観光客の哲学の余白に(17) 『カラマーゾフの兄弟』は「軽井沢殺人事件」だった――ドストエフスキーとシミュラークル(後)|東浩紀

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初出:2019年10月25日刊行『ゲンロンβ42』

 前回に引き続き、ドストエフスキーの「聖地巡礼」で感じたことを記したい。ぼくはサンクト・ペテルブルクのあと、『カラマーゾフの兄弟』の舞台のモデルになった街、スターラヤ・ルッサを訪れた。 

 スターラヤ・ルッサは、ペテルブルクから南に200キロほど、イリメニ湖という大きな湖(琵琶湖よりも大きい)の南岸にある小さな街である。現在の人口は3万人弱だが、歴史は古い。12世紀にはすでに文献に名前が現れる。ロシアの歴史はヴァリャーグ(ヴァイキング)の東ヨーロッパ平原への進出に始まるが、そこでスターラヤ・ルッサは、フィンランド湾から黒海へ抜ける水上交易路の要所として栄えた。ロシアの前身国家のひとつであるノヴゴロド公国は、スターラヤ・ルッサから見てイリメニ湖の反対側に建国された。かつてはこの湖を、ヴァイキングの船が行き来していたわけだ。 

 ドストエフスキーがこの地をはじめて訪れたのは、晩年の1872年のことである。晩年といっても、彼は60歳を迎える年に亡くなっているので50代のころの話だ。何度か訪問するうちに気に入ったらしく、76年には別荘を購入し、家族とともに長い時間を過ごすようになった。『カラマーゾフの兄弟』の大半はその別荘で書かれ、同書に登場する「スコトプリゴニエフスク」(家畜追込町)のモデルはこの街だといわれている。 

 『カラマーゾフの兄弟』は、ぼくが人生でもっとも大きな影響を受けた小説である。その舞台を訪れるのは、かねてからの夢だった。 


 とはいえ、スターラヤ・ルッサはペテルブルクのような国際観光都市ではない。訪問は骨が折れる。 

 ぼくは、前日の夜にペテルブルクを発ってノヴゴロドまで鉄道で移動し、現地で1泊してから路線バスでスターラヤ・ルッサに移動という経路を採った。ペテルブルクからノヴゴロドまでは3時間半(列車の種別によってはもっと短いかもしれない)、ノヴゴロドからスターラヤ・ルッサまでは2時間近くかかる。ノヴゴロドのターミナルにはロシア語の表示しかなく、スターラヤ・ルッサのバス停は街外れの駅前にあっておそろしく寂しい。ロシア語に堪能な同行者がいないと、たどりつくのはなかなかむずかしい。ぼくは――例によって――休暇でロシアにいた上田洋子に助けを求めた。彼女は20年近くまえの学会でいちど当地を訪れたことがあるらしい。

 ドストエフスキーがこの街に興味を抱いたのは、良質の鉱泉が湧き出る保養地として知られていたからである。晩年のドストエフスキーは肺気腫を抱え、空気のよい土地での滞在を好んでいた。スターラヤ・ルッサに落ちつくまえは、ドイツのエムスにも頻繁に出かけている。 

 けれども、それだけが理由ではなさそうだ。スターラヤ・ルッサはいまではただの田舎町で、お世辞にも栄えているとはいえない。鉱泉はいまも湧いているので保養施設もあるが、街を歩く滞在客はほとんどいない。ぼくたちは昼食の場所ひとつ探すのにも苦労するほどだった。 

 ところが、ドストエフスキーの時代には街のようすはまったくちがっていた。彼が住んだ別荘は、いまでは博物館として内部を見学できるようになっている。ぼくもむろん訪れたのだが、その一角でたまたま、19世紀後半から20世紀のはじめにかけて、スターラヤ・ルッサについて書かれた書籍やこの地で撮影された写真入りの絵葉書などの特別展示が行われていた。 

 ぼくはそれらの写真を見て驚いた。そこに写されているのは、石造りの邸宅と高い尖塔をもつ教会が建ち並び、着飾った令嬢が街路を散策し、鉱泉のまわりは最先端のガラス建築と彫刻で飾られた公園になっているじつに優雅な街で、現在の閑散とした田舎町とはあまりにちがっていたからである。どうやらスターラヤ・ルッサは、ドストエフスキーの時代には、たんなる保養地ではなく、富裕層や知識人が集まる特別な場所だったらしい。展示のパネルには、皇帝一族も同地を訪れ、ドストエフスキー以外にも数多くの名士が滞在していたことが記されていた。彼が別荘を買い求めた1870年代には、ノヴゴロドから線路が敷かれ、当時首都だった――ドストエフスキーの自宅もあった――ペテルブルクから直通列車で来れるようになっていた。そして街外れに建てられた大きな新古典様式の駅舎からは、市街地へ路面電車まで通されていたらしい(残念ながらこの支線も路面電車もいまは存在せず、だからこそぼくは路線バスで現地にむかい、寂れた駅前に放り出されることになったわけだが)。ロシア近代史に詳しくないのでまったくとんちんかんな連想かもしれないが、ぼくはそれらの展示を見て軽井沢を思い浮かべた。軽井沢もかつては宿場町で、近代になって別荘地に生まれ変わった土地だ。そしてやはり、富裕層や知識人が集まる特別な場所として発展している。 

 だとすれば、『カラマーゾフの兄弟』はまずは、当時流行の別荘地を舞台にした、遺産相続をめぐる殺人事件の物語として書かれ、読まれていたということになるだろう。日本には内田康夫による『軽井沢殺人事件』というミステリがあるが、それにならえば『カラマーゾフの兄弟』は「スターラヤ・ルッサ殺人事件」といったところだろうか。そういわれてみれば、たしかにそれらしき記述もある。ホフラコワ夫人やグルーシェンカは邸宅に住んでいるはずだし、イワンとアリョーシャが対話する酒場も繁盛している。登場人物が交わす言葉もインテリ風だ。

 けれども、ぼくはいままで、『カラマーゾフの兄弟』を繰り返し読み、評論や解説書もそれなりに目を通してきたつもりだったが、この小説の舞台が軽井沢のような豊かで先端的な、都市文化と密接につながった別荘地だとはまったく想像することができていなかった。なんとなく、フョードル・カラマーゾフの殺人は、虐げられた信心深い民衆(ナロード)ばかりが住む、貧しい村で起きた凄惨な事件なのだとばかり思い込んでいた。でもそれはまちがいだったのである。

 




 『カラマーゾフの兄弟』は「軽井沢殺人事件」だった。この「発見」にはいろいろなことを考えさせられた。 

 ぼくは前回、ドストエフスキーはそもそもペテルブルクという夢=シミュラークルのなかに閉じ込められた作家で、だからこそいくども都市からの脱出を試み、最終的にロシア正教や民族主義の肯定に救いを求める文学を書くことになったのではないかと、ぼくなりの作家観を記した。ロシア文学史の言葉でいえば、西欧派の夢からスラブ派の現実へ脱出を試みた作家だということになる。これは余談だが、日本でこの作家が特別に好かれている理由のひとつは、西欧的価値観への憧れと反発のあいだに引き裂かれたその矛盾が、場所と時代がちがっても、この国ではずっと身近なものであり続けているからではないだろうか。 

 もしこのぼくの見立てが妥当だとすれば、『カラマーゾフの兄弟』こそは、まさに作家の「夢からの脱出」の到達点に位置する作品だったということになろう。ドストエフスキーの晩年の「五大長編」のうち、そもそも『罪と罰』『白痴』『未成年』はペテルブルクを舞台にしている。なかでも『白痴』と『未成年』は貴族社会の物語だ。『悪霊』はペテルブルクの物語でこそないが、これも地方都市を舞台としている。おもな登場人物は貴族と知識人で、主人公のスタヴローギンも最後まで西欧的な価値観(ニヒリズム)から逃げられない。けれども『カラマーゾフの兄弟』は、最初から最後まで、ペテルブルクからもモスクワからも離れた田舎町の物語として描かれている。主人公のアリョーシャは正教の修道僧で、町人や子どもが出てくるわりに貴族はほとんど出てこない。つまりはこの小説には、嘘くさい都市文化や貴族文化から遠く離れた場所で、ついに書かれた地に足のついた人間ドラマという印象があるのだ。だからこそ、ぼくも小説の舞台について前述のような誤解を抱いていたのである。 

 にもかかわらず、そこで夢の外部の、ナロードが住まう「現実」として設定されたはずの土地がじっさいには軽井沢でしかなかったのだとすれば、この見立てはどうなってしまうだろう。 

 ドストエフスキーは『罪と罰』で、主人公をペテルブルクという夢から脱出させようと試みた。けれども、前回記したように、そのドストエフスキーの想像力は、じっさいにはいまはツーリズムというかたちでペテルブルクの夢をますます強化してしまっている。それはじつに皮肉な事態だが、もしここでスターラヤ・ルッサが軽井沢なのだとすれば、同じように『カラマーゾフの兄弟』についてもまた、ドストエフスキーはたしかに作品内では現実への脱出を成功させたが、作品外ではじつは西欧派の夢に最後まで負け続けていたのだと、そう指摘せざるをえないのかもしれない。なぜならば、彼がそこで夢から脱出するためにむかったのは――同世代のトルストイが、30年ほどのちにナロードの生に近づくため自宅すら捨て頓死してしまったのとは対照的に――、あくまでも富裕層の集まる文士村、帝都から鉄路で結ばれ、皇帝すら訪れるロシア的大地のシミュラークルにすぎなかったからである。

 といっても、ぼくはここでけっしてドストエフスキーを、思想的に中途半端な作家として批判したいのではない。都市の夢から脱出しようと願うこと、にもかかわらずその夢から離れられないこと、『テーマパーク化する地球』でも記したようにその困難はぼくの長いあいだのテーマで、そのようなぼくにとっては、むしろドストエフスキーの「中途半端さ」は、トルストイの高潔な一貫性よりもはるかに切実なものとして感じられる。とはいえこの話は、またべつの機会に続けたほうがいいだろう。 


 1941年6月に第二次大戦の東部戦線(独ソ戦)が開かれると、わずか2ヶ月でスターラヤ・ルッサはドイツ軍に占領された。2年半後にソ連軍によって解放されるまで、当地は激しい戦場となり、ほとんどの建物は破壊された。スターラヤ・ルッサがかつての繁栄の面影をまったく留めていないのは、その破壊のためである。


 そのなかでドストエフスキーの別荘は例外的に破壊を免れたため、いまも博物館になっている。ナチスの将校に作家の愛読者がいたためという説がまことしやかに囁かれているが、真偽はわからない。それでも室内にあった家具や遺品などはほとんど散逸してしまった。現在博物館のなかで見ることができる作家の書斎や食堂などのしつらえは、写真をもとにした複製である。 

 さきに『カラマーゾフの兄弟』の舞台の訪問はかねてからの夢だったと記したが、残念ながら、いまのスターラヤ・ルッサを歩いても小説の場面を想像することはほとんどできない。フョードルの家はドストエフスキーの家自体をモデルにしていたといわれる。それゆえ、博物館を起点に足取りを辿ると、たしかに、ああこれがドミートリーが父殺しのために乗り越えた塀か、これがフョードルがスメルジャコフの母を襲った路地かと見当をつけることができる。けれども、街路そのものがあまりに変貌しているので、『罪と罰』の聖地巡礼のような興奮は感じようがない。イワンとアリョーシャが対話した居酒屋のモデルは街中心の広場に面していたらしいが、そこもいまは公園とも広場ともつかないただのがらんとした空間で、ぼくは戸惑うことしかできなかった。 

 けれども、それはもしかしたら、ドストエフスキーの文学にとってはよいことだったのかもしれない。さきほど少し触れたが、スターラヤ・ルッサの古い絵葉書には、保養地のまわりの公園に大きなガラス建築が建てられ、数メートルに吹きあげる鉱泉を囲んでいたようすが記録されている。

 それがいつ建設されたものなのか、正確な年代を調べることはできなかった。もしかしたら、建設はドストエフスキーの死後かもしれない。けれども、もしそれが作家の生前に建てられ、じっさいに彼が目にする機会があったとしたら、それはまちがいなく、1851年のロンドン万国博覧会で建設され、チェルヌイシェフスキーが『なにをなすべきか』で未来社会の代名詞として用いた「水晶宮」を連想させたことだろう。 

 ドストエフスキーの文学において、水晶宮は科学の勝利の象徴だった。そしてドストエフスキーは、その勝利に抵抗するために――正確には、その勝利を認めない、認めることができないものたちの呪詛を引き受けるために、文学を書き続けた。『地下室の手記』の主人公は、水晶宮と鶏小屋ならば後者を選ぶと書きつけ、その呪詛の延長線上に『カラマーゾフの兄弟』における有名な「大審問官の対話」がある。それなのに、もしもその小説の舞台に水晶宮そっくりのガラス建築がそびえ、しかもかりに現存して観光ルートの一部になっていたとしたら、『カラマーゾフの兄弟』の読者はいったいなにを思えばよかっただろう。 


 『カラマーゾフの兄弟』のスターラヤ・ルッサは、けっして『罪と罰』のペテルブルクのようには観光地化することができない。だから、スコトプリゴニエフスクにかつて水晶宮があったことは知られることがない。それはいま、ドストエフスキーの読者にとって意図しない救いになっている。けれども、それをもたらしたのが戦争による夢=都市そのものの破壊にほかならなかったことを思えば、単純に救いともいえない。 

 夢とは、あるいは虚構とはシミュラークルとは、いいかえれば文化のことである。知識人は、文化を壊すことでしか、文化のそとには出られないのだろうか。そんなことを考えた旅だった。

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家、作家。ZEN大学教授。株式会社ゲンロン創業者。博士(学術)。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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