The Streets Are Alright.──ストリートは反革命の場となるか|中村拓哉

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2026年3月13日刊行『ゲンロンy』

 

 現代日本を理解しようとすれば、宇多丸がかつて言ったように「ヒップホップが似合う国」になったという言葉から始めるほかないように思われる★1。日本社会がヒップホップ化している?どういうことだろうか。

 私は最近、『日本語ラップ──繰り返し首を縦に振ること』という著作のなかで、日本語ラップと日本社会の関係をめぐり、以下の経緯を指摘した★2。戦後、経済成長を続け、1968年の全共闘の時代を経て大衆消費社会へとなだれ込んだ日本社会には、「中流幻想」が成立した。これは本来、左翼からすれば欺瞞的な論理であるはずだ(階級闘争の無効を宣言するものなのだから)。けれども80年代はポストモダンの大衆消費社会だった。「「中流幻想」の左翼的肯定」(大塚英志)の論理があらわれたことで、「中流幻想」はむしろ強化されることになった。いわば、日本は平等に豊かで平和で人種的軋轢もない社会だ、ということになったわけである。

 いま考えてみると皮肉なことである。当時、日本ではポストモダニズムが流行しており、「差異」というキーワードが盛んに唱えられていた。その「差異」が意味するところは、結局、資本主義における商品間の「差異」に切り詰められてしまい、むしろ強烈な社会の均質化に帰結したのだ。

 その後、この「中流幻想」は、主にふたつの側面から攻撃されることになった。ひとつには、左翼的な論理から。上記のような「差異」概念の切り詰めを批判し、「差異」の思考を徹底し、均質的な「中流幻想」を食い破ろうとする方向の批判が生じてきた。これは90年代に、「ポストコロニアリズム」や「カルチュラル・スタディーズ」が隆盛し、「ナショナリズム批判」が批評のキーワードになったことなどにあらわれている。また、もうひとつ別のルートからも「中流幻想」は切り崩されていった。左翼ではなく、反対の右翼側から、「ネオリベラリズム」と呼ばれるイデオロギーを通して、体制側が自らの手で、この金のかかる中流社会と縁を切ろうとし始めたのである。ネオリベラリズムの出現に対して、旧来のリベラルはむしろ戦後民主主義の保守を唱えることで対抗しようとしてきた。しかしそれでは議論が逆戻りするだけである。

 右傾化に抗おうとして、左翼の側が保守になる。こうしたジレンマは、いまも続いている。たとえば、かつて全共闘は戦後民主主義をこそ批判したが、90年代には右派の側から、新しい歴史教科書をつくる会などの戦後民主主義批判があらわれてきた。だからといってそのとき左派が、戦後民主主義の保守をみずからの立場とすることはできないだろう。

 右と左の双方向から進められた「中流幻想」の切り崩しのリアリティのなかで、日本語ラップは「ストリート」を発見した。ゼロ年代のことである。

ヒップホップ化する日本社会

 日本におけるネオリベラリズム政策の推進者として、2001年から2006年にかけて内閣総理大臣を務めた、小泉純一郎の名が挙げられる。彼は「構造改革」をスローガンに掲げた。その政治家の動向を、同時代のストリートも正面から受け止めていた。日本におけるストリート・ヒップホップの先駆者であるMSCが発表したのが、まさに「構造改革」(2002年)という曲だった。

中村拓哉

94年生。批評家。早稲田大学文化構想学部中退。2015年より、「韻踏み夫」名義で批評家/ライター活動を開始。著書に『日本語ラップ 繰り返し首を縦に振ること』(書肆侃々房、2025年)。韻踏み夫名義の著書に『日本語ラップ名盤100』(イースト・プレス、2022年)、論考に「六八年の持続としての批評──絓秀実『小説的強度』を読む」(赤井浩太・松田樹ほか『批評の歩き方』、人文書院、2024年)など。
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