日付のあるノート、もしくは日記のようなもの（10） 育児と芸術実践──11月29日から12月24日｜田中功起

　娘はいつの間にか1歳と半年を迎え、元気に歩き回っている。

　ぼくのことも妻のことも「ママ」と呼び（この原稿の校正中に「パパ」と言い始めた！）、「どうじょー」と手にもっているものを差し出してきて、「お疲れさまでした」とこちらが言うと深々とおじぎをする。さまざまな動作や言葉はいつの間にかどこかで覚えてくる。保育園で教わったのかと思って、翌朝の登園のときに保育士に聞くと、いや教えてませんよ、と言われることもある。名前を呼ばれて手を上げる動作は、だれが教えるでもなくやりはじめた。

　育児はたいへんだけれども、それでも楽しさを感じることも増えてきた。

　絵本のブラウジングがおもしろい。複数の絵本をあれもこれも読んでほしいとなり、途中でひとつの絵本から別の絵本へとジャンプする。結末までは読まない（そもそも同じ絵本を何度も読んでいるから結末はお互い知っている）。ネット記事をブラウジングしているみたいな状態。はらぺこあおむしはねむりひめの茨の囲いのなかに出現し、ぞうのババールは夜の森でおつきさまのうたを唄い、犬のうんこ！がふうせんねこと共に空に飛び立つ。

　ときにはひとつの物語が編集されることもある。娘は自分でページをめくりたがるから、1枚ずつうまくめくれず、例えば桃太郎の物語は桃が流れてきたと思えば、いきなり鬼ヶ島を目指す海のなかで、鬼たちから財宝を取り返して村に帰ってくるシーンになる。でも途中の文脈が端折られるので、桃太郎と鬼の立場が入れ替わっているように読める。鬼退治ではなく、桃太郎が鬼から略奪しているようにも思えてくる。静かに鬼ヶ島で生活していた鬼たちのところに猛獣らと共にあらわれた桃太郎。痛めつけられた鬼たちが自分たちの財産を差し出す、そんな具合に。

　

　編集する、という作業は目の前にある材料から選び取る行為である。選び、並べ替え、別の意味をそこに与える。ぼくは娘の無意識の編集作業の手伝いをしながら、育児から地続きの芸術実践への道のりを考える。

　キュレーターの職能のひとつが作品を選び、組み合わせ、別の意味をそこに与えることだ。

　今年、2021年はじめ、ぼくははじめてのキュレーションをe-fluxというオンライン・プラットフォームで行った［★1］。Artist Cinemasというシリーズで、アーティストや映像作家が他者の映像作品を集め、週1で6週間、6作品を紹介するというものだった。ぼくがテーマに選んだのはこの連載でも度々触れている、抽象性と具体性の関係。コロナ禍のなかで「ニューノーマル」などの抽象的な言葉が世界の見方を平板にしている。しかしむしろ個々の具体的な生に着目すべきだ、というのが骨子だ。この考えに合致する映像を集めた。友人のものや若い世代のもの、歴史的な映像も含めて、集め、組み合わせ、そこから観客にテーマを見いだしてもらう。例えば太平洋戦争中の日系アメリカ人強制収容に関するものや障がいをもつ在日コリアンの無年金問題について、ロサンゼルスにある中国系アメリカ人が営むシルク屋の個人史についての映像などを上映した。個々の生を見つめ直すそれらの作品たちを改めて見ることで、ぼくたちが学べることもあるのではないかと思っている。

　

　選ぶことは必ずしもキュレーターだけのものではない。

　ロシアの美術批評家ボリス・グロイスは「多重的な作者」というテキストのなかで、アーティストの仕事がものを制作することからものを選ぶ行為に変化したと書いている。そのはじまりにマルセル・デュシャンがいる。デュシャンは現代アートのはじまりとして位置づけられるアーティストのひとりだ。もっとも有名なのはいわゆる1917年の《泉》である。男性用便器を横に倒し、自身も結成に協力したニューヨークの独立美術家協会での無審査展覧会に「R. Mutt 1917」と署名して出品しようとし、展示を拒否された。このエピソードも含めてこの作品は知られている（加えてオリジナルの便器は紛失している）。のちにこうした既製品を芸術作品として展示することを指して「レディメイド」とデュシャンは呼ぶ。グロイスによれば、デュシャン以降、作ることだけではアーティストの行為は不十分であるという。

［……］創造するという行為が、選ぶという行為になったのだ。つまり、デュシャン以後、芸術の対象となる物を作り出すだけでは、その制作者をアーティストと見なすにはもはや不十分なのである。そのためには、アーティストは自分で作り上げた物をさらに選んで、それが芸術作品であると宣言しなければならない。したがってデュシャン以後、自分自身で作る物とほかの人によって作られた物とのあいだには、もはや違いがない。どちらも、芸術作品と見なされるためには選ばれなければならないのである。今日、作者とは、選び、認定する者のことである。デュシャン以後、作者はキュレーターとなった。アーティストは自分自身の作品を選ぶのだから、まず自分自身のキュレーターである。［★2］

　そう、現代においてはアーティストがキュレーターなのである。ぼくがe-fluxで行ったように他のアーティストが参加する展覧会をせずとも、そもそも自分で作ったものをどのように選んでどう展示するのか、という行為自体がキュレーションの行為なのだ。個展をイメージすればわかりやすいと思う。どの作品をどのように展示するかを考え、個展のタイトルを決め、ステートメントを書く。これはすべてのアーティストに当てはまる、ぼくらの主要な仕事のひとつでもある。

　

　もっとも、キュレーターとは、主に美術館に所属し、コレクションの管理を行うひとでもある［★3］。こちらが本職。テーマを決めて作品を選び展示をするという、いわゆる企画展覧会を行うキュレーターのあり方は比較的最近始まったことでもある。スイス人キュレーター、ハラルド・ゼーマンの名前を知っているひともいると思う。1960年代に行われたインスタレーションやパフォーマティブな実践を行う若手を集めた展覧会や、ドクメンタなどの大型国際展をディレクションし、自身の父親についての企画展も行った。作品を陳列するという見本市のディスプレイから、「展覧会制作」そのものを表現手法に変えたのがゼーマンである。キュレーターの思想が展覧会に体現されるような、そんなタイプの展覧会はゼーマン以後に始まった。そうした変革をしたという意味では、ゼーマンをアーティストと呼んでもいいくらいだ。実際、彼の死後、モノグラフがいくつも出版され、その展覧会制作の方法は現在にも影響を与えている。ぼくのように、展覧会制作をアートの実践ととらえているアーティストも彼の影響下にあると言ってもいい。

　これは60年代以降の変化であるから、グロイスが言うようにデュシャンによってアーティストがキュレーターになったと解釈するのではなく、アーティストが選ぶ行為を最初にアートの実践に持ち込み、その後、キュレーターがコレクション管理から展覧会制作（プラス「選ぶ」行為）へと仕事の中心を変えていった、ととらえる方がいいのかもしれない。

　

　ちょっとここでおもしろいのは、e-fluxの企画では、実はキュレーションという言葉は使われていない。ぼくの行為を示すタームは「convened by」つまり「集合させる」だったということ。

　選ぶのではなく、集める。

　ぼくも自分のe-fluxでの行為を、選択（キュレーション）ではなく、集める行為として考えたいと思う。この連載を注意深く読んでいるあなたはもしかすると覚えているかもしれないが、「選択」と対になる考えは「ケア」である。人類学者のアネマリー・モルの『ケアのロジック』をもう一度参照しよう。彼女は選択のロジックとケアのロジックを対比させていた。選択が自律的な個人をベースにしたものだったとすれば、ケアは相互依存の集団性をベースにする。前者を強い主体、後者を弱い主体と言ってもいいかもしれない。強い個をもったアーティストではなく、弱い依存型のアーティストをイメージしてみる。

　自ら作るアーティストは、自律的な強い個性をもつ。自らの署名を制作物に残し、その名前をプロモーションする。そして、デュシャンのような選択をするアーティストも、強い判断基準をもつ。選択したものを並べた企画／展覧会に署名をし、その名前をプロモーションする。展覧会の参加アーティスト以上にゼーマンの名前が歴史に残っているのは、彼のキュレーションの個性ゆえだろう。ぼくが、しかし、ここで考えてみたいのは、作るひとでもなく、選ぶひとでもなく、こう言ってもいいと思うけど、「頼るひと」についてだ。だれかに頼らないとひとりでは立ちゆかないアーティスト。そうしたアーティストはコラボレーターやアドヴァイザーやエキスパートを求める。ぼくもそうだと思う。結果的に制作は集団で行うことになる。

　しかしこれはいわゆるアーティスト・コレクティブとは違う。

　思い浮かべてほしいけど、ほとんどのアーティスト・コレクティブは強い個性の集まりだし、そのグループの名前がアーティストの署名として拡散する。そのグループ名を冠した個展も開かれるだろう。集団であっても、それは個人のアーティストと同じである。

　一方、相互依存に頼るアーティストは、いつもひとりだ。弱い主体のまま、だれかに助けを求める。集団性は結果的に、仕方なく（？）生まれる。ひとりではなにもできないからだ。ぼくはこのあり方を肯定的にとらえたい。

　

　集めるということは、取捨選択をしたのではなく、たまたま集められた、という場合も想定される。積極的な選択ではなく、消極的な受け入れによって集められることもある。受け身であることは悪いことではない。自分にできること／できないことを受け入れ、現実を知る。リアリストであるということだ。

　

　育児生活は、強烈な濁流に一気に流されて、なにも考えられないままもがきつづけ、なんとか飲み込まれないようにする毎日。あっちがいいかこっちがいいか、なんて吟味している余裕もなく、あっという間に子どもは成長し、次々と新しいことに対応しなければならない。自らなにかを納得して選択するのではなく、ひたすら受け入れていく。でも最初に書いたように、ひとが成長していくのを共に経験するのはなんだかとてもすばらしい。

　それは制作にも大きく影響している。育児生活が中心にある、ということは、自分の制作スタイルも方法論もこの生活に合わせて変えざるをえない、ということだ。

　仕事に使える時間は限られている。友人の育児先輩からのアドヴァイスでは、育児と育児の合間に時間ができたら、そのときに疲れていてもやる気がなくても仕事しないと、次に同じように時間が取れるかどうかわからない。やれるときにとにかくやるしかないよ、というものだった。あとでやろう、と思っていると子どもが風邪をひいて急遽病院にいくとか、夜泣きをあやすために夜の時間が使えないとか、「あとで」がないことが多いからだ。合間合間にうまいことやっていかないと、なかなか時間がない。

　この時間のなさに直面してぼくがまず受け入れたことは、それによって作品の「クオリティ」が落ちてもよしとしようということだった。映像編集にいつまでも時間をかけることはできない。必要最低限の範囲でなんとかやること。それでいままでの「クオリティ」が落ちてもまあ仕方ない。

　作品の質を落とす、なんて書くとあなたは幻滅するだろうか。

　これまでのこだわりをやめる。やる気が起きるまでだらだらしていた時間をやめる。そして子どもの生を優先する。いやいや、それはあたり前だ。想像してみればわかるけど、例えば子どもを病院につれていくのを二の次にして編集作業に没頭するとかありえないよね。無理して保たれていた「クオリティ」っていったいなんだったんだろう。この考え自体が間違っていたのかも。ぼくが気にしていた「クオリティ」ってそもそもなんだったのか、って話だ。こだわったり時間をかけたりしたからって必ずしも作品の「クオリティ」が保たれるわけじゃない。むしろこの生活だからこそ獲得される、別のクオリティがあるはず。そうとらえるべきだよ。

　

　先日「差別について」という疑似ラジオ番組を企画した。旧知の社会学者のハン・トンヒョンさんを迎えて、東京造形大学の学生向けに差別についての基礎知識（レイシズムやマイクロアグレッション、ヘイトスピーチ解消法など）を話してもらった。

　差別は基本的に社会構造によって生み出されるもの。この社会はそもそもマジョリティに最適に作られている。だからこの社会構造はマイノリティを必然的に排除してしまう。

　ハンさんは「階段」の例を出す。私たちが何気なく使っている階段。建物の2階にいくためには階段が必要です。だから建物には階段が付いている。これは、私たち健常者の身体に合わせて建築が作られているということです。一方で、エレベーターは車椅子を使う障がい者などのために設置される。車椅子を前提にして、それに最適にこの社会を作ると考えてみる。エレベーターを設置することを、健常者のために建物に階段が付いていることと同じととらえること。マジョリティに最適な社会からマイノリティに最適な社会へと作りかえること。

　前段としてぼくはこんな話をした。ベビーカーを押していると駅のどこにエレベーターがあるのかが気になるんですよね、だいたい駅のホームの端の方にエレベーターがあって、ベビーカーだけでなく、車椅子のひとがどのように不便なのかにも気づきはじめて……。

　同じアネマリー・モルの、以前にも触れたペイシャンティズムにもつながると思う。健康な身体を前提として社会を作るのではなく、病気の身体を前提としてこの社会を作りかえる。ペイシャンティズムとは、これまでのように病気の身体を持つひとが健康な身体を持つひとに合わせるのではなく、患者の身体をベースにした社会のインフラストラクチュアを整えていこうという考えである。そもそも病いはしんどい。そのしんどさが少しでも軽減されるように道路が整備され、エレベーターが設置されているといい、そうあなたも思うだろう。ぼくもそうだった。脳外科手術を受けた直後は歩くのもしんどかった。街に出るとどこにエレベーターがあるのか、エスカレーターがどこにあるのかをまず探した。人混みも、視覚的な刺激が強くきつかったから、どうそれを避けるのか、道順を組立てながら移動をしていた。しんどい身体を抱えたひとに最適に社会が運営されるようになるといいなと思う。

　何を前提にするのか。何に最適化するのか。それだけでも社会は大きく変化する。

　コロナがエピデミックからパンデミックになり、エンデミックになっていくのだとすれば、ずっとこの感染症とつき合っていくことになる。季節性のインフルエンザではなく、年間通してというのはなかなかつらいものがあるけれども。きっとマスクは手放せなくなる。

　

　もう一度ぼく自身の制作のあり方に接続してみよう。

　何を前提にするのか。ぼくの生活は子どもありきで進んでいく。制作も子どもありきで進んでいく。先に書いたように1日のなかで作業できる時間は限られている。長期の海外出張などもすぐにはできないだろう。まずはそうしたできないことを所与の条件として受け入れることからはじめる。いや、もうはじめている。例えばトークやミーティングをする場合、平日の10時から16時までの保育園時間はある程度自由になるからここにブッキングする。もちろん平日昼間のトークは観客には厳しい。でも海外のどこかの地域では時差次第ではこの時間帯に収まりやすいところもあるだろう。コロナによってリモートでのトークがあたり前になりつつあるから都合がいい。子どもを寝かしつけたあと、21時や22時以降も大丈夫だ。つい先日、ロンドン（午後）の財団の企画で、ニューヨーク（朝）のキュレーターと京都（夜）にいるぼくをつないでトークを行った。そうやってスケジュール調整をすることでなんとか仕事を回すことができる。

　制作にかけられる時間は減ったかもしれない。でもこの現実の経験からはじめることで、いままで気づかなかったことに気づけるようになるかもしれない。この生活スタイルのなかでしかできない制作のあり方や作品のアイデア、そして別の新しいクオリティがあると思う。

　とある会議のなかで、ぼくがケアをめぐる理論に興味があるのは、育児生活がたいへんだからで、ある意味では理論に逃げているんです、と言ったことがある。会議参加者のひとりが、もしケアのイベントをあなたが企画するのならば、「逃げていない」ホストがもうひとり必要なのでは、と提案してきた。このひとは、ぼくが「理論に逃げている」と言ったことを、現実の育児から逃げて（育児をせずに？）理論的なことだけを考えている、と受け取ったのだろうか。そもそもほとんどのケアの理論は現実的な問題から出発している。それに、ぼくの目の前では娘が歩き回っているし、育児生活はいまここにあるし。だから言葉通りに「逃げられる」わけないんだよね。むしろ理論とこのわちゃわちゃした生活を行きつ戻りつするって話なんだけど、まあ、わかってもらえないか。

　別のクオリティは、短い時間のなか、その集中力のなかに生じるかもしれない。その力をブーストさせるために、理論が、アイデアが、工夫が必要だ。この日記のようなものも、ぼくにとっては考えを整理する場なんだ。書くこと、つくること、選ぶこと、そして頼ること。新しくなったこの日常のなかからしか見いだせない視点で、身体で、別の思考と新しい技術で、できることはまだある、はず。

　芸術実践は、歩きはじめた娘と共にここからはじめられる、と思いたい……。

　どうだろう？

　まあ、まだもっと時間が必要かな。