ゲンロンサマリーズ(8)『ファスト&スロー』要約&レビュー|山本貴光

シェア
初出:2013年1月29日刊行『ゲンロンサマリーズ #68』
ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』、村井章子訳、早川書房、2012年11月
レビュアー:山本貴光
 
 
要約
二つのシステム ● 本書は、人が様々な状況で行う意思決定で、なぜエラーが生じるのかを、認知心理学や社会心理学の観点から、多数の実験・調査の結果を交えて考察している。 ● 人間の思考の仕方は速いもの(ファスト)と遅いもの(スロー)に分けられる。 ● (1)システム1:速い思考。直感。自動的に高速で働く。常時、印象を生み出し、瞬時につじつまの合う因果関係をつくりあげる。例)人の顔写真を見て怒っているのが分かる。 ● (2)システム2:遅い思考。熟考。怠け者で意識しないと働かない。努力を要する知的活動や論理思考ができる。例)17×24を計算する。 ● 人はほとんどの場合、(1)が生み出す印象に導かれて生活している。それでたいていはうまくいく。ただし、様々な「認知的錯覚」も生じる。 ● (1)の中心機能は「連想記憶」。ある言葉や知覚から、関連する記憶が活性化する。この限られた情報から因果関係がつくられ、直感的判断になる。
認知的錯誤 ● システム1が「統計的事実」を扱えないために様々な認知的錯誤が生じる。例えば、バスケの「ホットハンド」(たくさん得点する選手)という現象は、統計的にはランダムな事象だが、人は因果関係を「見て」しまう。 ● 「ヒューリスティクス」とは、本来答えるべき問題に対して、別の問題を「発見」して答えてしまうこと。例えば、統計で判断すべき問題に対して、思い出しやすい記憶や好き嫌いで判断するなど。 ● 「バイアス」とは、ある条件の下で系統的に生じてしまうエラーのこと。例えば、投票で、能力とは関係なく、見た目で判断してしまう「ハロー効果」など。 ● 投資家の運用実績を調べると、一貫した判断を下すアルゴリズムに負ける場合が多く、あまりスキルと関係がない。(ポール・ミール『臨床的予測対統計的予測』) ● ただし、「楽観バイアス」は資本主義の原動力でもある。アメリカでは、起業した会社が5年生き延びる確率は35%だが、起業家は自分の成功を60%と自信を持つ。   選択(エコン/ヒューマン) ● ベルヌーイ、後にフォン・ノイマンとモルゲンシュテルンが精緻化した「効用理論」は、経済的合理性に基づいて行動する人間(エコン)を前提としている。だが、これでは説明できない意思決定の事例がある。 ● 実際の人間(ヒューマン)は、小さな確率(稀な事象)を正当に評価できず、過大視し、表現次第で、同じリスクの受け止め方に大きな差が出る。 ● 著者たちの提唱した「プロスペクト理論」では、認知的錯覚に影響されるヒューマンの意思決定を説明する。これは行動経済学の貢献の一つだ。   二つの自己(記憶する自己/経験する自己) ● ヒューマンにおいては、「経験する自己」と「記憶する自己」がしばしば対立する。 ● 例えば、苦痛を伴う検査を受けた患者は、現に経験する苦痛の総量ではなく、記憶の中の苦痛(ピーク時と終了時)で判断する。 ● 人間の幸福を考えたり、制度を設計する場合、エコンではなく、ヒューマンの性質(弱み)を前提にする必要がある。 ● システム1による意思決定のエラーを防ぐには、システム2の応援を求めればよい。 ● エラー防止は、個人より組織のほうが優れている。思考のペースが遅く、規律と手続きに従って判断するためだ。
レビュー
【21世紀の人間本性論】  古来、いったいぜんたい人間とはどういうものなのか、ということが大いなる謎だった。とりわけ「心」の働きとなればなおのこと。西洋では、アリストテレスの『魂について』をはじめ、デカルト、ロック、スピノザ、ライプニッツ、ヒュームといった面々が「人間本性(human nature)」の謎に取り組んできた。近現代の心理学や脳科学はその末裔である。  本書は、認知心理学者のダニエル・カーネマンが、近年の心理学や脳科学の知見を幅広く見渡しながら、人間心理のエッセンスを案内してくれる本だ。心の多様な働きの中でも、特に「直感」をテーマとして、それが「なぜ誤るのか」というメカニズムを説くと共に、対処の仕方も指南してくれる。その意味では、よりよく生きるための実践の書でもあろう。  カーネマンは、2002年にノーベル経済学賞を受賞している。心理学者が経済学賞? それには訳がある。端的に言えば、従来の経済学の主流では、人間の心理をほとんど顧みていなかった。実際にはあり得ない「経済人(エコン)」を前提に理論が組み立てられていたのだが、それに対して、必ずしも合理的に判断できないし、一貫性もない「人間(ヒューマン)」についての経済学として「行動経済学」が提唱されるようになった。実際の人間をベースにするには、その心理のあり様を踏まえなければならない。そこでカーネマンのように、「間違える人間」を前提とした心理学の出番となったわけだ。  本書の大きな魅力は、たくさんの心理実験が紹介されているところにある。中には、読者が自分でテストして実感できるものもある。最後に一例を掲げることにしよう。直感に従って答えてみていただきたい。    バットとボールは合わせて1ドル10セントです。    バットはボールより1ドル高いです。    ではボールはいくらでしょう?  さて、最大の問題は、本書で人間観をヴァージョンアップできたとして、この無自覚にやってしまう認知的錯誤を、自分の生活や社会、さらには世界や歴史を眺めるときに、どう組み込んでいったらよいかということだろう。この本は、そんなふうに読者を誘っている。
 
 『ゲンロンサマリーズ』は2012年5月から2013年6月にかけて配信された、新刊人文書の要約&レビューマガジンです。ゲンロンショップにて、いくつかの号をまとめて収録したePub版も販売していますので、どうぞお買い求めください。
『ゲンロンサマリーズ』ePub版2013年1月号
『ゲンロンサマリーズ』Vol.1-Vol.108全号セット

山本貴光

1971年生まれ。文筆家・ゲーム作家。コーエーでのゲーム制作を経てフリーランス。著書に『投壜通信』(本の雑誌社)、『文学問題(F+f)+』(幻戯書房)、『「百学連環」を読む』(三省堂)、『文体の科学』(新潮社)、『世界が変わるプログラム入門』(ちくまプリマー新書)、『高校生のためのゲームで考える人工知能』(三宅陽一郎との共著、ちくまプリマー新書)、『脳がわかれば心がわかるか』(吉川浩満との共著、太田出版)、『サイエンス・ブック・トラベル』(編著、河出書房新社)など。翻訳にジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川と共訳、ちくま学芸文庫)、サレン&ジマーマン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ。ニューゲームズオーダーより再刊予定)など。
    コメントを残すにはログインしてください。

    ピックアップ

    NEWS