天球から怪物へ──国学の図像的想像力|石橋直樹
ここに、ひとつの流れ着いた図がある。完全な円のうちに天と地と海が並べられ、その円そのものが世界を包含しているようにすらみえる[図1上]。これは地球だろうか。しかし、面足尊・綾惶根尊の神名がそれに対応する円に書き込まれるとき[図1下]、それはわれわれが知っている地球ではないことが明らかになる。少なくともいえるのは、この図は世界をひとつに記述していこうとする思考そのものであるということだろう。

宇宙はかくしてひとつの簡単な図に集約される。「古は地形方にして、未だ円なるを知らず。慶長年中、蛮人ここに往来して以後、正に人は地の表裏にありて、全体は円なるを知る。始めて聞く者はみな驚く[★1]」。図像という思考、それは形への衝撃とともにある。近世の日本において、ひとつの世界が構築されるとき、まさにそれはこのような〈図像的想像力〉とともにあった。
怪物的真理の発見
いま、ここで観ているのは、日本初の国産暦である貞享暦を作成した暦学者・渋川春海(1639─1715年)の世界図である。おそらく近世において最も卓越した科学者の一人であろう。
春海は、中国暦法の範とされる授時暦の推算法に習熟しながら、日本における地域差(里差)と時代差(消長法)を考慮に入れて貞享暦を作成した。しかし、春海には裏の顔があった。神道家として土守神道を創始し、神武天皇が作成したとされる「失われた古暦法」を復元していったのである[★2]。この復元は後世偽造とも指摘されるものなのであって[★3]、暦術や天文術を実際に運用する近世的科学者としての春海が、ある種の断絶をもって宗教者へと変貌していったといえる。
そこで問うべきは、科学なるものの反転可能性、すなわち、この科学思想の芽生えが切れ目なく、〈神代〉の発見という問題に変容していくこと自体だ。そうして発見された〈神代〉がたとえば、国学者の平田篤胤(1776─1843年)へと至ってどのように変遷していくのかということがこの新たな時代に考えられるべき問いなのである。
この春海が発見する〈神代〉は、アビ・ヴァールブルク(1866─1929年)がいうところの「怪物」(Monstrum)でありながら、なおかつ「真理」そのものであるような形をとっている。怪物でもあり真理でもあるところの〈怪物的真理〉。ヴァールブルクは古代末期アレクサンドリアの天球にある魔術的占星術が、ルネサンスにおいて古典古代のギリシャの数学的宇宙観の再生を経て、近代天文学へと進んだということを「怪物から天球へ」というテーゼにおいて述べている。というよりむしろ、怪物として星々の全体を記述する占星術的図像学が、数学的観測術と合致した結果、幾何学的宇宙観へと脱皮していく様子を述べる。
数学的抽象化と偶像礼拝による一体化というこの両極は、今日の自然科学者にはたしかに相容れないものに見えるだろう。しかし宗教改革時代の天文家は、自然のままの一個の魂が大きく揺れ動くさいの両端として、この両極を同時に視界に収めていたのである。論理学が概念的区別をおこなう記号化によって人間と対象の間に思考空間をつくりだすのに対して、魔術は、観念的か実践的かはともかく人間と対象とを迷信によってひとつに結び合わせることで、まさにその思考空間を再び破壊してしまう。しかし、この両者とも、占星術師が計測すると同時に魔術を行使しうるための統一的な原初的道具として、占星術の予言的思考のうちになおも働いているのである[★4]。
「数学的抽象化=論理学」と「偶像崇拝=魔術」とは、ヴァールブルクにおいて「直喩」と「隠喩」なのであり、数学的抽象化は実は相反するものとして魔術と同根であった。むしろこの揺れ動きのなかでしか世界は捉えることはできないのであって、それゆえ宗教改革時代の天文家たちは、まさに天球を幾何学的かつ数学的に止揚していくのである。
この「数学的抽象化=論理学」と「偶像崇拝=魔術」の奇跡的な一致点において誕生した科学としての天文学は、日本に輸入される過程でまた別の回路を辿ることとなる。近世日本における学知の輸入は、パラダイムそのものが分裂をきたしたために、往々にして世界を極めて不安定なものへと貶めてしまった。世界について、星辰について、宇宙について、天地開闢について、もはや統一的に語れることは何もなく、知は浮遊しはじめる。
朱子学や西洋科学という分裂したパラダイムの導入において見出されたひとつの真理はまさに、このように分裂してしまう世界を強い力において回復しようと努めるものであった。分裂した学知を統一しようとする運動は「真理の一元論」(彌永信美)と呼称されるが[★5]、知の危機において生み出されたそれこそ、極めて歪な〈怪物的真理〉である。
〈怪物的真理〉は、フロイトのいう「遡行作用 deferred action」の結果ともいうことができるひとつの真理である[★6]。象徴的な世界の分裂、すなわち意味の世界の割れ目を埋めるために、過去は遡及的に外傷化され、意味付けされる。分裂した象徴界を統合するものとして原光景としての〈神代〉が蘇生され、意味の裂け目がかろうじて埋められる。分裂した世界はその余剰において、かろうじて破滅を避けられるのである。「真理の一元論」において、根源的かつ怪物的な真理が見出されていく過程は、まさに〈神代〉という真理の余剰を世界に見出すことであったということができるだろう[★7]。
だからわれわれは、真理の一元論のはじめをこの渋川春海の時代におきながら、朱子学・西洋科学、そして神道がひとつに屹立していく姿を追跡していく必要がある。それは、まさに近世人が自らの存在を賭けながら神話を創造していく学知の共振として、「近世神話」(斎藤英喜・山下久夫)と呼称される世界のことでもある[★8]。たとえば、蘭学者の志筑忠雄(1760─1806年)は、宇宙誕生について次のように考えている。「微妙不測の神靈ありて、一個の絕點に來會することあれば、衆機動きて此に變合して、纔に微塵偏駁の境を生ず[★9]」。すなわち、超越的一者による何らかの契機から世界が回転をはじめ、空間が発生していく様を描くのである[図2]。西洋の創世記的世界観が、朱子学的世界と折衷して、世界創造というひとつの原初の真理を発見せしめているのである。

こうした思考法は、現代において極めて有効な解毒薬になるかもしれない。真理はひとつであるということを誰もが信じながらも、真理そのものは誰も信じていない現代において、意味世界は底抜けに分裂している。真理はひとつでなければならぬという〈大文字の他者〉の禁欲的な抑圧に対して、倫理的な裏切りとして、隠れた蜜のような真理を人々は享楽する。むしろ、真理がひとつであればこそ、人々は強迫的に「本当の真理」とされる有象無象の奔流を発見し、享楽してしまうのである。それは、ひとつの真理に対する裏切り、すなわち陰謀論的な真理を発見してしまうことである。
だが、分裂そのものの処方箋として現れた〈怪物的真理〉は、陰謀論的な真理に対しても有効な解毒薬になることは確かであろう。強迫的に人々を第二の、甘い真理へと赴かせる裏切りとしての陰謀論に対して、〈怪物的真理〉は真理がひとつでないところから立ち上がる。それは、真理の余剰において真理の分裂を乗り越えてしまうのであって、最後に現れるのはたったひとつの過剰すぎる真理なのである。そこには第一の真理に対する第二の真理というものはない。ただ分裂の乗り越えられたひとつの真理があるだけなのだ。
天文学自体にとって、そして復興時代の近世人たちにとって、より高次の理想的形態の指導者として立ちあがった〈神代〉は、まさに分裂した世界を統合する真理そのものへと姿を変える。これは、暦術や天文術に全く長けた近世科学者が、最終的に、〈神代〉の記述に帰着したという不可解な現象において端的に現れるものであろう。「西洋の天文学知識は、それら伝統的な学知と、時に柔軟に、時に強引に融合しながら、天地について語る上で無視できない知識としての地歩を固めていったのである[★10]」。
彼らは全く分析的な眼でもってこの世界を捉えながらも、それを飛び越えて魔術的な〈神代〉を要請している。われわれにとってそれは不可解であり、分析を超え出てしまったことによって生まれたものと解釈するかもしれない。しかし発見された〈神代〉は、分析的な学知から切れ目なく続く、根源的かつ〈怪物的な真理〉そのものなのである。
代数学的モデルと幾何学的モデル
科学史家の中山茂(1928─2014年)は、トマス・クーン(1922─1996年)の影響下において中国天文学と西洋天文学の差異を「代数的処理」と「幾何学的処理」の違いに見出している。
中国天文学においては、宇宙の運航をサイクル数の最小公倍数をとって統一的に説明しようとする自然観があったが、観測精度が向上したことで、簡単なサイクルでは説明できないような複雑なものであるということを知った。したがって天体の動きをもっぱら代数的に取り扱うようになった。そして、暦学という計算技術の精度が卓越していったという。これはすなわち、宇宙の形や統一的な理法にこだわることを回避し、気の理論として宇宙論を発展させてきたということを意味する。
これに対して西洋の天文学においては幾何学スキームを取り、観測と法則を循環させる形で天文学研究を進めていった。「このスキームは法則性の箱の役割をして、法則に合う観測と合わないものと明確に区別する。観測と法則が合わないのは、どちらかが悪いのだ。そこで観測をさらに精密にする。一方法則の方もさらに箱におさまらないものを容れるように、箱をつくりかえ、大きくする[★11]」。形体という幾何学的スキームへのこだわりが、西洋の天文学革命をもたらしたのである。
しかし、問題は近世の思想空間において、代数学的天文学優位の状況から幾何学的な西洋天文学へと移行したことの思想的意義であろう。近世日本の科学は、まさに代数的処理から幾何学的処理へと世界認識が変容していった。それは何よりも天地開闢の宇宙生成論において顕著な変容を示すものであったといわなければならない。
では、そうした代数学的であるとされる中国天文学は宇宙をどのように認識していたのか。古くよりその典拠とされる『淮南子』には次のようにある。
昔、共工は顓頊と帝爲らんことを爭ひ、怒りて不周の山に觸る。天柱折れ、地維絕え、天は西北に傾く。故に日月星辰移る。地は東南に滿たず、故に水潦塵埃歸す[★12]。
この『淮南子』のとる説はいわゆる「蓋天説」と呼ばれるものである。「蓋天説」とは、軽い気が上昇して天となり重い気が下降して地となるという説で、天地を固定した上下として把握し天地形成ののち万物が形成されるという考え方をとる[図3]。『淮南子』においては、天の運動がはじまったのを神話的な皇帝顓頊に帰し、中国から観測される北極点が北に傾いているため(これは実質的には緯度そのもの)、天自体が傾いていると判断した。ちなみに「杞憂」の故事は、このような宇宙観のもと天と地を支える柱が倒れてしまわないかという当時の人間の不安に由来している。

これに対して、もうひとつの宇宙論である「渾天説」は黄道と赤道を設定し、年周運動等を理論に組み込むことができるようなモデルとして張衡(78─139年)が大成したものである[図4]。

天は鶏の卵みたいなものであり、地は鶏の卵の黄味みたいなものであって、ぽつんと天の内部に位置している。天は大きくて、地は小さい。天の表側と裏側には水がある。天と地はいずれも気に乗っかって定立し、水に載っかって運行する。周天は365度と4分の1度ある。さらにそれを半分に分けると、その半分は他の上に覆いかぶさり、半分は地の下をとり囲んでいる。だから、28宿は半分が見え、半分が隠れるのである。天の回転は、車のこしきの運転みたいなものである、と[★13]。
これは、球として世界を捉えるため観測的事実に適合的である一方で、夜間に天が水没してしまうというような難点を依然として有している。
こうしたふたつの宇宙観を「気」の理論によって解消したのが朱熹(1130─1200年)であった。朱熹において宇宙は一気の回転運動において一元的に説明される[★14]。一気とは物質=エネルギーであると同時に空間そのものであり、世界の基体として位置付けられるもので、気の回転運動の速度の差異が気の濃淡をもたらし、諸部分に固有の物理的性質を発生させるものとした。気の回転運動が全てを説明する一元論である。回転によって気は水となり、また滓が凝結して地を生じさせ、そこから木や金などの物質が派生する。気から生成された諸天体は地とともに左旋運動を行い、その回転は水を球状に維持し、地を水に浮遊させる。かくして地球は「水球」として把握される。要するに、これによって渾天説の外側が固体であるということの不合理や、夜間天が水没することの経験的な不合理がモデルとして解決されているのである。
朱熹の提出した宇宙モデルとは、行き詰まっていた暦法主体の天文研究を活性化する、啓発的なものであったということができるだろう。代数的に処理することしかできなかったそれまでの天文学においては、たとえば一日の太陽の角速度なども太陽年を分割したものであり任意の値をとるにもかかわらず、それが自然の値と混同されて認識されているという事態すらあった。朱熹はそうした点に関して、宇宙生成モデルを案出した上で相対的な天文計算の枠組みを提示したのである。
宇宙モデルの再発見としての神道
日本においても、朱熹のモデルは極めて強い影響力を有していた。しかし、その輸入の過程において、神道が援用され、宇宙モデルは神の名とともに把握されるという異様な事態がおこる。先ほど紹介した渋川春海の図において神名が書かれているが、これこそ〈怪物的真理〉の発見ともいうべき事態である。
それは、近世におけるひとつの転換点であった。もっぱら代数学的なモデルに頼る暦学の大成者たる春海が、ここにおいて幾何学的モデルを用いながら世界を理解しているのである。この宇宙の幾何学化、すなわち図像的想像力は、神道の世界を経由して〈怪物的真理〉へと到達している。いささか難解になるが、春海による宇宙の幾何学化のプロジェクトをここで見ていこう。
近世、影響力を拡大していった朱子学は、さまざまな形で日本化されていくようになる[★15]。ここではじめて神道という問題が、世界を統一的に記述する真理として発見されていくようになる。朱熹のモデルを経由することによって、春海は天地開闢神話を朱子学の体系と渾然一体となったひとつの真理に結びつけていくことができたのである。
神代口訣に、天地の形を説く。忌部の正通の発明、千古に越ゆるなり。古いにしえは地形方にして、未だ円なるを知らず。慶長年中、蛮人ここに往来して以後、正に人は地の表裏にありて、全体は円なるを知る。始めて聞く者はみな驚く。張衡は表裏に水あるを曰ひし者にして、中古これを疑ひ、明に到つて復たこれを是となす。海水の東方に流るるは、天の気、西に行けば、すなはち東方の気、虚にして、西方の気、実なる故か[★16]。
まず、ここにおいて春海は『神皇実録』や『類聚神祇本源』などの中世伊勢神道の教説を引用しながら陰陽五行説を神名において捉えるという方法をとり、その上で冒頭の図を提出する。これは南北朝時代の神道家・忌部正通(生没年不詳)による『神代巻口訣』からの引用であり[図5]、まさにこの図こそ世界そのものを全て正しく表しているのだと述べる。当時の最新の天文知識を持っていた春海が真理を発見したのが、まさに神道においてであったことは非常に重要だろう。春海がいうには、正通の達見は何千年も越えるような代物であり、慶長に南蛮人が日本にやってきてようやく地球が球体であると言うことを知ったのであって、当時は地面は四角と考えられていたのだ、と。張衡もまた同様に地球の裏に水があるという渾天説を唱えたが、一度は廃れ今は正しいことが証明されたのだという。

暦という代数的処理において統一的な真理を見出していく春海の営みは、ここにきて朱子学の天文論を通過して宇宙論、とりわけ天地開闢論へと展開していく。そしてそれは所与の朱熹の言葉を用いてするのではなくして、第一に参照されるのは神道であり、神道を通過して複雑に混線する事象を統一的に説明していこうとする。たとえば宇宙の原理である「気」の理論を、日本においては神の名をもって称して、これを崇拝する国風があったと春海はいう。真理は必ず唯一なのだから日本と中国の記述は名前が違くても一致していなければならなかった。
実際のところ、中国の最新の気的宇宙論が日本の神道的世界観と合致するのは、『日本書紀』などの神典が『淮南子』を実際に参照していたからであり、日本と中国で同一の世界観を共有していたというところが大きい。しかし、春海はこうした事実よりはむしろ、最も古いものに最も究極的な真理があるという思考法によって、最新の科学的宇宙観に適合するものとしての「神道」を発見する。それは、純然な科学的宇宙観として単立することはない。そして、〈神代〉の記述というものが、新たな宇宙観に接合されて再構築されていくことで、宇宙観の知識はより怪物的に変容していくのである。春海の宇宙図は、まさに〈怪物的真理〉そのものとしての図像的想像力の産物であったということができるだろう。
円としての地球と〈幾何学的スキーム〉
18世紀から19世紀前半、寛政から天保期にかけては蘭学知識が本格的に輸入され、それまでのパラダイムとは全く異なる世界認識へと変貌するようになっていった。天体に絞っていえば、地動説が輸入されそれまでの代数的モデルから幾何的モデルへと決定的に転換していったものといわなければならない。そしてこれは、絵画における空間認識の変容と同時に発生しながら、文字通り認識そのものが転換していく契機となったのである。地球を球形に描く世界図は、極めて強烈な印象を与えた[★17]。
そのなかでも、カトリック宣教師のマテオ・リッチ(利瑪竇、1552─1610年)が1602年に作成した『坤輿万国全図』は、鎖国中も日本に輸入され視覚的イメージにおいて近世の現実認識に大きな影響を与えるようになる。中心となる世界図の周囲に九天図、日月蝕図などを配置し、余白に解説文を書き入れることによって、天文学的知識を伝えるのに役立った[図6]。巧みであったのは地球球体説の伝授においてであり、伝統的な渾天説を援用しながらも、中国文明圏の世界観に不合理なく西洋の地球球体説を接合していった。渾天説では前述の通り、地は四角いものとして捉えられていたが、リッチは渾天説を引きながら、地が四角ではなく丸であると否定することだけで簡単に地球球体説に結びつけてしまった。

また、清の游藝(生没年不詳)が1675年ごろにまとめた『天経或問』は、日本に輸入され知識人たちに爆発的に受容されていった。1730年に西川正休(1693─1756年)が訓点を施した和刻本が出版され、多数の註解書や関連書籍が国内で次々に刊行されるに至る。これもまた、イエズス会士が伝えた西洋天文説を集成しながら、それを理気論に接合して解説をしている。前述の渋川春海も、貞享暦改暦の際に同書を入手していたとされ[★18]、最新の科学知識が前述の図を成立せしめていた。
こうした西洋天文学知識の中心的伝道者に画家の司馬江漢(1747─1818年)がおり、大胆な色使いで地球球体説を紹介した「図像」は当時の人々に強烈な印象を残したという。江漢の描いた『地球全図』のもとになっているのは、1730年ごろにフランスで出版されたアレクシス・ジャイヨ(1632─1712年)の世界地図であるが、自らの画家としての経歴を活かして原図にはない異国の風景なども盛り込み、一枚一枚、丁寧に彩色して世に送り出した[★19]。司馬江漢は、『和蘭天説』においてコペルニクス(1473─1543年)の地動説を紹介し、それまでの『天経或問』におけるティコ・ブラーエ(1546─1601年)の折衷的宇宙観と対比している[★20][図7・8]。地動説の一般化の契機となるが、こうした宇宙観の紹介がいかに近世の思想空間に大きな影響を及ぼしたのかということは想像に難くない。


西洋科学の流入がもたらした認識的革新において重要だったのは、空間の均質化というよりは、異質な知が容易に魔術的な何かに転化するものであったということが大きい[★21]。
医者の橘南谿(1753─1805年)は、自作された望遠鏡を用いて日本初の天体観測会を行なった人物であるが、その際に月を『望遠鏡観諸曜記』としてスケッチし、望遠鏡で見た極大世界が、極小世界と合致する様を発見する[図9]。顕微鏡による微小空間と望遠鏡で見た極大世界の奇妙な一致。そこから全宇宙がたった一毫に過ぎないのではないかと直感し、顕微鏡によってわれわれの全宇宙を覗き込む巨大な人間を思い至る。南谿はいう。「今此天地は丸き物なり。此丸きものゝ集り寄合て水のごとく流るゝを。巨大の人有りて只水なりとおもひ居るに。傍より顕微鏡にて此水は丸きものゝ集り寄合て流るゝなりと沙汰し居る所無しともいふべからず[★22]」。

無限に広がる空間のどこか遠くにいて、宇宙をまるで銀河より大きなレンズを通して一滴の水滴のように見る目を見出したのである。西洋遠近法による均質的空間の描出が、それを「見おさめる」観測者という問題を惹起したことは、旧来の日本画との衝突において転換となる現象であったといわなければならない。重要なことは、西洋科学が持ち込んだ顕微鏡・望遠鏡が、むしろ逆説的に魔なるものを呼び込んでいくということであり、それは宗教的なものへと転化していくのである。
円運動する神々
ここに、ひとつの流れ着いた図がある[図10]。宇宙と思わしき全体が楕円形で示され、その最上部には「五柱別天神」として天御中主神・高御産巣日神、神産巣日神、可美葦牙比古遅神・天常立神の五柱をはいした特別の圏がある。そして、楕円形の内側には天照大御神・月夜見神が線上に配された「日月運旋光照」と記された二重線によって囲われる大きな圏があり、そのうちに3つの大きな円が描かれる。「地上」と描かれた方形の圏に囲われた上部の2つの円は、皇孫尊が配された円と少名毘古那神が配された円によって成り立っている。したがって、この2つの範囲が地上を、それより上部が天界を表していることがわかる。そしてその下に、伊邪那美命などが配された黄泉国=根国がある。これは、国学者・本居宣長(1730─1801年)によって、1786年(天明6年)ごろに描かれた「天地図」という図である。

注目すべきは図全体に描き込まれた線であろう。『古事記』の展開そのものを線によって描き出し、地が世界として成り立っていく過程そのものに「産霊」の力が内在していることを示している。そして、また黄泉国=根国から伸びる線は全て皇孫尊へと結びついており、天皇の統治そのものが地を覆っている。この線はのっぺりと方向性を失ったものとしては描かれておらず、明確に『古事記』の時系列を追いながら、その展開を「産霊」の力に結びつけているのである。そして、その時間的意識とともに地自体も漠然とした平面的広がりとして捉えられるのではなく、「天球」という円形の輪郭をもった存在として理解するようになったことが窺えるといえよう。「産霊」の力が世界の全てを創造し、天皇の全てを統治しているという『古事記』を超越していく神話。この「近世神話」の世界は、いかなるところからきたのだろうか。
本居宣長の世界理解と『三大考』
宣長は、『沙門文雄が九山八海解嘲論の弁』を記して旧来の仏教における須弥山説に対して反駁を行なったが、ここで地球球体説を援用している。これは仏教者の文雄(1700─1763年)が前述の『天経或問』を論駁した『九山八海解嘲論』を批判したもので、宣長は『天経或問』を援用する立場に立っているということができるだろう。
文雄が図のような形で、世界を須弥山として解釈していたのに対して[図11]、「釈迦のいへる世界の説は悉く虚妄にして、一ツも実なることなし[★23]」と宣長は厳しく批判する。そして、地球球体説に関して次のように述べるのである。

今その西洋の人の皇国唐国などに通ふ者、或は東よりも来る、これ地体円にして空に懸れる證拠なり、もし仏説の如くにては、西洋の人の東方より来ることは、須弥山をめぐり西洲北洲東洲を経ざれば、東より来ることあたはず[★24]。
宣長は『古事記伝』においては、世界の不可思議は不可思議のまま受け入れねばならぬという不可知論の立場を顕示していたが、ここにおいては、古伝に基づきながらも最新鋭の天文学知識を受容して宇宙論を語ろうとする姿が見られる。統一的な宇宙の理法によって世界を把握していこうとする営みがここにあるのである。しかし、それはあくまでも仏教の須弥山説批判として経験主義的立場を出ないものであって、世界を包括的に語れるような宇宙像の案出には至らなかった。そうした苦悩が、次の世代の〈図像的想像力〉を招来するのである。
宣長の弟子に和歌山藩士の服部中庸(1757─1824年)という人物がいる。服部中庸は『古事記伝』の宇宙観を図像的に把握しながら記述した﹃天地初発考﹄を宣長からの指示を受けながら発展させ、『三大考』という書籍を出版した。そして宣長は『古事記伝』の末尾にこの書籍を付録として掲載し、『古事記伝』に不足していた統一的な宇宙観の補完として機能させた[★25]。これが、決定的に国学を〈図像的想像力〉として独立させ、最新の天文学と古伝を結びつけたのである。
中庸は、後代の視点から推論を重ねるのではなく、〈神代〉から伝えられた真の説を「さかしら」なく信じることによってしか、天地のはじまりを知ることはできないとする。中国の説が理を深淵にして信じるに値するものと思われる一方で、自国の説が理がないように聞こえるが、後世になって事物の理が明らかに精緻になっていくにつれて、自国の説が矛盾せずむしろ正しいものであったことが強調される。この際に参照されるのは西洋天文学の知識であり、自国の古伝はそれらの最新知識といかようにも矛盾しないものである。しかし、最新鋭の知識であっても、天地がどうしてこのようになったのかという原初については知りようがない。そうした際に、〈神代〉から受け継がれた正しい古伝をそのままに受け入れることで、原初の時は明らかになるものとする。このような取り組みとして、宣長の『古事記伝』は比類なき偉業であると位置付けているのである。
では、中庸によって明らかにされた「天地初発」とは、いったいいかなる様であったのだろうか。まずはじめに、宇宙のはじまりにおいて「虚空」のなかに、天御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の三柱が出現する。そこに、世界が分化していく原基となる「一物」が出現し、「一物」はそこから上方に伸び上がっていき可美葦牙比古遅神・天常立神の二柱が登場する。この伸び上がっていったものが天となり、残った「一物」がのちに固まって地となった。そしてここで、引用した第五図が登場する[図12]。第五図は地の表層構造について説明した図像であり、最頂部には「皇国」、その他の陸地には「外国」が置かれ、天と接する繋ぎ目には「天浮橋」が描かれる。「一物」の垂れ下がったものとしての黄泉国へは、「黄泉比良坂」がその繋ぎ目となる。

興味深いのは第九図であろう[図13]。これは、天と地と泉の分離直後の状態を表す。元々、天と地と泉は「天浮橋」や「黄泉比良坂」によって地続きにつながっていたのであるが、三世界をつなぐ紐帯は切り離され、紐帯のあった場所はその名残が残されている。中庸は、この分離を胎児の臍の緒が出生後に切れるようなものであると喩えた。特に、天と地の紐帯として「皇国」が存在しており、天孫降臨によってこうした天地の関係は完成し、同時に地と泉の分離は人間の死が不可逆的になったことを表している。そして、この分離によって太陽と認識される天=日、また、泉=月が、地=地球の周りを廻っているという地球球体説と天動説が、古伝と適合されて理解されていくのである。富士山や浅間山は、地球と太陽、月が切り離された名残であるのだというように述べられもしている。

このように中庸は「虚空」のなかへの三神の出現から天=日、地=地球、泉=月の分離までを『古事記』に照らして再構築していくことで、地球球体説と天動説をともに古伝のなかに復活させていったのである。西洋からもたらされた「天球」という新しき智慧は、より古い『古事記』を復活させ、その接合のなかで〈怪物的真理〉がもたらされていった。それは、世界を〈幾何学的スキーム〉のもとに把握するという認識的な転換のなかで、『古事記』内のテクスト的現実がある種の変容を迫られたものということができるだろう。近世思想史家の金沢英之(1969年生)は次のように述べている。
地球概念、日月地の大小、そして地動説といった、宇宙構造に関する自然科学的知識の受容は、地の世界が地球という一個の天体であるという認識、また日や月が天体という資格においてこの地球と相並ぶ存在であるという認識をもたらし、それにより、中庸に至る当時の近世人にとっての現実認識はそれ以前の人間が持っていたものから変容を遂げていたと考えられる。こうした新たな現実を説明する文字通りの「神話」として『古事記』を読むこと。それが中庸が眼前にしていた課題だったのである。現実に自分たちが日々眼にしている日や月がそれぞれに地球と同様の「世界」であるのなら、「神話」である『古事記』はそうした「世界」としての日や月を含む現実の由来、根拠を説明し得るものでなくてはならない[★26]。
中庸の「神話」としての読み替え、それは西洋天文学の流入のなかで、世界認識そのものの転換をどのように受け入れていくかということに賭けられていた。認識そのものが分裂していくなかで、どのように「ひとつの真理」を構築していくかという現実認識の問題として「図像」は発明されているのである。しかし、それは『古事記』本文に書かれた世界理解を一足飛びに越えていってしまうものであった。『三大考』は、そうした事情から宣長門下から激しい非難にさらされ、長く論争が続いていくことになる。
『三大考』の有力な批判者であった宣長の養子・本居大平(1756─1833年)は、『麻ま杼ど比ひ袁を阿あ羅ら多た武む倍へ岐き迦か多た』と『三大考弁』を著し、『三大考』に本格的に反駁した。特に、『麻杼比袁阿羅多武倍岐迦多』においては、天地の成り立ちが数枚の図像によって描かれ、黄泉=月説などが『古事記』からは読解できないということを批判している。大平の立場としては、宣長の方法論を忠実に守り、古伝を言葉通り読んで、「さかしら」を加えることなくあるがままに受け取らなければならないというものがあった。『古事記』がその残された文章からは、天地の生成について何も語ることがないために、天地がどのように生まれていったかということを『古事記』の冒頭部分から読み取ることはできないのである。
『麻杼比袁阿羅多武倍岐迦多』の図像は、国産み神話を基にすることで、「地」の世界の誕生のみに焦点を絞り、日、月という存在を排斥していくという構想において成り立っているものということができるだろう。その図像では伊邪那岐命・伊邪那美命の国産みによって生まれた島々が地中から浮き上がっており、その球体である地球の中心に「黄泉」が存在している。大平の図像においては端的に「地」のみが存在し、伊邪那岐命・伊邪那美命の国産み以前の「天地初発」を意図的に何も語っていない。これは、むしろ中庸による原初を見てしまう想像力を拒絶したものなのであって、不可知のことを不可知のままおいておく師の方法論を墨守したものであるということができるだろう。しかし、何よりもそうした原初を見てしまう想像力を招き入れたのは、宣長自身であったといわなければならない。それこそまさに、近世という時代の分裂した世界を「ひとつの真理」に統合するリアリティが要請されているのである。
「見かけ」を突破する平田篤胤
『古事記』からはどうしても飛び越えていってしまう読みを、さらにはるかに彼方へと駆け抜けていくのは、国学者・平田篤胤(1776─1843年)であった。篤胤は、『霊能真柱』で『三大考』の大枠を組み替えながら、近世人のリアリティを「図像」を引用しながら再編成していくのである。そしてそれは、「見かけ」の突破、すなわち見えている現象のコペルニクス的転回として「図像」を反転させることにあった。
篤胤はいう。基本的に『三大考』の枠組みに賛同しながらも、古伝にも様々混乱したものがあることを弁えていないので、私篤胤としては新たに古伝を整理し、選別することでその誤りに気づき、新たに書籍を記す必要が生じた、と。例えば、次に引く第四図においては国之底立神・豊斟渟神が黄泉に配置され、この二柱の誕生とともに重い「一物」が落ちていって黄泉が誕生したものとしている[図14]。

『霊能真柱』を読むにあたって、その中心的な神学となる「死後」の話もここで簡単に省察しておかなければならないだろう。元々宣長の神学においては、黄泉国は死後の国とされ、死んだ魂が行く場所というように考えられていた。しかし、篤胤は人も神も、そんな穢れた世界に行くわけがないではないか、と反駁して黄泉国と死後の世界を分けるのである。『古事記伝』の師匠説に異を唱えて述べるところによれば、穢れの行き着く先である黄泉国と、死後の魂が赴く場所としての幽冥界との区別を明確に行うのである。
此の國土の人の死て、その魂の行方は、何處ぞと云ふに、常磐にこの國土に居ること、古傳の趣きと、今の現の事實とを考へわたして、明に知らるれども[……]抑、その冥府と云ふは、此顯國をおきて別に一處あるにもあらず、直にこの顯國の内いづこにも有なれども、幽冥にして、現世とは隔り見えず、故もろこし人も、幽冥また冥府とは云へるなり。され、其冥府よりは、人のしわざのよく見ゆめるを(此は、古今の事實の上にて、明にしか知らるゝことなければ、今例を擧げていはずとも誰も知らなむ、)顯世よりは、その幽冥を見ることあたはず、そを譬えば、燈火の籠を、白きと黑きとの紙もて、中間よりはり分ち、そを一間におきたらむが如く、その闇方よりは、明方のよく見ゆれど、明き方よりは、闇き方の見えぬを以て、此差別を曉り、はた幽冥の畏きことをも曉りねかし。(但し此はたゞに、顯明と、幽冥の別をたとへたるのみぞ、その冥府は闇く、顯し世のみ、明きとのことにはあらず、な思ひ混へそよ)。[★27]
この国土の人が死んだあと、その魂はどこへ行くかといえば、それは永久にこの国土にいるのである。このことは古伝と、現在見聞きする事実から考えて明らかに知られることある。そもそもその冥府というのは、この国土の外のどこかにあるわけではない。この国土の内のどこかにあるのであるが、ただ「ほのか」にして現世とは隔たっており、目に見ることができないのである。その冥府からは現世の人の仕業はよく見えるのであるが、この現世からはその幽冥を見ることができない。それをたとえば、燈火の籠を白と黒との紙を持って中間からはり分けて、それを一室においたときのように、その暗い方から明るい方はよく見えても、明るい方から暗い方はよく見えないのである……。
篤胤は、このようにあの世の存在を明らかにすることで、近世人のリアリティを再構築していった。それは、『古事記』読解からはるかにはみ出してしまうような再構築なのであり、何よりも世界認識そのものを『古事記』もろともに大きく書き換える営みであったということができるだろう。そして、この死後の再構築にあたって黄泉を「月」として実体的に把握して、死後の世界としてしまうことは支障があった。死後の生そのものが、穢れの世界と同一視されてしまうのであって、そうした神学は全くリアリティに則していなかったからである。したがって、黄泉を国之底立神・豊斟渟神とともに天に対応する形で分離させ、純白なる天に対して、汚穢の集まる黄泉を仮構していく。
図像的想像力が、ここで〈怪物的真理〉としての幽冥界を呼び起こしているのだが、それは単に図として世界を把握するイコノロジーによってではない。明るいところから暗いところは見えないという燈火の経験的事実を挙げながら、それまでの世界における「図」と「地」を反転させてしまったのである。見えているものは全てではない、何よりも明るいところから暗いところが見えないように、われわれが見えているのはその一部である。世界そのものが図的に反転される。そしてそこに幽冥界という余剰としての怪物的真理が発見されるのである。
これは、現実自体をその過剰性において反転させる作業であったということができるだろう。現実の真理は過剰である。そのことはその真理そのものをも包含する不可視の全体を意味している。真理の分裂を「見かけ」としてそのまま反転させてしまっているのである。
『霊能真柱』にある、この第五図に注目してみたい[図15]。これは中庸の『三大考』になかった独自の図像である。これは、天動説をとっていた中庸に対して、篤胤が地動説を持ち込んだことを示している。すなわち、早い段階で天と地が切り離されており、地が日の周りを早い段階から巡っていたことを図像として理解しているのである。

さて。しか正しく三つと成りて。天つ日は。高く上に位を定めて。動ごき轉ることなく。地は元よりのまゝに漂旋ぐり。月泉は地の底にて。もと地につきて。漂ひ施れる物なるけにや。斷れ離れて後もその如く。地に屬て施ること。今の現に見るが如し。(たゞし、此は古傳に因り現に見るところの、事實に測考へているなれども、事實にうとき人は今見るに、日は東に出て西に沒ると見ゆるを以て、地の旋ると云ふを、異み思ふめれど、其は、その身の微少ことを思はざればなり、地は虚空に漂ひ、日に屬て轉旋るを、人のしらで、日の旋ると思ふことは、譬へば舟に乗りて川を行くに、舟は其の儘にあて。岸の移ると見ゆるが如し、其は實は岸の移るにはあらずて、舟の行くなるを以て、この理を悟るべし、此は事舊たる譬なれどせめて云ふなり、また、予がこの天つ日は動かて、地と月とは、旋るといふ說を、外つ國人の說に因れりなどな思ひそよ、此は、古傳の趣きに灼然く見えたる事實によりて、考へ出たるなるを、その適に外つ國人の說に似たるは、彼が强に考へたる說の、古傳に合るにこそあれ、わが說の、彼れに似たるには、非ずなむ、)これらのことすべて神の產靈の。奇く妙なる理によりて。然るなれば。更に人の小き智をもて。とかく測識るべき限にあらず[★28]。
日・地・泉がはっきりと3つに分かれた後、天つ日は高く上に位置を定めて動き転ることなく、地は元のままに漂い巡り、泉は地の底に成り元来地続きに地とともに漂い巡っていた。そのためであったろうか、月はわかれた後も地とともに廻ることになった。これらは、いま、われわれが事実見ている通りである。これは、古伝によりつつ、また現に見るところの事実によって測り考えていうところであるが、事実を正しく見ない者は、今見ても日は東に出て、西に没するではないかと、地動説をあやしむだろうけれども、それはその身が微小であることを思わないからである。地は大空に漂って日のまわりを廻るものであるが、それを逆に日が廻ると思うのは、たとえば、舟に乗って川を進むとき、舟が止まっていて岸が移るように考えるのと同じである。事実は、岸が移るのではなく、舟が進むのである。こうした説を外国の人々の説によるものであると考えるな。これは古伝にはっきりと示された事実によって考えたものであり、それが偶然外国の説に似ているのは、彼らが必死に考えた説が、われわれの古伝に合致したのであって、こちらの説があちらの説に似ているというようなことではない……。
篤胤は舟の比喩を用いて地動説の観測上の問題を説明する。地動説の図と地を入れ替えるような思考をそのまま神話に導入しながらも、その事実は「小智」によるものではなくあくまでも古伝によって導かれる事実なのだとその図と地をもういちど反転させていくのである。科学的知を媒介としながらも、そんな事実は元々見えていたことではないかと宣長の〈自ずから〉の思考を先鋭化させていくといえよう。現実の真理そのものを「見かけ」としてコペルニクス的転回を引き起こしてしまう。その発見された真理は全く嘘とも言い切れないような、過剰な現実が裏返ったものである。裏返った余剰は、端的に世界そのものを包含する怪物的真理へと姿を変えてしまうのである。
ここまで見てみることによって、篤胤の知そのものをパラダイム中の認識変容を基とした創造的行為と見ることが拓けてくる。篤胤は学知のなかからその余剰を見出し、その余剰において神を召喚する。余剰な現実を、その余剰さにおいて「間違ってもいないが正しくもない」真理として包含してしまう。現実を倍化していくことによって、それを反転させてしまうのである。そして結局はその「間違ってもいないが正しくもない」真理こそ、一元化された真理、より正確にいうならば真理であると仮構された得体のしれない何か、すなわち〈怪物的真理〉なのである。篤胤はこの「真理の一元論」のなかに位置付けられなければならないだろう。真理はひとつでなければならない、それは現代的な科学なるものを基準としては一切読み込むことができない何ものかであり、あらゆるアナクロニズムを避けながらその系譜を追いかけていく必要があるだろう。
国学思想は超克する
本稿は、近世日本における世界認識の再編過程そのものを図像を媒介した知の統合として読み替え、〈幾何学的スキーム〉から〈図像的想像力〉、〈怪物的真理〉へという展開において把握していった。まず、渋川春海の宇宙図に見られるように、最新の暦算知と神道的言説が図像空間で接合されるとき、世界は幾何学的に構造化されつつ、神名によって語り直される。この図像化は単なる可視化ではなく、観測と法則を循環させる〈幾何学的スキーム〉に神話的意味を充填する操作であり、その結節において一元的で強力だが合理/非合理の境を横断する真理たる〈怪物的真理〉が要請される、という逆説的事態が生起する。
この構図は、アビ・ヴァールブルクが述べた「怪物から天球へ」という図像学的転位の日本的変奏として把握されなければならないだろう。すなわち、占星術的・魔術的図像が数学的観測と結合して「天球」の幾何学へ昇華するというヨーロッパ的経路に対し、日本では暦算(代数的処理)と朱子学の気的宇宙論が受け皿となり、そこへリッチの『坤輿万国全図』や遊芸『天経或問』など西洋天文学の幾何学的スキームが流入し、最終的に神道的言語が図像内で再配列されて「天球」から「怪物」へ回帰するのである。ここで言う「怪物」とは、分裂した学知を単一原理で縫合する「真理の一元論」が産む、超越的かつ混淆的な根源像のことといわなければならない。図像的想像力は、この縫合を実行する作動原理とひとまず定義できるだろうか。結局のところ図像は、観測値を把握する〈幾何学的スキーム〉でありながら、神話の再配列装置としての〈図像的想像力〉でもあり、その二重のずれの存在ゆえに、合理と魔術の両極を抱え込む〈怪物的真理〉を可視化してしまう。
この力学は、国学内部の再編においておそらく最も顕著なものであった。宣長は須弥山説を批判しつつ球体地球の観念を摂取したが、包括的宇宙像の案出には慎重であった。これに対し服部中庸『三大考』は、天・地・泉の分離を幾何学的スキームで図示し、『古事記』テクストを天球的空間へ翻訳する図像的想像力を全面に展開したため、本文逸脱と主張する大平の批判を招いた。すなわち、「図像」が神話を世界認識へと昇華するほど、テクストの拘束から離脱し、怪物的真理へ接近していくのである。そして、この緊張をさらに推し進めたのが平田篤胤である。
篤胤は、死後世界の再配置と地動説的宇宙像を、古伝に合致する「事実」として「図像」に刻印した。ここで「幾何学的スキーム」として提示される地・日・月の配置は、舟と岸の比喩のような経験的直観の反転によって「見かけ」を突破し、同時に神学的秩序を保証する装置となる。篤胤の図像は、科学的モデルを媒介にしつつ、その根拠を神話原理へと還流させる、〈怪物的真理〉そのものの思考であるといわなければならないだろう。
総括すれば、近世日本の宇宙論的想像力は、観測─計算の選別枠としての〈幾何学的スキーム〉、神話と科学を媒介する操作としての〈図像的想像力〉、分裂知を単一原理に還元する〈怪物的真理〉という3項の循環によって駆動された。3者は対立せず、「図像」という一枚の場で相互に転換可能な等価物として働き、結果として「天球」と「怪物」の往還を生む知の装置を形成したのである。
こうした〈図像的想像力〉は、おそらく分裂した時代に最も有効に作用するものである。「行われた最も恐ろしい行為に至るまで、すべてはあらかじめ予見され、決定され、計画され、組み立てられていた」(バリュエル)というような〈陰謀論的想像力〉と真に対決されうるものであるともここで付言しておく必要があるだろう。ある事物の背後に一元的な組織の存在を認識してしまう〈陰謀論的想像力〉とは、極めてのっぺりとした二次元的想像力である。そしてその分裂した断片は、その背後にある一元的な何かによって簡単に説明されてしまう。すなわち、「確定的な要素のなかで、最大公約数を幻視してしまう思考」なのである。しかし、国学者たちがもっぱらの武器とした〈図像的想像力〉とは、むしろその断片を取り扱うにあたって、「不確定要素があるが矛盾しない最小公倍数」的な思考であるというようにいうことができるだろう。
世界の分裂した断片はどのようにしても修復されることはない。国学者たちは、その断片を公倍していくことで、ひとつの共通の真理を発見した。それは倍数的であるがために、魔的なものを呼び寄せ〈怪物的真理〉と化してしまう。しかし、最大公約数を存在しない数字において作り上げてしまうよりはるかに芳醇で誠実な態度であると言えるだろう。
図像的想像力は陰謀論的想像力を超えでうる。間違ってもいないが正しくもない、最小公倍数的な〈怪物的真理〉を招来しながら、最大公約数的な真理としての陰謀を、もはや全くつまらないものであると高楼より高らかに見下ろすことができるだろう。倍数的な真理として──国学思想は超克するのである。
★1 渋川春海「天文瓊統巻之一」、『日本思想大系63 近世科学思想 下』、岩波書店、1972年、122-123頁。
★2 林淳『渋川春海──失われた暦を求めて』、山川出版社、2018年。
★3 小川清彦「日本書紀の暦日に就いて」、『日本書紀暦日原典』、雄山閣、1946年。
★4 アビ・ヴァールブルク「ルターの時代の言葉と図像における異教的=古代的予言」、『ヴァールブルク著作集6』、伊藤博明監訳、ありな書房、2006年、11頁。
★5 彌永信美「唯一の神と一つの世界」、中川久定編『「一つの世界」の成立とその条件』、国際高等研究所、2007年、168頁。
★6 ジークムント・フロイト「ある幼児神経症の病歴より」、『フロイト症例論集2』、藤山直樹編・監訳、岩崎学術出版社、2017年。
★7 筆者の言葉で言い換えるならば、むしろその意味のなさにおいて過剰に意味付けされる「あたゐずむ」の作用によるものともいうことができる。筆者は折口信夫の神学では、真理など存在しない空虚な対象において、隔世遺伝的に過去を想起してしまう「あたゐずむ」の作用を述べている。ここに発見される〈怪物的真理〉とは「あたゐずむ」によって復活させられた過剰な過去である。以下を参照。石橋直樹「〈残存〉の彼方へ」(三田文學新人賞受賞作)、『三田文學』153号、2023年。
★8 斎藤英喜『異貌の古事記』、青土社、2014年、山下久夫「本居宣長と平田篤胤は神道をいかに再構築したか」、『現代思想』2017年2月号、青土社、ほか。山下はつぎのようにいう。「「近世神話」を云々するときの「神話」とは[……]各時代時代の要請するアイデンティティ=存在の根拠を発見・創造していく知の運動体と捉える。その場合、自らの存在を根本的に規定する古層を確認するというのではなく、時代状況に対応し新たな地平を切り開くための拠りどころとして見出され、創造されるものと考える。「神話」によって自明だった事物や状況の捉え直し、価値の再発見を行うのである。そのとき「神話」は、新しい事態=そのときの「現在」を意味づけるための知のコードとなる。したがって、古代、中世、近世、近代、現代各々の「神話」が求められる。近世の生きた「神話」は、17世紀の朱子学や18世紀の国学・洋学の学知と結びつきながら新たなアイデンティティを創り出していく。当然、普遍で固定的なものではなく、常に変容していくものだろう」(206頁)。以下、[ ]は引用者。
★9 志筑忠雄「暦象新書」、清水幾太郎ほか編『日本哲学思想全書』第6巻、平凡社、1980年、285頁。
★10 平岡隆二「江戸時代の天文暦学」、日本科学史学会編『科学史事典』、丸善出版、2021年、321頁。
★11 中山茂『近世日本の科学思想』、講談社学術文庫、1993年、46頁。
★12 『淮南子 上』、楠山春樹訳注、明治書院、1979年、131頁。
★13 「晋書天文志」、『世界の名著 続1 中国の科学』、山田慶児ほか訳、中央公論社、232頁。
★14 山田慶児『朱子の自然学』、岩波書店、1978年、194頁。
★15 渡辺浩『近世日本社会と宋学』増補新装版、東京大学出版会、2010年、28-29頁。
★16 渋川春海「天文瓊統巻之一」、『近世科学思想下』、岩波書店、1972年、第63巻、122-123頁。
★17 川村博忠『近世日本の世界像』、ぺりかん社、2003年、163頁。
★18 吉田忠「『天経或問』の受容」、『科学史研究』第24巻第156号、日本科学史学会、1986年、215-224頁参照。
★19 金子信久『司馬江漢と亜欧堂田善』、東京美術、2022年、34頁。
★20 成瀬不二雄『司馬江漢 生涯と画業 本文篇』、八坂書房、1995年、285頁。
★21 T・スクリーチ『大江戸視覚革命』、高山宏ほか訳、作品社、1998年、438頁。
★22 橘南谿「北窓瑣談」、国民図書株式会社編『日本随筆全集』第4巻、1927年、460頁。
★23 本居宣長「沙門文雄が九山八海解嘲論の弁」、大野晋、大久保正編『本居宣長全集』第14巻、筑摩書房、1972年、163頁。
★24 同書、同頁。
★25 増田友哉「本居宣長の天文学知識受容をめぐって」、『日本研究』第68号、国際日本文化研究センター、2024年、7-21頁。
★26 金沢英之『宣長と『三大考』』、笠間書院、2005年、95頁。太平の図像も同書に掲載されている。
★27 平田篤胤「靈能真柱下都巻」、『新修平田篤胤全集』第7巻、名著出版、1977年、169頁。
★28 平田篤胤「霊の眞はしら下」、『新修平田篤胤全集』第13巻、名著出版、2001年、153-154頁。


石橋直樹




