当事者から共事者へ(8) 再生と復興のナラティブ|小松理虔

初出:2020年11月20日刊行『ゲンロンβ55』
小松理虔さんの大好評連載「当事者から共事者へ」、11月20日配信予定の『ゲンロンβ55』より第8回を先行公開します。
福島県双葉町の「東日本大震災・原子力災害伝承館」で感じた違和感とはいったい何か? その土地の傷と向き合い、トラウマを統合して未来を目指す「復興のナラティブ」を立ち上げるための思索の結晶です。どうぞお読みください。(編集部)
福島県双葉町の「東日本大震災・原子力災害伝承館」で感じた違和感とはいったい何か? その土地の傷と向き合い、トラウマを統合して未来を目指す「復興のナラティブ」を立ち上げるための思索の結晶です。どうぞお読みください。(編集部)
これが今の、双葉郡の「等身大」なのかもしれない。それが、ぼくの感想だった。展示されたもの、展示されなかったもの。それらすべてが、今の精一杯の現実なのだと。
先日、ふと思い立ち、福島県双葉町にある「東日本大震災・原子力災害伝承館」を見てきた。グーグルで検索すると、自宅からおおよそ80分と出る。常磐自動車道に新しく「大熊インターチェンジ」が完成したこともあり、意外なほど近い。天気のいい朝だった。小名浜を出発し、豊間や薄磯といった津波被災地域を通る県道を抜け、国道6号線(ロッコク)を北にひた走る。そして、四倉インターチェンジから常磐道へと入り、大熊インターを目指した。
常磐道では、とにかくトラックを目にした。特に、大熊・双葉両町に広がる中間貯蔵施設へと持ち込まれる除染土を運ぶダンプが目立つ。いわき中央インターチェンジ以北の常磐道は、まだ片側1車線の箇所が長い。前にノロノロ運転のトラックがいると数珠つなぎで車列ができる。これならロッコク(国道6号線)を北上したほうがマシだったかな、と思うことも多いのだが、常磐道はロッコクよりも内陸にあり、しかも高い位置を走っている。ロッコクとは異なる視線になるのだ。それを確認したくて、ぼくはロッコクと常磐道をよく使い分ける。この日は常磐道だ。内陸は内陸で、また異なる現実が見て取れる。
真新しい大熊インターから下道に降り、周囲の風景を見て、少し暗い気持ちになった。インター「だけが」新しいからだ。あたりを見渡せば、あらゆる住宅の前に、人の侵入を拒絶するゲートが置かれている。ふと目をやると、家の前の雑草は10年分の成長を見せていた。10年。そこに落ちていた松ぼっくりが、すっかり松の若木になる、それほどの月日。ロッコク沿いの風景ばかりを見ていたぼくは、改めて、その風景がロッコク以外の部分にも広がっていたことを知った。
この地域では「新しい地域づくり」が始まっている。地域を除染し、市街地エリアを新たに整備し、人が住める地域を区画し直す。またあるいは、「イノベーションコースト構想」のように、研究機関や企業を誘致して、新しい産業を興そうとしている。こうして「新しい地域づくり」と言葉にすると、何かこの地域に新しい未知のフィールドが広がっているかのように感じるかもしれない。
けれど、「新しい地域」なんて本当はなくて、どの地域にもぼくらが生きてきた数十年の人生より圧倒的に太く長い歴史があったんだな、ということを考えずにいられなかった。
そもそも「新しい地域づくり」などほとんど不可能だ。ぼくたちはいつだって膨大な死の上に立っている。だからこそ地域は難しい。
ここには、まぎれもなく暮らしがあったのだ。その事実を、車道の両側の風景が伝えていた。

【図1】新しい大熊インターチェンジ

【図2】道路ですれ違う車の多くは除染土を運ぶトラックだった

【図3】10年分の成長を見せていた松の木
帰還困難区域内を10分ほど走るとロッコクに合流する。ちょっと前は震災当時の姿をとどめていた建物でも、一部は解体され、敷地ごと整地されているところがあった。それだけ復興が進んだわけだ。この夏にあるはずだった東京オリンピックを当然意識したのだろう。特定復興再生拠点区域(帰還困難区域内で、新たに居住可能と定めることができるようになった地域)であるJR大野駅周辺や大野駅西側の下野上地区、町役場のある大川原地区などでは新しいまちをつくる工事も始まっている。しかし、この地域全体がかつての風景を取り戻すことはない。大熊町のロッコク以東の地域のほとんどが中間貯蔵施設の用地に指定されているからだ。町の復興再生計画によると、中間貯蔵施設の用地は、東京ドーム234個分の1100ヘクタール。特定復興再生拠点区域の860ヘクタールよりも広い。それでも、未曾有の原子力災害の被災地に新たな暮らしを取り戻そうという取り組みに尽力してきた人たちの苦労を思うと、よくぞここまで、と頭を下げるほかない。計画によれば、一部先行エリアの避難指示が解除された2019年度から5年で、特定復興再生拠点区域の生活・社会インフラを整備し、2600人の居住人口を目指すとしている。
震災時、およそ21000人の人口があった浪江町では、2019年3月に町民のおよそ8割が住んでいた市街地エリアの避難指示が解除された。それから1年半が経った今年9月時点での人口は1467人だそうだ。まだ1割も戻っていない。震災時、15000人の人口があった富岡町では、福島第一原発に近い町北部以外のすべてのエリアで避難指示が解除となった。現在の人口は1500人で、こちらは1割を回復したところだ。これから復興が進めば、じわじわと人口は回復していくはずだが、それでも震災前の人口を完全に回復することはないだろう。大熊町は、どの程度再生していくのだろう。
ロッコクを北上すると双葉町に入る。双葉町は、JR双葉駅の西側を先行的に再生するほか、町の東側の中野地区で「復興産業拠点整備事業」を行う計画になっている。「東日本大震災・原子力災害伝承館」も、その中野地区にある。双葉駅と中野地区とを結ぶ道路は「復興拠点アクセス道路」として整備される予定だ。道路そのものは開通していて、ぼくもその道路を通った。真新しいアスファルトが眩しいほどだ。しかし、それとは裏腹に、伝承館のあるエリア以外は、区画は整理されているのにススキとセイタカアワダチソウが伸び放題に生い茂っている。まだ「新しい地域づくり」は見えてこない。東京湾岸の埋立地のような場所なら「イノベーションコースト構想」のような言葉もしっくりくる。ここは、そうではない。どうしたって「ここにあったもの」を思い描いてしまうのだ。いくらここに「新しい地域を」「ここはまっさらな土地だ」と華々しいコピーを作っても、そこにあった歴史をまとう空気までは刷新できない。

【図4】ロッコクから双葉駅方面を望む。まだ手つかずの建物も多い

【図5】農協の建物の時計は14時46分を示していた

【図6】双葉の若者たちが描いたというグラフィティ
伝承館は、その真新しさをまとった土地に建っていた。立派な建物だった。
チケットを購入して中に入ると、まず最初に、横幅8メートル近いスクリーンのある部屋に入る。オープニングのムービーを見るそうだ。福島県を代表する俳優、西田敏行さんの「福島訛り」のナレーションで、それは始まった。だれもが発展を求めた高度経済成長の時代、この地域に原子力発電所が誘致された。ここで作られるエネルギーは、この地ばかりでなく、首都圏の発展を、そして日本を支えた。しかし、その数十年後、地震と津波に襲われた原発で事故が起き、多くの人が避難を余儀なくされた。地域は大きな苦境に立たされるが、それでも、県民の強い思いに支えられ、今まさに復興の途上にある。そこには光も影もある。だから、これからの未来のことを、皆さんと一緒に考えたい。そんなことが語られていた。
こういう映像は、これまでなんども見てきた気がする。なんとなく、復興系の大型イベントで再生されそうな映像だな。そんな気がした。
ムービーが終わり、スクリーンを取り囲むように設計されたスロープを登ると、その壁には、「東日本大位震災・原子力災害関連年表」とあり、これまでの地域の歴史が白黒写真で記載されていた。最初に書かれているのは「1884 常磐炭鉱創業」だった。目を右側に移すと、そこから石炭火力ができ、原発ができたという流れになっている。意外だった。というか、少し唐突だった。双葉町や大熊町のそもそもの歴史に触れることなく、いきなり炭鉱から始まる歴史。つまり、この伝承館の伝えたい歴史は、エネルギー産業を受け入れた「後」なのだ。
年表は、原発事故、住民の避難と帰還、各自治体の避難指示の解除や、常磐線の復旧などポジティブなニュースにも触れながら、現在に至る。観覧者は、最初のムービーとスロープの年表で、原発が誘致された背景や、事故後の混乱、復興への歩みをざっくりと知ることができるというわけだ。とてもわかりやすいと感じたし、初めてこの地を訪れる人にとっては、ここで何が起きたのかを知る入口になると思った。
スロープを登り切ると、資料展示ブースだ。ブースは5つに分かれている。震災前の暮らしを紹介する「災害の始まり」、事故直後の対応や記録を伝えようという「原子力発電所事故直後の対応」、証言や思い出を語る「県民の想い」、長期化する災害の影響を科学的に分析した「長期化する原子力災害の影響」、今後の将来像などを紹介する「復興への挑戦」の5つだ。実際の展示がどうだったか、個別の展示については、皆さんに見てもらいたいので詳細には語らない。いくつかの印象的な展示に言及しながら、全体としてどのようなイメージを受け取ったかを書いていく。

【図7】中野地区の新しい復興拠点となる敷地。遠くに防潮堤も見える

【図8】真新しい伝承館
すべての展示室を見てまず率直に思ったのは、意外なほど、何も印象に残らなかったということだった。子どもたちの学校に展示されていた壁新聞や、学校に残された文房具などは、幼い子を持つ親としては心に強く訴えかけるものがあったし、住民の避難について紹介するブースでは、住民がいかに辛い思いをしていたのか、よく伝わってきた。廃炉の現状を伝えるブースも非常にわかりやすい。大きな図が展開されていて、的確に情報を伝えているとは思う。ところが、なぜか心にほとんど残らなかった。特に後半、震災後の復興を伝える展示は、対外的に発せられた情報パネルのような展示が多く、これまでに資料やメディアなどを通じて知っていたからだろう。「伝承」というからには、原発事故の教訓を伝える展示や、双葉町や双葉郡のこれまでの暮らしぶりを伝えるような展示があると思っていた。が、実際には、どちらかというと資料館、情報館といったほうがふさわしい展示かもしれない。
なぜだろう。なぜ強く印象に残らなかったのだろうと振り返ると、1つの結論にたどり着く。この伝承館には、この地にどのような歴史や文化があったのか、そして、原発事故がなぜ起きたのかということを語る展示がないということだった。
先日、ふと思い立ち、福島県双葉町にある「東日本大震災・原子力災害伝承館」を見てきた。グーグルで検索すると、自宅からおおよそ80分と出る。常磐自動車道に新しく「大熊インターチェンジ」が完成したこともあり、意外なほど近い。天気のいい朝だった。小名浜を出発し、豊間や薄磯といった津波被災地域を通る県道を抜け、国道6号線(ロッコク)を北にひた走る。そして、四倉インターチェンジから常磐道へと入り、大熊インターを目指した。
常磐道では、とにかくトラックを目にした。特に、大熊・双葉両町に広がる中間貯蔵施設へと持ち込まれる除染土を運ぶダンプが目立つ。いわき中央インターチェンジ以北の常磐道は、まだ片側1車線の箇所が長い。前にノロノロ運転のトラックがいると数珠つなぎで車列ができる。これならロッコク(国道6号線)を北上したほうがマシだったかな、と思うことも多いのだが、常磐道はロッコクよりも内陸にあり、しかも高い位置を走っている。ロッコクとは異なる視線になるのだ。それを確認したくて、ぼくはロッコクと常磐道をよく使い分ける。この日は常磐道だ。内陸は内陸で、また異なる現実が見て取れる。
真新しい大熊インターから下道に降り、周囲の風景を見て、少し暗い気持ちになった。インター「だけが」新しいからだ。あたりを見渡せば、あらゆる住宅の前に、人の侵入を拒絶するゲートが置かれている。ふと目をやると、家の前の雑草は10年分の成長を見せていた。10年。そこに落ちていた松ぼっくりが、すっかり松の若木になる、それほどの月日。ロッコク沿いの風景ばかりを見ていたぼくは、改めて、その風景がロッコク以外の部分にも広がっていたことを知った。
この地域では「新しい地域づくり」が始まっている。地域を除染し、市街地エリアを新たに整備し、人が住める地域を区画し直す。またあるいは、「イノベーションコースト構想」のように、研究機関や企業を誘致して、新しい産業を興そうとしている。こうして「新しい地域づくり」と言葉にすると、何かこの地域に新しい未知のフィールドが広がっているかのように感じるかもしれない。
けれど、「新しい地域」なんて本当はなくて、どの地域にもぼくらが生きてきた数十年の人生より圧倒的に太く長い歴史があったんだな、ということを考えずにいられなかった。
そもそも「新しい地域づくり」などほとんど不可能だ。ぼくたちはいつだって膨大な死の上に立っている。だからこそ地域は難しい。
ここには、まぎれもなく暮らしがあったのだ。その事実を、車道の両側の風景が伝えていた。



帰還困難区域内を10分ほど走るとロッコクに合流する。ちょっと前は震災当時の姿をとどめていた建物でも、一部は解体され、敷地ごと整地されているところがあった。それだけ復興が進んだわけだ。この夏にあるはずだった東京オリンピックを当然意識したのだろう。特定復興再生拠点区域(帰還困難区域内で、新たに居住可能と定めることができるようになった地域)であるJR大野駅周辺や大野駅西側の下野上地区、町役場のある大川原地区などでは新しいまちをつくる工事も始まっている。しかし、この地域全体がかつての風景を取り戻すことはない。大熊町のロッコク以東の地域のほとんどが中間貯蔵施設の用地に指定されているからだ。町の復興再生計画によると、中間貯蔵施設の用地は、東京ドーム234個分の1100ヘクタール。特定復興再生拠点区域の860ヘクタールよりも広い。それでも、未曾有の原子力災害の被災地に新たな暮らしを取り戻そうという取り組みに尽力してきた人たちの苦労を思うと、よくぞここまで、と頭を下げるほかない。計画によれば、一部先行エリアの避難指示が解除された2019年度から5年で、特定復興再生拠点区域の生活・社会インフラを整備し、2600人の居住人口を目指すとしている。
震災時、およそ21000人の人口があった浪江町では、2019年3月に町民のおよそ8割が住んでいた市街地エリアの避難指示が解除された。それから1年半が経った今年9月時点での人口は1467人だそうだ。まだ1割も戻っていない。震災時、15000人の人口があった富岡町では、福島第一原発に近い町北部以外のすべてのエリアで避難指示が解除となった。現在の人口は1500人で、こちらは1割を回復したところだ。これから復興が進めば、じわじわと人口は回復していくはずだが、それでも震災前の人口を完全に回復することはないだろう。大熊町は、どの程度再生していくのだろう。
ロッコクを北上すると双葉町に入る。双葉町は、JR双葉駅の西側を先行的に再生するほか、町の東側の中野地区で「復興産業拠点整備事業」を行う計画になっている。「東日本大震災・原子力災害伝承館」も、その中野地区にある。双葉駅と中野地区とを結ぶ道路は「復興拠点アクセス道路」として整備される予定だ。道路そのものは開通していて、ぼくもその道路を通った。真新しいアスファルトが眩しいほどだ。しかし、それとは裏腹に、伝承館のあるエリア以外は、区画は整理されているのにススキとセイタカアワダチソウが伸び放題に生い茂っている。まだ「新しい地域づくり」は見えてこない。東京湾岸の埋立地のような場所なら「イノベーションコースト構想」のような言葉もしっくりくる。ここは、そうではない。どうしたって「ここにあったもの」を思い描いてしまうのだ。いくらここに「新しい地域を」「ここはまっさらな土地だ」と華々しいコピーを作っても、そこにあった歴史をまとう空気までは刷新できない。



前史なき展示
伝承館は、その真新しさをまとった土地に建っていた。立派な建物だった。
チケットを購入して中に入ると、まず最初に、横幅8メートル近いスクリーンのある部屋に入る。オープニングのムービーを見るそうだ。福島県を代表する俳優、西田敏行さんの「福島訛り」のナレーションで、それは始まった。だれもが発展を求めた高度経済成長の時代、この地域に原子力発電所が誘致された。ここで作られるエネルギーは、この地ばかりでなく、首都圏の発展を、そして日本を支えた。しかし、その数十年後、地震と津波に襲われた原発で事故が起き、多くの人が避難を余儀なくされた。地域は大きな苦境に立たされるが、それでも、県民の強い思いに支えられ、今まさに復興の途上にある。そこには光も影もある。だから、これからの未来のことを、皆さんと一緒に考えたい。そんなことが語られていた。
こういう映像は、これまでなんども見てきた気がする。なんとなく、復興系の大型イベントで再生されそうな映像だな。そんな気がした。
ムービーが終わり、スクリーンを取り囲むように設計されたスロープを登ると、その壁には、「東日本大位震災・原子力災害関連年表」とあり、これまでの地域の歴史が白黒写真で記載されていた。最初に書かれているのは「1884 常磐炭鉱創業」だった。目を右側に移すと、そこから石炭火力ができ、原発ができたという流れになっている。意外だった。というか、少し唐突だった。双葉町や大熊町のそもそもの歴史に触れることなく、いきなり炭鉱から始まる歴史。つまり、この伝承館の伝えたい歴史は、エネルギー産業を受け入れた「後」なのだ。
年表は、原発事故、住民の避難と帰還、各自治体の避難指示の解除や、常磐線の復旧などポジティブなニュースにも触れながら、現在に至る。観覧者は、最初のムービーとスロープの年表で、原発が誘致された背景や、事故後の混乱、復興への歩みをざっくりと知ることができるというわけだ。とてもわかりやすいと感じたし、初めてこの地を訪れる人にとっては、ここで何が起きたのかを知る入口になると思った。
スロープを登り切ると、資料展示ブースだ。ブースは5つに分かれている。震災前の暮らしを紹介する「災害の始まり」、事故直後の対応や記録を伝えようという「原子力発電所事故直後の対応」、証言や思い出を語る「県民の想い」、長期化する災害の影響を科学的に分析した「長期化する原子力災害の影響」、今後の将来像などを紹介する「復興への挑戦」の5つだ。実際の展示がどうだったか、個別の展示については、皆さんに見てもらいたいので詳細には語らない。いくつかの印象的な展示に言及しながら、全体としてどのようなイメージを受け取ったかを書いていく。


すべての展示室を見てまず率直に思ったのは、意外なほど、何も印象に残らなかったということだった。子どもたちの学校に展示されていた壁新聞や、学校に残された文房具などは、幼い子を持つ親としては心に強く訴えかけるものがあったし、住民の避難について紹介するブースでは、住民がいかに辛い思いをしていたのか、よく伝わってきた。廃炉の現状を伝えるブースも非常にわかりやすい。大きな図が展開されていて、的確に情報を伝えているとは思う。ところが、なぜか心にほとんど残らなかった。特に後半、震災後の復興を伝える展示は、対外的に発せられた情報パネルのような展示が多く、これまでに資料やメディアなどを通じて知っていたからだろう。「伝承」というからには、原発事故の教訓を伝える展示や、双葉町や双葉郡のこれまでの暮らしぶりを伝えるような展示があると思っていた。が、実際には、どちらかというと資料館、情報館といったほうがふさわしい展示かもしれない。
なぜだろう。なぜ強く印象に残らなかったのだろうと振り返ると、1つの結論にたどり着く。この伝承館には、この地にどのような歴史や文化があったのか、そして、原発事故がなぜ起きたのかということを語る展示がないということだった。
双葉郡が、大熊町や双葉町がどのようなまちだったのかを、伝承館の展示はほとんど語らない。最初にある「災害の始まり」のブースが、その語らなさを端的に表していた。そこには、「双葉」の名が、標葉郡と楢葉郡が合併したことが由来になっているということ、地域のシンボルが「双葉ダルマ」であることしか記載されていなかったのだ。この2つ以外には、ほとんど、この地の文化や歴史を語る記述はない。いや、正しくは、壁に展示された写真や、町民インタビューなどで語られてはいる。しかしそれはあくまで展示としては「添え物」であって、伝承館として、福島県として、明確な言葉で双葉の歴史を伝えようとはしていない。
ここは博物館や歴史資料館ではないから必要ないという声もあろう。けれども、震災や原発事故は、その地域の文化や暮らしに傷をつけた。それを知るには、この土地にどのような歴史や文化があったのか、それがいかに町民の暮らしや誇りに根づいていたのか、どのような文化的な価値があったのかなどを資料とともに語る必要がある。
津波の犠牲者に関する言及がほとんどないのも気になった。伝承館の建っている双葉町の津波被害に関する説明もない。再生拠点として生まれ変わる前、この場所はどういう場所だったのか。どのような歴史を持っていたのかまったくわからないので、犠牲について思い馳せることもできない。この伝承館には、追悼、慰霊の概念が抜け落ちている。
歴史的な文脈がないから、どことなく軸を失った展示に見えるのかもしれない。先ほど書いたように、ここにあるのは、あくまで「エネルギー産業」以後の歴史でしかない。ぼくがいわき市で文化や歴史を語るときにも、同じ課題にぶち当たるのでよく分かる。いわきを語ろうとすると、どうしても炭鉱「以後」になってしまうのだ。それよりも前に豊かな文化があったにもかかわらず、それに目が向かなくなる。それが、エネルギー産業を受け入れた土地に共通する課題かもしれない。
もうひとつ気になったことがある。なぜ原発事故が起きたのか。どのようなメカニズムで事故が起きたのか、津波対策はどうだったのか、国の安全神話はいかにして作られたのかなど、原子力政策や、原発事故そのものに関する検証や記録が、ほとんどないのだ。その一方で、復興や復旧に携わってきた人たちの声は、とても充実している。事故直後、どのように行動し、どのような意志を持って事態に当たったのか。現場の声はしっかりと伝えられているのだ。事故「後」の充実ぶりと、事故「前」の語られなさのバランスの悪さが、ぼくはとても気になった。
この土地にあった文化や歴史も、事故がなぜ起きたのかも、極めて重要な論点であるはずだ。ところが、それらへの強い問題意識は伝承館の展示からは感じられなかった。情報としてはよくわかる。展示されているものも多い。他にも現場からいろいろなものを収集したのだろう。けれど、この施設がいったい何を次の世代に伝承したいのかが見えてこない。もしかしたら、それらの文物をどうやって展示したらいいのかすら、よくわからないままオープンしてしまったのではないかと勘ぐってしまうほど、何も展示されていない感じがした。軸がない。空洞。ぽっかりと穴が空いたような、そんな感じ。
ここは博物館や歴史資料館ではないから必要ないという声もあろう。けれども、震災や原発事故は、その地域の文化や暮らしに傷をつけた。それを知るには、この土地にどのような歴史や文化があったのか、それがいかに町民の暮らしや誇りに根づいていたのか、どのような文化的な価値があったのかなどを資料とともに語る必要がある。
津波の犠牲者に関する言及がほとんどないのも気になった。伝承館の建っている双葉町の津波被害に関する説明もない。再生拠点として生まれ変わる前、この場所はどういう場所だったのか。どのような歴史を持っていたのかまったくわからないので、犠牲について思い馳せることもできない。この伝承館には、追悼、慰霊の概念が抜け落ちている。
歴史的な文脈がないから、どことなく軸を失った展示に見えるのかもしれない。先ほど書いたように、ここにあるのは、あくまで「エネルギー産業」以後の歴史でしかない。ぼくがいわき市で文化や歴史を語るときにも、同じ課題にぶち当たるのでよく分かる。いわきを語ろうとすると、どうしても炭鉱「以後」になってしまうのだ。それよりも前に豊かな文化があったにもかかわらず、それに目が向かなくなる。それが、エネルギー産業を受け入れた土地に共通する課題かもしれない。
もうひとつ気になったことがある。なぜ原発事故が起きたのか。どのようなメカニズムで事故が起きたのか、津波対策はどうだったのか、国の安全神話はいかにして作られたのかなど、原子力政策や、原発事故そのものに関する検証や記録が、ほとんどないのだ。その一方で、復興や復旧に携わってきた人たちの声は、とても充実している。事故直後、どのように行動し、どのような意志を持って事態に当たったのか。現場の声はしっかりと伝えられているのだ。事故「後」の充実ぶりと、事故「前」の語られなさのバランスの悪さが、ぼくはとても気になった。
伝承館の「弱さ」
この土地にあった文化や歴史も、事故がなぜ起きたのかも、極めて重要な論点であるはずだ。ところが、それらへの強い問題意識は伝承館の展示からは感じられなかった。情報としてはよくわかる。展示されているものも多い。他にも現場からいろいろなものを収集したのだろう。けれど、この施設がいったい何を次の世代に伝承したいのかが見えてこない。もしかしたら、それらの文物をどうやって展示したらいいのかすら、よくわからないままオープンしてしまったのではないかと勘ぐってしまうほど、何も展示されていない感じがした。軸がない。空洞。ぽっかりと穴が空いたような、そんな感じ。
なぜ展示されていないのだろう。ぼくは、2つの仮説を立ててみた。「展示できなかった説」と「展示する必要がなかった説」、この2つだ。
まず、第1の仮説。伝承館は、そもそも展示できるような状態ではなかった。この土地は、まだ、自分の地域で何が起き、何が奪われ、何が残ったのかを直視できないような、あまりにも傷の深い状態、とても弱い状態なのかもしれない。辛い状態のまま、いろいろなものは収集したけれど、それをいかに展示し、配置し、伝えていくのか、何も決められないまま、復興五輪に合わせるため、場だけがオープンしてしまったのではないか、とぼくは思った。
その弱さは、例えるなら、まだ自分の傷やトラウマ、目の前の現実に向き合うことができないまま、一方で「復興」の強さを演じなければいけないという、ある種の「解離状態」が生み出しているように思えた。その「解離状態」は展示にも見て取れた。先ほどぼくは、そもそもの歴史に関する記述や、原発事故についての詳細な検証記録などはほとんど展示されていなかったと紹介した。一方で、その後の復興の取り組みについてはとても充実した展示がある。それこそまさに「解離」だと感じた。原発事故の被害によって生じた全地域的なトラウマにより、原発事故の「前」と「後」を統合できなくなってしまい、展示に通底する軸を見失ってしまった。そう考えることはできないだろうか。
その「弱い展示」からは、もうこれ以上、この土地をネガティブに取り扱ってほしくない、傷をほじくり返さないでほしい、できることなら、そっとしておいてほしい。そんな、傷ついた双葉の声が聞こえるような気がするのだった。だからか、この伝承館を批判的に語るのは申し訳ないという思いも生まれてくる。
思えば、東電が運営する富岡町の「廃炉資料館」には強い軸があった。地域の人たちに大きな傷を与えてしまったという加害者としての軸。あるいは、科学の力、日本の力で必ずや復興を成し遂げるんだ、この地域は再生していくんだというマッチョな軸。語りの軸があるからこそ、ぼくたちは、展示を見て賛同したり共感したり、逆に強く批判したくなったりする。「東電史観の資料館だ」とよく言われるが、それだってそこに「東電史観」という軸があるからだ。その廃炉資料館と比べて、やはり伝承館には軸が感じられない。だれが、どの立場で、だれに、何を、伝えたいのかが、よくわからない。だからぼくは、まだ「展示できる状態にないのかもしれない」と感じた。
なぜぼくが「解離」などという言葉を用いるに至ったかというと、今年8月、富岡町のコミュニティスペースで精神科医の斎藤環さんのオンライン講演を聞いたからだ。東北を舞台に繰り広げられている「みちのくアート巡礼キャンプ」のプログラムであった。内容は、震災や原発事故ではなく、斎藤さんがコロナ後に書き上げた「コロナ・ピューリタニズム」に関するものだったが[★1]、講演の中で斎藤さんはこんなことを語っていた。「トラウマは、ナラティブとして統合されることでアイデンティティの一部となり、忘れ得ぬ記憶として定着する」と。伝承館の展示を見て、ぼくは、ふとそのことを思い出した。
まず、第1の仮説。伝承館は、そもそも展示できるような状態ではなかった。この土地は、まだ、自分の地域で何が起き、何が奪われ、何が残ったのかを直視できないような、あまりにも傷の深い状態、とても弱い状態なのかもしれない。辛い状態のまま、いろいろなものは収集したけれど、それをいかに展示し、配置し、伝えていくのか、何も決められないまま、復興五輪に合わせるため、場だけがオープンしてしまったのではないか、とぼくは思った。
その弱さは、例えるなら、まだ自分の傷やトラウマ、目の前の現実に向き合うことができないまま、一方で「復興」の強さを演じなければいけないという、ある種の「解離状態」が生み出しているように思えた。その「解離状態」は展示にも見て取れた。先ほどぼくは、そもそもの歴史に関する記述や、原発事故についての詳細な検証記録などはほとんど展示されていなかったと紹介した。一方で、その後の復興の取り組みについてはとても充実した展示がある。それこそまさに「解離」だと感じた。原発事故の被害によって生じた全地域的なトラウマにより、原発事故の「前」と「後」を統合できなくなってしまい、展示に通底する軸を見失ってしまった。そう考えることはできないだろうか。
その「弱い展示」からは、もうこれ以上、この土地をネガティブに取り扱ってほしくない、傷をほじくり返さないでほしい、できることなら、そっとしておいてほしい。そんな、傷ついた双葉の声が聞こえるような気がするのだった。だからか、この伝承館を批判的に語るのは申し訳ないという思いも生まれてくる。
思えば、東電が運営する富岡町の「廃炉資料館」には強い軸があった。地域の人たちに大きな傷を与えてしまったという加害者としての軸。あるいは、科学の力、日本の力で必ずや復興を成し遂げるんだ、この地域は再生していくんだというマッチョな軸。語りの軸があるからこそ、ぼくたちは、展示を見て賛同したり共感したり、逆に強く批判したくなったりする。「東電史観の資料館だ」とよく言われるが、それだってそこに「東電史観」という軸があるからだ。その廃炉資料館と比べて、やはり伝承館には軸が感じられない。だれが、どの立場で、だれに、何を、伝えたいのかが、よくわからない。だからぼくは、まだ「展示できる状態にないのかもしれない」と感じた。
なぜぼくが「解離」などという言葉を用いるに至ったかというと、今年8月、富岡町のコミュニティスペースで精神科医の斎藤環さんのオンライン講演を聞いたからだ。東北を舞台に繰り広げられている「みちのくアート巡礼キャンプ」のプログラムであった。内容は、震災や原発事故ではなく、斎藤さんがコロナ後に書き上げた「コロナ・ピューリタニズム」に関するものだったが[★1]、講演の中で斎藤さんはこんなことを語っていた。「トラウマは、ナラティブとして統合されることでアイデンティティの一部となり、忘れ得ぬ記憶として定着する」と。伝承館の展示を見て、ぼくは、ふとそのことを思い出した。
心の奥にしまっていたトラウマを、カウンセラーや医師との対話を通じて外在化させることで、少しずつ辛い出来事に新たな意味を見出すことができるようになり、本人の回復につながることがある。そのアプローチは、主には精神医療の現場で試行されているものだが、ぼくたちにも当てはまる。ぼくたちだって、「あの辛い経験があったからこそ今がある」と自分自身に語りかけることで、辛い出来事を受け入れようとするではないか。ぼくたちは、周囲に仲間がいたり、家族や理解者がいるからそこまで意識することはないけれど、そうして自分でナラティブを立ち上げて、辛い出来事にも意味があったのだと受け入れようとする。伝承館は、まだそこに至っていない。つまり、伝承館には、ナラティブがない。
これは、一時期メディアを騒がせた「語り部」の問題にも当てはまる気がする。朝日新聞が、語り部に対して、特定の団体への批判を行わないよう要請し、従わない場合は、語り部の登録を解除すると警告していたと報じたことを覚えている読者もいるだろう[★2]。語り部は、語ることで、自分の受けた傷を言語化し、教訓として語る。その「オープンに語る」という行為を通じて、自分の受けた傷やトラウマを教訓や伝承のようなものに「異化」させ、震災と向き合っていると言えるのかもしれない。報道が事実だとすれば、語り部たちは、統合されたナラティブを語れない。怒りや悲しみを語ることができない。地元の人たちのナラティブですら「封印」された伝承館に、歴史が立ち上がらないのも無理はないのかもしれない。
いや、しかし、とも思った。この伝承館を作ったのは福島県である。福島県は、この伝承館に何らかのナラティブを立ち上げ、実装しているはずだ、とも考えた。前述したように「展示できなかった」のかもしれないが、「展示する必要がなかった」のかもしれない。町の歴史や文化、原発事故の詳細な記録を展示しなくても成立する、別のナラティブを実装したのではないか。これが第2の仮説だ。
ハッと気づかされたのは、最終盤にある「復興への挑戦」ブースを見ているときだった。冒頭のムービーを見たときの違和感がふと蘇ってきたのだ。そしてこう思った。この場所は、アーカイブ施設なのではなく、風評払拭のための施設なのではないか、この伝承館に実装されたナラティブは「この地で起きた震災や津波、原発事故について考えること」ではなく、「風評を払拭すること」なのではないか、と。
そう考えると、西田敏行さんがナレーションしていることも、震災前の文化や歴史が抜け落ちていることも、この場所でどのような津波の犠牲があったのかの記述や原発事故そのものの詳細な記録がないことも、そして、アーカイブの専門家ではない「放射線リスクコミュニケーション」の専門家が館長を務めていることも納得できる。風評被害は、地震や津波ではなく、原発事故後の偏見や差別的言説、メディアによって引き起こされた。「風評以前」の物語は必要ない。つまり、原発事故前の歴史や、原発事故そのものに向き合わなくても済むナラティブを実装したということだ。
福島県は、「原発事故そのもの」ではなく「風評被害」を見ている。そう感じたことは過去にもある。たとえば、福島第一原発に貯蔵されている「トリチウム水」の海洋放出について聞いた報道記者と、内堀知事とのやりとりが福島県のウェブサイトに残されている。
これは、一時期メディアを騒がせた「語り部」の問題にも当てはまる気がする。朝日新聞が、語り部に対して、特定の団体への批判を行わないよう要請し、従わない場合は、語り部の登録を解除すると警告していたと報じたことを覚えている読者もいるだろう[★2]。語り部は、語ることで、自分の受けた傷を言語化し、教訓として語る。その「オープンに語る」という行為を通じて、自分の受けた傷やトラウマを教訓や伝承のようなものに「異化」させ、震災と向き合っていると言えるのかもしれない。報道が事実だとすれば、語り部たちは、統合されたナラティブを語れない。怒りや悲しみを語ることができない。地元の人たちのナラティブですら「封印」された伝承館に、歴史が立ち上がらないのも無理はないのかもしれない。
風評払拭というナラティブ
いや、しかし、とも思った。この伝承館を作ったのは福島県である。福島県は、この伝承館に何らかのナラティブを立ち上げ、実装しているはずだ、とも考えた。前述したように「展示できなかった」のかもしれないが、「展示する必要がなかった」のかもしれない。町の歴史や文化、原発事故の詳細な記録を展示しなくても成立する、別のナラティブを実装したのではないか。これが第2の仮説だ。
ハッと気づかされたのは、最終盤にある「復興への挑戦」ブースを見ているときだった。冒頭のムービーを見たときの違和感がふと蘇ってきたのだ。そしてこう思った。この場所は、アーカイブ施設なのではなく、風評払拭のための施設なのではないか、この伝承館に実装されたナラティブは「この地で起きた震災や津波、原発事故について考えること」ではなく、「風評を払拭すること」なのではないか、と。
そう考えると、西田敏行さんがナレーションしていることも、震災前の文化や歴史が抜け落ちていることも、この場所でどのような津波の犠牲があったのかの記述や原発事故そのものの詳細な記録がないことも、そして、アーカイブの専門家ではない「放射線リスクコミュニケーション」の専門家が館長を務めていることも納得できる。風評被害は、地震や津波ではなく、原発事故後の偏見や差別的言説、メディアによって引き起こされた。「風評以前」の物語は必要ない。つまり、原発事故前の歴史や、原発事故そのものに向き合わなくても済むナラティブを実装したということだ。
福島県は、「原発事故そのもの」ではなく「風評被害」を見ている。そう感じたことは過去にもある。たとえば、福島第一原発に貯蔵されている「トリチウム水」の海洋放出について聞いた報道記者と、内堀知事とのやりとりが福島県のウェブサイトに残されている。
【記者】この問題に関連して、漁業者は海洋放出に反対と言っている一方で、タンクが立地する双葉町や大熊町は、処分方針を早く決めて欲しいと言っております。このままでは対立や分断が生まれかねない状況で、その調整は県しか出来ないのではないかと思っていますが、県として、そういった考えはないのでしょうか。
【知事】ただ今のお話は、御意見として受け止めさせていただきます。その上で、改めて県としての基本的なスタンスを述べさせていただきます。トリチウムを含む処理水の取扱いについては、県内外で開催された関係者からの意見を伺う場において、風評に対する懸念などの様々な意見が出されているとともに、福島第一原発の立地町からは、保管継続による復興や住民帰還への影響を危惧する意見が示されています。処理水の取扱いに当たって最も重要なことは「風評」です。国においては、様々な意見や県内の実情を十分踏まえた上で、特に本県の農林水産業や観光業に影響を与えることがないよう、慎重に対応方針を検討していただきたいと考えております。[★3]
トリチウム水の処理に関する論点は複数ある。ぼくが思いつく限りでも、健康的被害をどう評価するかの問題、東電に対する信用性の問題、漁業の自立の問題、風評の問題、廃炉をいかに進めるかの問題など。そのなかで知事は、明確に、最も重要なことは「風評」だと答えている。県知事として、福島の現状が、県外、国外に正しく伝わっていないという危機感が強いということなのだろう。そして知事の危機感に合わせるように、この数年、福島県の復興の取り組みの主軸は、震災復興から風評払拭へと移ってきた。
実際、風評こそ最大の課題だと考える人は多い。当然だろう。原発事故から時間が経てば、まちは少しずつかつての姿を取り戻す。「原発事故が残した課題」を考えようとすれば、原発事故そのものによる直接的な被害ではなく、自ずと「風評」になっていくからだ。
つい先月発売された文芸誌『群像』11月号。作家の古川日出男さんが、国道4号線と6号線を徒歩で巡ったルポルタージュを寄稿している[★4]。その中にはぼくも登場するのだが、楢葉町を語る語り部として、いわき市出身の社会学者、開沼博さんも登場している。開沼さんといえば、ゲンロンが発行した『福島第一原発観光地化計画』を強く批判したことでも知られるが、開沼さんはこのルポの中で古川さんと、こんな話をしている。
開沼「この(震災の)五年め、大きな動きがある。この*ある*は、現象としては*ない*であって、復興予算が大幅カットされる段階に入る。そうなると、どうなるか? メディアが追わないようになる。なにしろお金が回らないのと、被災地の変容する速度、が落ちる。すると目新しい*ネタ*がない。報道が止まると、どうなるか?」
古川「ネガティブなイメージだけが、県外の人間の頭に残る?」
開沼「おっしゃるとおり。風評の問題が最後まで残ります。そして二〇一七年、一八年、一九年、僕は、なにかなあ、『百年後に残ることは何か?』と意識して動き出しました」
ここでもまた、最後まで残る課題として「風評」が登場する。ぼくは、偶然の一致だとは思わない。実際、風評はある。農水産物の売上を減らす一因になってきたし、有象無象の差別的視点に晒されてきたのも事実だ。広島や長崎でも、風評の問題は長く続いた。長期の避難や生業の喪失のような大きな実害があったわけではない県民に「原発事故によって生じた最大の課題はなんでしたか?」と聞けば「風評」と答える人は多いだろう。
つまり第2の仮説は、以下のように言いかえられる。福島県は、これまで掲げてきた「復興」の看板を外し、原発事故そのものに触れることなくポジティブな発信ができる「風評払拭」という看板に付け替えた。そしてその新たな看板を、解離状態になっていた双葉郡のぽっかりと空いた穴を埋めるナラティブとして、県を代表する情報発信拠点、復興のシンボルとなる伝承館に、意図して組み込んだ。
もちろん、風評を払拭するための発信は必要だ。しかし、取り扱いには注意が必要だと思う。「風評被害こそ最大の課題だ」という言説は、なぜそもそも原発事故が起きたのか、原発事故とはなんだったのか、という問いからぼくたちの視線をずらしてしまうからだ。風評を引き起こしているのはメディアであり、差別的な言説を振りまく人や、正しく理解をしようとしない人たちである。そう捉えてしまうと、東電や国の責任は結果として曖昧なものになり、加害の責任はわかりやすい「メディア」になるか、ぼんやりとした「無理解な国民」へとスライドしてしまう。そうではなく「原発事故」そのものを、時間をかけて、事故前の長い歴史まで含めて詳細に見ていこうと思えば、国や東電ばかりでなく、どうしたって自分たちの課題や責任にも向き合わなければならないだろう。もちろん、これだけ大きな被害を受けた地域に「自らの加害性にも向き合え」というのは、あまりに酷かもしれない、ということは考えなければならないが。
少し「風評被害」という言葉について整理が必要だろう。ぼくは、かまぼこメーカー勤務時代から、原発事故からの復興というものを考えるとき、「風評被害」という言葉は他罰的な言葉だと感じてきた。「風評被害でものが売れない」という場合、売れない理由をメディアや無理解な人に求めてしまうから、自らの課題を見なくて済む。本来は、商品づくりに課題があったかもしれないし、企画力がなかったせいかもしれない。流通の構造的な課題かもしれない。売上を回復しようと思えば、そうしてマジックワード化した「風評被害」という言葉を分解し、個別の解決策を考えなければならなかった。ネットメディアの論考に「福島県は風評被害対策をやめるべきだ」という趣旨の記事を寄稿したのは2014年だったか。
ぼくは、なぜいわきでかまぼこが作られているのか、そもそもかまぼこという食品にはどのような魅力があり、どのように製造されていたのか、徹底してかまぼこに向き合い、その魅力と課題の両方を発信した。それが面白がられるうち、いわば「ポジティブな風評」が生まれ、その結果として、売上が回復するのにつながった。だれも好き好んで自分たちの内側の問題を見たいとは思わない。けれど、自分の課題と向き合わなければ、進むべき道も見えてこない。
風評被害は復興の1丁目1番地となった。そして、いつしか「経済的被害」だけでなく「心情的被害」としての風評がクローズアップされるようになった。経済的な被害ならば「売上回復」が解決策なので数字を見て判断できる。そして、取るべき対策も見えてくる。しかし、心情的被害については、差別されたと感じる人がいるかぎり「風評」が生まれ続ける。現実的に考えて原発事故があった歴史は変えられず、時間が経てば報道も減る。原発事故について知らない若者たちも増えていくだろう。そして、知らないがゆえ、ネガティブな印象を持ってしまう人もゼロにはならないだろう。つまり風評はゼロにはできない。その意味で、風評被害もなくせない。「最後に残る」のはそれゆえだ。
経済的被害としての風評被害は打破できる。打破しようと思えば、「風評」以外のことを考えなければならない。自省的なマインドが生まれ、そもそもの課題を解決しようとする。しかし、心情的、精神的被害としての風評はなくせない。あくまで悪いのは他者である。だから、根本にある自分たちの地域の課題を考えたり、原発事故や、原子力政策を検証することにもつながらない。そういうことだ。
もちろん、風評を払拭するための発信は必要だ。しかし、取り扱いには注意が必要だと思う。「風評被害こそ最大の課題だ」という言説は、なぜそもそも原発事故が起きたのか、原発事故とはなんだったのか、という問いからぼくたちの視線をずらしてしまうからだ。風評を引き起こしているのはメディアであり、差別的な言説を振りまく人や、正しく理解をしようとしない人たちである。そう捉えてしまうと、東電や国の責任は結果として曖昧なものになり、加害の責任はわかりやすい「メディア」になるか、ぼんやりとした「無理解な国民」へとスライドしてしまう。そうではなく「原発事故」そのものを、時間をかけて、事故前の長い歴史まで含めて詳細に見ていこうと思えば、国や東電ばかりでなく、どうしたって自分たちの課題や責任にも向き合わなければならないだろう。もちろん、これだけ大きな被害を受けた地域に「自らの加害性にも向き合え」というのは、あまりに酷かもしれない、ということは考えなければならないが。
少し「風評被害」という言葉について整理が必要だろう。ぼくは、かまぼこメーカー勤務時代から、原発事故からの復興というものを考えるとき、「風評被害」という言葉は他罰的な言葉だと感じてきた。「風評被害でものが売れない」という場合、売れない理由をメディアや無理解な人に求めてしまうから、自らの課題を見なくて済む。本来は、商品づくりに課題があったかもしれないし、企画力がなかったせいかもしれない。流通の構造的な課題かもしれない。売上を回復しようと思えば、そうしてマジックワード化した「風評被害」という言葉を分解し、個別の解決策を考えなければならなかった。ネットメディアの論考に「福島県は風評被害対策をやめるべきだ」という趣旨の記事を寄稿したのは2014年だったか。
ぼくは、なぜいわきでかまぼこが作られているのか、そもそもかまぼこという食品にはどのような魅力があり、どのように製造されていたのか、徹底してかまぼこに向き合い、その魅力と課題の両方を発信した。それが面白がられるうち、いわば「ポジティブな風評」が生まれ、その結果として、売上が回復するのにつながった。だれも好き好んで自分たちの内側の問題を見たいとは思わない。けれど、自分の課題と向き合わなければ、進むべき道も見えてこない。
風評被害は復興の1丁目1番地となった。そして、いつしか「経済的被害」だけでなく「心情的被害」としての風評がクローズアップされるようになった。経済的な被害ならば「売上回復」が解決策なので数字を見て判断できる。そして、取るべき対策も見えてくる。しかし、心情的被害については、差別されたと感じる人がいるかぎり「風評」が生まれ続ける。現実的に考えて原発事故があった歴史は変えられず、時間が経てば報道も減る。原発事故について知らない若者たちも増えていくだろう。そして、知らないがゆえ、ネガティブな印象を持ってしまう人もゼロにはならないだろう。つまり風評はゼロにはできない。その意味で、風評被害もなくせない。「最後に残る」のはそれゆえだ。
経済的被害としての風評被害は打破できる。打破しようと思えば、「風評」以外のことを考えなければならない。自省的なマインドが生まれ、そもそもの課題を解決しようとする。しかし、心情的、精神的被害としての風評はなくせない。あくまで悪いのは他者である。だから、根本にある自分たちの地域の課題を考えたり、原発事故や、原子力政策を検証することにもつながらない。そういうことだ。
以前、県内にある、とある高校の授業に参加したときのこと。ある生徒が「自分の町に賑わいが戻らないのは風評のせいだ。だから風評をなくしたい」と語ってくれた。ぼくは「君の町ってそもそもおもしろいもの何があるの?」と聞いた。すると彼は「農産物もあるし、立派なスポーツ施設もある。生産者さんたちも頑張っている」というようなことを答えた。ぼくはその言葉の真面目さと薄っぺらさにショックを受けた。彼らは、風評被害とは具体的になんなのかということや、全国の地域づくりの成功事例、あるいは自分の暮らすまちを客観的に知る前に、「風評に苦しめられた福島」だけを学んでしまい、被害者意識を増大させ、大人たちの語る風評被害を内面化してしまったのかもしれない。ぼくは、それもまた形を変えた「風評の固定」だと思う。
今、ここまでの文章を読んで、「え? 風評被害のことなんて、ほとんど考えてなかった。今もそんなに風評ってあるの?」と感じる読者が多いのではないだろうか。実際には、福島県産品を避ける消費者はかなり減ってきている。その意味で、経済的な風評は無視できるレベルになっている。けれども、県民の中には、差別的な言説を浴びせられるのではないか、という意識が残り続けている人もいる。それが「風評被害はある」「実際にひどいことを言われたじゃないか」という「心情的風評被害」になっていく。県外に暮らしている人にはわからないかもしれないが、これまで語られてきた既存の風評被害(経済的被害)と、現在の風評被害(心情的被害)は、似ているが異なるものだ。伝承館が、あるいは県が言及するのも、おそらく後者の方の風評だとぼくは認識している。
しかし、そこで考えておきたいのは、その「風評払拭というナラティブ」は、果たして、自己の復興や地域の復興に、本当に有効なのだろうか、ということだ。
復興に必要なのは、斎藤環さんの言うような、トラウマと向き合い、ナラティブとして統合することで、それを忘れ得ぬ記憶として地域のアイデンティティに書き換えていく、そういう地道な作業ではないだろうか。そのためにこそ、双葉町の歴史や、津波の被害、原発事故そのものの検証が必要だと思う。双葉町には、エネルギー産業を受け入れた「後」や、原発事故の「後」だけがあるわけではない。常にそこには分厚い「前史」がある。その「前」と「後」を統合するような展示がないから、原発事故を真正面から伝承できていない印象を観覧者に与えるのではないだろうか。それでは町の復興にもつながらない。
いや、第1の仮説で考えたように、双葉町や大熊町はいまだに深いトラウマを抱え、ある種の「失語状態」にあるのかもしれない。力を回復させるには時間がかかるだろう。まだ災後10年だ。それほどの傷を受けた地域なのだと思う。復興のためには、アーカイブや地域史の専門家によるさらなる支援も必要だ。町民たちが、語り得なかったことを語れるようになるための回復を待つ時間も必要だし、伝承館の語り部が怒りや悲しみを、不安なく吐露できる環境も必要だと思う。
ぼくがそんなふうに考えるようになったのには、別の理由もある。「復興」の意味が、ぼくの中で急速に変化しつつあるからだ。その大きなきっかけが、今年1月、いわき市で、韓国・浦項市の文化財団のメンバーを招いたシンポジウムを主催したことだ。ぼくは、伝承館のベンチに座りながら、シンポジウムで交わされた言葉を思い出していた。
今、ここまでの文章を読んで、「え? 風評被害のことなんて、ほとんど考えてなかった。今もそんなに風評ってあるの?」と感じる読者が多いのではないだろうか。実際には、福島県産品を避ける消費者はかなり減ってきている。その意味で、経済的な風評は無視できるレベルになっている。けれども、県民の中には、差別的な言説を浴びせられるのではないか、という意識が残り続けている人もいる。それが「風評被害はある」「実際にひどいことを言われたじゃないか」という「心情的風評被害」になっていく。県外に暮らしている人にはわからないかもしれないが、これまで語られてきた既存の風評被害(経済的被害)と、現在の風評被害(心情的被害)は、似ているが異なるものだ。伝承館が、あるいは県が言及するのも、おそらく後者の方の風評だとぼくは認識している。
しかし、そこで考えておきたいのは、その「風評払拭というナラティブ」は、果たして、自己の復興や地域の復興に、本当に有効なのだろうか、ということだ。
復興のナラティブ
復興に必要なのは、斎藤環さんの言うような、トラウマと向き合い、ナラティブとして統合することで、それを忘れ得ぬ記憶として地域のアイデンティティに書き換えていく、そういう地道な作業ではないだろうか。そのためにこそ、双葉町の歴史や、津波の被害、原発事故そのものの検証が必要だと思う。双葉町には、エネルギー産業を受け入れた「後」や、原発事故の「後」だけがあるわけではない。常にそこには分厚い「前史」がある。その「前」と「後」を統合するような展示がないから、原発事故を真正面から伝承できていない印象を観覧者に与えるのではないだろうか。それでは町の復興にもつながらない。
いや、第1の仮説で考えたように、双葉町や大熊町はいまだに深いトラウマを抱え、ある種の「失語状態」にあるのかもしれない。力を回復させるには時間がかかるだろう。まだ災後10年だ。それほどの傷を受けた地域なのだと思う。復興のためには、アーカイブや地域史の専門家によるさらなる支援も必要だ。町民たちが、語り得なかったことを語れるようになるための回復を待つ時間も必要だし、伝承館の語り部が怒りや悲しみを、不安なく吐露できる環境も必要だと思う。
ぼくがそんなふうに考えるようになったのには、別の理由もある。「復興」の意味が、ぼくの中で急速に変化しつつあるからだ。その大きなきっかけが、今年1月、いわき市で、韓国・浦項市の文化財団のメンバーを招いたシンポジウムを主催したことだ。ぼくは、伝承館のベンチに座りながら、シンポジウムで交わされた言葉を思い出していた。
2017年11月、韓国の東の港町、製鉄の町としても知られる浦項市で、韓国史上2番目とも言われる大きな地震が起きた。後になって、地熱発電所が地下水を取り出す過程で地盤が弱くなったことが地震を引き起こしたと分かったのだが、当時は原因がまったく不明で、多数の住民が不安な暮らしや避難生活を余儀なくされた。そこで、現地の住民が主体となって復興プロジェクトが立ち上げられた。ぼくたちは、そのプロジェクトを支援する浦項市文化財団から声をかけられ、同じ「被災地」であるいわき市で、ツアープログラムとシンポジウムを開くことになったのだ。
浦項市からやってきたプロジェクトのメンバーの職業や肩書きを見てぼくは驚いた。小学校教師、看護師、心理カウンセラー、植物セラピスト、教師のメンタルトレーナーなど、メンバーの全員が、人の心に向き合うプロフェッショナルだった。さらにそこに、アートや演劇など、表現を専門とする大学教授などがサポートに入っている。日本で「復興プロジェクト」というと、企業の経営者や実業家、クリエイター、建築家やアーティストなどが集まって地域の復興を担うことが多い。心の復興か、地域の復興か。韓国と日本とで、復興に対する考え方が根本から違っていたことに、ぼくは衝撃を受けた。
韓国のメンバーの1人は、復興とは、自分の心のトラウマと向き合い、そこから回復していくことだとハッキリ語っていた。別のメンバーは、その回復のために必要なのは、自分の悲しみを信頼して吐露できる環境や、同じような悲しみを持った人たちと交流し、言葉を交わすことだという。彼らは、震災の被災者同士だけではなく、2014年に起きた「セウォル号沈没事故」で犠牲になった乗客の遺族たちと対話の機会を作ったりしてきたという。ぼくは、わかっていなかった。「韓国から来た人たち、めっちゃ普通の人たちっぽいけどシンポジウム成立するのかな」と心配していたほどわかっていなかった。実際には、まさに普通の人たちが、復興の本質を柔らかく語った。思えば彼らは「同じ傷を負った者同士で心の傷に向き合う」ためにいわきに来ていたのだ。それなのに、ぼくは、地域でこんな面白いことをやってきた、ということばかりを語ろうとしていた。ぼくは、いったい復興の何に向き合ってきたんだろう。
ぼくは、『新復興論』で「復興とは地域づくりだ」と明確に書いている。地域の復興を考えるあまり、個人の「心の復興」や「トラウマからの回復」という視点を十分に入れることができなかったのではないか。たしかに、地域の歴史や、地元のことを書きはした。しかし、個々の人たちの心の復興こそ、やはり復興なのではないか……。
とそこまで考えて、ぼくはハッとした。はっきりと気がついたのだ。ぼくが『新復興論』という本を書いたこと。その行為自体が、ぼくにとっての「トラウマからの回復」だったのだと。
小名浜に生まれ育ったこと。いわきの複雑な歴史。震災や原発事故で感じた喪失感。福島をめぐる議論の息苦しさ。そしてその苦しさを、どのように脱していったのか。本に記述したことはすべて「事実」をもとにしている。郷土史の本に書いてあることだし、どれもぼくが実際に体験したことだ。けれど、ぼくが書いたことは、ぼくの受けた傷の話であり、コンプレックスの話でもあった。そして、書いてあることは事実だが、事実の「結びつけ方」や「文脈の立ち上げ方」、「解釈の仕方」は「虚構」だ。ぼくは、虚構の力でナラティブを立ち上げることで、震災「前」と「後」を結びつけた。つまり、事実ではなく真実を立ち上げることで、震災と原発事故で経験した傷を、自己のアイデンティに統合した、といえないか。ぼくは、事実とも虚構とも言えない『新復興論』を書くことで、復興したのだ。
浦項市からやってきたプロジェクトのメンバーの職業や肩書きを見てぼくは驚いた。小学校教師、看護師、心理カウンセラー、植物セラピスト、教師のメンタルトレーナーなど、メンバーの全員が、人の心に向き合うプロフェッショナルだった。さらにそこに、アートや演劇など、表現を専門とする大学教授などがサポートに入っている。日本で「復興プロジェクト」というと、企業の経営者や実業家、クリエイター、建築家やアーティストなどが集まって地域の復興を担うことが多い。心の復興か、地域の復興か。韓国と日本とで、復興に対する考え方が根本から違っていたことに、ぼくは衝撃を受けた。
韓国のメンバーの1人は、復興とは、自分の心のトラウマと向き合い、そこから回復していくことだとハッキリ語っていた。別のメンバーは、その回復のために必要なのは、自分の悲しみを信頼して吐露できる環境や、同じような悲しみを持った人たちと交流し、言葉を交わすことだという。彼らは、震災の被災者同士だけではなく、2014年に起きた「セウォル号沈没事故」で犠牲になった乗客の遺族たちと対話の機会を作ったりしてきたという。ぼくは、わかっていなかった。「韓国から来た人たち、めっちゃ普通の人たちっぽいけどシンポジウム成立するのかな」と心配していたほどわかっていなかった。実際には、まさに普通の人たちが、復興の本質を柔らかく語った。思えば彼らは「同じ傷を負った者同士で心の傷に向き合う」ためにいわきに来ていたのだ。それなのに、ぼくは、地域でこんな面白いことをやってきた、ということばかりを語ろうとしていた。ぼくは、いったい復興の何に向き合ってきたんだろう。
ぼくは、『新復興論』で「復興とは地域づくりだ」と明確に書いている。地域の復興を考えるあまり、個人の「心の復興」や「トラウマからの回復」という視点を十分に入れることができなかったのではないか。たしかに、地域の歴史や、地元のことを書きはした。しかし、個々の人たちの心の復興こそ、やはり復興なのではないか……。
とそこまで考えて、ぼくはハッとした。はっきりと気がついたのだ。ぼくが『新復興論』という本を書いたこと。その行為自体が、ぼくにとっての「トラウマからの回復」だったのだと。
小名浜に生まれ育ったこと。いわきの複雑な歴史。震災や原発事故で感じた喪失感。福島をめぐる議論の息苦しさ。そしてその苦しさを、どのように脱していったのか。本に記述したことはすべて「事実」をもとにしている。郷土史の本に書いてあることだし、どれもぼくが実際に体験したことだ。けれど、ぼくが書いたことは、ぼくの受けた傷の話であり、コンプレックスの話でもあった。そして、書いてあることは事実だが、事実の「結びつけ方」や「文脈の立ち上げ方」、「解釈の仕方」は「虚構」だ。ぼくは、虚構の力でナラティブを立ち上げることで、震災「前」と「後」を結びつけた。つまり、事実ではなく真実を立ち上げることで、震災と原発事故で経験した傷を、自己のアイデンティに統合した、といえないか。ぼくは、事実とも虚構とも言えない『新復興論』を書くことで、復興したのだ。
もちろん、自分のやり方がすべてに当てはまるわけではないというのは百も承知だが、こうして自分なりに筋道を立てて考えてくると、浜通りに必要なのは、事実だけでなく「真実」を立ち上げるための力だと思えてくる。その力は、この連載で紹介してきたような、アートや演劇などから立ち上げるかもしれない。またあるいは、被災者同士がつながり、本音を吐露できる場から生まれるかもしれない。そもそもの町の歴史や文化を知れる場所や、原発事故についての考えを虚心坦懐に語れる場から生まれるかもしれない。そうしてもう一度考えた。この伝承館は、その役割を果たすことができるだろうか。確かに風評は残る。けれど、「風評払拭」というナラティブは、回復のために有効に機能するのだろうかと。
そんなことをモヤモヤと考えながら、伝承館の外に出た。そこには土があった。空があった。防潮堤の工事で奥は見えないが、視界の奥に海があるのだということは、気配からわかる。伝承館と、その隣にある産業交流センター以外に目立った建物はない。なんとなく、津波に壊されたと見える鉄骨の骨組みと、風に揺れるススキ、セイタカアワダチソウが目に入る。新しい区画と、手付かずの野っ原。その奇妙な組み合わせが、この地域の今を的確に表していた。
少し歩くと、パネルがあり、目の前の空間が「被災伝承復興祈念ゾーン」になると記されていた。スマホで検索してみると、目の前の地域が、両竹地区とか浜野地区と呼ばれていること、双葉海水浴場のそばに位置し、また、前田川という川沿いの地区ということもあり、地区のほとんどが浸水したこと、双葉町全体で21名の死者・行方不明者がいること、そのうち多くの方がこのエリアで亡くなっていたとわかった。ちなみに、震災直接死ではなく関連死は154名にのぼる。

【図9】骨組みだけを残した建物があった

【図10】近い将来、伝承館のまわりは復興祈念公園になる
伝承館の「外」から
そんなことをモヤモヤと考えながら、伝承館の外に出た。そこには土があった。空があった。防潮堤の工事で奥は見えないが、視界の奥に海があるのだということは、気配からわかる。伝承館と、その隣にある産業交流センター以外に目立った建物はない。なんとなく、津波に壊されたと見える鉄骨の骨組みと、風に揺れるススキ、セイタカアワダチソウが目に入る。新しい区画と、手付かずの野っ原。その奇妙な組み合わせが、この地域の今を的確に表していた。
少し歩くと、パネルがあり、目の前の空間が「被災伝承復興祈念ゾーン」になると記されていた。スマホで検索してみると、目の前の地域が、両竹地区とか浜野地区と呼ばれていること、双葉海水浴場のそばに位置し、また、前田川という川沿いの地区ということもあり、地区のほとんどが浸水したこと、双葉町全体で21名の死者・行方不明者がいること、そのうち多くの方がこのエリアで亡くなっていたとわかった。ちなみに、震災直接死ではなく関連死は154名にのぼる。


ついでに、グーグルで「双葉町両竹」と検索すると、両竹は「もろたけ」と読むようだ。珍しい地名なのでさらに検索してみると、「双葉町両竹の歴史と文化を継承する」と掲げたクラウドファンドサイトに出くわした。[★5]
サイトには、かつてこの地に生えていた竹の中に二股に分かれている竹があったことから「両竹」と呼ばれるようになったこと、双葉町指定の磨崖仏、中世の城郭跡や旭観音という安産の仏様など、数多くの文化遺産があったことが記されていた。さらに、サイトを読み込むと、こんなことが書いてあった。
ぼくは、これこそが「伝承」だと思った。双葉という土地にぐっと血が通う気がするし、だからこそ、大津波や原発事故が何を奪ったのか、何が失われたのかがヴィヴィッドに見えてくる気がするのだ。原発事故の「被災地」としての双葉に出会う前に、こんなふうに、被災する前の双葉と出会えたらよかった。
「風評」は原発事故後に生まれた。だから「風評払拭」を掲げる場所では、原発事故後の双葉にしか出会えない。原発事故そのものと向き合うことができない。原発事故前の、原発を誘致する前の双葉を知ることにもつながらない。すると、「前」と「後」を統合するナラティブが立ち上がらない。つまり、「風評払拭のナラティブ」は、自己を、地域を再生することにつながらない。
11月5日付の地元紙、福島民報に、伝承館の展示改善を訴える社説が掲載されていた。県外の読者は、この伝承館が地元でどのように論じられているかご存じないかもしれない。最後の一節を引用し、本稿を閉じることにする。
『新復興論』で、ぼくは原発事故を「障害」だと書いた。原発事故後の「風評払拭」を掲げる場所では「障害者」としての姿しか知ることができない。そこでぼくたちにできることは、地域の行く末を見守りながらも、ぼくが浜松市の障害者支援事業所で体験し、この連載に書いてきたようなこと、つまり、当事者や専門家、支援者とはまた違った、個人の興味や関心という回路、つまり「共事」の回路を通じて、事故「前」の双葉、そして、今現在の、あるがままの双葉に出会い直すことではないか。
それは、原発事故を無視することにはならない。むしろ、自らの興味や関心を通じて原発事故とはなんだったのか、何を地域から奪っていったのかを考える回路を開くことにもなるはずだ。歴史でもいい、地学でもいい、歌や写真でもいい。共事の回路を開くことが、風評「前」の双葉を知ることにつながり、原発事故に向き合うことにもなる。双葉町を、自分なりに面白がり、楽しんでいくことの先に、力強いナラティブが立ち上がってきたらいい。
時間はかかるかもしれない。けれど、なにも伝承館ばかりが双葉の歴史を語るわけではない。鍵は、伝承館の「外」にもある。まちを歩くことで、伝承館が展示しているもの、展示できなかったもの、展示しなかったものも見えてくる。そこに、事実とも虚構とも言えないものが立ち上がってくる。一部とはいえ、避難指示が解除された今、さまざまな場所を、ぼくたちは直に見ることができる。歩くこともできるのだ。そうして風景の中に、この地と関わる接点を作り、共事の回路を開いていけたらいい。

【図11】伝承館のそばの敷地に伸び放題のススキ、セイタカアワダチソウ
撮影=小松理虔
サイトには、かつてこの地に生えていた竹の中に二股に分かれている竹があったことから「両竹」と呼ばれるようになったこと、双葉町指定の磨崖仏、中世の城郭跡や旭観音という安産の仏様など、数多くの文化遺産があったことが記されていた。さらに、サイトを読み込むと、こんなことが書いてあった。
この地には復興祈念公園が造られます。近隣集落には中間貯蔵施設も建設されます。二度と元の姿に戻ることはできない、新たな一歩を進まなくてはならなくなった両竹地区。この歴史をのこして、地域の人々と共有すること、多くの皆さんに福島県双葉町の状況を知ってもらうことは緊急の課題です。[★6]
ぼくは、これこそが「伝承」だと思った。双葉という土地にぐっと血が通う気がするし、だからこそ、大津波や原発事故が何を奪ったのか、何が失われたのかがヴィヴィッドに見えてくる気がするのだ。原発事故の「被災地」としての双葉に出会う前に、こんなふうに、被災する前の双葉と出会えたらよかった。
「風評」は原発事故後に生まれた。だから「風評払拭」を掲げる場所では、原発事故後の双葉にしか出会えない。原発事故そのものと向き合うことができない。原発事故前の、原発を誘致する前の双葉を知ることにもつながらない。すると、「前」と「後」を統合するナラティブが立ち上がらない。つまり、「風評払拭のナラティブ」は、自己を、地域を再生することにつながらない。
11月5日付の地元紙、福島民報に、伝承館の展示改善を訴える社説が掲載されていた。県外の読者は、この伝承館が地元でどのように論じられているかご存じないかもしれない。最後の一節を引用し、本稿を閉じることにする。
伝承館は複合災害の深刻さや復興に向けた歩みを伝えるばかりでなく、なぜ原発事故が起きたのかを受け継いでいく上で、重要な役割を負っている。原子力政策における国と事業者の関係、県の関わり、原発事故後の混乱などを国民が共有できるようにしないと、甚大な被害と犠牲を払って得た教訓が無駄になってしまう。[★7]
『新復興論』で、ぼくは原発事故を「障害」だと書いた。原発事故後の「風評払拭」を掲げる場所では「障害者」としての姿しか知ることができない。そこでぼくたちにできることは、地域の行く末を見守りながらも、ぼくが浜松市の障害者支援事業所で体験し、この連載に書いてきたようなこと、つまり、当事者や専門家、支援者とはまた違った、個人の興味や関心という回路、つまり「共事」の回路を通じて、事故「前」の双葉、そして、今現在の、あるがままの双葉に出会い直すことではないか。
それは、原発事故を無視することにはならない。むしろ、自らの興味や関心を通じて原発事故とはなんだったのか、何を地域から奪っていったのかを考える回路を開くことにもなるはずだ。歴史でもいい、地学でもいい、歌や写真でもいい。共事の回路を開くことが、風評「前」の双葉を知ることにつながり、原発事故に向き合うことにもなる。双葉町を、自分なりに面白がり、楽しんでいくことの先に、力強いナラティブが立ち上がってきたらいい。
時間はかかるかもしれない。けれど、なにも伝承館ばかりが双葉の歴史を語るわけではない。鍵は、伝承館の「外」にもある。まちを歩くことで、伝承館が展示しているもの、展示できなかったもの、展示しなかったものも見えてくる。そこに、事実とも虚構とも言えないものが立ち上がってくる。一部とはいえ、避難指示が解除された今、さまざまな場所を、ぼくたちは直に見ることができる。歩くこともできるのだ。そうして風景の中に、この地と関わる接点を作り、共事の回路を開いていけたらいい。

撮影=小松理虔
★1 斎藤環「コロナ・ピューリタニズムの懸念」 URL= https://note.com/tamakisaito/n/nffdc218a1854
★2 「伝承館語り部の特定団体の批判禁止、水俣・長崎は」、朝日新聞デジタル、2020年9月23日。 URL= https://www.asahi.com/articles/ASN9Q74D3N9QUGTB00H.html
★3 福島県ホームページ「知事定例記者会見」、2020年10月26日。 URL= https://www.pref.fukushima.lg.jp/site/chiji/kaiken2021026.html?fbclid=IwAR3hZTS9Qm2AuWkQ-ytuKfRBtGWnlIdg-Lna7Hm0ZYjEAff1BbXxuGcEWHE
★4 『群像』2020年11月号、講談社、57頁。
★5 「東日本大震災と原発事故で失われつつある福島県双葉町両竹の歴史と文化を承継したい!」 URL= https://a-port.asahi.com/projects/morotake-jumping/
★6 同前。
★7 「【原子力災害伝承館】早急に展示改善を」、福島民報、2020年11月5日。 URL= https://www.minpo.jp/news/moredetail/2020110580684


小松理虔
1979年いわき市小名浜生まれ。ローカルアクティビスト。いわき市小名浜でオルタナティブスペース「UDOK.」を主宰しつつ、フリーランスの立場で地域の食や医療、福祉など、さまざまな分野の企画や情報発信に携わる。2018年、『新復興論』(ゲンロン)で大佛次郎論壇賞を受賞。著書に『地方を生きる』(ちくまプリマー新書)、共著に『ただ、そこにいる人たち』(現代書館)、『常磐線中心主義 ジョーバンセントリズム』(河出書房新社)、『ローカルメディアの仕事術』(学芸出版社)など。2021年3月に『新復興論 増補版』をゲンロンより刊行。 撮影:鈴木禎司
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