チェルノブイリの勝者──放射能偵察小隊長の手記（10）｜セルゲイ・ミールヌイ　訳＝保坂三四郎

第32話　映画

「あらゆる芸術の中で我々にとって最も重要なのは映画である」

　ウラジーミル・イリイチ・レーニンの名言である［☆1］。

　チェルノブイリのキャンプにいる者なら誰もが同じことを言うだろう。

　映画はキャンプの住人が楽しみにしている娯楽である。とはいえ、他に娯楽がまったくないわけではない（原発や偵察の仕事そのものを楽しむ者もなかにはいる）。

　最初に次のような場面を思い浮かべてほしい（若僧のときにゾーシチェンコ［☆2］の著作で読んだ話だ）。大祖国戦争期［☆3］、映画制作者が出来たばかりの戦争映画の作品を前線に持ってきた。大盛況になるだろうという期待に胸を膨らませて。でも兵士たちは戦争を見せられることに喜びを覚えていたわけではない。本音では戦争には辟易し、なんでもいいから別のものを見たいと思っていた……　よかれと思い戦争映画を持ち込んだ連中の落胆ぶりは想像に難くない。

　チェルノブイリで映画を観るたびにいつも、この話を思い出した。

　そして思い出すたびにうれしくなった。チェルノブイリは見事に期待を裏切ってくれたからだ。

　映画はキャンプの閲兵ラインの向こう側で上映された。

　第25旅団のキャンプは巨大だ。作業員が住むテントが数列に分かれて延々と続く。テント前には将軍が兵卒を閲兵するための帯状の線（きれいに整地された玄関前道路のようなもの）があり、さらに向こうは松林への入り口となっている。

　この林の手前に拡がるだだっ広い草地にクラブが設営されている。

　しかし建物のようなものをイメージしたならばそれは大間違いだ。

　クラブといっても単に場所を示すだけ。平坦な空き地である。

　ベンチくらいはあるだろうというのもこれまた間違い。

　それに代えて考案されたのは、脚を入れておくためだけの側溝だ。

　何に座るかは人それぞれで、地面に直に座る者もいれば、ジャンパーや板を敷く者もいるが、脚は必ず側溝の中。その様はまるでベンチ。座り心地は悪くない。

　辺りが薄暗くなると、（昼間に映画告示を見た）作業員たちが野原にぽつりぽつりと集まってくる。普通は二人一組でジャンパーを持ってやって来る。ひとりが持って来たジャンパーを冷たい地面に敷き、もうひとりのジャンパーは夜の寒さを凌ぐため肩から被る。ぽかぽかして快適。上も下も。足は側溝にぶらぶら垂らす。草地の真ん中にある梨の木の上から見物する輩もいれば（いわばVIP席）、巡回上映設備の小屋の屋根によじ登って居座る者もいる……　タバコを吸い、煙がたなびく。そこにいる一人ひとりが解説者気取り。あらゆるシーンに口を出さずにはいられない。驚き、雄叫び、大爆笑。誰かがうまいこと表現したが、この様子はお祭り騒ぎそのもの。

　もっとも重要な芸術、と言われるゆえんだ。

　

──私の場合は偵察任務からの帰還が夜になることが多く、運良く間に合ったとしてもゆっくり鑑賞する暇などはなかったから、端のほうから友人と一緒に上映されている様子を観察していた。そこからは映画だけでなく、側溝に足を突っ込む観衆の反応もよく見えた。作品は普段よりダイナミック、新鮮に見えたような気がする……

　2本の映画が記憶に残っている……

　

　ひとつは「アフリカン」。

　たしかそんなタイトルだったと思う。

　フランスのカラー映画でアフリカを舞台にしたカラフルなアドベンチャー物（ゾーンには悲惨なまでに色彩が不足していた）。

　どういうわけかアフリカに住むことになったパリ出身の元夫婦に起こるハプニングの連続を明るくエキゾチックにユーモラスに描く……　エンディングには二人は仲直りし、一つ屋根の下、ではなく、テントの帆布の下で寝ることになるのだが…　次のシーン、朝の日差しが女性の顔に差し込む。女性はうつらうつらして「少しくらい寝かせてよ。やっと眠りについたばかりなんだから」とつぶやく。というのも、女性の胸元で毛布がごそごそ動いている。何かイヤらしいことが起こっている…　ここでカメラがズームアウトして象の鼻がスクリーンにあらわになる！テントに鼻を突っ込み、好物がないか探っていたが、たどり着いたのはここらしい……　これぞアフリカン。

　心底笑った。

　観衆は思い思いに感想を語るのに夢中。時おり大爆笑が起こったり、グループ間で怒号が飛び交ったりしている（テントの方から当直が「おまえら、みんな寝ているから静かに！」と叫んでも「映画やっているときに寝ている馬鹿がいるか！」と応える。夜の闇は顔も肩書きも見えなくしてしまうから怖いものなしだ）。ガヤガヤ騒ぎながら夜のキャンプの寝床に帰って行く。

　あらゆる芸術の中でも最も重要なのは……

　

　もうひとつの作品は、日本のアニメだ。

　カラー映画。

　広島。いや、もしかしたら長崎だったかもしれない。

　日本の家族。若い夫婦に子どもがひとりか二人。人並みの生活を送り、人並みの悩みを抱えている。毎日の食卓のパン、というより茶碗に盛られたご飯。いたずら好きな子どもたちの将来……　登場人物が共感を呼び、みな感情移入し始める。大人の男であれば誰もが必ず経験してきたこと……　そこに、爆弾投下！　あらゆるものが燃え崩れ、爆風、炎、地獄……　まさに生き地獄だ。主人公たちは生き残り、再会を果たした。爆心地から離れていたことが幸いした。よかった、助かった。抱擁と涙…　しかしそこに〈レヴィタン風〉［★1］の真面目な解説の音声が入る。

「しかし彼らはもうひとつの恐ろしい不幸が起こったことを知らなかった。この一帯で放射能汚染が起こっていたのだ…」

　そのとき、1000から1500人はいる防護服姿の大群衆の頭上に声には出さない疑問が浮かんだ。みんなほぼ反射的に「何レントゲン？」と心の中で呟いた。ここでは至って普通の質問で、一日に数十回は聞いたり聞かれたりする。「何レントゲン？」

　

何レントゲン？

　

　場が静寂に包まれる。

　普段は口数の多い1000人の群衆…

　このときだけはすっかり口をつぐんでしまった。

★第33話　テントが毎時2.3レントゲン！

　見習い兵Rは見た目がおサルさんそっくり。小柄で、一箇所にじっとしていることはなく、獣のようによく動く顔は金髪の短髪に縁取られている。

　ある朝、起床まであと数分となったところで床からむくっと起き上がると（古参兵が身につけている反射的行動だが、寝起きでぬくぬくとしているとき乱暴な「起床」のかけ声に不意をつかれぬよう、朝の決まった時間になると自分から起き上がるのである）、寝棚の上段に見習い兵Rが見えた。その姿といったらまるで……　しわくちゃのシーツに膝を曲げてしゃがみこみ、手で測定器をくるくる回し四方八方から覗き込んではその都度がっくり肩を落としている。動物園の猿が、檻の中に投げ込まれた、食べ物以外の物体を手でいじっている様子にそっくりだった……

　見ていた連中は思わず顔がほころんだ。

　Rは自分と同じ寝台上段にいる連中が笑っていることに気づくと（他の者を起こさぬように）声を押し殺してつぶやいた。

「測定器が2300を示しています！」

　Rは恐怖におののきながらも、将来の化学部隊士官としての辛抱強さと冷静心を失うまいと必死である。

「このテントのなかの放射線は毎時2レントゲン300ミリレントゲンです！」［注：23mSv/h］

　一日がこんな想定外から始まるとは。私を含む、寝台で上半身を起こしていた者は愉快にげらげら笑った。

「キーショー（起床）！」テントの外ではこの朝最初のかけ声が鳴り響く。「キーショーウー！ショーウー！ウー！」という声がやまびこのようにキャンプ中を駆け巡った。

「2300、といったか？」刈上げ頭が聞く。

「それは高いな」二つ目の頭は真剣そのものという感じにRの方を見た。

「本当だろうよ。線量はもとに戻りつつあるがね」三つ目の頭が反論する。

「そんなこと言われなくても分かる。よくなっているよ」刈上げ頭が三つ目の頭に賛同する。

　Rはこわばった表情で、そのむき出しの目玉は、こっちの頭を見たり、あっちの頭を見たりキョロキョロしている。「こいつらはいったい何ぬかしてやがるんだ？　頭がいかれちまったのか……　テントの中が2300なんだぞ！　しかも一晩中だったかもしれないのに！！？？」

　越冬用の断熱材を張った巨大なテント2棟に我々中隊総勢100名が収容されていた。テントの中はにぎやかで忙しない。目を覚まして欠伸をするとテントの小窓から外を眺め、さて今日一日何が待ち受けているのか、外はどんな天気か、などと考える。調子をつけるためにちょっと悪態をつき、仲間と言葉を交わす。いつもと変わらぬ光景……

「テントが2300なんです！！！」

「おまえ、夜中に何かが爆発した音でも聞こえたか？」

　Rは私たちを見ながら、何も聞こえなかったという意味で首を横に振った。

「いいえ、聞こえませんでした」

「じゃあ、安心していいよ」

「ここから原発までは35キロも離れている。しかも屋内だ。線量がレントゲン単位まで上がる？　ミリレントゲンではないぞ！　そんなこと、残りの原子炉が吹っ飛ばない限りありえない」

「まあ、最低一基はな」

「さらに、風がこっちの方向に吹くことも必要だ……」

「風向きからすればおれたちは最も安全な、原発から南の方角にいるんだ」

　Rはまだ疑い深そうに一人ひとりの顔を覗き込んでいる。

「よく考えれば分かることだ。普通、テントの中は毎時0.2ミリレントゲン（レントゲンの千分の一）！［注：2μSv/h］いったいどこから今回のような線量が出てくるっていうんだ……」

「線量はだいぶ改善されたよ」一人の同僚が中央の通路に向かいながら話をまとめにかかった。「一晩でまるまる1レントゲンも下がったんだから……」

「昨日の偵察中に故障して3300を出しやがった」別の同僚が便所に急ぐあまりついに真相を明かした。もう皆、我先にとテントの外のトイレへ向かっていた……

　見習い兵Rの表情から緊張が解けた。

──「そうか、アイディアとしては素晴らしいな……　そろそろ中隊長相手にこんな芝居打った方がいいかもしれない」

「たしかに。修理のことも考えてもらわないと……」

「そうでもしなきゃ、偵察に持って行けるやつがなくなっちまう。残った測定器がイカれるのも時間の問題だからな……」

第34話　古典

　チェルノブイリ市にある薬局の玄関で、ガラス窓に貼付けられたポスターを見て驚いた。手書き原稿を図面用コピー機で大量印刷したほとんど手作りのポスター。

　

靴をよく拭きましょう！！！
忘れたわけではないでしょう、
外から持ち込む
いろんな泥

　

　1920年代にマヤコフスキー［☆4］が創作した宣伝広告のひとつと同じではないか！

　チェルノブイリでは古典作品が異なる響きを伴って聞こえる…

　我々は薬局玄関に置かれた濡れ雑巾でいつもより念入りに靴を拭いた。

第35話　塀──言葉の芸術

「『塀』のことを何と言う？」

　放射能偵察課でいるとき、そんな謎めいた質問を耳にした。

　おやと思い、

「どういう意味？」と聞き返す。

「いや、何と言ったらいいのかなと思ってね。プリピャチのまわりにこれから作る、チクチクした針でできた塀のことを。お偉方のために地図は作ったんだが、そこに説明を書かなければいけなくてね…」

　私は目を細め、平時特有のさわやかな課題に飢えていた頭脳をちょっと働かせた……

　

プリピャチ市周囲に計画中の
有刺鉄線フェンス

　

　滅多にないことだが、この日だけは上司が私を尊敬の眼差しで見た……