愚かさの倫理学
来るべき日本論のために
まずはとても抽象的な話から始めることにする。興味のない方は次節から読み始めていただいてかまわない。
1
人間は、人間性と動物性、賢さと愚かさの組み合わせでつくられている。少なくとも多くの人間はそう考えている。
その対立は、一般に、論理と感情、理性と本能、意識と無意識、前頭葉と大脳辺縁系などなどの対立と呼ばれる。専門分野によって命名は異なるし、それらが正確に重なりあうわけでもない。しかし、人間のなかに「社会性があり合理的だけれどどこか堅苦しく空々しい賢い心の動き」と「力強く活力に満ちているけれどあまりに生々しく一歩間違えれば危険もある愚かな心の動き」の二つがあり、両者がつねにぶつかりあっていることについては、学問の専門にかかわらず、また洋の東西を問わず、ほとんどの哲学者や思想家が同意すると思われる。
本稿では、この対立の前者を「人間性」「賢さ」、後者を「動物性」「愚かさ」と呼ぶことにする。
これは哲学の専門家には反発を買いそうな命名である。たとえばつぎのような反論が予想される。デカルトは動物は魂のない機械だと考えた。いわゆる動物機械論である。機械は論理的に動く。つまり、デカルトの哲学においては、動物性こそが論理的だということになっている。むしろ人間性(魂)は論理を超える。したがって、論理と感情の対立を人間と動物の対立に重ねることはできない。
しかしこの概念の配分には疑問がある。動物機械論は、形而上の魂と形而下の物質を切り離すことで生まれている。魂は論理と物理をともに超えるというわけだ。この切断は確かに発明で、のちの哲学に大きな影響を与えている。たとえば20世紀のハイデガーの哲学はその変奏だと言えるし、いまならば人工知能の意識獲得を否定する主張は多くがこのかたちをとる。しかし、すべての被造物のなかで人間だけに論理を超える能力があるというのはあからさまに宗教的な主張であり、政治的にも危険な発想のように思われる。ニーチェの超人思想がナチスに利用されたのはその一例である。それゆえぼくは、もっと素朴に、人間が人間たる所以は論理的な思考にあると定めたほうがよいと考える。
もうひとつ、そもそも人間は動物の一種なのだから、人間性と動物性は対立しないという反論も予想される。
あらかじめ認めておけば、こちらの反論はまったく正しい。生物学的に考えれば、論理的な判断も動物的な感情も、ともに進化の過程で獲得された脳の出力特性にすぎない。ニューラルネットワークは一種の計算機であり、感情はその出力なのだから、論理と感情が対立するかのように語ることそのものが無意味である。ぼくはその反論に完全に同意する。
にもかかわらず、ぼくが冒頭に記したような構図を立てたのは、人間がそれでもなお、その両者を対立していると感じているのは事実だと思うからである。人間の多くは人間と動物が異なると考えている。だから動物機械論が生まれたのだし、殺人は罪になるが動物を殺しても罪にならない。人間性と動物性が現実に、つまり自然科学的に対立するかどうかとは別に、人々がその両者を対立すると感じているという別の現実、つまり幻想が存在する。ぼくが関心があるのはその幻想の構造である。
いずれにせよ、ここで認めてもらいたいのは、人間の心や社会が、二つの力、合理的で言語的で「人間的」な賢い思考と非合理的で身体的で「動物的」な愚かな判断、魂の力と身体の欲望、精神の高貴さと物質の野蛮さ、なんと呼んでもよいが、そういった二つの異なった原理の衝突によってつくられている、少なくとも多くの人間はそう考えているということである。
それはこう言い換えてもいいかもしれない。人間はつねに道徳家と犯罪者に引き裂かれている。ひとにはだれにでも愚かな欲望がある。
というわけで、人間は人間性と動物性の組み合わせでつくられている。その前提から議論を始める。人間性は論理を使う。科学をつくり法をつくり道徳をつくる。動物性は感情を使う。芸術をつくり愛をつくり家族をつくる。けれど厄介なことに犯罪も生み出す。
ここで重要なのは、古来哲学者たちが、人間性によって動物性の暴走を抑えることばかり考えてきたことである。とくに西欧近代の哲学はそうだ。たとえば有名なカントが代表である。彼の『実践理性批判』を読めば、とにかくカントが、自分の行動をつねに普遍的な道徳原理に一致させること、裏返せば、自分固有の感情や欲望にけっして屈しないこと、それが正しいと強く信じていたことがわかる。
ひとつエピソードを紹介しよう。カントはあるとき、友人が殺人者に追われ、その友人を自宅に匿っていたとして、殺人者がやってきて友人の在宅を問われたときに嘘をついてよいかどうかと問われたことがある[◆1]。だれもが直感するように、ふつうはそういうときは嘘をつく。ところが驚くべきことに、カントはその状況でさえ嘘をつくべきでないと答える。たとえ結果として友人が死んだとしても、嘘が悪いという普遍的な原理は曲げるべきではないと言うのだ。
人間的な道徳は動物的な欲望に絶対に優越する。法は愛を超える。それがカントの倫理学の根幹である。
むろんこの主張には批判がある。それでも、カントが構築した体系がいまに至るまで西洋哲学の基礎であり続けていることは変わらない。ぼくたちがヨーロッパや北米の思想家、とくに左派やリベラルの思想家と接するときには、彼らがこのようなパラダイムのなかにいることを強く意識する必要がある。彼らは、悪は動物と愚かさからやってくると信じている。人間中心主義批判などと言いつつも、人間中心の感性は基本的に変わっていないのだ。
しかし、ぼくはむかしからこの西欧近代のパラダイムに違和感を抱いてきた。確かに道徳や論理は感情の暴走を抑えるかもしれない。しかしその逆の事例だってあるのではないか? 道徳や論理が暴走し、感情ぐらいしか歯止めとして機能しないこともあるのではないか?
人間は人間性と動物性の組み合わせでつくられている。だから人間性が動物性を抑えるのと同じように、動物性が人間性を抑えることもある。法が愛の暴走を抑えるのと同じように、愛が法の暴走を抑えることもある。その両方を考えないと哲学は健全なものにならないのではないか。
それゆえ、ぼくはいままで、賢い法が愚かな愛の暴走を抑えるのではなく、逆に愚かな愛が賢い法の暴走を抑えるメカニズムについて語ろうとする哲学者を探してきた。そのような哲学者は少ない。けれどもいないわけではない。
ぼくの読者であればご存じのように、そのひとりがルソーだ。ルソーは人間関係は憐れみで結ばれると考えた。憐れみとは要は愚かな愛のことである。あるいはリチャード・ローティだ。ローティのアイロニズムは賢さを普遍性から切り離す。それは法の暴走を抑える原理そのものだ。
意外かもしれないが、ぼくがよく参照するハンナ・アーレントもそのメカニズムに関心のあった哲学者だ。アーレントが有名な『エルサレムのアイヒマン』で明らかにしたのは、要はナチスの暴力は法の欠如ではなく、むしろ法(定言命法)の暴走によって導かれていたということである。アイヒマンは凡庸な人物だった[◆2]。ユダヤ人の友人もいた。けれども彼のユダヤ人への小さな愛は、国家の大きな命法のまえにはまったくの無力だった。ヨーロッパにおいては、普遍的な道徳が個別の愛に絶対に優越してしまうからである。
動物性が人間性の暴走を抑える。『平和と愚かさ』で検討したのもこの問題である。同書では触れることができなかったが、「愚かさ」と「獣」はフランス語ではとても近い言葉でもある[◆3]。
平和とは「政治的に考えなくてよい」領域の広がりを意味する。それがぼくが同書で導入した定義だ。だから平和ではひとは賢くならない。平和ボケになる。愚かになる。それはときに悪を生み出す。ふつうの思考はそこで止まってしまう。そして平和を否定し、戦争を肯定してしまう。戦争ではひとは確かに賢くなるからだ。
けれどもぼくが『平和と愚かさ』で訴えたのは、哲学はそこからさきに行かねばならないということである。平和は悪の温床になる。けれどもそれは単純に否定できない。なぜならひとは平和なしには生きられないからだ。というよりも、そもそも戦争は平和の実現のためにあったはずだからだ。賢さは愚かさを克服する。しかしその賢さは愚かさの実現のためにある。哲学はその逆説にこそ直面せねばならない。
アリストテレスは人間は「政治的動物」(ゾーオン・ポリティコン)だと規定した。政治的とはすなわち戦争するということである。だとすればそのポリティコン(政治)はゾーオン(動物)で抑制されねばならない。
賢さだけでは平和は実現しない。愚かさが賢さの暴走を抑えたとき、はじめて平和は実現する。そのメカニズムは西欧近代の哲学ではほぼ思考できない。だからそれを捕まえる言葉を発明する。それがぼくの哲学の基本的な構えなのだ。
2
さて、なぜこんな話から始めたのかといえば、このとても抽象的な問題意識こそが、ぼくがいま日本思想や日本文化に関心を抱いている理由の根幹にあるからである。
本誌読者にはあらためて説明する必要がないと思うが、ぼくは最近、つぎの著作は日本論になるとあちこちで発言している。そして訝しがられている。実際、ぼくはフランスの哲学で博士号をとり、以後も総じて欧米の思想家ばかり参照してきた。だから日本を主題にして本を書くのは意外だったのかもしれない。リベラルから保守への転向と捉えるひともいるようだ。
けれども本人としては強い必然性がある。なぜなら、ぼくはキャリアの初期から、ヨーロッパの哲学では表現できない日本文化の感性を、にもかかわらず哲学の言葉で表現する課題に挑戦し、うまく行かず中断するということを繰り返してきたからである。
その最初の例が2001年の『動物化するポストモダン』である。ぼくはそこで、戦後日本に生まれたオタクたちの生きかたを、ポストモダンというヨーロッパで生まれた時代区分と接合し理論化しようと試みた。
タイトルからわかるとおり、同書ではすでに「動物」が鍵概念になっている。ぼくはそこで、作品の物語やメッセージにあまり興味を示さず、グッズや同人誌ばかり買い漁るオタクの消費行動(データベース消費)を動物の快楽追求になぞらえている。そのうえで彼らオタクたちの行動原理は、従来の人文的で人間的な文化研究や批評が前提としてきた、近代的な作品受容とは質的に異なるのだと主張している。つまりは、西欧近代の文化は人間的だが、日本の文化は動物的で、ヨーロッパから輸入された学問には馴染まないと主張したのである。
日本の文化は西欧近代の文化と異なる。表面の意匠が異なるだけでなく、感性の深いところで異なる。いまではアニメやキャラクター消費がグローバルになってしまったので見えにくくなっているが、これはかつてはだれもが感じていたことだった。ぼくはその差異を、人間的で近代的な文化と、動物的でオタク的でポストモダンな文化という対比で考えようとしたわけだ。
ヨーロッパは人間のことばかり考えている。けれども日本はそうではない。だから日本社会や日本文化の特性を正確に分析するためには、人間性の外部、すなわち動物性について考える必要がある。そのような動物性への注目は、西欧近代の呪縛が壊れたポストモダンの時代においては、個別日本だけでなく、グローバルな文化研究でも不可欠なものになるだろう。
これが『動物化するポストモダン』の中核にあった認識である。その認識はいまでも正しいと信じている。実際に同書は長く読まれ続けているし、日本のオタク的な感性は全世界に広がった。
とはいえ、同書で提示された人間性と動物性の対立はいささか杜撰ではあった。ぼくはそこで、オタクは動物的だと言うだけで、それが人間的な社会秩序とどのような関係にあるかを十分に言語化できていなかったからである。
だからいろいろな誤解や疑問が現れた。そのなかでもとくに多かったのが、この本はオタクを肯定しているのか、それとも否定しているのかという問いだった。
この問いはまさに同書がオタク的な生きかたを動物に喩えたことで現れている。ヨーロッパ的な人文学の常識──それはすなわち日本のアカデミズムの常識でもある──からすれば、動物的な生きかたは悪で、したがってオタク的な生きかたも悪だということになる。2001年当時、オタクへの蔑視はいまとは比較にならないほど強く(それでも1990年代前半よりはるかに好転したと言われていたが)、時代の空気もこの否定的な読解を後押しした。実際に読めばわかるように、同書はけっしてオタク批判の書物ではない。むしろ、オタクたちの動物的な生きかた、古い人間性の拒否に新しい人間性の萌芽を見出そうとしている。けれどもその主張は逆説として受け取られ、あまり理解されなかった。むろん逆に、同書が単なるオタク肯定で動物的な消費肯定の書物として読まれるのも、著者としては本意ではなかった。
それゆえ、『動物化するポストモダン』以後、ぼくは人間性と動物性の関係についてあらためて考えなおすことになった。人間性と動物性をいったん対立させると、動物性を肯定することができなくなる。ではどうしたらよいのか?
その試行錯誤のなかで書かれたのが2011年の『一般意志2.0』である。同書は日本論ではない。ルソーの「一般意志」の概念を再解釈した政治哲学の書物である。けれどもひとつ重要な箇所で日本の例を挙げている。
それは、来るべき「民主主義2.0」のありかたを素描した思考実験の箇所に現れる。ぼくはそこで、匿名のコメントが放送画面を覆うニコニコ生放送(ニコ生)を例に、未来の民主主義は、政治家や専門家による閉じた熟議のまわりを、大衆の開かれた喧騒が取り巻く二層構造になるべきだと記している。
ニコ生は『動物化するポストモダン』の出版後に誕生した。いまではYouTubeに押されてあまり目立たないが、一時期は日本のネット動画を代表するプラットフォームだった。そこで配信された討論番組をいちどでもご覧になったことがあればわかるように、ニコ生の匿名コメントは野蛮で感情的で、つまりはふつうの意味で「動物的」だが、けっして単なるノイズではない。閉鎖空間の議論が暴走したとき、それを抑える効果がある。ぼくはそこに注目した。愚かさが賢さの暴走を抑える、すなわち動物性が人間性の暴走を抑えるという前述の図式が、ここではじめて議論されている。そしてその図式を基礎に、また別の主題を検討したのが『平和と愚かさ』なのだ。
それゆえ、『平和と愚かさ』のあと、あらためて日本という主題に回帰するのは、著者としてはまったくの必然なのである。日本について考えること、それは愚かさについて考えることであり、動物性について考えることであり、善悪の分割の彼岸にある知恵について考えることなのだ。
だから、これから書く日本論は、ぼくのいままでの哲学的関心のまっすぐの延長線上にある。
それでも、そもそも「日本論」を書く、その構えそのものに疑念を抱く読者もいるかもしれない。
確かに最近は日本論そのものが難しい。丸山眞男の有名な古層論は試みじたいが評判が悪い。柳田國男の常民論も吉本隆明の南島論も批判されている。折口信夫の大嘗祭論はフィクションだと言われている。鎌倉仏教を讃えるのは時代遅れだし、岡本太郎で爆発した縄文文化論も下火だ。ぼくが学生のころあれだけ新鮮に見えた網野善彦の後醍醐天皇論でさえ、いまや怪しい学説扱いらしい。
この時代、日本について考えると宣言した瞬間、その「日本」はいつのどこを指すのか、どの階層のどの視点からの議論なのか、その選択はどう正当化されるのかと問われるのは必然である。ジェンダーの問題も考えねばならない。戦後の日本論は多くが男性によって書かれてきた。いま挙げた名前は男性ばかりだが、それでよいのか。ポスト植民地主義の問題もある。既存の日本論では、日本と沖縄、日本とアイヌ、日本と朝鮮といった比較が大きな役割を果たしてきたが、いまやそのような視点は権力的だと捉えられている。
日本をひとつの対象として括り論じることができる時代は、とうに過ぎ去っている。ぼくもそれは自覚している。ぼくに日本全体について語る資格はない。というよりも、そんな資格をもつ人間はもうだれもいないのだろう。
それゆえ、ぼくの構想は、以上のような過去の日本論に比べればたいへん慎ましいものである。ぼくの仮説では、日本の社会や文化には、愚かさをもって賢さの暴走を、つまりは動物性をもって人間性の暴走を抑える知恵があちこちに実装されている。そして思想家や文筆家もときおりそのメカニズムについて語っている。第1節で記したように、ヨーロッパの哲学はあまりに人間中心的なので、その知恵について語ることができない。だから日本の歴史に助けを求めようというのがぼくの考えだ。
これはいわゆる「日本スゴイ」論とは異なる。戦前の京都学派は、日本の伝統に基づいた哲学が西欧近代の限界を超えると主張した。「近代の超克」論である。そして太平洋戦争を肯定した。ぼくはそのような大それたことは主張しない。ぼくが主張するのは、せいぜいが日本思想のある読みかたが西欧近代の弱点を埋める、あるいは代補する、そのていどの話だ。
その代補は必ずしも日本だけに求める理由はない。愚かさについて考えるヒントは日本以外の文化圏にも求められるかもしれない。けれども、ぼくはたまたま日本人で、日本に詳しい。だから日本に可能性を探る。それだけである[◆4]。
3
愚かさの倫理学を考える。賢さがつくる善悪の分割を超えた、別の倫理学について考える。それが来るべき日本論の目的だ。
少しだけ具体的な展開を予告しておこう。愚かさが賢さの暴走を抑える知恵について語った思想家として、ほかならぬ本居宣長がいる。
ほかならぬ、と記したのは、宣長は日本論といえばだれもが参照する思想家だからである。宣長は、江戸時代の享保年間、西暦の1730年に生まれ、享和年間の1801年に死んだ。西洋の思想家でいえば、さきに名前を挙げたカントの同世代にあたる。カントは1724年に生まれ、1804年に死んだ。
なぜだれもが宣長を参照するかといえば、彼の『古事記』や『源氏物語』についての解釈が、近現代の日本人の文化的な自己イメージを大きく規定しているからである。宣長の活動期は、西欧でナショナリズムが理論的に整備され始めた時期にあたり、ふしぎなことに彼の仕事(国学)もそれに並行している。宣長は「大和心」(やまとごころ)なる概念を発明し、半ば実証的、半ばカルト的な独自の日本論を展開した。その思想が、のちに平田篤胤を経由して政治的な影響力を獲得し、戦前の狂信的な国家主義を準備することになる。それゆえ、宣長の名前は戦後長いあいだ積極的に語られることがなかった。けれども戦前には逆にだれもが知る名前だった。彼のエピソードは小学校の国語や修身の教科書に掲載されていた。
そしてここで重要なのは、そんな宣長が発見した大和心、すなわち日本的な精神なるものが、「漢意」(からごころ)との対立によって導入されていたことである。
漢意とは文字どおりには中国の文化という意味だが、宣長においては、とりわけ徳川幕藩体制を支えるイデオロギー、すなわち儒教的な論理や道徳を指していた。宣長は、『古事記』や『源氏物語』のような日本の古典は、儒教が説く人工的で偽善的な道徳に支配されず、性や嫉妬を含む複雑な人間の感情をあるがままに、自然のままに描いているからこそ尊いのだと考えた。大和心と漢意の対立は、自然と人為、真実と偽善、誠と嘘の対立に重ねられ論じられた。そしてここから、日本は、そして日本だけが、文明の偽善に侵されていない「神の国」だという奇妙な主張が導かれることになるのである。
以上はどんな解説書にも書いてある紹介の要約にすぎないが、それでは、このような宣長の思想が、なぜ愚かさをもって賢さの暴走を抑制する哲学だと解釈することができるのだろうか。
ひとつ補助線を引こう。作家の丸谷才一はあるエッセイで興味深い日本文学史の解釈を提示している[◆5]。丸谷によれば、宣長の国学は、むしろ日本が西洋文学を受容する大きな地ならしとなった。どういうことか。
中国では恋愛文学がほとんど発達しなかった。儒教は性愛を徹底して忌避するため、文学表現の可能性も限られたからである[◆6]。
対照的に日本では恋愛文学がたいへん発達した。古くから儒教を受容していたにもかかわらず、性愛の忌避はほとんど根づかなかった。むしろ恋愛が道徳を押し返した。丸谷は、その日本の特殊性を、宣長がはじめて発見し肯定したのだと指摘する。だからこそ、のち明治期の文学者は、日本の古典とはまったく異なった経緯で恋愛だらけになっていた西欧の自然主義文学を、素直に抵抗なく摂取できたというのである。
ここまでの人間性と動物性の区別にしたがえば、儒教は徹底して人間的であることを求める宗教だと分類できる。それはヨーロッパの人間中心主義とは異なるが、ともかくも人間社会の価値観をたいへん優先する宗教である。儒教は古代中国の礼の遵守を絶対善とする。超越的な神については語らない。孔子が尊敬されているのは、彼が神の声を聞いたからでもなければ、仙人のように超人間的な能力をもっているからでもなく、あるいはまた仏教のように解脱の可能性を説くからでもなく、ただただ彼が立派な人間だったからである。儒教ではひとはつねに、孔子に倣い、賢く、常識的で、大人であることが求められる。
宣長は日本文学をそんな賢さの要請から解放した。というよりも、もともと解放されていたことを発見し、それでよいのだと主張した。丸谷によれば、その発見こそが日本の近代文学の成功を後押しした。
これはまさに、宣長の文学史における功績が、賢さを愚かさで抑制することの利点の発見にあったということにほかならない。宣長は、和歌(うた)を詠むことは政治や修身とはなんの関係もないし、ひとの心は子どもや女性の心のように未熟なものであり、男性的な正しさで理解されるものではないと強調した[◆7]。彼は、賢さの限界を指摘し、愚かさの力を肯定する哲学を展開しようとしていた。日本は、愚かな性愛が賢い道徳の暴走を抑え込んだからこそ、そしてそのメカニズムを言語化できたからこそ、文学大国になることができたのだ。
加えて、宣長による愚かさへの注目が、ある種の技巧性の発見だったと解釈できることにも触れておきたい。
宣長の哲学は歌論から出発した。大和心を支える鍵概念である「もののあはれ」は、なによりもまず和歌のなかに見出された。
和歌を詠むことはけっして素朴な感情の発露ではない。むしろ、膨大な数の既存作品への参照によってはじめて可能になる、高度な言語技術である。少なくとも宣長はそう考えている。
宣長といえば古代日本の素朴さに惹かれた思想家との印象があるが、意外なことに彼は『新古今和歌集』を高く評価している。『新古今和歌集』は13世紀に成立し、技巧的な歌風で知られる。もし漢意の人為性が批判されるのであれば、この技巧性も批判されそうなものである。にもかかわらず宣長は批判しない。それどころか彼自身も好んで新古今調の和歌を詠んでいる。ここから導かれるのは、宣長が、大和心、すなわち愚かさも、じつはそれじたい高度な技巧性に支えられていると考えていた可能性である。技巧的な賢さ=漢意に対して、素朴な愚かさ=大和心が対立するという単純な図式ではない。愚かさには愚かさの技巧があるのだ。
思想史家の先崎彰容はこの点に注目し、もののあはれ論の本質は倫理学にあると論じている。先崎によれば、それは「古典や常識、あるいは風景に蓄積された太古の日本人の生き方に共鳴し、それを受動的に感じとる能力」が形成する、漢意とは異なる「肯定と共感の倫理学」である[◆8]。
先崎は触れていないが、これはさきほど紹介した丸谷の宣長論の批判、あるいは拡張になっている。丸谷はすぐれた英文学者でもあった。だからヨーロッパ的な人文主義のなかで考えた。本稿で繰り返し述べているとおり、ヨーロッパの思考では動物性から倫理は出てこない。それゆえ丸谷は、宣長を倫理からの解放の思想家と捉えた。そして西欧近代の自然主義と重ねた。自然主義とは、まさに、文学を賢さから解放する運動、動物性の肯定の運動だったからである。
けれども先崎は、その動物性、愚かな恋愛(もののあはれ)のほうにも別の倫理が形成されるはずで、それこそが宣長の思想だと考えた。愛は法を超える。けれども無秩序なわけではない。愛には愛の秩序がある。それが先崎が言おうとしていることである。
先崎は、宣長の哲学は西欧近代の自然主義とは関係がないはずだといくども強調している。ヨーロッパでも中国でも、賢い道徳は愚かな恋愛を排除した。ただしヨーロッパは近代になってその排除された愚かさを再発見した。けれどもそれはあくまでも社会の外(個人)に位置するものとしてであった。自然主義では愚かさは秩序をつくらない。他方で日本では、排除された愚かさは文学のなかに流れ込み、長い時間をかけて男性的な漢意とは別種の倫理、すなわち別種の社会秩序をかたちづくった。宣長が発見した(と先崎が考えた)のは、そのメカニズムである。
愚かさがつくる倫理学。動物性を支える技巧性。詩と性愛がつくりだす社会秩序。ヨーロッパの哲学ではほぼ語義矛盾に響くであろうそんな概念の可能性について、考え出すヒントがここにはある。
宣長が生きた時代は、そもそも繊細で技巧的な文化が隆盛した時代だった。宣長の青年期、20代と30代は宝暦年間と明和年間(ほぼ18世紀の第3四半期)にあたる。いわゆる田沼意次の時代で、経済的繁栄と政治的腐敗が共存していた。そしてその時代精神は文化と芸術を政治から引き離した。
文学者の芳賀徹に『與謝蕪村の小さな世界』という好著がある。蕪村はだれもが知る俳人で画家で、宣長の15年ほど年長にあたる。宝暦以降は京都に在住し、若い宣長が京都に遊学したときもすれちがっている。芳賀は、タイトルに示されているとおり、そんな蕪村の「世俗化し矮小化した小市民的日常の小世界」への執着を高く評価している。そこで描かれた繊細で内向的な光景こそ、のち明治維新に向かう動乱で失われるものだったからである[◆9]。
芳賀は蕪村の作風を「ロココ的」だと形容している。蕪村の絵画はロココ美術と離れた印象を与える。それゆえ奇異に響くが、ここで芳賀がロココと呼ぶのは、政治からの離脱、小さく限定されたものへの偏愛、洗練された官能、教養の遊戯的な操作などを特徴とする一種の時代精神のことである。芳賀は、18世紀半ばのフランスと日本で、並行してそのような精神が都市文化を支配したと考えた。そして蕪村こそが日本のロココを代表する詩人だと位置づけた。
宣長はそんな蕪村と同時代人だった。そして若いころは蕪村と同じ街で学んでいた。芳賀は、宣長が20代で書いた最初の歌論、『あしわけをぶね』の一節について「まるで蕪村句集の序として書かれたよう」だと指摘している[◆10]。技巧的で官能的で女性的で脱政治的。そして自己言及的。そのような感性がもてはやされた時代と場所で、宣長もまた思想家としてのキャリアを始めた。
19世紀に入ると蕪村の「小さな世界」は消えてしまう。国学もまた大文字の政治の象徴となってしまう。それゆえに見えにくくなっているが、本来は宣長の哲学は、蕪村のような作家と並べて理解すべきものだったのである。
漢意は大きな世界をつくる。人間的で武士的で政治的な秩序をつくる。大和心は小さな世界をつくる。動物的で非武士的で「平和」な秩序をつくる。そのように考えると、宣長の読解は『平和と愚かさ』の問題系にまっすぐにつながることになる。実際、宣長が活躍した時代は、芳賀が言うパクス・トクガワーナ、すなわち「徳川の平和」が最後に輝いた時代だった[◆11]。
もうひとつ。ぼくはさきほど『動物化するポストモダン』に触れた。同書には「大きな物語」と「大きなデータベース」(大きな非物語)という対立がある。前者は政治的なイデオロギーを、後者は消費社会における商品空間を意味する。そのうえでぼくは、近代の社会は前者で導かれた、けれどもポストモダンでは前者の有効性は失墜し、後者こそが社会統合の原理になると主張している。
これもまた振り返れば杜撰な議論である。2026年の現在、「大きな物語」はけっして失墜していない。それどころかますます求められているようにも見える。その点では同書の仮説は修正を必要とする。しかし、ただひとつ、いまも有効かもしれないと感じる直感がある。
それは性愛への注目である。ぼくは同書で、動物化したオタクたちが依拠する「大きなデータベース」の例として、なぜか「萌え」や恋愛ゲームといった性愛に関わる事例ばかりを取り上げている。実際にはオタク特有の消費行動が観察されるジャンルは多岐にわたり、なかには必ずしも性愛に関わらないものも多い。たとえば鉄道やミリタリーやSFやロボットアニメといったジャンルである。ぼくはそれらを例に挙げてもよかった。けれども、2001年のぼくは、理由を自覚しないままに、性愛の事例に満ちたデータベースこそが「大きな物語」をもっとも効率よく脱構築するものなのだと、そのように直感していた。
いまはその直感を多少は正当化することができる。一方に「大きな物語」、賢い大文字の政治、宣長の言う漢意がつくる社会秩序があり、他方に「大きなデータベース」、愚かな恋愛のデータベース、宣長の言う大和心がつくる社会秩序がある。『動物化するポストモダン』が理論化しようと試みたのは、この両者の関係にほかならない。だから性愛の例が不可欠だったのだ。
オタクたちがつくる萌えのデータベースは、もしかしたら宣長が注目したもののあはれのデータベースの継承者なのかもしれない。来るべき日本論では、そんなことも論じられたらと思う。
4
『平和と愚かさ』では紀行文のスタイルが好評だった。本稿でも最後に旅のエピソードをひとつ挿入しておきたい。
第3節で儒教について書いた。儒教に触れることなしに宣長について語るのは不可能だからである。
けれども実際はぼくはまったく儒教に親しんでいない。漢籍も読めないし『論語』も暗誦できない。ぼくの世代はだいたいそんなものだと思うが、このまま日本論に取り組むのはなんとも心許ない。そこで、この原稿を書くまえに、儒教の聖地に赴いてみることにした。中国は山東省の曲阜のことである。
孔子は紀元前6世紀から5世紀にかけて生きた。ソクラテスより80年ほど年長にあたる。曲阜は、そんな孔子が生まれ、活動し、そして死んだ街で、当時は「魯」と呼ばれる独立の都市国家だった。
曲阜は、山東省の省都、済南から南に120キロほどのところに位置している。済南とは高速鉄道で結ばれており、3、40分で移動できる。観光客は日帰りで訪れることも多い。曲阜市は現在の行政区分では済寧市に属している。いささかややこしいのだが、中国では市(地級市)のなかに市(県級市)がある。
曲阜にはいまでも魯の時代の城郭が部分的に残る(後世に補修はされている)。城郭内には孔子を祀る大きな聖廟があり、孔子の子孫が長いあいだ住んだ豪華な邸宅がある。漢以降の歴代王朝は儒教を実質的な国教とし、孔子一族を手厚く偶した。この二つの施設をそれぞれ「孔廟」「孔府」と呼ぶ。城郭の外には、孔子一族のため特別に確保された広大な墓地がある。これを「孔林」と呼ぶ。孔廟、孔府、孔林は三つあわせて「三孔」と呼ばれ、ユネスコの世界遺産に登録されている。
旧市街から数キロ離れた郊外には巨大な「孔子博物館」もある。現在の中国政府は儒教を積極的に政治利用している。本稿では触れないが、展示にはその意向が露骨に反映されていた。
ぼくはそんな曲阜を2026年の4月末に訪れて3泊した。短い滞在だったが多くの学びがあった。
まず印象的だったのは、滞在が初夏だったせいか、とても緑が豊かだったことだ。ホテルから眺める街並みは街路樹の緑に包まれていた。孔廟には大樹がそびえ、随所に名木を示す案内板があった。川べりには柳が植わり、空中にふわふわと白い綿毛が舞い幻想的ですらあった。
孔子の哲学はこんな瑞々しい自然のなかで生まれたのかと、ぼくはいささか驚いた。ぼくの世代で中国史といえば横山光輝のマンガである。横山は『史記』の一部もマンガ化しており、そのなかには孔子も出てくる。彼はゴツゴツした岩山や砂っぽい平原を好んで描く。いつのまにかそのイメージが前提になっていた。
もうひとつ、孔子の弟子たちを個別に認識できたことも大きかった。『論語』はじつは孔子だけの言葉の記録ではない。弟子の言葉も数多く収録されている。有名な弟子には、顔回、子路、子貢などがいる。
彼らの印象はふつうに読むかぎり希薄だが、現地に行くと具体的なイメージが立ち上がってくる。孔林の中心、孔子の墓の近くには子貢が喪に服し住み続けたという小屋の再現があるし、孔府の隣には顔回を祀る独立した聖廟がある。孔子博物館には弟子たちの性格を簡潔な言葉で特徴づけたパネル展示がある。それによれば、顔回は「徳行第一」で、子路は「長于政事」(政治に長ける)で、子貢は弁舌巧みで学団を経済的に支えていたという。そのような史跡をまわり展示を見たあとだと、『論語』の読みかたも必然的に変わってくる。西洋哲学を学んだ人間であれば、キリスト教徒でなくても、ヨハネやパウロやマルコについてなにかしらの印象をもっていることだろう。それと似た感覚を孔子の弟子たちにも抱けるようになるわけだ。
とはいえ、今回の旅でもっとも記憶に残り、思考を刺激されたことがなにかと問われれば、それは孔林の光景である。
孔林は、さきほども記したとおり孔子一族の墓地である。ここもまた漢代以降に整備された。2.5平方キロの面積があり、4000以上の墓石が残り、10万の死者が眠るとされている。10万とはにわかに信じがたい数だが、孔子は2500年以上も過去の人物なので、確かに子孫の数はたいへん多い。公的な家系図に登録された人数だけで200万に及ぶという。
孔林は墓地だが、その言葉でふつうに思い浮かべるような、整然と墓石が並んだ公園形式の土地ではない。敷地のほとんどはコノテガシワ(ヒノキ科の常緑樹)の森で、だからこそ孔「林」と名づけられている。墓の多くは森のなかに散在している。
孔林は曲阜の旧市街の北に広がっている。城壁を抜け、長い参道を歩き(孔府から馬車で送迎するサービスがある)、墓地の正門をくぐり、5分ほど歩いたところにすぐに孔子の大きな墓がある。近くには孔子の息子(孔鯉)や孫(子思)の墓もあり、さきほど紹介したように弟子の小屋の再現もある。
観光客の多くはそこを見て帰るようだったが、じつはまわりには長い遊歩道が整備されている。その遊歩道こそが、墓石が散在する広大な森のなかを巡回している。観光客用のミニバスツアーも用意されていたが、ぼくは歩くことを選んだ。遊歩道は数箇所で分岐しており、すべての道を歩いたわけではなかったが、それでもひとまわりするのに2時間近くかかった。
それはとても神秘的な体験だった。ぼく以外にはほとんどだれも歩いていない。ときおりミニバスが録音された中国語のガイドをがなりたてながら通り過ぎるだけだ。
遊歩道沿いの森には多数の墓石が並んでいる。遠くにも倒れた墓石が見える。ぱっと見たところ配置に秩序は感じられない。墓石と墓石のあいだは緑で覆い尽くされている。おそらくは、いったん墓地が整備されては、長い時のあいだに下草が繁り自然に帰り、また後代の子孫が近くに新しい墓地を整備するといったことが繰り返されてきたのだろう。最近盛られたらしい土饅頭もある。土饅頭には花束が添えられ、神道の大幣に似たものが刺さっている。これから墓石が立つのかもしれない。既設の墓石の大きさはさまざまで、記念碑のような巨大なものもあれば、現代日本の墓と変わらない小ぶりのものもある。古いものは風雨による侵食が進み、碑文はほとんど読めない。
遊歩道は舗装されていたが、ときおり細い砂利道が森の奥へ分け入っている。踏み込んでいくと、石造りの門や朽ちた動物の彫刻が現れ、膝上まで伸びた下草のなかにごろごろと墓石が転がっている。眩しい日差しのなか、ひとはだれもおらず、鳥の声しか聞こえない。目の前には数世紀前の廃墟が広がっている。まるで『天空の城ラピュタ』の世界に迷い込んだようだ、と言えば伝わるだろうか[図1]。

この森に10万人が眠っている。そしてその10万人は、みな自分たちが孔子というひとりの「王」の子孫だと信じている。
ぼくはそのとき、ふと、この森はまるで「日本」のようだと感じてしまったのである。日本もまた、国民の多くが、みな自分たちは天皇の子孫だと信じている。そしてその王は森に住んでいる。
5
このエピソードは読者を混乱させたかもしれない。第3節まで、ぼくは宣長の漢意と大和心の対立を引き受け、そのうえで日本論を書くと約束していた。ところが、実際に儒教の聖地に足を踏み入れたら、そこには日本の似姿があったと言うのだから。
正直、ぼく自身もいまだこの連想の意味を十分に整理できているとは言えない。けれども、つぎのようなことは考えている。
曲阜から帰国して数カ月後、日本では皇室典範改正をめぐる議論が巻き起こった。おもな論点は、次世代の皇位継承候補者を確保するため、明治期の旧皇室典範以降禁止されていた皇族の養子縁組をあらたに認めるか否かだった。みなさんもご存じのとおり、最終的には、政府が提出した養子を認める改正案が国会で可決され、成立した。
その過程では「万世一系」「男系男子」といった言葉がかつてなくマスコミを賑わした。そこでは、今後も皇位継承は男系男子のみに限るのか、それとも女性天皇や女系での継承を認めるのかといった問題が、保守とリベラルの対立と結びついてさかんに議論された。それは今回の改正案の論点ではなかったのだが、なぜか議論はそこに収斂していったのである。
まずはぼくの立場を記しておけば、ぼくは基本的に、現在の倫理的な基準を遠い過去から続く伝統に適用し、安易に改変することに反対である。それゆえ、これまで長いあいだ天皇制の中核にあった、少なくともそう考えられてきた男系継承の原則は維持されるべきで、今後女性の天皇が実現するとしても(愛子内親王が即位するとしても)、あくまでも中継ぎであるべきだと考える。
しかし同時に、そこで守るべき伝統そのものが、しょせんは歴史的な構築物であり、一種のフィクションではないかという冷静な視点も重要である。
伝統は守るべきだという主張と、伝統が幻想であるという認識は必ずしも矛盾しない。ぼくは男系の維持を支持するが、それは、神武天皇が実在し、その特殊な遺伝子が男系で継承されているといった荒唐無稽な主張を信じているからではなく、単に幻想が幻想として長く続いており、その持続の事実じたいが重いと考えるからである。
さて、万世一系は幻想である。その前提のうえで興味深いのは、その幻想が、日本古代の風俗の表現というより、むしろのち輸入された儒教の影響を受けてつくられたものであることだ。
古代の皇位継承は複雑だった。女帝も多かった。男系男子優先の継承原則が確立されたのはようやく8世紀あたりだと考えられている。
その思想的な意味づけとなるとさらに時代が下る。その起源のひとつが北畠親房が14世紀に著した『神皇正統記』である。同書は「大日本者神国也」(おほやまとはかみのくになり)という宣言で始まることで知られ、これもまた明治期にナショナリズムの基礎となった。親房がそんな主張をした根拠は、まさに万世一系に、つまり建国時から親房の時代まで皇統が途切れずに続いていることにある。
そして、ここで見逃してはならないのが、親房が日本のその特異性を天竺(インド)と震旦(中国)との比較で発見していたことである。
『神皇正統記』は冒頭すぐにインドと中国の話に入る。この両国で王朝は途絶えている。けれども日本では続いている。だからすごいという議論展開になっている。これは裏返せば、万世一系の価値が、インドや中国といった「他者」の視線、宣長の言う漢意のもとで見出されたことを意味する。実際に親房の書物は、のち近世に入ると山崎闇斎や水戸学などほかならぬ儒学思想と結びついて尊皇攘夷の思想を用意する。宣長自身は『神皇正統記』を高く評価しているが、漢意の影響には注意を促している。
万世一系の思想は、愛すべき愚かな大和心(だけ)ではなく、家父長的で賢しらな漢意でつくられている。万世一系へのこだわりは日本的というよりも儒教的である。もしこのような乱暴な整理が許されるのだとすれば、儒教の聖地に広がる孔子一族の墓地が、どこか日本社会が皇室に捧げた森を想起させたのだとしても、それほどおかしくないのかもしれない。
孔林の前日、ぼくは孔廟を訪れていた。孔子を祀る宗教施設である。一般には孔子廟と呼ばれ、日本にもいくつか存在する。けれども曲阜の孔廟はたいへん大きい。歴代皇帝によって威信をかけた寄付や増築が繰り返され、壮麗な門や石碑や楼閣が並ぶ巨大な宮殿となっている。
その楼閣のひとつが、いまはまるまる「孔子世家譜」(孔子家系図)の展示場となっている。かつて孔子の妻が祀られていた大きな聖廟の壁際に、ガラスケースに入った巻物がずらりと並んでいる。
その一角に「孔子嫡裔世系図」なるものが貼られていた。孔子を初代として現在の第80代まで、途中いくどか傍系に逸れるものの、基本的には天井から下ろした糸のようにまっすぐに連なる家系図が描かれている。ぼくが訪れたときは、その図のまえに多くの観光客が群がり、あちこちを指さし説明するツアーガイドの声に熱心に耳を傾けていた。ぼくはその光景を眺めながら、なるほどこれが孔子人気の秘密なのかと妙に納得するとともに、しかしこれは日本の天皇尊崇と同じではないかと、いささか目が回るような思いも抱いた。
中国は王朝がころころと変わる。だから王朝を超えて持続する孔子一族が尊敬されている。そして、その家父長的な血の持続性ゆえに、儒教は中華文明の核となり、いまや共産党政権すら飲み込んでいる。
もしそうだとすれば、そのアイデンティティ構築のメカニズムは、明治維新があろうと敗戦があろうと、天皇制さえ護持すれば永遠に国体が守られると信じている日本とどこまで異なるだろう。
大和心だけが日本ではない。皇位継承すら漢意で覆われている。
人間が人間性と動物性の組み合わせでつくられるように、日本についても二つの要素の組み合わせを考えねばならない。漢意の日本と大和心の日本。賢さの日本と愚かさの日本。日本人はそれなりに賢いので、中国文明を、あるいは西洋文明を受け入れて、すぐに自分たちを賢いと思い込んでしまう。そして愚かさの存在を忘れてしまう。宣長が指摘したのはそういうことだ。
ぼくの日本論は日本そのものの考察を目的としない。しかしそれでも、賢さの日本と愚かさの日本、両者の交錯を自覚することは、さまざまな日本論の暴走への解毒剤になるかもしれないと思う。
この数カ月の皇室典範改正論争で、人々は万世一系の話ばかりしてきた。そして争ってきた。
けれども、そもそも歴代の天皇は神武天皇の血の継承者というだけで価値が与えられてきたわけではないのではないかと、少なくともそう捉える別の視点が必要なのではないかと、ぼくは愚かながらにも考える。前掲の丸谷はある著作で、日本文学史の最大の特徴は、天皇や上皇の命で編まれた勅撰集やそれに準ずる詞華集がたいへん多いことにあると指摘している[◆12]。『万葉集』も『古今和歌集』も『新古今和歌集』もすべて皇室が編纂を命じ、そしてそのなかにも多数の皇族の和歌が収められた。これほど王が詩歌に関心をもち続けた国はほかにない。日本の王は、なによりも、うたを詠い、うたを守る王だった。
万世一系の森のなかに幽霊のように漂う、もののあはれのデータベースの守護者としての王=天皇。データベースが覆う国土と歴史。
もはや自分でもなにを書いているのか定かではないのだが、そんなイメージを追い求めて、ぼくはこれからの日本論を書くのだと思う。
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撮影=編集部
キャプション=東浩紀
◆1 カント「人間愛から嘘をつく権利と称されるものについて」、1797年。日本語訳は「人間愛からの嘘」、『カント全集』第13巻、谷田信一訳、岩波書店、2002年。
◆2 アドルフ・アイヒマンは元ナチスの高級将校。1960年に逃亡先のアルゼンチンで発見され、イスラエルに連行されて死刑となった。『エルサレムのアイヒマン』はアーレントがその裁判を傍聴して記した著作。近年の研究では、アイヒマンは必ずしもアーレントが記述したような凡庸な人物ではなく、むしろ積極的に虐殺に加担した犯罪者だったという読みなおしが行われている。たとえそうだったとしても、凡庸さ(賢さ)こそが悪を生み出すことがあるという指摘の重要性は変わらない。彼は虐殺に加担した。だとすれば悪人で狂人に違いない。そのような常識的思考の盲点をこそアーレントは突いたのである。
◆3 フランス語で愚かさは bêtise、獣は bête。ともにラテン語の bestia を語源としている。
◆4 『訂正可能性の哲学』の読者のため補足しておけば、この態度は、本文でさきに名前を挙げたローティが、自分はたまたま20世紀のアメリカ人で、だからリベラリズムを擁護するのだと主張していたのと同じものである。ぼくは日本文化に思想的な可能性があると本気で信じている。しかし同時に、その信念が、ぼくが日本人であるという特殊な条件に依存していることも自覚している。その二重性がぼくと「日本スゴイ」論を区別すると考えている。リチャード・ローティ『アメリカ 未完のプロジェクト』、小澤照彦訳、晃洋書房、2000年、参照。
◆5 丸谷才一「恋と日本文学と本居宣長」。初出は1995年。現在は『恋と日本文学と本居宣長・女の救はれ』、講談社文芸文庫、2013年、所収。
◆6 詳しくは、張競『恋の中国文明史』、ちくま学芸文庫、1997年、参照。単行本は1993年。丸谷もこの著作を参照している。
◆7 たとえばつぎのような一節。「歌の本体、政治をたすくるためにもあらず、身をおさむる為にもあらず、ただ心に思ふ事をいふより外なし」。「さて人情と云ものは、はかなく児女子のやうなるかたなるもの也、すべて男らしく正しくきつとしたる事は、みな人情のうちにはなきもの也」。ともに『あしわけをぶね』より。カタカナ表記をひらがな表記にあらためるほか、漢字表記など一部改変。『本居宣長全集』第2巻、筑摩書房、1968年、3、35頁。ちなみに宣長はほかの箇所で「人の妻を犯すなど云事」が歌の素材になってよいと断言しているほか(30頁)、『石上私淑言』の冒頭では歌を詠むのは人間だけではなく「禽獣にいたるまで有情のものは、みな其声に歌ある也」とも述べている。宣長による和歌の肯定は、善悪の分割を超えた人間行為の承認や動物性の肯定につながっている。
◆8 先崎彰容『本居宣長』、新潮社、2024年、253頁。
◆9 芳賀徹『與謝蕪村の小さな世界』、中公文庫、1988年、77頁。単行本は1986年。
◆10 同書、70頁。
◆11 徳川の平和(パクス・トクガワーナ)の概念については、芳賀徹『文明としての徳川日本』、筑摩書房、2017年、参照。
◆12 丸谷才一『日本文学史早わかり』、講談社文芸文庫、2004年、20頁。
2026年10月24日刊行『ゲンロン19』

東浩紀




