世界は五反田から始まった(08) 軍需工場|星野博美

初出:2019年08月30日刊行『ゲンロンβ40』
胃潰瘍の手術
私が「祖父の手記」と呼んで参照している一連の書きものを祖父が書き始めたのは、1973年8月7日だった。
手術(筆者注 1973年6月16日)前丈夫な時の体重が六十四k位あったのが、今八月七日、五十三kに減ってしまいました。胃を三分の二切り取り少量の食事ですので、当分は増へないでせう。
今の所、食事以外に用がないので、七十年間永い間今迄の色々あったこと等、書いて見たいと思ひます。
6月16日に行われたのは胃癌の手術だった。インフォームドコンセントなどまだ存在しない時代だから、本人には「胃潰瘍の手術」を行うと伝えられ、しかも手術は成功したことになっていた。実際は想定以上に癌の進行が早く、なすすべもない手術だったにもかかわらず。それから自宅療養に入った祖父は、残された時間はあまりないと悟ったのか、死ぬまでの10ヶ月間をかけて便箋に思いを書き始めたのである。
私は7歳だった。祖父が熱心に何かを書き始めたことはよく覚えている。なぜならそれが私には、大変不満だったからだ。
ラジオ体操や学校の水泳教室から帰ると、「子どもは大人のいる部屋で過ごすこと」というわが家の掟に従い、相変わらず祖父母の部屋で過ごしていた。入院する前の祖父は、花札やサイコロやビールの空き瓶でさんざん遊んでくれたものだったが、退院したら別人になったように大きな机に向かい、一心不乱に何かを書いていた。私たちが囲むべきは机ではなく、ざぶとんなのだ。おもしろくない。ちょっかいを出す。最初のうちはおざなりにかまってくれるが、そのうち「おばあちゃんと遊びなさい」と放り出す。
「おじいちゃんはこのごろ、サービスがわるいね!」
そんな暴言を吐く始末だった。
仕方がない。小さいから、祖父がもうすぐ死ぬであろうことをまったく知らなかった。両親が言うように、「いかいようのしゅじゅつ」が成功したから退院したのだと信じていたし、日を追うごとに数が増えていく見舞客も、「よくなったから会いに来た」のだと思っていた。すべては逆だったのだ。
前回も書いたように、それはワープロに起こしてA4で25枚に過ぎない短いものである。最後の数か月はほぼ寝たきりだったので、書く体力があったのはおそらく半年に満たなかったのではないだろうか。祖父が想定したより、ずっと早く死は訪れた。
私がちょっかいを出して邪魔をしたりしなければ、あと1枚、2枚は、長く書けたかもしれないと思うと、胸が痛む。
脱線癖
さて、読み始めた頃は祖父の家族関係や来歴を詳しく知らなかったため、人名や地名の確認に苦労した。さらに祖父は、小学校高等科2年の1学期を終えた時点で中退し、芝白金三光町の工場で働くために13歳で上京した、いわゆる学のない人間である。誤字は多いし、話題はあちこちへ飛ぶしで、「ここをもっと読みたかったのに」と感じることもしばしばだった。
たとえばこんな具合だ。
結婚してから五年子宝にめぐまれなかったが、昭和八年、待望の男子が誕生した。丁度節分二月四日でした。目方は八百二十匁、西五反田の工場へ引っ越してからである。名前は英男とつけた。
この「西五反田の工場」は、下大崎から戸越銀座へ移るまでの3年ほど暮らした場所である。前にも述べたように、ゲンロンカフェからすぐ近くの、目黒川沿いにあった。
ようやく第1子である私の父が誕生した喜びを書き、しばらくこの話題が続くのだろうと思いきや、いきなり話題が飛ぶ。
その頃素人野球が流行しだした。私の工場でも人数は九人ようやくでしたが、チームを造れるようになった。然し試合場所取りに一苦労でした。朝早く起き品川や芝浦埋立地迄行きネットを張って待機しなければならないのです。少しでもおそいと場所がなくなるのです。いつも成績は悪く、勝った事がない位でした。
当初は祖父特有のこういう脱線に出くわすたび、苦笑したものだった。もっと大事なことがあるだろう。その頃起きた重大ニュースとか、ひたひたと忍び寄る戦争の気配とか。
しかし自分が歳を重ねたいまでは、こんな枝葉の部分にこそ惹かれる。
想定される読者は家族のみ。そんな場で、妙に客観的になったり、かっこつけたりする必要がどこにあろう。真面目な話を書こうとすると、次々と楽しかった思い出が脳裏によみがえり、ついつい脱線してしまう。祖父にとっては、大好きな野球をするため、星野製作所のユニホームを作ったり誰かを球場へ場所取りに行かせたりすることも、ことのほか大切だったのだろう。
さらに祖父にとって手記は、お世話になった方々への感謝という位置づけだったらしく、お世話になった取引先の名前がつらつらと登場する。西五反田時代、つまり昭和8~11(1933~1936)年の祖父の取引先は、東京瓦斯の指定工場だった「近所」の磯村産業株式会社、芝白金三光町の椎橋合金、品川の樋口合金、大崎の伊藤合金、大崎の松井合金などだった。いずれも大五反田域内である。
戦争の気配が登場し始めるのは、21ページだ。西五反田から戸越銀座へ引っ越した翌年の記述である。
昭和十二年、満州の方で支那軍と日本関東軍の間でいざこざが起こりだんだんひどくなった。とうとう七月に戦争の第一歩、支那事変が始まった(注 七月七日の盧溝橋事件)。方々で召集され穏やかではなくなって来た。弟子の貝塚藤吉(注 星野製作所の従業員で、岩和田出身の親戚)も召集された。田舎の生家の星野哲次郎(注 祖父の姪の夫)も召集された。兵役関係者はびくびくして居た。
工場もだんだん軍需品を造る様になり、小工場迄仕事が変って来た気がした。歌謡曲等も次第に軍歌調に変って来た。
大崎の在郷軍人仲間で詩吟の会を造って練習して居る方が居た。私も取引の有るメッキ工場柳原氏のすすめで入会させてもらった。中々勇壮で腸一ぱい歌ふので気持ちがよかった。
盧溝橋事件を皮切りに始まった日中戦争の長期化が見こまれると、総力戦遂行のため、国家のあらゆる資源を統制し、運用する権限を政府に与える委任立法が、昭和13(1938)年、第1次近衛内閣のもとで交付・施行された。「国家総動員法」である。これは労務、資金、物資、物価、企業、動力、運輸、貿易、言論など、国民生活の全分野を統制する権限を政府に与えたもので、これに基づいて国民徴用令、生活必需物資統制令をはじめ、無数の勅令が発せられた。
祖父の経営する星野製作所も、もちろん影響は避けられなかっただろう。大工場を頂点とし、裾野に町工場が位置するヒエラルキー型の工業形態はいわば、生産ラインが町に広がった状態と言える。親工場が軍需品を扱えば、町工場も自動的にその末端部品を作ることになる。大工場の周囲に町工場が乱立するという、独自の形で発展した東京の工業地帯は、日中戦争を機に、「地域全体がゆるやかな軍需工場」のような様相を呈し始めたと言えはしないか。

祖父が作っていたもの
祖父は当時、どのような「品物」(うちでは製品のことをこう呼ぶ)を作っていたのだろう。
世田谷の笹塚に桜ゴム株式会社といふ会社有、主としてゴムホースとそれに附帯する継手金具を造って居た軍需工場があった(今でも現存です)。私の得意先の緑工業所さんが取引して居たのでいつもそこの仕事をして居た。継手金具、特に砲金鋳物仕上は私の方で造って居た。
つまりお得意さんである緑工業所(場所は不明)の紹介で、桜ゴムという軍需工場の下請けを始めたわけだ。「軍需」の登場で、取引先が大五反田域外に出たことになる。
ゴムホースとそれに付帯する継手金具、という観点に立てば、桜ゴムが頂点に君臨する。しかし桜ゴムが納品した製品は、他の各種部品とともにさらに上のヒエラルキーに吸収され、最終形態に組み立てられていく。気体や液体を送るゴムホースと金具が使われる最終形態は、それこそ多岐に渡る。素人頭でも、消火設備や何かを噴射するもの、空調設備等々が想像できる。
「継手金具」の画像をネットで検索してみた。これは……幼い頃、うちの工場にゴロゴロあった金属製品がこういうものだった。こんな真鍮製のネジを1つ1つ古新聞で包み、木箱に詰めるのをよく手伝った。ちょっとしたおこづかいをもらえたからだ。当時それらが使われたのは、消火用スプリンクラーや、銭湯の湯舟で空気を噴射する(いまでいうジャグジー)部品だった。

私の幼少期に父が作った品物は、最も近場を挙げると、五反田の東京卸売センター(通称TOC)の地下駐車場用スプリンクラーに使われていた。うちは当時、目黒にある「ホーチキ」という、その語感からしてもちろん火災報知器関連を扱う会社の下請けをしていた。そのことを誇らしく感じていた父は、納品後もたびたびTOCの駐車場に出かけ、スプリンクラーを眺めたという。
「スプリンクラーってのは、火災が起きなきゃ動かない。必死で作った品物が、どうか動きませんように、って祈らなきゃならない。おかしなもんだ」とは父の弁である。
平和な時代は、駐車場のスプリンクラーやジャグジー部品で済む。しかし戦時中はそうはいかないだろう。
木型屋が5日間で木型を作り、それに金属を流しこんで鋳物屋(三共合金)が鋳物に仕上げるのに6日間。それが星野製作所に納品され、7日間で仕上げた、ということだ。そして厳しいテストを経て桜ゴムに納品され、軍に渡る。
軍から依頼を受けて星野製作所が作った品物は、最終的に何に使われたのだろう。手記には書かれていない。幼少期のことだから、さすがに父もわからないと言う。手掛かりはないものかと、ダメで元々でネット検索してみた。
「スプリンクラーってのは、火災が起きなきゃ動かない。必死で作った品物が、どうか動きませんように、って祈らなきゃならない。おかしなもんだ」とは父の弁である。
平和な時代は、駐車場のスプリンクラーやジャグジー部品で済む。しかし戦時中はそうはいかないだろう。
軍の突貫仕事はよく来た。図面が来て二十日間で仕上げる様とのきつい達し。鋳物四k位三組合せ金具五十組から百組位の数が多かった。木型屋が五日間、鋳物工場が六日間、機械加工仕上が一週間、然も仕上寸法もうるさく納期間が厳しいのでよく午后十二時頃迄やって間に合せた事がある。鋳物屋は蒲田の三共合金へ注文したが、よく間に合せてくれた。納期に仕上りテストも合格した時は気分も格別です。桜ゴム会社の方も喜んでくれた。
木型屋が5日間で木型を作り、それに金属を流しこんで鋳物屋(三共合金)が鋳物に仕上げるのに6日間。それが星野製作所に納品され、7日間で仕上げた、ということだ。そして厳しいテストを経て桜ゴムに納品され、軍に渡る。
軍から依頼を受けて星野製作所が作った品物は、最終的に何に使われたのだろう。手記には書かれていない。幼少期のことだから、さすがに父もわからないと言う。手掛かりはないものかと、ダメで元々でネット検索してみた。
「桜ゴム」というのは、いまも渋谷区笹塚に本社を置く櫻護謨(さくらごむ)株式会社だった。大正7(1918)年に「各種ゴム製品製造を目的として」創立された会社で、戦時中は「陸・海軍軍需工場に指定」された、とホームページに書かれている。
大五反田の工業地帯としての発展は、大正3~7(1914~1918)年の第1次世界大戦がきっかけだったと前回書いたが、櫻護謨もそのタイミングでの創業だったとは、興味深い。
ついでに、父が下請けをしていた「ホーチキ株式会社」(本社は品川区上大崎)も調べてみた。こちらも大正7(1918)年の創業であった……。
櫻護謨に話を戻すと、現在の事業は消防防災部門、航空宇宙機器部門、工業用品部門、不動産賃貸業に分かれている。
消防防災部門では「消防ホースをはじめ、様々な消防・防災用品、救助資機材を製造・販売しています。今日も日本のどこかで、市民の安全を守る消防士が、私たちの作ったホースを手に火災と戦っているのです」という。
注目するのは航空宇宙機器部門だ。
「航空機用金具、ホース、ゴム部品等を製造・販売しています。航空自衛隊、ボーイング社等の認定工場となっており、その技術力・品質は高く評価されています。宇宙航空研究開発機構(JAXA)のH-ⅡA/H-ⅡBロケットのエンジンチュービングも櫻護謨の製品が使われています」
そして、航空自衛隊の戦闘機の写真が掲載されていた。
祖父の作った継手金具は、もしかしたら戦闘機の一部に使われたかもしれない。
うすうす感じてはいたが、その可能性はぐっと高まった。
大五反田の工業地帯としての発展は、大正3~7(1914~1918)年の第1次世界大戦がきっかけだったと前回書いたが、櫻護謨もそのタイミングでの創業だったとは、興味深い。
ついでに、父が下請けをしていた「ホーチキ株式会社」(本社は品川区上大崎)も調べてみた。こちらも大正7(1918)年の創業であった……。
櫻護謨に話を戻すと、現在の事業は消防防災部門、航空宇宙機器部門、工業用品部門、不動産賃貸業に分かれている。
消防防災部門では「消防ホースをはじめ、様々な消防・防災用品、救助資機材を製造・販売しています。今日も日本のどこかで、市民の安全を守る消防士が、私たちの作ったホースを手に火災と戦っているのです」という。
注目するのは航空宇宙機器部門だ。
「航空機用金具、ホース、ゴム部品等を製造・販売しています。航空自衛隊、ボーイング社等の認定工場となっており、その技術力・品質は高く評価されています。宇宙航空研究開発機構(JAXA)のH-ⅡA/H-ⅡBロケットのエンジンチュービングも櫻護謨の製品が使われています」
そして、航空自衛隊の戦闘機の写真が掲載されていた。
祖父の作った継手金具は、もしかしたら戦闘機の一部に使われたかもしれない。
うすうす感じてはいたが、その可能性はぐっと高まった。
(つづく)
いま広く読んでほしい、東京の片隅から見た戦争と戦後


星野博美
1966年東京・戸越銀座生まれ。ノンフィクション作家、写真家。『転がる香港に苔は生えない』(文春文庫)で第32回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『コンニャク屋漂流記』(文春文庫)で第2回いける本大賞、第63回読売文学賞「紀行・随筆」賞受賞。主な著書に『戸越銀座でつかまえて』(朝日文庫)、『島へ免許を取りに行く』(集英社文庫)、『愚か者、中国をゆく』(光文社新書)、『のりたまと煙突』(文春文庫)、『みんな彗星を見ていた―私的キリシタン探訪記』(文春文庫)、『今日はヒョウ柄を着る日』(岩波書店)など、写真集に『華南体感』(情報センター出版局)、『ホンコンフラワー』(平凡社)など。『ゲンロンβ』のほかに、読売新聞火曜日夕刊、AERA書評欄、集英社学芸WEBなどで連載中。
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