【 #ゲンロン友の声|034】どんな翻訳を読めばいいですか?

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webゲンロン 2024年9月24日配信

はじめまして。

僕は最近海外の小説の翻訳本を読んでいるのですが、同じ作品でも、どの文庫で読むかが悩ましいです。

僕は馬鹿なので、平易な言葉に訳されたものを読みたくなってしまうのですが、やはり格調高く書かれたものを読んだほうが良いのでしょうか。東さんは原書で読まれることも多いと思いますが、翻訳本についてのお考え等ありましたら教えていただければ幸いです。(神奈川県・10代・男性・非会員)

 翻訳ってふしぎですよね。作家は、ぼくたちが理解できない言葉で書いている。翻訳者は、それをぼくたちが理解できる別の言葉に置き換えてくれる。表現が違うだけで意味は同じと言われるけれど、実際にはその「同じ」がどれくらい「同じ」なのかを測る基準は存在しない。となると、結局は翻訳者の気分次第というところも出てくる。実際有名な作品だと無数の翻訳が乱立するということにもなる。そうやって質問のような疑問も出てくるわけです。

 これは翻訳という行為が抱える原理的な問題なので、わかりやすい解決は存在しません。つまり「いい翻訳」と「悪い翻訳」、「正確な翻訳」と「不正確な翻訳」を区別する一般的な原理は存在しない。だから質問に対してもあなたが自由に判断していいのですよとしか答えようがない。──のですが、それだけではさすがに回答になっていないので付け加えますと、とりあえずつぎのようなことは言えます。

 それは、「いい翻訳」と「悪い翻訳」を区別する基準も、じつは時代や環境、あるいはひとによって大きく変わるということです。どういうことかというと、いま質問者の方は「平易な言葉に訳されたものを読みたくなってしまうのですが、やはり格調高く書かれたものを読んだほうが良いのでしょうか」と書かれています。要は「日本語として読みやすい翻訳」を読むべきか、「原文に忠実そうなんだけど読みにくい翻訳」を読むべきかと尋ねているわけです。

 でもこの「読みやすい」が曲者で、その感覚がけっこう変わるものなんです。たとえば、ぼくはもともとジャック・デリダという哲学者を研究していた。このひとのフランス語は訳しにくいので有名で、実際みなさんが日本語訳を手に取って読もうとしたら(最近果敢にも岩波文庫に入ったのですが)、まじで意味不明で頭がくらくらすると思います。ぼくも最初はそうでした。ところがその感覚が、デリダ自身のフランス語を何年も読み続けていると変わってくる。ふつうに読めば頭がくらくらするだけでさっぱり意味の通らない日本語訳が、そのむこうにうっすら原文の単語や語順が想像できるようになってきて、むしろ「読みやすい」と感じるようになってくるのです。そしていちどそこまで行ってしまうと、逆に、変に工夫を凝らして「意訳」されているほうが、ノイズが多くて読みにくいと感じるようになる。

 まあ、これはかなり極端な例なのですが、原理的には同じことが文学やエンターテインメントの翻訳でも起きているのではないかと思います。SFでもミステリでもホラーでもなんでもいいのですが、なにか新しい考え方や表現が出てくる。最初は翻訳者も意味がわからないので「直訳」するしかない。つまり単語レベルで言葉を置き換え、それでよしとするしかない。それは当然読みにくい。

 だからつぎに「意訳」の時代がくる。こなれた日本語にしようという試みが始まる。日本語だけ見れば、むろんそっちのほうがいい。翻訳しか読まないひとが増えてくると、むしろそっちだけが読まれるようになる。それが大衆化するということでもある。けれども本当に原文の精神がわかってくると、むしろ意訳のほうが邪魔になってくる。直訳のほうが正確じゃん、「読みにくい」翻訳のほうが読みやすいじゃんという気持ちになってくる。学者やマニアの方が勧める翻訳が必ずしも読みやすくないのは、彼らのなかでそのような感覚の変容が起きているからだと思います。彼らは別に、それが「格調高い」から勧めているわけではない。難しい翻訳にあえて挑戦しろと言っているわけでもない。むしろ本気でそれこそが「読みやすい」と思っているのです。そしてこのような感覚の変容については、どちらが正しいと言うものでもないと思うわけです。

 というわけで、話は結局最初のところに戻ってくるのですが、翻訳についてこれを選ぶべきだという絶対的な基準は存在しない(むろん明らかな誤訳は別ですが)、だから「平易な言葉に訳されたもの」と「格調高く書かれたもの」のどちらを読めばいいかについては、いまの自分の心に照らして正直に選べばいいというのが、ぼくの答えになります。要は、いまのあなたが読みやすいと思うものを選べばよいのだと思います。

 質問者の方は10代とのこと。そもそもそれくらい若いときには、どんなに「悪い訳」でも気合いで読めてしまうものだとも思います。ぼくも10代のころ、わけのわからないままロシア文学とかドイツ文学とかたくさん読みました。いまとなってはあらすじレベルで完全に忘れている作品も多いのですが、あのとき背伸びして変な日本語をたくさん読んだことは、いまの糧になっていると思います。そういうことまで考慮すれば、きっといまの質問者の方にとっては「読みやすい」と「読みにくい」の境界すら可塑的なはずで、だから「平易」でも「格調高く」てもなんでもいいのだと思います。つまり、翻訳の質なんて難しく考えないで、ただひたすら、どしどし読みましょう! それでいいはずです。(東浩紀)

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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