろん、広報体制がまだまだ充実していないのかもしれないが。

 しかし一方で、東電復興本社が地元福島で展開してきたCSRの実績を記した「福島復興への責任を果たすために」という資料のほうが、その廃炉関連資料よりも分厚く、そしてわかりやすいのだった。事務所を見渡すと、そこにはポスターが貼ってある。大きく「福島復興への責任」と書かれていて、東電の制服を着た人たちが雪かきをしている写真が何枚も使われていた。「福島のためにこんなこともしているんだ」というPRのために。

 復興本社の石崎代表もあいさつをした。「浜通りの復興のために、必ず廃炉を成し遂げる。時間はかかるが、わたしたち東京電力も福島復興の仲間に入れて頂きたい」。そんな中身だった。それは偽らざる本音だろうし、いつまでも頭を下げろと言うつもりはわたしにはない。それをわかっていても、白けてしまう気持ちもある。そう簡単に「はいそうですか、一緒に手を取り合って頑張りましょう!」とはいかないものである。

【図1】Jヴィレッジでの事前講習。復興本社の石崎代表がスピーチ。
 一連の説明が終わると、ケータイなどの荷物をそのテント小屋に置き、いよいよ福島第一原発に向けてバスに乗り込む。国道6号線を30分ほど北上すればイチエフだ。

 途中、楢葉町だっただろうか、米の試験作付けをしている田んぼを通った。あとひと月もすれば収穫だ。モミは大きく膨らみ、風に揺れている。しかし、その豊かな稲の風景の奥には、1カ所にまとめられた黒いフレコンバッグが置いてあるのだった。別にその米が汚染されていると言いたいのではない。土壌のセシウムが米にはほとんど移行しないことなんてわたしでも知っている。昨年の試験作付けでは放射性物質は検出されなかったそうだ。除染の済んだ田んぼである。すぐ脇にフレコンバッグが置いてあっても、うまけりゃわたしだって食う。

 しかし、放射性物質を入れたフレコンバッグが、その豊かな稲穂のすぐ奥に置いてあるという光景の異常性を改めて感じずにいられなかった。やっぱりおかしいよなと。もちろん、復興を目指す地域の自治体も応援しているし、営みを取り戻すために苦労している生産者を尊重する。試験作付けすることもおかしいことではない。そんなことは百も千も承知なのだ。しかし、その光景の、なにか次元がねじれているような異常さが、バスに揺られて眠気を感じているわたしの脳みその片隅にべたべたとくっついてくるのだった。

【図2】楢葉町近辺の除染廃棄物置き場。このそばに試験作付けが行われている田んぼがあった。
 かまぼこ屋時代、配達のためにこの道を何度か通った。過去のこのメルマガでも、国道6号線について書いた回がある☆1。そのときは「自分で運転していた」のだが、今回は「運転手が運転するバスに乗っている」だけである。自分の意志とは完全に切り離された移動体に身を委ねているその所在のなさが、かえって目の前のおかしな光景を際立たせる。

 大熊町では、まだ民家の前のバリケードが強く閉じられている。金属のバリケードである。なぜここに住んでいた人は家に帰れないのか。家に帰れないだけではない。なぜバリケードなどがあるのか。誰がなんの権利で置いているのか。見えない放射能ではない、目の前に見える、金属のバリケードの凄まじさ。防犯上必要なのはわかっているけれど、それでもこの金属のバリケードには、その金属が本来持つ重量よりも数倍重い、なんだろう、人間の業のようなものを感じずにいられなかった。

【図3】大熊町の6号線。両サイドにバリケードが見える。
 国道6号線を右折すると、福島第一原発へ向かう1本道である。原発から伸びる太い送電線は、山手方向に電線を伸ばし、数百メートル先に建っている送電線へとつながる。そしてその電線は、その先の送電線、さらにその先の送電線へとつながっている。それとは別に、今は使われることがなくなった、ここに暮らす人たちの電柱が細々と立っている。その細さがただただ寂しかった。

 原発からやってきたバスが対向車線を通っていくのが見えた。どこかで見たことのあるようなおっさんやあんちゃんが、たばこをくわえながらぼんやりと虚空を見つめているのが見えた。道路の段差でバスが揺れると、その揺れに合わせて彼らの身体も力なく揺れた。現場作業を終えた疲れが垣間見えた。わたしは今、その現場に向かっている。

 何度か検問所を通ると、福島第一原発に到着した。何ということはない。どこかの工業団地の工場のようなところだった。その日は天気が曇り空だったからだろう。殺風景な、実に色のないところだった。作業員を乗せたベージュ色の味気ないバスやら、土ぼこりで汚れたトラックやら、やけに味気ない車たちが行き交う。ここには色彩が必要ないのだろう。

 しかし、バスを降りた途端、そんな味気なさの中に、急に血液が巡らされたような「生」の表情が見え始めた。作業員1人ひとりの顔が見えた。ナントカ工業と刺繍の入った作業服を着た人、「福島県」と書かれたジャケットを着た人、ごましおヒゲのおっさんや、黒いタオルを巻いてあごひげを生やしたあんちゃんがいた。わたしの近所にいる、わたしの良く知る、そんな、どこにでもいる人たちの息づかいが聞こえてきた。わたしを驚かせたのは、そのほとんどが、明らかに見学客だとわかるわたしたちに「おつかれさまです」と声をかけてくれたことだった。

 おつかれさまです。

 その一言で、さっきまでのぼんやりした気持ちに血が通った。どこか遠くで作業している人たちではない。まさに目の前のおっちゃんやあんちゃんたちが、この厳しい現場で汗を流しているという事実に激しく触れた。おつかれさまですと自分も声を出した。するとなぜだろう、わたしもこの現場の当事者なのだという「一体感」が感じられたのだった。目の前のこの人たちに頑張ってもらわなければ、福島の未来はないんだということがはっきりとわかった。
 入退域管理施設に入ると、空港の荷物検査ゲートのような場所に入る。ここでは、事前に渡されていた視察用のセキュリティカードをかざして中に入る。幅の狭いゲートに、次々と見学客と作業員が吸い込まれていく。わたしもそこをくぐった。なぜか、別の世界への門を「くぐりぬけた」感慨があった。それは、大学生のとき、留学先だった中国のとある空港に降り立ち、入国ゲートをくぐったときの感慨に似ていたかもしれない。「ここ」に来たのだ。

 4年半にわたる懸命の復旧作業の結果、わたしたちは極めて簡易的な軽装で原発構内を視察することができる。具体的には、布製の手袋、風邪のときにつけるような簡易的なマスク、ビニールの靴袋、以上である。これは原発事故直後には想像もできなかったことだ。人が入ることすら困難だった場所に、今ではなんの専門知識も必要なく、一般市民が軽装備で立ち入ることができる。原発の復旧は紛れもなく進んでいる。


【図4】構内を作業する方はもちろんフル装備
 管理施設の一角にあるスペースで装備をつけ、再度簡単な説明を聞き、いよいよバスに乗り込む。ベージュ色のバスは一切の装飾が取り除かれ、そのかわり、通路にも手すりにも椅子にもビニールが貼られている。放射性物質をきれいに取り除きやすいようにしてあるのだ。もちろんのことだが、わたしはこのようなバスに未だかつて乗ったことがない。

 ベージュ色のバスが動き始めた。多核種除去設備を確認し、右手に汚染水のタンク群を捉えながら原子炉建屋を目指す。空間線量は30~50μSv/h。場所によって一桁まで下がるところもある。それだけホットスポットが点在しているということなのだ。我々は軽装でのバスツアーを決め込んでいるが、外を歩く作業員はテレビで見慣れた「フル装備」である。いくら軽装備で視察ができるからといって、ここが危険と隣り合わせの場所であることに変わりはない。ガイガーカウンターの、心電計のようなピッピッピという音が、一見切り離されたような目の前の光景とバスの中とをつないでいる。

【図5】構内の汚染水タンク群。延々とタンクが並ぶ。


【図6】こちらも汚染水タンク。汚染水問題がいかに復旧の妨げになっているかを伺い知ることができた。
 海抜35mと少し高い地点から、原子炉建屋のある海抜10mレベルのところに下りていく。すると目の前に、水素爆発を起こした3号機の原子炉建屋が見えた。想像以上に片付けが進んでいた。しかし一方で、爆発の衝撃でぐちゃぐちゃに曲がった鉄骨やら、あの当時のままの外壁が見えた。線量計が異常な速さで音を刻み始める。バスの前のほうに乗っていた東電社員が「空間線量は300μSvほどです」と声をあげる。「おおおおぅ」と、何とも言えないうなり声をあげる視察客。グラウンドゼロ。わたしはなぜか感極まってしまった。心揺さぶる感動ではない。悲しみとか怒りでもない。「ここなんだ」。それだけが心を揺さぶっていた。

【図7】大爆発を起こした3号機。当時の事故の凄まじさも垣間見える。


 わたしたちは4号機を巡り、少し離れた5号機、6号機、サブドレンのくみ上げ場所や凍土壁パイプなども見ることができた。資料上ではなく、自分の目で、粛々と作業が行われている現実や、汚染水のためのさまざまな対策・設備を確認できたことは勉強になった。あの原発事故直後の悲惨な映像を思い起こせば、廃炉に向けた作業が着々と進んでいることを実感できる。こうした情報の発信やアップデートが、福島についての正しい認識を生み出していくのだろう。今のイチエフは、当然ながら原発事故直後のイチエフではない。これは現実である。

【図8】4号機の前から望む原発構内。ガレキなどは見当たらない。
 しかしながら。目の前を通り過ぎた3号機は、原子炉から燃料が溶け落ち、圧力容器を突き破ってしまった状態にあるとみられている。「みられている」というのは確認のしようがないからだ。線量があまりにも高いため人間は近づけない。ロボットですら故障してしまうほどの高線量である。今のところ、燃料デブリは格納容器内にはとどまっているとされ、そのデブリを冷やすための注水が続けられている。

 現在の技術ではどうしようもないので、技術を確立するというところからのアプローチを余儀なくされている。先日も、東芝が原子炉建屋内を調査するロボットを開発したものの、途中で動かなくなってしまい、期待した仕事を果たすことはできなかった。日本を代表するあらゆる分野の企業が英知を結集しても、デブリの在処すらよくわからず、作業は一進一退で、廃炉まで数十年で終わるかどうかもわからない。これもまた現実である。

 思い出す光景がある。

 わたしは3号機が爆発した2011年3月14日、その瞬間を、当時勤めていた会社の事務所で見ていた。情報収集のため事務所のパソコンの1台をユーストリーム用に使っていたのだ。「福島第一原発3号機で水素爆発」というニュースが流れ、あの黒いきのこ雲が巻き上がる映像が何度も放映された。すぐに退勤となり、家に帰ったものの、数日の間、混乱した日々を過ごした。避難するしないで家族と揉めた。避難を渋る父とぶつかった。

 わたしは、当時は交際中だった妻の家に避難するために新潟へ向かおうとしていた。わたしの車にはガソリンが半分も入っていない。父は、おれの車に乗っていけと言った。それを断り、車の荷台にわたしは小さな自転車を入れた。ガソリンが切れたらそれで新潟まで行こうと思ったのだ。母は、何かあったら使いなさいと10万円をわたしに手渡した。そして、近くの浄水場でもらってきた水で炊いたおにぎりを渡してくれた。母は少し涙をこぼしながら、「温泉でも行くつもりで行っておいで」と声をかけてくれた。今思えばばかばかしいやりとりだったと思う。しかし他人にばかばかしいと言われる筋合いもない。
 その後、両親は祖母を連れて、東京の伯母の家に避難した。避難というよりは、その伯母を安心させたいということもあったのだろう。祖母は、自分の娘である伯母の家で数日を過ごした。伯母にとっては実の母との暮らしである。「しばらくゆっくりしていきな」ということになった。わたしの両親は数日で実家に戻ったけれど、祖母だけは夏まで東京で暮らした。しかし、東京の暮らしは勝手が違ったのだろう。祖母は日に日に衰え、ボケてしまった。

 いわきに戻ってくる頃には、1人で生活できる状態ではなくなっていた。しばらく施設で暮らしていたが、祖母はあっという間にかつての健康を失い、わたしの名前も、息子である父のことも思い出すことができなくなり、そして98歳で亡くなった。わたしが「避難しろ」と言わなければ、今ごろまだ元気だったかもしれないし、高齢だからどこかでぽっくりと逝っていたかもしれない。しかし、現実の祖母は「原発事故」ではなく、わたしが避難を呼びかけたせいで命を縮めてしまった。原発構内をバスで巡りながら、祖母のことを思い出していた。

 もう1つ、思い出す光景がある。

 原発事故直後、自衛隊のヘリコプターが3号機に水を投下したときのこと。世界有数の技術大国は、世界最先端の技術によって原発事故を収束させたのではない。ヘリコプターから水を散水することしかできず、そして我々県民はその光景を固唾をのんで見守っていたのだ。「いざ原発が爆発したらヘリで水をかけることしかできない日本」のほうが、実は等身大の日本なのだろう。あの光景を忘れることはできない。そしてわたしは「あの日本」に今も住んでいる。

 福島の復興と厳しい現実は、紙一重である。「Aである。しかしBでもある」。いつもこうしてAとBに引き裂かれる。Aを取り上げればBを訴えたい人に批判され、Bに目を向ければ「Aという現実もある」と反論される。4年半ずっと。原子力が天使にも悪魔にもなれるのと同じように、福島は絶望の町にもなれば希望の町にもなる。わたしたちはいつだってその両側に引き裂かれている。

 原子力の悪魔の部分を封じる技術を、今のところ人類は持ち得ていない。何百年、何万年、何百万年という時間が、放射性物質の力を「半分」にしてくれるだけだ。そしてその何百万年という時間を、人類は生きていくことができるかわからない。人類が絶滅しても、今回の原発事故で放出された放射性物質は有り続ける。ゼロにはならない。「ゼロに限りなく近くなる」だけである。事故を数万年レベルで語り継ぐのは、おそらくわたしたちの記録ではなく放射性物質なのだろう。わたしたちが忌み嫌う放射性物質が、この事故を語り継ぐのだとしたらなんという皮肉だろう。わたしたちは原子力の前ではあまりに無力である。
 そんなことをぼんやりと考えながら、わたしは原発構内を見学して回った。この1時間程度の視察で浴びた放射線量は10μSvにも満たない。一時的に300μSv/hのところを通過したからといって、被曝するのはこの程度である。鼻血を出すこともなければ、ダルさを感じることもなかった。個々人で感じ方は違うのだろうが、このような状況であるなら、やはり1人でも多くの方に、この原発の今を見て頂きたいと思っている。

 原発構内には、津波の痕跡を確認できる箇所がいくつかある。沿岸部の復旧復興が進み、津波被災の凄まじさを伝える震災遺構が次々と取り壊されるなか、福島第一原子力発電所だけが、原子力災害、そして自然災害の凄まじさをも伝える場所になっていくのかもしれない。原子力とは何なのか、そして復興とは何なのか、福島が抱える問題は何なのか。さまざまな根源的な問いが、視察から生まれるはずだと思う。答えはきっとそう簡単に出るものではないだろう。きっとその人の人生をかけて導き出していくような問いだからだ。

 2020年の東京オリンピックの頃には、きっとこの場所もいろいろな思惑の交錯する場所になっているかもしれない。もし機会があるなら、2020年までに行くことをお勧めする。わたしは機会があれば何度でも行くつもりだ。そしてまた答えの出ない問いを繰り返すしかないのだろう。この場所とは、どうやら長い付き合いになりそうである。

【図10】バス車内での筆者。視察中の被爆線量は10μSvほど。

 

写真提供=一般社団法人AFW

 


☆1 6号線通行レポートは「『ロッコク』を走り抜ける」と題して『ゲンロン観光地化メルマガ』の#29・#30に2回にわたって掲載された。(編集部)

小松理虔

1979年いわき市小名浜生まれ。ローカルアクティビスト。いわき市小名浜でオルタナティブスペース「UDOK.」を主宰しつつ、フリーランスの立場で地域の食や医療、福祉など、さまざまな分野の企画や情報発信に携わる。2018年、『新復興論』(ゲンロン)で大佛次郎論壇賞を受賞。著書に『地方を生きる』(ちくまプリマー新書)、共著に『ただ、そこにいる人たち』(現代書館)、『常磐線中心主義 ジョーバンセントリズム』(河出書房新社)、『ローカルメディアの仕事術』(学芸出版社)など。2021年3月に『新復興論 増補版』をゲンロンより刊行。 撮影:鈴木禎司
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