韓国で現代思想は生きていた（4） アン・チョルス現象で揺れ動く今の韓国｜安天

　政治家でもなく、どこの政党に所属しているわけでもなく、ましてや自分は名乗りもあげていないのに、今年末に行われる韓国の大統領選挙に関する世論調査で第1位の支持率を維持し続けている人物がいる。その名はアン・チョルス（安哲秀）。チョルスは、韓国ではありふれた名前の一つだ。95年、医師兼医科大学教授という安定した職業を捨てて、7年前から自力で制作し無料配布してきたアンチウイルス・ソフトウェア分野に専念することを決断。当時は殆ほとんどお金にならなかったアンチウイルス・ソフトウェア会社を立ち上げ、紆余曲折を経て韓国におけるネット・ベンチャー起業家の草分け的存在となった。彼の政治空間への登場には劇的なものがある。そして、その過程は韓国社会の現状を見事に反映したものでもあるので、今回はその経緯を詳しく見てみよう。

　

　話は昨年の8月に遡さかのぼる。革新系のソウル市教育監（選出職）が示した小中学校の普遍的給食無償化案に対して保守与党（旧ハンナラ党）所属のソウル市長が打って出た政治的な賭けがきっかけだった。「普遍的」とは「保護者の所得と関係なく全ての生徒に」という意味である。これに反対するソウル市長のオ・セフン（呉世勲）は、対案として選別的給食無償化を提案、市長権限でこれを住民投票で決めることにし、住民投票が成立しないと辞職すると宣言した。そして8月26日、普遍的給食無償化支持派の住民投票ボイコット運動などによる住民投票不成立という結果を受け、オ市長は辞職する。学校給食に関する政策決定の権限は元々教育監のものであったため、住民投票の不成立は自動的に革新系が出した案の成立を意味していた。これでソウル市では小中学校の普遍的給食無償化が段階的に実施されることが確定した。

　一方、突然市長職が空席になったため、ソウル市では10月26日に補欠選挙が行われることになった。ソウル市長の政治的な意味合いは非常に大きい。今のイ・ミョンバク（李明博）大統領も前職はソウル市長だった。この時、政治家ではないが若者たちを中心に幅広い支持を受けている、韓国のビル・ゲイツとも言われるアン・チョルスが出馬するのではないかという情報が飛び交った。きっかけは、彼が出馬するのではないか、という「自称」アンと親しい長老政治家の発言だった。本人は何も言っていないにもかかわらず、新聞紙面では有力候補として取り上げられ、世論調査では他の既成政党所属の候補者を圧倒する結果が相次ぎ、アン・チョルス現象が始まった。これを受け、アンは出馬するか否かを悩んでいることを明らかにする。世論調査では与野党からどんな候補が出ても無所属のアンが最も多くの支持を集め、出馬すれば当選するのが確実と見られていた。にもかかわらずアンは、長らく市民運動に身を投じてきた無所属のパク・ウォンスン（朴元淳）と候補一本化をめぐる会談をし、たった17分間の話し合いの末パクに候補の座を譲り渡す。支持率50%の候補が、支持率5%の候補に道を譲るという驚きの会談結果であった。

　その後、野党は反与党勢力の候補一本化を要求する汎左派系の世論を受け止め、各党の候補とパク候補のうち一人だけを市長選候補として出し、どちらが候補になっても選挙に全面協力することを決める。ネット選出団を含む汎左派系候補の指名選挙の結果、無所属のパクが候補として選出され、10月26日のソウル市長選で与党候補を10%以上引き離して勝利する。アンの決断が、その後に続く候補一本化の流れを作ったといっても良いだろう。5%の支持率からスタートしたパクは、2ヶ月後の本番では50%以上の支持を得てソウル市長になったのだ。

　政治的常識を覆すものとして映ったアンの判断は、予想を上回る大きな反響を呼び、アン・チョルス現象は勢いを増していく。各種メディアは彼を有力な大統領候補として扱い始めた。前回論じたように、それまで大統領候補の世論調査では、右派の英雄パク・ジョンヒ（朴正煕）の娘であるパク・グネ（朴槿恵）が不動の1位だった。しかし、アンは大統領候補として扱われ始めるや否やパクを抑えて支持率1位の座についた。さらに12月、アンは彼が設立したアンチウイルス・ソフトウェア会社の株式のうち、自分の持分の半分を社会に還元すると宣言する。寄付額は約2500億ウォン、日本円で約150億円に相当する。韓国社会において彼のイメージは益々ますます良いものとなった。一方、当の本人は今のところ大統領選挙への立候補は念頭にないと言っている。

　突如政治言説のなかに姿を現したアンは、自分が政治をやると明言したわけでもないのに、なぜこれほどまで支持を受け、アン・チョルス現象と言われるほどの反響を呼んでいるのか。市民たちの既成政治家に対する不満、左右対立という古びた枠組みに対する疑問、政党政治の脆弱化など構造的な原因はいくつかあるが、それらは次回に論ずることにして、今回は彼個人の魅力というか特徴を確認しておこう。

　

　アンは95年、アンチウイルス・ソフトウェア会社の設立話を持ちかけられた際、公共機関や民間会社にはサービスを有料で提供するが、一般の個人ユーザには無料提供することを条件として提示しアン・チョルス研究所を立ち上げる。経営上の困難時もこの原則は貫かれ、韓国で使われる多くの個人用パソコンでアン・チョルス研究所（http://www.ahnlab.com）のアンチウイルス・ソフトが利用されるようになった。ITバブルが始まった97年、アメリカの大手アンチウイルス・ソフトウェア会社のマカフィーがアンに会社買収を提案する。赤字が続く会社を1000万ドルで買うという破格の条件だった。

　しかし、マカフィーにアン・チョルス研究所を売却すれば、先例からして会社は閉鎖され職員たちは職を失い、韓国のアンチウィルス・ソフト市場もマカフィーに明け渡すことになると考えたアンは、買収提案を断る。私的な利益より、社会的な公共性を重視した判断だった。幸運というべきだろうか、99年、チェルノブイリ・ウィルス（CIH）の流行により30万台にのぼるパソコンが被害を受け、アンチウイルス・ソフトに対する一般の認識が急変する。会社は黒字に転換しただけでなく大きく成長し、彼は成功したネット・ベンチャー起業家として名を馳せる。今も、アン・チョルス研究所のアンチウイルス・ソフトは全世界の個人ユーザに無料提供されており、韓国で使われる全パソコンの半分以上に入っている。

　2005年、アンは会社の経営から身を引いてアメリカに留学、2008年から韓国の大学で教鞭をとり、現在はソウル大学融合科学技術大学院の院長を務めている。その傍ら、毎回2000人以上集まる「青春コンサート」という名の一般市民向け無料講義を全国各地で開いて、韓国社会の向かうべき方向や若者たちに必要な心構えなどを説き、彼は若者たちが最も尊敬する人となった。アンはコネもバックグラウンドもなしに、実力一つで成功を勝ち取った魅力的なサクセス・ストーリーの主人公であるだけでなく、彼が今まで見せた選択の一つ一つが個人の利益より社会的な公益を優先したものとして映るため、多くの若者達は人生を設計する際の模範的なモデル・ケースとして彼を受け止めている。そしてさらには、政治的な活動まで望むようになったのである。

　彼が政治的な立場を詳しく表明したことはない。政治学者の木き村むら幹かんは今年1月24日付の『週刊エコノミスト』で次のように述べている。「彼が支持されているのは、実は彼が何の政策も意思も示していないからなのかもしれない。安氏は今のところ無色透明な存在である。そしてだからこそ、人々はそこに自らが描きたい絵を描くことができるのだ。」確かに彼が何か具体的な政策を打ち出したために支持されているわけではない。基本的には既成政治全般に対する不満と失望を感じている多くの人々が、斬新なオルタナティブとして漠然とした期待を彼に寄せていると見ていい。既存のものに対する否定という共通項の収束点としてアン・チョルス現象があるのだ。

　しかし、他方で彼は社会の進むべき方向性をある程度示してきた。そして、その内容は韓国社会が直面している問題に対する応答になる可能性を秘めている。政治的には保守与党が進めてきた現路線に反対を、経済的には財閥中心の経済構造に異を唱えている。彼が追求するのは「機会の平等」が実現される健全な資本主義社会である。ベンチャー企業を経営した彼は、韓国の大企業中心の経済構造が中小企業の成長を困難にしており、その結果、社会を活性化させる多彩なチャ㆑ンジが少なくなっていると指摘してきた。そのため、アンは財閥中心社会から中小企業中心社会へのシフトが必要であると繰り返し訴えている。

　彼が社会に還元するといった寄付金の用途も「貧困層の学生たちの学習向上」と具体的に示されている。即ち、凄まじく教育熱心な親たちによって私教育の天国と化している韓国の状況で、相対的に教育機会に恵まれていない階層の子供たちにも機会を配分することを目的とした寄付である。

　幼い時から膨大な教育費を投じられ、毎日夜遅くまで塾に通いつめ、名門大学に入学し、大手企業に正規職員として就職するという現在の韓国における中間層的な人生㆑ールから一度外れたら、再起するのは中々難しい。新自由主義化による様々な規制の撤廃は、最初は社会の流動性を高め新たなチャ㆑ンジを促す役割も果たしたが、今はもう実質的な流動性は失われ、階層固定化と経済格差の拡大が進んでいる。50%に迫る非正規職率がこれを物語っている。韓国における新自由主義化は「機会の平等」の低下と相対的な剝奪感の増大をもたらしたのだ。

　

　階層固定化が進展し、個人の努力で未来を書き換えられる可能性が低下しつつある中、アン・チョルスは身を以てそれが可能であることを認識させ、若者たちに希望を与えただけでなく、段々そのような可能性が閉ざされていく現状を批判し、可能性を拡大させるための道筋を探ることで若者たちの視点に立ったビジョンを提示した。これが、彼に期待が集まる理由の一つである。

　加えて、今まで有力な大統領候補として挙げられてきた人たちと比べ、アンはかなり異なった話法を用いることも指摘しておくべきだろう。彼は、韓国で社会について論ずる際に使われてきた伝統的な話法をあまり用いない。「伝統的な話法」とは人文学的知識に基づく、既存の左右対立の枠組みのなかで通用したイデオロギー的なニュアンスを伴う概念群の多用を意味する。医者、エンジニア、経営者として仕事をしてきた彼は、政治言説のなかで使い古された言葉ではなく、技術的・経済的なタームや思考法で社会を語る。話法自体が政治言説からはみ出ているのだ。そのため、もし彼が政治家になるとしたら、話法の相違で苦労することになるかもしれない。あるいは、その話法が斬新さを際立たせるかもしれない。

　果たして彼が政治家に変身するか否か、それはわからない。1月末には記者の質問に対して「最近は与野党ともに内部改革に力を入れており、このまま進めば敢えて僕のような人まで政治について考える必要はなくなると思う。」と答え、今のところ政治参加に否定的であることを示唆した。しかし、彼の人気は衰えない。人民は彼に何かを託しているのだ。総選挙と大統領選を控えている今年は、韓国政治にとってアン・チョルス現象のショックで揺れ動く1年になるだろう。