革命と住宅(7) 第4章 フルシチョーフカ──ソ連型団地の登場(前篇)|本田晃子

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初出:2021年12月24日刊行『ゲンロンβ68』
前篇
 スターリン時代に、ソ連は反・家族の立場から家族の肯定へと、大きく舵を切った。しかもここでいう家族とは、スターリンを象徴的父とする国家家族観にもとづいた、家父長を中心とする家族だった。ソ連人民の「偉大なる父親」スターリン──かつて帝政時代に、ロシアの皇帝(ツァーリ)が占めていたポジションを、それを倒したはずのボリシェヴィキの指導者が引き継いだのである。こうしてスターリンの独裁体制の確立とともに、ソ連メディアは父としてのスターリンのイメージであふれた。ちなみに母のイメージはといえば、こちらは特定の人物に結び付けられることはなく、「母なる祖国 родина-мать★1として、外敵から守るべき祖国と同一視された。

 このような転換に呼応して、ソ連の住宅もドラスティックに変化した。1930年代後半には、19世紀のブルジョワ住宅を髣髴とさせる家族単位の集合住宅、「スターリンカ」が出現する。都市労働者の住宅難は悪化の一途をたどっていたにもかかわらず、この時期のソ連建築界では労働者住宅の問題は完全に置き去りにされ、エリート向けの住まいであるスターリンカばかりが注目を浴びていた。そしてこれらの住宅でとりわけ重視されたのが、親密さ(интимность)の感覚だった。それは重厚な家具や華やかな壁紙、たっぷりとしたドレープのあるカーテンやふわふわのクッション、フリンジのついたランプ──アヴァンギャルド詩人のウラジーミル・マヤコフスキーがまさにプチブル的悪趣味として断罪したものである──によって生み出された。1920年代には、少なくとも前衛建築家たちの間では、職場と住宅との間には本質的な区別はなく、両者とも合理性と協働をベースとする社会主義的空間として組織されるべきだという理念が共有されていた。しかし30年代には、労働が行われる公的空間と住宅という私的空間を切り離し、後者を半閉鎖的な親密圏とみなす新しい(あるは19世紀に戻ったかのような)住宅観が、ソ連建築界の主流を占めるようになったのである。

 もっとも、このような家族単位の独立した住まいや私的空間の取得が許されたのは、党幹部や労働英雄などの一部のエリート男性(=家長)に限られていた。しかも現実には、これら社会主義エリートの私的な空間は、「親密さ」の理想とは裏腹に、しばしば秘密警察の監視下に置かれていた。家父長的な家族体制に回帰したといっても、スターリンという象徴的父の前には、一家の長としての父の権力など無に等しかったのである。他方、当時の大多数の都市住民は、相変わらず混みあったコムナルカやバラック、寮などで、好むと好まざるとにかかわらず他人との共同生活を強いられていた。だが、1953年、スターリンの急死によって、ソ連の住宅はさらなる転換を迎えることになる。

1. 戦災とフルシチョフの転換


 戦前から続く住宅難に加え、大祖国戦争(独ソ戦)の戦場になったことによって、ソ連では既存の住宅のおよそ3分の1が失われたという★2。さらに戦後の都市部では人口も増加し、労働者住宅をめぐる環境は一層悪化した。1952年の調査によると、成人一人当たりの平均居住面積は、1940年の5.1平方メートルに対して、4.67平方メートルへと下落。都市住人の主たる住まいは仮設の小屋に複数のベッドを置いただけのバラックで、52年当時はそこに384万7000人が暮らしていた。これは1940年時点のバラック人口に対して、50パーセントの増加だった★3

 にもかかわらず、新規の住宅の建設は遅々として進まなかった。戦災による住宅産業へのダメージのみならず、統一された住宅政策の欠如も住宅供給の足かせとなった。さらに、中央政府と各都市や地方の行政機関の方針の食い違いが混乱に拍車をかけた。その結果、1950年になってもソ連における住宅ストックは、1940年時点の90%に満たなかったという★4前回取り上げた「スターリンの七姉妹」のエリート用住宅が、膨大な予算をつぎ込んであっという間に完成されたのとは対照的である。スターリンや党上層部が一般労働者の住宅の建設に対していかに無関心だったかがよくわかるだろう。

 しかしこのような状況は、スターリンの死とニキータ・フルシチョフの政権獲得によって、一転する。フルシチョフはスターリンの死後、他のライバルを追い落とし、1953年9月に共産党第一書記の座に就く。彼は元来モニュメンタルな建築よりもインフラストラクチャーの構築に興味を持っていたといわれるが、まもなくソ連の建築政策を180度転換する。その最初の契機となったのが、1954年12月7日、建築家とエンジニアたちを前にフルシチョフが行った、「工業的手法の幅広い導入、建設の質の改善とコスト削減について」と題された演説だった。国家元首の演説としては異例なことに、そこでフルシチョフは延々2時間にわたってコンクリート建築とその優位性について熱弁し続けた★5
 またフルシチョフはこの演説の中で、数年後に本格的に開始することになるスターリン批判のいわば試金石のように、スターリン時代の建築を激しく非難した。とりわけ槍玉に挙がったのが、ソヴィエト宮殿のような巨大で巨額の費用のかかる、しかも実際的な機能をもたないモニュメント建築だった。代わりにフルシチョフは、すべての家族に住まいを保障する「一家族、一住居」政策を掲げた。そしてその実現のため、彼は1958年に打ち出された7年計画において、1500万の新規住宅の建設を宣言する★6

 12年以内にすべての家族に独立した住宅を供給するというフルシチョフの目標は、彼自身の失脚もあり、完遂されることはなかった。だが、フルシチョフの住宅政策がソ連社会に与えた影響は絶大だった。1957年から1963年の間に、ソ連の人口の実に3分の1にあたる7500万もの人びとが新たな住居へと引越したといわれている★7。そしてソ連全土には、日本の公団団地に相当するコンクリート造の積層住宅、通称「フルシチョーフカ(хрущёвка)」が出現し、国土の景観を一変させることになった。

 現代ロシア人にとってのフルシチョーフカは、老朽化が激しく、断熱や防音などの性能に劣り、インフラは脆弱で、デザインは画一的、なにより狭すぎる、とすこぶる不評である。スラムを意味する単語トゥルショーバ(трущоба)とフルシチョーフカをかけて、フルシチョーバ(хрущёба)という蔑称で呼ばれることもある。実際現在のロシアの都市部では、フルシチョーフカの解体が続々と進められている。それでも、長らくバラックやコムナルカの超過密空間で生活せざるを得なかった1950年代のソ連人にとっては、フルシチョーフカへの引越しはまさに夢の実現だった。この「大引越し時代」の希望に満ちた雰囲気は、たとえばユーリー・ライズマンの映画『もしそれが愛なら? А если это любовь?』(1961年)の冒頭の場面に活写されている。このシーンでは、建設中(後方にクレーンが見える)の新興団地の子どもたちが、住宅地を横切って学校から家へと帰っていく。その途中で今まさに引越し作業中の現場に行きあたって、彼らはおしゃべりしながら搬入前の椅子にめいめい勝手に腰かける【図1】。しかしそれを見た新しい住人の女性は、怒るどころか笑顔で歓迎し、子どもたち(彼らも最近引越してきたばかりのはずだ)も「引越しおめでとう!」と彼女に明るく声をかける。同作に限らず、この時期のソ連メディアでは、建設現場と若者のイメージが頻繁に結びつけられた。例えば、まだ道路の舗装もされていない建設現場で結婚式を挙げている若いカップルを描いたユーリー・ピーメノフの《明日の道での結婚式》(1962年)は、ソ連の切手のデザインにも採用されている★8。その最たる例は、モスクワとシベリアでそれぞれ建設に携わる青年たちを主人公にした、ゲオルギー・ダネリヤ監督の映画『僕はモスクワを歩く Я шагаю по Москве』(1964年)だろう。同作の背景には、今まさに建設中のモスクワが次から次へと登場する。フルシチョフによる政治統制の一時的な緩和──いわゆる「雪解け」──とともに、新しい時代、建設の季節が到来したのである。
 
【図1】『もしそれが愛なら?』より、搬入前の椅子に座る子どもたち

2.フルシチョーフカの誕生


 フルシチョフの掲げた住宅供給の目標を実現するためには、当然ながら住宅の建設のプロセスを最大限効率化し、経済化する必要があった。もちろん、職人が煉瓦を手作業で積み上げていくような旧来の方法では、目標の達成は不可能だ。現場でコンクリートを打設するのにも時間がかかる。そこで導入されたのが、徹底的なプレファブリケーションだった。内外壁や柱、床スラブからドアの取っ手のようなディテールまで、あらゆるパーツは規格化され、工場で大量生産された。建設現場では、工場から輸送されてきたこれらのパーツが、大型クレーンなどを用いてまさにレゴブロックのように素早く組み立てられた。これらプレファブ化を前提とした建設方法のなかでも、その後ソ連の住宅産業の二大主流として定着したのが、大型パネル工法と大型ブロック工法だった。

 大型パネル工法では、住宅を構成するコンクリート・パネル【図2】を工場で生産し、それを現地で溶接しつつ組み立てていく【図3】。1920年代よりコンクリート・パネルを利用した住宅は散発的に建設されていたが、当時はコンクリートの価格の高さや現場での仕上げ作業の多さなどの点から、煉瓦を用いた従来の工法とコストはさほど変わらなかった。
 
【図2】外壁、内壁、断熱材からなる1枚当たり18平方メートルの壁パネル

 
【図3】大型パネル工法で建設された壁面

 
 本格的な規格化と大量生産の最初の試みは、1956年から58年にかけて、モスクワ南西部のノーヴィエ・チェリョームシュキ第9地区【図4】で行われた。ここでいう地区とは、徒歩でアクセス可能な小学校、幼稚園、保育園、各種商店、食堂、映画館、病院などを含んだ、その中で生活を完結させることができるエリア(近隣住区)を意味する。11.58ヘクタールからなるこの第九地区を舞台に、16棟の集合住宅と一連の施設を含む、総合的な開発が実施された。特に住宅に関しては、建設の効率性・経済性を比較するため、一棟当たり64戸からなる4階建てという同一の条件のもと、それぞれ異なる工法で建設が行われた★9。その中でも、大型パネル工法によって建設された棟はダントツで施工期間が短く(煉瓦の126日に対して90日)、建設効率が高かった(煉瓦の場合1立方メートルあたりの建設に0.9~1.05人を要するのに対して、0.5~0.6人)★10。この実験住宅では、それまで重すぎて取り扱いの難しかったパネルは軽量化され、さらにパネル内に水道管やガス管などが事前に組み込まれていた。仕上げの工程も多くはパネルを製造する工場内で済まされるか、仕上げ材の敷設・塗装で終わるよう簡素化されていた。

 
【図4】第9地区開発計画全体図(画面下方を占める1~14の細長い建物が集合住宅)

 
 もう一つの大型ブロック工法とは、工場で部材となるコンクリート・ブロックを製造し、現地でそれを組み立てる方法である。こちらも1920年代から既に用いられていたものの、当初のブロックは小型で、大量の異なる形状のブロックを組み合わせる必要があり、やはり建設にはコストと時間を要した。しかしその後の技術革新によって、ブロックは一室のサイズにまで大型化し【図5】、必要とされるブロックの数や種類は少なくなっていった。そして1957年、ノーヴィエ・チェリョームシュキの第12地区に、大型ブロック工法を採用した全16棟(各棟60戸)の5階建て集合住宅が建設される。工場で製造された部屋ユニットを大型トラックで輸送し【図6】、現地で組み立てる大型ブロック工法の施工期間は、大型パネル工法のそれよりもさらに短く、一棟あたりの建設にはわずか60日しか要さなかったという★11
 
【図5】大型ブロック工法による建設

 
【図6】輸送中のブロック

 
 このような動きと並行して、ソ連は1956年初頭に国家建設局の建築家たちを鉄筋コンクリート建築の先進国であるフランスのカミュ(Camus)社へと送っていた。これらノーヴィエ・チェリョームシュキの実験や、フランスのカミュ・システムを参照することで、1950年代後半から60年代初頭にかけての時期に、フルシチョーフカの代表作である大型パネル工法のI-335シリーズやI-464【図7】シリーズ、大型パネルに架構式構造を組み合わせたK-7シリーズ、大型ブロック工法のII-32シリーズが開発された★12。そして1957年、最初の住宅建設コンビナートが完成したことよって、これらの規格化された集合住宅の大量供給が本格的に開始されることになった。

 
【図7】ミンスクに建設されたI-464シリーズ


 
次回は2022年1月配信の『ゲンロンβ69』に掲載予定です。
 
図版出典
【図1】А если это любовь? (драма, реж. Юлий Райзман, 1961 г.)、Киноконцерн "Мосфильм" によりアップロード、2019年4月2日。URL=https://youtu.be/-2IhHYRXExU、11:46 より引用
※『もしそれが愛なら?』はモスフィルム公式によってYoutube上で公開中
【図2】Архитектура и строительство Москвы. 1957. №9.
【図3】Архитектура и строительство Москвы. 1957. №9.
【図4】Архитектура и строительство Москвы. 1957. №12.
【図5】Архитектура СССР. 1962. №3.
【図6】Строитекльство и архитектура Москвы. 1962. №4.
【図7】Архитектура СССР. 1962. №8.

 


★1 ロシア語の「祖国 родина(ロージナ)」は女性名詞であり、国民=子どもを生み出す母親というイメージと強く結びつけられている。
★2  Steven E. Harris, Communism on Tomorrow Street: Mass Housing and Everyday Life After Stalin (Washington, D.C.: Woodrow Wilson Center Press, 2013), p. 88.
★3 Lynne Attwood, Gender and Housing in Soviet Russia: Private Life in a Public Space (Manchester and New York: Manchester University Press, 2010), p. 146.
★4 Ibid.
★5  Thomas P. Whitney, ed., Khrushchev Speaks: Selected Speeches, Articles and Press Conferences, 1949-1961 (Ann Arbor: University of Michigan Press, 1963), pp. 153-192.
★6 Attwood, Gender and Housing in Soviet Russia , p. 154.
★7 Ibid., p. 170.
★8 URL=https://ru.wikipedia.org/wiki/Пименов,_Юрий_Иванович#/media/Файл:1973_CPA_4264_mint.jpg
★9 Гендель Я. Новые Черемушки, квартал № 9: некоторые итоги экспериментального строительства // Архитектура и строительство Москвы. 1957. №12. С. 3.
★10 Там же. С. 5-8.
★11 Остерман Н. Крупноблочные жилые дома с малометражными квартирами // Архитектура и строительство Москвы. 1957. №12. С. 16-20, Овсянников С. В квартале №12 Новых Черемушек // Архитектура и строительство Москвы. 1957. №4. С. 18.
★12 1963年までに大型パネル工法だけでも約20のシリーズが開発されたが、そのうち実際に建築された住宅全体の75%を六つのシリーズが占め、特にI-464シリーズはその経済性によって48パーセントを占めていたといわれる。Рубаненко Б. Основные направления индустриального строительсва жилых домов и массовых общественных зданий // Архитектура СССР. 1963. №8. С. 11-13.

本田晃子

1979年岡山県岡山市生まれ。1998年、早稲田大学教育学部へ入学。2002年、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学表象文化論分野へ進学。2011年、同博士課程において博士号取得。日本学術振興会特別研究員、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター非常勤研究員、日露青年交流センター若手研究者等フェローシップなどを経て、現在は岡山大学社会文化科学研究科准教授。著書に『天体建築論 レオニドフとソ連邦の紙上建築時代』、『都市を上映せよ ソ連映画が築いたスターリニズムの建築空間』(いずれも東京大学出版会)など。
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