デジタル帝国と電車男──専制と民主主義のはざまで|李舜志

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2026年3月13日刊行『ゲンロンy』

 

 今だから告白するが、ぼくは『電車男』(2004年)の単行本を買った。翌年に放映されたドラマもリアルタイムで全話観た。「彼女いない歴=年齢」の電車男が、匿名のネットユーザーたちと力を合わせて恋を成就させようとするストーリーに、素朴に感動したことを覚えている。

『電車男』は、匿名掲示板「2ちゃんねる」で実際に起きた出来事にもとづく作品で、平成のネット文化を象徴する事例である。そこには、インターネットやデジタル・テクノロジーがひとりの人生を変え、そして世界をも変えつつあるという高揚感があった。その熱気は当時14歳だったぼくをも包み込んでいたのだ。

 あれから20年以上、確かにテクノロジーは世界を変えた。しかしそれは、14歳のぼくが期待していたものではなかった。インターネットが築き上げたのが今のデジタル帝国主義だと知ったら、当時のぼくはひどく落胆したに違いない。

デジタル帝国とリバタリアニズム

 ネグリとハートの『〈帝国〉』を読むときに気づくのは、彼らの言う「帝国」が、古典的な「帝国主義」とはまったく違う概念だということだろう。帝国主義は、強力な国家がその力を外へ拡張していく物語だった。しかし「帝国」はそうではない。冷戦が終わり、国民国家が経済や文化の流れを制御できなくなった時代に現れたのは、国家や企業、国際機関、NGOといった多様なアクターが織りなすネットワーク型の統治体制だった。彼らはそれを「帝国」と呼んだ★1

 その秩序を駆動するのは、普遍的な理念でも共同体の善でもなく、欲望や快楽といったきわめて動物的なエネルギーだ。そのため帝国は個人の自由を最大限に尊重するリバタリアニズムと親和的である。

 この構図は、当時のインターネットに寄せられていた幻想と重なっている。国境を超え、中央集権を解体し、個人と個人を直接つなぐテクノロジー。そこに地球規模の連帯が生まれるのではないか、と多くの人が期待を寄せていた。帝国は同時にデジタル帝国でもあったのだ。

 実際、ネグリとハートは『叛逆』で「アラブの春」や「オキュパイ運動」を取り上げ、SNSを通じて動員された人々を「マルチチュード」と名付けた★2。動物的な生を否定するのではなく、そこから生まれる主体性に政治の可能性を託す──そこにマルチチュードの新しさがあった。そして、大げさかもしれないが、ぼくは電車男をサポートする匿名のネットユーザーたちにマルチチュードの可能性を垣間見た。

 けれども今、ぼくたちが見ている風景は大きく異なる。インターネットは、あっという間にGAFAMのプラットフォームに回収されてしまった。そこではかつて自由の根拠と考えられた欲望や快楽が、むしろ徹底的に管理され、アルゴリズムによって資源化されている。今現れているのは、マルチチュードのコモンではなく、新しい帝国主義的秩序だ。

李舜志

90年生。法政大学社会学部准教授。東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。博士(教育学)。著作に『ベルナール・スティグレールの哲学』(法政大学出版局)、『テクノ専制とコモンへの道』(集英社新書)。
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