観光客の哲学の余白に(4) 表象の秩序と知覚の秩序|東浩紀

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初出:2017年07月21日刊行『ゲンロンβ16』

 近代ヨーロッパは、見えないもの(シンボル)を見えるもの(イメージ)よりも優位において人間を理解した。 

 けれども、見えないものを見えるものよりも優位におくことは、人間の理解としてそれほど自明なことだろうか? 人間はむしろ、見えないものの秩序と同じくらい、見えるものの秩序にも支配され、けっしてみずからの動物性を脱することができないのではないだろうか? そして、じつはまさにその人間の動物性こそが、いまやデジタルメディアとネットワークによって急速に資本主義へと組みこまれ、巨大な「帝国」の秩序を生み出している、その当のものなのではないだろうか? だとすれば、ぼくたちは21世紀においては、見えるものと見えないものを、すなわち動物の世界と人間の世界を区分し、哲学の対象を後者に限定する人文的な分割線、それそのものを放棄して哲学に取り組むべきではないだろうか? これが、本連載の、そして『観光客の哲学』の中心的な問いである。 

 この問いはメディア論と関係している。ただし、その関係を追求するためには、ここで用語法に修正を加える必要がある。議論をまえに進めるために、ここで、見えないもの(シンボル)と見えるもの(イメージ)の対立を、「表象」と「知覚」というより一般的な対立に置き換えてみたい。表象の定義は哲学的にはじつに厄介だが(さまざまなひとがさまざまな意味で使っている)、ここでは、ある知覚が、その知覚された瞬間を離れてもういちどほかのものによって心のなかに現れる、そのものや作用を広く指すものとする。 

 いくども繰り返しているように、ラカン派精神分析においては、シンボルとイメージの対立は、象徴界と想像界、超越論性と経験性、大人と幼児、すなわち人間と動物の対立に深く結びついている。それゆえ、人間は、徹頭徹尾シンボルに冒された存在だと規定されている。たとえばラカンは、無意識も、言語のように、つまりシンボルの秩序によって構造化されていると主張する。しかし、常識で考えれば、無意識はむしろ、言葉やシンボルに還元されぬ、生々しいイメージに満ちた場である。この齟齬がラカンの哲学の理解をむずかしくしている。その障害を取り除くためには、シンボルを表象に、イメージを知覚に置き換えればよい。無意識が表象の秩序で構造化されているという主張であれば、うなずく読者も多いだろう。夢のなかでぼくたちが見ているのは、知覚そのものではなく、その再現=表象であることは明らかだからだ。 

 この修正によって、本稿の問いはつぎのような問いに変わる。近代ヨーロッパは、知覚よりも表象を優位においた。人文知は表象の秩序だけを対象とした。しかしそれは妥当なのか? 人間はむしろ、表象の秩序と同じくらい知覚の秩序にも支配されているのではないだろうか? そしていま、その知覚の秩序こそが、急速に、デジタルメディアとネットワークによって、表象を介することなく、すなわち言語や論理を介することなく、直接に、そして大規模にコントロール可能なものへと変わりつつあるのではないだろうか?

  
 人類は長いあいだ知覚を記録できなかった。知覚は、だれかの心を通過し表象に変わることでしか、記録され保存されることがなかった。声は文字としてしか記録できなかった。音楽は楽譜としてしか記録できなかった。顔も風景も絵画としてしか記録できなかった。 
  
 その状況が決定的に変わるのが、19世紀である。1839年に写真(ダゲレオタイプ)が発明された。それは視覚の記録の始まりである。むろん、写真は正確には視覚そのものの記録ではない。知覚そのものの記録は21世紀のいまも実現していない。しかし、写真は絵画よりもはるかに知覚の記録に近い。 
  
 絵画は、それがどれだけ真に迫っていたとしても、あくまでもだれかの心と手が、あとから振り返って作りあげたものである。それが表象ということであり、そこにはかならず作家性と事後性がつきまとう。しかし写真は異なる。写真は、だれの心も手も介さずに生成され、だれに対しても、いつでもひとしく同じ視覚を与えると想定されたイメージである。そこには作家性もなく事後性もない。少なくともその欠如が理想として目指されている。写真にも作家性が宿るはずだと考える読者もいるかもしれないが、そのような作家性は一般には夾雑物と見なされている。「芸術写真」という特殊なジャンルの存在が、逆にこの技術への本来の期待を浮かびあがらせている。写真の範例は、報道写真であり、記録写真である。つまりは、写真は、「いまここ」の知覚を、表象の迂回なしに再現することを目指して作られた技術なのである。ここに、表象の秩序から独立した知覚の秩序の可能性が開かれた。19世紀後半には、この写真の発明に、1877年の蓄音機(フォノグラフあるいはグラモフォン)の発明と1895年の映画(シネマトグラフ)の発明が続くことになる。 
  
 知覚の秩序は、20世紀の後半、計算機の普及によって第2の段階に入る。写真と蓄音機と映画が発明されたあとも、しばらくのあいだ、写真とレコードとフィルムは異なった媒体で、人間しかそれらを横断することはできなかった。たとえば、ある写真に記録された顔とあるレコードに記録された声を結びつけることは、人間にしかできなかった。その時点では、知覚はたしかに記録され保存されるようにはなったが、そこに秩序を与えるのは人間でしかないように思われた。その点では表象の秩序はまだ知覚の秩序に優位であるように思われた。けれどその優位性もデジタル化で消えた。計算機は、写真もレコードもフィルムもすべてひとしなみに計算可能なデータへと変え、人間と表象の介在なしに、かつては人間にしかできないと思われていた多様な処理を加えることを可能にした。2017年の現在、写真から友人の顔を切り出すのは、あるいは監視カメラの映像から不審者を抽出するのは、もはや人間ではなく計算機の仕事である。そこで働くアルゴリズムは、友人や不審者を探す人間の心の動きとはなんの関係もない。知覚の秩序は、表象の秩序から遠く離れ、人間とは無縁の論理で組織され始めている。人工知能がその無縁の論理の象徴である。だから、ひとは、人工知能にこれほどまでに怯えるのである。 
  
 この第2の段階の性格については、次回以降あらためて触れることにしよう。いずれにせよ、ぼくたちはいまや、文字を介することなく声を再生し、楽譜を介することなく音楽を再生し、絵画を介することなく顔や風景の像を再生する環境にあまりに慣れている。だれの心も通過せず、だれの手も加えられていない、純粋な「いまここ」を機械的に、クリアに再生する環境があることにあまりに慣れている。しかしそのようなことができるようになったのは、否、そのような可能性が夢見られるようになったのさえ、わずかこの百数十年のことにすぎないのである。 
  
 人類は長いあいだ知覚の秩序を作れなかった。表象の秩序しか作れなかった。その限界を考慮すれば、近代西欧の哲学が、人間を理解するにあたり知覚よりも表象を重視したのは当然と言うべきかもしれない。19世紀までは、たしかに権力も表現も表象に依拠して作られるほかなかった。

 

 けれども、ぼくたちはいまや、知覚の秩序が、表象の秩序から独立して形成され、社会に浸透し、権力や表現を直接に生み出す時代に生きている。だれの心も介さない、純粋で客観的な(に見える)「いまここ」の共有が追求され、作家性と事後性を伴う表象は忌避される時代に生きている。 
  
 それは、伝統的な人文知の枠組みでは、人間性の喪失と理解されるほかなかった。そこでは、表象の秩序こそが、すなわち「見えないもの」の秩序こそが、人間の文化の基礎として定義されていたからである。しかし、21世紀のこの現実に真摯に直面するならば、ぼくたちは、その喪失こそが人間の本質なのだと理解しなければならない。大部分の人間は、計算機が生成する知覚の秩序で満足なのだ。表象などという面倒なものには、むしろかかわりたくないのである。 
  
  
 かつては表象の秩序しかなかった。いまは表象の秩序と知覚の秩序がある。これがこれからの議論の出発点となるが、『ゲンロン0』の読者であれば、ここで「国民国家」と「帝国」の二層構造論を思い起こすことだろう。 
  
 本稿で「知覚の秩序」とは(くわしくは次回以降に議論していくことになるが)、具体的には、人間の手を介さずに生み出され、人間とは無縁のアルゴリズムにしたがって複製され整序され、純粋で客観的な(に見える)「いまここ」を再生し強迫的に共有し続ける、マルチメディアデータの群れを意味している。他方で、ネグリとハートも強調していたように、帝国の権力(生権力)は、そのようなデータの管理に大きく依存することになっていた。帝国の権力と知覚の秩序は深く結びついている。だとすれば、国民国家と帝国の二層構造とは、じつは表象の秩序と知覚の秩序の記号論的な並列の政治的な表現にほかならないのだろうか? つまりは、国民国家とは表象の時代が生み出した権力形態で、帝国とは知覚の時代が生み出した権力形態なのだと、そのように対応させてよいのだろうか? 
  
 これはきわめて興味深い仮説である。とはいえ、さすがにいささか議論を急ぎすぎているようだ。次回は、こんどこそ本当に、スクリーンやインターフェイスの話に入りたい。

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家、作家。ZEN大学教授。株式会社ゲンロン創業者。博士(学術)。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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