当事者から共事者へ(16) 下北から福島を見る|小松理虔

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初出:2022年2月25日刊行『ゲンロンβ70』

 北の果てで食うマグロ丼は絶品だった。誰もが知っている、あのマグロの味である。けれども、これまで食べたどのマグロよりも強くマグロの味がした。細胞ひとつひとつに脂と旨味が入り込んでいるのではないかと思わせるほどサシは細かく、脂は繊細で、醤油につけると、ふわっと溶け出していく。蓄養マグロのような魚脂ぎょし臭さはなく、筋張ってもいない。大トロのようにとろけてはいかないのがいい。しっかりと食感を残し、噛むと口の中で味が爆発するように一気に広がるのだ。本来、人が味を感知するのは舌のはずだが、歯でも味わっている気がするし、頰の内側でも味を感知しているような気がする。酢飯の具合もほどよく、味覚が口いっぱいに拡張していくかのような、そんなうまさだった。

 目の前に広がる大間の海は、日本海と太平洋を結ぶ津軽海峡に位置する。黒潮、対馬海流、千島海流の3海流が流れ込み、プランクトンが豊富だ。これを狙いに巨大なマグロが来遊する。また、大間のマグロは沖合5キロほどの近海で獲れるため、とにかく鮮度がいい。漁法もまた然りで、魚の体に傷がつかない一本釣りや延縄で漁獲される。鮮度保持へのこだわりが並ではないのだ。と、そんな蘊蓄もまた、味を膨らませる絶妙なスパイスになる。口でも頭でも味わう。大人ひとり分、10分もせずに完食してしまった。

 



 ご馳走様でしたと挨拶し、店の外に出て少し歩いてみた。そばに、石川啄木の歌碑を見つけた。

東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる


 歌集『一握の砂』に収録された、大変有名な歌である。地元では、この歌は大間崎の沖にある弁天島を詠んだものと言われているそうで、この歌碑も地元の有志が建立したという。啄木は夭折の詩人としても知られる。世界に開けているはずの大海を前にして、泳ぐわけでもなくただ磯場で波を浴びるほかない蟹たちに、自分の行き場のなさを投影したのだろうか。この歌を詠んで改めて大間の海と空を眺めると、晴れがましい気持ちの中に、どこか寂しさ、もの悲しさがつきまとう。

大間の天然マグロ丼。これまでに食べたどのマグロ丼よりもうまかった
 

大間漁港に停泊している漁船。大変数が多く、漁業が地域の中核になっていることがうかがい知れた

北の果ての狼狽


 そもそも今回、なぜぼくがいわきから遠く離れた下北半島にやってきたかといえば、「逃避行」である。連載に何を書けばいいのかほとんど思い浮かばず、「どこかに行けば何かしら書けるだろう」と、辛い現場から逃げるようにしてやってきたのだ。前々回、そして前回と、下北半島の各地、主に旧斗南藩の遺構を巡り、見聞きしたこと、感じたことなどを書き綴ってきた。今回は、旅の2日目の後半と、3日目の模様を紹介したい。

 



 本州最北端のマグロ丼に別れを告げ、大間崎から南西に位置する大間原発を目指す。車で15分ほどだろうか、町から意外なほど近いところに原発はあった。いや、正しくはこの原発はまだ未完成で、1ワットも電気を生産してはいない。完成予定は明確には決まっておらず、朝日新聞の報道では、本格工事の再開が2022年、運転開始は2028年になるとあった★1

 原発を近距離から撮影できるポイントはないか。明らかに怪しい「いわき」ナンバーの車を、これまた怪しい時速10キロほどの速度で運転し、ポイントを探す。すると、幹線道路を一筋ほど入ったところに、関係者が使う通路だろうか、車が1台通れるくらいの幅の道路があった。しばらく走ると、案の定、鉄柵の奥に建屋が見えた。

 至近距離から原発を撮ろうとすると、なぜかいつも少し緊張してしまう。やはりこの鉄柵が、近づく者たちに無言のプレッシャーを与えるのだろう。それに、地元の人や、そこで働いている人たちに見られたらバツが悪いというのもある。そもそも田舎町でカメラを構えていたら、目の前が原発でなくても警戒されてしまうはずだ。それで、別に悪いことをしているわけではないのに、いつも正体不明の緊張を感じてしまうのだった。そういう緊張が、ぼくは嫌いではないのだが。

フェンス越しに撮影できた建設中の大間原発

 
 大間原発は、電源開発株式会社(J−POWER)が管理する原発だ。この「電源開発」という会社、東京電力のお膝元に暮らすぼくにとっては、あまり聞き慣れない会社である。車の運転席に座り、手元のスマホで検索してみる。

 電源開発は、1952年、国策によって立ち上げられたエネルギー会社だ。戦前・戦中の電力需要を担った日本発送電株式会社がGHQによって解体・分社化されたため、戦後の電力生産は脆弱だった。そこで国が法律を定め、旺盛な電力需要に対応しようと電源開発を立ち上げたのだ。まず力を入れたのが、ダム開発と水力発電の整備だった。中でも福島県の「奥只見電源開発事業」は社運をかけたビッグプロジェクトであったようだ。奥只見の水量は全国有数で、慢性的な電力不足に陥っていた首都圏への電力供給拠点として白羽の矢が立ったということらしい。

 前回★2、この奥只見の件を少しだけ紹介した。まさにあの奥会津、奥只見ダムや田子倉ダムなどを建設したのが、この電源開発だったというわけだ。ダムの開発は困難を極め、住民の反対運動も起きた。工事は難航し、多数の殉職者を出すことになる。建設にあたり、そこに住んでいた住民は賠償金を手にしたものの、ふるさとは「帰還困難」なダム湖の底へ沈んだ。繰り返される賠償と離散の歴史。帰還困難区域は、今から50年以上も前に福島県内に存在していたことになる。新しい帰還困難区域をつくったのが東京電力だとすれば、50年前の帰還困難区域をつくったのが電源開発。会津と浜通り、そして下北半島が再びつながり合う。

 



 話を目の前の原発に戻そう。大間原発の最大の特徴は、ウラン燃料だけでなく「MOX燃料」をすべての炉心に使えることだ。「MOX」とは「ウラン・プルトニウム混合酸化物」のことを指す。原子力発電所で使うウラン燃料は、発電の過程でプルトニウムを作り出すが、燃料として使われたあとにも、再利用できるウランやプルトニウムがまだ残っている。残ったウランやプルトニウムは化学的に処理することで取り出すことができ(これがいわゆる「再処理」だ)、それを混ぜ合わせるとMOX燃料ができる。このMOX燃料を原子力発電所で利用することを「プルサーマル」と呼ぶ。そしてこのプルサーマルは「核燃料サイクル」の根幹をなす。つまり、大間原発は核燃料サイクルの中核となる原発だということだ。

 建設工事は紆余曲折を経た。本来は、2014年に運転開始をする予定だったが、2011年の東日本大震災で建設工事が休止状態になる。その後、一旦は工事が再開するも、隣接する自治体である函館市が建設凍結を求めて提訴。それに加え、原子力規制庁の新規制基準の審査にも時間がかかった。加えて政治にも振り回された。昨年行われた自民党総裁選では、当時の行政改革担当大臣だった河野太郎が突如として核燃料サイクルの見直しを発表したことは、新聞やテレビを賑わす大きなニュースになった。計画は、これからも二転三転し続けるのだろうか。

 さらに、昨年8月の豪雨災害では、大間とむつ市をつなぐ国道279号線で土砂崩れが起き、建築資材が運べなくなるという事態にも陥った。そういえば、大間に来るのに通ってきた国道が、たしかに工事中だったことを思い出した。そのときはなんの工事がわからなかったが、豪雨災害の復旧工事だったのか。

 国道279号線は、急傾斜地と津軽海峡の間を縫うような道路だった。たしかに原発で何かが起きたときの避難経路としては心もとない。いや、それ以上に、風景が強く印象に残った。山の斜面と海岸線との距離が近く、平地がほとんどない。海岸沿いのわずかな土地に体を寄せ合うように民家が立ち並ぶ。おそらく、漁業を細々と営むような住民が多いのだろう。どこまでも空は広く美しかった。そしてその片隅に、最北端の土地ゆえの過酷さを感じずにはいられなかった。

 



 大間町とむつ市の間にある風間浦村は、新たに原子力施設を誘致するための検討に入ったという。たまたまネットで引っかかった河北新報の記事には、はっきりと「立地自治体が受け取れる交付金や税収など巨額の財源を見込んでいるからだ」と書いてあった★3。原発誘致で潤ってるのは大間だけじゃないか、若者が働ける場所ができれば風間浦村も良くなる、苦しい財政状況では原子力に頼るしかない、といった地元の人たちの声も紹介されていた。偽らざる本音なのだろう。

 地域が極度に高齢化し、人口減少が進み、税収が減るなかで、介護や福祉、医療の負担は増え続ける。村の「発展」のためではない。生活を、命を当たり前に「維持」するために原子力に頼らざるを得ないということかもしれない。原発が稼働すれば、原発作業員も多少は移住して来るだろうが、彼らはその土地に思い入れがあるから来るわけではない。あくまで仕事をするためにやってくるだけだ。そして、土地に思い入れのあるはずの村長も、議員も、商店主も住民も、みな老いていく。それは大間とて同じこと。この地に建てられる原発や関連施設は、果たして地域の何を豊かにするのだろう。

 



 写真を何枚か撮影し、むつ市へと戻る。周囲に何もない道が続いた。これを「豊かな自然」と考えるか「何もない」と考えるかで、村の展望は変わってくるかもしれない。少なくともぼくには「豊かな自然」に見えた。

 だが、ぼくが訪れたのは10月のこと。雪の吹きすさぶ真冬にも同じことが言えるだろうか。東北のハワイなどと言われているいわきとは違う。東京から気軽に来られる場所でもない。おまけにこの下北半島には、原子力関連施設を受け入れることで経済的に豊かになった地域が多くある。そんな先行事例ばかりの土地で、それでも「エネルギー産業には手を出すな」「自分たちで食える地域を目指せ」とは言いだしにくい気がした。

 正直にいえば、そんな自分に狼狽した。原発事故を経験したぼくは、あんな事故はもう二度と繰り返してはいけないと強く思ってきた。これまでの検証や、処理水の取り扱いをめぐる混乱を目にし、日本社会はまだ原発を再び稼働できるほど成熟していないとも思う。だからぼくは一貫して原発の新設には賛成できなかった。ところが。この風景。この道路。この家々。そしてこの土地の歴史。原発だけはダメだと強く思えない自分に狼狽した。そしてこのあとも、複数の町や村で、ぼくは似たような感情を抱くことになる。

巨大な小学校


 下北観光3日目。この日は、早朝にホテルを出発し、むつ市の東にある東通村周辺をめぐり、いわきへと戻る予定になっていた。早めに起床し、コンビニで買ったおにぎりでサクッと腹ごしらえをして、一路、東へと向かう。東通村までは車で30分程度。山あいの道を進むと、視線の奥に、突如として立派な建物が見えてきた。周囲の景色と見比べると建物の立派さがより際立つ。東京湾岸の新興住宅地にあるような建物で、東北の山村とは思えない景色だった。だが、その建物の不釣り合いさによってむしろ逆に納得できた。ここが原発の村、東通の中心なのだと。

 グーグルマップによれば、ぼくが目にした建物は東通小学校の校舎だった。目の前に黒い屋根の建物が3棟並んでいた。屋根のデザインが印象的で、校舎なのか体育館なのかホールなのかもよくわからない。これを使う児童の数はどのくらいなのだろう。小学校といえば屋上まで「真四角」の校舎しか知らないぼくは、思わずその威容に驚かされた。「田舎」なのは、ぼくの地元の小名浜のほうかもしれない。

 小学校の脇には、ヘルメットのような形と言えばいいだろうか、茶碗をひっくり返したような形と言えばいいだろうか、とにかく異様な形状をした建物があった。さらにその隣には、三角形をした木材工芸品のような色合いの建物もある。なんの建物だろう。キャンプのテーマパークか、いや、合宿所か。デザインが奇抜だから建築デザインを学ぶ大学の研究室か、とも考えたが、目の前の道路標識に「←東通村役場」と書いてある。地方に行くと役場だけ立派だというところも多いから特段驚くようなことではないのかもしれない。けれどもこのデザイン。工事の費用はかなりのものだろう。何しろ建物の形が四角ではないのだ。

 役場のそばには住宅地が造成されていた。建っている家は、すべてが新しかった。村をそっくり作っているような雰囲気で、そのエリアに入っていくと、大きな建物が建設されていた。現場の入り口に掲示された案内板を見てハッとした。東京電力の関連施設だったからだ。交流センターか、情報センターだろうか。完成していないので想像するほかないが、東電のセンターがどんと腰を据えて建てられているさまに、やはり福島県の浜通りを思い出さずにはいられなかった。いや、原発事故を起こした浜通りで、東電はここまで存在感をあらわにはしないだろう。復興や廃炉の責任を負う東電は、あまり表には出てこないようにしている。だがこちらは違う。電力会社は新しい町に入り込み、正面から住民たちとの共創関係を結ぼうとしているように見える。つまり、かつてあった浜通りの風景は、浜通りではなくむしろこの地に引き継がれていたということだ。東北の南と北。風景が交錯する。

東通小学校はどこぞの音楽ホールのような豪華な校舎だった
 

特徴的な三角のデザインがほどこされた東通村役場

 
 目的地の東通原発までは国道で1本だ。道中、原発作業員だろうか、遠慮なくぼくの車を追い抜いていく車があった。何台もだ。道のそばには、「スピードを落とせ」と書かれた看板も何度か目にした。みんな日常的にスピードを出しているのだろう。そういえば、いわきから双葉郡へとつながる「ロッコク(国道六号線)」にも、もうひとつ山手にある山麓線(県道いわき浪江線)にも、こんなふうに吹っ飛ばして歩く車が多かったことを思い出し、苦笑した。

 走行中、ふと道端に「TEPCO」の看板を見つけた。「東通原子力発電所 建設工事中」とある。おかしい。ぼくが目指している東通原発は「東北電力」の原発だったはずだ。すると東電は、この場所にさらに新しい原発を作ろうとしているのか。なるほど。村の中心部にセンターがあったのもこれが理由だろう。東通の「新村」は、新しく完成する原発の雇用を見込んで整備されているのだろう。

 大きなトラックやバンがビュンビュンと通り過ぎる道路の路肩に車を止め、東通原発について調べてみた。東通原発は、たしかに「東北電力」の原子力発電所である。まだ1号機しか完成しておらず、2号機の建設が予定されているようだ。そして、東京電力もまた、この地に新たな原発を作ろうとしている。こちらも1号機と2号機の2つあるようだ。つまり厳密には、「東北電力東通原発」と「東京電力東通原発」の2つがあることになる。完成すれば必要とされる人員もかなりのものになるだろう。保守点検や輸送、食事の提供、あるいは研究機関……。2つの電力会社を支える協力企業、下請け、孫請けなども必要だ。ああ浜通りも、こんなふうに原発の規模を拡大していったのだろう。町の人たちも、村の未来を新しく切り開くであろう原発に、大きな期待を寄せていたのかもしれない。壊れた原発ではなく、これから新しく原発を受け入れる土地だからこそ、そんなことも「追体験」できた。

 



 ぼくは、山林の奥に広がっているであろう原発と海を探した。グーグルマップによれば、すぐそばに東通原発があるはずなのだ。だが見えない。敷地が広大すぎると感じた。道路と予定地の境界には鉄線が張り巡らされて、所々監視カメラもつけられていた。

 ぼくは、意地でも原発を、そして建設予定地を撮影してやろうという気になった。少し先に車を走らせると、わずかにだが、稼働する1号機の煙突が見え、シャッターを押した。そしてこんなことを考えた。なぜここまで人から見えないところに原発を作るのか。セキュリティも理解できる。万が一の事故を考慮し、住宅地から離すというのもわかる。けれど、姿が見えないから、誰も原発について考えようとしないのではないか。住民から切り離され、人々の意識からも隔絶され、よりバックヤード化するのではないかと。

 そもそも原発が立地する場所は、それを使う人間が暮らす地域から遠く離れている。この下北も浜通りも、どちらも陸の孤島のようなところだ。電気を使うだけの人間は、電気が、どこでどのようにして、どのような環境で、どのようなものを犠牲にして、あるいはどのようなものを獲得して作られるのかを知らない。そこにどんな分断があるか、そこにどんな隔絶があるかも知らない。そして、そこで何かが起きたとき、それを使うだけの人間にはなんの影響もなく、それを作ってきた側だけが大きな傷を負う。政治に分断され、利権に分断され、科学に分断され、情緒に分断される。なぜこれほど大きなものを背負わなければいけないのだろう。

 もっと原発を見せろ。もっとこの現実を見て考えろ。電力会社が作った情報館を疑いもなく見て、何かを学んだ気になってんじゃねえ。ふざけるな。誰がこんなところに原発を隠してるんだ。もっと原発を見ろ、原発を見せろ、この現実を見ろ。そして考えろ……。

 車を運転しながら、ぼくはわけのわからない怒りに駆られた。そして余計に、この東通原発を撮影したくなった。いや、この目で、その姿を見ておきたかった。

 



 車はいつの間にか山林を抜け、海に出た。もうすっかり、原発の敷地は遠くなっている。ふと目の前に、細い川が海に注ぎ込むポイントを見つけた。運よく車1台入れる幅の道もある。砂利道はやがて海砂の道になり、砂浜に出た。車を降り、波打際まで歩いて向かう。

 そこに見えた。原発が見えた。思わず心臓が高鳴り、目の前の風景にうろたえた。あの風景に似ていたからだ。魚の線量を測定するために福島第一原発の沖で何度も船に乗った。そう、あそこから見た風景に似ていた。いや、厳密には風景は異なる。建屋の色も地形も異なる。けれど構図は同じだった。「海に出なければ原発を見られない」ということも同じだった。ドローンを使えば撮れる。どこの原発にもある「PR館」の展望台からも目視できるのだろう。しかしどれも本物ではない。海抜ゼロの海から見える原発だけが、その姿を正しくぼくらに見せてくれる。ぼくは不思議と、久しぶりに友人に会うような気持ちになった。おめえ、やっぱりここにいたかと。

浜辺から見る原発には既視感を覚えた


原発と漁師


 原発は、燃料を冷やすために膨大な量の「水」を用いる。このため日本では海沿いに原発を建てることがほとんどだ。その意味で原発は海がなければ生きていけない存在であり、原発にとって海とは生命維持装置と言っていいかもしれない。さらに原発は、膨大な量のトリチウムを海に捨ててきた。原発は海の水によって冷やされ、エネルギーの暴走を抑えられてきた。

 漁師にとってもまた、海は生命維持装置であり続けている。漁師たちにとって海はすべての恵みを与えてくれる存在であり、同時にまた生業の場でもある。漁師たちは、魚を食うことで体を作ってきた。そして魚を売った現金で家を建て、子を育て、技術を継承してきた。

 



 原発も漁師も海によって生かされてきた。だがその「共存」は、絶妙なバランスの上に成り立つ。原発が稼働するとなれば地元の漁業に大きな影響が出る。東通原発でも、お膝元にある白糠しらぬか漁協の漁師たちによる反対運動があったという。ネット上で、ある論文★4がヒットした。それによれば、白糠では専業の漁師たちが主導した反対運動が起きたという。しかし「兼業」の漁師の多くは原発建設に賛成した。「原発ができれば出稼ぎしなくて済む」。そんな声が多くあったそうだ。白糠の漁師の多くは兼業だった。厳しい冬が訪れる前に何時間もかけて都市部へ行き、春まで働かなければ家計が成り立たなかった。原発ができれば、冬場も地元で働ける。危険もあるかもしれないが、家族と離れずに仕事ができる。そんな漁師がいても責められまい。

 道中、その白糠漁港にも立ち寄った。規模は小さいがしっかりとした印象の漁港だった。出漁を待つ船の数も決して少なくない。ただ、地域は寂れきっているように見えた。新しく建てられた家は少なく、通りを通る車もほとんどない。原発事故直後のものだろうか、色あせた「民主党」の選挙ポスターが風に吹かれて剥がれそうになっていた。

 この寂しさ。震災からの月日。風化。原発マネーで湧く中心部とのコントラスト。先ほど村の中心部を見たからか、余計に印象深く感じられた。当初は、原発と漁師の共存が図られたのだろうとは思う。漁師たちも、それなりの額の賠償を手にしたはずだ。けれども、東通に最初の原発ができてから、かなりの年数が経過している。今ぼくの目の前に広がる景色は、かつて漁師たちが思い描いたものなのだろうか。港町出身の人間として、なんともいえない気持ちになった。

 漁港のそばに丘が見えた。少し俯瞰して東通原発が眺められるかもしれないと思い、登って海のほうを見返した。そこから見える景色に、また既視感を覚えた。目の前の景色は、浪江の請戸漁港から福島第一原発を見たときのそれに似ていた。厳密にいえば違う。浪江から第一原発を見るには「南」を向くから、視線の右側に原発が、左側に海が見える。今ぼくは「北」を向いている。視線の左側に東通原発が、右側に海が見えるから構図としては逆だ。けれど似ていた。海のそばにまで山が迫る地形。美しい海と山の自然の景色の中に、四角い建屋が無理やりに挿入されているさま。原発の巨大さと比べたときの漁港の小ささ。どれも浪江を想像させた。

 



 大間。そして東通。原発と漁師をめぐる問題を立て続けに目の当たりにしたぼくは、今回の旅の初日、六ヶ所村で見た光景を思い出していた。ある象徴的な看板の話から、ぼくが六ヶ所で見てきた風景を振り返りたい。

 六ヶ所村の北部にあるとまり地区に入った時のことだ。国道沿いだったか、泊地区の入り口にイカのモニュメントが建てられていて、「ようこそ泊へ」と書かれていた。「ようこそ六ヶ所村へ」ではないところが気になった。ここを原子力の村と考えて欲しくない。そんな気持ちを泊の人たちが持っているのではないか。漁師たちの、原発に対する複雑な思いが見えた気がした。

 さらに地区の様子が知りたくなり、商店街へと入ってみた。こぢんまりとしていて、味のある店が多い。沿岸に出てみると、民家の軒先に昆布が干されている。浜辺では昆布を採る漁師にも遭遇した。泊地区の名産品なのだろう。調べてみると、昆布のほかにもスルメイカ、鮭が代表的な水産品のようだ。厳しい寒さと海流の冷たさ。だからこそ旨みを蓄える北の海の幸。泊は大変豊かな地区に思えた。次こそは、看板にもなっているスルメイカを食べてみたい。漁師たちの心意気を感じたいと思った。

商店街の店の軒先に干された昆布
 

泊地区の光景。思わず微笑ましくなり、ここが原発の村だということを忘れてしまった

 
 泊から南下していくと、六ヶ所村尾駮おぶち地区へと入る。原子力関連施設が集約される地区だ。地域の全体像をつかむべく、まずは車から見られるところを手当たり次第に見ていく。再処理工場、ウラン濃縮工場、建設中のMOX燃料工場、低レベル放射性廃棄物埋設センター……。再処理工場の敷地内には、これらを束ねる株式会社日本原燃の本社もある。日本原燃は、核燃料サイクルの商業利用を目的に設立された会社だ。青森県に本社を置く企業の中で最大の企業であるという。このほかにも太陽光発電のメガソーラーなども見た。

 30分ほどドライブすれば、この地区の異様さがわかるだろう。語弊がある言い方だが、気持ちがいいくらいに原子力関連施設しかない。道路は幅が広く信号が少ない。つまりトラックが通りやすい。関連施設からそう遠くないところに住宅地が作られていて、通勤にも便利そうだ。村内には温泉保養施設もあった。地区そのものが原子力産業に従事する人たちに最適化されているように感じられた。

六ヶ所再処理工場

 

 村の歴史は原子力の歴史そのものだ。施設の多くは核燃料サイクルの中心を担う。自分たちが日本の原子力産業を支えているんだという自負もあるだろう。ただその自負は、首都圏から遠く離れた下北という土地ゆえの劣等感や自然の厳しさと裏返しになっているようにも感じられた。会津が戊辰戦後に「朝敵」の謗りを雪ごうと軍国主義化したのにも似ている。敗北感や劣等感があったからこそ、会津には、自分たちは国を支えているんだという実感が必要だったのだろう。

 会津も、双葉も、下北半島も、そこにあるどの町もどの村も、地域の発展を、復興を、そして再生を願えばこそ、苦渋の決断で国策を受け入れる。しかし、受け入れる過程で、半ば押しつけられたはずの存在は、「果たすべき役割」になり、やがて地域の誇りのようなものに変化していく。そして、「それ」ばかりになった地域は、それを否定できなくなる。自らの存在を否定することになってしまうからだ。だから容易に産業転換ができない。その結果、国はますますそれを利用し、地域は地域で、自らそれを求めるようになってしまう。

 六ヶ所の村内には、美しい湖沼がいくつもあった。関連施設も、尾駮沼という美しい沼の周りに点在していた。こんな美しい自然があるのなら、原発に頼らず、1次産業や観光で戦うこともできたはずだ。何しろ泊のような港町もあるのだ。東北らしい風景を残す山村として生き続ける道を選ぶこともできただろう。けれど、そう考えた途端、そのように思ってしまうこと自体が強者のふるまいなのではないか、ある種のオリエンタリズムのような視線が自分にあるのではないかとも感じられ、また狼狽してしまう。

 



 混乱した頭のまま車を走らせ、「六ヶ所原燃PRセンター」へと向かった。この場所は、はっきりいえば、六ヶ所の原子力プロパガンダ施設である。だが、見てみたかった。震災前の福島の雰囲気を味わえるのではないかとも思ったし、原発事故後の福島に生きるぼくが、そのプロパガンダを見てどのような気持ちになるのか、我ながら興味があったのだ。

 展示はどれも古臭く、すべてがバカバカしかった。原発事故前ならば、格納容器の内部を再現した模型を見て、おおおっと声をあげたりしたのかもしれない。けれど、ぼくはカタストロフィ後の原発を知ってしまっている。ぼくにとって格納容器とは、溶け落ちたデブリを抱えた「廃炉の障害物」だ。「原発は安全に運用されています」という文字列を見ても、乾いた笑いしか起きない。あれだけの事故を起こしておきながら、よくこんな展示をし続けられるなあ、どんな根性してるんだと呆れるほかなかった。

核燃料を冷却する様子を紹介する展示。模型はどれも古く、時代を感じさせた
 

原子力発電について紹介するパネル。あまりにも「時代錯誤」すぎて、さすがに怒りが湧いてきた

 
 だが、ある展示の前で足が止まった。放射線の被曝量を示す展示だった。海外旅行なら何ミリシーベルト、普通に暮らしていれば何ミリシーベルトで、原発作業員なら何ミリシーベルト。イラストや図と共に、放射線というのは日常にあるものなのだから、みんなどこかで被爆している。科学的に見ていけば安心できる。そんな展示だった。

 既視感しかなかった。何度も何度も、何度もそれを見た。テレビで、新聞で、チラシで、パンフレットでそれを見た。文言も、イラストも、デザインの風合いもよく似ていた。それは、原発事故後の福島で嫌でも目にしなければいけなかった被曝線量の図、そのものだった。

 ぼくはそこで気づかされた。震災後、ぼくらを安心させよう、状況を正しく理解してもらおう、風評被害を食い止めようと企図され発信された情報、つまり福島の復興の根幹をなすような情報の発信が、結局は「原子力プロパガンダ」の焼き直しに過ぎなかったのだということに。そしてその展示手法が、「東日本大震災・原子力災害伝承館」でもそっくりそのまま応用されていることに。

 ショックだった。呆然として、ため息をつくほかなかった。もちろん、放射線に関する科学的な結論であり、震災前だろうと後だろうと、出すべき情報は変わらないのだろう。けれど、原発事故の教訓を伝えるべき伝承館の展示手法が、原子力プロパガンダとまったく地続きにあったなんて。その事実がつらかった。受け入れがたかった……。

 そこでぼくはハッとした。ぼくにとって原発の問題とは、ある意味でわかりやすい問題だったのだ。なぜならば、福島の原発は事故を起こしたからだ。原発事故は悪であり、東電は果たすべき責任を果たさねばならない。被害は甚大で、地域に再生不能なダメージを与えた。原発事故は歴史に残る最悪の原子力災害であり続けている。大変わかりやすい。

 けれどこちらの原発は、事故を起こしていない。原発の増設を望む住民がいる。地域を支える産業を望む声もある。実際、原発が来て暮らしがよくなった、便利になったと感じている住民もいるだろう。つまり、事故前には事故前の複雑さがあり、わかりにくい。だからこそぼくは、目の前の風景に狼狽したり、何かの賛否を表明する言葉を発しづらくなったりしたのではないか。

 そしてこんなことも考えた。ぼくは、この10年でいろいろなプロジェクトを立ち上げ、複雑な課題に直面した気になっていたけれど、それらはみな「わかりやすい構図」から生まれていたに過ぎなかったのかもしれないと。ぼくは、事故後の福島という一面でしか、原発というものを捉えきれていなかったわけだ。

被曝線量を示したパネル。双葉町の伝承館の展示にも通ずる

共事は変化を内含する


 2泊3日の下北旅行。こんなに楽しくない旅は、初めての経験かもしれない。ポジティブなものとして記憶に残っているのは、恐山の温泉とマグロ丼くらいしかない。せっかく6時間も7時間も運転してきたんだから、このまま帰るのはもったいない。どこかせめてあと一箇所くらいポジティブなものを見ていこう。そう思いながら車を走らせていると、三沢インターチェンジの近くだったか、「寺山修司記念館」の行き先を告げる道路標識を見つけた。寺山か。何か面白いものが見つかるかもしれない。そう思い、向かってみた。

 緑豊かな公園の一角に記念館はあった。中ではちょうど、寺山が主宰した劇団「天井桟敷」の講演ポスターなどを展示する企画展が行われていた。だがぼくは、演劇についてほとんど素人同然であり、寺山の作品を見たことがあるわけではない。ポスターを見ても、奇抜なデザインだなあ、ああ、あの人が出演していたのか、という程度の感想しか出てこず、そんな自分が情けなくもあった。

 常設展示の会場には、たくさんの机が並んでいた。引き出しを引くと、そのなかに、寺山の言葉が記されている。「死んだ人はみんな言葉になるのだ」と寺山は言ったそうだが、まさにそれを表現する展示になっていた。その常設展示の奥に小部屋があった。吸い寄せられるようにその部屋の扉を開けた。そこには著作が並んでいた。面白そうな本はないかと品定めしていると、ふと、ある展示に目が止まった。そこには、こんな言葉が展示されていた。


 思えば、私は生まれてこのかた「帰りたい」と考えたことなど一度もなかった。
 第一、帰るところも、ありはしなかった。
「帰る」ということは同じ場所にもう一度もどってくることだが、私はこの世に「同じ場所」があるなどとは、どうしても思えなかった。
 人生は一回きりなのだから、往ったきりなのだ、と私は思った。
 昨日の家と今日の家とは同じものではない。
 だから、昨日の家へ帰ろうとしたって、無理なことなのだ。


 寺山の著作『自殺学入門』の一節であった★5。こんなことが起こるのか、と驚かされた。ぼくはちょうど「小名浜へ帰ろう」と思っていたところだったからだ。けれども寺山は、帰る場所などないのだという。往ったきりなのだという。その言葉は、ぼくに向けられていた。

 たしかにそうかもしれない。下北半島へ来たあとのぼくは、下北半島へ来る前のぼくとは違うように感じる。たった3日間の旅だったけれど、ぼくは大きく変わってしまった。この目線のまま小名浜に帰れば、慣れ親しんだはずの風景が、以前とは違ったものに見えるかもしれない。原発や原発事故を語る言葉も、それについて書く文章の筆致も、以前とは違ったものになるかもしれない。あの「狼狽」は「変化」だったのではないか。そのことを、寺山に言い当てられたような気がした。

寺山修司記念館の外観。外に舞台もあった

 
 人は旅をする。さまざまな人と出会い、風景に立ち合う。初めて会う人なのに、初めて見る景色のはずなのに、偶然、そこに自分のふるさとを、自分を見てしまうことがある。似たものを感じると、そこに「接点」が生まれる。そこからさまざまな想像も生まれる。この土地も同じだったのか、この人もそうだったのかと共感が湧いてくる。前回書いたように、その共感は「過剰共感」になる危険性も孕んでいる。だから、共感したポイントから、ひょいっと別の方向へと足をずらし、1歩離れてみる。すると、似ているように見えて異なるところ、違っているものも見つかる。しかしそうして違いが見えてきて初めて、ぼくたちは「それでも共通していると思わずにいられない何か」に出会ってしまうのではないか。ぼくはそれを水俣でも経験した。

 下北半島の風景のなかに福島第一原発を見てしまう。水俣の現実に小名浜を見てしまう。その発見はいつも想定外だ。研究書にも専門書にも書いていない。旅行ガイドにも書いていない。それはまったく予想されない捉え方であり、推奨されないふまじめな見方かもしれない。どこで何に結びつくかは自分次第だし、人によっても違う。だから学問として体系化することもできない。けれどぼくたちは、旅に出て、そうやってふまじめに何かに出会っているはずなのだ。

 だからこそぼくたちは、心を動かされたり、ショックを受けたり、深く考えさせられたりして、自らを変化させることができるのではないだろうか。連載のテーマに引きつけて言うならば、ぼくたちは風景に「共事」することで、何かに触れ、変わることができると言えるかもしれない。共事は、つねに偶然の変化を内含しているのだ。

 下北半島の旅を通じ、ぼくは何度も狼狽し、以前とは違う何かを原発のある風景から感じるようになっていた。もちろん原発推進派に「転向」したわけではない。ぼくは今でも原発に対して否定的な立場だ。ただ、前とは明らかに違う気がする。何が違うのか具体的に説明しろと言われると困ってしまうが、はっきりと賛否を言えなくなってしまった。けれどその分、もう少しじっくり時間をかけて考えたいと思うようになったし、じっくりと考えるからには、できるだけ自分の言葉で語りたいと思うようにもなった。この旅で得がたいものを学んだ気がする。いや、すぐに影響を受けやすいぼくのことだ。案外、時間が経ったら忘れしまうかもしれない。折に触れて思い出し、文章を書きながら、何年もかけてじっくり噛み砕けばいい。

 



 10月。日差しは柔らかいが、窓を開けると、森を吹く風には東北の厳しい冬の気配が感じられた。下北半島は、ぼくには想像もできないほどの厳しい冬を迎える。いつか冬の下北も旅をしてみたい。大間のマグロに続いて、泊のスルメイカも食べなければ。

 グーグルマップで自宅へのルートを検索する。小名浜まで六時間半。ぼくは小名浜に帰るのではない。新しい小名浜と出会い直すために、そこに行くのだと思えた。帰路ではなく新たな土地に向かう。そう思うと、アクセルを踏み込む足が、少し軽やかに感じられた。


撮影=小松理虔
 
次回は2022年4月配信の『ゲンロンβ72』に掲載予定です。

 


★1 「揺れる 大間原発の行方」、朝日新聞DIGITAL、二〇二一年九月二六日。 URL= https://digital.asahi.com/articles/ASP9T6VV0P9PULUC023.html
★2 「当事者から共事者へ(15) 共感と共事(2)」 URL= https://webgenron.com/articles/gb068_05/
★3 「原子力施設誘致、具体性乏しく 巨額税収への思惑透ける 青森・風間浦村」、河北新報ONLINE NEWS、2021年12月9日。 URL= https://kahoku.news/articles/20211208khn000035.html
★4 論文は以下の科学研究費助成事業の研究成果報告書で読める。 URL= https://kaken.nii.ac.jp/file/KAKENHI-PROJECT-25516011/25516011seika.pdf
★5 寺山修司『新装新版 青少年のための自殺学入門』、河出文庫、2017年、142-143頁に相当。
 

小松理虔

1979年いわき市小名浜生まれ。ローカルアクティビスト。いわき市小名浜でオルタナティブスペース「UDOK.」を主宰しつつ、フリーランスの立場で地域の食や医療、福祉など、さまざまな分野の企画や情報発信に携わる。2018年、『新復興論』(ゲンロン)で大佛次郎論壇賞を受賞。著書に『地方を生きる』(ちくまプリマー新書)、共著に『ただ、そこにいる人たち』(現代書館)、『常磐線中心主義 ジョーバンセントリズム』(河出書房新社)、『ローカルメディアの仕事術』(学芸出版社)など。2021年3月に『新復興論 増補版』をゲンロンより刊行。 撮影:鈴木禎司
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