韓国で現代思想は生きていた(7)「ネット実名制」の一生──韓国で行われた「大実験」|安天

初出:2012年10月31日刊行『ゲンロンエトセトラ #5』
1 匿名の両面性
インターネットが登場してから、絶えず議論されている問題が一つある。それは、ネットにおける「匿名の権利」はどこまで保障されるべきか、という問題だ。当初からインターネットは、匿名での表現が広く保障されることをその特徴としていた。ここまでたくさんの人たちが、自分が誰なのかを明かさずに、思うことや感じることをおおっぴらに表現する自由を謳歌したことが人類の歴史上あっただろうか。匿名性はネット文化を論ずる上で欠かすことのできない基本要素になっている。
ネット上の匿名性を徹底的に先鋭化することで独特な存在感をもつに至ったのがウィキリークスである。ウィキリークスは内部告発者の身元がばれないようなシステムを作り上げ、イラクにおけるアメリカ軍の民間人虐殺をカメラに収めた軍内部の動画や、アメリカの在外公館が収集し内密に本国へ報告していた文書など、膨大な量の機密情報を手に入れ、全世界に公開していった。「徹底した匿名性の保障は情報の流通を妨げる壁を打ち破り、よりオープンで透明な情報空間を作り出す」という一つの哲学を、ウィキリークスは体現しているといってよい。匿名であることは、発話や情報提供に伴う責任やリスクを大幅に低下させるため、匿名性の保障は発話や情報提供の自由度を上昇させ、情報の流れも増加する。
しかし、匿名性の保障は多くの問題をも引き起こしている。発言に伴う責任が下がったことで、公開されてしかるべき重要機密情報を人々が知るようになったが、それと同時に根拠のないデマから悪意のある誹謗中傷に至るまで、膨大な量のノイズが拡散するようになった。時によっては、一つの事柄に対して相反する情報がネット上でいくつも飛び交うようになり、真偽の程を判断しかねる事態も起きている。匿名性は流通する情報の質を低下させる副作用を伴うのだ。匿名性がもつ負の側面が、特定の個人や団体に対する攻撃に集中し、その個人や団体が計り知れない被害を受けることさえある。
2 ある極端な処方箋──韓国のネット実名制
この問題に極端な処方箋を出したのが韓国である。ある条件を満たしたサイトにコメントを残す際には、具体的な個人情報も一緒に登録することを義務付け、必要な場合コメントを書いた人を特定できるようにしたのだ。
2007年から施行されたこの制度の正式な名称は「制限的本人確認制」だが、一般的に「(インター)ネット実名制」と呼ばれている。現在まで、これほど極端な措置を取った国はほとんどなく、非常に変わった制度だ。少し大げさに言えば、大掛かりな社会的実験だったともいえる。
今年の8月23日、この「ネット実名制」に対して韓国の憲法裁判所が違憲判決を下し、国を挙げての「大実験」にはとりあえず終止符が打たれた。しかし、それ以前にすでに「ネット実名制」は環境の変化によって矛盾だらけで、無力な制度と化していた。どうしてそうならざるをえなかったのか。日本でもネットにおける「匿名の権利」は議論の絶えないテーマであり、韓国の「大実験」はこの問題を考える際、大いに参考になるだろう。
3 制度の具体的な内容
2007年に韓国で「ネット実名制」が施行されたのは、大きく二つの理由からである。一つ目は、ネット上の発言のうち政治的言説が占める割合が大きい韓国社会らしいというべきか、選挙などにおいて匿名を悪用し、匿名で間違った情報を流布させることで選挙に影響を及ぼすことを防げるようにしよう、というもの。二つ目は、悪意のある誹謗中傷から個人や団体を守るため、というもの。
ネットの利用が普及するにつれ、デマと誹謗中傷でコメント欄が埋め尽くされる現象が起きるようになる。韓国ではこういった炎上に傷つき、歌手やタレントが自殺することもあった。そのため、ネットにおける発言に責任を付随させるべきだ、と考える人たちが増えるようになる。そして2006年、左派系と言われた当時の与党が立案し法案が成立、2007年7月から施行された。
「ネット実名制」と呼ばれてはいるものの、書き込み自体はペンネームでできるため、普通の利用者がその書き込みを見て、書いた人の実名を知るわけではない。ただ、データと照合し、本人確認を済ませた人だけが書き込むことができるため、いざという時、捜査機関などは誰が書き込んだのか把握できる。また、正式な名称が「制限的本人確認制」であるように、すべてのネット上の書き込みに本人確認が必要なのではなく、公共機関や30万人以上が利用するネット・サービスに限って、という条件においてのみ本人確認が義務付けられた(のちに基準が10万人以上に変わる)。
4 本人確認の方法
「本人確認」という言葉に違和感を覚える読者も多いだろう。「どうやってネット・サービス業者が、書き込む人の記入する情報で本人か否かを確認できるというのだ?」という疑問が生じるはずだ。ここにまず、韓国社会の一つの特殊性がある。韓国ではこれが簡単にできてしまうのだ。
韓国国民ひとりひとりには、「住民登録番号」という固有の識別番号が割り振られている。1968年1月、北朝鮮の少人数特殊部隊が大統領を暗殺するため、大統領官邸近くまで侵入する事件があった。この事件をうけて、当時のパク・ジョンヒ(朴正熙)大統領は、北朝鮮のスパイと韓国国民を容易に識別できるよう、国民に固有番号を割り振る制度を1968年11月に導入する。
この「住民登録番号」はその後、生活の隅々で使われるようになり、ほとんどの韓国国民は自分の番号を暗記している。覚えていない人は「お前スパイだろ?」とからかわれるのがオチだ。13桁の数字で構成された「住民登録番号」は、それ自体がかなりの個人情報を含んでいる。まず、最初の6桁の数字は生年月日で作られる。7桁目は性別で決まり、8〜11桁は出身地域で決まる。個人情報の塊みたいなものだ。
ネットにおける本人確認は、この住民登録番号と名前で行われる。上述の条件に当てはまるサイトに意見を書き込む際には、住民登録番号と名前の記入を先に要求される。記入した住民登録番号と名前が一致すれば、本人として確認されたことになり、ペンネームでの書き込みができるという仕組みだ。
5 施行後の経緯
2007年の調査によると、ネット実名制施行後、全コメントのうち「悪意あるコメント」が占める割合は15.8%から13.9%に若干下がった(「制限的本人確認制「風船効果」なかった」、『디지털데일리(デジタル・デイリー)』、2007年10月4日。http://www.ddaily.co.kr/news/news_view.php?uid=29556)。これを効果があったと見るべきかどうかは微妙である。数値上の低下は見られるものの、匿名の自由を制限したことによる社会的な損失を考慮すれば、決して満足できる数値ではないからだ。ともかく、ネット実名制が施行されても、「悪意あるコメント」が大幅に減ることはなかった。
2008年10月、一時韓国で最も有名な女優として名を馳せたチェ・ジンシル(崔眞實)氏が、ネットにおけるバッシングなどの理由で自殺する。彼女は明るく健気なイメージを前面に出してトップに上りつめた女優だったため、自殺という最期は特に大きなショックをもたらした。一部では「ネット実名制では匿名の弊害を十分に排除できていない。ネット顕名制を導入すべきだ」という意見まで台頭した。「顕名制」とは、ペンネームではなく、実名を公開して書き込むようにする制度を意味する。早くも「ネット実名制」の実効性は疑問視されるようになった。
6 ユーチューブ、ツイッター、フェイスブック
2009年4月1日、グーグルが運営するユーチューブも「ネット実名制」の適用サイトに指定される。グーグルはこれに抗議し、ユーチューブ・コリア(kr.youtube.com)のコメント欄自体を閉鎖、また韓国からのコンテンツ・アップロードを停止した。韓国はグーグルが自発的にコンテンツ利用を制限した初めての国となった。
しかし、ここには迂回方法が残されていた。それも、笑ってしまうようなものだ。ユーチューブはIPを基準に国家設定をするのではなく、利用者に国家設定を選ばせる。すなわち、国家設定を韓国以外にして、利用言語を韓国語にすれば、それまでどおり韓国語を利用して韓国にいながらコンテンツのアップロードとコメントの書き込みができたのだ。一国単位での「ネット実名制」がいかに無力なのかが明らかになった瞬間であった。
ツイッターとフェイスブックの登場は、「ネット実名制」をさらに無意味なものにした。最近のポータル・サイトやニュース・サイトは、直接コメントを書き込むだけでなく、ツイッターやフェイスブックを利用してコメントを書き込むサービスを提供しているところが多い。そして、ツイッターやフェイスブックは韓国法人がないため、国内法である「ネット実名制」の適用外となる。
まったく同じ記事に対して、直接コメントを書き込む際は「ネット実名制」を守らなければならないが、ツイッターやフェイスブック経由で書き込めば「ネット実名制」を守らなくてもよい、というおかしな状態になったのである。こうして結果的に「ネット実名制」は、ただの理不尽な規制になりさがった。憲法裁判所の違憲判決が出る前から、国内法が適用されないネット・サービス業者によって「ネット実名制」は骨抜きにされていたのである。
日本においても匿名の弊害に対処する方法の一つとして、制度的な制限を設け、実名使用を一部義務化する案が提示されたりする。しかし、韓国の事例を見れば実名制を導入するか否かを決める以前に、一国単位での導入自体がほぼ無意味であることがわかる。インターネット・サービスは国家の枠組みにとらわれない、自律した空間を作り上げつつあるからだ。これからも倫理的に実名化が必要か否かという議論は続くだろう。しかし、実名制の導入は現実的に見て、少なくとも当分の間は難しいということを、韓国の事例は示している。住民登録番号制度がある韓国でさえ実名制は有効に機能しなかったのだ。


安天
1974年生まれ。韓国語翻訳者。東浩紀『一般意志2・0』『弱いつながり』、『ゲンロン0 観光客の哲学』、佐々木中『夜戦と永遠』『この熾烈なる無力を』などの韓国語版翻訳を手掛ける。東浩紀『哲学の誤配』(ゲンロン)では聞き手を務めた。
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