【 #ゲンロン友の声|045】「罠」の意味を教えてください

いつも動画、書籍ともに楽しませていただいています。
質問は東さんの用いる言葉についてです。
東さんの使う「罠」という表現がとても好きです。著書、雑談などでも基本的に二項対立の袋小路に陥りそうなときに出てくるワードとして「罠」を理解しています。自分のなかではそういった思考に陥る事が頻繁にあり(世界がそう促してきているような気もします)、そのたびにこの言葉を持ち出しています。そこで質問ですがこの言葉はなにか哲学や社会学の背景があり、それを踏まえた概念なのでしょうか。そういった思考における「罠」に関する議論がなにかあれば教えて頂きたいです。(東京都・10代・男性・非会員)

質問、ありがとうございます。まずは単純に答えますと、「罠」という言葉は、ぼく自身が若いころに読んだ哲学や批評から借りたものです。でもどこから借りたかとなると、記憶が定かではありません。たぶん柄谷行人さんなのでしょうが(というのもぼくの初期の文体はほぼ彼の文章のパクリなので)、柄谷さん自身もきっとどこかから借りたのだと思います。語感的にはキルケゴールとかニーチェとかでしょうか……。
いずれにせよ、ぼくはその「罠」という言葉を、なにかをまっすぐに思考しようとすると、いつのまにか議論がねじれて初期にめざしたものと異なった結論に到達してしまう、その状態を指すために用いています。
たとえば、『平和と愚かさ』で記したとおり、平和をめぐる思考が、まさにその「罠にはまりがちな思考」の典型です。ぼくたちはみな平和を望んでいる。平和とは戦争がない状態である。だから平和を実現するためには、戦争を仕掛けてくる勢力と戦う必要がある。つまりは、平和を実現するためには、常時戦争に備え、平和ボケを駆逐し緊張し続ける必要があるという結論になるのですが、「あれ? これってめざしていた平和だっけ?」となるわけですね。これは抽象的な話ではなく、まさにいまぼくたちの国が陥りつつある罠です。
人間の思考はふしぎな構造をしています。実証と論理を基礎から積み上げればだれもが疑わない正しい結論に到達する、といった単純なかたちになっていない。自分では実証と論理を隙間なく正しく積み上げていると感じていても、他人から見れば積み上げかた自体が危うくて崩れそうに見えたり、そもそも肝心の実証や論理自体が積み上がるようなものではなかったりということがよくある。だから哲学者や批評家は、「これとこれは自明な前提で、そこから論理的に導かれるので結論もまた自明」と主張する議論をまず疑います。そこには罠が隠れているのではないかと考えます。それが20世紀のあるタイプの思考の伝統で、ぼくもそれを引き継いでいます。デリダなんかもそういうひとですね。
ただ、残念なことに、21世紀に入ると、そういう構えはあまり歓迎されないようになってしまいました。他人の正しさを疑うことと自分が正しいと主張することはおのずと異なるはずなのですが、以上のような哲学や批評の伝統を、他人の悪を告発し、自分の正しさを強化するために使うひとがとても増えてしまった。実際、おれが正しい、なぜならこれこれが正しいからだと単純に主張することは、すべてを疑うよりもはるかにコスパがよい。
そのような時代なので、まだ10代の質問者さんが「罠」の論理に関心をもってくれたことを、ひと世代(ふた世代?)上の人間としてとても力強く感じます。これからの人生、自分の悩みとしても、あるいは対人関係においても、思考の罠にはまって苦しむことは数多くあると思いますが、哲学の力を使って抜け出していきましょう!(東浩紀)


東浩紀
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