簒奪される空間体験|四宮駿介

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2026年3月13日刊行『ゲンロンy』

 

 うだるような暑さで限界を迎えていたお盆休み。帰省するでもなく、せめてどこか出かけようかとInstagramを眺めていた。きれいなカフェや体験型施設の写真やストーリーが流れてくる。いつからかそういったものが琴線に触れなくなってしまった。テンションをあげようと、とっておきのK-POPマイベストを爆音で流す。10年前ぐらいの写真から順にドロップボックスの奥深くを漁り始めた。長い休みになると、不思議と近過去を懐古したくなるのは人間の性だろうか。8年前の写真で目が留まった。建築学専攻の学生時代、単身でオランダはロッテルダムの設計事務所にインターンに行っていた頃のものだ。海外も一人暮らしも初めてで、翻訳アプリの入ったスマホを竹槍のように握りしめ、不安の中で暮らしていた時期だった。

 目に留まったのは、アントワープのノートルダム大聖堂の側廊から、奥のステンドグラスを切り取った構図の写真であった。この場所を気に入って撮ったことは間違いない。しかし不思議なことに、『フランダースの犬』で有名なルーベンスの《キリストの昇架》や《キリストの降架》は1枚も撮っていなかった。観光地を訪れながら、その象徴的な絵画を写真に収めなかったのだ。SNS時代の若者としては失格かもしれない。

 ただ、その写真をきっかけに当時の感覚が蘇った。インターン生活が1カ月ほど過ぎ、ようやく日常に慣れた頃のことだ。土曜の朝にふと思い立ち、「アントワープに『フランダースの犬』の舞台となった教会があったはずだ」というおぼろげな記憶だけを頼りに隣国の港町を目指した。観光サイトでもない個人ブログの、ブレた写真を数枚見ただけ。マップで大まかな場所を確認し、最低限の装備で出発した。

 鉄とガラスと石でできたアントワープの駅舎を降り、ぶらぶらと街を歩く。直線的で近代的なロッテルダムとは異なり、曲がり道や街角のアート、白壁に映える赤いレンタサイクルが目に入る。文化の匂いを感じながら進むうちに、鬱屈とした不安は自然と晴れていった。

図1 アントワープのレンタサイクル。撮影=筆者

 やがて路地の先に聖堂の塔が見え、足取りが自然と速くなる。広場に出ると、その建物の大きさは想像の倍もあり、迫力に息を呑んだ。観光客の間をすり抜け、重い扉を押し開けた瞬間、呑んだ息がそのまま流れ出す。圧倒され、呆然とし、ただ立ち尽くす。感動という言葉では美化しすぎる。もっと生々しく、初めて味わう空間の手触りだった。特に心を打ったのは、軸線上の大伽藍ではなく、側廊から周歩廊を見やる視点だった。薄暗い空間に、ステンドグラスからの天空光が滲み、空気を満たしていた[図2]。

図2 アントワープのノートルダム大聖堂。撮影=筆者

 この一連の回想から思い至ったのは、観光ガイドや写真で情報として摂取していた場所であっても、現地での感覚はまったく別物であるという、当たり前の結論であった。そして同時に、この「現地で初めて完結する空間体験」が、現代ではどれほど困難になっているかを考えざるを得なかった。

 私は設計事務所で働き、日々図面やパースを描いている。それをクライアントに提示した瞬間、空間のイメージはある程度合意され、体験はほとんど完了してしまったかのような感触が残る。日常でも空間体験の洪水から逃れることはできない。SNSを開けば、まだ訪れていないカフェ、見たことのないホテル、住んだことのない部屋が次々に流れ込み、見られた瞬間に消費され、完了していく。そこでは「行って初めて体験する」という当たり前が失われ、空間体験はあらかじめ簒奪されている。

 

四宮駿介

94年生。設計事務所SUPPOSE DESIGN OFFICEに勤務。
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