革命と住宅(6) 第3章 スターリン住宅──新しい階級の出現とエリートのための家|本田晃子

ゲンロンα 2021年9月21日配信
革命は「家」を否定したはずだった。実際、1920年代のソ連の都市部では、旧来の意味での住宅の概念は破壊された。家族単位の住まいに代わって、台所やトイレなどの水回りを他の住人と共有するコムナルカ、大部屋に複数のベッドが置かれただけのバラック、独身者が複数人でルームシェアする寮などが、革命後の都市住宅の新たなスタンダードとなった。もちろん、コミューン建設の理想に燃えて、自ら他者との共同生活を選んだ人びとも存在した。だが大多数の人びとは、圧倒的な住宅難によって、赤の他人と住空間を共有することを、あるいは夫婦や親子であっても別々に生活することを強いられたのだった。
しかし1930年代に入ると、革命以来の反「家」イデオロギーは劇的な転換を見せる。スターリンが独裁体制を確立したこの時期、旧来の婚姻と血縁からなる家族のための家が、突然ソ連社会の表舞台に舞い戻ってくるのである。その背後にあったのが、労働への競争原理の導入と、新たな階級社会の出現だった。
1928年から翌29年にかけて、ソ連の若者向けの新聞『コムソモーリスカヤ・プラウダ』は、「家庭のがらくた追放キャンペーン」を展開した。ここでいう「がらくた」とは、ロシア・アヴァンギャルドを代表する詩人ウラジーミル・マヤコフスキーの詩のタイトル、「がらくたについて О дряни」にちなんでいる。詩人はこの詩の中で、黄色いカナリアに代表されるような前世紀の中産階級のキッチュな趣味をこき下ろした[★1]。そのような俗悪な「がらくた」からなる部屋に対して、マヤコフスキーは壁にレーニンの写真のみが掛けられたミニマルな部屋を理想とした[★2]。
けれどもロシア・アヴァンギャルドが掲げた反装飾・機能主義のストイックな美学は、間もなく他でもない党指導部によって否定されることになる。1933年、都市の住宅難のさらなる深刻化にもかかわらず、スターリンの右腕であるラーザリ・カガノヴィッチは、「プロレタリアは単に快適なだけでなく、美しい家をもつことを欲しているのだ」[★3]と主張した。さらに翌1934年の第17回共産党大会では、コミューンに対する批判も行われた。労働者同士の連帯によって形成されるコミューンから、婚姻と血縁からなる家族へ、党自らが一大転換を図ったのである。このような変化の一因となったのが、1920年代後半から労働の現場に導入された「社会主義的競争」の概念だった。
しかし1930年代に入ると、革命以来の反「家」イデオロギーは劇的な転換を見せる。スターリンが独裁体制を確立したこの時期、旧来の婚姻と血縁からなる家族のための家が、突然ソ連社会の表舞台に舞い戻ってくるのである。その背後にあったのが、労働への競争原理の導入と、新たな階級社会の出現だった。
1.社会主義的競争とエリート階級の誕生
1928年から翌29年にかけて、ソ連の若者向けの新聞『コムソモーリスカヤ・プラウダ』は、「家庭のがらくた追放キャンペーン」を展開した。ここでいう「がらくた」とは、ロシア・アヴァンギャルドを代表する詩人ウラジーミル・マヤコフスキーの詩のタイトル、「がらくたについて О дряни」にちなんでいる。詩人はこの詩の中で、黄色いカナリアに代表されるような前世紀の中産階級のキッチュな趣味をこき下ろした[★1]。そのような俗悪な「がらくた」からなる部屋に対して、マヤコフスキーは壁にレーニンの写真のみが掛けられたミニマルな部屋を理想とした[★2]。
けれどもロシア・アヴァンギャルドが掲げた反装飾・機能主義のストイックな美学は、間もなく他でもない党指導部によって否定されることになる。1933年、都市の住宅難のさらなる深刻化にもかかわらず、スターリンの右腕であるラーザリ・カガノヴィッチは、「プロレタリアは単に快適なだけでなく、美しい家をもつことを欲しているのだ」[★3]と主張した。さらに翌1934年の第17回共産党大会では、コミューンに対する批判も行われた。労働者同士の連帯によって形成されるコミューンから、婚姻と血縁からなる家族へ、党自らが一大転換を図ったのである。このような変化の一因となったのが、1920年代後半から労働の現場に導入された「社会主義的競争」の概念だった。
革命から1920年代前半にかけての時期には、「競争」には資本主義社会の「不健康なブルジョワ的風習」というネガティヴな烙印が押されていた。それに対してソ連の中央労働研究所では、「科学的労働の組織化 Научная организация труда(通称はNOT)」、すなわち人間と機械の運動を合理的に組織し、効率的な生産を可能にする方法が研究されていた。人間の身体もまた一個のメカニズムであると考えた同研究所のアレクセイ・ガスチェフらは、人間の集団と機械とが連動し混然一体となって生産活動を行う、ユートピア的協働の世界を目指したのである。
しかしスターリンによる第一次五カ年計画の開始とともに、風向きは変わる。1920年代末にいたっても、大多数の生産の現場では高度な機械化は実現されず、原始的な道具と人力に頼った作業が行われていた。そのような状況下で、人間と機械の協働モデルとは正反対の、肉体の限界を超えて働くことを美化する一種の精神論が喧伝されるようになったのである。その際導入されたのが、「社会主義的競争」であり、「突撃労働」[★4]と呼ばれる働き方だった。企業同士が互いに互いを潰しあう不毛で不健全な「資本主義的競争」に対して、社会主義的競争は国全体の生産性を向上させるものとして、イデオロギー的に正当化されていった。
突撃労働の「突撃 удар」とは、英語でいうところの shock に当たり、強烈な打撃を意味する。1920年代に労働の合理化を唱えたガスチェフらが、労働を人と機械の正確で効率的・反復的なリズムとしてとらえていたのに対して、突撃労働は──生産や建設を目的としているはずにもかかわらず──攻撃や破壊といったニュアンスを多分に含んでいた。そこでは安定的・恒常的な生産よりも、短期間の突貫労働によるノルマの超過達成や、ライバル工場を打ち負かすことが重視された。その結果も、決して生産的とは言えなかった。たとえば第一次五カ年計画の目玉だった北海・バルト海運河の建設では、強制収容所の政治犯らを労働力として利用し、右岸と左岸で建設速度を競い合わせた。それによって運河は予定よりも早く竣工したが、大型船舶が航行できないほど水深は浅く、慢性的な食糧不足と過労や事故のために、囚人の死亡率が10パーセントを超えることもあった[★5]。
このような社会主義的競争は、1930年代半ばには、「スタハーノフ主義運動」へと引き継がれる。スタハーノフとは、1935年にドンバスの炭鉱でノルマの14.5倍の石炭を切り出し、労働英雄と呼ばれたアレクセイ・スタハーノフのことを指す。1940年までには、ソ連の工業労働者のおよそ半分に当たる300万人がこの運動に参加していた[★6]。彼らのうち特に優秀な成績を収めた者には、給与の増額やボーナス、食料配給クーポン、日用品や時計、自転車、ラジオなどが与えられた。中でも最大の賞品が、家だった。大都市の住宅難がピークに達しようとしていた時期に、彼らには工場の予算によって家具つきの豪華な住宅が支給されたのである[★7]。
しかしスターリンによる第一次五カ年計画の開始とともに、風向きは変わる。1920年代末にいたっても、大多数の生産の現場では高度な機械化は実現されず、原始的な道具と人力に頼った作業が行われていた。そのような状況下で、人間と機械の協働モデルとは正反対の、肉体の限界を超えて働くことを美化する一種の精神論が喧伝されるようになったのである。その際導入されたのが、「社会主義的競争」であり、「突撃労働」[★4]と呼ばれる働き方だった。企業同士が互いに互いを潰しあう不毛で不健全な「資本主義的競争」に対して、社会主義的競争は国全体の生産性を向上させるものとして、イデオロギー的に正当化されていった。
突撃労働の「突撃 удар」とは、英語でいうところの shock に当たり、強烈な打撃を意味する。1920年代に労働の合理化を唱えたガスチェフらが、労働を人と機械の正確で効率的・反復的なリズムとしてとらえていたのに対して、突撃労働は──生産や建設を目的としているはずにもかかわらず──攻撃や破壊といったニュアンスを多分に含んでいた。そこでは安定的・恒常的な生産よりも、短期間の突貫労働によるノルマの超過達成や、ライバル工場を打ち負かすことが重視された。その結果も、決して生産的とは言えなかった。たとえば第一次五カ年計画の目玉だった北海・バルト海運河の建設では、強制収容所の政治犯らを労働力として利用し、右岸と左岸で建設速度を競い合わせた。それによって運河は予定よりも早く竣工したが、大型船舶が航行できないほど水深は浅く、慢性的な食糧不足と過労や事故のために、囚人の死亡率が10パーセントを超えることもあった[★5]。
このような社会主義的競争は、1930年代半ばには、「スタハーノフ主義運動」へと引き継がれる。スタハーノフとは、1935年にドンバスの炭鉱でノルマの14.5倍の石炭を切り出し、労働英雄と呼ばれたアレクセイ・スタハーノフのことを指す。1940年までには、ソ連の工業労働者のおよそ半分に当たる300万人がこの運動に参加していた[★6]。彼らのうち特に優秀な成績を収めた者には、給与の増額やボーナス、食料配給クーポン、日用品や時計、自転車、ラジオなどが与えられた。中でも最大の賞品が、家だった。大都市の住宅難がピークに達しようとしていた時期に、彼らには工場の予算によって家具つきの豪華な住宅が支給されたのである[★7]。
注意すべきは、これらソ連社会の新しいエリートたちに授与された住宅の形式だ。それらは独立したキッチンや浴室、トイレだけでなく、複数のベッドルームに加えて、場合によっては書斎、カード部屋、ダンス・ホール、使用人部屋などを備えていた[★8]。結果として労働英雄たちの生活は、1920年代に否定されたはずの、革命前の中産階級のそれと大差のないものになっていったのである。
もう一つの看過しえない変化が、労働の再ジェンダー化だった。突撃労働やスタハーノフ主義運動では、長時間にわたる過酷な肉体労働に打ち込まねばならない。ゆえに自然と女性は、これらの労働から弾き出されることになった。女性のスタハーノフ主義者がいなかったわけではないが、その多くは独身ないし子なしだった。労働英雄の夫をもつ妻たちは、彼らが労働に従事している間、自らも労働者として働くだけでなく、家事や育児を一手に引き受け、夫が気持ちよく休息できるように家を整えておく必要があった。結果として、男性が住宅に関わるのはその取得時のみで、実際の維持・管理は全面的に女性の手にゆだねられ、住まいは女性化していった。このようにスタハーノフ主義運動は、労働の現場だけでなく住宅の在りようや生活様式にも多大な変化をもたらしたのである。
このように1930年代には、同じ労働者であっても、いわゆる「勝ち組」と「負け組」が生まれ、社会の階層化が進んだ。そして新たに出現した特権階級のために、新たな住宅の建設が始まった。モスクワの目抜き通りであるゴーリキー通り(現トヴェルスカヤ通り)をはじめ、都市の主要な通りには、住宅難にあえぐ多くの都市住民を尻目に、「スターリンの家 сталинские дома」と呼ばれる豪奢な集合住宅が次々に建設されていった。
これらの住宅のいわば頂点を占めることになったのが、戦後のモスクワに建設されたスターリン高層建築のうち2本、コチェリニーチェスカヤ河岸通りのアパートメント(ドミトリー・チェチューリン他設計、1949年竣工)【図1】と、クドリンスカヤ広場のアパートメント(ミハイル・ポソーヒン、アショット・ムンドヤンツ設計、1954年竣工)【図2】だった。いまだ戦災復興の見通しも定かではない1947年、スターリンのイニシアチブによって、第二次世界大戦における勝利とモスクワ建都800年を記念して、首都の中心部に8本の高層ビルを建設することが決定された。このうち、先述の2本の集合住宅を含む7本が実際に建設された。
もう一つの看過しえない変化が、労働の再ジェンダー化だった。突撃労働やスタハーノフ主義運動では、長時間にわたる過酷な肉体労働に打ち込まねばならない。ゆえに自然と女性は、これらの労働から弾き出されることになった。女性のスタハーノフ主義者がいなかったわけではないが、その多くは独身ないし子なしだった。労働英雄の夫をもつ妻たちは、彼らが労働に従事している間、自らも労働者として働くだけでなく、家事や育児を一手に引き受け、夫が気持ちよく休息できるように家を整えておく必要があった。結果として、男性が住宅に関わるのはその取得時のみで、実際の維持・管理は全面的に女性の手にゆだねられ、住まいは女性化していった。このようにスタハーノフ主義運動は、労働の現場だけでなく住宅の在りようや生活様式にも多大な変化をもたらしたのである。
2.「スターリンの家」
このように1930年代には、同じ労働者であっても、いわゆる「勝ち組」と「負け組」が生まれ、社会の階層化が進んだ。そして新たに出現した特権階級のために、新たな住宅の建設が始まった。モスクワの目抜き通りであるゴーリキー通り(現トヴェルスカヤ通り)をはじめ、都市の主要な通りには、住宅難にあえぐ多くの都市住民を尻目に、「スターリンの家 сталинские дома」と呼ばれる豪奢な集合住宅が次々に建設されていった。
これらの住宅のいわば頂点を占めることになったのが、戦後のモスクワに建設されたスターリン高層建築のうち2本、コチェリニーチェスカヤ河岸通りのアパートメント(ドミトリー・チェチューリン他設計、1949年竣工)【図1】と、クドリンスカヤ広場のアパートメント(ミハイル・ポソーヒン、アショット・ムンドヤンツ設計、1954年竣工)【図2】だった。いまだ戦災復興の見通しも定かではない1947年、スターリンのイニシアチブによって、第二次世界大戦における勝利とモスクワ建都800年を記念して、首都の中心部に8本の高層ビルを建設することが決定された。このうち、先述の2本の集合住宅を含む7本が実際に建設された。


「スターリンの七姉妹」とも呼ばれるこれらの高層建築は、集合住宅だけでなくモスクワ大学校舎、外務省の庁舎、オフィス、ホテルなど、それぞれに異なる用途をもっていた。にもかかわらず、その外観はいずれも似通っている。中央に向けて高層化していく階段状の構造の頂点に尖塔を戴く、社会主義の摩天楼──実はこのデザインの決定には、スターリン自身の介入があった。コチェリニーチェスカヤ河岸通りのアパートメントの設計図に描かれた尖塔のモチーフをいたく気に入ったスターリンは、他の6本のビルにも同じものを設置するよう指示したという[★9]。ちなみに、赤い五芒星を擁するこの尖塔のモチーフは、クレムリンのスパースカヤ塔に由来している。スパースカヤ塔はソ連の(そしてソ連崩壊後はロシアの)指導者がそこから全国を統治する象徴的中心であり、当時はスターリン自身の建築的シンボルとみなされていた。いわばスターリンは、モスクワ中心部を見下ろすように、自らの分身として7つの高層建築を建設したのである。
さて、これら「七姉妹」のうち3番目に背の高いコチェリニーチェスカヤ河岸通りのアパートメントは、鉄筋コンクリート造で24階建て、最も高い部分で173メートルになる。アパートメント内には住宅700戸に加えて、各種店舗、食堂、郵便局、映画館などが配置され、建物内で生活が完結するようになっていた(寒いだけでなく路面の凍結のためにちょっと歩くのも億劫になるロシアの冬には、これほどありがたいことはない)。住宅は2LDKタイプが8割程度を占めたが、3LDKや4LDK、ワンルームも存在した。また、各戸に独立したキッチンや浴室、トイレがあるほか、冷蔵庫や乾燥機もあらかじめ設置されていた[★10]。当時の多くの都市住人が、混雑した共同キッチンで調理し、風呂はなく、共同トイレに毎朝列を作っていたことを考えると、これは圧倒的な贅沢だった。クレムリンの方角を向いたファサードの上部には、巨大なコムソモール(青年共産党員)の男女の彫像が設置され、エレベーターのあるエントランスホールは、社会主義のユートピアに暮らす喜びにみちた人びとのレリーフや天井画によって装飾された。
なおこのアパートメントはソ連文化人の住まいとして知られており、イワン・プィリエフなどの著名な映画監督、俳優、バレリーナ、作家、作曲家、さらには設計者のチェチューリン自身も居住していた[★11]。また、同アパートの建設には強制収容所の囚人たちが多数動員されたが、彼らの指揮や監督を行ったNKVD(秘密警察)の幹部たちもこのアパートに住んでいた[★12]。
もう一方のクドリンスカヤ広場のアパートメントを設計したのは、当時30代後半のポソーヒンとムドリャンツの若手コンビだった(なお、ポソーヒンはフルシチョフ時代にクレムリン脇の大会宮殿などの代表的建築を設計し、ソ連建築界の頂点に君臨する存在となる)。最も高い中央棟は160メートル、地上22階の高さで、こちらも2LDKを中心とする452戸の住宅のほか、各種の店舗やサーヴィス施設、映画館、住人用の巨大駐車場などを備えていた。各戸には独立したキッチンや浴室だけでなく、やはり当時のソ連としては最先端の設備──冷蔵庫や食洗器、自動ごみ粉砕処理機など──が備え付けられた[★13]。ただしクドリンスカヤ広場のアパートメントの場合は、竣工を迎える前にスターリンが死亡したことによって、当初の計画通りに仕上げることはできなかったという[★14]。
豪奢を極めたスターリン高層建築だが、実際に人びとがどのように住んでいたのかといえば、実は一戸に複数の家族が同居するという、コムナルカと同じ利用のされ方をしていることも少なくなかった[★15]。特権階級であっても、モスクワの危機的な住宅不足の影響を完全に免れることは難しかったようだ。
3.映画の中のスターリン住宅
コチェリニーチェスカヤ河岸通りのアパートメントとクドリンスカヤ広場のアパートメントは、都心に位置していることやソ連時代の集合住宅としては比較的インフラが整っていること(とはいえ上下水道やエレベーターなどはメンテナンス不足によりしばしば問題を起こしているようだが)によって、現在でも住宅マーケットでは高額で取引されている。民泊化されている部屋もあり、こちらも観光客に人気のようだ。だがそもそも、ロシアの人びとはこれら特権的な集合住宅に対して、どのようなイメージを抱いてきたのだろうか。ここでは、ソ連時代と2000年代に撮影された2本の映画作品におけるこれらのアパートの描写に注目してみたい。
先日物故したウラジーミル・メニショフ監督の映画『モスクワは涙を信じない Москва слезам не верит』(1979年)では、クドリンスカヤ広場のアパートメントが登場し、主人公の女性カテリーナの人生における転機の場となる。物語の前半の舞台は、1958年のモスクワ。20歳のカテリーナは、モスクワの寮に住み、工場で働きつつ学位の取得を目指す真面目な娘だった。だがあるとき、大学教授でクドリンスカヤ広場のアパートメントに住むおじ夫婦の旅行中、留守を預かることになる。そこで寮のルームメイトであるリュドミーラにそそのかされ、彼女はリュドミーラとともに教授令嬢を装って、各界で活躍する男たちをアパートに招待し、パーティーを開く。カテリーナはこのパーティーで知り合ったテレビ局で働く青年ルドルフに好意を抱き、なし崩し的にアパートで性的関係をもつ。しかしカテリーナが妊娠し、しかも実はただの工場労働者に過ぎないことが判明すると、ルドルフはあっけなく彼女を捨てて去っていくのだった。
カテリーナが他の娘たちと3人で暮らしている寮の狭苦しいワンルームと比べて、劇中に登場するおじのアパート──独立したキッチン【図3】、広いダイニングやリビング【図4】、書斎、テレビや冷蔵庫などの希少な家電や重厚な家具からなる──は、まさに夢のような空間だ。しかし正当な住人ではないカテリーナにとって、そこは偽りの住まいにすぎず、彼女は自らの嘘の代償として、独りで娘を育てていくことになるのである。


一方、2008年に公開されたワレーリー・トドロフスキー監督のミュージカル・コメディ『スチリャーギ Стиляги』には、コチェリニーチェスカヤ河岸通りのアパートメントが登場する。ここでも物語の舞台となるのは、1950年代後半のモスクワ。主人公メルス(Мэлс)は、マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンのそれぞれの頭文字からなる(当時としては一般的な)名をもつ、ごく普通の青年共産党員だった。だが、ある夜「スチリャーギ」と呼ばれる若者グループの一員のポリーナに一目ぼれしたことで、彼の日常は一変する。スチリャーギとは、アメリカ文化に熱狂したソ連の若者たちのことを指す。彼らは空想の中のアメリカ・イメージをもとに、極彩色のスーツやドレスをまとい、派手な髪形や化粧をし、ジャズやブギウギで踊り、英語交じりで会話した。当時のソ連では既に「雪解け」の時代が到来していたが、それでもこれらの若者は反ソ的、反社会主義的な不良とみなされていた。
劇中では、このスチリャーギのリーダー格の青年フレッド(本名はフョードル)とその両親が、コチェリニーチェスカヤ河岸通りのアパートメントに暮らしていることになっている。彼の父親は外務省の高級官僚で海外経験も豊富なため、フレッドは元から西側世界に近い位置におり、しかも父のアメリカ産の高級車を乗りこなしたり、外国人向けレストランに出入りしたりしている。そしてやはり彼も、両親が休暇で自宅を開けている間、仲間たちをアパートに呼び込んで盛大なパーティーを開く。
数十人の若者たちを収容できる広い室内、グランドピアノやテレビなどの高価な家財、そしてあふれんばかりの西側産の酒と音楽からなる空間は、主人公メルスの暮らす典型的なコムナルカとはまさに対照的だ。ちなみに『モスクワは涙を信じない』と同じく同作でも、メルスはフレッドの両親の寝室でポリーナと二人きりになった際にセックスに及ぼうとする。だが逆に他の仲間たちに知られ、彼らのからかいの的になって未遂に終わる。(明らかに『モスクワ』を意識した演出だが、同時に当時の若者たちにとって二人きりになれる密室がいかに貴重だったかも伺えよう)。なお、こののち二人は無事結ばれるが、ポリーナが妊娠したのは別の男の子だったというオチ(?)がつく。
『スチリャーギ』のアパート描写には、明らかな誇張も見られる。現実には、スターリン高層アパートの居住面積は、3LDKでも60平方メートル未満で、劇中のフレッド宅ほど広くはなかった[★16]。また『モスクワは涙を信じない』と同様に、『スチリャーギ』でもこのイメージ上の住まいにはどこか胡散臭いところがある。フレッドはもちろんアパートの正当な住人だが、エリートとしての特権的な地位を父親から引き継ぐために、やがて彼は奇抜な服装や行為を止め、スチリャーギを卒業する。そして外交官としての研修のために渡米し、彼らの憧れのアメリカが幻想であったことを知ってしまう。カテリーナの教授の娘という嘘が間もなく露見したのとは対照的に、フレッドはこの特権的空間を継承することと引き換えに、自らを偽り、幻滅を抱え、生涯にわたって「模範的ソ連人」を演じ続けることになるのである。
おわりに
スターリン時代の末期に出現した、これらエリート向け住宅は、都市の主要な道路の両脇に建設され、目抜き通りを美しくモニュメンタルに演出するという使命も帯びていた。そこで生み出されたのは、いわばソ連版ポチョムキンの街──ロシア帝国時代、エカチェリーナ女帝の巡察の際に、廷臣のポチョムキンが女帝の通る道に沿って美しい街並みの書割を用意し、女帝はそれと気づかずに上機嫌のまま通り過ぎていったという逸話がある──だった。それらは、戦災により多くの市民が住宅を失い、雨露をしのぐ場所にすら汲々としている現実を覆い隠すための美しいヴェールだったのである。
スターリンの死後、ソ連の住宅政策は次の指導者ニキータ・フルシチョフの下で一大転換を迎える。フルシチョフは革命来の「反・家」というポリシーを覆し、家族をすべての住まいの基本単位に定め、家族向け集合住宅の大量供給を開始するのである。大理石のパネルや彫刻、レリーフ、モザイク画などを動員して鉄筋コンクリートの構造を被覆した「スターリンの家」は、全面的なタイポロジー化と均質化へと向かうフルシチョフ時代の集合住宅とは、一見対蹠的な存在であるように思われる。しかし実のところ、このような転換の下地はスターリン時代のこれら新特権階級の住宅によって既に用意されていたのである。
次回は2021年11月配信の『ゲンロンβ67』に掲載予定です。
図版出典
【図1】Архитектура и строительство. 1949. №6.
【図2】著者撮影(2019年)
【図3】Москва слезам не верит 1 серия (FullHD, драма, реж. Владимир Меньшов, 1979 г.)、FSUE Mosfilm cinema concernによりアップロード、2013年3月1日。URL=https://youtu.be/X7GuhjGZ-xs、31:13 より引用
【図4】同前、43:17 より引用
※『モスクワは涙を信じない』はモスフィルム公式によって Youtube 上で公開中(英語、ロシア語等の字幕あり)
★1 Svetlana Boym, Common Places: Mythologies of Everyday Life in Russia (Cambridge: Harvard University Press, 1994), p. 35.
★2 Ibid., p. 38.
★3 IПерчик Л. Город социализма и его архитектура // Архитектура СССР. 1934. №1. С. 3.
★4 Toby Clark, “The ‘New Man’s Body: A Motif in Early Soviet Culture,” in Matthew Cullerne Bown and Brandon Taylor eds. Art of the Soviets: Painting, Sculpture and Architecture in a One-Party State, 1917-1992 (Manchester and New York: Manchester University Press, 1993), p. 42.
★5 Кокурин А., Моруков Ю. Сталинские стройки ГУЛАГа. 1930-1953. М., 2005. С. 522.
★6 Lewis H. Siegelbaum, Stakhanovism and the Politics of Productivity in the USSR, 1935-1941 (Cambridge: Cambridge University Press, 1988), pp. 146-147.
★7 Lynne Attwood, Gender and Housing in Soviet Russia: Private Life in a Public Space (Manchester and New York: Manchester University Press, 2010), p. 115.
★8 Ibid., p. 115.
★9 Alexei Tarkhanov, Sergei Kavtaradze, Stalinist Architecture (London: Laurence King Publishing, 1992), p. 141.
★10 Рубаненко Б. Архитектура высотного здания на Котельнической набережной в Москве // Архитектура СССР. 1952. №6. С. 7. Васькин А. А. Сталинские небоскребы. От Дворца Советов к высотным зданиям. М., 2009. С.167-168.
★11 Там же. С. 170.
★12 URL=http://moscowwalks.ru/2013/10/01/vysotka-v-kotelnikah/
★13 Васькин. Сталинские небоскребы. С. 208-209.
★14 Там же. С. 209.
★15 Кулакова И. История московского жилья. М., 2006. С. 203.
★16 2LDKの場合の居住面積は32.2平方メートル(キッチンや浴室、廊下などの面積を含めた住戸全体では66平方メートル)、3LDKの場合の居住面積は54.8平方メートル(全体では95.8平方メートル)、4LDKの場合の居住面積は81平方メートル(全体では143.5平方メートル)だった。Рубаненко. Архитектура высотного здания на Котельнической набережной в Москве. С. 11.


本田晃子
1979年岡山県岡山市生まれ。1998年、早稲田大学教育学部へ入学。2002年、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学表象文化論分野へ進学。2011年、同博士課程において博士号取得。日本学術振興会特別研究員、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター非常勤研究員、日露青年交流センター若手研究者等フェローシップなどを経て、現在は岡山大学社会文化科学研究科准教授。著書に『天体建築論 レオニドフとソ連邦の紙上建築時代』、『都市を上映せよ ソ連映画が築いたスターリニズムの建築空間』(いずれも東京大学出版会)など。
革命と住宅
- 革命と住宅 特設ページ
- 革命と住宅(最終回) 第5章 ブレジネフカ──ソ連団地の成熟と、社会主義住宅最後の実験(後篇)|本田晃子
- 革命と住宅(9) 第5章 ブレジネフカ──ソ連団地の成熟と、社会主義住宅最後の実験(前篇)|本田晃子
- 革命と住宅(8) 第4章 フルシチョーフカ──ソ連型団地の登場(後篇)|本田晃子
- 革命と住宅(7) 第4章 フルシチョーフカ──ソ連型団地の登場(前篇)|本田晃子
- 革命と住宅(6) 第3章 スターリン住宅──新しい階級の出現とエリートのための家|本田晃子
- 革命と住宅(5)第2章 コムナルカ──社会主義住宅のリアル(後)|本田晃子
- 革命と住宅(4)第2章 コムナルカ──社会主義住宅のリアル(中)|本田晃子
- 革命と住宅(3) 第2章 コムナルカ──社会主義住宅のリアル(前)|本田晃子
- 革命と住宅(2) ドム・コムーナ──社会主義的住まいの実験(後篇)|本田晃子
- 革命と住宅(1) ドム・コムーナ──社会主義的住まいの実験(前篇)|本田晃子




