世界は五反田から始まった(24) 焼け野原(1)|星野博美

シェア
初出:2020年12月25日刊行『ゲンロンβ56』
 1971から1972年にかけて、わが家は大改装を行った。うちは工場も自宅も、何度となく改装を繰り返してきた。家族関係に変化が生じたり、工場で働く工員たちのライフスタイルが変わったりすると、それに合わせた空間へ変更せずにはいられないのが父の性格で、その年の改装は、同居していた父の弟が結婚して外へ出たためのものだった。

 同じ場所に暮らしながら改装を繰り返すと、封印された思わぬものが出現することがある。どうせ同じ家族が住むのだから、完全に壊して掘り返したりせず、上から板を張って簡易に済ませる。要は費用をうかせるためだ。だからうちは、自宅は窓の数が、室内から数えるのと屋外からとでは食い違っているし、工場のほうは窓だけでなくドアの数も食い違っている。開かずの窓、開かずのドアが存在するのだ。

 わが家が直近に行った改装は2007年だが、その際には地中から、私が幼少期に使っていた浴室のタイルが発掘された。埃まみれのタイルのいろどりを目にしただけで、そこにあった檜の風呂桶のヌルヌルした手触りや、お気に入りだった赤と白の船のオモチャなど、当時の記憶がフラッシュバックする。とうの昔に死に絶えた、自分たちの遺跡の上に暮らしているような、妙な気分に陥ったものだ。

 1971から1972年の大改装は、私の人生に照らせば、幼稚園から小学校へ上がる年にあたった。うちには威勢のよい大工が日々出入りし、いつも木の香りが充満していた。若い大工のテキパキした仕事ぶりに感銘を受け、大工になりたいと思った。

 この改装による最も大きな変化は、トイレが汲み取り式から水洗の洋式便座に変わったことだ。改装完了の直後に入学した品川区立の小学校は、2年次が修了するまでは汲み取り式便所だったので、学校より2年も早く水洗化した私は得意だった。

 そしてその大改装で、うちの庭から「宝」が発掘されたのだ。

お宝の発掘


 改装で庭を掘り返したところ、宝が発掘された。

 そんな大ニュースを、父は夕食の時間に、「あ、そういえば」という感じで発表した。

 父がその時、厳密にどう言ったかは記憶にない。宝ではなく、金属、と言ったかもしれない。

 とにかく私はとっさに、「宝」と解釈した。脳裏に思い描いたのは、時代劇に出てくる小判だ。金属でできた宝といえば、それしか思い浮かばなかった。

「見せて!」と言うと、「もう売ってしまった」と言う。大ニュースをただちに発表しなかったうえ、宝を家族に見せず即座に売ってしまった。あまりに淡々とした父の行動に、不満は募るばかりだった。

 宝をすぐに売ったのは、よほどの価値があったからだろう。幼い頭には、小判のイメージが強化されるばかりだった。

 戦後の東京では、不発弾が地中から発見されることが珍しくなかった。最も近い記憶があるのは、私がすでに社会人となって一人暮らしを始めたあとだったので、1990年代初めの頃だと思う。近所の家を壊す際に地中から大きな不発弾が発見され、半日間、近隣住民に避難勧告が出たことがあった。ちょうどその時、母が胆石の手術で入院中だったため、うちの家族は全員、母が入院する大田区・洗足池の荏原病院に避難することにした。当時阿佐ヶ谷のアパートに住んでいた私は、阿佐ヶ谷のほうが安全だったにもかかわらず、なんとなく家族とバラバラになることを恐れ、わざわざ洗足池まで出向いた。

「これで不発弾が本当に爆発したら、胆石に命を救われたことになるね」

 そんな冗談を言って笑ったものだった。

 不発弾は無事に除去されて町には平穏が戻り、私も阿佐ヶ谷へ帰った。

 その頃だった、うちから発掘された「宝」に疑問を持ち始めたのは。

 うちから発掘された宝は、もしかしたら、戦時中に空襲を想定した祖父が埋めた金属部品だったのではないだろうか?

 しかし当時は戦争にさしたる興味もなく、自分の生存に手一杯で、そのまま確認もせずに終わってしまった。

お宝の正体


 庭から発掘された宝の話を覚えているかどうか、宝を実際に見たかどうかを、最近になってようやく、家族全員に尋ねた。
 なんと、誰も覚えていなかった。実際、見て触れて売ったはずの父も覚えていない。「そんな話、あったような気はするね」という、なんとも曖昧な回答だった。

 家族があまりにきれいさっぱり忘れているので、いつの間にか自分が捏造したのだろうか? と、いささか不安になる。しかし、多分捏造ではない。なぜなら、深く掘ればもっといろいろ出てくるのではないか、庭のどこを掘ったらいいだろうか、と、庭を見ながら考えた記憶が残っているからだ。

 私は父に、自分の見立てを伝えた。祖父が戦時中に埋めた金属部品ではないだろうか。うちの商売は鮮魚店や青果店ではなく、町工場で、扱っていたのは真鍮だ。真鍮なら、空襲であたりが火の海になっても、焼け残る。金属のよいところは、熱で形が変わったとしても、溶かしてまた別の形に再生できる点だ。金属は半永久なのだ。

「多分、そうだな」と父も同意した。「あんまり覚えてないけど」

 前にも触れたように、わが家は昭和18(1943)年から埼玉県の越ヶ谷に疎開し、祖父だけが単身赴任のような形で東京に残ったため、父は自分の家が焼かれた空襲を体験していない。それを見ていないのは仕方ないのだが、敗戦直後の焼け野原や、混乱した東京の状況くらいは覚えていないのだろうか。

「知らないよ。戸越に戻ったの、高2の9月だから」

 それは初耳だった。祖父以外の家族は終戦を迎えてもそのまま越ヶ谷に住み続け、昭和24(1949)年9月、ようやく戸越銀座に戻ってきたのだという。父が秋から編入したのは、大崎広小路にある立正高校だった。

 祖父はずいぶん用心深かったようだ。焼け野原から工場を再建し、軌道に乗るまでは東京に家族を呼び戻さなかった。

 だから父には、戦争の記憶があまりないのか……。「戦争の話を全然覚えていない!」と、私が非難するのはお門違いだった。

 私は再度、お宝に話を戻し、仮にそれが祖父の埋めた金属だとして、なぜそれを家族に見せて公開する間もなく、手放してしまったのかを尋ねた。

「多分、俺が速攻で売ったんだろうな」

 うちの工場には、金属の粉を引き取りにくる鋳物屋さんが出入りしていた。真鍮を削って出る砲金粉は、ドラム缶に詰め、缶が満杯になると鋳物屋に売る。それはけっこうばかにできない金額で取引されたので、毎日弁当箱に少しずつくすねて集め、小遣い稼ぎをした工員もいたほどだった。

 地中から発見された戦時中の金属部品を、私はあくまでも、祖父にまつわる歴史的遺物のような視線で見つめているのに対し、父はどこまでも、製品の原材料としか見ていない。工場の経営者とは、そういうものなのかもしれない。

城南大空襲


 空襲で家と工場が焼かれたにもかかわらず、父がそれを体験しなかったため、空襲については大きな空白があるのが、わが家の事情だ。だから私も、空襲については外部の情報を通して知るしかない、というねじれ現象が起きている。

 戸越銀座一帯が焼け野原になったのは、昭和20(1945)年5月24日未明の空襲である。


この日、品川、荏原と旧大森を中心に隣接する目黒、港の各区に投下された焼夷弾の量は三六四五・七トン、一平方マイル当たり二二五~二五〇トン、総量で三月一〇日の下町大空襲の二倍という膨大なものであった。★1


 3月10日の2倍の焼夷弾が落とされた……? にわかには信じがたく、品川区史をあたってみた。


 一九四五年五月二四日深夜、旧品川と旧荏原の両区は、B-29による全都で最大規模の空襲を受けた。
 品川区は、三十五区のなかでは被害は少ない方であった。(中略)一〇・一六平方キロメートルのうち三・九〇キロメートルが罹災した(罹災率三八・三九%)。とくに、三・八平方キロメートルの荏原区は、その三・六八キロメートルが罹災し罹災率は九五・七八%で、区のほとんど全部焼き尽くされたことになる。なおこの率は三五区内で最高だった。★2


 品川区は、戦前は品川区と荏原区に分かれていた。この2つの位置関係は、左を向いて口を大きく開くゴジラの頭が品川区、ゴジラの口から噴き出される炎が荏原区、と思ってくれればよい。具体的にいうと、国鉄の駅があった目黒、五反田、大崎──品川駅は芝区に入った──、大井町といったメジャーな町は品川区に含まれ、人口密集地の戸越銀座や武蔵小山、西小山、中延、旗の台などは荏原区に入った。
 

旧品川区と旧荏原区の位置関係 作成=編集部
 

 つまり大工場の林立した品川区の罹災率が38%で、その下請けを請け負った町工場が密集する場所の罹災率が約96%という、非対称性が起きていたことになる。

 そんな激烈な空襲だったにもかかわらず、この空襲についてはなぜかあまり語り継がれていない。単純に疑問に思った。

 



 ここで東京の空襲について流れを見ておきたい。

 太平洋戦争下において、米軍が初めて東京に空襲を行ったのは、1942(昭和17)年4月18日の、いわゆるドーリットル空襲である。前年の12月8日に日本軍がハワイの真珠湾を急襲したことはあまりに有名だが、その4か月後、米軍が初めて日本本土に実施した爆撃、それがドーリットル空襲だ。これは東京が経験する初の空襲であるとともに、米軍による日本本土に対する初めての空襲だった。現在の品川区も、この空襲で被害が出た。米軍の空母艦から飛び立った16機のB-25は東京、川崎、横浜、横須賀、名古屋、神戸などを奇襲し、飛び去った。

 本連載第9回でも触れたが、祖父はこの空襲を間近で目撃していた。


十七年四月十八日正午頃、突然空襲警報がなって人々を驚かせた。私も隣組の指導員をして居たのですぐ表へ出て見た。多摩川方面から飛行機一機が来た。米機か日本の飛行機か判らないが高航砲は飛行機目がけて撃って居た。一般の人々は演習をやって居るのだろうとぐらい思って居た。丁度私の工場の上をテイ空で飛んで行った。すぐ其後裏の隣組の方から大声あり、バクダンが落とされたから応援頼むとの事。すぐかけつけた。五、六名防空ゴウに埋まって居た。大急ぎで掘り返し全員助けたが中に手を合わせ拝んで居る婦人も居た。隣の町会では七、八名の死者が出たが初めて出会った空襲でどぎもを抜かれた。又白昼一機で空襲に来た敵機のダイタンさにも驚いた。(祖父の手記より)


 この奇襲を機に、祖父は疎開を考え始めた。「毎朝の様に新聞を見ては出かけてみたが適当な所はなかった」が、とうとう取引先の人が住んでいた家を手に入れ、越ヶ谷へ家族を疎開させることができた。つまり米軍による初めての本土奇襲攻撃を、たまたま間近で目撃したため、他の地域の人より早く疎開を考え始めた、ともいえるのだ。

 ちなみにこの作戦は、日本と交戦中であり、連合国の一員である中華民国の国民革命軍の支援を受けていた。奇襲後の米軍機は太平洋上の空母に戻らず、そのまま日本上空を通過して国民政府支配地域(1機はウラジオストック)へ向かった。品川エリアを襲撃したB-25第9番機は中国の撫州ぶしゅう、10番機は衢州くしゅうへ不時着している。品川は、米軍機を通して中国とつながっていた。

 



 このゲリラ的奇襲から約2年半、東京上空に米軍機は姿を現さず、本格的な空襲が始まったのは昭和19(1944)年11月。それから敗戦の日までの約9か月間、東京は断続的空襲に見舞われることになる。


戸越の住居の床下と裏庭には四、五名入る防空ゴウを造った。空襲の時は主に裏庭の方へハイって退避した。夜一人で入った時はいつバクダンでやられるかわからないなんともいへない心細さであった。隣の裏の工場はバクダンの部品を造って居たが、独身者の若い工員が二名で働いて居た。(中略)工場に防空ゴウがないので、空襲時にはよく『おぢさん入れてくれよ』とよく歩いて一緒に入った。一人は奄美大島の出身だとか。奄美大島が敵軍に上陸されたらおれは仕事はしない、とふてくされて居た。(祖父手記)


 東京が受けた空襲のなかで、最も悪名高いのはもちろん、1945年3月10日の大空襲である。この爆撃で江東方面は一夜にして廃墟と化し、約10万人に近い死者を出した。

 1日に出した死者の数という点では、日中戦争から太平洋戦争敗北に至る全戦場で、20万人の死者を出した8月6日の広島の原爆禍に次ぐものといわれる★3

 東京大空襲を指揮した米軍のカーチス・E・ルメイ少将の有名な発言がある。


私は日本の民間人を殺していたのではない。日本の軍需工業を破壊していたのだ。日本の都市の家屋はすべてこれ軍需工業だった。スズキ家がボルトを作れば、お隣のコンドウはナットを作り、お向かいのタナカはワッシャを作っているというぐあいなのだ。ドイツも工場を分散していたが、日本の工業の分散ぶりははるかに徹底したもので、東京や名古屋の木と紙でできた家屋の一軒一軒が、すべてわれわれを攻撃する武器の工場になっていたのである。これをやっつけてなにが悪いことがあろう。★4


 これは、非戦闘員の人命を軽視した無差別爆撃を正当化する発言として知られ、確かに非人道的ではあるのだが、軍需工場の下請けをしていた人間の末裔としては、一理はあるのだよな、と思わざるを得ない。少なくとも荏原地区では、ホシノ家がボルトを作り、裏の工場で爆弾を作っていたのだから。


米軍機による最初の空襲(昭和十七年四月十八日)から、品川・荏原では被害を蒙ったが、十九年十一月二十四日以降、あたかも定期便のように飛来したB29の空襲は、物的被害のみならず区民に甚大な精神的ショックを与えた。二十年五月二十四日の空襲は、最大の被害をもたらし、品川区の死者六八名、重傷者五七三名、全焼家屋九、五四〇戸、罹災者三四、四五九名といわれ、荏原区では死者一八四名、重傷者一、七一二名、全焼家屋一五、〇〇〇戸、罹災者六万名にのぼった。それまですでに罹災していた部分をあわせ、地域全体は焼け野原と化した。★5


 ふつうに読み進め、え? と立ち止まる。

 全焼家屋の数は多いものの、品川区と荏原区を合わせた死者は252名である。

 3月10日空襲と比べると、死者の数がケタ違いに少ない。もちろん、この空襲で亡くなった人の命を軽んじるつもりはない。しかし3月10日に比べて単位面積あたり2倍の焼夷弾を降らされたにもかかわらず、なぜこれだけ死者数に差が出たのか?

 東京の空襲と一口に言っても、知らないことだらけだった。

★1 川上允著、「品川の記録」編集委員会監修『品川の記録 戦前・戦中・戦後――語り継ぐもの』、本の泉社、2008年、115頁。
★2 東京都品川区編『品川区史 通史編』、1974年、760‐761頁。
★3 『東京大空襲・戦災誌』第2巻、東京空襲を記録する会、1973年、16頁。
★4 奥住喜重、早乙女勝元著『東京を爆撃せよ』、三省堂、1990年、246頁。
★5 品川区文化財研究会著、東京にふる里をつくる会編『品川区の歴史』、名著出版、1998年、243頁。
いま広く読んでほしい、東京の片隅から見た戦争と戦後

ゲンロン叢書|011
『世界は五反田から始まった』
星野博美 著

¥1,980(税込)|四六判・並製|本体372頁|2022/7/20刊行

星野博美

1966年東京・戸越銀座生まれ。ノンフィクション作家、写真家。『転がる香港に苔は生えない』(文春文庫)で第32回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『コンニャク屋漂流記』(文春文庫)で第2回いける本大賞、第63回読売文学賞「紀行・随筆」賞受賞。主な著書に『戸越銀座でつかまえて』(朝日文庫)、『島へ免許を取りに行く』(集英社文庫)、『愚か者、中国をゆく』(光文社新書)、『のりたまと煙突』(文春文庫)、『みんな彗星を見ていた―私的キリシタン探訪記』(文春文庫)、『今日はヒョウ柄を着る日』(岩波書店)など、写真集に『華南体感』(情報センター出版局)、『ホンコンフラワー』(平凡社)など。『ゲンロンβ』のほかに、読売新聞火曜日夕刊、AERA書評欄、集英社学芸WEBなどで連載中。
    コメントを残すにはログインしてください。

    世界は五反田から始まった

    ピックアップ

    NEWS